幸福な話

千(アンデル)

  1. 眠る街
  2. 風になる
  3. いつか来た道、帰り道
  4. 挿入された『まだみんな一緒だった頃の楽しかったいつか来た道、帰り道への追憶』
  5. いつか来た道、帰り道 (リプライズ)
  6. 風になる/ならない
  7. 大山鳴動して、ねずみ一匹でてきやしない
  8. センスのない私たち
  9. ロボット
  10. マンモスが食べたい
  11. 幸福な質問
  12. 悪因縁
  13. 青色の夏休み

眠る街


ある女の子が目を覚ます。その子はたぶん十歳くらいで、すごいめんどくさがり屋。どのくらいめんどくさがりかっていうと……、まあとにかくほんとうにめんどくさいことが大嫌い。生真面目で働き者の家族たちに世話を焼いてもらいながら、彼女はいつもだらだらと暮らしてきた。

その日は日曜日なんだけど、彼女が起きたのはもうお昼が近いくらい。普段ならば家族のみんなは日が昇る頃には寝床から起き出してきている。でも彼女が居間に移動してみても、いつもと違ってお母さんが朝食とも昼食とも判断の付かないその子だけのための食事を用意してくれているっていうわけでもないし、庭でお父さんが植物を手入れしているわけでもない。お兄ちゃんもいない。誰もいない。

彼女はちょっとおかしいな、とか思いながら、もちろんめんどうだなとも思いながら、家族の部屋を見に行く。するとみんなはまだ眠ったままでいて、起こそうとしても、ちっとも起きない。女の子はすぐにめんどうになって起こすのを諦める。しばらくしておなかが空いてきたけど、彼女は自分で何か簡単なものでも作ろうみたいなことは考えない。とりあえず誰か起きてくるまで我慢するつもりだ。

でも何時間経っても誰一人起きてくる感じはしないし、もう夕方っていう頃になったので、彼女は近くのコンビニかなんかで食べるものを買ってこようって決意して家を出る。いつまでも眠ったままでいる家族のことが少し心配になる。

歩いている間、彼女は誰ともすれ違わない。公園の辺りで、背中にタイヤの跡がついたもう動かないヘビを見かけ、こういうのって誰が片付けるんだろう、ってほんのちょっとの間だけ考える。

お店に着いたけど、店員さんはいない。よくよく探してみると、レジの後ろに倒れて眠っている。この人も疲れてるのかなぁ、でももしかすると病気か何かなのかも、って思いながら、彼女は誰か人を呼ぼうと外に出て辺りを見渡す。歩いている人は見当たらない。遠く地面に横たわった人影を見つけて、女の子はとことこ近づいていく。どうやらその人も眠ってるみたいだってことがわかる。ぐるぐるそこらを歩いてみると同じようにして眠っている人を何人も見つける。

ようやく彼女は少しだけ怖くなって、家に帰ることにする。お父さんとお母さんを起こしてみるけど、やっぱり起きてくれない。思いついてテレビのスイッチを押す。でも意味のある映像なんかは流れてこない。

きっと嫌な夢なんだと思って、彼女はもう一度眠ることにする。
案外、すぐに眠れる。

ここで場面が転換する。
こっちも日曜日の夕刻で、女の子は眠っている。ずっと目を覚まさない彼女を心配する家族達がベッドを囲んでいる。どちらが夢を見ているのかということをはっきり決めることはできないけれど、こちら側の人たちは、たましいのようなものを半分以上、眠りの側の世界に持って行かれてしまっている。彼らの雰囲気や影の濃さなどからそれがうかがい知れる。何年も眠らずに過ごしているような、空虚な気持ちでいることがわかる。

眠る街で、女の子が目を覚ます。
その日も、昨日とおんなじで、誰も目覚めない。彼女はお店にお金だけ置いて、食べ物を手に入れる。家族の部屋を何度か覗いているうちに、お兄ちゃんが何も掛けずに眠っていることに気づいて、ふとんを掛けなおしてあげる。それで彼女は、ほんとうに面倒な仕事になるだろうけれど、道で眠っている人たちをみんな、屋内のベッドや何か、快適に眠っていられそうな場所までつれてってあげようかって気になる。あの公園の辺りにいた、ヘビのこともちゃんと忘れずに。

風になる


「風になるというのはそこらの凡俗なともがらどもがいうような難しいことでは決してないのだいつもこころかどこだか知らないが自分の中のドーナッツの穴のような空洞の部分を切るようにして吹き抜けている風を感じてそれに同化しようとするだけでよいのだそうなのだ風になるということは決して難しいことではないのだ見よ、ほら、こんなふうに!」


 そんな言葉を残して、先生は風になった。ちょうど15年前の事で、僕は以降独りで練習を続けている。まだまだ風にはなれそうにないし、たまに心がくじけそうにもなるけれど、風になりたい、という気持ちだけは変わらずにある。それが救いだ。

 いつか風になった暁には、世界のどこかを吹き渡っているはずの先生に追いついて、同じ景色を眺めたい。もしかすると僕が気づいていないだけで先生は(もしくは拡散した先生の欠片は)、どこにも行かず僕の周りに留まって、待ってくれているのかも知れないのだが、それはどちらにしろ、僕が風になりさえすればはっきりとわかることなのだ。

いつか来た道、帰り道

この道は、いつか来た道なんかじゃない。
はじめての道で夜で、暗くて、寒くて、誰もいない。
さっきまで一緒だった人たちも、それぞれ、道を折れていった。
なのでもう、ひとりっきりで誰もいない。

行き先は滲んだインクの点の向こう。

『この道は、ほら。いつだったか。あの時に歩いてきた道だよ』

そう、現在まだよそよそしい他人じみたこの道も、いつかまた通ることになる大切な帰り道で、
その時はできることなら朗らかに、いまこんな気持ちでいることさえ含めて、全部を懐かしく感じながら歩きたい。
別れ別れになった人たちとも、またみんな一緒になって。

挿入された『まだみんな一緒だった頃の楽しかったいつか来た道、帰り道への追憶』


考えてみれば有頂天な時代だった。たくさんの人たちに優しくされて嬉しくて、自分も世界も素晴らしく思えて、生きることも、全ての人も、人間を投影することができる全ての物事も、確実に愛している、と信じることができていた。未来は滲んだインクの点の向こうなんかでなく、立体メガネの緑と赤の向こうだと思えていた。

