18時間のフライト

 今からする話には不謹慎で聞くに堪えない事柄が何度も起こる。それでも最後までどうかお付き合いしていただきたい。

 なぜなら、これは僕に起こった事実の話だからだ。

 2018年、冬。僕は七年に及ぶアメリカ留学からついに帰国するためのチケットを手に入れた。お世話になっていた仕事場に自分勝手に別れを告げて僕は荷物をまとめた。思い起こせば留学生活の中にはいろんなことがあった。しかし、その誰にも僕は別れを告げていない。
 誰にも相談することなく帰国を選んだ僕には、それなりの理由があった。このタイミングで帰国できなければ僕は廃人になっていただろう。

 僕はキリストになってしまった。

 異変を感じ始めたのはその年の春、映画撮影に参加していた時だった。突然僕は周りの人の心の声がわかるようになっていた。頭の中で声が響くのだ。いろんな人がいろんなことを心の中でつぶやく。アメリカでは驚いたとき、キリストの名前を口にする。「ジーザス!こんなことありえるのか!?」という風に。周りも僕の異変に気付いたようで、いつしか僕は誰からもジーザスと呼ばれるようになっていた。

 異変は他にもあった。僕の周りの人間は僕に恋愛感情を持ってしまうらしかった。老若男女とわず、すれ違いざまに好意を告げられるのだ。

 最初、僕はいい気になっていた。僕は神様にすくなからず憧れがあったし、世界を七日間で作ったといわれている唯一神より、僕の方がきれいな世界を作れると自負していた。映画関係の職を目指したのもそれがきっかけだった。自分の世界を創造したかったのだ。事実、僕の私生活は充実したものになっていた。人の好意を利用して僕は何度も撮影に呼ばれるように仕向けたり、食事を奢ってもらったり、パーティでは一銭も出さないことがざらにあった。

 僕は神になったのだと本気で思っていた。神として振舞うべきだと感じたのもこのころからだ。

 しかし、事態は一変する。

 映画撮影に参加すればするほど、僕の力は増していくようだった。聞こえてくる心の声はいつしか英語ではなく、日本語で聞こえてくるようになった。
 そしてある日、僕の心の声が周りに聞こえるようになってしまった。それまでありがたがって僕に尽くしてくれた人たちは、僕の底の浅さに絶望してしまったようだった。日々、大したことも考えていないのだから、それどころか、いかに人を利用してやろうかと考えていたのだから当たり前のことだった。

 それでも、僕は神として振舞い続けた。撮影にも参加し続けた。その結果、僕の力は大きくなり続けた。どれだけ僕のことを嫌っていようが、いざ僕を目の前にすると誰だって恋愛感情に支配された。日に日に大きくなる僕の魅了にときに性的な目で見てくる輩もいた。それが原因で職場を離れたこともあった。心の声が聞こえる僕には職場のおじさんが実はゲイで、僕のことを狙っているのを知っていたからだ。それに、たとえゲイじゃなくても僕の魅了の前では誰もが無力だった。だから僕は逃げた。自分の力が身に余るものだと、この時ほど感じたことはない。そのあと、僕は仕事場をメキシカンしかいない工場に変えた。

 とにかく、僕の力は日に日に強くなっていった。

 ある日、僕に重大な異変に気付く。自宅で一人でいるときに、誰かの声が頭の中で響いたのだ。それは一緒に撮影現場で仕事をしたことがある女史Aの声だった。Aは明るくて、誰にでも好意を見せる、いわゆる、軽い女の子というのが僕の認識だった。いままで、目の前の人間の心の声が聞こえたことはあってもここまで遠くから聞こえることはなかった。僕は驚いた。が、それと同時に嬉しくもあった。心と心が繋がったのだ。Aは僕のことが好きなんだと思った。しかし、事実はそうではなかった。僕の心の声はもちろんAにも届いていた。30分もするとAの機嫌は見るからに悪くなっていった。「私の人生を返せ!」と言ってきたのだ。理由はわかる。彼女が今何をしていようが、彼女の頭の中では僕の声が鳴っているのだ。このままでは普通の人生は歩めない。僕は何百回も謝った。この力は僕由来だとしても僕にはOFFにするやり方がわからない。僕も困っているのだとAには言っておいた。それと同時にしめしめと思った。もともと力を抑える気がなかったわけではない、だけど、こうなった以上逆らうすべはない。僕は開き直ることにした。

