プラチナの夢

月らくだ

プラチナの夢

 形あるものはいつだって衰え、消えてしまう。
 この風や、この夜や、ここにいる君や僕だって。
 もし月が真っ直ぐ落ちてきたって、これより確かなことはないだろう。僕らはいつか消えてしまうのだ。誰の目にも留まらない歴史の一粒に重なる時の一粒となり、大地に還るのだ。
 僕はベッドの上で、彼女の髪を指にくるくると巻きつけながらそんなことを話す。君のこの少し癖のある細くて美しい髪も、いずれは浜辺でやどかりの尖った足で踏みつけられることになるんだ、と。
「だから、何?もうこれ以上、お金なんていらない、って言うの?」
 彼女は僕の指から自分の髪を奪い返して言う。
「金なんて、幻想なんだ。みんな、幻想に踊らされてるんだよ」
「幻想だけど、現実の世の中で一番力のある幻想よ」
 彼女は奪い返した髪を今度は自分の指に巻きつける。綺麗にコーティングされた爪だ。色はない。僕が嫌がるからだ。僕は爪に色を付けたり、飾りをつけたりする女が大嫌いだ。足ならまだ許せるが、手は許せない。そんな爪の女と手なんか繋ぎたくない。彼女の指はシンプルで、すらっとしていて、とても美しい。僕は巻きついた髪ごとその指を食べてしまいたくなる。
「私だって、たまには綺麗なドレスを着て、パーティーとかに出かけたいわよ」
「パーティーって、どんなパーティー?」
「パーティーよ。ホテルでワインとかローストビーフとかケーキとか出るやつ」
「そこで金持ちの男といちゃいちゃするの?ダンスなんかして?」
「そんなんじゃないけど。そういうのに行ってみたい、ってこと」
「どうせ僕は踊れないさ」
「いいじゃない。ちょっとぐらい妄想したって」
「僕だって、綺麗なドレスを着てパーティーに出かける君を見たいよ」
 彼女は少しだけ首をひねって横目で僕を見る。路地裏の薄汚れた猫を見るような目つきで。
「嘘でしょ」
「本当さ」
 急に喉が渇いてきて、僕は立ち上がって冷蔵庫から水を出して飲む。なんだか少し、鉄みたいな味がする。口の中が切れているのかもしれない。さっき彼女を激しく愛しすぎたせいで。パントリーからウィスキーを出して、グラスに四分の一注ぐ。口の中を消毒するために。彼女はウィスキーを飲まない。僕はウィスキーを飲まない女が大体嫌いだが、彼女は特別だ。もう一口飲む。こんなに美味いものを飲まないなんて。芸術的な黄金色。歴史の溶けた洗練された味。彼女の体の曲線がシーツ越しに波打っている。彼女は何か考えごとをしながら、まだ指に髪を巻きつけている。僕は実は大金持ちだが、そのことを彼女には隠していた。一人なら多少贅沢ができるけど、二人だと質素な暮らしが精いっぱいだよ、という風に。彼女は僕が金を持っていないことに多少不安を感じていた。昔、彼女の父親が事業に失敗して、多額の借金を背負い、彼女もとても苦労したのだ。危うく大学を途中で辞めなくてはならないところだった。学費を稼ぐために夜のバイトをした。当時付き合っていた男に逃げられた。お金がないということに、直感的な不安を覚える生き方をしてきたのだ。僕はそんな不安なんか一瞬で払拭できるほどの金を持っている。もし彼女が望めば、僕は壊れたキャッシュディスペンサーのように何十分もぶっ続けで金を吐き出すことだってできる。こんなぱっとしないマンションではなくて、都心の高層ビルの最上階にだって住める。住もうと思えば。でも、そんなことは彼女には言わない。僕は今の彼女を愛しているのだし、本当のところ金なんてなくたって僕を愛してくれる彼女が好きなのだ。
「一度でいいから、お金持ちになってみたいな」
 彼女は指に巻きついた髪をぼんやりと眺めながら呟く。
「どうして?」
「だって、素敵じゃない。欲しい物を欲しい時に買えて、行きたい時に行きたいところに行けて。ちょっと髪が伸びたって、後一週間は我慢しようなんて思わなくていいのよ」
「まだそんなに伸びてないよ」
「伸びてきてるわ」
「僕は今のが好きだな」
「マッサージだって好きな時に気兼ねなく行きたいし、たまにはおしゃれしたいし。ちょっと上等なランチとかも」
「上等って、どんなの?」
「なんだっていいのよ。ちょっと上等だったら」
「このウィスキーはなかなか上等だよ」
 彼女は寝返りをうって、仰向けになった。ベッドの照明が彼女のおでこと鼻先を橙色に照らし出した。きっと、金持ちになった自分を想像しているのだ。
「二十五年もので、六万円だ」
「え?」
「なんでもないよ」と僕はグラスに鼻を突っ込んで言った。「独り言さ」
 あーあ、と彼女はため息をついた。
「金持ちは君が思っているよりも素敵なことじゃないよ」
「どうしてわかるの?」
「きっとね。だって、人生の本質はお金なんかにないんだ」
「そんなのわかってるわよ。ちょっと思ってみただけよ」
「ここに三千万円あるとする。僕は一千万くらいする車を買う。君は一着百万円のドレスを十着買って、残りの一千万でダイヤの指輪を買う。君はそれを着て、僕の車に乗ってパーティーに行く。どう?幸せかい?」
「ちょっと思ってみただけって言ってるでしょ」
「もし僕がその一千万円の指輪を持って君にプロポーズしたら、幸せ?」
 僕は真面目な顔をする。彼女は振り向いて驚いた顔を見せる。
「え?」
「幸せ?」
「え?」
「答えてよ」
「え?」
 僕は食器棚の引き出しから指輪の入った箱を取り出した。箱には赤いリボンがかかっている。そして、ベッドに歩み寄って、彼女の脇に腰を下ろした。
「え?」
「さあ、どうなの?」
「嘘でしょ?」
 彼女は体を起こしてそう言った。シーツから華奢な肩が出て、不幸で傷つきやすそうな肩甲骨が見えた。
「答えて。ここに入っている指輪が、本当に一千万円のダイヤの指輪なのと、二十万円のただのプラチナの指輪なのと、君はどっちが幸せ?」
 彼女の瞼にみるみる涙が溜まっていった。
「もちろん、ただのプラチナの指輪よ」
「僕と結婚してくれるかい?」
「喜んで」

 さて、その指輪が彼女の言う通りただのプラチナだったのか、それとも本当に一千万円のダイヤだったのかは、ご想像にお任せしよう。

プラチナの夢

プラチナの夢

男と女の日常を描いた掌物語です。 (過去作品はこちらから → https://slib.net/a/24408/)

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日 2019-09-28

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