いつか来た道、帰り道 (リプライズ)

そして今、歩いているこの道は、やはり、いつか来た道なんかじゃない。
はじめての道で夜で、暗くて、寒くて、誰もいない。
さっきまで一緒だった人たちは、それぞれ、道を折れていった。
なのでもう、ひとりっきりで誰もいない。

行き先は滲んだインクの点の向こうだけども、
それはただ、自分の目が湿気かなんかで曇っていてそう見えるだけなので、
未来は普通に透き通って明るいのだ、ということにする。

『この道は、ほら。いつだったか。あの時に歩いてきた道だよ』
という、懐かしい声の幻聴も聞こえてきた。
ほんとうに、いつか誰かにそう言ってほしい。

そう、現在まだよそよそしい他人じみたこの道も、いつかまた通ることになる大切な帰り道で、
(心底自分勝手で楽観的で、子供っぽい願いだとは思うが)
その時はできることなら朗らかに、いまこんな気持ちでいることさえ含めて、全部を懐かしく感じながら歩きたい。
別れ別れになった人たちとも、またみんな一緒になって。

風になる/ならない


 何もかもは風化する。

 人も、物も、歴史も、概念も、気持ちも記憶も、過去も未来も、いつか、粉々の、これ以下はもう、っていうくらいの小さな粒子に分解されてしまって、空気の流れに乗って、どこか連れ去られて、バラバラになって、元通りになる希望なんてまるで持てずに、最初から何もなかったかのように、誰にも見えない、気付いてもらえない、動く音も幽かで、聞こえない、さわり心地なんてものもない、そういう寂しい、頼りないものになって、どこか、世界の全体の表面に薄く散り積もるか何かして、それが長い年月掛けて、どんどん重なっていって、土壌になって、基盤になって、根になって、滋養になって、それからまた、人や、物や、歴史、概念、気持ち記憶、過去未来が、以前のものとはまったく連続していないような顔をして、それでいて、その面影は以前のものとなにやらそっくりで。


 みんな風になった。

 身近な人々がみんな、風になって消えてしまった時には流石に泣いた。置いていかれた、という気がした。「風になるというのはなかなか結構なことだ」という人もいるけど、ぼくはみんなに幸せが訪れたというふうには考えられずに、自分のことがとても可哀想だという気がした。もっと一緒にいてほしかった。

 世界は古くなって、今ではものすごく劣化してしまっているのだっていう。誰かの話す声は、ザッ、ザッ、とノイズでかすれるし、目に見える風景なんかも、時々は、暗転したり、溶けるように流れたり、黒い班がいくつも浮かんだりする。風になるようにしてかき消えてしまう人も、段々と数を増していった。

 終末思想によれば、もうすぐ新しい世界が生まれるのだという。風になった人たちは、一足先に、その楽園のような場所へ招待されたのだとか何とか。それをみんな信じた。というよりもその考えを信じて縋りつくくらいしか選択がなかった。新しくって素晴らしい文化やシステムや考え方なんかは、もう全く創り出されることがなくなっていた。

 いつしか、世界中のほとんどの人たちが、ほんとうに、みんな風になった。

 ぼくは、未だに風になることを拒み続けている、数人のうちのひとりになった。残った人たちは、ぼくを含め一様に、「こんなふうにして世界が終わっていくなんてまっぴらだ」と考えていた。世界は徐々に全体が風化していって、真っ白になった。地面も空もなくなって、距離や時間も機能せずにいた。

 それでも、「ある時」、目の前に歪んだ窓が開いて、そこに、


 > 風になる  

   風にならない

   後でまた通知する


 と選択画面が表示された。

 ぼくは迷わず、「風にならない」を選んだ。


 何もかもはすべて、風化していくんだろうと思う。人も、物も、歴史も、概念も、気持ちも記憶も、過去も未来も、いつか、粉々の、これ以下はもう、っていうくらいの小さな粒子に分解されてしまって、空気の流れに乗って、どこか連れ去られて、バラバラになって、元通りになる希望なんてまるで持てずに、最初から何もなかったかのように、誰にも見えない、気付いてもらえない、動く音も幽かで、聞こえない、さわり心地なんてものもない、そういう寂しい、頼りないものになって、どこか、世界の全体の表面に薄く散り積もるか何かして、それが長い年月掛けて、どんどん重なっていって、土壌になって、基盤になって、根になって、滋養になって、それからまた、人や、物や、歴史、概念、気持ち記憶、過去未来が、以前のものとはまったく連続していないような顔をして、それでいて、その面影は以前のものとなにやらそっくりで。それが何度も何度も何度も何度も何度も繰り返されて。

 それがあるべき正しいかたちなのだとは思う。でも嫌だ。

 そんなのは何だか寂しい、切ない。自分達という確かな存在が生きてきたってことがほとんどないがしろにされているような気がする。ぼくは、誰かにしっかりと憶えていてほしい。この世界をずっと見ている誰かが存在するとして、その誰かに、何か書き付けるものと筆記具と、快適に使える机や何か、それから少しの感傷的なこころとを持ってもらって、しっかりと記録していてもらいたい。

 世界にとって重要な出来事なんてものばかりじゃなく、何でもない人たちの些細な、どうでもいいような、小さな嬉しさや悲しさや何もかもを、漏らさずに全部。

大山鳴動して、ねずみ一匹でてきやしない


「あなたが生まれた時にはね」と母は、私を居間のテーブルを挟んだ、自分とは対面の位置に座らせて、これまでにも私が、人生における何らかの失策みたいなものを演じるたびに、母から話し聞かされてきた、いつものお小言の、その枕の部分を切り出した。
「また、その話」
「黙って……。あなたが生まれた時には……、そう、お母さんはね、この子は大きくなったらきっと、世界をいっぺんに変えてしまうような立派な人になる、って、ほんとうにそういう風な直感を得たもんなのよ」
「出産直後の軽いヒステリーみたいな状態だったんじゃない? それに私、女だし、そんな大きなことができるわけ……」
「男だとか女だとかは関係ないの。実際のとこ、あなたが生まれた直後には、夜空に赤々と光る大きな大きな星が、どこかから出てきて輝いたし、一見みすぼらしい感じだけど、見る人が見れば、っていうような、徳の高そうな東方の三博士とか名乗るおじいさんたちもやってきて、お祝いしてくれたのよ」

