証明おしまい
証明印
一日の終わりには の所へ印を押してもらいに行く。「今晩は」「今晩は、いらっしゃい」と私たちはいつもの挨拶を交わす。
は「お茶はいかが?」と勧めてくれる。私が眠れなくなるといけないといって、それは決まって焙じたものだ。少し世間話なんかをした後で、私たちは型通りのやり取りを始める。
「私は今日一日、確かに生きていましたよね?」
はきっと「ええ、もちろん」と、そう何気なく言って、私の台帳に今日の分の印を押しながら答えてくれる。いつからか私は、一日の終わりには必ず の所へ印をもらいに行くようになった。
「明日も、明後日も、それから先もずっと、あなたはちゃんと生きて存在していくんですよ」
あなただけの物語
知ってるよ。なんていうか、その話なら子供の頃に聞いてたぶん知ってる。いや、聞いたっていうか教えこまれたのかな。一字一句正確に、頭の中に焼き付けるみたいにして記録させられたよ。
君はその話を幼馴染から聞いたって言ったね。たぶんその友達の家も、俺の家と似たような境遇だったんじゃないのかな。俺の家にはね、それはもう古くから伝わるひとつの物語があるんだ。ひとつの物語というか、もっと大きな物語のなかの一部、一話、まあたぶん欠片みたいなものだね。それだけでもひとつの物語としての構成は持っているけど、細部の造りなんかから、別の大きな物語の一部だということがわかる。まあそれはかなり成長してから気付いたことなんだけどね。とりあえず我が家系の長子には代々、何の説明もなくこの物語が教え込まれて、それを子孫に語り継ぐように言われるんだ。きっとその幼馴染の家もそういう家系なんじゃないかな。
今君がした話はおそらく物語の第一話だね。そして俺の家に伝わっていたのは第二話だよ。君の話を聞いてやっとそれがわかった。最初の物語は主人公が海の向こうの国へ旅立ったと結ばれているよね。で、なんと我が家で語り継がれてきたのがその海の向こうの国での話なんだ。じゃあ、話そうか。なにそんなに長い話ではないよ。そう、それはこういう話……。
……この話を人に語ったのは初めてだよ。いったい何のために憶えさせられたのか、我が家が関わった何らかの歴史のすでに意味を成さない遺物というだけのものなのか、そんなことを考えた時期もあったけど、もしかすると今日君に話すためだったのかも知れない。なんだか少しさみしい気もするね。まるで自分の役目がこれで終わっちゃったような。
ええ、あの新聞の個人広告を見たときはびっくりしましたよ。まさかこのお話と同じものを知っている人がいて、他の話を探しているなんて。
私はきっと悪戯好きのご先祖様か誰かがこれを拵えて、冗談半分に子孫に語り継がせてでもいるんだろうと思ってましたよ。しかし、ちゃんとしたものだったんですねぇ。そりゃそうですよね、あれだけ苦労して憶えさせられたんですから。私、子供の頃母にこれを文章にして残しちゃいけないのって聞いたんですよ。母はすごい剣幕で……、それで私もすっかり恐くなっちゃいましてねぇ。ええ、おかげ様で今でもすっかりそらで言えます。
でも貴方、危ないところでしたね。私もこの通りの年だし、子どももいないしねぇ、後何年か遅かったら、このお話は私と一緒にお墓の中ってことになっちゃってたところでしたよ。何を考えてたのか、女ざかりのころに仕事ばかりしてましたからねぇ。でもそれが楽しくて、今でもよく思い出します。ええ、そうでした。お話でしたね。我が家に伝わっているのは、三つ目のお話だそうで、それじゃあお話ししましょうか……。
……なんだか自分でもよくわからないんですけど、えらくすっきりした気がしますねぇ。もしかするとこの話のことがずっとどこかで気にかかっていたのかも知れないですね。もう思い残すことはない、っていう人の気持ちがなんだかちょっとわかるようですよ。またたまには遊びに来てくださいね。年寄りのお願いですよ。それでもし貴方さえ良かったら、私の話を受け継いでもらえませんか。私はそんなに厳しい先生ってわけじゃないですからね。紙に書くとか少しくらいのずるは許しちゃいますよ。
