彼女
「あ。」
彼女の声だ。細く透き通った、色は綺麗な南の青い海の色の、穏やかにひらひら舞う波のような、そんな声がした。
「・・・おはよ。」
白い帯が部屋で溶けだすのを疎ましそうに見ながら短くそう言った。のびて、うつむいて、顔を上げて、眉をひそめたあとまた、うつむいた。溶けきった帯が部屋を包んだ頃、彼女はまた顔を上げる。
「ん、おはよ。」
目を開いてこっちを見上げる彼女は短くそう言う。まだ少し眠そうだ。
「おはよう。今日は——」
言いかけたところで申し訳なさそうに眉をよせ、やわらかく笑ういつもの顔を目にした。あれほど、言ったのに。僕はそう言いたかった。でも、言うことが出来ない。僕には、到底。そのまま僕は続ける。いつもを続ける。
「ご飯でいい?」
静かに頷いてまた、まくらを抱いてうつむく彼女を軽く揺すって、歩き出す。いつもの方へ、進む。彼女を、ひとつも忘れないように、すくい上げては、眺めて、思い出していく。遠い未来を見ずに過去を振り返って、淡いセピアに浸る。ゆっくりと、ことこと、くつくつ、作り上げていると、終わりの近いところで彼女が着替えて出てくる。
「お味噌汁は、——がいいな。」
切ない声で話す彼女はきっと、喉に詰まったものがある。やわらかいもので押してみようとか、隙間を通ればどうにかなるとかいう考え方は、安直で、無神経で、目を逸らしているに変わりないけど、僕は好きだ。何も傷つけたくない彼女は、きっといつもそうなのだろうと。僕も傷つけたくはないから、黙って頷く。僕のセピアは少し深まる。
いつしか、そんな彼女を安心させられたらいいなと思う。僕が変わればいい、彼女が変わればいいなんてそんな難しいこと見ないふりして、安心させたい。難しいことなんて、然るべき人に任せてしまえばいい。僕たちは、僕たちを歩む。一生周りの目を気にして、納得の行かない意見に媚びて、自分が見つからなくって泣いて、耐えられなくなって潰れちゃった僕たちを、僕たちは一生好きになれないだろう。でも少なくとも僕は——。ことことと音は戻り、セピアは消え、四足の背中に絵の具を並べる。緑、黄、赤、茶、白。今日は質素だけど、味の濃ゆい和の色だ。
「朝から豪華だね。砂漠の海がきらきらしてる。」
「——そうだね。」
大きなオールで砂漠の海の水面をくるくるとして、楽しそうに笑う。そしてそこから柔らかい角砂糖をとりだし、口に運ぶ。ほろほろとろとろのものだったせいか、オールから雫が落ちていたけど、きっと大丈夫。ほろとろだから今日はオールを渡した。
「ありがとスプーンにしてくれて。美味しいねこのお豆腐。もらいもの?」
「そう。美味しいでしょ? 落ち着く感じ、するね。」
「うん。」
彼女は静かに視線を滑らせると、黄色い建物を見下ろしていた。ふっくらとやわらかい輪郭に、緑の飾り真ん中に飾られている。ゆっくりとスプーンで道を開いていくと、中からとろとろのクリームがほどけてくる。彼女は慌てて救ってスプーンに汲むと、ゆらゆらゆらしながら転がして、笑って、また転がしてを繰り返す。しばらくそうしていると湯気がうすくなっていくので、口元に運んで静かに喉を動かす。
「なんか、暖かいね。・・・こう、この辺り、暖かい気持ちになる。上手く言えない、けどなんか、なんかね。ん、上手く言えないね。」
「いつも、わかんないな。」
「あ、ごめんね、でもわかんないんだよ。ふふ、昨日もこれ話したよ、笑っちゃう。」
楽しそうに「ふふ」と声を立てて笑いながら黄色をひとすくいして口元に運ぶ。その後また目を滑らせ、緑の植物や、赤い惑星、白いごはん、全てに青を混ぜる彼女を横目に、僕はお皿を片付ける。かたかた、しゅわしゅわ、とついた汚れを落としていく。チャコールグレーの汚れを洗い流して、一つ一つ、丁寧に、失くさないように、忘れないように、ずっと、ちゃんとしまえるように。心にしまって離さないでいるために、遠くを見過ぎないようにするために、いつでも思い出しては片付けて優しい気持ちになるために。すると徐々に、歪んだ輪郭は消え、僕の耳に音が戻り、息をつく。セピアもチャコールグレーも、彼女が来てからはじまったものだから、彼女に負担をかけないように、静かに、見えないようにこなす。彼女が口なら、僕は胃にあたる。彼女が辛い時は、僕が代わりに噛んで、砕いて、飲み込んで、磨けばいい。
