ラインダンス

ラインダンス

茸小説です。縦書きでお読みください。


 この小さな島に来て三ヶ月になる。夜になると氷点下二十度、吹雪くと外に出ることは難しい。何でこんな小さな島を守らなければならないのだ。イワノビッチには、その小さな島の脇の海底に無尽蔵といっていいほどの量のお宝が眠っていることなどは知る由もなかった。国はただ自分の領土だから守れと、数十人の兵士をこの島に派遣している。一年で帰れると皆信じて我慢し、何もないはずの戦闘訓練に明け暮れている。
 その島に住民がいないわけではない。三百人ほどの人々が暮らしている。基本的には蟹や鮭の漁で生計をたてている。物資は乏しく、町には食べ物屋といっても獲れた蟹や魚を料理して食わすだけの店が一軒あるだけである。ただ、ウオッカだけは豊富にある。軍もそれだけは気を使い、この島には安く酒を回している。
 イワノビッチは毎日のように、ウラーという飲み屋に通っている。これがこの島での唯一の飲み屋である。小さな店だが、酒の種類は意外と多かった。ロシアのものだけではなく、ポーランドのズブロッカやオランダからアブサンも入っていた。イワノビッチは牧草の入ったズブロッカが好きであった。
 今日も一人で、ズブロッカを口に運んでいた。その店はポーランド人の頑固な爺さんが一人で切り盛りしていた。味も素っ気もない店であったが、むしろ誰にもかまわれないことが彼の気にいったところであった。
 彼はいつも一時間も飲むと店を出て行った。どこに行くか誰も気にも留めなかった。
 彼は防寒具に身を固め、歩いて二十分ほどの兵舎には戻らず、軍の施設を迂回して、山際の公園の奥に入っていった。春になれば寒い事は寒いが、日差しは冬よりはずいぶん強くなり、公園は子どもたちが走り回る広場となる。何もないが、それでも岩の多いこの島では珍しく綺麗な草地である。夏には茸も生え、茸がりも楽しむことができるが、冬の今は雪が積もり、道さえも見つけることができない。イワノビッチは公園の山際の雪の少ないところを奥へと入っていった。
 公園の突き当りのところから、沢の部分を少し登ると、山の斜面の林の中に入っていった。雪が下草の上を覆っているが、ところどころ、背の高い羊歯などが雪の上に顔を出している。
 イワノビッチはいつも通る、踏み固められている道を林の中へと歩いていくと、小さな池のような泉のほとりに来た。雪が積もっているが、池の上には雪はなく、水面から蒸気が上がっている。この池の水はいくらまわりが寒くても氷点下にはならず、すなわち、氷が張る事はい。絶えず水があふれでて、周りの雪を溶かしている。湧き出る水がお湯ではないが、かなりの温度を保っているようだ。その池の周りには緑の草がちらほらと顔を出している。
 池の脇の斜面に洞穴があった。ここから、ふーっと、湿った暖かな風が吹き出している。イワノビッチは、夏にこの場所を偶然見つけ、中に入って調べてみたのだ。あまり深い穴ではないが、何度か来たことから、夏は涼しく、冬は暖かな風に包まれていることを知った。
 イワノビッチはポケットからペンライトを取り出すと、明かりを上にして胸ポケットに差し込んだ。さして高くはない穴の天井と周りがぼんやりと照らしだされる。
 イワノビッチは中に進んでいくと、いくつかあった脇穴を通り越し、何番目かの横穴に入った、ちょっと奥に行くと、小さな部屋になっている。
 そこには、木製の椅子が一つおいてある。イワノビッチがもちこんだものだ。椅子の前は目の高さのところで、壁が奥に向かって削られて、小さな舞台のようになっている。
 イワノビッチはフラスコをポケットから出すと、ウイスキーを一口飲み、椅子に座った。いつもポケットに入っているフラスコにはスコッチが入れてある。ここでは貴重なものだ。
 イワノビッチが椅子に座ると、ペンライトを土の小さな舞台の脇に置いた。ペンライトの光が舞台の上を照らし出す。
 イワノビッチがふっとため息を漏らしたとき、小さな舞台の上に、ペンライトに照らされて、赤い傘がぽっこりと現れ、ぴょんと飛び出した。黄色と白い傘の茸も脇に土の壁からぽっこり出てきた。三つの茸は、舞台の上にぴょいぴょいと跳ねて集まると、イワノビッチに向かってお辞儀をした。
 イワノビッチはにっこり笑うと、またウイスキーを口に含んだ。
 どこからか軽快なピアノの音が響いてきた。三つの茸は、白い柄をぴょんぴょんと前後に振りながらピアノの曲に合わせて踊りだした。
 イワノビッチの瞳に三つの茸の動きが映っている。イワノビッチの目の前の茸は赤い帽子、黄色い帽子、白い帽子をかぶった踊り子になった。短いスカートを身につけ、白い足を軽快に持ち上げラインダンスをしていた。
