夏の城

k.ii

夏の城

0.マナツ
 
 ぼくには妹がいたはずだ。
 だって、おぼえている、あの光景――
 真夏の、ひまわりが、一面に咲いているあの原っぱで……
 麦わらぼうしが風にゆれて、しろいちいさなワンピースが、なにかしらない光を反射して輝いていた……
 
 マナツ。
 ぼくの大切な妹の名前。
 どこへなくしてしまったの。
 
 ひまわりが咲きほこる原っぱを、ふと、暗いおおきな影がおおって、……
 マナツ……!
 
 
 
灰色世界Ⅰ
 
1.ぼくたちは  をしらない
 
「ひ、ま、わ、り? なんだい、それは。聞いたことがないね」
 昼休み、いつものように屋上でカケラと一緒にパンを食べていた。
「花。花なんだ。とてもおおきくて……まるで、……」
 屋上を囲うフェンスの向こうには、えんえんと工場がつらなる。同じような灰色をした空。工場のはてしないつらなりと、どんよりたれこめる空のと境い目はよくわからない。
「まるで、……なんだろう。ぼくは、ぼくらは、なにかとても大事なものを忘れている気がする」
 ぼくらがもたれているフェンスのうしろにも、ふりむくまでもない同じ色がどこまでも続いているだけだ。灰色の世界。
 だれだって、こんなつまらない景色を見ながら食事をしようなんて思わない。だけどぼくがいつもここへ来るのは、この厚くてうっとうしい雲の向こうに……
「どこでそれを見たの。はぁ、さては……」カケラが、ぼくをのぞきこんで言う。「また、れいの、じいちゃんの書庫、だね?」
「しっ。それはここでは言っちゃいけない」
 工場がもくもくとふきだす煙の間を、すっ、と黒い鳥の影がよぎった。それはすぐにそのまま、煙のなかへ消えていった。
「ごめんよ、つい……なあ。でも、今度おれも入らせてくれよな?」
「いや、ここのところ、とんと。ぼくだってなかなかうまくは入りこめないんだ。あそこはとにかくおじいちゃんがいないと……」
 突如、向かいのフェンスからつきでた工場の煙突から、黒い鳥が現れた。屋上をいちど旋回するとまた、煙のなかへとすがたを消した。
「グズモのやつめ」
「それより、さっき言ったひまわり。夢で見たんだ」
「ゆ、め、で」
 言いながら、カケラはパンの最後のひときれを口に入れた。
「んだけどもさ、じゃあやっぱり、じっちゃんの『図鑑』とやらで今までに見たことがあるんじゃないのかい」
「ううん」ぼくは首をふって、あたりを見る。
「この話のつづきは放課後にしよう。
 とにかく、その花はぼくは知らない。だけどきれいだった……見たこともない光景だった。どこもかしこも一面に咲いて、そしてあの花はどれも同じ方向をむいていた。まぶしそうにしていた」
 そしてそうだ。「あの子」も……
 ふうん、と言って、よくわからないけどなという表情で、カケラはかたいコンクリの床にねころんだ。
 ぼくはパンの最後のひとつぶを食べおえると、立ちあがってフェンスにのりだしてみた。いつもここへ来て、こうする。
 この厚くてうっとうしい雲の向こうに、なにか、大事なものがある。そんな気がするからなんだ。
 
 
 
2.色のある世界
 
 マナツ。
 
 目がさめたらぼくはまた、この名前を忘れてしまうだろう。
 マナツ。
 ここはどこなんだ?
 ぼくの背たけほどもあるひまわりが、どこまでも続いて……
 空が、青い。
 なんだろう、この気持ちは。
 青い空。
 とても気持ちが、いいんだ。
 おじいちゃんの絵本でよく見たっけ。青い鳥のお話し。ぼくはとてもすきだったけれど、あの青はどうしてか、かなしかった。
 おじいちゃんのお気に入りだった、青い花のお話し。あの花の青は、もっとかなしかった。どうして人は皆、そんなにかなしい青をもとめるの。
 海というもののお話しも、何度か聞かせてくれたことがある。それは、お話しのなかだけじゃなくて、本当にあったものだって。水がただどこまでも、広がっている。どこまでも、深く…… その海も、青い。深ければ深いほど、青い。そしてその底は、暗くて、静かで、時間がとまったみたいな場所だって。ぼくはそれを聞いて、やっぱり青はかなしいんだって、思った。
 ぼくらの世界に、青はなかった。
 ぼくらの世界は、白黒だ。おじいちゃんの『図鑑』を見るまで、色なんてものがあるって、知りもしなかった。赤や黄や緑や、紫にピンクにベージュ…… ぼくは緑がすきだった。昔、世界には森というものがあった。そこには、たくさんの動物がいたらしい。ネズミやカラスやクロネコ以外にも、たくさんの動物が。その動物たちにも、様々な色がついていたという。
 赤や黄やだいだい色は、火の色。人は、火によって世界を発展させてきたというけど、その果てに今のような世界にしてしまったのも火が原因なのだと、おじいちゃんは言っていた。火はもともとは、命のみなもとである「神様」のものだった。人間がその火を盗んだ。ぼくはこの色を見ると、気持ちがあたたくなったり、勇気がわいてきたりして、すきな気がした。ただ、青は、よくわからなかった。
 ぼくは色というものを知る前は、もっと気持ちというものに無頓着だった気がする。感情がもっとはっきりしていなかったような。
 青は、青い鳥や青い花のお話しを聞いたせいもあるかもしれないけど、ぼくをしずんだ気持ちにさせた。かなしい、という感情と合った。それは、ぼくにとってつらいものの気がしたけど、必要なものという気もしていた。
 今……風が吹いて、ぼくのほほをなでていった。
 ひまわりがいっせいにゆれた。
 この空は、とても気持ちのいい青。どうしてだろう。
 
 マナツ?
 きみはどこなんだ?
 
 ひまわりが、さわさわと、風にゆれている。あたりには、ぼくの影以外にだれのすがたも見えない。そこへふと、うしろからおおきな影が、ぼくの影をおおった。影はみるまに、ひまわりの原っぱ一面をおおってしまう。
 
 マナツ。どこにいるの、マナツ……
 
 
 
3.色のない世界
 
 いつものように、灰色がかった空の下、ぼくは学校へ通う。
 灰色の空に向かってそびえ立つ鉄塔の校舎が、見えてくる。
 もうすぐ、この地上の校舎とはお別れだ。
 ぼくは今、小等部の六年目。あの校舎のいちばん高い教室にはじめて入ってから、六年が経つんだ……あのときぼくは、見わたすばかりの灰色の世界に何を思っていただろう。何も思わなかったかもしれない。ぼくはまだおじいちゃんや、おじいちゃんの本と出会っていなかったし、とてもぼんやりと世界をながめていた気がするんだ。
 仮面のように表情のない守衛の立つ校門をくぐり、かたいコンクリに細かな砂のまばらにしかれたグランドを通りぬけ、げた箱に傷んだくつを入れる。
 六年目の教室は鉄塔校舎の一階。あと半年もすれば、この鉄塔の下に広がる地下寮に入る。そして中等部・高等部の六年間は、地上に出てこれないことになる。成績次第では、一生出られないことだってあるという。
 もうすぐその地下寮へ入る。その日が近づいてきているという実感がいよいよ増してきて、急に勉強に身を入れだす友達も多い。
 一限目の算数の時間、教室はしんとしている。
 ぼくはもともと、勉強はきらいじゃなかった。けど最近はいつも、授業中ぼんやりしてしまう。計算、コンピュータ、化学式、この国の決まりや成り立ち……色のない学問。ぼくらは、この国の外のこと、ぼくら以外にもっとたくさんの生きものがいたってこと、それに何よりぼくら自身について、何も教わらない。おじいちゃんの何冊かの本で学んだこと以外にも、もっとぼくの知らないことがあるはずなんだ。こんなことは、口にできないことだけど。
 ときどき、窓の外をながめる。やっぱり灰色の空。たまに見えるのは、いやあらしい黒い鳥の影。
 そうしているといつの間にか昼休みが来て、カケラと屋上へのぼる。
 灰色の空。それでも、ぼくはここへ来る。
 寒い世界が、ほんの少しだけ、あたたくなっている。
 今は、最後の夏休みの前だ。
 
 
 
4.だれがよんでいるのか
 
 ぼくはしゃがみこんで、ひまわりの茎の根元でちいさくなってふるえているしかなかった。たくさんのひまわりの茎が、立ちならぶ柱みたいにずっとどこまでも続いて、迷路のよう。静かで、だれもいない。ただ頭上からかすかな音が。
 上にはあんなにあざやかできれいな花が咲いているのに、ここは暗いんだな……そして今、頭上をあのおおきな影が通りすぎていくから……。
 でも、土があたたかい。ぼくは茶色くて濃い地面の土をぎゅっ、と、にぎってみた。
 もうすぐ。
 もうすぐ、通りすぎてしまうさ。それまで待てばいい。待てばいいんだ……
 だけど、何か、忘れていないか。
 だれかが、叫んでいないか。
 だれが……
 
 
 