 この話を聞いていると、私はいつも『なんだかな……』というような気持ちになる。博士たちは『この子は世界を救済する王になる宿命』みたいなことを言っていたそうで、私もまだ幼かった頃はそのことに自覚を持って、色々とがんばってみようとしたことはあったけど、だんだんと様々なギャップや自分の無力さに気付いて、ある時期からは完全にその宿命というのを放り出してしまった。

「お父さんはそんな博士たちのことなんか知らないって言ってたけど」と、私は新機軸の抵抗を試みる。
「あなた、あの人に会ったの?」
「うん。この間一緒にご飯食べた」

 母はあからさまに嫌そうな顔を見せたが、気を取り直したようで、すぐに話の軌道を修正する。「まあいいわ。あの人はあなたにあまり大きな責任を感じてほしくないみたいなことをむかしから言ってたから、あなたのことが可愛くて、そんな嘘を言ったんでしょう、きっと」

 しばし、双方沈黙して、遠くで鳴っている、豆腐屋さんの録音ラッパの音が、聞こえてきたりする。

「お仕事、また辞めちゃったそうね」と母が話を接ぐ。
「うん」非道く極まりが悪いけど、隠すわけにもいかない。
「どうするつもりなの?」
「さあ、どうするんでしょう」と投げやりに言ってみる。
「何かの仕事を一生懸命にやる、っていうのもいいけどね」と母は平坦に言う。「あなたはやっぱりあなた自身のことをやりなさいよ」

「まぁた私にせかいをすくえだとかなんとかいうのそれのせいで私いまこんなみじめなめにあっちゃったりしてるんじゃないのそういうかのうせいっておかあさんはまったくかんがえたりとかしないのそれはちがうの?」と私は少し苛々して、感情的に言ってしまった。母はちょっとだけ、驚いたような顔をして私を見返していた。

 目が慣れてしまっていたのか、部屋はいつのまにかかなり薄暗くなっていて、母が立ち上がったのは照明を点けるためだろうと私は想像したのだけどそれは違い、母は次に述べる比較的長い言葉を私に告げた後、私を暗い部屋に残したままキッチンへと姿を消したので、そろそろお説教を切り上げて、夕食の用意を始めるべきだという、冷静な判断を下しただけなのだろうと思われる。

「じゃあさ、あなた、とりあえずこう考えなさいよ」と母は言った。「世界っていうのはね、結局あなただけのもので、あなたの中だけにしかないの。あなたが自分の全部の感覚で拾ったものを、自分の中で再構成して、それで始めてちゃんとしたひとつの世界として成り立つの。だからあなたが生まれてきたっていうのは、ひとつのもともとある世界の中にあなたが生まれてきたってことじゃなくて、ひとつの、まっさらの、瑕なんてまだ全くない新しい世界であるあなた自身が、生まれてきたってことなのよ。だから、あなたはまずあなたを助けてあげなさい。それが、とりあえずは世界を救うってことになるはずだから。ほんとうの救世はまた、それからよ」

 ある日、ある時、誰かが生まれてきて、自分という世界を獲得する。それはもう、ただそれだけで、素晴らしく意味のある、歴史に刻んでもいいような、諸々の人たちがこぞって祝福すべき出来事だとは思う。でも結局それだけでお終いっていう風にはしたくない。世界を救ったりなんかできる気はまったくしないけれど、自分ひとりくらいはどうにかしたい。母の思惑通り、だからまた、何か考えてみようかな、というような気分にさせられた。

センスのない私たち


「だめだめ! ああもう、君はほんとうにセンスがないなぁ!」

 墨をこぼしたみたいな真っ暗闇の神社の境内に、先生の叱咤の声が響き渡る。

「すみません……」

 私はしばし萎縮して目を伏せ、そして気持ちが落ち着いてくるのを待ってから、恐る恐る声が飛んできた方を盗むように見やる。鉢巻に挿した二本の蝋燭の光に、ぼんやり照らし出された先生の表情は、般若か蛇か、といったような、それはそれは凄絶な代物で、心構えはしていたものの、私は思わず、手にしていた釘を取り落としてしまった。

「きらめきがまったく感じられないよ! やる気はあるの!」と先生は畳みかけてくる。

「やる気はあります!」私はすばやく屈んで、釘を拾い上げる。「よろしければ、どこが拙いのかご教授下さい!」

「まずは手首のスナップ! まるでできてないよ! 何度も教えたはずなんだけどね! それからまた君の悪い癖が出てきているよ! 人形に突っ込み過ぎてる! 憎いのはわかるし、それはほんといいことなんだけどね! でも適切な距離ってものがあるよ! 何事にもね! そしていちばん大事なのはね! やっぱり気持ち、気迫、気組みってやつ! それが君! まったく感じられないよ! ほんとうに君! モチベーション下がってるんじゃないの!」

「すみません! やる気はあるんです!」

「やる気はある、ある、って君はいつも言うけどね! ほんと最近の君は身が入ってないよ。心ここにあらず! って状態だよ! 人を呪わば穴二つ、ってわけでね! 僕もけっこうな危ない橋を渡るつもりで君を教えてるんだよね!」

「ありがとうございます!」

「はじめてここにやってきた君が、なんだかおっかなびっくりで、着の身着のままで、まるでごっこ遊びじみたような素人まるわかりの装備でさ! ほんとうに小さな、産まれたばかしのまっ黄色なひよこか何かみたいに見えて、それでも瞳だけは爛々と、とろけてしまうんじゃないかってくらいに光らせていたからさ! 僕は君を導いて、一人前に人を呪えるように育ててあげようって気持ちになったんだよ! それが何! あの頃の、悔しい、呪わしい、忌々しい、嘆かわしい、いっそ痛ましい、って気持ちはどうしたの! もうどうでもよくなっちゃったわけなの!」