すまないがあまり時間は取ってあげられないよ。あの話のことなんてすっかり忘れてしまっていたんだ。30分だけでいいね。へえ、今のレコーダーはそんなに小さいのか。君は民俗学とかの学生か何か? 違うの? だってこれある種神話みたいなものだろう。あ、そう。もっぱら趣味で……、って君も奇特な人だね。まあとりあえず話そうか。いいよ他の家の話なんて。もともと僕はあまりこれに興味がないしね。専門が違うから。何でこの忙しい時期に君みたいなのにつかまっちゃったかな。恐いね、偶然っていうのは。とにかく話して終わりにしよう。じゃあ始めるよ……。
……はい、めでたしめでたし。これでおしまいだ。もうだいぶ時間をオーバーしてしまってるな。まあいいけど。それで君はこれからどうするつもりなの? 物語を全部集めたいんだろう? じゃあいつまでも今回みたいな僥倖に頼ってちゃだめだよ。考えてみればこの物語を受け継いでる家っていうのはもともとひとつの家系、少なくとも同じ地域に住んでいた人たちなんじゃないかな。僕の実家に行ってみるといい。両親にも話を通しておく。実家には家系図が残っているはずだし、それを調べれば何かの足しにはなるんじゃないかな。
なに? 急に連絡もせずに。あんたいつも母さんが心配してるわよ。たまには顔出してあげたら? なんだか父さんとふたりで亡霊みたいに暮らしてるわよ。あんたが早く孫の顔でも見せてあげたほうがいいんじゃないの。私? 私はいいのよ。そういうのはあんたの役目でしょ。それで何なの? え? なんであんたが知ってんの? 父さんから聞いたの? へえ、芳本くん。そんな子いたわね。じゃああの子の家もそうだったんだ。
ほんと、あんたと違って苦労してるんだからね私。ちょっとはやく生まれちゃったばっかりに。なんだか最初に生まれた子どもにしか教えちゃいけない決まりらしいけど、知っちゃったもんはしょうがないわね。それでどのくらい調べたの? へえ、じゃあもうだいぶ集まってるのね。ほんとあんた昔からそういう妙なことに情熱注ぐよね。でもほんと、ちょっと面白いかもね。遠い遠い親戚の間にこのおかしな話が散らばってて、それを今なぜかあなたがひとつに纏めようとしてるなんて。じゃあ聞きなさい。ほんとおかしな話なんだから……。
……ね、おかしな話だったでしょう。私はこれを神話みたいなものだとは思わないわ。だって何だか妙に文明化された目線ってものを感じるでしょう? 私は案外近い時代に作られたものじゃないかって思ってる。それはそうとあんたお正月には帰ってきなさいよ。
何だか名残惜しいですね。私が語り終えれば、この長かった物語も終わってしまうんですね。あなたが他の家のお話をしてくれている間、実は私ずっと泣いてしまいそうだったんですよ。ほんと私たちって何なんでしょうね。私、たまにこの物語を伝えるためだけに自分は生まれたんじゃないかって考えてしまうんです。そして今はこの物語をあなたに話したら、私の中から物語が抜け出して、あなたの中にすっと吸い込まれていってしまうんじゃないかって気がしてます。物語を伝え終えた後の私っていったいどうなってしまうんでしょう? なんだか私の生きている意味がなくなってしまいそうで、それが少し恐くもあるんです。他の皆さんもやはりそういう気持ちがあったんじゃないでしょうか。
あなたはこの物語が好きですか? これだけ苦労をして集めていらっしゃるんだもの、きっと私と同じくらい、いえそれ以上にこの物語を愛して下さってるんだと思います。物語を集めたのがあなたで良かった。では、物語の終わりを始めましょうか……。
罪と罪と……
「私はあなたに殺された女です」