5.グランドで
 
「イキ?」
「……カケラ」
 ここは屋上だった。
「どうしたんだ。昼寝なんてめずらしいな。イキらしくもない」
「最近、どうも眠いんだ……」
「まさか、おまえまで家で勉強をはじめたんじゃないだろうな。次は体育だぜ。行こう、もう、昼休みが終わる。ほら、ナチたちはもうグランドに出てきた」
 ぼくらは体操着に着がえて、グランドに出た。女子は、半分はバレーボールをやりに一階屋内の体育室へ、もう半分はグランドのはしのテニスコートに行った。
 もうすぐ地下寮に入る。そのことで、なんて言うのだろう、いてもたってもいられないような、今のうちにこの地面を思いっきり踏んで、飛びはねて、転げまわっておきたいような、そんな気分にさせられる子らもいるようだ。カケラや、ナチ、ミズノ、モモノ、アシタ、それに、ぼくも。
 小等部に入って四年目から、グランドを使わせてもらえるようになった。それまでの体育は、鉄塔校舎の一階にある陰気な体育室で、基礎体力をつくるためのトレーニングや、柔軟体操、マット体操、それから、隊列やら整列の訓練ばかりをやらされた。体操着でグランドに出ると寒く、転ぶとすり傷ができてとてもいたかった。砂もろくにしかれていないんだ。けれど、広いグランドをはしからはしまでかけた時、ぼくは生きているという感じを、はじめて強く実感したと思う。体育の先生がそれを、しぶい顔をするように、苦笑いするように、もしかしたら懐かしむように、見ていたのを覚えている。
 そして、はじめてサッカーをやった時の爽快感。ぼくらはとにかくボールをけりたくて、相手とうばいあい、ぶつかりあい、ときに転んで、立ちあがっては、走った。楽しいという気持ちは、そのときに知ったような気がする。その楽しい時間は短く、一週間に一度しかないその時間が待ち遠しかった。この世界がもっとも寒くなり、外を歩くのもおっくうになる冬でさえも、体育の時間が来ると、ぼくらは急いでうすい体操着に着がえてボールをけりあった。
 五年目になると、ボールをけりあいうばいあうだけでなく、相手のゴールに入れることや、もっと細かいルールを教わった。夏休み前になると、他のクラスと合同で試合をした。そして夏休みには、希望者をつのって他の学校とも試合を行った。
 この国には、ぼくらのと同じ鉄塔校舎が幾つもある。壁に区切られて行くことのできない校区外に、幾つも、同じつくりの鉄塔がそびえているんだという。
 ぼくらは生まれてはじめて乗り物に乗せてもらい、校区の壁を幾つも、幾つも越したところにある共同グランドへ連れていってもらった。そこはおおきなドームのなかで、鉄塔校舎のようにさびたところがなくきれいに整備されていた。きれいすぎるくらいに。ぼくらのグランドのように砂がまばらじゃなくて、一面に砂がしかれて、ならしてあった。
 サッカーコートが他にもたくさんあって、ぼくらと同じくらいの背たけの大勢の男子がいた。色んなチームと、何日もかけて試合をした。ぼくらは皆、緊張していたけど、とても楽しかった。
 ぼくはナチやカケラみたいに、ボールを強くけったり思いどおりの場所へわたしたりするのはうまくなかったけど、足のはやさには自信があった。ぼくはボールをけりながら、何度も、何度も走ったのだった。
 一週間ほど続いた試合のあと、乗り物は再び、共同グランドを出てそれぞれの校区へと生徒たちを運んだ。
 ふりむくと、ドームの向こうに、もっと巨大な、鉄塔校舎を三つも四つもたばにしたような、ひとつの塔が見えた。まっ黒な塔。
 ああ、あれは「都庁タワー」だ……こんなに近くに。ぼくらはこんなところまで来ていたんだ。
 
 今日もぼくは、ボールをけりながら、グランドを走る。カケラにボールをわたして、カケラはナチにわたして、いりみだれて、また転がったボールをぼくはけって、走る。まもなく、最後の夏休みが、来る。
 
 
 
6.なにがうしなわれたのか
 
 おそるおそる、ぼくは目をあけてみた。
 眠ってしまっていたのかもしれない。ずいぶん、時間がたったような気がする。
 なにも聞こえない。とても、とても静かだ。
 ぼくはやわらかい土のうえにしゃがみこんで、背中をまるめたままの姿勢で、ずっとこうしていたみたいだ。
 上を見あげれば、高く伸びた、たくさんの植物の茎の間から青い空の色が見える。花……そうだ、ひまわり。ひまわりの花が、咲いているのが見える。
 ぼくはゆっくりと立ちあがって、一面に咲くひまわり畑から頭を出してみる。
 風が、すうっ、て、ぼくのほほをなぜていった。ひまわりの花をゆらしながら。
 ひまわりの花が顔を向けている方向に、ぼくも顔を向けてみようとしたとき、はっと気づいたことがある。
 なにかが、なにかが、ない……
 なにか大切なものをぼくはうしなってしまったのだと。
 ………
 
 
 
7.消えた本

 ……ぼくは目をあけた。
 眠ってしまっていたみたいだ。
 カチ、カチ、……と、まくらもとの時計の音が徐々に聞こえてくる。時間は、九時。窓の外はうす暗かった。
 ぼくは部屋に入ってすぐベッドへと倒れこんで、そのまま寝てしまったんだ。
 足が、いたむ。五限目の体育のあとが自習になって、ぼくらは何人かで、そのままグランドでサッカーをやったのだった。
 ぼくはゆっくり立ちあがって、窓をあけてみた。
 今日は、皆、どこかとても必死だった。学校のおわりのチャイムがなる十分くらい前、もうだれもしゃべらなくなっていて、ただ、必死で、ボールを追いかけて、走って、けって、また、走っていた。
 空には、一面に、うす黒い雲がかかっている。
 本のなかの夜空は、まっ暗だけども、金色に輝く星がたくさん浮かんでいるのだという。ぼくらのこの世界にも、星はある。だけどそれは、ときおり雲のあいまに、ちろ、ちろと見えるだけで、しろい色をしている。よく目をこらしていないと見えないけど、雲の高いところに、ただしろい点が、ときどき動いているのが見える。
 夏休みまで、あと三日だった。
 ぼくは窓をしめると、暗いろうかに出て階段を下りていった。
 
「イキ」
 母さんが呼んだ。もう、夕食はおわっていた。
「呼んだけど、来なかったから。きっと寝ているのだろうと思ってね。勉強は大変? 夏休みには、もっと必死にならないと」
 ぼくは、勉強なんて、する気はない。夏休みになったら、サッカーがある。それに、もうひとつ別に、考えがあるんだ。ぼくはあいまいに返事をして、席につく。母さんはさめた食事をあたためている。
 父さんは、何も言わない。
 おとなたちは、きまって皆、無口だ。もちろん、ぼくはそのことをはじめからおかしいと思ってはいなかった。だけど、やっぱり、おじいちゃんの本を読んでから。それにサッカーをするようになってから、少し変わった。ぼくらは、なにか、もっとしゃべることがあるんじゃないの?
 ぼくは食事をつづける。
「……」
「……」
 父さんもぼくも、だまったまま。父さん。父さんは、だけど……そう、父さんもおじいちゃんのあの本を、読んできたのじゃないの。だったらなぜ、もっと……
「ごちそうさま……」
 ぼくは、食器を母さんのいる台所へもっていく。
 今日はもう、眠るだけだ。あと三日。もうすぐ、夏休みがくるんだ。サッカーができる。それに、夏休みになればきっとすぐに……
「そうだイキ。おじいさんが、帰ってきていますよ」
「えっ!」
 驚いた。ちょうどいいタイミング。夏休みになれば、と思っていたけれどその前に帰ってきてくれたんだ。
「チッ」
 父さんは、おじいちゃんが帰ってくるといつも不機嫌そうになる。それで今日、よけいに機嫌がわるいのかも。おじいさん、と聞くと、舌うちして、まゆをひそめるんだ。
「だけどまだしばらく忙しいので、と、今日は昼のうちに出て行かれましたけどね」
 ぼくはだけど、地下室への階段へこっそり向かっていた。書庫が開いているかもしれない。開いていれば、あの花のことを調べたい。花の図鑑は見たことがない。あるだろうか。
 スイッチを押すと、しろくてまるいちいさな灯かりが、ずうっと下の下のほうまで幾つもともった。こないだここを下りたのは、初夏になりかけの頃だったろうか。あのときは、おじいちゃんが家にもどっている時間が少なくてあまり見れなかったし、おじいちゃんとも、ほとんど話せなかった。
 せまい階段を下りていくと、だんだん、なんだかなま温かくなってくる。二十も、三十も、ちいさな灯かりがともるのをすぎるといちばん下にたどりつき、おもたい鉄の扉をあける。するとうすい灯かりがともり、巨大な棚がたちならぶおじいちゃんの書庫に、たくさんの本が……なかった。
 本がない。ぼくは目をうたがう間もなく、棚に手を入れ探ってみる。ない。やっぱり、本が、ない。どの棚をまわっても、本が、ひとつもなくなっている。
 ずいぶん、長い時間が経ったと思う。夢中だったけど、広い書庫すべてをまわり、すべての棚をたしかめるのに、十五分、いや三十分くらいはかかったかもしれない。
 ぼくはがく然とした。
 暗い部屋で、ひざを落として、だれもいなくなって一人とり残されてしまったような気持ちになった。
 いや、一人じゃない。そのとき、不思議な気配を感じた。とり残された……本?
 ぼくは、斜め前の本棚と床とのすき間に、一冊、落ちている本を見つけた。そこへ飛びつくように前進して、手を伸ばした。
 確かに、それは本だった。絵本。
『おおきな うみの ゆうえんち』と書いてあった。
 
 
 
8.その向こうにあるもの
 
 たくさんのひまわりが向いている方向へ、目を向ける。青い空のかなたに、まるでお城のように連綿とつらなる、すさまじく巨大な雲があった。
 雲は高く、高くそびえ、視界にうつる青空の半分くらいを隠していた。
 空中の雲がそこにかたまっているみたい。あとは、雲の城から流れてきたのだろうか、ちぎれた雲がぽつん、ぽつんと、ところどころに浮かんでいるだけ。
 あいかわらず気持ちはよかったけれど、ぼくはもうはっきりと気づいていた。
 ひまわり。きみたちは、なにを見ているの。そこに、なにがあるの?
 あの雲の向こうに、きっとぼくのなくしてしまったものが、あるはずなんだ。
 ぼくの、とても大事な……なに?
 
 
 
9.夏休みの前に
 
 書庫に残されていた本は、一冊だけだった。あれからぼくは、同じように本棚と床の間に落ちている本がないかと、一つ一つ棚をまわったけど、見つからなかった。
 ぼくはそのことを、昼休みにカケラに説明した。屋上へ上がる前の階段で、しばらく話していた。それから、夏休みのあいだに、おじいちゃんの書庫の棚一つ分くらいは、本をいっきに読んでしまおうと思っていたことも、話した。
 でもそれももうできなくなった。
『おおきな うみの ゆうえんち』――残っているのは、うすっぺらな一冊の絵本だけ。うす暗がりのなかで、ぺらぺらとそれをめくってみたけど、文字はひとつも書かれていない。絵だけの絵本だった。よく見えなかったけど、たくさんの生きものや、海の植物がえがかれているようではあった。ページをめくるたびに、どんどん、どんどん青がふかくなっていって……最後のページは、まっ暗でなにも見えなかったのだと思う。
 屋上へ出たときにはもう、昼休みは十分も残っていなくて、急いで弁当箱を開けたけどあまり食欲はなかった。なぜか、カケラも、パンを半分くらい残した。
 チャイムが鳴りひびく屋上で、カケラは、ぼくに言った。
「おれ、それ見たいな」
「え……?」
「『おおきな うみの ゆうえんち』。
 な。いいだろう。今日、イキの家、行くよ」
 チャイムが鳴りおわった。
 今は、煙のなかから鳥が姿をあらわす様子もない。
「うん。見ようか、『おおきな うみの ゆうえんち』」
 最後に見る絵本だ、地下寮へ入る前に……。
 こうしてぼくらは屋上を下りた。
 
