みち

竹松人生

チャプター1

幼いころの思い出はけっこう忘れてるものだ
・幼稚園
すごく人見知りで高いところが苦手、自転車を2才で補助なしに乗れた。
両親は仕事で忙しくて、いつもお姉ちゃんが面倒を見てくて、自転車に乗せて、友達と遊びに行くにも連れて行ってくれた。
そんなお姉ちゃんの作ってくれたパンケーキやインスタントラーメン、誰でも作れる味なのに、ものすごくおいしく感じた。
今でもたまに思い出しては食べたいと思う。

中国へ引っ越す時のことは全然覚えてなくて、人生初の飛行機がどんなんだったかも忘れてる。現地の幼稚園へ入ったのはいいが、何を話してるのかも分からず、トイレへ行きたくても日本語は通じなくて、環境に慣れず、最初の幼稚園はすぐに辞めたっけな。
それから2回ほど幼稚園を移動して、一番自分に合った幼稚園が見つかり、ドラムを始めた。すぐに上達してドラムを通して友達もできた。

そうそう、一度お昼ごはんにふりかけを持っていったら幼稚園の先生に金魚の餌だと思われて、家へわざわざ連絡して確かめられたこともあっった。結局先生も一口食べたらおいしくてはまっちゃったみたいだけど。

・小学校編

現地の小学校へは5年間通った。いくら幼稚園へ通ってたといえど、まだまだ中国語はかたことで、授業についていくのは大変だった。居残り勉強や大量の宿題が出され、泣きながら勉強していたことを覚えてる。

一番最初の試練はお昼ごはんだった。
学校側が給食を出してくれたのだが、それがどれもひどい味をしていて、残すことが毎日のように続いた。中でも一番吐きそうになったものがザリガニを炒めたものだった。泥臭さとそのべちょべちょになったご飯との相性は最悪だったと言える。そのせいかわからないが、午後になるとお腹を痛めることがよくあった。

中国の教育はすごいもので、クラスには勉強が嫌いだという子は誰一人いなかった。国語の音読となると、校長先生が教室にやってきて、上手に読めている子には頭をなでて回るのだ。みんなそれをしてもらいたく必死だった。まあ、俺もそんな中の一員で、漢字のテストや小説を書く宿題ではクラスで一番をとったこともある。

学校が終わっても、友達と遊ぶということはなかったので、5年間はまっすぐ家へ帰るコースだった。中には「日本人を嫌ってる子もいて、小日本人とよく馬鹿にされた。だから正直学校はそんなに好きじゃなかった。

4年生のころ、日本へ一時帰国をした際、姉の旦那さんに幼いころ使っていたぼろぼろろのランドセルをもらった。日本の子供が学校へ背負って行ってるかばんを手にしたとき、はじめて早く学校へ通いたいと、みんなにこのかっこいいランドセルを見せたいと思った。
そんなランドセルを背負って登校を始めて1週間が経つころ、帰り道に日本人学校へ通う親子とすれ違った。
「ねーねーお母さん、あの中国の子ランドセルを背負ってるよ!」
今でもあの時のシーンはよく覚えてる。
次の日からそのボロボロのランドセルはしょわなくなった。

みち

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  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-10-01

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