キラとレグル
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水汲み
キラは誰よりも早く目が覚めた。母のマナナと祖母のタカはまだ寝ている。父のハイクはキラが幼い時に流行り病で亡くなった。以来キラは母と祖母との三人暮らしである。マナナは最近体調が悪く臥せっているため、水汲みと祖母の家事を手伝うのがキラの仕事だった。キラは今年で一六になるが、学校へは行っていない。そもそもこのカラルの村には学校など無いのだ。
キラはベッドを抜け出して着替えると、桶に汲んである水で顔を洗った。小さな鏡に映った顔を見る。黄褐色の肌に母親譲りのエメラルドグリーンの大きな瞳。長い黒髪を三つ編みに編むと、台所に置いてある大きな木のバケツを持って家を出た。
外はまだ薄暗かった。カラルは砂漠のオアシスを囲むように出来た村である。砂漠の朝の空気はひんやりと冷たい。青藍色の空に白い星がまだ残っていた。地平線の彼方に、うっすらと日の出の光が差し始める。キラはオアシスへたどり着き、ほの暗い水を覗き込んだ。鏡のように静かな水面に、キラの顔が映る。その顔の後ろから、もう一つの顔が現れた。キラの隣に住む、幼なじみのナジャである。キラと同じ黄褐色の肌にコバルト色の瞳をして、赤褐色の髪をポニーテールにしていた。
「お早う。今日も寒いね」
ナジャはキラに笑いかけた。
「お早う。そうね。でもすぐ暑くなるから」
キラも笑う。
「お母さんの具合はどう?」
「うん。あんまり良くない」
「そう。家の畑でトマトが食べ頃なの。後で持っていくから」
「ありがとう。よし、水汲みしようか!」
「うん!」
キラとナジャは一緒に水を汲んでは台所の大瓶まで運び、また汲んでは運んだ。水を入れたバケツは重くて、少女の労働としてはきつかったが、毎日の事で慣れていた。他の村人達も次々に水を汲みに来た。その間に日はどんどん登り、日干し煉瓦で作られた家をクリーム色に浮かび上がらせた。紺碧の空に黄土色の砂と岩。クリーム色の家々に、畑の土色と牧草地のダックグリーン。それにオアシスのスカイブルーが、村の色彩だった。人々はそれぞれ畑で野菜を育てたり、羊を放牧したりしながら自給自足の生活を送っていた。金銭的には皆恵まれているとは言えないが、それでも少しでも富める者は、貧しい者に分け与えるのが村の掟だ。だから、男手の無いキラの家も、何とかやっていく事が出来た。
ナジャの話
水を汲み終わる頃には、タカが起きてきて、台所で小麦を練っていた。釜で焼いて薄焼きのパンを作るのだ。キラは鍋を火にかける。ニンニクと玉ねぎをを細かく刻み、羊肉を一口大に切り分ける。鍋に油を敷き、食材を炒めたら水を入れてグツグツと煮る。月桂樹の葉を入れて一煮立ちしたら、塩と胡椒で味付けだ。羊肉のスープの出来上がりである。
パンが焼き上がり、キラはマナナを起こしに行った。
「あら、もう出来たの? 今日は速いのね」
マナナは少し咳き込むと、ゆっくりとベッドから起き上がり、顔を洗うと長い髪を一つに縛って、台所へやって来た。焼きたてのパンとスープの香ばしい匂いが皆の鼻孔をくすぐる。
「じゃあ、頂こうかね」
タカがスープにスプーンを入れるのが食事の合図だ。水汲みをしてお腹がペコペコだったキラは、待ってましたとばかりにスープを掻き込んだ。
「これ、そんな風にがっつくんじゃないよ。ゆっくり味わって頂きなさい」
タカがたしなめる。キラはエヘヘ、と笑ってパンをちぎった。
「後でナジャがトマトを持ってきてくれるって」
「まあ、いつも有り難いわねえ。良い友達を持ったわね」
マナナが咳き込みながら言う。
「うん。ナジャは良い娘よ」
食事が終わり、キラが後片付けをしていると、ナジャがやって来た。
「今日は! トマトを持ってきました」
ナジャはザル一杯のトマトを抱えていた。
「有り難う」
キラがトマトを受け取る。
「ナジャちゃん、上がってコーヒー飲んでいきなさい!」
タカは台所から叫ぶと、お湯を沸かし始めた。
「お邪魔します」
ナジャは家へ上がって、居間のソファーに腰掛ける。キラも、台所のテーブルにトマトを置くと、ナジャの向かいに腰掛けた。
「いつも有り難うね」
「良いのよ、お互い様だから。それより、キラはウルの街って知ってる?」
「ウルの街?」
「そうよ。砂漠の向こうにある街ですって。この間、父さんの友達のレビが街へ行ってきたんだって」
「街へ行って、何をするの?」
「レビの家の窓ガラスが割れてね。村じゃ新しいガラスは手に入らないから、ウルの街へ行って、働いてお金を貯めて、ガラスを買ったんだって」
「ふーん」
キラは街を想像してみた。だがサッパリ何も思い浮かばなかった。当然と言えば当然である。キラは生まれてこの方、この砂漠の村しか知らないのだから。
「コーヒーお待ちどう」
タカがコーヒーを運んできた。
「有り難う。頂きます」
ナジャはコーヒーを一口啜ると、話を続けた。
「街にはそれは色んな物が沢山あって、お医者さんも居るんだって」
「お医者さん?」
「病気の人を治す仕事の人よ」
「シャーマンとは違うの?」
「違うらしいわ。薬とかを使って病気を治すんだって。シャーマンより効くって話よ。お医者に診てもらえば、キラのお母さんだって治るかもよ」
キラは少し考え込んだ。確かに、シャーマンではマナナは治せなかった。
「そのお医者に診てもらうにはどうすれば良いの?」
「街では何をするにもお金が必要なんだって。だから、レビみたいに街で働いて、沢山お金を手に入れれば、それでお医者に診てもらえるわ」
「ウルの街かあ……」
キラは呟いてコーヒーを飲んだ。
ナジャが帰ると、入れ違いにダンがやって来た。ダンは父親のガナルと羊の放牧をしている少年だ。良く日に焼けた褐色の肌に、短く刈り込んだ黒い髪、薄茶色の活発そうな目をしている。
「今日は~。羊肉どうぞ」
ダンは羊の脚を肩に担いでいた。
「あら、ダン。有り難う。でもこんなに沢山、良いの?」
キラは羊の脚を受け取りに玄関まで出てきた。
「良いんだ。一頭解体したんだけど、家じゃ食べきれないしね」
「そう。じゃあ有り難く頂くわ」
「そうしてよ。明日は父さんと羊の毛刈りさ」
「毛刈り………。ね、良かったら、肉のお礼に私に毛刈りを手伝わせてくれない?」
「うん。それは助かるな。父さんに言っておくよ。昼からやるから」
「分かったわ」
ダンは肉を渡すと帰って行った。
その日の夜、キラはベッドに潜り込んで、昼間ナジャが言っていた事を思い返していた。
「ウルの街には色んな物があって、お医者がいて……」
呟きながら窓から空を眺める。暗い空に無数の星が瞬いていた。この同じ空の下にキラが見たこともない街が存在しているのだ。母さんをお医者に診てもらうために、街へ行って働く、そんな考えが何度も頭を巡った。それは良い事の様に思えたし、ウルの街とやらをこの目で見てみたい、という思いにも駈られた。それはワクワクする事だった。だがどうやって街まで行けば良いのだろう? 大体街まではどれくらいかかるのか? 仕事と言っても、何をどうすればいいのだろう? 様々な疑問が沸いてきた。
あれこれ考えながら、キラは眠りに落ちていった。
毛刈り
明くる日の昼、キラはガナルの羊小屋に居た。柵で囲われた大勢の羊達。若い羊達はそわそわと落ち着きがなかった。皆何をされるのか、と戦いているのである。年配の羊達は慣れたもので、落ち着き払っていた。毛を刈られる事も、刈られたところでどうという事も無い事も分かっているのだ。
「じゃあ、キラ、俺が手本を見せるから、同じようにダンとやってくれ」
ガナルはそう言うと、一頭の大きな羊の前足を掴んで仰向けにし、ズルズルと引き摺ってきた。初めのうちこそ暴れていた羊も、引き摺って来られると観念したように大人しくなった。ガナルはバリカンで後ろ足から毛を刈り始めた。まるで毛皮のコートを脱いでいくかの様に毛が刈られてゆく。もっとも、ここにいる誰も毛皮のコートなど見た事も無いのだが。
丸々一頭毛を刈ると、ダンは
「良し。じゃあやってくれ」