 ぼくらが教室へ戻ったとき、言い争いをしているのか、だれかがはげしく叫んでののしっていた。
 それはナチの声で、言い争っているのではない、ナチが一人で怒っているのだった。
「カケラ! それにイキも。おまえらは、やるよな? なあ。やるだろ、もちろん」
 なにを……ぼくは、顔をしかめるだけで、声にならなかった。ここにいあわせなかったぼくらに関係のあることで、なにか問題がおきているんだ。
「ナチ。説明してもらわないと、わからないよ。ミズノ、モモノ、どうなっているんだ?」
 ナチの前でうつむいているミズノと、モモノ。ミズノはポケットに手を入れて面倒くさそうにして、モモノはきまりのわるそうな顔をして、何も言わない。
「簡単なことだ」ナチが調子を変えないまま、どなるように言った。
「こいつら、今度の夏休みには、もうサッカーをやらないと言ったんだ」
「えっ」
 ぼくは思わず、ちいさく叫んだ。ぼくはカケラの方を見た。カケラ……今度はカケラが声を出せないで、ただ、驚いた表情でいる。どういうこと。カケラ、どうすればいいんだ。モモノはますますきまりのわるそうな顔になり、ミズノは横を向いてしまった。
「なんで……」
 ぼくが力なく言うと、
「それも簡単なことだ」と、うしろの席から声がした。「勉強をするから、だ。おれたちはもう半年もすれば地下寮へ入る。厳しい勉強が待っている。今のうちに、今まで習ったところは完ぺきにして、できる限り予習もしておかないといけない」
 アシタだった。アシタは昼休みも勉強していたのか、何冊もの教科書が机に置かれていた。
「アシタ、おまえも?」ナチにまた、怒りの表情がもどりかけたが、力をなくしたようにうなだれてしまった。
「おれは、こないだの体育の授業でけりをつけたんだ。おまえたちだって……」
 始業のチャイムが鳴った。
「ほら、もう、授業がはじまる」アシタの言葉には、もう何の抑揚もなかった。周りに集まっていた他の生徒たちも、席へ戻りはじめる。
「おれ、サッカーのことばかりで、みんなよりずっと勉強が遅れてたんだ。最後の夏休みの前になって、みんなもっと集中し出したし、急にこわくなって……だって、地下寮での勉強についていけなくなったら」モモノはそこで言葉をにごして、暗い表情のままアシタのうしろの席へかけていった。ミズノも、窓際の席に戻って、ひじをついて外をながめていた。
 ガタッ、と音がして、先生が入ってくる。
 ぼくはその音にも一瞬驚いてしまった。なんだか、急なできごとに、頭がぼうっとしてしまっていたんだ。最後の夏休み。さっき、ミズノが言った言葉。最後の夏休みに、ぼくらは……
 カケラが、ぼくの手を引いた。
「おいイキ。今は席に着こう」
 先生が、めがねの奥から、いぶかしそうにぼくらの方をにらんでいる。
「すいません」カケラが先生に言って、同じくまだ立ったままのナチの肩をたたいた。
「アシタ!」
 ぼくはまた驚いた。
「アシタ。なんでだ!」ナチがアシタの席までかけよって、机をばしん、と手でうち、大声で叫んでいた。
「最後の夏休み! 最後、最後の夏休みなんだ……地下寮なんかに行けば、もうサッカーはできなくなる。なんの楽しみも」
 守衛が二人、教室に入ってきて、無言で、無表情で、ナチを両脇からつかみかかえると、すぐに教室を出て行った。
 カケラにうながされて、ぼくは席に着いた。
 すぐに、授業がはじまった。
 最後の夏休み。その言葉が、ずっとぼくの頭のなかから消えずに繰り返されていた……
 最後の…… 夏休み……
 最後の…… 夏休みに……
 ……ぼくはどうすればいいの。
 
 
 
10.『おおきな うみの ゆうえんち』
 
※一頁空白。
 
 
 
11.そして最後の夏休みへ
 
「海へ行こう」
 カケラは、そうぼくに言った。
 
 ぼくらはあの日、ふたりでおじいちゃんの書庫に入った。約束はしたけど、おじいちゃんの書庫のことは本当は秘密になっているから、カケラを連れて上手くしのびこむのはちょっとひやひやものだった。
 でも、上手くいった。父さんは、おじいちゃんが帰ってきている間は帰りが遅い。母さんが台所にいるすきに、地下室の階段へもぐりこんだ。
 おじいちゃんなら、きっと見つかっても大丈夫だ。早く会いたい。会って、まずはどうして本がなくなってしまったのか、聞きたい。
 だけど、おじいちゃんは、その日も書庫にいなかった。
『おおきな うみの ゆうえんち』は、もしまだ本が残っていたことにおじいちゃんが気づいて、理由はわからないけど、ほかの本みたく持っていかれたらまずい。そう思って、見つけたときと同じ棚の下に隠しておいた。本がなくなった理由は、わからないけど……。母さんは、おじいちゃんが帰ってきたとは言ったけど、本を運んだとかはひとことも言わなかった。こんなにたくさんの本を、そんなに簡単に運べるのだろうか。だれかと一緒に、乗り物でやってきて、それで運んでいったのかもしれない。
 ぼくは、昨日書庫に入ったこと自体が夢だったとまでは思わなかったが、もしかしたら、本が戻っているんじゃないかとは期待した。でも本はやっぱりなかった。すると今度は、最後の絵本までもなくなっているんじゃないかと不安になってきた。あれは、あの本を読んだことそのものが夢だったとしても、不思議に思わない。なにも文字の書かれていない、青がだんだん濃く深くなっていく絵本……
『おおきな うみの ゆうえんち』は、あった。
 棚と床のあいまに、静かにたたずんで。
 ぼくは持ってきた蛍光ライトで、それを照らした。
 そしてはっきりと見た。ページを、ゆっくり、一つ一つ、ゆっくりとめくって。
 カケラはその間ひとこともしゃべらず、ぼくも、じっと見いっていた。本のなかに、青のなかに、吸いこまれそうで……
 カケラは、「ありがとう」とだけ言って、暗くなりかけの道を去っていった。
 
 
 それから、最後の二日間にあったこと。
 カケラは、学校へ来なかった。休みの連絡もなくて、先生が家へ問い合わせたところ、かばんを持って家は出たらしい。先生はなんの抑揚もなく、そう言った。
 ぼくはとても心配したけど、考えないようにした。カケラのことだ、なにかわるいことやばかなことはするやつじゃない……
 それと、ナチも学校へ来ていなかった。ナチは、先生の説明によると、本人のどうしてもという強い希望があり、彼の体格や技術も認められて、夏休みだけ他のチームに入れてもらい、あの共同グランドへ行くことになったのだという。
 ぼくは、ただ複雑な気持ちになった。ぼくはナチのように背も高くないし、上手くもない。それに、ここのクラスの皆と、一緒にサッカーやりたかったんだ……。
 昼休みは屋上に行く気にもなれず、アシタたちと話しながら食事をするのも気がひけた。
教室の前ですれちがったミズノと目が合って、ぼくは思いきって、本当にサッカーをやらないのかと聞いてみた。
「ナチやカケラには、本当にわるいと思ってる。あいつら、うまかったし、なにより楽しみにしてた……もちろんそれは、おれだって同じだった。だけど、男子の半数以上がやらないって言ってたんだ。他のクラスでも同じ。どのみち、どうしようもなかったんだ。去年も、共同グランドに来ていた六年生は少なかっただろ? 確かに来てはいたけど、来ていたのは皆、ナチくらい体格がよくて、うまい連中ばかりだった。あれはもしかしたら、今朝、先生が言ったみたくナチのように選ばれた生徒ばかりなんじゃないか? それにおれだって、地下寮のことを思うと、恐いんだ……」
 ミズノは最後に、こうつけ足した。
「……知っているだろう。先生は言わないけど、生徒の間でひっそりと噂になってた〝食糧〟のこと」
 
 その日の夜。
 おじいちゃんは、また家にいなかった。
 母さんは、なにも言わない。ぼくは夕食後、一人で書庫へ入った。
 そして、『おおきな うみの ゆうえんち』がなくなっていることに気づいた。
 
 最後の日は、昼まではいつも通り授業があり、昼から終業式になって、おわりだった。
 カケラは来ていない。
 ぼくは、はじめて、一人で屋上へ上った。
 カケラとは、六年目ではじめて一緒のクラスになった。それまでは、サッカーで別のクラスと試合をするときに、とても器用にボールをあつかうのでよく知っていたけど、口をきいたことはなかった。五年目のときに一度、友人らと屋上へのぼってみたことがあるけど、そのときは何人かの六年生がたむろしていたので、すぐに下りて、その後は行くことがなかった。六年目になって一週間くらいたった日、一人で屋上へ行ってみた。
 そこに、カケラがいた。
 カケラは、「よー」と言って、話しかけてきた。それが出会い。カケラは背が高くて、目が鋭くて、話しにくそうだと思っていた。カケラもぼくのことをサッカーの試合で知って、すばしっこいやつだと思っていたんだって知った。少し、うれしかった。
 カケラは、そのときすでに本を読んでいたぼくにとって、他の人より、感情がゆたかに思えて、不思議と、皆が知らないことをこの人も知っているのかもしれないと思わせるものがあった。この人は、もしかしたら、ぼくと同じで、本を読んだことがあるのかもしれない。でもそのことはしばらく黙っていた。
 あるとき、ぼくが書庫の秘密をカケラに言ってみたとき、カケラは「本て、なに?」と言った。「おれらの教科書と別の教科書があるわけ?」
 ぼくはしまった、と思った。だけど、カケラはなにも問いつめず、ただ本の存在に興味を示した。秘密だということをすぐに理解してくれて、だれにもそのことは言わないと約束すると言い、それを守ってくれた。
 ぼくらは昼休みには、サッカーのこととか、友人のこととか、たあいもない日常、散歩にいって面白い場所をみつけたとか、ネコをふんだとか、そんなことを話した。放課後、皆が帰った教室とか人の来ない廃工場とか、絶対に聞かれないところで、本で読んだお話や知識をカケラに話した。書庫には難しい本ばかりで、物語以外はあまり知らなかったけど。話している間に、思い出して、ぼくもまた本が恋しくなった。
「どうして、そんなすばらしいものが、ないしょにされているんだろう」
 一度、カケラは真剣な面持ちで、
「もちろん、秘密だということはわかっている。だれにも、言わない。でも、ただ、不思議なんだ。おれはぐうぜん、イキと出会って、現実にはないこんなに面白い話を聞けるようになった。イキも、たまたま、そういうじいちゃんがいたから、本に出会った。だけど、おれたち以外のほとんどの人は、どうしてこんなすばらしいものに、出会えない」
 そう言ったことがある。
 ぼくはそのときはじめて、はっとした。
 たしかにぼくも、おじいちゃんがいなければこんなに楽しい経験はできなかった。本に出会うまでのぼくは、なんていうのだろう、もっと、うすっぺらな気がした。どうしてだろう。おじいちゃんは、最初にぼくを書庫に入れたとき、絶対に秘密だと言った。ここにあるような本はもう世界にはほとんど残っていなくて、だれでも読めるものではないんだって。どうして。みんなが、見れたならいいのに。
 