女がやってきて私の枕元で泣くようになってから、もう幾晩かが経つ。最初の夜は嫌な夢だと思って早々に眠りの深みに潜り込み、次いでの晩は女の再訪に少しの薄気味悪さを感じた。その後は昼間の疲れもあり面倒にも思って、つい今日まで打ち遣っておいてしまった。少し距離のある場所へ忘れ物をでも取りに行くような気持ちで、とうとう今夜、私は女にその身上を尋ねてみた。そこで最前の言葉。「私はあなたに殺された女です」
「憶えていらっしゃらないとはなんとも情けのないことです」女は着物の袖で目頭を押さえ言う。瞳から零れているのはそら涙のようだった。
もちろんそんな記憶は私にはない。人違いでないならば、おそらく虫か獣が女の姿に化生しているというタイプだろうと考えた。しかし女の面影にはどこか懐かしく感じるものもある。
「あなたが私を殺したのが前の世での出来事と説明申し上げねば、思い出しても頂けないのですね」
それで幾分か腑に落ちる。夢現も知れない雰囲気も手伝ってか、確かに以前そんなようなことをしたかも知れないという気持ちになってくる。
では、怨んでいるのだろう。それで現れたのだ。
「ええ、怨んでいます。それ故こうして輪廻を外れ、あなたに縛されています。前の世の間はずっと暗い場所を彷徨っていて、あなたの処へは参れませんでした。今生でも、あなたがまだ幼いころに一度参ったのです。しかしその時はあなたの今のご両親から、あなたに分別がつき、自分の犯した罪を自覚して、それに堪えることができる年齢になるまで待ってほしいと頼みこまれました」
それで今……。
「ええ、少しゆっくりになりましたけれど」女はなぜか少し微笑んで。
一応の納得はいった。もしかするとこちらは憑り殺されても文句は言えない立場なのかも知れない。なぜ殺したのかはこの際問わない。何らかの出来事の綾を織り成す縦横の糸というのは恐ろしく煩雑に絡み合っていて、その経緯全てを女がほんとうに理解しているとは限らないし、聞いて私が理解できるとも限らない。おそらく色々なことがあったのだろう。あなたは私をどうするつもりか、と女に問う。
「そうですね」女はやはり莞爾やかに。「まずはどこか賑やかで楽しげな場所にお連れして頂いて、その後はお食事をご一緒させて頂きたいと思います。そして最後に、ほんの少しだけ高価な宝石でも贈って頂ければ、あっさりと成仏して差し上げましょう」
罰を科すということは、最終的には救いを与えるということだ。もしも罰がなかったら罪は永遠に許されることがない。私は前世で女を殺した。その女が私を罰する、私を許すと言っている。しかし、これではまるでデートを、というかプロポーズを強要されてでもいるかのようだ。
「あなたと私は七世誓いました。これまでにそのうちの三つが過ぎて、今生はまあ中休みとしましても、後に四世ございます」手から水滴をひとつ滴らせるかのように、女はそう言った。
それで全く腑に落ちる。
「私はいつもあなたの妻でした」それから女は深く頭を下げて。「不束者ですが」
こちらも釣られて心持ち頭が下がる。古い記憶が一瞬だけ蘇り、すぐに去っていった。忘却には拍車がかかり、いくら駆けるような気持ちになっても追いつけない。それでも私は今では女に対し済まないような、ありがたいような思いを抱いている。
生きることは、予め与えられた罰ではないだろうか。私たちはただ存在しているだけで、数え切れないほどの罪を際限なく重ねていく。生きることはそれに対する罰なのかも知れない。
しばらくそうしていてから女は思い出したように、しかしゆっくりと起き直って「私が一足先に来世に参りました後は、ちょっと大目に見て差し上げますから、どうぞ少しだけあなたのお好きになさっていて下さい」と私に勧める。「広い広い三千世界。そして長い長い転生の途ですもの。たまには息抜きも必要ですわ」
女は悪戯に笑っていて、まだ果たされぬ約束への期待からか、少し身体も元より淡く薄くなってきている。もう半分くらいは成仏しかかっているのかも知れない。
世界
古い時代には、
猫が瞳の中に時計を常備していて、
それで時間を確かめることができたのだそうだ。
天空はコンパスに覆われていて、
方角を見失うということもなかったし、