「そんなわけではないです! ただ……」

「ただ、何?」

「先生に教えて頂くようになって、今夜でちょうど一年になりますね。でも、こうして毎晩精一杯呪いをかけて、翌朝会社に出てみると、呪う相手はやっぱり健やかに出勤してくるし、その相手の体調や気持ちにも少しも翳りみたいなものがある様子は見えないし、部署はいつからか離れてしまって、それはまあ嬉しくもあるんですが、私自身の悔しい気持ちも、だんだん続かないような、もうほんと、いっそどうでもいいような風にも感じられてくるし」

 先生は左を上にして腕を組み、黙って聞いている。

「私のこの行為に意味があるのかな、って疑う気持ちが正直抑えられません」言ってしまった。

 境内の一隅にある水道まで先生は黙然として歩を進め、ゆっくりと喉を湿らせた。口をぬぐって、袂から煙草を取り出して、火を点けて、一吸い、二吸いしてから、こちらをやや遠く眺めるように透かし見て。

「じゃあもうやめにする?」と、私に決断をせまるような言葉を投げた。

「どうしたらいいのかわかりません」と私は濁す。「わからないので、先生、教えてください」

 先生は水場の近くにあるベンチを手で示して、私にそこに座るよう促した。その通りにする。煙が流れてくるので、あまり快適な場所というわけではなかった。

「君がもし、この丑の刻参りをやめちゃって、普通の生活に戻るとするよね」と先生は珍しく穏やかな感じに、ゆっくりと話し始めた。

「はい」

「それで当然のように、その普通の生活の中で色々なことがあったりして、ちょっと落ち着かない気持ちを持ったまま家に帰り、それでもぐっすりと眠りたいと考えて、ベッドに入ったりするようなこともあったりするわけだ」

「はい」

「そういう時、君うまく眠れるかな?」

 私は少し考えて、それは無理だと結論する。

「何かの対象に釈然としない気持ちをぶつけることもせず、様々な感情に、洗濯機の中身みたいに掻き混ぜられながらさ、それでも安らかに眠ろうなんて、そんなのはたぶん人間にはできないよ君!」

「はい、きっと……」

「それに君、厳しいようだけど、まだ一年かそこらでそんなこと言ってちゃ駄目だよ。僕なんか、まったく自慢にはならないんだけど、もう十五年も一途に、おんなじ相手をずっと呪い続けているんだよ! 呪いの験はまだまだ全然現れもしないけどね! 僕はやめるつもりはないよ! あの時の僕が感じた、悔しい、呪わしい、忌々しい、嘆かわしい、いっそもう、痛々しくて美しい! って気持ちのために、何かをしてあげようなんて考えるのは、結局のところ、やっぱり僕自身しかいないわけなんだからね! 僕はぜったいに僕を見捨てることなんてしないよ!」

「君はどうなの!」とは先生は言わなかったけれど、その目もやはり私ではなく、狛犬の瞳に向けられていたのだけれど。

「僕はね、こう考えてる」先生は言う。「信じれば、いつかきっと呪いは届く! って」

 月はとうにその姿を地平に隠し、星も、春夏秋冬のうちのほとんどのものが、すでに天椀を巡り終えていた。落ちた枝を踏み折る乾いた音すらもこちらに捉えさせずに、神主さんがベンチの後ろまでやってきていた。

「今朝はまた、ずいぶん遅くまでがんばりましたな。いや感心感心。私も見習わなくては」穏やかに笑うその人の手には、差し入れのペットボトルが2本。

「あ、おはようございます」

 先生は神主さんに、境内の使用を快く許してくれていることに対する、いつものお礼の言葉を言った。そしてそのまま二人の話は、現代の信仰のかたちというようなものに関する意見交換めいたものに移っていく。

 私は座りなおし、お茶を飲みながら、二人の会話を聞くともなしに聞いている。

 そして、未だ昂揚してぼやけているような状態の頭で考える。

 まだ太陽は顔を出してはいないけれど、昇ってきたら誓おう。

 この道をどこまでも真っ直ぐに、ただ前だけを、遠くに見える先生の背中だけを見つめて当てにして、ずっとずっとひたむきに歩いていきます、って。いつか、呪いが相手に届く日がやってくることを信じて。

ロボット


 四年生の始めの日だった。三年生からクラス替えもしなくてみんなそのままのぼくたちに先生が転入生が来たと言った。

「こんにちは。ぼくはハカセです」転入生が名前を言った。

 ハカセくんは整列の時に一番前の長谷川くんよりも小さかった。顔色もあまりよくなくてぼくのお母さんに見せたらろくなもの食べさせてもらってないわね、とか言われそうな感じだった。

 目はずっと自分のつまさきの何センチかさきの、細長い小さな木の板をくっつけて四角にしたのを教室いっぱいにしきつめてあるそれのもようかなんかを見ているみたいだった。

 後をひきとって、先生がしゃべりだした。

「皆さん、ハカセくんは実は人間ではありません。先生もあんまり詳しいことは理解できていないし、皆さんにもまだよくわからないかも知れませんが、ハカセくんは人工的に造られたというか、いわばにせものの人体のパーツを組み合わせてできた、新しいかたちのロボットとか人造人間とかいうものなんだそうです。人間ではないですが、現代における最高水準の人工集積回路や大容量のメモリーデバイスなどなどの搭載により皆さんが持っている『心』と同じようなものをハカセくんも持つことができていて、皆さんと同じように喜んだり悲しんだり笑ったり泣いたりもできるそうです。ですから皆さんやさしく、自分がしてもらうとうれしいようなことをハカセくんにもしてあげてくださいね。ハカセくんが人間ではないからといって嫌なことはしないように。では皆さん、今年も一年仲良く過ごしましょうね」

 みんなの返事のうるさい中で、「ふつうがいいです」とハカセくんは耳にきこえないような小さい声で言っていた。

 お父さんがいうにはぼくたちの町はパイロットエリアというのに選ばれて、近くの他の学校のクラスにもハカセくんと同じロボットの子が入学しているそうだった。にんげんとじんこうぎじせいめいとのきょうせいせいかつにおけるりてんやもんだいてんしゅうだんやこじんのせいしんせいかつにあたえるえいきょうそのたもろもろをあらいだすためのしゃかいじっけんが、とかいうことを言っていた。お母さんは「危なくないのそれ?」とお父さんに聞いていた。