 カケラのいない屋上。
 ここにはなにもない。なんだか、さみしい。さみしい、か……みんなは、こんなこと、思うのだろうか。なにかを求めたい気持ち。青い鳥を求めた子どものように。ナチも、ミズノもモモノも、それにアシタだって本当は……
 なまぬるい風が、ほほをなぜた。
 風。
 もっと気持ちいい風が、あるはずだ。
 ぼくは、立ちあがって、屋上から下をながめた。
 あの花。ひまわりが、一面に咲いている風景。どこまでも広がる、空。青い、空。
 そんなものが、あるはずもなかった。
 ただ、灰色の工場と灰色の空がどこまでも続いているだけ。
 だけどぼくはあの光景が忘れられないんだ。ひまわりの原っぱに風が吹いて、青い空があって、そして、その向こうに……その向こうに、あるもの……
 
 チャイムが鳴った。終業式のおわりのチャイムが鳴るまで、ぼくはぼくのなかにずっとひまわりの原っぱを浮かべて、ただそこに行きたいと願った。
 
 学校の帰り道の曲り角。ここを曲がればもうぼくの家が見える。ぼくは少し立ちどまる。ぼくは、どうすれば……足を踏み出そうとしたとき、うしろからふいに手をひかれ、ぼくはふり向いた。
「海へ行こう」
 カケラだった。
 カケラは、そうぼくに言った。彼の片方の手には、『おおきな うみの ゆうえんち』がにぎられていた。(灰色世界Ⅰ・おわり)
 
 
 
 *
 
 ここは、どこ……
 風が。
 風が吹いている。
 とても、純粋な風。風との距離が近い。
 おそるおそる、踏み出して、のぞいてみる。
 真下、一面に広がる……あの花はひまわり。
 はるか遠い地上一面にしきつめられたひまわり……
 どこかで、だれかが、よんでいる声が す る …… … …
 
 
 
灰色世界Ⅱ ~夏休みの向こう側~
 
12.外への道
 
 ぼくとカケラがやってきたのは、以前にも来たことのある工場の残骸地だった。
 
 海へ……
「海へ行こう」
 あのあとぼくはただうなずいて、そのまま、カケラと一緒に走った。なにも持たずに。曲がり角を曲がれば家が見えたけど、ふり向かずにきた。一度戻れば、もう、カケラはその間にいなくなって、ぼくは一人で、なにもない、だれとも会わない夏休みをすごさなきゃならないことになる気がした。
 工場残骸地は、ぼくらの区域のいちばんはずれにあった。少し小高い丘になっているので視界がよく、一度工場にもぐりこめば、だれか外からやって来ないかよく見えたし、あのいやな鳥が飛んできても、すぐに注意することができた。
 丘の向こうには、区域一帯を囲う壁が伸びている。高い壁。
 海へ……
 海へ行く? どうやって。
 そう、あの壁がある限り、ぼくらはどこにも行けない。どこにも、行けやしない。
 ぼくはカケラの方を見た。カケラも、ここまで一気に走ってきて、息をきらしている。
「海へ行こう」
 さっき、カケラはたしかにそう言った。それからぼくたちは一度も口をきいていない。本当に、カケラは海へ行くつもりなのだと思う。ぼくにはそれがわかった。だけど、ぼくはひとつ、わからなかったことを聞いた。
「カケラ。今まで、いったいどこに行っていたの……」
「この世界の外へ出るんだ。とにかく。どんどん、外へ、外へ行くしかない。海へたどりつくまで。いくつでも、あの壁を越えて」
 カケラはしゃべりながら、息をととのえていた。すぐにも落ちついた様子に立ち戻り、言葉をつづけた。
「イキは、むかし、あらゆる川が、海へとつづいていたと言っていただろ。あらゆる水は海へ。おれは調べていたんだ。この町の下水を。
 行こう。
 下水は、壁にはばまれずにとなり町へ伸びている。水をたどって行くんだ」
 そう言えばカケラの服はうすよごれて、とくにくつはぼろぼろになっていた。
「……その先に」ぼくも、ようやく息を整えながら言った。「きれいな海が、あるのかな……ぼくらの世界のよごれた水の行きつく先に……」
 ぼくは、屋上からの景色を思い浮かべた。高い壁の向こう側にも、ずっとつらなる灰色世界を。世界をおおう灰色の雲……
 そのとき、ぼくの頭のなかの灰色の風景が、突如ぬりかえられたみたいに、あの景色がよみがえってきた。青い空の下、ひまわりの立ち並ぶあの景色……
 ぼくはもう一度カケラの方を向いた。
 カケラはぼくの目を見て、うなずいた。
「おれのかばんにパンをつめられるだけつめこんできた。そんなにはもたないだろうけど、もし長い旅になるのなら、どうせ行き先でどうにかしなきゃなんないからな」
 この旅は、夏休みのうちにおわるのかな。ぼくらは戻ってこれるのかな。ぼくらは、夏休みを越えてそのままどこかへ行ってしまうかもしれないな……
「この世界の外へ出るんだ。とにかく……外へ……」
 外へ、外へ続く暗く長い道をぼくは思った。それでも、行こう。外へ。
 
 
 
13.夢の女の子
 
 わたしは今、とても高い場所にいます。
 ここへ来るまでに、おそろしく暗い夢のなかをさまよっていた気がするの。
 そのもっと前は……?
 ……よく、わからない。よく思い出せないの。
 教えて。
 ここは、どこなの。
 わたしは、ここで一体、なにをしているの。
 なにをするために、ここへ来たの。
 ここへ、来た……連れて、来られた? だれに? いつ? ……
 
 
 
14.やみの旅
 
 うす暗がりのなかで、ぼくは目をさました。
 となりに、カケラがいるのを確認した。まだ、寝ているみたい……。
 さっき、女の子の声が聴こえた気がした。
 もちろん、ぼくとカケラのほかにはだれもいない。
 ぼくらは昨日、この下水へ二人で入りこんだ。町はずれの、工場残骸地からそう遠くないところに、カケラは下水への入り口を見つけていた。かつてこのあたりにあった工場群が使用した水が流れこむところだったようだ。人もなく、鳥が見張っている気配もなかった。ぼくらはひとまずは無事に、下水へともぐりこむことに成功したのだった。
 そのとき、もう夕ぐれ前だった。それから、どれくらい歩いたのかしれない。疲れて眠りこんだから、一晩はすぎているだろう。それとも、少し眠っただけ? 疲れは、完全にはとれていない。布団もなしに眠ったので、体も痛む。
 ぼくらの入ったところは、もう使用されなくなって久しい工場の下水口だったから、水はなかった。下水の通っていた道をたどってぼくらは歩いた。カケラは学校を休んでいる間にすでに幾らか入りこんで探っていたので、迷うことなく、水の音聴こえるところにたどりついた。
 そこはもう、区域の壁のあたりだとカケラは言った。上に続くトンネルがあったので上って確めてみると、すぐ目の前に壁の見える位置に出たという。グズモ――あのいやあらしい鳥が何羽もたむろしていたので、急いで逃げ戻ったのだと。
 サァサァサァサァ……と、途切れることなく流れる下水の音が、ぼくらをせかしているようにも思えた。ときどき、ゴブゴブ、と、ごみや屑が浮き沈みしながら流れてくるのだろうか、不穏な音が混じってきこえる。サァサァサァゴブ、ゴブゴブ、サァサァ……
 ここからは、下水路のわきの細い側道をたどって進むことになる。水の流れる方向へ、ただひたすら……。 
 ぼくらは歩いた。どれくらい歩いたのかしれない。
 何度か、下水の壁に鉄の扉があるのを見たけど、どれも固く閉ざされていた。ぼくらは側道の脇にくぼみのあるところを見つけて、そこで眠ることにしたのだった。
 サァサァ……起きた今も、眠りの前と変わらない手招くような下水の音が聴こえるだけだ。
「イキ……もう、起きていたんだな」
 カケラが、重たそうな声で言った。
「うん……今さっき、起きたばかり。ぼくら、もうどのあたりまで来たろう。幾つの校区の壁を抜ければ、海へ着くのだろう。どんな海が、今のぼくらの世界にあるのかしれない。ぼくらは、その海へ、たどりつけるだろうか」
 そしてこの世界の外には、あの色のある世界が広がっているのだろうか……あの、ひまわりの咲く原っぱが、そこにあるのだろうか……
「カケラ、疲れていないかい?」
「だいじょうぶだ……イキ、まだパンは硬くなっていない。これを食べて、また進もう。水筒もまだ半分以上残っている」
 サァサァサァサァ、ゴブ、サァサァ、ゴブゴブ、……
 
 
 
15.夢の女の子2
 
 わたしは、この世界にないものをつくる。
 ラララ……ララ……
 聴こえる?
 ラララ……
 わたしはこの声を、皆のために聴かせたい。
 今は、あなたのために聴かせたいのに……
 ララ……
 なぜ、わたしは、この高いところで、一人でいるの……
 ラ……
 
 
 