海の向こうにはすぐに死者の国があったので、
慌てて巡らなくてはならないほどの広い世界を持たずにもすんだ。
太陽や月を偉大な神々に見紛うこともできたし、
「世界の果ては滝になってるんじゃないか」
「今にも天が降ってくるんじゃないか」
などと想像する余地も豊富に残っていた。
ある程度、自分たちの世界を自由に設定する権利があった。
時代は降り、
猫はコタツで丸くなったりして、
その姿はとても愛らしい。
今現在季節は冬なので空気の通りが良く、
星空は別物みたいに綺麗に見える。
良いことか悪いことかはわからないが、
人間は長く生きられるようになったし、
広がりすぎた世界を縮めることにも、
結果的にはそのうち成功しそうだ。
太陽の命は折り返し地点を過ぎて、
月は順調に年間3センチくらいずつ地球からの距離を稼ぎ続けている。
「世界の果てがどうなってるかとか、そんなこと当然に知ってるよ」
という顔をしてみてはいるものの、
そんなのは実際に自分の目で見てみなくてはわからない、
というか目で見てもわからない場合があるということも知ってるよ、
と訳知り顔に思ったりもする。
そして今でも、
自分の世界を自由に設定する権利くらい、
もう完全にどこかに置き忘れてきてしまった、
ってことだけはなかったはずなんだけどほんとのところはいったいどうだったんだろう、ねえ? という気持ちがやはりいつも胸か頭かどこやらくわしくは未だわからない場所でしていたりもするのをたぶん感じているのだ。
夜
15分ほど足早に歩けば、一廻りできてしまうくらいの小さな星に、私と母は住んでいます。
恒星の光を遮ることがほとんどできないので、この星に真っ暗な夜が訪れることはなくて、その太陽が真裏から照らしている時であっても、やっぱり辺りは薄く明るいのです。
私たちの星の自転周期は短くて、起きている間に何度も昼と夜とが通り過ぎていきます。
自分がもうどれくらい起きているのかがわからなくなって、私は一日のうちにたびたび「今何時くらい?」と母に尋ねるのです。
(恐ろしく無為に感じられるかも知れませんが、私たちはグリニッジ標準時間に則った暮らしをいまだに続けようとしています)
「おそらく午後の3時といったところね」最後の時計がその役目に適わなくなって以来、若い頃には天文学を齧ったことだってあると主張する母が、この星のおおよその時間を規定しています。母の予測が正しいものかどうかは私にはまるで見当もつきません。
それにもう、かなり以前から、世界はいつだって真夜中なのだ、という感じがずっとしています。目に見えるもの、見えないもの、それら全ての星を含めたこの世界には、私たち以外に起きている人間なんて一人もいはしないような、そんな気が私にはしているのです。
真夜中のピエロ
もうすでに朝に近い真夜中だった。弟は読んでいた本を閉じた。本の中で起こっていた出来事が中断した。本からは登場人物たちの一息つく声が聞こえてきた。弟は電灯を消して目をつぶった。家に真っ暗な数時間が訪れた。
日が昇ったので昼になった。母親と姉、それに家で飼っている猫が起きだした。母親は外に出かける前に、弟へ姉の世話についてのメモを書いた。内容は毎日似たようなものだった。母親は古くなって擦り切れてきている、もともとの用途もその出自も不明な、小さな正方形の画用紙じみた紙に、彼女が物心ついたころから愛用しているペンでメモを書いた。ペンはとっくにインクが切れていたが、母親は経済の念が人よりも余計に発達していたので、インクを補充することはしなかった。何か忘れてはいけないことがあれば、これもかなり昔から使っている手帳に透明の文字で書き込んだ。一度書いた内容を忘れることはなかった。母親は家族や他人にも自分の流儀を強要した。弟が起きてくるまで、姉は部屋の隅でジャグリングをしたり、猫に芸を仕込もうとして失敗したりして過ごした。何か面白いことをするたびにどこからか観客たちの笑い声がしてきた。