 次の日、部屋で聞こえてくる心の声は増えていた。めそめそと泣きじゃくるAと状況を把握しきれていないBだ。Bは僕の仕事場の先輩だった。Aから事情を聞いたBは僕に怒鳴りだした。「早く普通の人生に戻せ!」というのがBの主張だった。僕は少しだけ怖くなった。なぜなら、Bとはほぼ毎日工場で会うからだ。僕はぶっ飛ばされるんじゃないかと思った。しかし、それは杞憂に終わる。なぜなら僕には魅了の力があるからだ。その日も次の日もBは僕と普通の先輩後輩の関係を守った。内心でどう思っていようが、実際に僕のことを見てしまえば手駒にするのはたやすいのだと僕は確信した。僕は心の中で「馬鹿め」とBをけなした。もちろん僕の心の声はBに筒抜けだった。だが、この頃になると僕はそんなことは気にしなくなっていた。それほど魅了の力は素晴らしかった。

 そうして、僕の頭の中にはAとBがいつもいる状態が続いた。Aは次第に病んでいき、BはAのことを庇いながらも魅了の力のせいで僕に敵対できないでいた。「みんなと死ぬまで一緒だ」と僕は開き直った。被害者のAとBは泣き寝入りをするしかなかった。

 僕は撮影を続けた。もはや、次はどんな力に目覚めるのか楽しみでもあった。少しだけ言い訳をさせてほしい。この時、僕はA同様パンク寸前で頭の機能がちゃんと働いていなかったに違いない。

 この頃、僕は聖書を読むようになっていた。僕の実家は仏教徒なのだが、アメリカに住んでいたせいか、皆が僕のことをジーザスと呼ぶようになったせいか、僕はキリストとして聖書に精通していなくてはいけない気がしたのだ。

 僕は教会に通うようになった。この僕の力がキリストの力なんだとすれば教会に助けを求めるのが一番だと思ったからだ。Bもそれに賛成してくれていた。Bは共倒れ的な今の状況を打破するためには出来ることからするべきだと主張していた。多分、Aに対する後ろめたさもあったのだと思う。とにかく僕は自分に起こっている異常事態に対処する必要性を感じていた。心の中で誰彼構わず謝る日々が続いた。僕は素行が悪い時もあったし、頭の中ではいつも馬鹿なことを考えている。もう言いたいことはわかったから許してください。誰の心の中も覗こうとしないから、どうか僕の心の中を暴かないでください。

 僕は教会と並行して神社にも厄払いに行った。教会に行った時も神社に行った時も僕の内心は荒れていた。ところかまわず悪態をついて、呪いの言葉を思考中にあふれさせていた。それはまるで僕の中のもう一人の自分が神聖な空間を拒絶していたようだった。僕の中のもう一人の自分。なぜか、教会に訪れるたびに泣き声が聞こえて、僕はいたたまれなくなってミサの途中で退室してばかりだった。「やめて!」と知人の声で懇願されて、僕は思考が混乱して、その声のために部屋を出ていく。そんなことが毎回あった。神社に行ったときはもっとひどかった。そして、どの知人に会っても、誰もその事実を知らないようだった。この頃から僕は悪魔の声が聞こえるようになったのだと疑い始めていた。聖書によると、ジーザスは30日間、悪魔の試練に耐えたのだという。僕はすでに三か月ほどAとBと心の対話を続けていた。ジーザスよりも三倍近く悪魔と向き合っている僕はきっとジーザスよりも凄いキリストになるのだと、内心信じていた。Aの声もBの声も、思えば悪魔のささやきに違いなかった。姿はなく、声だけがするのだ。神聖なものだとはとても思えない。この頃、Aはほとんど「死ね」としか言わなくなっていた。

 僕はいつかこの試練が終わり、自分がキリストとして迎えられるのだと予感していた。その迎えがいつ来てもいいように僕はインターネットでキリストのことを調べ尽くしていた。ある日、僕はとある記事を見つける。ローマ法王がジーザスは堕天使ルシファーの子供だというのだ。僕は雷に打たれたような衝撃を受けた。曰く、ジーザスはただの人間であり、救世主ではないとのことだった。僕はその記事にすぐにのめり込んだ。まるで見てきたかのようなローマ法王の言い分に、僕は惹かれたのだ。僕の妄想は加速する。ジーザスの最後を知っている人は知っているだろうが、彼の結末はあまりにも悲惨だ。磔にされ、「神よ、なぜ私を見捨てたのか」と叫んでその命に幕が下りる。世界の終末を迎えるとき、キリスト教徒はジーザスを通して楽園に迎え入れられる。言葉をそのまま鵜呑みにするならば、ジーザスは楽園の外側にある「門」だ。僕はジーザスの不幸さに憤った。彼はあまりにも不憫に思えた。どう見ても彼のありようは「神の駒」でしかなかった。