と二人を促した。ダンとキラは柵へ入って、それぞれ羊を掴み、引き摺って来た。ガナルと同じように毛を刈ってゆく。ダンはもう何度も父親の手伝いをしているので、手慣れたものだった。キラは上手くバリカンを扱えずに四苦八苦していた。中々ガナルたちのようにスルスルと刈れない。毛の中でバリカンの歯が引っ掛かり、上手く進めなかった。
「おいおい、何だ、そのバリカンの使い方は」
ガナルが大声を上げて笑う。ダンもニヤニヤしている。
ちょっと恥ずかしく、悔しくもあったキラだったが、やっているうちに段々上手くなっていった。
毛を刈りながら、キラはダンに話しかけた。
「ねえ、ウルの街ってどんな所かしら?」
「ウルの街? さあ、僕にはよく分からないよ。行ったこと無いし。どうして?」
「うん……。私、街へ出て働こうかと思うの」
「働く? 何だってまたそんなことを? 村の暮らしに不満でも有るの?」
ダンは驚いた声を上げて聞いた。
「いいえ、村に不満は無いわ。でも、母さんの病気を街のお医者に診てもらいたいのよ。そのためには沢山お金が必要だって聞いたわ」
「母さんのためか……。うーん、分かった。僕村長に話してみるよ」
「有り難う」
その日、ダンとキラは羊を刈り続けた。
夕食中、キラはずっと黙っていた。不思議に思ったマナナが、
「キラ、ダンのところで何かあったの?」
と聞いてみた。キラは首を振って、
「ううん。そうじゃなくて、私、ウルの街へ働きに行こうと思うの」
と答えた。マナナは顔を曇らせる。
「街だなんて。この家が嫌なのかい?」
「大好きよ。この家も皆の事も。でも、母さんの病気を街のお医者に診てもらうために、沢山のお金が必要なんだって」
「そんな……。私は別にそこまでして医者に診てもらわなくても。それに、街は危険なところだって聞いたわ」
「うん……」
キラは俯いた。二人のやり取りを黙って聞いていたタカが口を開いた。
「まあ、良い機会かも知れないよ。お前の具合は悪くなる一方なんだし、この子だってそろそろ大人だ。思いきって外の世界を知ることも必要かもしれない」
「そうかしらね?」
「私、ダンに話したの。そしたら、ダンが村長さんに話してくれるって」
「そう」
それから三人は無言で食事を済ませた。
集会
村長のハリルは広場に村人を召集した。ダンからキラの事を聞いたからだ。この村では、富めるものは貧しいものを助けなければならない、という掟以外は自由である。心配が無いわけではないが、ハリルは何よりキラの意思を尊重することにしたのだった。集まった村人に向かってハリルは語りかけた。
「皆の衆、今日はよく集まってくれた。今日集まってもらったのは、タカの孫でありマナナの娘であるキラの事でだ。キラは病気の母をウルの街の医者に診せるために、金を稼ぎに街へ行きたいと申しておる。母を治したいキラの気持ちはもっともであるし、街の医者にかかるには大金が必要でもある。ワシとしては、村の皆で協力して、キラをウルの街へ送り出してやりたいと思うのだが、どうだろうか?」
村人はお互いに顔を見合わせた。一人が声を上げた。
「俺は村長に賛成だ。キラの母親を思う気持ちには応えてやりたい。皆だってそう思うだろう?」
ざわめく広場。
「賛成!」
「意義なし!」
次々に声が上がった。
「よろしい。ついては、街までの移動を考えなければならん。ラクダのキャラバン隊に頼んではどうかと思っておる。幾ばくかの金と、足りない分は食料で何とかしてくれるはずじゃ。皆で出し合って欲しい」
村は急に活気づいた。皆で協力してあの貧乏だが可愛らしい娘を街へ送り出してやるのだ。ここが善意の見せ所、とばかりに村人たちは次々に僅かばかりの金やら、備蓄してあった食料やら、衣服やらを出し合った。あっという間に、キャラバン隊に支払う分と、道中の食糧が集まった。
午後になって、キラがオアシスを眺めていると、ナジャとダンがやって来た。
「餞別だ。これを着ていけよ」
ダンは羊の毛で造ったフェルトの砂よけのマントと、羊の皮で造ったロングブーツを差し出した。
「私からはこれよ」
ナジャはナツメ椰子の種で造った御守りをキラの首に掛けた。
「いつもキラの無事を祈ってるから。街へ行っても、私達の事忘れないでね」
「うん。忘れるわけがないわ。母さんの事頼むわね」
「それは任せておいて」
三人は固く抱き合った。
出発
出発の日の朝。キラはダンに貰ったサンドベージュのマントと、ビスケット色のブーツを身につけた。首からナジャに貰った御守りを下げ、干し肉や乾燥野菜を詰めた袋を背負う。羊の胃袋で出来た水筒を肩から下げて、居間へ行くと、マナナとタカが待っていた。
「気を付けて行くんだよ」
タカがマントを直しながら言う。マナナは無言で目に涙を溜めていた。
「じゃあ、行ってくるから」
キラは二人を抱き締めると家を出た。朝日が村を鮮やかに輝かせている。この美しい村ともしばらくお別れだ。キラは未知なる冒険への期待感と、不安を胸に村の外れまで歩いた。
村外れには八頭のラクダのキャラバン隊が待機していた。その回りを村長をはじめ、大勢の村人が取り囲んでいる。キラが到着すると、皆口々に激励の言葉を送り、抱き締めた。ダンとナジャが抱きついた。
「頑張れよ!」
「うん! 行ってくるね!」
キラはニッコリ笑って、二人を抱き留めた。
「皆さん。見送り有り難う。行ってきます」
そう告げるとキラはキャラバン隊へと向かった。隊長とおぼしきターバンを巻いた男が挨拶した。
「私はキャラバン隊の隊長のマーニーだ。話は村長から聞いているよ。無事ウルまで送り届けてやるから心配するな。こっちの背の高いのがビランで、低いのがチトだ。よろしくな」
「私はキラよ。よろしくお願いします」
「よし、ではラクダに乗って」
キラは案内されるままに座り込んでいる一頭のラクダの背に乗った。ラクダの背中にはクッションで出来た鞍が装着されている。キラを乗せるとラクダは立ち上がった。
マーニーのラクダを先頭にして、キャラバン隊は出発した。間にチト、キラと続き、殿はビランだった。人を乗せていないラクダには荷物が括り着けてある。ウルの街へ届ける交易品と、道中の必需品だ。
ラクダはマーニーに従って、ゆっくりと歩を進めた。村の外は砂漠を渡る風が吹き流れ、それに合わせて足元の砂が更々と流れる。進行方向には抜けるような青い空と黄土色の砂と、点在する岩山以外何も無かった。この茫漠たる砂漠の、どこをどう通ればウルの街へ辿り着くのか、キラにはサッパリ分からなかった。キラは後ろを振り返って見た。砂の向こうに小さく村が見える。私本当に旅に出たんだわ、と少し不安になった。
ドラゴン座
途中休憩を入れながら、夕方までキャラバン隊は歩き続けた。日が地平線に近付き、広大な空をオレンジ色と金色に染める。キラはいい加減お尻が痛くて、ジリジリしていた。マーニーはラクダを止めると後ろを向いて、
「よし! 今日はここにテントを張るぞ! 皆降りてくれ!」
と叫んだ。三人はラクダから降りて、テントを積んであるラクダの周りに群がった。チトが荷を解いて、キラがテントの支柱を運ぶ。
「この辺りで良いかしら?」
キラは支柱を持ってビランに話しかけた。
「良いと思うぞ。深く砂に埋めてくれ」
キラは思い切り支柱を砂に埋め込んだ。テントは一本の支柱で布を支えるワンポールテントである。ヤギの毛で織った白い三角形の布を六枚繋ぎ合わせて、六角錐の形に縫ってある。ビランとチトが支柱に布を掛けた。六つの角にそれぞれ紐が付いている。紐を小枝に結びつけて、砂に刺した。中にゴザを敷き、その上に青い絨毯を敷く。就寝用の毛布を隅に置いた。
「以外と簡単ね」
キラは満足そうにテントを眺めた。
「次は食事の準備だ。火を起こしてくれ」
マーニーは弓ぎり式の火起こし器をキラに渡した。キラは小枝と鉄の棒で鍋を吊る装置を組み立てて砂に刺した。板にナイフで窪みを掘り、弓の弦を棒に巻き付けて、棒を窪みの上にに立たせる。乾燥した草を根本に置いて板を足で踏み、棒の上に窪みの付いた小さな板を嵌めて手で抑えた。弓を前後にスライドさせると、クルクルと速い速度で棒が回る。勢い良く棒を回すと、摩擦熱で棒と板の間から煙が上がった。火種が草に燃え移る。キラは風で火が消えないように注意しながら、火を薪に燃え移らせた。