16.たどりついたのは
 
 もう、ぼくらに時間の感覚はなくなっていた。
 ずっと、同じうす暗やみのなかを、歩いて、パンを食べ水を飲み、寝て、またパンと水、そしてまた、歩き、……ずっと変わりのない下水の音。サァサァサァ…… ときどき、下水に流されて進んでいるような感覚におちいる。
 それと、ぼくには、不思議な、女の子の声が聴こえる。最初、夢のなかのことだと思っていた。今は、起きているときも、たまに聴こえる。しゃべっているのではない。ほんとうに、不思議な……なんだろう。流れにのって、浮き沈みするような、声……気持ちがいい。ぼくはもう海へ着いて、あの深い青のなかを漂っているのではないかしらと思う。
 だけどふと、下水のいやなにおいと、ゴブゴブ、という不快な音でわれに返ると、そのきれいな声はやんでしまっている。
 カケラには聴こえていないのだろうか。ほとんど、二人とも口をきかなくなっている。ほんとうに、どのくらいぼくらは歩いたのだろうか。
「イキ……」
 ずいぶん、かすれた重たい声で、カケラが言った。ぼくは、どれだけぶりかで、返事しようと口を開いても、すぐに声が出てこなかった。カケラはぼくの様子を確認して、そのまま続けた。
「もう、パンと水がだめだ。パンは、この前起きたとき、もうすでに硬くなりすぎていたけど、それからどうもかびがはえている。それにもう、どうせ少ししか残っていない。水も、だ」
「……ん、……あ、どう、する、の……」
 ぼくはようやく、声が戻ってきた。
「どこまで来たのは、さっぱり、わからない。おれたちの住んでいたところと同じような町が、幾つ壁を越えるまでずっと続いているのか、それとも、もう違う風景に変わっているのか。一度、近くのトンネルから、外へ出てみるしかない」
 今までにも何度か、上へぬける小さなトンネルはあった。他の下水が合流して流れてきているトンネルもあったし、人が降りるためのはしごが付いているものもあった。
 一度外へ出てみる。ぼくは少しほっとした気分になっていた。海へなど着けずに、このままどこまでも、暗く長い下水路を歩いていくだけだったらどうしようという不安。いや、そういう不安と思う気持ちさえも、なくなってきそうに思えていたから。
 ぼくは、外に広がる青い空とひまわり畑を思い浮かべながら歩いた。
 間もなく、はしご付きのトンネルが脇に見えた。カケラはうなずいて、それを上っていった。どれだけ上ってもいっこうに明るくならないと思っていたら、ゆきあたりになった。ふたがされていたのだ。ぼくらは幅の狭いはしごにしっかりとつかまり、二人でふたを押しあけた。まぶしく目に入ってきたのは、だけどやっぱり、灰色の世界だった。目がうす暗やみになれていたから、こんな灰色の世界でもまぶしく感じたのだ。
 すぐ目にうつったのは、……塔。
 鉄塔校舎より何倍も太く、まっ黒な、そう、それはまぎれもない、都庁タワーだった。そしてそのとき、急降下してぼくらに飛びかかってきたもの。
 グズモ。グズモだ!
 都庁タワーの周囲には、きっと侵入者を見張るたくさんのグズモがいるのだろう。ぼくらの町でも、不審なことをする者を見つけると警報を鳴らして、守衛や警備員を呼び寄せる機械の鳥。
 ぼくらは転がるようにトンネルを下りた、いや、ほとんど、落ちた、と言っていい。
 ふたを閉める間なんてなかった。たくさんの黒いものが、ぼくら目がけて舞い降りてくる。
 
 
 
17.夢の女の子3
 
 ああ、わたしを呼ぶ声が、いつの間にか、聴こえなくなってしまった……
 わたしはここにいる……ずっと、ここにいるのに……
 
 わたしは、わたしをここへ連れてきた、とてもおおきな手を思い出す。
 わたしをこんなところに連れてきた手なのに、憎めない手。
 その手は温かだった。懐かしい、においがした。
 わたしに色んなことを教えてくれた。
 しろい ピアノ 弾くこと。
 それに合わせて ラララ って 声を出す そう 歌。歌を歌うこと。
 ページをめくること。
 あたらしい 言葉を探すこと。
 そして自分だけの言葉をつむぐこと。わたしだけの歌をつくること。
 でもそれはだれのために。
 その手に連れられた先で、わたしはずっと、歌ってきたと思う。
 だけど、わたしはわたしの歌を聴かせたいほんとうの人がいたはず。
 なのに、それができなくて……
 今わたしは、一人で、ここにいる……
 
 
 
18.都庁タワー
 
 都庁タワーは、世界のまん中に立っている。巨大な塔だ。まっ黒にぬられている。
 都庁タワーには、選ばれた少数の人たちが、暮らしている。その人たちは、この世界の指導者たちだ。
 都庁タワーで生まれた、この世界を担っていく指導者の子どもたちは、最初から都庁タワーでふさわしい教育を受け、指導者をついでいく。
 それから、高等部に進級する時点で行われる進級テストでA判定を受けたほんの一にぎりの人たちも、都庁タワーに移ることになる。なかには、とびぬけた才能を発揮して指導者の仲間入りをはたす者もいるらしい。多くは都庁タワーで高等教育を受け、学校の先生や工場長として、卒業後、色んな町に送られることになる。特別に体力や力のある者も、都庁タワーへ入って育てられ、そういう人は守衛や、なかには体育の先生になる。ほかに、もっと少ないけど、特別な技術や才能を持つ人も、都庁タワーにいるって聞いたことがある……
 普通の人は、B~Dの判定を受け、地下寮でそのまま学力に合わせた高等部のクラスに振り分けられることになる。そこで、それぞれが将来することになる仕事の技術や技能を教えられる。B、C、Dと下がるにしたがって、過酷で汚い労働に就くことになる。だから、皆が勉強のことを気にするのは無理もないと思う。Dの人というのは、ぼくらの町では見たことがない。そういう人たちは、もっと郊外に暮らしているだって。郊外。より、外側の世界……もしかしたら、その人たちだったら、海を知っている?
 もう一つ、E判定というのがあって、その判定を受けたものもまた、都庁タワーに行くことになるんだ。だけどその人たちは、そこで教育を受けるわけじゃない。都庁タワーにも、地下がある。そこへ送られるという。そこでどうなるのか、ただ、Dの人よりもっと過酷なことをするとか、悲しいことになるとか、あいまいなことしか聞かない。生徒の噂では、なぜだかしらないけど殺し合いをさせられるとか、実験という色んな方法で殺されるとか、そうして殺されたあとは〝食糧〟にされるのだとかいうことになっていた。
 ぼくらは「にく」を主食にしている。ほかには「やさい」や「ごはん」がある。「やさい」や「ごはん」は、ぼくらの町でもビニルハウスや管理工場で作られている。だけど「にく」の工場というのはない。ある友だちは「にく」の素材こそが〝食糧〟にされた人たちなのだという。実際「にく」というものがどこで作られているのかは、授業でも習わない。ぼくはおじいちゃんの本で、かつてウシやブタというものがいて、それが「にく」の材料にされていたと読んだことがある。だけどそういった生きものは、ぼくらの町にはどこにもいないのだ。郊外とよばれるところに、ウシやブタはいるのだろうか。だとすると、かつてあった畑や原っぱも、そこへ行けばあるのだろうか。ひまわり畑も……
 外へ……外へ。ぼくらは向かっていたはずだ。
 だけど、まさか、下水は都庁タワーへ通じていたの?
 ぼくらの目の前にあらわれた都庁タワー。
 ぼくらは、必死で逃げた。機械の鳥たちに追われて。あの暗くて細い道を、ひたすら戻った。ぼくは何度か、腕や足に、鋭い痛みを感じた。羽音が間近に聴こえて、グズモのまっ黒な影がすぐ横をよぎった。ぼくを先に行かせてうしろを走っているカケラが「イキ。振り向くな、はやく逃げるんだ!」言いながら、持っているかばんで、まつわりつく鳥たちを打ち払っていた。
 ぼくは走った。
 脇を流れる下水へ落ちたら、タワーの方へ逆戻りに流されてしまう。流れは速い。いやその前に、溺れて、死んでしまうかもしれない……
 すぐ前方の壁にある鉄の扉が開いた。と思うと、おおきな手が現れ、ぼくをつかんだ。
「イキ!」
 カケラの声が響いた。
 ぼくは、鉄の扉のなかへ引きずりこまれた。
 
 
 
19.夢の女の子4
 
 わたしは、わたしのちいさな手をにぎる、温かで、おおきなあの手を、思い出してみる。
 ここへ来る前、わたしは灰色の世界にいた。
 わたしがずっとちいさかった頃。
 おおききな手に引かれ、わたしは、とても暗い場所を通って、ここへやって来た。
 長い、長い階段を上った。
 手はずっとわたしの手とつながれていた。
 だけどいつしかその手は離れ、わたしは、一人に……
 わたしが見あげたとき、その手を放した人は目に水たまを浮かべて……
 
 
 
20.おじいちゃん
 
 見あげると、そこには……おじいちゃん?
 そうだ、この手……今、確かに、おじいちゃんのおおきな手が、ぼくの手をつかんでいる。
「おじいちゃん……」
「イキ。おかしなところで再会したものじゃな。なににしても元気でなによりじゃ」
 ぼくは手足にこまかい傷をおってはいたけど……そうだあの、鳥たちは……? ぼくのうしろで、鉄の扉は、固く閉まっている。
「カケラ。カケラが。おじいちゃん、……!」
「イキの友だちかな?」
 見ると、おじいちゃんの斜めうしろに、カケラがうつぶしていた。体に、細かいけどぼくよりもっとたくさんの傷を受けている。
「大丈夫……なの?」
「うう……」
 イキは、うなだれた声をもらして、横になったままこちらの方を向いた。苦い笑みを浮かべて。
「ははは」おじいちゃんは笑って、「男子が、ちょっとくらいのことでへこたれるようではいかんからな。しかし、いやにばたばたしていると思ったら、地下で鳥があばれておったとはなあ。しかも襲われておったのがわしの孫とは。イキも地下にもぐりこむなぞ少しくらいはいたずらをするようになったか」
「地下……そうだ、おじいちゃん、ここは……?」
「ここは、おまえの家じゃよ」
「えっ?」
「おまえの家の、地下の書庫の、そのまた一つ下じゃよ」
「書庫の下に、まだ、地下があったの?」
 あたりは、書庫よりもっとうす暗い。だけど少し離れたところに、書庫と同じうすい灯かりが、一つ見えた。鉄の扉のためなのか、すぐ向こうに流れるはずの下水の音も、あのいまわしい鳥たちの羽ばたきも、ここではもうきこえない。
 書庫。ぼくは、本のことを思い出した。
「おじいちゃん。本……書庫の本は、どうしたの。ぼく、夏休みにたくさん読もうと思っていたんだ……最後の、夏休みに……」
「ああ、うむ。本か……本はな、今はもうタワーのなかじゃ」
「タワーって、都庁タワー? どうして……」
「イキ。わしはな、都庁タワーの人間じゃ。わしは都庁タワーで、「うた」を教えておったのよ。タワーの人間は、地下を伝って、この世界のなかならどこでも行き来することができる。もっとも、都庁タワーの人間で、わざわざタワーを出たいと思う者など、ほとんどおらんがな」
 おじいちゃんが、都庁タワーの……? それからなんだって……
「う、た、……」
「そう。詩(うた)とか、歌(うた)とかな……この世界から、消されてしまったものだよ。おまえたちは、知らない。おまえたちには、与えられないものなのだ。今は、タワーに住む少数の支配者たちが、その慰みにするだけのものだ。かつて、世界はうたにみちあふれておったのに……うたとは物語であり、うたとは音楽であった……それらはもう、失われてしまったのじゃ」
 ぼくは、わけがわからなかった。だけど、うた……どこかでそれを……?
「うむ。イキ、おまえにもな、おまえがまだ本当にちいさい頃、教えたことがあるんだよ」
 ぼくが、もっとちいさいころに、うたを……? 覚えていない。でもそうじゃない、ぼくはそれを聴いた。うた。暗やみのなかで聴こえたあれは、きっとそうだ。
「おまえが小学校に入る前に、詩や音楽や、それにまた絵などの才能を見せていれば、おまえも今頃、都庁タワーにいただろうがのう。そう、あいつと一緒に。おまえの……」
「えっ……」
 ぼくが、都庁タワーにいたかもしれない? それに、あいつ、って……
「いや、なんでもない。だがわしの孫じゃ、おまえも、もっとすれば、きっと詩や歌の才能が芽生えたかもしれんのになあ。しかしせめて、詩を読んだり、歌を唄ったりする楽しみだけは、奪わんでもよいものを……わしはせめて、おまえにも、おまえの父さんにも、その楽しみは味わわせてやろうと思ってな。でも中等部、高等部の教育を受ければ、おまえだって、今の父さんみたく、そんな楽しみは忘れさせられてしまうじゃろう」
 じゃあやっぱり父さんも、かつては本を……
「ぼくは忘れたくないよ……おじいちゃん。ぼく、カケラと、この世界を出たいんだ」
 カケラは、床で、疲れが出たのか、眠ってしまっているみたいだった。
「ふむう。この世界を出て、おまえとカケラはどこへ行く」
「カケラは、海が見たいって言った。ぼくは、花が……ひまわりの花がたくさん咲いている原っぱへ行きたい。そしてその向こうにあるぼくの大事なものを見つけたいんだ」
 おじいちゃんは、ぼくの手を離し、一度横を向いてから、少し難しい顔をした。だけどまたすぐにぼくの方を見て、そのときにはもう笑顔だった。
「うん。では、行きなさい。外へ。外の、いちばん外へ行ってみるといい。果てはまた、中心とつながっているものでもあるしな……」
 手は、もうにぎられることはなかった。
「この地下の道を……ずっと、進みなさい。つきあたりまで行けば、そこで地上へ出ればよい。そこが、おまえたちの目指す「外」かどうかは、実際に行って、見てみるのじゃ。その目でな」
 