 僕は自分の中にいる悪魔の試練にどう向き合うべきなのかわからなくなっていた。この頃、僕は家族に自分の異変を伝える必要性を感じて、頻繁に連絡を取るようになる。

 僕の思考はどんどん悪い方向へと傾いていった。はっきり言えばクズになっていた。休日は何もせず、布団にくるまって世界を呪った。Aの悲鳴もBの助言も聞く耳を持たず、「死ね」とだけ思った。僕は悪くない。僕は悪くない。ずっとそうやって他人の人生に関わる責任から逃げていた。クズになっては正気を取り戻して自己嫌悪に苛まれる、そんなルーティンが出来ていた。Aはよく泣く様になった。何度も教会に通い、その度に自分の症状が治ることを願った。しかし、現実は思うようにいかない。僕の思考は元の僕から遠く離れていく。考えたくないのに考えずにいられない。この時の僕は世界で一番クズだった。

 限界だった。僕は長いアメリカ生活に予定より早く別れを告げて、帰国することを決めた。ありていに言えば、逃げた。

 日本に帰っても症状は治まらないかもしれない。それでも、自分の状況を半分も伝えられない状況からは抜け出せるはずだった。長いアメリカ生活が僕の頭をおかしくしたのだ。気温が高い毎日のせいで僕の脳みそが茹で上がってしまったのだ。きっと英語を自分勝手に翻訳する脳になってしまったのだ。それなら、日本に帰ればなんとかなる。最悪、病院で診てもらえる。帰国は僕にとって最後のチャンスだった。そうして僕は帰国用のチケットをオンラインで購入することにした。Bは僕を止めた。まだこの呪いとも呼べる僕の症状に試す解決策はあるはずだと。Aは何も言わず、ただ成り行きを見守っていた。僕はBの言うことを無視して、Aに「これでいいんだろ」というように購入ボタンを押した。

 しかし、このチケットの入手とともに悪夢は始まる。それはBの高笑いから始まった。Bは僕に「死ね」と言ってきた。いままで怒りながらも半ば僕の味方に付いていたBは魅了の力から解放されていた。つまり、いままでBは本心から僕のことを考えてくれていたわけではなかった。魅了から解放されたBが初めにとった行動はえげつなかった。僕の銀行口座のパスワードを変更したのだ。いつもネット上で銀行口座を開く僕の思考をBは紙にメモしていたらしい。いつか来るかもしれない、魅了から解放される瞬間に備えて。僕の目の前は真っ暗になった。何度も口座を開けようとして失敗する僕をBは嗤った。でも、それをB以上に嗤ったのはAだった。「死ね」Aは連続して言ってくる。僕はその言葉が本心だったことをついに気付いた。そして、直接会わずともAとBは僕を殺せるのだと理解した。僕は何度も二人に謝った。しかし、返答は「早く死ね」だった。帰国するまで2週間、どうすればいいのか。

 しばらくすると唐突に喘ぎ声が聞こえてきた。喘ぎ声が聞こえてくること自体はそんなに珍しいことじゃなかった。僕は3人とハウスシェアをしていて、アメリカ人だからか、かなりオープンに性活動が行われている家で暮らしていたからだ。しかし、今回はいつもと違って、喘ぎ声は頭の中だけで鳴り響いていた。Aだ。僕は「マジか」と思った。以心伝心が続いて長いことたっていたので、それも仕方ないと思うことにした。どうしても避けられないことというのはある。僕はじっと時間が過ぎるのを待っていた。すると、衝撃の事実が明らかになる。Aの相手はBだった。面識のなかった二人が僕というファクターを通して知り合い、ついに関係を持ったのだ。僕はやるせなかった。Aを盗られたとさえ感じた。Bは部屋の片隅でじっと耐える僕を気持ち悪がり、Aはついに僕を無視するすべを身に付けたらしかった。行為中は僕の声がそんなに気にならないらしい。「結婚して」とAはBに囁く。Bは本命の彼女がいるから駄目だという。「なんで」とAは聞く。Bは僕が嫌がることがしたいだけだと言い切った。それを聞いたAは「お前のせいで人生めちゃくちゃだよ!死ね!」と僕に怒鳴った。

 この夜からBは夜な夜な誰かと性行為をしていた。僕にはそれが聞こえる。誰かというか、全員僕が知っている人たちだった。

 ここまでOK!