「中々上手いじゃないか」
マーニーはヤギの皮で出来た水筒……と言うより袋から鍋に水を入れると、羊の干し肉と乾燥野菜を浮かべて火の上に鍋を釣りながら言った。
「家で火を起こす時もこれ使っていたから」
キラは笑う。
「そうか。荷物の中に焼きしめたパンとお椀とスプーンが有るから、出しておいてくれ」
「分かったわ」
日も落ちた頃、四人は車座になって火を囲み、食事をした。パンにスープと、普段家で食べている物とそれほど違いは無かったが、長い移動の後、砂漠のど真ん中で食べるそれは格別だった。
「今まで食べてきたスープの中で、一番美味しいかも知れないわ」
キラはホクホクしながらスープを飲んだ。
「そうだろう。砂漠でする食事は最高さ! 街の奴等は俺達を野蛮人と蔑むけど、俺は砂漠が好きだぜ。星だって眺められるしな」
チトは天を指差した。上に目をやると、黒いビロードの様な空に満天の星が輝いている。余りに星の数が多いので、夜であるにも関わらず、辺りが明るく感じられた。
「あれは巨人座さ」
ビランが指差して、星を人の形に結んだ。
「その隣がラクダ座で、その上に有るのが蠍座だ」
キラはワクワクしながら星座の形を指でなぞった。星座等というものが有るとは今まで知らなかった。
「だが、我々にとって一番大事なのはあのドラゴン座だ」
マーニーがドラゴンの形に星を結ぶ。
「ドラゴン座?」
「そうだ。あの青い星がドラゴンの目だ。あの赤いのは心臓だ。目と心臓を結んだ線を五倍すると、天の南極に辿り着く。天の南極はいつも変わらないから、旅の目印になるんだ」
「ふーん。でもドラゴン座なんて変ね?」
「何故だ?」
「だって、巨人はもしかしたら居るかも知れないけど、ドラゴンなんて本当に居るのかしら?」
「私は見たことは無いが、噂では居るって話だぞ。大きな戦が起きると現れるとか」
「戦……。じゃあ、ドラゴンなんて見ないに越したことは無いのね」
キラは星座を見ながら呟いた。
「そうかもな。よし、明日も朝早くから出発するんだ。片付けて寝よう」
マーニーはスープを飲み干すと立ち上がった。
サソリ
村を出て三日目の早朝。キラはテントの中で目を覚ました。もう見慣れたテントの白い天井が目に入る。だが何かがおかしい。さっきから頬っぺたがモゾモゾと痒いのだ。何かの動く異物がキラの目にボヤけて映った。段々と焦点が合うと……サソリだ! 艶やかな飴色をしたサソリは尻尾を振り上げ、キチキチと体を揺らしている。
「マーニー!」
キラは恐怖で身動き出来ずに叫んだ。マーニーは直ぐに目を覚ますとキラの元へと忍び寄り、素早くサソリを捕まえると、ガラス瓶の中へ入れた。
「大丈夫か?」
「ええ、まだ刺されてはいないわ。それ、どうするの?」
「これはな、こうして……」
言いながらマーニーは瓶にウォッカをなみなみと注いで、蓋をした。
「サソリ酒にするんだ」
「サソリ酒?」
「滋養強壮に良いんだぞ」
「どうした?」
ビランが目を覚ました。チトはこの騒ぎにもびくともせず眠っている。
「サソリだ。捕まえて、瓶詰めにしたよ」
マーニーは瓶に入ったサソリをビランに見せた。
「こいつは……。猛毒の奴だな。大丈夫か?」
「大丈夫だ。誰も刺されてない。キラの顔の上に居たんだ」
「ほう。サソリも美人がお好みなのかね?」
ビランがキラを見て笑った。
「サソリにモテても嬉しくないわ」
キラは頬を膨らますと、毛布を畳み始めた。
チトを起こして朝食を摂ると、ニームの木の小枝で歯磨きをした。小枝の先の皮を薄く剥ぎ、歯で噛み砕いてブラシ状にして磨くのだ。木の樹液が天然の歯磨き粉の役割をしていた。
テントを畳むとキャラバン隊は出発した。キラはラクダの上から周囲をぐるりと見渡した。この辺りは僅かだが木や植物が生えている。焼け付く褐色の大地に緑が安らぎを与えていた。ふいに茂みから黄金色の塊が飛び出して、キャラバン隊の前を猛スピードで横切って行った。
「マーニー! 今のは何?」
キラは叫んだ。
「砂ギツネだ! すばしこいから、罠でも使わなければ捕まえられないし、食っても不味いぞ」
「別に食べたい訳じゃないわ。砂漠って不毛の地だと思っていたけど、動物も居るのね」
キラは砂ギツネの走り去った方を見詰めながら呟いた。
井戸
昼過ぎ、一行は小さなつるべ式の井戸に辿り着いた。粘土質の地面に深い穴が掘られており、周囲を石で囲ってある。隣に家畜用の大きな水飲み桶が設置してあった。
「よし。着いたな。今日はここで水を補充していくぞ。ラクダ達にも水を飲ませるんだ」
マーニーはラクダを降りて指示を出した。チトがつるべを井戸に落とし、ガラガラと引き上げる。水の一杯入ったつるべをビランが受け取って、隣の水飲み桶に開けた。
炎天下、延々二十回もつるべを引き上げ、水飲み桶を一杯にした。マーニーはラクダ達を連れてくると、水を飲ませる。ラクダ達は言われるまでもなく、嬉しそうに水を飲んだ。次は人間用である。
今度はビランがつるべを引き上げた。マーニーは荷物からヤギの皮で出来た大きな袋を四つ下ろして、漏斗をキラに渡す。
「これを袋の口に差して、押さえていてくれ」
チトが受け取ったつるべから漏斗に水を注ぐ。四つの袋が満タンになると、それぞれ個人用の水筒に水を入れた。
「砂漠の真ん中に井戸が有るだなんて、想像していなかったわ」
キラは水を一口飲んで言った。
「この辺りは地下水脈が通っているのさ。だから地上にも植物が生える。昔から我々キャラバン隊の給水基地だ」
マーニーはラクダの首を撫でながら答えた。
「他にも給水基地はあるのかしら?」
「勿論だ。キャラバンのルートは給水基地を辿るように出来ている。どれだけ給水基地を把握しているかで、優秀な隊長かどうかが決まると言っても良い」
「じゃあ、水の心配はしなくて良いのね」
「井戸が枯れない限りはな」
「じゃあ、お前たちも安心ね」
キラはラクダの鼻面を優しく撫でた。
「ブヒィーン!」
ラクダがぎこちなく鳴いて、首を振る。
「それは駄目だぜ。ラクダは鼻面とか頬とかに触られるのを嫌がるんだ」
チトはラクダに近寄り、
「ラクダはほら、こんな風に首とか脇腹を撫でてやるのさ」
言いながら脇腹を撫でた。
「そうなの。知らなかったわ」
キラは言われた通り脇腹を撫でた。ラクダは気持ち良さそうに目を細めた。
人心地付いたキラは、周囲を見渡した。井戸の向こうに、何かキラキラと光る塊がある。不思議に思って近づいてみると、大きな薔薇の花の形をした鉱石だった。まるで砂糖でコーティングされているかの様に、表面に砂が着いている。
「ねえ! これは何かしら?」
キラはマーニーに向かって叫んだ。マーニーはキラの所へ歩いていって塊を見た。
「これは『砂漠の薔薇』だ。ミネラルが固まって出来るのさ。水の有る所に良く出来る。街では高値で取引されているから、持っていって売ると良い」
「綺麗な石ね」
キラは袋を持ってきて、砂漠のバラを詰めた。
砂嵐
村を出て六日目。もうすっかり砂漠にも慣れたキラは、余裕の面持ちでラクダに揺られていた。風景は再び砂だらけの景色へと変わっていた。風に煽られて出来た巨大な小山のような砂丘が、まるで大波のようにうねっている。文字通り、広い青空と大量の褐色の砂以外何もなかった。生命の気配はキラ達だけだった。こんなところに一日でも一人で居れば、気が狂うのではないかと思われた。
「まるでこの世の果てね」
余りの広大さと何も無さに、キラは思わず呟いた。
ずっと晴天が続いていたが、遠くの空が茶色く濁っているのが見えた。
「雨でも降っているのかしら?」
キラは呑気に考えた。
「皆ラクダを降りろ!」
マーニーが叫んだ。マーニーはラクダを円形に並んで座らせると、
「砂嵐だ。皆でラクダの円陣の中に入って、座るんだ」
と皆を集めた。キラも座り込むと、
「通りすぎるのを待つしかない。嵐が来たら、目と口をとじてじっとしているんだぞ」