 
 
21.階段をあがってぼくらが見たのは
 
 ぼくらはずっと長い間、暗い道を、ところどころしろい灯かりのともるなか、歩きつづけた。だれとも出会うことはなかった。ときどき、道が分かれて脇へそれている場所があったけど、そういうところには上り階段が一つあるだけで、迷うことはなかった。ぼくらは、いちばんつきあたりになるまで、階段は上らない。いちばん、外側へ行くまでは……
 道は、いつかはおわる。
 ぼくとカケラは、その長く細い道をつきあたりまで歩き、狭い階段を上った。階段を上りきったところにある扉を開けて外へ出ると、そこにあったのは、ぼくらのいたところと同じ、灰色の空、灰色の工場の立ちならぶ、灰色の世界だった。
 
 
 
22.ヨドミ
 
 ぼくとカケラは、その町を歩いてみた。
 ほとんど、ぼくらの町と変わるところはなかった。工場と、同じ形の家が続くばかり。見あげれば、灰色の空。
「ここが、ぼくらの世界の、いちばん外側だっていうのか……」
 カケラは、なにも言わなかった。
 雲が、ぼくらの住む町より、もっと厚いようにさえ思える。
 時間はまだ、昼間だったけど、人のすがたが見えなかった。もう夏休みに入っているだろうから、子どものすがたも見えてもいいはずだ。そう言えば、この町には鉄塔校舎らしき建てものは見あたらない。
 町のはずれに近づいてきたのだろうか。家も工場も、まばらになってきた。そして少しひらけたおおきな通りに出て、ぼくははっとした。
 通りの、反対側の歩道が、視界から消え入るあたりに、ぼうやりと一つだけ伸びている、あれは……ただの棒じゃない、その先っぽに、おおきくひらいた、あれは……花。花だ。
 ぼくがそこへかけだそうとすると、カケラがぼくの肩をつかんだ。
「カケラ? 見て、あれ、花だ。あの花がぼくが夢で見た……」
「待って。ほら、あちらを」
 ぼくが行こうとした通りの向こうから、ざっ、ざっ、と、音が聞こえてきた。すぐ、それはとても大勢の人たちが、こちらへ向かって歩いてきているのだとわかった。
「どうしよう、あの人たちになにか……」
 いや、なにも聞くことなんて、ない。海はどこにあるのですか? ひまわりのある原っぱはどこに、なんて……ああ、でも。あそこに一本だけ立っている、あれは、そう、ひまわりじゃないの……?
 大勢の人たちは、通りにはっきりとすがたを現し、こちらへ向かって歩いてくる。だれも、脇にあるそれに目を向ける者はいない。そのうちに、人々の群れに隠れて見えなくなってしまった。
 ざっ、ざっ、と、段々近づいてくる人たちの顔は、皆同じように、下を向き、ほとんど表情がなく、どんよりとして見えた。表情のない人の群れが、通りいっぱいを埋めつくし、次々に押し寄せてくる。
 ぼくは、なんだかそらおそろしい気持ちになって、今度はカケラの肩をぼくが叩いた。カケラもうなずいて、ぼくらは通りの隅っこに沿って、もときた道を引き返そうとした。すると……
 ぼくらがやってきた方向からも、ざっ、ざっ、という、同じ足音がきこえてくる。こちらも、どうやらすごい数だ。
 ぼくらは、人の群れにはさまれてしまった。
 人々は、この広い通りに集まってなにを始めるというのだろう?
 カケラも、どうすればいいのかわからないといった顔をして、ぼくを見ている。
 そのとき。
「こっち」
 ぼくらのうしろの塀の向こうから、確かに声がした。
「こっち。ほら、この塀くらい、越えられるでしょう?」
 女の人、いや、ぼくらと変わらないくらいの、女の子くらいの声だ。
「イキ。おれにつかまれ」
 カケラが、ぼくを肩ぐるまする形になった。ぼくはカケラの肩に乗って、持ち上げられた。なんとか、塀の上に手をかけ、よじ上る。塀の向こうは、工場だ。今度はぼくが、まだ下にいるカケラを引き上げようと手を伸ばすけど、もう少し……届かない。と、ぼくのとなりに、さっきの声の主だろう、やっぱりぼくらと同じ年くらいの女の子が、塀の上にひょいと飛び乗って現れた。黒い服の、短い髪の子。
「ほら。わたしが押さえているから」
 ぼくは女の子にうながされて、半身を塀から投げ出し、両手を伸ばして、カケラの手をつかんだ。ぼくはそれだけで精一杯になってしまったけど、女の子がぼくの体を引き上げてくれた。すごい、ぼくよりずっと強い力……
 カケラが上りきる頃に、通りをやって来た人々がぼくらの前の道をと通っていった。そして、反対側からやってきた人々と、言葉もなく、すれ違うのだった。しばらく行列が続き、それぞれが、やって来たのと反対の方向へと去っていった。
 驚いたことに、ぼくがさっきかけて行こうとした通りの向こう側は、そのまま幾らも進むと、もうもうとした煙におおわれているのだった。人々は、ぞろぞろと、その煙のなかへ入っていく。
 ぼくらは言葉もなく、その光景を塀の上から眺めていたわけだけど、人の群れは皆ぼんやりと下を向いて歩いて、ぼくらに気づく者は一人もなかった。
「あの人たちは……」
「星になりにいくのよ。交代で」
「星、に? きみは……」
「わたし、ヨドミ」
 
 
 
23.この世界
 
「ここは、いったいどこなの? ぼくらのいた町と、なにか違う……」
「ここは、そうね、この世界の果てよ」
「ええ? ……やっぱり、ここが……」
 ぼくらは塀を下りて、ヨドミという少女の案内で工場へ入っていった。その工場は、使われていないようだった。ぼくとカケラは、工場の休憩室で仮眠をとった。
 起きるとヨドミが、工場の台所で料理を作ってくれていた。
「きみはどうして、一人でここにいるんだい。さっきの大勢の人たち……この町の人たちだろう? あの人たちは、一体なにをしているというのだい? 星になりにいく、って確かきみは言ったよね……」
 ヨドミの作る料理はとてもおいしかった。ヨドミ自身は、あまり食べていないみたいだけど。
「まず、わたしのことならただ一人でいたいだけ、だから。それから、ここの人たちは……そう、星になるの。もう、夜でしょ。見にいきましょう」
 ぼくらはもう一度、あの塀のある場所へ出てきた。工場の荷物置き場を階段代わりに、ぼくらは三人で塀によじ上った。
 ぼくらの世界の夜は、あまり暗くならない。厚い雲の垂れこめているのが、ほとんどくっきりと見える。ここは本当に、雲が厚い。町の工場からもうもうとわきあがっている煙と、ほとんど一体化している。いや、よく見ると、雲が、空から地面へ下りてきている……? もしかして、ここが世界の果てって、……本当に、空が行き止まりになって、行き場のない雲が地面に流れてきている……? そんな、まさか……
「見て」
 ヨドミが、空の一点を指さした。
 星。ぼくの家からもときどき見えていた、あのしろい星が、とても、おおきい。そして、ふっと動いて、雲のなかに隠れてしまった。でも、あっ、あそこにも、あっちにも……まるい、おおきなしろい星が幾つも、雲の切れめを縫って動いている。
「この町に住んでいるのは、D判定のなかでも最も下のクラスになった人たちなの。ここの人たちは昼も夜も、交代で、あのしろい乗り物に乗りこんで、この世界の壁を修理しているのよ」
「乗り物……ぼくらの世界の星が。それに、ぼくらの世界の、壁、だって……?」
「そうよ。壁と言ったって、区域に張り巡らされているような、まっすぐの壁じゃない。もっと高い、高くて、天井までいくと曲がって、あちらの壁とこちらの壁、世界を囲うすべての壁が天井でつながっているのよ。あなたたちは、共同グランドへ行ったことはある?」
 次から次へと知らなかったことを、しかも驚かずにはいられないようなことを聞かされて唖然とするばかりで、急に質問されても戸惑ってしまった。
「あるよ」カケラが答えた。「今年だって、行くはずだった……」
「へえ……やるわね。ともかく、だったら話が早いわ。わたしたちの世界は、あの共同グランドのドームと同じ。世界は、あれをもっともっとはるかに大きくしたドームのなかに、あるってことよ」
 ぼくらの世界がドームのなかに? 今度はカケラも、驚いた表情で、言葉を出せないでいる。
「ドームの壁がもし少しでも壊れたりしたら大変なことになるから、毎日点検して、古くなったところや少しでも傷のついたところを、常に修復しているわけ。でも、ここの人たちは、次々死んでいく。最近は、D判定を受けた人たちはすべて、すぐにここへ連れてこられるってきくわ。それでも、やっぱり〝食糧〟よりはましなのかしら」
「きみは……」
 ぼくはようやく、口をひらいた。
「きみは一体、だれなの……」
「わたし……わたしは、外への道を知っている。本当は、果てなんてないのよ。越えてみたい? この世界の壁を……」
 
