エンディングの音(後編)
主人公の桐谷は、僕ではありませんが僕の分身です。一要素です。弱くもある。タフな部分もあります。ともかくも平凡などこにでもいる一人の人間です。
ヒロインの上園は、こんな彼女いたら良いけどちょっとやだなを目指して描きました。特定のモデルはいません。
死にたがりの、生きたがり。完結編。
「エンディングの音」(後編)
堀川士朗
⑦ 故ベルベット・モス
晩夏。事件が起きた。
勤勉なモス君が十日間余り会社を無断欠勤していた。
彼にとって珍しいどころか、こんな事は初めてだった。
いくら何でもおかしいというので、主任の落合はリーダーの桐谷を連れて、モス君の住む日暮里の狭い路地を入った、古びた木造アパートを訪ねた。
管理人から合鍵を借りて一応ドアをノックしてから鍵を開け部屋に入る二人。
ドアを開けた途端に腐敗臭がした。放置したサバ缶を三百倍臭くした様な匂い、でもシュールストレミングよりかは臭くない、そんな体臭を深く濃く煮詰めたすえた激臭がした。臭すぎて目が開けられなかった。
「うわ何だよこれ!!」
「くっせ!!」
「おいモス!!」
「くっせえええ!!」
「モスよどこだ~!!」
ベルベット・モス君は、四畳半で腐っていた。
おびただしい数の蝿が音を立て、彼の周りにたかっていた。
糞尿まみれ反吐まみれ蛆まみれの薄いせんべい布団の上で、モス君は既に死んでいた。
腐敗が進行している。赤黒いそれはリビングデッドみたいで、今にも起き上がって人間に襲いかかりそうな雰囲気を醸し出していた。
部屋の壁の比較的高い場所に数枚、エヴァンゲリヲンのポスターが貼られていた。全て綾波だった。
ブレザー姿や寝間着姿やプラグスーツ姿の綾波レイは、ツンデレな瞳で腐ったモス君を見下ろしていて、何だかそんなふたりの間には、滑稽な関係性さえ漂っている様に桐谷には思えた。
こういう時って、逆に悲鳴なんかあげないものなのだな。クールに警察を呼ぶ事しか桐谷は考えなかった。
同時に桐谷はモス君の死体をつぶさに観察した。何の尊厳もない腐った肉塊。ちょこまかと蛆虫が、穿たれた穴から穴へと礼儀正しく出入りしている。モス君の眼球は、澱んで黄ばんでいる。
眼を逸らすな。これがリアルな「死」の実情なのだ。
感慨に耽る。一切が無常である。モス君の、声優になり林原めぐみに逢うという一縷(いちる)の夢は儚く潰えた事だけが事実だ。
自殺か病死かは検死の結果が出なければ判らないだろう。
でも、これだけは言える。彼は死を望んじゃいなかった。でも呆気なく死んだ。俺はどうだ?これだけ死にすり寄っているのに、まだのうのうと生き長らえてるじゃないか。
神様、味な事してくれるじゃないか。
その日は当然仕事は中止となり長ったらしい警察署での事情聴取を受けた後、桐谷と落合は御徒町の立ち飲みホルモン焼き屋「鐵(てっ)ちゃん」で一杯飲っていく事にした。
献杯する二人。
鐵ちゃん特製の、三杯あおったら確実に前後不覚に陥る謎のハイボールをぐいぐい飲む二人。
お代わり。
また、お代わり。
またまた、お代わり。
ハブのエキスと数種の漢方薬とあと謎のアレが入っていてすこぶる美味い。
明日ビンビンになっても店側では一切責任を取らない。
桐谷は喧噪の店内で洗いものの水音ばかりを聴いていた。
水の、渦巻く音。
音が大事なんだ。
音は、同調すると全てを忘れさせてくれる。
「モスの奴は…。惜しい事したもんだよな全く」
「うん。よく働いたですもんね」
「ああよ。人の十倍ぐらいな。重タンクの様な奴だったよなぁ」
「寂しくなりますね、これから。エンジェルダスト」
「あ?なんだっけそれ」
「うちの会社だよ!」
「ああそっか、そうだったっけか」
「馬鹿ハゲ!!」
キンカンと食道モツがまた三本ずつ運ばれてきた。桐谷はキンカンを、落合は食道モツを頬張り、謎のハイボールをぐいぐいと完全に事務処理的に流し込んだ。もう味はしなかった。
流れ作業にも関わらず、そこはやはり立ち飲みなので次第に脚もふらついてくる。
「パーキンソンだったもんな」
「え」
「パーキン、あれ?バーキンだっけ?」
「バーキンは馬鹿たけえバッグです」
「そう、じゃ違うか。あれだやっぱ、パーキンソンだったもんな?」
「はい?」
「職場のパーキンソンだったもんな?」
「ああそれ多分キーパーソンですよ」
「そうそれ。なのになあ、奴は。奴ときたらよぉ」
「アヤナーミに逢うんだって、しきりに言ってましたね彼」
「うん。だな。ふう。あー。あのーあれ、アヤナーミちゃん達に献杯」
「ケンパーイ」