とマーニーは肩を叩いた。砂嵐はもうそこまで迫っている。大気が薄茶色に染まり、風が唸りを上げていた。キラの胸はドキドキし始めた。心臓の音が外にまで響くのではないかと思われた。遂に恐ろしい勢いで強風が砂を巻き上げ、キラ達を襲った。豪々と風が吹き付ける。細かい砂粒が顔を叩き付けるので、ヒリヒリと傷んだ。言われた通り目を閉じ、口をつぐんだキラは、生きた心地がしなかった。ひたすらじっと耐えていると、コンッと何かがキラの体に当たった。痛くはなかったが、不思議に思って手探りでそれを掴み、嵐が通りすぎるのを待った。
「もう目を開けて良いぞ」
マーニーがキラの肩を揺すった。嵐は通りすぎていた。キラは先程の何かを改めて見てみた。それは巨大な香色の鱗の様だった。砂漠に鱗? キラは首を傾げた。
「マーニー。これは何かしら?」
キラはマーニーにそれを見せた。
「ふーむ。鱗の様だが、こんなに大きな物は私も見たことが無いな。まあ、珍しいものには違いないから、大事に取っておくと良い」
キラはポケットにそれをしまった。
到着
村を出発して十日目の昼過ぎ。辺りには小麦畑が広がっていた。
「こんなに大きな小麦畑、初めて見たわ」
キラは驚きと共に周囲を眺めた。黄金色の海の様に、小麦が風に揺られて波打っている。遠くに城壁で囲われた街が見えた。
「あれがウルの街だ」
マーニーが指差した。キラは期待に胸をときめかせた。いよいよウルの街へ到着するのだ。
近付いてみると、予想以上に街は大きかった。見上げるような日干し煉瓦の城壁が街を取り囲んでいる。一行は西の門から街へと入った。通りを少し進むと、活気溢れるバザールの色彩の洪水がキラを襲った。緋色や碧や黄色の絨毯、銀食器のきらびやかな輝き、細かな金色の刺繍を施した紫色の衣装……。初めて見る色とりどりの商品に、キラは軽く目眩を覚えた。
「凄いわ! こんなに沢山の商品があるなんて」
興奮して辺りをキョロキョロと見回す。
「私達はここのバザールで商品の取引をする。ここでお別れだ、キラ」
マーニーはラクダを降りた。三人もラクダを降りた。
「今まで有り難う。お陰で無事にウルの街に辿り着けたわ」
「何、荷を運ぶついでだからな。大した手間でも無かったさ」
ビランが笑った。
「俺は、キラと一緒で楽しかったぜ」
チトがキラの背中を叩いた。
「私達は二ヶ月おきにウルの街まで来るんだ。街には三日滞在する。帰りも送ってやっても良いから、カラルへ帰る時期になったら、タイミングを見計らってこのバザールへ来れば、私達を見付けられる」
「分かったわ」
キラは三人と握手して別れた。
「そうだわ。砂漠の薔薇!」
キラは砂漠の薔薇を買ってくれそうな店を探してバザールを歩き回った。通りを歩いている中年の女性に声を掛ける。
「すみません。砂漠の薔薇を店に売りたいんだけど、何処に行けば取り扱っていますか?」
女性は全身砂だらけのキラを見て、一瞬顔をしかめたが、
「ああ、そういう物なら、この先の宝石店で取り扱っているね」
と教えてくれた。
キラは、宝石店を見付けて入ってみた。店頭に磨き抜かれた宝石や、鉱石が並んでいる。
「今日は~」
「いらっしゃいませ……って、何だ。ここはお前の様な奴が来る店じゃないぞ。店の信用に関わる。帰った、帰った!」
店主はキラを見るとさも汚い物でも見るような目付きで追い払おうとした。
「いえ、あの……。私はお客じゃないんです。これを買って頂けないかと思って」
キラは袋から砂漠の薔薇を取り出した。
「おやおや、これはこれは……。ふむ。上物じゃないか。そういう事なら良いんだ。うちで買わせてもらうよ。五万ペタでどうかね?」
「良く分からないから、お任せするわ」
「よろしい。五万ペタで買わせてもらうよ」
店主はニコニコしながらお金を手渡した。
「有り難う」
キラはニンマリ笑って店を後にした。
公衆浴場
キラは仕事を探すことにした。だが、どうして良いか分からない。道行く中年男性に話しかけてみた。
「すみません。仕事を探しているんですけど、何処に行けば見つかりますか?」
「ああ、それなら中央広場に行けば、求人の立て看板があるよ。でも、その成りじゃあね……。広場に公衆浴場が隣接しているから、先ずは風呂に入って砂を落とすことだね」
「有り難う」
キラは改めて自分の姿を見てみた。確かに全身砂だらけだ。キラはバザールを抜けて、中央広場へと向かった。
日干し煉瓦で出来た三階建ての四角い建物が並ぶ通りを歩く。村では三階どころか二階建ての建物すら見たことが無かった。キラは感心して建物を眺めながら歩いた。通りを抜けると円形の広場に出た。広場の周りはレストランやカフェがひしめき合っている。一際大きな建物が目を引いた。
「きっとあれね」
キラは広場に溢れる人を掻き分けて、公衆浴場へ向かって歩き出した。アーチ型の入り口を入ると、受け付けに若い女性が立っている。そうだったわ、街では何でもお金が必要なんだった。キラは宝石店で受け取った巾着を出して聞いた。
「幾らで入れますか?」
「六百ペタになります。石鹸と海綿は御入り用ですか?」
「石鹸って、何ですか?」
女性は呆れた顔をして、
「あなた、一体何処から来たの? 石鹸は体を洗うのに使うのよ。海綿に擦り付けて、泡立てて洗うの」
と言ってため息をついた。
「はあ。じゃあ、その石鹸と海綿も下さい」
「百ペタ追加よ」
キラはお金を支払うと、脱衣場へ入った。服を脱ぐと、ポロポロと砂がこぼれ落ちる。服を籠に入れ、お金の入った巾着と、石鹸と海綿を持って浴室のドアを開けた。
灰色の石で作られた広い浴室には、二十人程の女性達が、それぞれ体を洗ったり、水風呂に浸かったりしていた。キラは初めて見る大きな水風呂に驚いた。村では水は貴重だったため、水に濡らした手拭いで体を拭くか、砂風呂に入るかしかしたことが無かったのだ。キラは桶を掴んで浴槽から水を組むと、海綿を浸した。言われた通り石鹸を擦り付けて泡立てる。オリーブの匂いが漂った。泡で体を洗うと、みるみる汚れが落ちていった。
「凄いわ。こんな便利な物が有ったなんて」
キラは頭の先から足の先まで石鹸で洗うと、桶の水で泡をすすいだ。体を綺麗にしたところで、水風呂に入ってみる。冷たさに一瞬怯んだが、思いきってドボン、と入ってみた。冷水の刺激に身が縮む。慣れてくると、水の冷たさがかえって気持ちが良かった。
「あんた、何処の出身だね? 街の人じゃないね」
さっきからチラチラとキラを目で追っていた、太った中年女性が声をかけた。白い肌に丸いライトブルーの瞳をしている。髪は明るい栗色だった。
「カラルの村よ」
「カラル? 聞いたことないねえ」
「砂漠の向こうの小さなオアシスの村なの」
「そうかね。そんな辺鄙な所から来たんじゃ、色々大変だろうね。街ではどの辺りに住んでいるんだい?」
「着いたばかりで、まだ決まっていないの」
「良かったら、家に住むかい? もちろん部屋代は払ってもらうけどね。一月一万ペタでどうかね?」
「じゃあ、そうさせてもらおうかしら?」
「決まりだね。私ゃペトラだ。風呂から上がったら、付いておいで」
「私はキラよ」
「キラか。良い名前だね」
ペトラは豪快に笑った。
仕事探し
風呂から上がると、キラはペトラに付いていった。広場から細い通りを少し入った所にペトラの家はあった。一階が食料倉庫や物置で、二階が居住区だった。三階の部屋がキラに割り当てられた。
部屋に入ってみると、剥き出しの日干し煉瓦の壁際に木製のベッドが置いてあり、その隣にやはり木製の机と椅子が有った。入り口脇の壁にはクローゼットが設えてある。部屋の中央にテーブルとソファーが配置されており、小さな窓から陽が差し込んで、板張りの床に光の四角形を形作っていた。
「中々良い部屋だろう?」
ペトラはうんうん、と頷きながら言った。
「ええ。素晴らしいわ」
「台所は私と共同だ。先ずは先に一月分部屋代を貰うよ。後は月末に払ってもらう。滞納は無しだからね」
「分かったわ」
キラは再び中央広場へやって来た。立て看板の前まで来て、ハッとした。キラは字が読めなかったのだ。近くにいた若い男に読んでもらうことにした。
「すみません。私、字が読めなくて。何て書いてあるか、読んでもらえませんか?」