 
 
24.さよなら世界
 
「一度この世界を出たなら、もう戻ってこれない、と思ったほうがいいわ」
 そう、ヨドミは言った。それでもいいなら、それでも本当に、この世界を出てみたいというのなら、明け方に、ぼくらが出会ったあのおお通りの「バス停」で待っていて、と。
「バス」というのは、乗り物のことらしい。バス停は、その乗り物が人を乗せるところ。すぐにわかった。あの、ひまわりが一本だけ立っていたあの場所だ。そしてやっぱり、見間違いじゃなかった、まぎれもない、ぼくが夢で見た花、ひまわりが、たった一本だけでここに咲いている。それは汚れきっているけど、うっすらと、色がついているようにも見える。もっとあざやかだったら、黄色と橙の間だろうか。それは火の色……
 カケラは、なにか食べものをかばんに詰めこんでいった方がいいんじゃないかと言ったけど、ヨドミはただ必要ない、とだけ言った。カケラは今、ぼくのとなりで少し眠そうにぼんやりとうつむいて、時を待っている。
 ぼくは歩道と通りとの段差に腰かけて、ひまわりの花を見あげた。頭上には、まだかすかにうす暗さを残しながらも、しらんできた灰色の空。ときどき、「星」が動くのが見える……
 ぼくは思った。
 このひまわりは、あの灰色の空の向こうに咲くべき花だ、って。
 
 そして、バスは来た。
 このバスもうす汚れているけど、色あせたこのひまわりと同じように、うっすらとした黄色を残しているみたいに見える。
 ぼくとカケラは、バスに乗りこむ。
 ぼくら二人以外に、乗客はいなかった。
 バスを運転しているのが、ヨドミだった。ぼくはもう、それを不思議とも感じなくなっていた。
 とにかく、外へ……外へ、ぼくは、ぼくらは、行くんだ。
 この、灰色世界の外へ。
「いい?」
 そう、ひとことだけ言うと、ヨドミはバスを発進させた。ぼくもカケラも、言葉なく、ただ、うなずいた。
 ぼくは、一度だけうしろをふりかえった。
 バス停に一本だけ咲くひまわりが、遠ざかっていく。
 やがてぼくらは、地上に流れる雲のなかへ入った。
 なにも、見えなくなった。
 
 
 *
 
 
 いつかぼくらのバスは雲を抜け、空を飛行している。空の色は青だ。
 見下ろせば、あのひまわり畑が一面に広がっている。
 やっぱり、世界の外に、この景色はあったんだ……もうぼくは、このままひまわりのなかへ落ちていって、死んでしまったっていいような思いがしていた。
 だけど、またなにか、忘れてはいないか。
 はるか空の向こうに、おおきな、とてつもなくおおきな雲のかたまりが見えてくる。
 ぼくらのバスは、急速度で、その雲に近づき、雲のなかへ入っていく。
 そして、そのおりかさなる雲と雲のあいまに、黒い巨大なものがそびえたって……? そのとき、またバスは雲のなかへ入ってしまい何も見えなくなった。
 
 
 *
 
 
 めざめると、バスはまだ雲のなかを走っていた。だけど、がたごとと、地面の上を走っている音がする。
「雲なんかじゃないよ」
 ヨドミの声だった。
「雲なんかじゃない。これは、この世界の空一面に広がっている灰色の雲、に見えるもの。それはすべて、煙。工場から大量にはきだされた煙が、行き場もなく漂っているだけ。わたしたちは今、ただの煙のなかにいるだけ。もうすぐ、抜ける……」
 うしろの席から、ヨドミの顔は見えなかった。カケラは、ぼくのもうひとつうしろの席、いちばんうしろのシートで、いつの間にか横になって眠っている。
「ドームにはもう、穴が開いてしまっている。どのみち、この世界はそのうちに滅ぶわ……そこから、外の放射線が吹きこんできているから……」
 
 
 *
 
 
 バスは再び雲を抜け、今度は、それをはっきりと見ることができた。
 厚い雲のなかにあったもの、それは……
 巨大にそびえるまっ黒な、都庁タワー……!
 そしてぼくは見た、そのてっぺんにいる、一人の女の子。
 
 マナツ……!
 
 
 
 
エピローグ
 
 ぼくらが乗ってきたバスは、残骸になっていた。
 どれだけの間かしれない、ぼくらは眠っていたようで……体のふしぶしが痛む。バスを下りて、軽く体を動かすと、今度は逆に不思議なくらい軽やかになった。
 バスは、窓ガラスが割れて、ドアは崩れ落ち、天井には幾つも穴が開き、ぼろぼろで、……まるでとおの昔に、壊れていたみたいだ。
 見わたせば、ぼくらが乗っていたバス以外にも、大小のたくさんの乗り物が、残骸になってあちこちにちらばっていた。乗り物だけじゃない、家や、工場や、鉄塔校舎のような高い建てものが、どれも、ほとんど形が崩れたすがたで、そこかしこにひっそりたたずんでいるのだった。ぼくらのバスが向いているのと反対の方向には、とてつもなくおおきな、ドームがあった。確かにぼくらは、あそこからやって来たんだろう。ずいぶん離れた位置にあったけれど、それは確かに、一個の世界をまるごとかかえこんでいると思えるような、巨大な、……ぼくは図鑑でみた「星」を思い出した。ぼくらの世界のまがいものだった星じゃなく、かつて夜空に浮かんでいたという無数の星の一つ一つが、実際にはとてもおおきくて、まるい形をしているのだって書いてあった。それの、はんぱだ。あの、ぼくらが住んでいたドームは。世界は。それはとても、悲しい……なぜかとても悲しい形だともぼくにはふと思えたんだ。
 それに……ぼくらはもうなにも言わなかったけど、いざたどりついてみた世界の外……もう今は「あちらの世界」になった世界の外、ここも……灰色の世界が広がっているばかりだったんだ。
 ただ、空には、ぼくらのもとの世界よりずっと高いところに雲があって、ほとんど動いていないようだった。地面には粉らしきものが一面に積もっていた。ここの灰色は、もとの世界の灰色よりも、少し赤みをおびて見えた。
 それから、ヨドミのすがたは、どこにもなかった。
「イキ」
 カケラが、はじめてここで声を発した。
 奇妙なくらい静まりかえった世界で、その声はとてもよく響いた。ぼくは、この世界ではじめてよばれた名前がぼくの名前みたいな気がして、なんだかほこらしく思えた。元気が、出てきた。
「カケラ……」
 ぼくも、呼びかけてみた。少し、よわよわしかったけれど……
 カケラは、すうっと、ぼくのうしろを、指さしてみせた。
 その方向、重たい雲の向こうに、ほんのうっすらと、だけど、確かに、赤。赤い、なにか、赤くてまるいものが見える。おおきい。ぼくらの生きてきたドームより、もっとおおきいかもしれない。かすかにしか映らないほの赤い影。
 ぼくは、昔、人間が神様から盗んだという火を思い浮かべていた。あるいは……あれが……
 ぼくらは、歩き出していた。
 その、なにかとても大切な気がする、ほの赤いものの方へ。
 
 
 
 
エンドロールⅰ・図書館
 
 世界に打ち捨てられた、残骸に出会った。
 残骸は、叫んでいた。
 泣いているようでも、怒りをぶちまけているようでもあった。
 だけれど、だれにたいして? 涙も怒りもぶつける相手のなく。
 ……ぼくは、その建てもののなかへ入っていった。
 
 屋根は大破し、ここにも灰色の粉が、降り積もっていた。
 そしてぼくはさとった。
 ここは、いまや、本の墓場となっているのだということを。
 最初はわからなかったけれど、たくさん立ち並んだ棚、その一つ一つに、びっしりと、本が詰まっていたんだ。
 おじいちゃんの書庫(おじいちゃん……? 遠い昔にきいた名前の気がする)よりもっと、その何倍もの数の、棚、棚、棚。そこに埋もれる、本、本、本……
 ぼくは一冊、手にとってたしかめようとするけど、ページをめくるとたんに、紙は崩れて、はらはらと落ち、地面に積もる粉と混じってしまう。
 そのあとはもう、本を手にとってみることもなく、奥のほうまで、棚と棚の合い間を縫って歩いた。崩れかかった屋根のすぐ近くまで巨大な棚は伸びて、また上の方には、巨大な本が、死して尚その誇りを示すように、たたずんでいるのだった。
 なぜ彼らは、ここで静かに、死ぬ運命にあったのだろうか。
 彼らは叫んでいる。
 われわれは、ずっと人間と共にあり、彼らを助けてきたはずだ。だが、人間はわれらを見捨てたのだ、と。
 
 
 
エンドロールⅱ・映画館
 
 世界に打ち捨てられた、残骸に出会った。
 残骸は、静かに叫んでいた。
 声を上げずに泣き、声を発さずに怒りを示していた。
 だけれど、だれに対して? 涙も怒りもぶつける相手のなく。
 ……ぼくの足は、しぜんとその建てもののなかへ吸いこまれていくようだった。
 
 建てものの屋根は、この世界に残されたものとしては、ほとんどゆいいつ、そのすべてが破壊されずにあった。
 建てもののなかは、そのためか、少し暗かった。ここには、灰色の粉も見えない。ただ、床も天上も壁も、あちこちで、素材がはがれてめくれたり、ぶらさがったりしている。
 建てものの中心に、明らかにひときわおおきな造りの部屋があった。その部屋が、この巨大な建てものの大部をなしている、と言ってよかった。
 たくさんの座席が、今はだれひとり座る者のなく、並んでいた。
 その一つ、いちばんうしろの、いちばんまんなかあたりの部屋に座った。
 正面にある、しかくいおおきな画面にしろい光があてられ、そのなかに、なにかが動き始めた。
 画面は、白黒だったけど…… たくさんの、人。乗り物。様々な格好のものが、行き交っていた。人々の、様々な表情。笑っている。たくさんの、建てもの。どれも、壊れされてはいない。にわかに、画面のなかが慌しくなってくる。場面がせわしなく入れかわっては、そのたびに、なにかが爆発している様子を映し出している。
 音声は、いっさい聴こえない。
 やがて、人々が、巨大な、ああ、ドームを、建てはじめる。
 人々は、みんな、ドームへと入っていく。
 ドームの口がふさがれる。
 そして、画面のなかのすべてが、光と影だけになる。
 その後に残された世界へ、ぼくは出ていく。
 そしてまた、歩き出す。
 
 
 
