海に降る雨

大久保坂道

 横殴りの雨が窓を打っている。先ほどまでついていたテレビではあらゆる局が「過去数年で最も勢力の強い台風」のことを報じていた。
 私の家は暴風域にあって、外からは何かの転がる音が時折聞こえてくる。雨音は、まるでそれ自体が生きているかのように不規則に強度を変えている。電気を消し、雨戸も閉めた部屋は夜の闇に閉ざされ、ただ自然の奏でる轟音と、それに対比するように弱々しく規則的な私の呼吸音が聞こえるのみであった。
 私はもう長い間、部屋の片隅のベッドの上で一枚の薄いタオルケットにくるまれている。姿勢を動かすこともほとんどしていない。飲み物も口にしていないから、トイレに立ったことも一度もなかった。
 今朝、ストックホルム行きの直行便が成田空港から出発した。その便は一人の搭乗者と一緒に、私の中のあらゆる希望を乗せていってしまったようだった。嘘のようにふわりと浮上して遠くへ去っていく航空機は、本当は大きいはずなのに私の目にはおもちゃのように小さく見えた。それが小さくなればなるほど、私の希望も遠くへ吸い取られていくような感じがした。
 せっかく見送りに行ったのに、気の利いた言葉を一つも思いつくことができなかったというのは何と馬鹿げたことだったろう。これが最後だと思うほど、胸の奥に溜め込んでいたたくさんの言葉は徐々に沈んで行き、手の届かない所まで離れていってしまった。
 伝えたいことはいくつもあったし、これからも積み重なっていくだろう。それを吐き出す口が塞がれてしまった悲劇は、絶望と呼ぶのに十分な強さだった。
 雨で気温が低いとはいえ、まだ晩夏だというのに体が震えるほど寒いのは、おそらく今日は何も食べていないからだろう。食欲を掻き立てるほど、生に対する強い希望を、私は持ち合わせていなかった。
 意識は朦朧とし、思考が混濁していた。現実に聞こえるのは雨風の音ばかりで、勢いは衰えることを知らない。台風はこの後、エネルギーを失って温帯低気圧に変わる前に、本州を抜けて太平洋に出るはずである。その頃には彼もストックホルムに到着して初めての短い夜を迎えているだろう。
 海に出て、ほとんど誰も困ることのなくなった台風のことをぼんやりと考えた。直ちにその雨風が弱まるわけでもなく、台風の方は依然もとのまま存在し続けているのに、それに興味を持つような人間は恐らく一人もいなくなる。これほど多くの人々の中に恐怖を喚起した強烈な現象は厳然と続いているというのに、だ。その事実に私は奇妙にも理不尽さを感じて、思わず仄かに憤った。その台風は、私でもありうる。明日の昼、誰も考えることをしなくなった哀れな台風のことを、私だけは考えていようと密かに決意すると、その時わずかに雨音が強くなったように聞こえた。

―――

 強力な台風によって便が欠航となる前にストックホルムへ飛び立つことができたのは幸運だった。
 十三時間の孤独なフライトは、未知の土地へひとり身を投じる自分を心細くさせるには十分な長さだった。これからいつ終わるかも未だ決まっていない、おそらくは数年間の滞在生活を開始することになる土地で、人々の顔も、言葉も、文字も、空気さえもが自分とは相容れないものであるように感じた。
 都市部からやや隔離された仮住まいに向かっている間、懐かしく思い出されるのはひとり見送りに来てくれた女性のことだった。少なからぬ不安を抱いていた自分にとって、この先の生活を一緒に心配してくれ、励ましてくれる人がいてくれたのは心強いことだった。
 それに、出発間際のほとんど最後の瞬間に彼女が言った、
 「手紙、待ってるからね。送ってよ」
 の一言は、自分にも意外なほど強い効力を発揮した。弱気のくせにプライドだけは保とうとする自分には苦笑するほかない。家に着いたら早速、その言葉に励まされたことを手紙に認めるのも良いかもしれないな、と考えた。
 目的地に到着したころには夜の帳はほとんど下りきっていた。重い荷を解くと、日本のことが瞬時に思い出された。備え付けられていた古びた机に便箋とペンを持って座った。
 そういえば、台風はもう東京を通過しただろうか。報道はかつてなく強い勢力になる見込みと言っていたように記憶している。インターネットで調べると、どうやら大きな被害は出なかったらしい。それならば、彼女の家も無事だったということだ。
 ディスプレイには台風の現在地が示されている。その中心は日本を離れた太平洋の上にあり、暴風域や強風域を示す円はもはや表示されていなかった。日本列島は完全にその危機を脱したということなのだろう。
 ふいに、自分がそのような台風の表示を初めて見たことに気がついた。国土を離れた台風のことなど、報じたところでその情報に価値は薄いのだから見たことがないのも当然だろう。それを初めて見たのが、日本を遥か離れた北欧の地においてだというのも皮肉な話だ。
 海の上にあって未だ豪雨を降らせ続けている台風のことに思いを馳せる。これから長く続けたいと思う文通の、最初の手紙の書き出しを海に降る雨の話にしたら、彼女は怪訝に思うだろうか。

海に降る雨

海に降る雨

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-10-07

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