「何だ? お前字も読めないのか? 田舎者め。しょうがないな、読んでやるよ」
『求む、会計士。ナダレ通り四番地。
求む、代筆士。アケーレ通り二番地。
求む、皿洗い。中央広場。レストラン、マカララ』
男はぶっきらぼうに看板に書かれている文字を読み上げた。
「有り難う。助かったわ」
「おう、字くらい読めるようになれよな。因みにナダレ通りはあの路地だ。アケーレ通りはあそこの小さなカフェの脇の通りだからな」
男は言い残して去っていった。
字が読めないから、代筆士は無理だ。会計士とは何をするのか知らないが、取り敢えず行ってみようか。キラはナダレ通りに向かった。通りで番地を訊いて、四番地にたどり着いた。とある建物の中へ入り、大声で人を呼ぶ。
「すみません。この辺りで会計士っていうのを募集しているって聞いたんですけど!」
奥から男が出てきた。
「ああ、それはうちで出した広告だよ。あんたが会計士?」
男は胡散臭そうにキラをジロジロ眺める。
「いえ、私仕事を探していて。広場で看板を見て来たんです。会計士って、どんなことするんですか?」
「どんなことって……。うちはバザールに幾つか店を抱えていてね、そこの売上金や、出費の計算をやってもらいたいのさ。あんた、街の者じゃないな? 何処出身だね?」
「砂漠の向こうのカラルっていう村です」
「ふーん。字は書けるかね?」
「いいえ」
「じゃあ、会計士は無理だね。帳簿に書き込んだりしなきゃならんしな。他を当たるんだね」
「そうですか……。」
キラはガックリ肩を落とした。後は皿洗いしかない。まあ、皿洗いなら出来るだろう。広場に戻り、マカララの場所を訊いた。マカララは広場に面したレストランだった。大きな木戸を開けて中へ入る。コーヒーや、羊肉や、香辛料の香りが入り交じって鼻に付いた。中央に長テーブルが配置されており、集団客がワイワイ騒いでいる。個別のテーブルも満席で、お洒落した客達が賑やかにお喋りしながら、羊肉の串刺しや、煮込み料理を食べていた。
「いらっしゃいませ!」
若い男性のウェイターが、キラを見つけて声をかけた。
「今日は。皿洗いを募集しているって聞いて来ました」
「ああ、そうか。店長!」
ウェイターは奥に向かって叫んだ。
「なんだね?」
大柄の、太った熊の様な男が現れた。色白の肌にダークブラウンの短い髪。紅色のはち切れそうな頬をして、灰汁色の瞳をしていた。
「皿洗い募集の広告を見て来たそうです」
「そうか。俺は店長のハデブだ。厨房で、鍋や食器を洗って欲しいんだ。掃除もな。給料は日払いで六百ペタだ。明日の朝から来てくれ」
「分かったわ。私はキラよ」
キラは取り敢えず仕事が決まった、と喜んだ。
朝食
翌朝、久しぶりにちゃんとしたベッドで寝たキラは、気持ちよく伸びをして起きた。しばらく天井を眺めてボーッとしていると、階下で何やら物音がする。キラは着替えると下へ行ってみた。
ペトラが外の通路に隣接している水路から、素焼きの壺に水を入れて頭に乗せ、台所まで運んでいるところだった。そうか、街でも朝は水汲みで始まるんだわ、とキラは頷く。
「手伝いましょうか?」
「おや、起きたのかい? それは助かるね。台所にバケツが有るから、それで運んでくれるかい?」
「分かったわ」
キラは台所から木のバケツを掴むと、水路へ向かった。石で囲われた水路の中を勢い良く水が流れている。キラはバケツ一杯水を汲むと、台所の大瓶に開けた。瓶一杯になったら、朝食の準備だ。
「私がパンを焼くから、スープを作ってくれるかい?」
「ええ、良いわ」
キラは苦笑いした。村に居た時と同じだ。
「何をニヤニヤしてるんだい?」
「村に居た時も、祖母がパンを焼いて、私がスープを作っていたから」
「そうなのかい? じゃあ、任せても大丈夫だね」
キラは玉ねぎとオクラをきざんだ。羊肉を一口大に切り分け、鍋で炒めて水を入れる。十分茹でたら、月桂樹の葉を入れ、塩胡椒で味付けした。
「よし、パンが焼けたよ。朝食にしようか」
ペトラは釜から円形の薄焼きパンを取り出すと、六つに切り分けた。キラはスープを器によそう。
「頂きます」
砂漠で食べた時の新鮮さに比べればちょっと物足りないが、それでもパンもスープも美味しかった。
「やっぱり、一人で食べるより、一人でも人数が多い方が美味しく感じるねえ」
ペトラが笑う。そういえば、ペトラは独り暮らしなのだろうか?
「ご主人は居ないんですか?」
「昔は居たけどね。若い女と一緒になって、出ていっちまったのさ」
「はあ……。それは。お子さんは?」
「娘が二人居るよ。二人とも嫁に行ってね。今じゃ私独りさ。まあ、あんたがこうして来てくれたから、賑やかになって良いね」
そう言われると、キラも悪い気はしなかった。よし、毎朝水汲みとスープ作りはしてあげようかしら。そう思いながらスープを口に運ぶ。
朝食を済ませると、キラはレストラン、マカララヘ向かった。
マカララ
「お早うございます!」
キラは元気良くマカララのドアを開けた。開店前の店は窓から射し込んだ陽の光で静かに照らされている。掃除をし終わったウェイターの男が二人、テーブルと椅子を並べていた。
「よう、来たな」
ハデブがニコリともせずに声をかけた。ウェイターの二人の若い男を指差して、
「あっちの髪の紅いのがヤキマ、金髪がサシャだ」
と紹介する。
「お早う! 私はキラよ」
「お早う。よろしくな」
「よし、じゃあ厨房に来てくれ」
ハデブはノッシノッシと歩きだした。
厨房に着くと、二人のコックが料理の仕込みをしていた。二人とも色白で大柄の小太りの男で、片方は赤茶色の髪にライトグリーンの瞳、もう片方はダークブラウンの髪に薄茶色の瞳だった。若い女……と言うより少女も一人居て、こちらは黄褐色の肌に茶色の髪、ヘイゼルの瞳だった。
「皆、新しく皿洗いをすることになったキラだ。キラ、こっちの赤茶の髪はマッシュ、黒茶の髪はデニーだ。そして、彼女は皿洗いのミハリだ。皆、よろしくたのむぞ」
「はい」
一通り紹介を済ませると、ハデブは店に戻って行った。
「じゃあ、新人さん。私の指示に従ってもらうわよ」
ミハリが先輩風を吹かせて言う。ミハリは皿洗いという下働きにも関わらず、目に鮮やかな真っ赤なチュニックを来て、腕には赤いビーズのブレスレットを着け、耳にはやはり赤いガラスのピアスをしていた。
「先ずは、シンクを掃除してもらうわ。このタワシと石鹸を使ってちょうだい」
「分かったわ」
キラはタワシに石鹸を着けると、灰色の石で出来たシンクを磨き始めた。
店が開店して、客に料理を出すようになると、客が食べ終わった器もどんどん運ばれてきた。
「あんたは石鹸着けて洗って。私が濯ぎをやるから」
ミハリはそう言うと、シンクの脇に陶器や磁器の皿を置いた。キラは小さな海綿を手に取り、石鹸を着けて泡立てると、皿を掴んで洗い始める。一枚洗ってミハリに手渡すとミハリは、
「ああー、ダメダメ。汚れが隅に残っているじゃない。これだから田舎者は嫌なのよね。皿の洗い方も知らないんだから!」
と皿をキラに突き返した。二人のやり取りを聞いていたマッシュがプッと吹き出して、
「まあ、そう言うな。お前さんだって田舎者じゃないか」
と牽制する。
「うるさいわね。元はそうだったかも知れないけど、今の私は都会人よ!」
ミハリは怒鳴り返した。
「とにかく、やり直しよ。ここはあんたの住んでた田舎の台所とは違うのよ。気を抜いてもらっちゃ困るわ」
「分かりました」
キラは改めて皿を洗い始める。特に汚れがあるようには見えなかった。それにしても、ミハリだって田舎者、とマッシュは言った。ミハリはそれを否定したがっている。大体、格好からしてそうだ。何故ミハリは田舎を否定するのだろう? キラはあの砂漠のオアシスの村が大好きだというのに。
「これで良いかしら?」
キラは皿をミハリに渡した。
「ふん。まあまあね」
こんな具合にマカララでの日々は始まったのだった。
定休日
マカララの定休日。朝食を済ませたキラは、今日一日何をして過ごそうか考えた。そうだ、医者にかかるには一体幾ら必要なのだろうか?