「お前がしたいことを、代わりに俺がやってやる」Bは言う。Aは不服そうだった。僕はどうやら煩悩の塊だったようで、出会った女性全員とやりたいと思っている、とBは判断したらしかった。だからBは僕の代わりに実行に移す。僕への嫌がらせの延長線でBは僕がAVでしか見たことないようなプレイを次々と行う。その中には道徳的に間違っていることも含まれていた。相手は最初嫌がっていた。Bは事情を説明する。簡単に言えば、テレパシーのせいでBの私生活をめちゃくちゃにした僕への仕返しだ。僕という男がどれだけクズなのか、Bは声高々にまくし立てた。誰でも容易に説き伏せてしまうBは僕とは違い、モテモテらしかった。バイト先で目にするBは毎日目の下のクマが大きくなり、しっかり休息が取れていないようだった。日中は僕もBも何食わぬ顔で仕事をする。この時の僕はまだBの行いについて半信半疑だったからだ。みんなでグルになって僕を騙しているという可能性もあるのではないかと思っていた。ただ、僕のせいでBの人生がぐちゃぐちゃになっていくことに僕は申し訳なく思っていた。

 朝起きると世界中の人のテレパシーが聞こえた。僕の心臓はバクバクと鳴る。今まで以上に僕の力は大きくなっていく。ただ、僕の心の声は彼らには聞こえていないらしかった。僕の心の声が聞こえているのはAとBだけだ。僕のテレパシーによって世界中の人と繋がったBは僕の悪口を言っていた。最初は誰もBの言い分を聞かず、Bのことを嘘つき呼ばわりした。言い方を変えると、僕の信用はそれなりにあった。「あいつがそんなに悪い奴なわけがない」と僕を擁護してくれる皆に僕は「いいぞいいぞ!」とどこか他人行儀に観戦していた。Bは世界中の人に僕の心の声を伝えるために、僕の思ったことを「~だってさ」と広め始めた。正直、これには参った。僕の行動はBには筒抜けで、Bはそれを世界中の人に言いふらす。

 Bは次第に僕の考えていること、起こす行動を僕が考える前に言い出すようになる。四六時中僕の行動を把握しているBには僕の行動の先読みなど簡単なことだった。それが僕には辛いほど迷惑だった。行動を先回りして宣言されるのは、得てして、コントローラーを握られたロボットのようだった。僕は僕の判断で行動をしているのか、ただBが言ったことをなぞる様に行動をしているのかわからなくなった。いや、その二つにそれほどの違いはない。僕の自由は完全に奪われた。僕が悪態をつくと、Bは「~だってさ」と周りに言いふらす。正直、生きた心地がしなかった。

 声に逆らうように何もしなくなって数日、僕は銀行に向かった。現金が尽きた僕はどうしても銀行からお金を引き出す必要があった。だが、思い出してほしい。僕のネット上の銀行アカウントはBに乗っ取られてしまった。どうしようもなくなった僕はパスポートを握りしめて銀行に行くほかなかった。僕はBが銀行のお金を使っていないことを祈りながら、神さまではなくBに祈りながら僕は銀行に向かう。AはBに言う。「ギリギリのところで全額引き出しなよ」冗談じゃないと僕は思う。Aはどうしても僕に野垂れ死にしてほしいようだった。僕は祈る。懇願する。いままでの非礼を詫びる。といっても、僕はBに対して何もしていない。Aに対しても、会ってすらいない。だからこそ、バカなことを考える自分の思考を許してほしかった。

 結論から言うと僕の貯金は無事全額現金に変えられた。Bは「俺は優しいから」と言っていた。僕はありがとうございます、と何度も何度も呟いた。頭の中ではなく、ちゃんと言葉にした。帰り、僕は教会によった。教会は開いていなかった。僕は玄関の外側で泣いた。大泣きした。なんで僕がこんな目に遭わないといけないのか。僕は神さまを呪った。殺したいとさえ思った。もしこの世に神さまが存在しているのなら僕が殺してやると思った。でも、僕には出来ない。するとBは言う。「お前がしたいことは俺が全部代わりにやってやる」この日、Bは神さまを殺した。実際に見たわけではないが、僕にはわかった。