僕は、僕に僕と言い聞かせて、僕でいる。彼女は彼女に彼女だと、これが自分だと、人間誰しも持つ汚い部分を自分に見せて、自分は汚いと勝手に答えを出して、彼女は彼女の首に重石をまきつける。僕は、僕はそれを外してあげられない。僕はただ、僕でいる。彼女を嫌いになれずに、ずっとあのころの僕でいる。きっと彼女がまた僕に恋しても、僕は間違えるし、外せない。きっと彼女が記憶喪失になっても、僕がいなくても平気になっても、僕は僕のために彼女の、都合のいい空間になる。彼女が僕の一コマで、僕は枠になる、そう、きっとそんな感じで・・・
「ふは、なんか気持ち悪いな。」
「え、」
「んーん、なんでもないよ。ご飯終わった?そろそろ準備しなきゃでしょ。」
「あ、ほんとだ。やば、ゆっくりしてた。」
彼女は寝癖を弾ませながらリビングを出ていき、うつむきながらねこに挨拶をする。
「あーそんなことにいたの!も〜可愛いなーおはよ〜。」
くしゃくしゃと転がすように撫でて、嫌がるねこをはなそうとしない彼女の腕を引っ張って、用意に戻させる。楽しそうに猫と話しながらたんたんと準備を進めていく。また、行ってしまう実感がひとつ、ふたつ、とやわらかい泡のように増える。帰ってきてくれ、どうか、と思いながら彼女に全て委ねて止めることができない僕は弱い。彼女がどうして欲しいかわからないけど、僕は彼女に、気に入られるために自分を殺して、それを良しとして、正しいと踏んでいる。傍から見れば本当に訳が分からないと思う、彼女が好きなのに止められないなんて。でもだれにもわかられなくていい。僕は、僕は——。
「ね、鍵閉めてて。」
いつの間にか彼女は準備を終わらせ、涙を流し動かない僕の膝でねこが寝ていた。玄関の声に向かって歩いていくと、彼女は座って靴を履いていた。
「忘れ物、ない?・・・ない。よし、じゃあね。」
「うん。」
彼女は僕に手を振る。今日も、今日も彼女はまた試すんだ。いついなくなっても、いいような挨拶。僕はちゃんと笑顔で見送れただろうか?僕は彼女に罪悪感を感じない空間を作れたのか?彼女は、止めて欲しかった?彼女は————彼女は、本当にそうだったのか?ぼやけた青に一面が包まれる。抜け出せない。ここにいてはダメなんだ。僕が後悔して悲しんで苦しんで、お門違いで図々しい、勝手な感情になんか、身を任せるわけにはいかない。抗わないと、逃げないと、息を止めて、潜って、青の中を抜けて、濁りを両手で優しくすくって、ちょっと、ちょっとずつでいいから取り除いていこう。そうすれば、微かに変わるかもしれない。気づくかは別として、そう、分からない変化も僕の一部になるはずだから。
僕は、彼女を追い抜くことを決めた。彼女に怒られても、嫌われても、今何も意味の無い悲しみを握りしめてるよりもましだ。苦しくて、このまま彼女を待つ日々が本当に辛かった。相談すらもままならず、作り笑顔でやんわりと語るようなお話じゃ、どんな子供もつまらなくて寝てしまうだろうし。実のところ僕は、何度も試したことがあった。青にまじわろうと飛び込んだり、ブランコになって空に手を伸ばしたり、体の赤を抜いて青に染まろうとしたり、空の雲と似た者を吸い込んだり、ほとんどの人が成功すると聞いたことも上手くできなかった。死ぬ事までも満足に出来なかった。
「・・・何、試してないっけ。」
答えがわからなかった。 僕に見あったものがなんなのか、僕が一体何をして、どれだけの迷惑をかけたのかも、もう何もかもわからなかった。涙が止まらない。止め方もわからなかった。僕は、知らなすぎた。僕は、僕でしか無かった。僕は、僕を捨てたかった。僕は一心不乱に僕に向かった。首に手をかけ、はいるだけ、力を入れた。色が濁り、ふやけた世界にぷかぷかと浮かぶ僕は、彼女を追い抜いた。彼女は、きっともう僕を思い出せやしない。彼女の記憶の欠片すらも取り除いていたら、いつのまにかオレンジのやわらかい光できらきらと波打つ時間になっていた。はやく、立ち去らないと。
「——」
微かに見えた海の彼女が、僕を見た。切なく、もう二度と見られない彼女は、泣きそうな笑顔をこちらに向けた。
僕は無責任だけど、彼女には生きて欲しい。
「おやすみ。ちゃんと寝なよ。」
無理に笑う君をわたしは、笑顔で見送れたのかな。
彼女