「ペトラ、医者に診てもらうには、幾らかかるのかしら?」
「そうだねえ、最低でも二十万は必要だね。一回診て終わりって訳じゃ無いから、もっとかかるよ」
「二十万……」
キラは考え込んだ。高い。高すぎる。
「医者に会うには何処に行けば良いのか知ってる?」
「そうだね、私の知る限りじゃ、ラマーダの丘の高級住宅街に一軒有るね」
「詳しく場所を教えて」
「中央広場からアケーレ通りを真っ直ぐ行くと、ラマーダの丘があるのさ。丘を道なりに進むと、白くて四角い大きな屋敷がある。そこが医者のいる家だよ」
「有り難う。行ってみるわ」
キラは家を出るとラマーダの丘を目指して歩きはじめた。中央広場からアケーレ通りに入る。三階建ての日干し煉瓦の家が建ち並ぶ通りをずっと歩いていくと、坂道に差し掛かった。
「これがラマーダの丘ね」
今までの日干し煉瓦の家とは違った石造りの豪邸がポツリポツリと建っている。道なりに坂を登りきった所に真っ白な邸宅が見えた。
「あれだわ」
門を抜け、前庭を通る。二階建ての大きな屋敷は入り口に石の柱で出来たポーチが有った。キラはポーチの階段を登ると、木製の玄関ドアをノックした。
「今日は!」
しばらくして、ドアが開いた。使用人が顔を出す。
「はい」
「あの、お医者にお会いしたいのですけど」
「こちらへどうぞ」
招き入れられて中へ入ると、吹き抜けの広いホールに豪華な革張りのソファーとテーブルが設えてあった。壁には大きな森を描いた絵が飾られている。誰の彫像だか知らないが、大理石の人の彫刻が置いてあり、ホールの隅には大きな花瓶に色とりどりの花が生けられていた。
「診察ですか? お名前をうかがっても?」
使用人は慇懃に聞いた。
「いいえ。診察の料金の事で相談があるのよ。私はキラと言います」
「左様で。旦那様は現在診療中です。しばらくここでお待ちください」
そう言うと、使用人は奥へ消えていった。キラは改めてホールを眺めた。こんな豪華な室内を見るのは初めてだ。これだけ裕福な暮らしをしているのなら、貧乏人の診察代くらいまけてくれるかもしれない。
お医者
「お待たせしました。旦那様がお会いになります」
しばらく待っていると、使用人がキラを呼びにホールへ戻って来た。キラと入れ違いに中年の裕福そうな御婦人がホールへ出てきた。使用人に付いていくと、部屋へ通された。
「旦那様。キラ様をお連れしました」
広くて白い部屋の奥にあるデスクの椅子にドッシリ腰掛けた、太った中年の銀髪の男がジロッとキラを見る。
「そうか。ご苦労。下がって良いぞ」
「失礼します」
「キラとか言ったかね、こちらのソファーへ」
キラはデスクの向かいにある革張りのソファーに腰掛けた。
「それで? どういった用件かね?」
「はい。私の母が病気なんですけど、家は貧乏で診察代が払えないのです。診察代をまけてもらう事は出来ませんか?」
「ふむ……」
男は椅子にふんぞり返り、手を腹の上で組んで、鼻から深く息を吸うと、
「可哀想だが、ワシもこれで生活しているのでね。残念だが、ご期待には沿えないな」
と言って、余った息を鼻から吐いた。
「そうですか……。でも、見たところ、とても豊かにお暮らしですよね。貧乏な私の母を一人救うくらい、どうということは無いのではないでしょうか?」
キラは食い下がる。
「そうは言うがね。ワシはニジェラで大学まで出ておるんだよ。つまり、医者になるために莫大な金を投資しておる。更に、この屋敷を維持していくためにはそれ相応の費用が必要だ。まけてやることは出来んね。さ、用件は済んだ。帰るんだね」
男は冷たく言い放った。
「分かりました」
キラはため息を一つついて、部屋を出た。
追い出されるように屋敷を出たキラは、トボトボと道を歩きながら、周りの高級住宅を見て思った。ウルの街へ来ればなんとかなると思っていたけど、街の人は皆プライドが高くて冷たいわ。皆お金儲けの事しか考えていないみたい。既にこんなに贅沢な暮らしをしているのに。キラの胸を諦めと後悔が締め付けた。
キラはミハリの事を思い出した。ミハリは田舎よりこんな人心の荒んだ街の方が好きなようだ。ミハリだって下働きで大した稼ぎでも無いだろうに、何故だろう? 明日店に行ったら聞いてみようか? キラは弱々しい足取りで家へと向かった。
ミハリ
翌日、キラはマカララで皿を洗っていた。今日はいつもとは違う汚れの着いた皿が運ばれてきた。びっしり皿全面に油が着いている。キラは石鹸で洗ったが、中々汚れは落ちなかった。
「ミハリさん、これ、落ちないんですけど」
キラはミハリに皿を見せた。ミハリは大きくため息をつくと、
「ほんっと、田舎者を指導するのも疲れるわね。そんなことも知らないの? こういう油汚れはね、これを使うのよ」
シンク脇に置いてあったオレンジの半切りをキラに手渡した。キラはオレンジで皿を磨いた。油が分解されて落ちていく。
「落ちるわ! 凄い。ミハリさんって物知りなんですね」
「皿洗いならこれは常識よ。あんたが知らなすぎるのよ! これだから田舎者は」
出た。ミハリの口癖、『これだから田舎者は』キラは率直な疑問をミハリにぶつけてみた。
「ミハリさんはどうして田舎が嫌いなんですか?」
ミハリはそんな質問を受けるとは意外、といった顔をして答えた。
「どうしてって、田舎なんて非文明的な野蛮な暮らしじゃないの! 石鹸すらないでしょう。それにこんな風にお洒落することも出来ないわ。公衆浴場だって無いし。あんただってそんな暮らしが嫌で街へ出てきたんでしょう?」
「私は……。私は村の暮らしが好きだったわ。何より皆で助け合っていたし。それに、街へ来たのは病気の母をお医者に診せるお金を稼ぐためだわ」
「ふうん、あんたの都合は知らないけど、私は田舎なんて御免よ」
そこで会話は途切れた。これ以上話しても平行線だと思われたからだ。キラはそれ以上ミハリに聞く事を諦めて、皿洗いに専念した。
午後になり、手が自動的に皿を洗うようになった頃、キラの頭にカラルの村の風景が思い浮かんだ。美しいオアシス。羊の毛刈り……。何も無かったが、優しい村人達に囲まれて、充実した日々だった。ナジャやダンはどうしているかしら? そう思ったその時だ。
ツルッ。
キラの手から皿が滑り落ちた。
ガシャーン!