 僕にひどい目に遭わせた神さまは死んだ。

 お前は誰なんだ。僕はBに問う。Bは高笑いをした後で言う。「俺の名前はルシファー」

 神さまはいなくなった。そして、僕は即席で神さまの代理をすることになった。神さまになって出来ること、それは「神さま命令」だ。「神さま命令」で世界中の人に自分の望みを伝えられる。例えば、もし僕が「神さま命令」を使って僕の頭の中から出て行けと言えば、世界中の人たちの声は僕の頭の中で響くことはなくなるはずだった。しかし、僕はそうしなかった。せっかく手にした万能の力を使わない手はない。僕は「神さま命令」を使って世界をよくすることにした。

 「皆さん、神さま命令です。隣の人を大事にしてください!」
 僕の中で世界中の人の声がする。
 『はーい!』
 僕は周りを見渡してみる。すると、周りの人たちがお互いに対して親切になっている。しかし、親切心が他人に伝わらずに怒り出す人の声が僕の中で響く。即座に僕は思いつく。もっと、もっと神さま命令で人の行動を限定しよう。
 「皆さん、神さま命令です。人に対して怒る前に自分で何とかしましょう!」
 『はーい!』

 僕はこんな偽善的な命令を出し続けた。世界は少しずつ良くなっていく。僕がそう望んだからだ。

 だがしかし、中には神さま命令に逆らうものもいた。例えば、僕が殺人者の近くに居るものはそこから走って逃げろと命令するとする(僕は実際にこんな偽善的な命令を数多く唱えた)。たいていの人は命令に従いその場から走って逃げる。だが、そうできない人もいる。自分が殺人を犯した者はその場から逃げても殺人者から逃げきれない。結果、これに該当する人たちはバグる。僕が次の命令で現在の命令を上書きしない限り、彼らは直前の行動を繰り返す。「自分が殺人を犯している者は悔い改めなさい」という風に。

 バグった人が現れたらすぐに分かった。周りの人が騒ぎ出すからだ。「~がおかしくなった!」「~が壊れた!」という風に。だから僕は神さま命令をもっと細分化して、バグが起こらないようにした。何度も何度も上塗りして、少しずつ世界は完成されていく。

 そして唐突に事件は起こる。

 Aが自殺した。

 僕のせいで変わっていく世界に耐えきれず、彼女は自死したのだ。

 僕は焦った。自分勝手に世界を構築することに満足感こそあったものの罪悪感はなかった。僕は世界をよくしているのだと、自負していた。それが間違いだというようにAは死んでしまった。いままで自分のわがままを通したことはあっても誰かを犠牲にしたことはなかった。僕は悩んだ。

 「神さま命令です。生き返ってください」
 Aは生き返った。そしてまた死んでしまった。
 『ほっといてよ』
 死後の世界からAの声がする。僕はほっとした。これならまだ何とかなる。
 『お前が作った世界は最悪。こんな世界で生きる意味なんてない』
 僕は何としてもAを生き返らせたかった。
 「神さま命令です。自殺はしないでください」
 『はーい!』
 世界中で声がする。
 「A、神さま命令です。生き返って今度は死なないでください」
 『やめて!』
 Aは生き返った。そしてすぐにバグった。Aは僕が理想とした世界観のなにひとつ馴染んでいなかった。

 僕は理解した。Aはバビロンの女だ。バビロンの女とは聖書に記されているキリストの最終決戦の時に現れる獣にまたがった女のことだ。その正体はなぞに包まれているが、僕の前に現れたバビロンの女はありていに言うと拒絶者だ。世界の変革に異議を唱え、力がないながらも僕に逆らい続ける。彼女が僕を拒絶する限り僕には彼女を救うことはできない。僕は一人として犠牲者を出したくなかった。

 どうすればいいのか?

