よせよ

月らくだ

よせよ

「よせよ」
「何をよ」
「俺の酒ばかり飲むのを。自分の、あるだろ?」
「あなたの方のが美味しいんだもの」
「じゃあ、そっち、よこせよ。お前にこれ、やるから」
「お前って、誰よ」
「君に」
「嫌よ」
「なんでだよ」
「あなたの方がいつも美味しいんだもの」
 結局一つのグラスを代わりばんこに二人で飲むことになる。ブラディーメアリーとギムレット。彼女は幸せそうだった。片肘をついて、カウンターの奥に並んだ酒の瓶を左から右へ指でなぞるように眺め、時々まるでどこにも行かずにずっとそこにある自分の家を眺めるみたいな目つきで僕を見た。僕は何も言わずにグラスに口をつけた。ブラディーメアリーはもうちょっとスパイスが効いていてもいい。窓の外ではまだ雨が降っていた。夕方の四時が、雨の一粒一粒に顔を映しては口づけていた。
「こんな時間から飲んでるなんて、まるでみなしごみたいね」
「世界中がみなしごだったら、きっと世の中は平和だろうな」
 彼女は母親のような笑顔でグラスを手に取ると、ふとそのグラスを目の高さまで持ち上げてステムの部分をじっと眺めた。
「ねえ、このグラス、ここが欠けてる」
「本当だ。よく見つけたな、そんなところ」
「最初、気泡かな、って思ったの。でもよく見たら、欠けてた」
「誰も気づいてないよ、きっと」
「そうだね」
 僕はそのグラスを飲み干し、二人の間にギムレットを置いた。彼女は頬杖をやめて、代わりにテーブルにのせた僕の右手の上に手を重ねた。冷たい手だった。彼女は目を閉じていた。
「なあ、酒が飲めないよ」
「そっちの手で飲めばいいじゃない」
 彼女はそれから僕の肩に頭を寄せた。
「ねえ、ちょっと、」
「何?」
「いや、別にいいんだけどさ。君、恋人、いるよね?」
「うん、いるよ」
「すごく年上の」
「すごくはないよ、五つ上」
「よせよ」
「いいじゃない、気持ちいいんだもの」
「そうかもしれないけど」
「それにあなたのこと、好きだし」
「ふむ」
「あなただって、こんな可愛い子に寄っかかられてるんだから嬉しいでしょ?」
「嫌じゃないよ」
「嫌じゃない?」
「嬉しいよ」
 彼女は不満そうに頭を起こしてギムレットを飲んだ。すでに少し酔っているように見えた。それからまた僕の肩に頭をのせて、猫のように鼻先をこすりつけた。
「あなた、彼女、いたっけ?」
「いるよ」
「すごく年下の」
「勝手に作るなよ。一つしか違わない」
「好きなの?」
「好きだよ」
「愛してる?」
「そうだね」
「あ、愛してない」
「そんなことないよ」
「いや、愛してない」
「愛してるさ」
「全然、愛してない」
「噛むぞ」
「は?どこを?」
「耳」
「やめて、私、そこ弱いの知ってるでしょ?」
 彼女は楽しそうにくすくす笑う。
「別に愛してないこと、隠すことないじゃない」
「愛してるよ」
「愛してなくちゃ付き合っちゃいけないわけじゃないんだから。やりたいから付き合ってる、それでも別にいいじゃない」
「そんな意見、女の子から聞くとは思わなかったな」と僕は少し呆れて言った。
「毎日オナニーばっかりじゃつまらないから、女の子を抱くんだって」
「ひどいな。それに毎日なんかしないよ」
「私の前の彼氏、毎日してたよ」
「その方が普通じゃないよ」
「で、私と付き合うようになったら、それこそ毎日よ。もうやめて、って言っても、全然聞かないの。ベッドに縛りつけられて、朝まで犯されるの」
 そう言って、彼女はまた楽しそうに笑う。
「あなたの次に付き合った人よ」