 ハカセくんはあまりぼくたちと変わっているようには見えなかった。特別頭がいいとか運動ができるというわけでもない。どちらかというと体が弱かった。一週間に一度くらいは「おなかがいたい……」といって早引けすることもあった。そんな時はもじゃもじゃの白髪と白ひげをはやして白衣を着た体の大きなおじいさんがハカセくんを迎えに学校まで来た。

 元気な日は近所のぼくらと一緒に帰った。最初はハカセくんの誕生日がまだ去年なことや、お母さんもお父さんもお兄ちゃんも妹もいないことや、ふだん家で食べてるものやなんか、そういうめずらしそうなことを色々話した。食べてるものはぼくらと同じだった(魚介類を残しがちなのを給食の時間に見た)。「お父さんはいないけど、博士がいる」とハカセくんは言った。「あたらしいことを聞くのがおもしろい」とも言った。それはぼくらと同じだった。

 ハカセくんがぼくらとあまり変わらないのでだんだんふつうの話をするようになった。マンガとかゲームとかや、ほかのおもしろい遊びなんかのことをぼくらは話した。ハカセくんは学校に来るようになる前、勉強のためにマンガや本をたくさん読んだと言った。ぼくらが知らない話もいろいろ読んでいてそのお話をしてくれてそれがとてもおもしろかった。

 そのうちぼくらは同じひとりの子供が何人かに分かれているみたいになった。ぼくらはみんな似たようなものを欲しがったり好きになったりした。クラスの誰も知らないような本やゲームを僕たちは貸し借りしたり、新しい遊びを考えて、それを暗くなるまでやったりして家でおこられたりした。誰かの家で遊んだりするとそこのお母さんなんかがちょっと残念そうな顔で「あの子、ケーキとかジュースとかでだいじょうぶ?」みたいなことをぜったい聞いてくるのでぼくたちは外かハカセくんの家で遊ぶようにした。

 ハカセくんの家は木造の古いアパートだった。いつも迎えにくる大きなおじいさんと二人で、ハカセくんはそこに住んでいた。ハカセくんがおじいさんのことを「博士」とよぶのがぼくらにはおもしろかった。おじいさんもハカセくんを「ハカセ」とよんだ。博士はぼくらがうるさくしても嫌そうな顔はしてなかった。

 ぼくらは一年間ずっと一緒にいた。それがふつうだった。遠足も運動会も水泳も長休みもぼくらはみんな一緒で過ごした。ハカセくんはその一年で背が20センチも伸びて、クラスの誰よりも大きくなった。

 五年生になってクラス替えがあって、ぼくらはみんなじゃないけどばらばらになった。それぞれに新しい友達がだんだんできて、ぼくらはぜんいんそろって遊ぶことが少なくなっていった。それでもたまにハカセくんやほかの誰かとすれ違って話したり、一緒に遊んだりするとやっぱり楽しかった。遊ばない間にぼくや相手に新しいことがいろいろあったりしていて、それを話したり聞いたりするのはおもしろかった。


 お父さんが言うには、けいどのしょうがいじけんやゆうかいでまごぎーかひがいとわずいじめへのかんよなどのげんいんによりしっぱいしたけーすがおおくまだじきしょうそうとはんだんされたためじっけんはむきげんにとうけつろぼっとはすべてかいしゅうしょきかもしくははいきとされることがけってい、されたそうだった。お母さんは「まあ、それじゃなんにもならなかったってことじゃない」と言っていた。


 六年生になる少し前にはハカセくんは学校に来なくなっていた。ぼくらはひさしぶりでみんなで集まってそのことを話し合った。ハカセくんの家にも行ってみたけど、もう引っ越した後だった。先生はよく、相手の立場になって考えなさい、ということを言うけど、たぶんぼくらがひとりで、ハカセくんと同じようなロボットの人たちばかりのいる中に急に入れられたとしても、完全にうまくなんてぜったいにできるはずがないじゃないか。ぼくらは誰かにそのことを考えてほしかった。ハカセくんはけっこううまくやってたし、ほかのロボットたちのことだってもう少しおおめに見てあげててもよかったんだ。いろんな人に話したり聞いてみたりしたけど、ぼくらの廻りにはそんな風に考えてくれる人はひとりもいなかった。

 ぼくらは六年生になったけど、あんまり学校には行きたくなかった。みんなもそうだと言った。でもお父さんやお母さんがうるさいので学校には行った。バカみたいだった。自分もそのうちハカセくんみたいに誰かにどこかへ連れて行かれていなくなるんじゃないかって考えるようになった。それをずっと考えていると朝になっても太陽が上ってこなくて、昼間もまっくらなままの日が何日も続いたりした。


 雨が毎日ふるようになったころ、ぎじじんかくせいぎょぷろぐらむにじゅうだいなふぐあいがはっけんされたというりゆうによってじっけんのちゅうしがせいしきにけっていされた、というのを新聞の最後のほうのページで見た。「すべてのロボットはこわされました」という何とかいう博士の言葉と、その博士が行方知れずになったということも書かれていた。たぶんそれはあの、ハカセくんの博士のことだろうとぼくらは考えた。


 夏休みが始まる前の日、博士からぼく宛に、ハカセくんに貸しっぱなしにしていた色々なものと一緒に、ハカセくんのメモリーユニットの内容の一部をコピーしたというビデオテープが郵送されてきた。誰かがそう言って、ぼくらはそれを再生しながらハカセくんのお葬式をしてあげることにした。「ちょっとあんたたち何するつもりなの?」と言うお母さんに、お菓子や飲み物なんかを無理にたくさん用意してもらった。ほかにもいろいろじゅんびをしながら、ぼくらはみんなでハカセくんの死んだ後の漢字の名前やお墓のことなんかを話し合ったりした。