その後また四杯ずつお代わりをし、くすんだ色のアルミ製の串置きに二十八本の竹串が突き刺さって、チャンジャとパリパリきゅうりの皿は二枚新しく替えられた。
店を出ると、妙に生暖かい風が吹いていて、とても気持ちが悪かった。
桐谷と落合の脚はとうに限界だった。もつれ合い、支え合い、じゃれ合いしながら、ホモップルの様にふたりは歩いた。
「桐谷ぃぃぃ」
「あ?何だコラ」
「何だコラって何だよ」
「ずいまぜん」
「いいか。お前は死ぬなよ。ボロ雑巾になっても、いぎ、イギー、生きぎるんだど」
「あ?」
「だから、あ?って何だよ」
「ずいまぜん」
「桐谷ぃぃぃ」
「あ?」
「絶対にイギー、い、生き抜か、イギー」
「イギー・ポップかよ!?」
「いぎなきゃならないんだ。いいか?この世がどんなに出鱈目な、意味欠落な世界であっでも、胸張って俺だち男の子ちゃん達は、あれだイギー、生き抜かなきゃならな、あそうだこの後ソープ行くかお前?」
「あ!?行く訳ねえだろこの馬鹿ハゲ!!」
途中何度も粘度の高い痰を吐きつつフラフラになって帰宅した桐谷。
玄関で躓いてそのままの勢いでよろけ様に布団へとどっかり倒れる。
枕元にエンディングノートが置かれていた。
「書いてくれ~。書いてくれ~。今日のあらまし書いてくれ~」
と明らかにノートがそう言った。
幻聴じゃなかった。
こうやって人生は、すり減っていく。
⑧2006冬 桐谷と上園
日比谷のホテル。ラウンジ。その一角に設けられたBAR「ル・レジェンド」。午後八時。
カウンター席に座り、桐谷は待っている。
窓外には雪がアスベストの様に降りしきっている。
東京のこの時期の雪としては珍しく激しく静かに清らかに。
桐谷の傍らにはギターケース。テキーラサンライズなんかを注文する。何せロッカーな俺なのだから。
あいつはまだか。
グラスに口を運び、LEONの時のゲイリー・オールドマンをかなり意識して腰を鳴らしてグラスに口をつける真似をした。
待ち遠しい。早く来ないかな。タバコを数本吸う。まだ来ない。
所在なげに何かやるべき事を探す。店内をウロウロした。紫色した洒落た間接照明がバスキアやベン・シャーンのリトグラフを照らしていた。
席に戻り、酒を飲みながらノートに今の気持ちを忌憚(きたん)なく書き付ける。おつまみのピスタチオを食べる。ギターケースを優しく愛撫してモナムーとか言ってみたりする。
バーテンダーが桐谷を一瞥する。
それにしても上園が遅い。まさかこの期(ご)に及んでのドタンバキャンセラーか?
いや、それはない。彼女はきっと現れる。はず。はずなんだ。でなければ彼女の方から今夜この場所を指定してきた意味がないのだ。また一服する。
あれ?俺もうすぐ三十じゃん。No Futureだったのに未来に追いつかれちゃった俺。
上園がやってきた。黒いコート、中に赤のドレス。乳白色の革のブーツ。ショートボブの黒髪。悪目立ちしている。
桐谷はしばらく気付かないでいた。脚から腰、胸へ視線を移し目が合って初めて上園だと認識した。
上園は桐谷のひとつ席を挟んだ所に座った。
「ディタをロックで。いや、ソーダ割りにして?」
「かしこまりました」
若いバーテンダーがボトル棚にゆったりと向かう。スタン、スタンと黒いエナメルの靴音が機能的に鳴る。
緩慢で気だるさは感じさせるが、絶対にミスはしないというプロの動きで。きっと彼の名前は兵頭とかそういった格好良い名前なのだろう。
「久しぶり」
「おう、あん」
「あー寒かったー」
「雪だしな。その格好だと冷えるだろ、脚」
「うん。冷えるよー。こんな降るとは思わなかった。あー私、ホテルのBARって初めて来たよー。ピスタチオ頂戴」
「ああ。でも同じものが来るよ」
「そっか」
「そっち食えよ」
バーテンダーがカウンターに酒の入ったグラスとつまみのピスタチオの小皿を静かに置いた。そしてそれからカランの水を少しだけ出して前の客が食べた後のペンネが乗っていた皿を静かに洗った。
水の、渦巻く音。
音が大事なんだ。
音は、同調すると全てを忘れさせてくれる。
上園はグラスを回して口に含んで喉に通し、香りと味を同時に愉しみながら飲んだ。
「美味しい。あ、つけてんじゃん」
「え」
「ノート。偉いじゃん。見せてよ」
「駄目だよ、これは誰にも見せないって決めたんだ。例えお前でも」
「えーケチー。でも結果関係ない人達が見る事になんじゃん警察とか、あ思い出したあのさ、人間の魂ってさあ重さがあるんだって。五グラム。死ぬ前と死んだ後だと体重が五グラム減るらしいよ。軽いよね、ちょうどこれぐらいじゃない?」
上園はそう言ってピスタチオを三粒手に取った。
「あ、ちょっと重いか」
ひとつ皿に戻した。
「かる」