正午になって、弟が起きた。弟はまず猫に餌を与えてから、母親の書置きには特段目もくれずに、自分と姉の食事を用意した。彼と姉は黙って食事した。その間、食器や箸がカチャカチャいったり、思い出したように大きな家鳴りがしたりした。
姉はどこかの小国から来た留学生を相手に、時代にそぐわない大恋愛というものをして、最終的にはその失恋のために、しばらく前からピエロの姿になっていた。左右を黄色と赤とに色分けした、だぶだぶの衣装に同じ柄の帽子をかぶっていて、顔や手などの露出部には白粉、紅で笑っている口を描いて、鼻には赤い付け鼻をしていた。弟にはすぐ、半ば以上は直感的に、なんとなくその事情の察しはついたが、姉の病状を診断した医者がどんなに説明しても、母親は納得しようとしなかった。「だってあなた! 人間が失恋くらいでピエロやなんかに変わってしまうなんて、そんなことが世の中にあってたまるもんですかね!」
夕が近づいてきて、家の南に面した窓に小鳥たちが次々とぶつかっては気を失い、庭に落ちて山になった。姉と猫を適当に遊ばせておいて、弟は本を読む気もしなかったので、今では家を出て独居している兄が以前使っていた部屋で時間をつぶした。普段連絡もよこさず、年に数度、ふらふらと気まぐれに顔を見せる程度の兄は、家族からほとんど忘れられていた。家族は顔を見たときや、ちょっとした風聞が舞い込んだときにだけ、兄の存在を思い出した。部屋もいつからか兄が生きていることの証拠を隠滅するのに乗り気になっていた。部屋にあるアルバムの写真から、兄の姿はもう全部と言っていいくらいに消え去っていた。手紙や学生時代の書類や本、兄が趣味で集めたこまごまとした品などもいつの間にかなくなっていた。そのせいもあってか、部屋は作られてからまだ誰にも使われたことがないような新鮮な感じがした。
帰ってきた母親から、ろくにメモに目を通していないことについて小言を言われながら、弟は昼の間の姉の様子を話した。それから姉の姿が変わってしまった事情について母親に二時間ほど自分の考えを話した。日課のような説諭を続けている間に弟はいつも自分が何だかとても議論に強い人間になったような気がしてきて、段々と当初の目的を忘れ、しゃべること自体が楽しくなってくるのだった。しかし最後には母親が前に医者に言ったそのままの言葉を繰り返して、弟が費やした労力と時間とを無駄にした。弟はそれはそれでたいした問題でもなく、昔からそのおかげでむしろ世の中がうまくいっているようなので別にいいのだが、やはり人間同士が真に分かり合うなんてとても不可能だ、とそのたびに思った。
夕暮れはあっという間だった。日が沈んだので夜になった。三人で食事をした。猫が家に来てからは、食卓は前のように殺伐としていなかった。食事の後、姉はテレビを見ていた。ニュース番組で、どこかの小国でクーデターがどうにかして、その国の王子がどうこう、というようなことを伝えていた。白粉と紅と付け鼻とでよくはわからなかったが、姉が悲しんでいるように弟には見えた。姉は22時から2時までの睡眠が人間にとってはほんとの睡眠だという持論を昔から持っていて、やむをえない理由がない限りはその時間には必ず床に就いていた。日中どんな不幸に見舞われたとしても、その大切な時間に休息をとることができる人間は、ほんとうの意味で完全に幸福な人間だ、といつも夜更かししている弟は内心うらやましく思っていた。
真夜中が迫ってきて、一日が終わる雰囲気が感じられた。弟は本を開いた。出来事が再開した。母親は猫を膝に乗せてその体を撫でながら、半分くらいは思い込みや希望のために形が変わっている昔の思い出を猫の耳に吹き込んでいた。本を読みながら、弟はなぜか気分が少しグシャグシャしているのを感じていた。本の中の人たちは彼のために結末を変えて愉快なものにしてやった。