 テープには、むかしのぼくらが映っていた。ハカセくんも、鏡ごしなんかでたまに顔をだした。見ているあいだ、暗い部屋で、誰もしゃべらなかったし、じっとしていた。

 まえはたしかに学校にきたりぼくらとはなしたりあそんだりわらったりしていたハカセくんはいまはもういないけど、ぼくらと博士やほかの人たちを合わせた何人かはそのことをちゃんといつまでも覚えていて、いまはもうなくなったものごとを誰かがずっと忘れないで知っているってことは、意味があることなのかとかどうかわからないしかんがえると不思議な気持ちがしてきたりするけど、なんだってそうだ。それがふつうなんだ。そういう風にぼくらは感じた。

 ほんとうに何にもならなかったことなんていうのはひとつもない。博士は、ぼくらにいつまでもハカセくんのことを忘れないで憶えていてもらいたいってかんがえて、このテープを送ってきたんだろうって思うけど、それは心配いらないよ。ぼくらはみんな、最初からできるだけそうするつもりだったんだから。

 郵便の包みに一緒に入っていた博士からのメモには「ありがとう」ってだけ書かれていた。

マンモスが食べたい


 もうすぐ五歳の誕生日を迎える千尋は、母であるわたしのことが好きで好きでしかたがないという奇特な男の子です。

 千尋は、わたしが間もなく、どうにもならない不治の病とやらのせいで寿命を迎えてしまう、という衝撃的事実を正しく知ってしまった当初、「例えば魔王か何かから世界の半分を与えられたとしても、この子はそれをぜんぶ焼き尽くしてしまうに違いない」とこちらが心配に思うくらいに、とても沈んだ様子をしていました。

 けれどもしばらくして彼は、「これからお母さんの願いをどんなことでも叶えてあげることにしたから」と魔法使いのようなことを言いだして、その約束を一方的にわたしと取り交わしました。どうやら千尋は、それでどうにか心の平衡を保つことにしたようだったのです。



 何か食べたいものはある? という千尋の優しい言葉にわたしはつい、「ずっと食べたいと思ってるものがあるの」と答えてしまいました。かんっぜんに油断していたと、口に出してすぐに後悔しました。わたしは当然それを秘密にしたまま、お墓まで持って行くべきだったのです。

 わたしが何か無茶な願い事をしてしまった場合、彼がどんな手段に訴えるかわかりませんし、怪我したり危険な目に遭ったりももちろんしてほしくありません。何よりその願いを叶えることができないと理解することになった時、千尋がどれほど無力感を味わうのだろうと想像して、わたしはこの子の手に余る願い事は絶対に口にしないように自分を強く戒めていたつもりだったのです。思わず泣きたくなりました。

 おそらくアニメか何かで目にした時、子供心に「食べてみたいなぁ」と思った気持ちがずっとどこかに残っていて、不用意にそんなことをいわせたのでしょう。

 わたし 「ずっと食べたいと思ってるものがあるの」
 千尋  「何が食べたいの?」
 わたし 「マンモスが食べたい」
 千尋  「あはは、マンモスか」(もしくは「マンモスってなに?」という問答に発展)
 わたし 「うん、無理よね」
 千尋  「大丈夫、どうにかなるよ。じゃ、行ってくる!」

 ……ということになる公算が限りなく高いとわたしは考えました。絶対に手に入らないものだからということを説明して千尋をがっかりさせたくないし、中途半端な嘘をついて彼を騙すのも何だか気が引けます。わたしは命にかえても言うまいと覚悟を決めたのです。

「何が食べたいの?」

「いいの、忘れて。お母さんは和菓子とジャンクフードがあれば幸せよ」大事な言葉を付け加えるのも忘れません。「それとあなたがいれば」

 千尋は引き下がりませんでした。お母さんはろくに願い事をしてくれないし、その願いはとても大事なものな感じがするからどうしても叶えさせてほしい、とわたしに懇願しました。

 願いを言えと迫る彼と、それを騙したりすかしたりして断り続けるわたし。数時間におよぶ話し合いの末、「このままでは死んだわたしに千尋の生霊が祟るだろう」というよくわからない結論にわたしは達しました(確かに彼がそのようにわたしを脅迫した記憶もあるような気がしますが、事実として言えることは、長丁場の交渉にわたしはとても消耗し、冷静さをからからに失っていた、ということです)。

 他にどうにも仕様がないと考えたわたしは、その食べ物を手に入れてきてほしいと、千尋に頼むことにしたのです。



 例えばそれが、良いことでも悪いことでも、何かが起こるのを待っている時間というのは、どうしてこんなにも長く感じられるのでしょうね? わたしは、比較的うなだれて、半分くらいはもう地に伏して、自分という人間の心根を口惜しく感じ、軽く歯噛みして、目は何も見ていないし、耳はただそこに付いているだけ、といった風、そしてやはり先ほどの決断を後悔しながら、その後悔は、一秒の何十分の、何百分の一の間にもどんどんと加速していくのですが、千尋が空の手で泣きながら帰ってきたら、彼の好きなものをたくさん用意しておいて慰めよう、わたしが悪かったね、と謝ろう、などとも考えるだけは考え、その考えもけっしてきれいにはまとまらずどこか暮夜けていて、そのくせ放っておいても湧き上がってくるのは、わたしがいなくなった後の千尋の悲観的な想像です。結局のところわたしは、千尋を見送ったそのままのような状態でずっと、ただ玄関で待っていました。

 いつしか、日も傾いてしまい、辺りは、あつい空気の幕を通ってきた黄色い光線によって、魔法のように色づけられていました。そのかがやかしい空気の中を歩いて、少しぼろぼろになった千尋が帰ってきたのです。彼は、何かの食材が入っていると思われる包みを手に持っていましたし、どこでどう知り合ったのか、旅のお供的な数匹の動物をも引き連れていました。千尋は門前で足を止め、お供たちと一緒になって歓喜のおたけびを上げます。それに釣り込まれて、わたしも一息にテンションが上がりました。

「これ!」と言って、千尋は包みをわたしに差し出しました。受け取り開いてみれば、驚いたことに、それは紛れもなくわたしが望んでいた食べ物なのです。

 わたしたちは喜び勇んで食事に取り掛かりました。何となく、これが最後の食事になるだろうということがわたしにはわかりました。食事の間、千尋は自分が経験した冒険についてあれこれ語ります。とても面白い話で、わたしはぜひそれを文章にして出版するべきだと勧めました。旅の仲間たちも、わたしにはわからない言葉でそれに賛同してくれます。