エンドロールⅲ・水族館
 
 世界に打ち捨てられた、残骸に出会った。
 残骸は、静かに、だけど確かに、叫んでいた。
 泣いているようでも、怒りをぶちまけているようでもあった。
 だけれど、一体、だれに対して? 涙は、怒りは、どこへいくのだろう。
 ……ぼくは、その建てもののなかへ入っていった。
 
 屋根はほとんど欠け落ちていたけれど、比較的おおきな一室があって、そこは屋根も、壁も、ほとんど無傷のまま残されていた。そこへ、入った。
 部屋のなかは、異様に暗かった。ほとんど、足もとも、数歩先も、見えないくらいに、暗かった。
 壁づたいに進むと、突如、曲がった先の壁の表面が、ぼんやりと灯かりがともったように、しかくく浮かびあがり、驚いた。
 そこに見えたのは、青。色だった、青い色……
 これが、世界で、ぼくがはじめて見た色、ということか……
 だけどぼくが(いつか? かつて?)探していた青とは違う、この青は、深くて、重たくて、……かなしい青。
 ガラスのなかで、その青だけが静かに、ゆっくりと、ゆれていた。
 なかには、しろい砂粒がしかれているけど、なにも、ほかに、いない。
 それからも、壁を折れるたびに、ちいさなしかく、おおきなしかくの、青いガラスが浮かび上がった。
 どのガラスにも、やはりなにもいない。ただ、青く、ガラスの向こうで、きらきらゆれている……透明な……それは……
 ……
 ……ココへ ノコッテユクヨ……
 だけど、ここは……
 ……サガシテイタモノハ ココニアッタミタイダ……
 だけど、ここは、ほんとうの……ではないよ……
 ……モウキット ココニシカノコッテイナイノダロウ……
 ほんとうに、いいのかい……
 ……イイヨ サア キミハ サキヘユクトイイ……
 ……だけど、ここは……
 ……タブン モウ アマリナガク ハ イラレナイト オモウンダ キミ モ……
 うん、……だけど。ここは、すこしさみしいね。
 ……ココハ トジラレテイルケレド ココハ 海 ダ イッショニココへ トジラレテ タダ ネムリタインダ コノママ……
 さよなら……
 ……サヨナラ
 …………ラ
 
 
 
エンドロールⅳ・遊園地
 
 世界に打ち捨てられた、残骸に出会った。
 残骸は、叫んでいるようにも思えた。
 泣き声が世界にこだまして、あるいは、怒りが空間をゆらしているようにも。
 だけれど、一体、だれに対して? 涙も怒りもすり抜けていく世界で。
 ……ぼくは、この場所が最後かもしれないな、と、思った……。
 
 そこはとても広い場所だった。
 屋根や壁の残っている建てものは、ほとんどなかった。
 不思議な場所だった。細いレール状の道が、くるくる回りながら空へ、続いている。生きものを形どったらしい模型が、円形の土台のぐるりに、並んでいる。まるい箱……まるい乗り物……そして、てっぺんが欠けてしまってはいるけど、あれもきっとかつては円を描いていたのだろう、巨大な輪っかが、空に向かってかかげられている……
 歩きながら、ここはきっと、色にあふれていた場所じゃないだろうかって、思った。
 たくさんの、そうだ、ぼくくらいの子どもが(いつかのぼくみたいな子どもが?)ここの通りを行き来していたのじゃないだろうか。
 そしてきっとそうだ、ここには「歌」が満ちていたのじゃないだろうか。
 ぼくは歩いた。
 灰色の粉が積もっている柱をひとなですると、すっ、と、本当にうすく褪せてしまっているけれど、ピンク色のなごりが顔を見せた。もう一つとなりの柱を同じようになぞると、今度は、緑色。ぼくの好きな色。今度は? 黄色。ムラサキ色……
 今、世界は、あざやかに、色づきはじめた。
 動物たちが、輪になって回りだして、たくさんのまるい箱や乗り物たちが、少しずつ動きだして…… てっぺんの欠けた巨大な円も、少しずつ回りはじめると、やがて、それにしたがって、あざやかな虹色の円が描かれ、完全な円が完成した。
 いつの間にか、歌が世界に響いている。歌が、今、世界を、回している。
 そこへ、やがて黒い雨が降ってきた。
 黒い点が、そこかしこにうかびだす。
 世界は、再び、雨のなか、しんとしてしまった。
 雨は、あらゆるものに降り注ぎ、色を塗りつぶして消して、塗りつぶしては消して、消していく……
 ぼくは雨のなかにたたずんだ。
 ぼくの腕や足には、黒い雨がしみこんだみたいに、黒いはん点ができはじめている。
 今。
 今、もしかしたらどこか別の場所で、青い空の下で、たくさんのひまわりに囲まれて、なにかとてもまぶしいものを見あげているもうひとりのぼくがいるのかもしれない。
 空には、無数の、黒い点々。ぼくに、世界に、降り注いでいる。
 とても……とてもさむい。
 目に雨が入ったのか、もう、閉じた目をひらけなくなって、ぼくはうずくまった。うずくまって、ただ、ちいさく横になって……
 
 
 
 
 
 
 *
 
 わたしは、高い高い塔のてっぺんに立っている。
 もちろん、わたしのいるこの場所の下に、ひまわりの咲く原っぱなんてないことはわかっている。
 目を開けてしまえば、灰色の雲がどこまでも広がっていて、ところどころ、その切れめに、同じような色の建てものが集まっているのが見えるだけ。
 わたしはただ、思い浮かべていた。
 そんな灰色世界を見下ろす瞬間に、きつく目を閉じて。
 そのとき、わたしはすべてを忘れる。
 ……ここは、どこなの。……わたしは、一体、だれなの……
 すると、わたしの眼下に、広がる。灰色の雲がちぎれて、とぎれて、流れて、一面に。あのいつものひまわり畑が、広がる。
 そしてわたしは思う。
 その人が、だれだかわからない。
 だけど、わたしより少しおおきい、男の子。わたしもそこでは、まだ少女になる前の、ほんのちいさな女の子。
 わたしは、しろいワンピースをきて、深い麦わら帽子をかぶって、顔は見えない。
 男の子は、わたしの名前を呼ぶ。
 わたしの名は、マナツ。
 だけど、その男の子は、きっと本当はわたしの名前を知らない。思い出せない。
 でもわたしは……その一瞬、本当にわたしの名前がこの世界のどこかで呼ばれた気がして、そこでいつもふっとさめる。
 わたしは、この塔のてっぺんにいる。
 そして、厚い雲の合い間をぬって、男の子がわたしを迎えにやって来る気がする。気が、するだけ。
 ひまわり……
 もちろん、そんな花は、実在しない。
 わたしが作ったにせものの花。
 その花はどうやって作り出したか……
 真下には、灰色の雲と、灰色の世界が広がっているけれど……わたしの頭上に、おおきく、まるく、果てしなく輝くものがある。
 下の世界からは決して見えない。
 ここは、高い高い塔の上。
 選ばれた者だけが、この塔に上れる。
 わたしは、詩を詠い、また歌を唄うために、幼い頃、祖父に教育を受けこの塔へ連れて来られた。わたしは、いつも、ここで物語を作り、この世界を管理する限られた人だけのために、それを聴かせる。
 空想された物語は、だれのためにもある、というわけではない。
 ……
  
  
 ……
 ……それでもわたしは思うことがある、ときどき……わたしの名前を呼んだあの男の子が、本当にわたしをここから連れ出してくれて、わたしがあの灰色の世界で、すべての人のために物語を読んだなら、どんなにすばらしいことだろうと……
 
 
 
 
 
 *
夏の城
プロローグ
 
 ひまわりが向いている方向に、連綿とつらなる、巨大な、夏雲の城。
 あそこに、きっと、ぼくのなくしてしまったとても大切なものがあるんだ。
 ぼくは行く。
 あの、夏の、城へ。
 なくしたものを、探しに行く。
 なくしたものを、ぼくは取り戻しに行くんだ。
 
 
(待っていて。マナツ……!
 
 
 
 
 
おじいちゃんの日記より
 
「かつて世界は、物語――ファンタジーに満ちていた。
 ファンタジーは人の心を豊かにしたが、やがて世にあふれるほどになり、多くのまがいものも生まれた。幼い頃からそれらに浸されつづけた子どもらには、その世界から抜け出せなくなった者も多くあった。彼らは大人になり、みずからも新しい物語を作って、その世界で生きていこうとした。
 だが、新しい世界を作るといっても、これだけファンタジーのあふれすぎた世の中では、彼らの作りだした安易なファンタジーの世界には、もうだれも見向きもしない。ついに、彼らのファンタジー世界の住人は、ほかならぬその世界を作り出した作者だけになってしまった。そうしていくつもの小さな世界ができ、どの世界にも、住んでいる人は一人か多くても数十人。物語におぼれた作者は、だれも自分の世界からは出ようとしない。とうとう、いちばん最初にあった本当の世界のなかで生きる若者が少しずつ減ってくるようになってしまった。
 現実の世界はそれでもなお大きく、新しく乱立するひ弱なファンタジーの世界など、いくつたばねても、とうていおよばないほどの強大な力と知恵を持っていた。現実の世界の力ある者たちは、新しく生まれてくる子らに、不用意に物語が与えられないよう、少しずつ、古い物語から順に、隠していってしまった。そしてそのうち、だれも見向きもしないような、陳腐な物語の世界しか残らなくなったとき、勝負は決していたといってもいい。
 そして、戦争が起こったときにも、彼らは無力だった。このときも現実の世界に残っていた力ある者らで何とか乗りきることができた。(それでも世界はあのようになってしまった……)
 みずからの世界のみにこもりきっていたかつての若者らは、もとの現実の世界にもどり、生きにくさを感じながらも生きていくか、それとも、自分だけの世界のなかで夢を見ながら孤独に死んでいくしかなかった。
 かつてこの世界にあったもの――本、テレビ、ゲーム、パソコン、あらゆるものから、急速にファンタジーは消失していった。
 徹底的に管理された現実の世界のなかで、新しく生まれる子どもたちはみな、最初から物語というものに触れることなく育てられるようになった。ごく幼少のうちに才能を発見された少数の子らだけが、創作者として特別な訓練を受ける。物語は、限られた者だけのものとなる。
 ほとんどの子らは、将来つくべきふさわしい役割のためだけの教育を、初めから受ける。だれも、よけいな夢の世界をえがいたがために、その世界で生きていけず、つらい思いをする者はいなくなり、もとの世界は生きやすくなったように思える。
 だけどまた、何か、大切なものがうしなわれたと思えるのも、正直なところであり……私には、どちらが正しいのか、よくはわからないのである」

夏の城

夏の城

2006年9月初稿/2007年9月メリーゴーランド童話塾で一部発表

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-09-30

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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