真夜中には母親も眠りに就いた。猫は気まぐれに眠ったり、家の中を駆け回ったりした。弟は明け方まで起きているために、新しく読む本を開いていた。姉は真夜中の質の良い眠りの間だけもとの姿に戻っていた。明方まで起きている弟は、そのことを知っていた。
大きな桜の木の下で
申し上げます。
ただ今、大きな桜の木の下で、道に迷っております次第。
さき行く人の足跡も、しるべにまいた花びらも、落花に混じってしまいました。
姫さまあなたのお手紙は、命に代えてもあの方に、お届け致します所存ではございますが、
この桜色の迷路から、私がからがら抜け出しますには、まだまだ長い月日を要すもの、と考えられます。
私は心配する者でございます。
そのお心の、木々の装いの折々の移り変わりのように、変化し易くていらっしゃる姫さまでございますゆえ、
このお手紙が届く頃も、今と同じにあの方を想っておられるであろうか、などと。
雨が降れば、桜の花は一時に落ち、地を汚し、道はすっかり開けましょうが、
姫さまあなたの使者も、その花びらの洪水に、きっと一緒に掬い取られ、
果かなくも、流されていってしまう摂理なのでございます。
天使のさがしかた
例えばたんすと壁との細い隙間や、長い間開きもしなかった古びた空気と記憶の残骸が詰まった引き出しの中、野良猫や野良犬とセットになって思い起こされる路地裏のごみのバケツなど、そういう場所に天使はいない。その他、教会の鐘の中や図書室の擦り切れた本のページの間、老人の昔話の中にもいない。村の者たちのするように、そんなところを探すのは間違っている。
ぼくらを守護していた各々の天使が姿を消してからもうしばらくが経った。いつどこにでもぼくらの背後を付いて廻り、あれこれとうるさく指図していた天使たちを、皆内心うっとうしくも感じていたのだが、いなくなってはじめてありがたみのわかるのは他のうっとうしいものとやはり変わらぬようで、すぐに恋しくなり寂しくもなり、我が半身でも探すように、人々は「私の天使よ」と呼ばわりながら辺りを徘徊し、尋ね人ならぬ尋ね天使の貼紙なども今では街中の壁面を覆うようにしている。
ぼく自身も自分の天使を探してはいるが、一向に見つかる気配すらもない。ぼくの知人たちの中にも自分の天使を連れ戻したという者はひとりもいない。ただ天使を見つけた捕まえたという話だけは枚挙に暇がなく、しかしその実態ははなはだ怪しいもので、天使と見えたものが実は柳であったり、枯れ尾花だったりする。捕らえたものもただしてみれば、山師のような男がでっち上げた猿の半身と魚の尾を無理に繋げただけの代物であったり、いかさま錬金術師が合成した怪物であったり、ただ翼の生えただけの老人であったりした。
「天使は我々に愛想を尽かしたのかも知れない」と友人のひとりは嘆息して言った。しかしそれはおそらく誤りであろう。少なくともぼくは天使に愛想を尽かされるようなことはしていない。連帯としての報いなどということであれば、ぼくは確実に世界を呪う。
日が経つにつれ、人々は天使を探すことを諦め、放心したような状態のままではあるがそれぞれの日の暮らしに戻っていった。ぼくはといえばそんな割り切れた心を持った人々に内心驚嘆しながら天使を探す方法をあれこれと思案し続けた。そして友人に対して、自身に落ち度はない、出て行かれる理由など微塵もないと高言はしたものの、天使のいた頃を後悔して、あの時ああしてやれば良かった、もっとやさしい言葉をかけてやれば良かったと無為なもの思いにも耽る。
いつか帰ってきた時によそよそしい感じを与えてはいけないと思って、部屋は天使がいなくなった時のままにしてあるし、夜半やぼくの留守に戻っても、戸外で無駄に時間を過ごさないですむよう、扉にもずっと鍵を掛けずにいる。ぼくの天使よ、帰って来い。お前のいない生活などは考えられない。もしくは御身創造主よ、できれば聖寵あって何か探索の道すじや方法など、一縷の希望でもいいからぼくに与えてほしい。おおよそ楽観的に考えると、きっと正しい探し方というものがあるはずで、ぼくたちはただそれを知らないだけなのだから。
証明おしまい