派手な音を立てて、皿は床の上で粉々になった。
「もうっ! 何やってるのよ! 店長!」
ミハリはハデブを呼びに行った。ハデブは直ぐにやって来た。
「おい、この皿は高いんだぞ! 給料から引くからな。それと、こんなことでは一人前の給料を支払うわけにいかん。半額だ!」
「そんな……。わざとやった訳では無いんです」
「言い訳は要らん! ボケッとしてないで片付けろ!」
ハデブは鼻息も荒く命令すると、厨房を出て行った。キラは泣きたい気持ちをグッと堪えて破片を拾い集めた。
「全く、これだから田舎者は……」
ミハリが追い討ちをかけるように言う。
その日の夜、キラはベッドの上で膝を抱えて泣いた。
盗人
三ヶ月が過ぎた。砂漠の薔薇を売って手に入れた金も底をつき、キラの手元には僅かな金しか残っていなかった。これでは今月の家賃も支払えない。キラはペトラに相談してみることにした。
「家賃を安くしてもらえないかしら? これでは支払えないわ」
「そう言われてもねえ……。私だってこれで生活しているんだよ。申し訳ないけど、これ以上安くは出来ないね。何とかしな」
「そう……。」
キラは溜め息をつくと部屋へ引き揚げた。ベッドの上で膝を抱えて座り込み、考えた。他の仕事の求人は出ていないし、仮に有ったとしても田舎出のキラを雇ってくれるところはそう有るものではない。これがカラルの村なら、皆が助けてくれるのに。このままでは治療費どころか、生活も危うい。ふと、キラの頭にラマーダの高級住宅街が横切った。本来であれば、あそこに住んでいる裕福な人々が貧乏人を助けるべきなのだ。村では当然の事だ。そうよ、あれだけ裕福なのだから……。
夜、キラはラマーダの丘へ向かった。灰色の石造りの豪邸が目に入った。窓の明かりは消えている。留守らしい。キラは裏口に行ってみた。鍵が開いている。キラはそっと木戸を開けると中へ入った。台所を抜けて広い廊下に出る。少し歩いて居間へ侵入した。贅沢なゴブラン織りのソファーに、大理石のテーブル。壁には大きな絵画が掛けられていた。キャビネットの上に銀の壺が飾られている。キラは背嚢に壺を入れた。キャビネットの引き出しを開けて、何か無いか探していると、
「誰だ!」
入り口に男が立っていた。
「何をしている!」
キラは窓から逃げようとしたが、男はキラにタックルをかまして取り押さえた。
「ウッ」
床に押し倒されたキラは痛さで呻いた。背嚢から壺が転がり出る。
「このこそ泥め!」
男は吐き捨てるように言うと、キラの頭を殴った。キラはその場に気絶した。
追放
気が付くとキラは檻の中で横たわっていた。街の留置場である。後ろ手に木の手錠が嵌められていた。目の前に黒い鉄格子が鈍く光っている。
「目が覚めたか?」
保安官が聞いた。
「私……」
「全く、よりにもよってタジル様の屋敷に盗みに入るとはな。タジル様はこの街の名士だ。要するに権力者だ。まあ、諦めるんだな」
名士……。権力者……。キラには理解出来ない概念だった。村では誰もが平等だった。村長ですら、皆を取りまとめる役目が有るだけで、権力などというものとは無縁だ。
「私、働いたけどやっていけなくて。私の住んでいた村では、富めるものは貧しいものに分け与えるのが掟だったわ。だから……」
「ふん。それはお前の村の話だろう? この街では違う。タジル様から、盗人は砂漠に追放するように申し使っている。残念だったな」
「そんな……」
キラは俯いた。
キラは砂漠まで護送されることになった。二頭立ての馬車に押し込められる。隣に保安官が座って、キラの手錠に付けられた綱を握っていた。馬車は街の門を抜け、小麦畑を横切り、砂漠へと向かった。木で出来た馬車のワゴンは座り心地が悪く、常に振動でキラをガタガタ突き上げた。
丸一日走って、馬車は広い砂漠で止まった。
「よし、この辺りで良いだろう」
保安官は馬車のドアを開けると、キラを外へ引きずり出した。
「まあ、一応手錠は外してやる。運が良ければ何処かのオアシスにたどり着けるだろうさ」
キラを残して、馬車は走り去った。キラは呆然と馬車が見えなくなるまで見ていたが、やがてヨロヨロと歩き出した。行く当てなど無かったが、そうするより仕方がなかった。久しぶりに見る砂漠。何処までも続く褐色の砂の大地と点在する岩山。上を見上げると、真っ青な空がキラを嘲笑っているかのようだった。キラはあてどもなく、死ぬほど歩き回った。歩いているうちにどんどん暑くなり、堪らなくなったキラは、日陰を探した。少し離れた所に、香色の岩山が有った。ギラつく太陽の光を受けて、濃い影が出来ている。キラは岩山まで歩き、日陰に入り込んだ。ひんやりと涼しい空気が肌に纏わりつく。岩山を背もたれに、キラは座り込んだ。
不意に涙が一筋キラの頬を伝った。一度流れると、涙は止めどなく流れてきた。今まで堪えてきた思いが一気に溢れだす。キラは誰もいない砂漠で、わあわあ泣いた。
レグル
「五月蝿いぞ」
頭上から声がして、岩がズズズ、と動いた。キラは驚いて泣き止んだ。見上げると、香色の鱗に覆われた、厳つい顔がこちらを見下ろしている。スカイブルーの瞳が爛々と輝いていた。岩だと思っていた物はみるみる姿を変えた。全身香色の鱗に覆われた巨大な体躯。背中に大きな蝙蝠のような翼が生えている。鋭い爪の生えた四つ足でそれは砂の上に立ち上がり、長い尻尾が揺れていた。
「ド……ドラゴン?」
キラはのけ反った。ハッとしてポケットから例の鱗を取り出す。そうか、この鱗は……。
「いかにも俺はドラゴンだ。何故昼寝の邪魔をする?」
「私……。カラルというオアシスの村に居たわ。病気の母さんをウルの街のお医者に診てもらいたくて、でも、お医者にかかるには大金が必要だから、それで街へ働きに来たの。でも……」
しゃくり上げながらキラは説明した。
「上手くいかなかった、という訳か」
「ええ。村では、富めるものは貧しいものに施すのが当たり前だったわ。皆で助け合って生きていたのに。でも街では、皆お金が最優先だったわ。何が正しいのかしら?」
「ふむ。ドラゴンの俺から言わせてもらえば、この世に正しいも正しくないも無いな。全ては河の流れのように起きるのさ。それだけだ」
「私には分からないわ。私はドラゴンじゃ無いもの。私はただ、母さんを治してあげたいだけなのよ。なのに、何も出来なくて……」
キラは再び泣き出した。大粒の涙が砂の上に落ちて染みを作った。
「まあ、そう悲しむな。どうだ、気晴らしに俺が観光旅行に連れていってやる」
「観光旅行って?」
「風光明媚な場所や名所を廻る旅をすることさ。そうだ、王都に連れていってやる。お前は見たこと無いだろう?」
「王都?」
「まあ良いから乗れ。俺はレグルだ」
「私はキラよ」
レグルは這いつくばって姿勢を低くした。キラはレグルの背中によじ登る。
「しっかり首に掴まっていろよ!」
レグルはそう叫ぶと、空へ飛び立った。
飛行
レグルはキラを背に乗せて、ゆったりと砂漠の上空を飛んでいた。巨大な翼が風を切る音が聞こえる。カラリと乾燥した空気がキラの体を押していた。キラは改めて、ドラゴンて本当に居たんだわ、と驚いた。下に目をやると、点在する岩山が小さな石ころの様に見える。
「何を考えている?」
ずっと黙って飛んでいたレグルが口を開いた。
「ええ。ドラゴンって実在したんだな、って」
「フフフ。そうとも。大昔にはお前の住んでいたオアシスにも立ち寄ったことがあるぞ。水を飲みにな」
「そうなの? 誰もそんな事教えてくれなかったわ」
「無理もない。随分と昔の事だからな」
「それで、レグルは砂漠で何をしていた訳?」
「言っただろう? 昼寝だ」
「ふーん。ウフフ」
キラは吹き出した。
「ドラゴンて恐ろしいものだと思っていたけど、何だか可愛いのね」
「馬鹿にしてるな」
「してないわよ。それより、王都って何かしら?」
「そうだな、お前は知らんだろうが、この辺りはサハル王家の支配下にある王国だ。お前の村も、ウルの街も、皆サハル王国の一部だ。王都ハーナブにはアラゴア王と王妃ペルタ以下、王族が住んでいる。この国の首都だ。美しい街だぞ」
「ハーナブ……。初めて知ったわ。王族って何かしら? 村長みたいなもの?」
「ある意味合っているが、違うな。村長よりもっと大きな力を持ち、それに比例して責任も重い。何しろ一国の運命を変える程の権力を持っているのだからな」
「権力……」
キラは身震いした。その権力者とやらがキラを砂漠へ追放したのではなかったか?
「権力者にも色々いる。アラゴア王は勇敢な王だし、ペルタ王妃は慈悲深い方だよ」
キラは王都ハーナブを想像してみた。首都であるからには、きっとウルの街より大きいのに違いない。
シロルの森
砂漠を抜け、眼下の景色は深い森へと変わっていた。キラは半ば呆れたように木々の群れを眺める。深緑が目に鮮やかだった。
「これ、皆木なのね」
「シロルの森だ。驚いたか?」
「ええ。世界は広いのね」
「ちょっと寄り道していくぞ」
レグルは大きな池を目掛けて下降して行った。水面すれすれを滑るように飛行する。池の水面が波立ち、浮かんでいた水鳥が慌ただしく飛び立って行った。眼前に丸木で出来た小屋が見える。小屋の前まで辿り着くと、レグルは着地した。
「この家は?」
「古い友人の家だ。よし、降りてくれ」
キラを降ろすとレグルは大声で叫んだ。
「マリタ!」
ドアが開いて、老婦人が出てきた。長い白髪を後ろで三つ編みに編み、白いブラウスに黒いベルベットのベストを着て、同じくベルベットの深い緑のスカートを履いている。
「レグル! 久しぶりね。こちらは?」
老婦人はキラを見て訊ねた。
「カラルの村のキラだ。友達さ。鞍を預けてあったろう? 着けてくれ」
「良いわよ」
マリタは小屋の隣に有る物置から大きな革の鞍と頭絡を担いで持ってくると、鞍をレグルの背中に取り付けた。頭絡も頭に装着する。頭絡には手綱が着いていた。
「これで乗りやすくなるだろう?」
レグルはキラを見てウインクして見せた。
「貴女にも服をあげるわ。それでは空の旅は厳しいでしょうから。中へ入って頂戴」
マリタはキラを促した。小屋の中へ入ると、
「座って寛いでいて」
とマリタは言い、奥の部屋へと消えた。キラはオレンジ色の布張りのソファーに座ると、部屋を見回した。丸木を組み上げて出来た壁に板張りの床。素朴で可愛らしいキャビネット、小花模様をあしらった真紅の絨毯……。
「なんだか、お伽の世界ね」
「お待たせしたわね」
マリタが部屋へ戻って来た。
「これを着ていくと良いわ」
キラは差し出された服に着替えた。白いチュニックにベージュのズボン。至って普通の格好だが、着た途端に体がふわふわと軽くなった。まるで自分が空気にでもなったかのようである。
「この服は?」
キラは不思議そうな顔をして訊いた。
「ふふ。これはね、魔法を込めて作った服よ。風の属性を持っているわ。これを来ていれば身のこなしは風のように軽やかになるわよ」
「風の属性……」
確かに言われてみればこの軽やかさは風の様である。
「どうも有り難う。でも、私何もお返しするものが無いわ」
「フフフ。良いのよ。レグルの友達なら、良い娘に決まっているもの」
マリタは優しい笑みを浮かべた。
マリタの話
「今、お茶を入れますから、待っていて」
マリタはそう言うとキッチンへ向かった。キラは改めて部屋を見回しながら、マリタとレグルについてあれこれ思いを巡らせた。魔法の服を持っているなど、マリタは何者なのだろうか? レグルとはいつから友達なのだろう? ドラゴンも見てしまった事だし、マリタが魔女でも驚きはしないが、もし魔女なら、魔法で母の病気を治せないものだろうか?