 楽しい食事はいつまでも続きました。この長い長い夕ごはんが終わることはないように感じられました。きっと誰かが、たけなわだ、と言い出さない限りは、ほんとうにずっとずっと、いつまでもいつまでも続くのです。

 祝祭的雰囲気の中、わたしはとうとう箸を置き、「とてもおいしかった。もう何も思い残すことはない」と千尋に言いました。

 彼は、寂しそうではありますが、満足した、誇らしい表情をしています。

 それを、わたしもうれしく思いました。

 千尋のその様子が、ほんとうに、とてもうれしくてうれしくて……

幸福な質問


 すっかり春になりましたね。夜風もだんだんと生暖かくなってきて、こういう夜道を歩いてたりすると、どこか、木の幹の陰や、曲がり角の向こう側からでも、ふらりって、気の早いお調子者のおばけなんかが、にやけながら飛び出てきたりもしそうな、そういう浮わついたような雰囲気ですね。

 ほんとうはこんな夜、毎晩でも歩いて廻りたいくらいなんですけれど、一人歩きはやっぱり危なくもあるし、なんだかゆっくりとは楽しめないですよね。だから今夜、あなたが一緒に来てくれて、実はわたしも、ほんとに安心して浮かれてしまっているんです。

 月はもう、かくれてしまいましたけど、その代わり星が見えますね。ほら、北極星。この間も話しましたよね。あれです。ええ、そりゃ暗くてわかりにくいものではありますけど。さあ、北斗七星のひしゃくの先を伸ばして……、そう、もう少し、それです。今度は逆に、おおぐま座のしっぽを曲げて伸ばしてみましょうか。そう、あの赤い、明るい星。うしかい座のアルクトゥルス。さらにく、く、くとやれば、おとめ座のスピカに行き着きます。春の大曲線ですね。

 わたし、星座って好きです。ただの星としてだけだったら、「ああ、きらきら輝いててきれいね」というだけで、その美しさや存在についての興味も、すぐに消えてしまうと思うんですが、でも大昔の人たちがそれぞれの星と星とを結びつけて、形にして、名前を付けて、色んな伝説や何かを振りかけて、それが今にまで伝わってる、っていうところにわたし、すごく魅力を感じるんです。人の思い入れというか、言ってしまえば人間そのものが投影されてる部分、そこが好きだし、たぶんわたし達が長く愛せるものは、そういう人間が投影されている何かだけなんじゃないかって思ってるんです。

 たとえば、いま話したうしかい座。そのお隣に互い違いのようにして頭を下に向けた、ヘルクレス座があって、そのうしかいとヘルクレス、二人の中央にかんむり座っていう小さな星座があります。ほら、あそこに。括弧の片方の閉じのような形をして。あれはギリシャ神話のディオニュソスっていう神さまがアリアドネという女の人に贈った冠だということになっているんだそうです。

 それに、おうし座の牛が、ゼウスの仮の姿だというのはご存知ですか? あの牛は、ゼウスがエウロパっていう女の人をさらって妻にしようとした時、その身を変えた姿なんだそうです。ゼウスはクレタ島でエウロパと一緒にしばらく暮らし、何人かの子供をもうけたりもするんですが、その後、再び牛の姿となって空に上がり、クレタ島から去ってしまいます。その際に、ゼウスは自分の姿を記念として夜空に留めました。残されたエウロパはクレタの王を夫に迎え、王妃として過ごします。そしてゼウスとエウロパの間に生まれた子供であるミノスという人が、後にクレタの王位を継ぐことになるんです。

 そのミノス王の子供の中には、アステリオスとアリアドネがいます。アリアドネについては、さっき少し話しましたね。アステリオスの方は、半牛半人の怪物であるミノタウルスとして有名です。アステリオスがそんな姿で生まれた事情には、まあ色々と遣り切れないようないきさつがあったりもするんですが、結局のところは、彼の親であるミノス王とその妃パーシパエーの不徳が招いた神からの呪いのため、と言えますね。

 王様達は、次第に怪物としての衝動を抑えきれなくなっていくアステリオスを、奥深い迷宮に閉じ込めます。そして彼の慰みのため、定期的に生贄の若者達を迷宮に送り込むんですが、ある時に、ひとりの、テセウスという英雄が立ち上がって、ミノタウルスを退治しようと、生贄の若者に混じって迷宮へ向かうんです。アリアドネはテセウスに恋をし、彼が迷宮から無事帰って来れるようにって、糸玉を渡します。アステリオスの妹である彼女の、この行動の心情的な細かい部分は、神話ならではの大雑把な記述のせいか、省かれていて、わたしもよくはわかりません。

 テセウスは見事、ミノタウルスを退治し、糸を手繰って迷宮を脱出します。そしてアリアドネを連れ、祖国への帰途に就きました。大団円。みんな大喜び。

 でも、どう思いますか? そりゃあ悪い怪物だったのかも知れないですけれど、家族からも嫌われて、妹にも結果としては裏切られて、誰の記憶の中にも記録の中にも悪者としてしか残らず、少しの同情も得られないなんて。それではあんまりにも皆が薄情なような、何だかアステリオスが不憫過ぎるような、そんな風にわたしには思われたりもするんです。

 だからわたしは、せめて誰かが、アステリオスを星座にしてくれていたら良かったのにな、って思うんです。ゼウスも、自分の孫である悲運な生まれつきのミノタウルスのために、おうし座の席くらいは気持ちよく明け渡すべきだったんじゃないかな、って。

 わたし、実は自分ひとりの中だけでは、おうし座の牛はアステリオスなんだってことに決めてしまっているんです。もういっそ、そういう風に自分を投影してあの星の連なりを見ることにしたんです。あなたはどう思いますか? もしもあなたが、一緒にそのおうし座を見てくれるのだったら、わたしはほんとうに、とても嬉しくなってしまうんですけれど。



 これは余計な注釈です。アリアドネは、テセウスとの恋の旅路の途上でディオニュソスに心変わりしたとも、テセウスに袖にされたとも、重い病にかかって、ディオニュソスの計らいによりアルテミスの矢を受け穏やかに天に召されたとも言われています。そうして彼女の冠は星座になるんですが、なんだか、どれも少し寂しいですよね。あなたも、そうは思いません?