 「神さま命令です。神さま、生き返ってください」
 
 僕は投げた。神さまの座を譲った。人一人の命の重さは僕には大きすぎたのだ。こうして、僕は神さまではなくなった。
 「最後に一つだけ、僕の頭の中でなっている声、出て行ってください」
 すると、声はどんどん減っていった。最後に残ったルシファーとバビロンの女の声も次第に消えていった。

 次の日の朝、僕は喘ぎ声で目を覚ます。バビロンとルシファーだ。
 『きゃー!!助けて!!まだあいつの声が聞こえる。マジで!助けて!!』
 もういい加減にしてくれ。僕はどうしたら解放されるんだ。いっそ誰かに殺されて楽になりたい。
 『自分で死ねよ』
 『そうそう、これを終わらせられるのはお前だけ』
 僕は二人を無視するために睡眠薬を買いに行った。もう無理だ。自分でなんとかしようと思ってた僕が馬鹿だった。寝てる時だけが誰にも邪魔されない僕のセーフゾーンだ。それでも、最近寝ていても誰かの罵声で起きることがあった。睡眠薬を使わないと深い眠りにつけない。動悸が激しくなる。睡眠薬を使っている間だけは頭がぼーっとして、誰の声もきこえなくなっている。本当に僕はこのまま廃人になっていくのかな。そう思いながら睡眠薬を服用し続けた。
 そうして、何も解決しないまま、出国の朝を迎えた。

 空港で荷物をまとめる間も僕はルシファーと話していた。
 「ホントにお前はなんなんだ!?」
 『俺はルシファー』
 ルシファーはそれしか言わない。まるで僕の思考を先読みしてただ音読しているだけのように無感情に。
 「違う。お前はゴミだ。あのゴミ箱に捨てられてる紙くずと同じだ」
 そういうとルシファーは
 『俺はゴミ』
 といった。まるで全自動会話式AIだ。ルシファーは何も考えず僕の行動を世界中に漏洩し、また何も考えず僕との会話を受け流す。僕は一人で疲労していくばかりだった。
 だが、僕の苦悩ももうすぐ終わる。アメリカを出ればルシファーも僕に憑りつかなくなるだろう。わざわざ八百万の神々がいる日本まで僕を追いかけてこないはずだ。逆に、日本に帰ってもまだルシファーの声が聞こえてくるようなら僕は終わりだ。
 僕は飛行機の座席に座る。僕は心の中で「バイバイ、アメリカ」と呟いた。
 『こいつ今バイバイ、アメリカって考えとったで』
 ルシファーはいつの間にか関西弁になっていた。
 「死ね」
 僕は悪態をつく。
 『お前が死ね』
 バビロンの女だ。思えば、バビロンの女ともここでお別れだ。彼女は救いようのない女性だった。
 僕は飛行機に乗った。長い長いアメリカ生活が終わろうとしている。本当に長い旅だった。今から帰るぞ。僕は心の中で日本に残した友達に念じた。
 『おう、待ってるわ』
 友達の声が聞こえてくる。僕は少しだけ心が軽くなった。そうだ、僕はアメリカから逃げかえるわけじゃない。すべてを終わらせて日本に戻るのだ。
 『知ってる』
 なんて。僕は気付いている。この声は友達の声じゃない。僕だ。全部僕が作った幻想なんだ。だから、僕は気付いている。僕は、僕は、僕は精神病だ。きっとアメリカ生活で無理をした代償なんだ。
 『違うよ。これは君が思っているほどこれは簡単なことじゃない』
 今僕の頭の中で起こっていることは全部本当だっていうのか?僕は誰かもわからない声に尋ねた。僕の中にはいろんな人が存在していて僕にはもう誰が話をしてきているのかわからなくなっていた。どうせ、僕の頭の中にだけ存在する人間だ。
 『そうよ』
 じゃぁ、僕がジーザスだっていうのも?馬鹿げている。
 『それは間違い。あなたはジーザスではない。似てるけど全然違う』
 ジーザスに似ている人物。それはつまり神にもっとも似ているということだ。僕は考えを巡らせた。神に最も近いのは誰だ。神に最も近いのに神とは違う扱いを受けてきたのは。そう、僕の頭の中に出てきたのはルシファーだった。
 聖書によるともともと天使だったルシファーが神に対して戦争を起こしたのが、そもそも人間が原因だった。神に最も近かったルシファーは自分を差し置いて神に愛でられている人間に嫉妬し、人間を禁断の果実を用いて陥れた。そのときのルシファーを指した名称が地を這うもの、つまり蛇だ。
 『いいえ、貴方はルシファーじゃない』
 『ルシファーは俺だ』
 そうだった。僕の中にはルシファーもいる。こいつが本物のルシファーなら、僕は他の誰かだ。
 『思い出して。貴方はとても大事なことを忘れている。ジーザスにとても似ている人』
 僕は誰なんだ。ジーザスでもルシファーでもない。それなのにこんな意味の分からない声だけ聞こえてくる。誰か応えてくれ。僕は何のためにこんな状況になっているんだ。ルシファー、ずっと僕を見ていたお前ならわかるんじゃないのか?僕はなんなんだ。
 『お前はジーザスでもルシファーでもない。神でもない』
 それは知ってる。僕がさっき思ったことだ。お前は本当に僕の心の中を復唱するだけのただのAIみたいだ。
 『お前はルシファーではない。ジーザスでもない』
 本当に意味のない言葉の羅列を出すだけの存在だな。お前もきっとルシファーではないのだろう。僕の頭の中のバグだ。
 『違う。お前の正体を俺は知っている。教えてやろうか?』
 どうせ僕の頭の中で考えたことを言葉にするだけなんだろう。意味のない会話だ。
 『お前の正体はな』
 そういった後、ルシファーは少し間を置いた。
 『自殺者だ』
 