「お待たせしたわね。紅茶で良かったかしら?」
マリタはお盆にティーポットとカップを乗せて運んできた。
「マリタさんは魔女なんですか?」
キラは思い切って聞いてみた。
「あら、ウフフ。まあそんなものかも知れないわね」
「だったら、魔法で私の母の病気を治せないものでしょうか?」
「そうねえ。魔法で治せる病気と治せない病気があるわね」
マリタはカップに紅茶を注ぎながら話した。ふくよかな香りが部屋に満ちていく。
「その病気が、魔法によってかけられたものとか、誰かの呪いを受けたものとか、そういうのなら治せるわ。でも、貴女を見る限り、貴女のお母様も良い人そうだから、他人からその様な仕打ちを受けたということは考えにくいわね」
「そうですか……」
「お茶、どうぞ」
「ありがとう。頂きます」
キラは溜め息をついて紅茶を口に含んだ。
「あの、それじゃレグルとはどうやって知り合ったんですか?」
「あれは、私がまだ若くて……。魔女見習いの頃だったわ。師匠から魔法の傷薬を作る為にドラゴンを探して、その涙を取ってこい、と言われてね。ドラゴン探しの旅に出たのよ。まあ途中色々あったけど、とうとうレグルを見つけ出してね」
「でも、涙なんて……」
「そうよね。『貴方の涙がどうしても欲しいの』って訴えたけど、『ドラゴンは泣いたりなぞしない』の一点張りでね」
マリタはフフフと笑った。
「で、どうしたんですか?」
「『手袋を買いに』っていう童話を話して聞かせたわ。狐の親子がいて、冬に仔狐が寒がるんで、母親が仔狐の手を人間の子供の手に変えて、お金を持たせて、街へ手袋を買いに行かせるの。『この手をドアの隙間から入れて、姿は見せずに、この手に合う手袋を下さい、って言うんだよ。狐だってばれると酷い目にあうから』と言い聞かせてね。仔狐はお店へ行ってドアを開けると、間違えて狐の手の方を隙間に入れて、『この手に合う手袋を下さい』って言うの。店主はお金が本物であることを確認すると、黙って手袋を仔狐の手にはめてあげたのよ」
「その話を聞いて泣いた? レグルが?」
「ええ」
「ふーん」
キラはニヤニヤしながら紅茶を飲んだ。レグルったら、見た目は厳ついけど、案外優しい心の持ち主なのね。
*「手袋を買いに」新美南作
王都へ向かって
「オーイ! そろそろ出発するぞ」
レグルが窓越しに部屋を覗き込んで叫んだ。
「それじゃ、マリタさん、ありがとうございました」
キラは席を立つと、マリタの手を握った。
「どういたしまして。そうだわ、これを持っていきなさい」
マリタはキャビネットから小瓶を取り出した。三角錐の瓶に青い液体が入っている。
「これはね、例の魔法の傷薬よ。どんな傷でもこれを塗ればたちどころに塞がるわ」
キラは小瓶を背嚢に入れて、改めてマリタに礼を言うと、小屋の外に出た。
「行ってらっしゃい。気を付けてね」
マリタが玄関で見送る。キラはレグルの背によじ登り、鐙に足を掛けて鞍に座って手綱を握った。
「よし、では飛ぶぞ!」
レグルはバサッと翼をはためかせると、フワリと宙に浮かんだ。池の上すれすれを飛び、更に上空へと舞い上がる。キラは鞍の上で、来たときとは違う乗り心地の良さを楽しんでいた。
「マリタさんから魔法の傷薬をもらったわ」
「そうか。あれが有れば怪我も恐れることは無いからな」
「ええ。ドラゴンの涙から作られているんですってよ。ドラゴンも泣くのね」
キラはからかうような調子で言った。
「それは何かの間違いだろう。ドラゴンは泣いたりしない」
「そうかしら?」
「そうだとも」
キラはウフフと笑うと、空を見上げた。青空に真っ白な雲が浮かんで、その狭間から太陽が顔を覗かせている。砂漠の太陽は全ての生命を焼き焦がすような激烈さだったが、ここでは森を育む優しい光を放っていた。
「森を抜ければハーナブは直ぐだぞ」
レグルはスピードを上げてハーナブを目指した。巨大な森が遂に途切れ、広い平原が眼下に広がった。遠くに黒い煙が見える。
「戦だな」
レグルが呟いた。
「戦……。じゃあ、やっぱり、マーニーの言っていたことは正しいんだわ」
「なんだ、それは」
「キャラバン隊の隊長が言っていたわ。ドラゴンは戦が起きると現れるんだって」
「フン。言っておくがな、ドラゴンが戦を引き起こしているわけではないぞ。戦を起こすのは何時だって人間だ。だが俺は古い盟約により、サハル王国に戦が起きた時には王国を守らなければならん」
「そうなの?」
「そうだ。サハル王家との約束だからな。急ぐぞ。落ちるなよ」
レグルは更にスピードを上げた。
ハーナブ
上空から見たハーナブは巨大な都だった。周囲は高い城壁に囲まれていたが、一つの門が敵によって焼き落とされ、そこから敵の兵士が街に侵入しており、ハーナブ軍の兵士と剣を抜き合って戦っていた。城壁には、更に侵入口を作るべく、敵兵が取り付いている。城壁の上から守備隊が弓矢で敵兵を防いでいた。城壁外には投石器が置かれて、街を破壊しようと大きな石の玉を城壁内へ投げ込んでいる。ハーナブの中心は小高い丘になっており、丘の頂上に大きな石造りの城が建っていた。
「先ずは城へ行くぞ」
レグルはハーナブをグルリと一周すると、城目掛けて飛行した。丘の裾野は小さな森になっており、そこから放射状に街が拡がっている。城の前庭にはハーナブ城の守備隊が整列していた。守備隊はレグルの姿を見つけると色めき立った。その脇にレグルは降り立ち、キラを降ろす。
「これはレグル殿。良く来て下された! やはり古い言い伝えは誠でありましたな」
司令官のテオが駆け寄って挨拶した。全身銀色の甲冑に身を包み、肩からサー・マントを翻して、腰にはロングソードを挿している。精悍な顔立ちに、輝くアイスブルーの眼をしていた。
「うん。まあ、戦の煙が見えたのでな。国王御夫妻は御無事かな?」
「両陛下共御無事でありますよ」
「敵はジルーダ王国か?」
「きゃつら、平和条約を破って攻め込んで来たのです。以前から王女マジェンタ様を嫁に欲しいと申しておりましたが、ペルタ王妃の強い反対でアラゴア王は断っておられたのです。その腹いせでしょう。して、こちらは?」
テオはしげしげとキラを見つめた。
「カラルの村のキラだ。友達だよ。彼女も共に戦うぞ」
「えっ? 私も?」
キラは驚いてレグルの方へ振り向いた。
「戦果を上げれば報償金が出るぞ。それで母さんを医者に診せたら良い」
レグルはパチリとキラにウィンクした。
「そういう事なら……。でも、この格好じゃ戦えないわ」
「武器庫に甲冑があります。しかし、せっかくの申し出にこう申すのはなんですが、このような、その……少女に加勢を頼むと言うのも……」
テオは口ごもった。無理もない。キラはどこからどう見てもただの村娘である。
「タリルの剣を預けてあったな。あれを出してくれ」
「しかし、あの剣は……」
「大丈夫だ。頼むよ」
「分かりました。ではキラ殿、私に付いてきて下さい」
キラとレグル