悪因縁


 江戸は牛込に飯島平左衛門という旗本がいて、その娘ジュリエットはとても美しかった。
 ジュリエットと継母との仲があまり上手くいっていなかったので、平左衛門は娘のため、柳島にバルコニーのある別宅をつくり、女中のお米をつけて世話を焼かせた。

 ある時、出入りの医者が萩原新三郎という若い侍をつれてきた。新三郎はけっこうな男ぶりの優男で、若い二人はすぐに恋に落ちた。老医の目を盗んで、ふたりは色々な恋の約束を短い時間のうちに取り交した。
 その数日後、新三郎は些細な言い争いから発展した友人との決闘に敗れ、命を失った。それを聞いたジュリエットは悲嘆のうちに日を暮らすこととなった。彼女は新三郎の戒名を位牌に書き、仏壇にそなえ、毎日念仏を唱えた。

 盆がやってきた。ジュリエットは家を飾り、軒先に提燈をつるした。夜が更けるまで、彼女はバルコニーで涼んでいた。不思議に落ち着いた気持ちだった。
「ジュリエット!」
 ふいに名を呼ばれ、彼女は庭を見下ろした。牡丹柄の灯りを捧げ持った、新三郎の姿が照らし出されていた。
「新三郎様!」
「思いがけないことだ! あなたは亡くなったと聞いていたのだが!」
「ああ、新三郎様! ほんとうに新三郎様でいらっしゃいますの? わたしも、新三郎様はお亡くなりになったと聞かされました。あのお医者様から」
「ぼくもあの人から教えられました」
「とにかく新三郎様。こちらへ、バルコニーでお話しいたしましょう」
 ふたりは明け方近くまで語り合った。それから新三郎は毎晩やってくるようになった。

 事実を正確に知っていた女中のお米が何度、「あの方はもう死んでいるのです」と説いても、ジュリエットは聞く耳を持たなかった。困りきったお米は新幡随院の名僧ロレンスに助けを請うた。
 僧ロレンスは柳橋の別宅まで出向いてきて、ジュリエットを騙したりすかしたりし、どうにか恋人がすでに死者であることを納得させた。
 死霊よけの仏像を与え、新三郎が成仏するよう供養を施してやることも約束した。それから死霊が入ってこれないよう家中に札を張り、夜は雨宝陀羅尼経という経文を、どんなことがあってもずっと唱え続けるよう指示した。
 ジュリエットは僧ロレンスの言いつけを守り、それからは毎晩明け方まで経を読み続けた。それでも、よほどジュリエットの業が深かったのか、供養の験は顕現しなかった。死者の霊はいつまでも成仏せず、夜ごと建物の周囲や庭をうろつき廻り彼女に睦言を囁いた。
 女中のお米は、たびたび死者から札と仏像をどうにかしてくれるようにと取引を持ちかけられたが、毎度すげなく袖にした。


 幾年かが過ぎ、様々な事情によってその頃にはキャピュレット家の養女となっていたジュリエットは、新しい恋に落ちる。相手は家の仇敵であるモンタギュー家の子息ロミオであった。ふたりは双方の家の反対に負け、悲劇的な死を持って結ばれることになるのだが、その情熱的な恋の道行きを完全な傍観者として眼に収めていた新三郎はやはり、終局以前には姿を消してしまっていたという。

 当事者たちの誰にとってもこれは悲しい物語であった。この話は日本人の琴線を振るわせずにはおかず、後に円朝という噺家が劇化したことも手伝って、現代にまでポピュラーな怪談として伝わっている。

青色の夏休み


 信号が変わって、校門の前から道路の向こうに渡ってしまったら、もう夏休みの始まりだ。「じゃあねー」とか「またこんどね」とか、「プールのやくそくわすれちゃだめだよ」とか、みんなが口々に言って、ちっちゃなちっちゃな小魚がたくさん集まってささやき交わしているみたいで、そのささやきの泡がくっついてできた、プールくらいの大きさのソーダゼリーのかたまりに包まれるみたいにして、ぼくも「さようなら」をした。口のはしっこからは、ブクブクと泡が、遠くて見えないはるか上のうえの水面に向かって昇っていった。


 テレビの部屋は、クーラーの口から出てくる冷たいつめたい水でいっぱいにみたされてとても過ごしやすくって、ラジオ体操は今日は小雨が降ったので中止のお知らせがあって、お母さんは「私がちっちゃかった頃は台風が来てもやってたのよ世の中こどもに甘くなったもんね」。はん、とあきれたような吐息をつくと、おおきな泡がこぽんと出る。天井にあたって、泡は小さなかたまりに分かれた。


 今日はかいせいで、空の高いたかいところまで見える。風鈴が風でゆれて音がして、中にたまっていた空気が少し、空に向かって逃げる。ぼくはどこまでも泳いでおよいで、それをつかまえようかとも思うけど、うえのほうの水は太陽のねつでとても熱いので、ぼくはろうみたいにとけちゃうかもしれない。


 花火が上がるのを待っている間に、空はだんだんと青いろが古くなって、ほとんど暗い紫いろになる。なんだか校長先生や誰か知らない偉い人の前にいるみたいに、怖いような、気持ちが冷たくなるような気がしてきて、いつもみたいに親しい雰囲気はしないけど、それでも青いろはあおいろでぼくは好きだ。遠くのがいとうやビルのあかりがその中で白くするどくきらりとして、夜の深いふかい海のそこにでもいるような気持ちがする。花火がぱっ、と上がって、すぐに消える。水の中をゆれがつたわって、ぼくのからだもゆらゆらする。じゅっ、という音はしないけど、花火が一瞬しか光らないのは、まわりをかこむ夜の水に、あっという間に冷やされてしまうからなんだ。

幸福な話

幸福な話

短い読み物をいくつかまとめています。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • SF
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-10-09

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著作権法内での利用のみを許可します。

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