 イワノビッチの目の前に、三つの茸の白い足が突き出された。綺麗な腰の曲線が、イワノビッチの心の中を熱くさせていった。
 イワノビッチの目には三人の可愛らしい踊り子が映っていた。一人はオランダのアムステルダムの波止場のバーで、一人はパリの場末のストリップの店で、一人はイワノビッチが生れたウラル地方の小さな町の飲み屋で知り合った女になった。
 女たちは、舞台の上に思い思いにからだをくねらせた。一時踊ると、一つの茸がイワノビッチの目の前で歌い始めた。昔自分の田舎で知り合った女だった。
 ロシア語で懐かしい町の歌を歌った。イワノビッチは高校を出てすぐのころを思い出した。石を切り出す山のふもとの町は、工夫であふれており、活気があった。彼は一時、地元の会社で事務をやっていた。肉体には恵まれていたが、周りの男どものような荒くれたところがなく、そのあたりではめずらしく本を読むことが好きな青年であった。
 イワノビッチは時々顔を出していた飲み屋でその女と出会った。アメリカのジャズを聞かせる店で、工夫たちがあふれていた。何人かの歌い手がいたその中の一人だ。最も目立たない女だったが、彼はそういう女が好みだったのだ。
 しばらく通ううち、休みの日にはドライブに行ったりするようになり、仲良くなった。そんなある日、その店で、トラブルがあった。出稼ぎに来ていた工夫の何人かが、些細なことで乱闘になった。その中の一人が、銃をだし、打った。運悪く、ステージの一番端にいた彼女の胸に当たった。彼は怒り、銃を売った男から銃を取り上げ、一回だけだが殴った。彼の力は他の男どもの比ではなかった、銃を取り上げられた男は頭蓋骨陥没で、死んでしまった。防衛ということで彼が罪を負う事はなかったが、女が死んでしまった。悲観した彼は軍隊に志願し地元を出たのであった。
 赤い帽子をかぶった茸が舞台に上った。綺麗な素足を彼の前に差し出し、優雅に舞った。
 彼の目の前にはアムステルダムのバーで、というより、最初はコーヒーショップで会った女だった。そのコーヒーショップの入り口には、大きな茸が綺麗にかかれていた。彼の乗った船が数日アムステルダムの港に停泊していたから、そういうことになったのだ。寄る予定ではなかった都市ではあるが、彼の乗った船の具合が悪く、やむなく、オランダの港によることになった。乗っていた彼らは思わぬ休暇となった。陸にあがった彼らは、酒を飲み女をあさった。アムステルダムの緑色のきれいなアブサンは彼にとってもすばらしい世界を与えてくれた。最初にコーヒーショップに行った彼は、口にしたケーキとコーヒーだけでも気持が楽になり、おぼつかない会話でコーヒーショップの役割が分かった。幻覚茸である。コーヒーショップは彼にはとてつもなく幸せな数日間をもたらした。コーヒーショップであった女の子が、その間、彼の最高のガールフレンドとして寄り添っていたのである。
 あのマジックマッシュルームははじめての快楽を寄り強いものにしてくれた。
 今、目の前で踊り歌う赤い茸はその女だった。目の前で、あの時の女が自分の目を見つめる。たった三センチほどの茸がイワノビッチの心を離さなかった。
 赤い茸はイワノビッチの目の前の舞台で横様になり、上半身をさらした。しかし、アムステルダムの娼婦は心からイワノビッチに寄り添い、小さな乳房を見ている彼の鼻の頭に押し付けた。イワノビッチは触れたい衝動に駆られ、手を伸ばした。赤い茸はすーっとその手から離れると、また舞台の上で踊りだした。イワノビッチはまた手を伸ばした。赤い茸は彼の指の先から消えていった。
 とそこに、黄色い帽子をかぶった茸が踊り始めた。赤と白の茸とは違って、動きがメラメラとやわらかく腰を振った。茸の白い柄が裂けて二本になり、白い綺麗な足が高く上げられると、黒い影がその股下に見えた。パリのアークエリーセの何番地か忘れたが、小さなストリップ小屋で、まだいたいけな少女が足を上げ、腰を振っているのを、イワノビッチは見ていた。少女は年には似合わない太ももをイワノビッチに見せ付け、ぴょんぴょんと飛び跳ねて、逃げていく。いつの間にか何もつけていない少女は、本当はもう生活に疲れた四十女に変身していた。
 イワノビッチはそのストリッパーに船が停泊している間、安らぎを与えてもらっていた。その当時、おそらく二十も年上の女だったろう。年など関係ない、不思議にも彼にとって最も成熟した一月だったのである。
 黄色い帽子の茸はステージの上で、着ているものをすべて取り去り、コロコロと、ステージを転げ回って、彼の目の前で足を開いた。
 彼は椅子に腰掛けたまま夢の中で精を放った。