 僕は空いたグラスの代わりに、スコッチのダブルをロックで頼んだ。彼女は相変わらず、僕の肩に鼻先をすりつけていた。雨を眺めていると、昔のことを思い出すのはどうしてだろう。十代の頃。あの頃、僕はまだどうやって女の子と話せばいいのかわからなかった。誤解されるのと、人を傷つけることを恐れるあまり、いつも無口で自分と自分の世界から離れないように生きていた。何人かの女の子と付き合ったりもしたが、いつも上手くいかなかった。僕はあることにうすうす気づいていたが、まだはっきりとはわかっていなかった。それをはっきりと悟ったのは、二十四の時だ。その時、僕は恋人と一緒に手を繋いで街を歩いていた。私のこと、愛してる?と彼女は僕を見つめて言った。愛してるよ、と僕は応えた。
「ごめんね、私、あなたのこと愛してないの」
 その言葉を聞いた時、僕は初めて今まで自分が誰も愛していなかったことに気づいたのだ。
 そして、それから五年経って、今、その時の彼女とこうして夕方の四時から二人で酒を飲んでいる。
「君は?」
「何が?」
「愛してる?」
「彼氏?」
「そう」
「愛してない」
「なるほど」
「全然、愛してない」
「なるほど」
「愛してるわけないでしょ?」
「じゃあ、なんで付き合ってるんだよ」
「相性がいいのよ」
「ふうん」
「体の」
「なるほど」
「でも、あなたとの方がよかったわ」と笑いながら上目遣いで言った。
 僕はグラスの中の氷をくるっと回して、口をつけた。彼女は僕の手からグラスを取ると、同じように一口、口をつけた。
「後悔してる?」
「何を?」
「僕をふったこと」
「全然」
「そう」
「あれ、嘘だったのよ。あなたのこと、愛してないって」
「どういうこと?」
「私、あなたに気づかせたかったの。あなたは私のこと、愛してないんだって。だから、わざとあんな風に言ったの。もしかしたら私のこと愛してくれるようになるかもしれないって、わずかな期待を抱いてたの。でもあなたはひどい人だから私がそう言ったらすぐに諦めてどっか行っちゃった」
「誰だって諦めるよ、あんな風に言われたら」
「ショックだったな、一年も付き合っておいて、本当に愛してないなんて」
「それは僕も同じだよ」
「私はあなたのこと、愛してたのよ」と彼女は言った。「あんな風に人を愛したのはあれが初めて。ああ、これが愛なんだって思った。上手く言えないけど、でも愛がなんだかわかったの。それは嘘を信じる決意なのよ。嘘を信じる決意。そしてその勇気。強くなるって、そういうことなんだと思う。あなたがいつもこの胸の中にいた。離れていても、一緒にいても、あまり変わらなかった。あなたが私の世界にいるっていうことだけで、幸せだった。ねえ、私、本当にあなたを愛してたのよ」
 僕は彼女の顔をじっと覗きこんだ。彼女は片眉を上げて、すました顔をしていたが、目の奥の隠し笑いを僕は見逃さなかった。
「嘘だろ」
「本当よ」と彼女は笑いながら言った。「半分はね」
 彼女だって、僕のことを愛してはいなかった。でも、彼女の言葉は嘘じゃなかった。僕らは二人とも愛を探していたのだ。あの時、嘘でも、君を愛してる、と言ったら、何かが変わっただろうか。僕らはもっとお互いを傷つけ合い、悲しませ合い、孤独になったかもしれない。面倒くさいのは嫌いだ。でも、彼女とだったら、そんなのも悪くなかったかもしれない。
「そろそろ、雨、やんだかな」と彼女が言う。
「いや。今日はずっと降り続くんだ」
「どこかで休んでいく?」
「からかうのはよせよ」
「本気よ」

 月が雨に沈む頃、タクシーに乗って、二人はそれぞれの恋人の待つ家に帰った。僕は車の中で黙って窓の外を見ていた。
 気づくと彼女は隣で泣いていた。
「嘘泣きはよせよ」と言うと、「あ、ばれた?」と彼女は言って、泣きながら笑って見せた。

よせよ

よせよ

男と女の日常を描いた掌物語です。 (過去作品はこちらから → https://slib.net/a/24408/)

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更新日
登録日 2019-09-28

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