 ・・・。それは僕の中にはなかった答えだった。僕が自殺者?馬鹿げている。僕は生まれてこの方自殺をしようとしたことなんてない。
 『今のお前じゃない。生まれ変わる前のお前の話だ』
 そんなバカな話があるか。お前は僕が知らないことをいいことに言いたい放題しているだけだ。
 『まだわからないか?それなら思い出すのを手伝ってやろう』
 ルシファーが僕に話しかけるや否や僕の中に僕の知らない記憶が流れてくる。僕は頭の中の映像をたどっていく。

 そうだ。僕は思い出す。

 記憶は僕が小さい頃の映像から始まった。僕は体の弱い男の子だった。いつも頼りになるお兄さんがいて、僕はお兄さんになんの疑問も持たずについていった。大人になっても僕らの関係は変わらなかった。ただ、お兄さんは不思議な力を持っていて、街行く人がみんなお兄さんを慕っていた。僕とお兄さんは他の従者を連れて旅に出る。僕らは大人になっても働くことはせず、ずっと旅をつづけた。それが世界を救うことになるとお兄さんは僕に言って、僕はそれを信じていた。時がたって僕は恋をする。相手の女の子は自由爛漫な活発な子だった。そして、その子もまたお兄さんを慕っていた。お兄さんもその子に恋をしていた。彼女はやがて従者になる。

 お兄さんと彼女は幸せそうだった。僕は少し辛くなったけど、それでも二人の幸せを祝福した。そうすることが正解だと思ったから。何も持っていない僕よりも、救世主として世の中を導いているお兄さんと一緒にいた方が彼女も幸せに違いないと信じていたから。ただ、お兄さんと彼女の関係は一部の仲間を除いて秘密にされていた。お兄さんは無欲で清い存在としてあがめられていたから。たった一人の女性に愛を注ぐことなど周りが認めなかったから。僕はそれでもいいと思っていた。二人は愛し合っていた。それだけで十分だ。

 彼女が妊娠した。あまりにも突然に事態はお兄さんにのしかかった。世界を救う旅に金銭は持ち込んでいない。衣食住はすべて旅先で出会う従者に負担してもらっていた。お兄さんが清い救世主だと信じている人たちに。お兄さんは悩んでいた。出産にかかる費用が彼にはなかったからだ。お兄さんは一計を案じた。僕はお兄さんの命令で彼の反対勢力にお兄さんの居場所を密告した。銀貨5枚と交換することで僕はお兄さんを売った。僕とお兄さんは似ている。とても似ている。僕がお兄さんの代わりに反対勢力に捕らわれることもあるだろう。だが、お兄さんは僕に抱擁をして自ら捕まった。

 お兄さんは処刑され、僕は銀貨5枚で出産することができた彼女とお兄さんの子を抱き上げた。僕が好きだった彼女はお兄さんの死に泣き崩れた。そして、僕はお兄さんのふりをして最後の晩餐に従者たちを呼び、感謝の意を伝えた。

 すべてが終わり、僕は自殺した。

 僕はすべてを思い出した。僕の名前はユダ・ナザレ。キリストの裏切り者、自殺者だ。

18時間のフライト

18時間のフライト

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-10-01

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