 しばらくすると、イワノビッチは穴から出てくると、ふらふらと兵舎に戻っていった。守衛の兵士は、いつも酔って遅く帰ってくるイワノビッチにまたかという表情で、門を開けた。自分の部屋に戻った彼は、長い長い夢の後に夢精をしていた。
 次の日もイワノビッチは規律どおりに朝五時には起き、誰にも文句のいわれのないほどに完璧な半日を過ごした。そして、いつものように飲み屋に行った。
 そこには、いつもと違って、上等兵が二人、酒を呑んでいた。どうしても話をしなければならない羽目になった。
 イワノビッチは上等兵に言った。
 「いつまでもここにいたいのですが、認めてもらえるのでしょうか」
 「実家に帰りたくないというのか」
 上等兵は不思議な顔をした。たいていの兵士は一年いればもうこりごりといった顔をする。
 「帰りたくないわけではありませんが、ここのほうが生活は充実しています」
 「ほー、他の男どもは帰してほしいといってくるが、イワノビッチはここにいたいのか」
 「はい」
 「女ができたか」
 「いや、女などいません」
 「そうだな、ここの親父の娘は、結婚してモスクワにいるし、そこここに、若い女子などいないものな、勤勉なお前のことだから、上層部も喜んでここにいさせてくれるさ、階級も上るかもしれんぞ」
 というような会話があった。
 
 イワノビッチは、この小さな島に兵士として十五年、その後、小さな家を借り、老後を一人で過ごした。よく山際の公園で煙草をふかして物思いにふけっていた。子どもを遊ばせに来る母親たちには、子どもの相手をしてくれるやさしいおじいさんだった。
 そして年月がたちイワノビッチの借りていた家には誰もいなくなった。
 大家さんは毎年きちんと家賃を前払いしてくれる借人がいなくなって残念としか思わなかった。
 山際の公園の拡張と整備が決まったとき、あたりの調査に当たった者が穴をみつけた。奥の一室に、椅子に腰掛けたまま死んでいる男を見つけた。骨と化していた男の眼前の削られた岩肌の上に、三つの可愛い茸がお行儀よく生えていたのである。
 

ラインダンス

ラインダンス

小さな島に配属された軍の男。男はときどき洞窟に入り、そこで何かを見ていた。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-10-11

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