「軽いか重いかは意見が分かれるとこだな」
「え何それ一般論?」
「え?」
「一般論私嫌い。ねー魂ってさあ何色?」
「え。あー。玉虫色じゃないか。魂だから」
「どんな色、何それ」
「何かウジャウジャしてる変な。色」
桐谷のグラスが空になった。お代わりはしない。
「エモノは持ってきてくれたの?」
「ああ。このギターケースの中にある」
バール。
解体用ハンマー。
電動ノコギリ。
「お代わり頼もうかな」
「あんま飲むなよ」
「何で」
「判断が鈍るだろ」
「ブッ、ふざけ。じゃあわざわざこんな格好で来ないよ」
「最初分かんなかった。タイのオカマかと思った」
「ぶげあ。あふあ。や、一応あれです、パルプの時のユマ・サーマン意識してみたんですけど」
「ふーん」
「あなたのそういう態度の奴。好き」
「やめろよ」
「え」
「好きとかやめろよ」
「うっほほーい」
「分かんないからやめろよ好きとか」
「……うっほほーい」
バーテンダーは出来るだけ話を聞かない様にしている。
「あー。ハイハイー。でしたでしたー。ああ。ちなみに私はこれを持ってきたんだけどね」
上園はコートの内ポケットからミニサイズの硝子瓶を取り出した。落としそうになって少し慌ててキャッチする。
「うおやっべ最近指紋ねえ」
小瓶はカウンターに置かれた。まだらな色の液体が中に詰まっていた。
「これです」
「ああこれだよ」
「え」
「玉虫色こんな色」
「そうなんだぁ。ああ、これ魂の色なんだぁ」
上園は小瓶を自分の目線近くまで持って行き愛おしげに回した。
宝物みたく。
「何入ってんの?」
「塩化メチル水銀」
「名前聞いただけで効きそうだな」
「バッチリだよ。この量でパンダ一頭死ぬから」
「かわいそうだろ」
「え?」
「パンダだとかわいそうだろ。熊一頭とかにしとけよ」
「うっせーな。ああ飲みやすくする為に蜂蜜入れといたよ」
「アスパルテームじゃなく?」
「えあ?何だっけそれ」
硝子の小瓶を手を伸ばして受け取る桐谷。じっとそれを見つめる。上園に視線を戻す。
彼女はアルカイックに微笑んでいる。
無邪気で、哀切的で、抱き締めたら多分壊れるほど、脆い。桐谷にはそれがどうしても耐えられなかった。
この饒舌が、永遠に続けばいいとさえ思った。
「なあ……。なあ本当に俺なんかでいいのか?俺なんかで。俺は、俺は感情とか理解出来ない化け物なんだ!自意識だけが肥大した生き物なんだ…よく考えてみろよ。俺、俺なんかで……」
「……うん。あなたじゃないと駄目なんだぁ」
「未来を台無しにしてもいいのか?その相手が俺なんかで本当にいいのか?」
「うん。あなたの代わりは、いないんだぁ。それに未来なんか」
上園は瞳を濡らした。
「未来なんか。もうないじゃん」
「……。そっか」
「そうだよ」
いつの間にか店内のBGMがエリック・サティの「梨の形をした三つの小品」に変わっていた。
「良いなこの曲」
「そう?ちょっとすかしてない?ホテルカリフォルニアの方が良かったな。あれさ、歌詞的には何だっけ?あれだ。いつでもチェックイン出来ますよー、いつでも出て行って良いですよ、でも決してチェックアウトは出来ないんだよね。ピッタリじゃんなんか」
「え。ああ」
「え。怖くなったの?」
……。上園は能面の様な顔で桐谷を睨んだ。曲が止んだ。
「そろそろ行く?何号室?」
「1313号室」
「ぶげあ。不吉で良いじゃん。部屋から見えんじゃない?雪。雪と夜景見ながらにしようよ」
「ああ」
BARでの支払いを済ませ、エレベーターに二人は乗り込む。革靴とヒール。
「……」
「……」
「今度はもうどこにも行かないでね?」
「え。ああ」
「好きだよ。桐谷」
「やめろよ。それ」
「やめない。これ」
エレベーターは十三階へと昇って行く。
その起動音だけが、
ただ、
ただ、
ただ、
ゴァイィイィイィイィイィンと鐘の音の様に聴こえる。
こうやって人生は、
END
(2006年4月執筆の初稿を改稿して、今回タイミングを見計らって発表致しました。でも絶対に自殺を幇助したり、推奨したり、助長する作品では全くありません。むしろ逆です。人生が続く限り、強くても、弱くても、生きて下さい!)
エンディングの音(後編)
小説のラストにも書き記しましたが、どんなにココロ虚しくぽっかり大きな穴が開いても、打開策はきっとあるはず。
この小説のモデルとなった2006年の日本よりも、現代はみすぼらしく虚しさを感じる国になってしまいましたが、強く弱く生きて行きましょう。
エンジェルダストの主任の落合も言ってましたよね。
「生きて、イギー、生き抜かなきゃ!」
まさにそれです。
ではまた明日。