双子姉妹の衝撃殺人事件簿   羨望の憎しみ



  双子姉妹の衝撃殺人事件簿
   羨望の憎しみ 
                      原作 苑田  圭



                        《一》
宮島に壮巌な姿で海面に建つ厳島神社と、その正面に目を見張る真っ赤な大鳥居は世界遺産に登録されたシンボルで、秋には弥山の緑に映え、燃えるような鮮やかなコントラストを醸し出す。そのほかにも紅葉谷公園や五重塔・千畳閣・宮島水族館・歴史民族資料館など見所の多い神の島である。
菜穂は生まれ育った宮島で、四季を通じて世界各国から訪れてくる多くの観光客にガイドをしながら大好きな島を守っていた。
二人が知り合ったのは菜穂が宮島で観光案内をしていた、今から六年前の十九歳のときであった。それは、東京で芸能プロダクションを経営する三上が知り合いのプロダクションに所属する男優の移籍話のことで広島に来て、ぶらっと宮島へ観光に訪れたとき、菜穂が目に止まった事からであった。
三上慎司、四十六歳。芸能プロダクションの社長である。
田嶋菜穂、二十六才。現在は木桧 蛍(こぐれけい)中堅の女優である。
『ちょっとだけ、時間は良いですか?』
案内を終えて観光協会へ戻ろうとしていた菜穂は突然、声をかけられた。
『えっ!』
『どうも、突然ですが私はこう云う者です』
差し出された名刺には〈ウイング・プロダクション代表取締役社長三上慎司・東京都港区六本木五―ウイングビル8F〉と記されていた。
『何か?』
『いや、あなたはここにいてはダメです。あなたの魅力はもっと多くの人に見せるべきですよ』
『?』
『ぜひ、東京に来て女優を志しませんか?あなたなら絶対、成功間違いなしですよ。私が必ず女優にして見せます』
突然の思っても見なかった女優という言葉と執拗に迫る言葉に菜穂は圧倒されていた。
その言葉に何かしら自分の事ではないように思えるのだが、と云ってその場を逃げるでもない自分が三上の言葉に興味を示していた。
『私が…女優にですって?映画や舞台やドラマなんかに出る女優ですか?』
『ええ、そうですよ。レッスン次第では歌手デビューも良いかも』
『またまた、調子がいいですわ。そんな簡単なものではないでしょう。結局、女性の場合は売り出すために身体を投げ出さなければ…なんて聞きますけど』
『それは昔のことですよ。今時そんな事してたら、この業界では成り立ってなんか行けませんよ。貴女に声を掛けたのは、決して誘惑の甘い言葉ではないですよ。ほんとに貴女は都会の舞台に相応しいものをもっている。私が責任を持って第一線での活躍を保証します。
ぜひ考えてみてください。今日はこれで失礼しますが、決心ができたら私の携帯に電話下さい』
『…はあ・・・?』
とにかく一方的な言葉に圧倒されたまま菜穂は協会へ戻った。
『ただいま帰りました。今日の担当はこれで終わりですね』
『ああ、ご苦労様。明日は休みだったね。何処かへ行くの?』
『ええ、久しぶりに平和公園にでも行こうかと思っているんです』
『そう、じゃあゆっくりしてらっしゃい。お疲れさま』
『はい、お疲れさまでした』
今日は大阪からの団体客を案内し、休みとなる明日は久しぶりに広島市内へ買い物でも行こうと思いながら家路へと向かった。
翌日の朝九時過ぎのフェリーに乗り、宮島口から広電で市内へと乗り継いだ。
シーズンには結構休みも取れないほどの過密なスケジュールの日々で、市内に出るのも久しぶりであった。
広島駅周辺は島と違って、いまや世界の観光客を迎えるに相応しい様相で、高層の観光ホテルが建ち並び、駅前の本通りや中央通りには飲食店・ファッション専門店・民芸店など、おしゃれな店が軒を連ね、通りには以前、京都や九州、果てはドイツなどで活躍していた路面電車がデトロな風情で今や広島の名物として市民に愛され走り続けている。
そんな観光都市広島の一面に、あの忌まわしい原爆の恐ろしさを今も人々の目に焼き付ける場所がある。
平和公園と名付けられた一帯には、原爆ドーム・平和記念資料館や公園の中央に位置する原爆死没者慰霊碑(正式名称は広島平和都市記念碑)があり、毎年終戦記念日の八月十五日には被爆者遺族ほか関係者が一同に会して日本の各地、いや世界各国からの観光客と共に、二度と同じ過ちを犯さない願いと永遠の世界平和の悲願を込め、平和の鐘を打ち鳴らして犠牲者への霊を慰める鎮魂の行事が盛大かつ厳粛に執り行われる。
菜穂は年に何度となく平和公園に赴き、被爆者として名簿に記されている祖父母への哀悼と自分の今を見つめ直すひとときを持っていた。
今年も年明けから暇を見て折り続けた千羽鶴を慰霊碑に供えて、しばし黙祷をした。
『やあ、昨日のお嬢さん!』
背後で聞き覚えのある声がした。
『まあ』
その声の主は見おぼえはあるがあまり興味がなかった菜穂は、渡された名刺も自宅に置いたままにして来た事で、咄嗟には相手の名前が思い出せなかった。
『偶然ですね。やはり女神が僕に貴女を一流の女優にしてあげなさいと言う様に巡り合わせたんですよ』
『ここでも、獲物を物色されていたんですか?』
『きついな、その言い方。決していかがわしいプロダクションじゃあないですよ。何んでしたら一度、東京へいらっしゃい。貴女自身の目で確かめたら納得しますよ』
『いえ、いいです。私にはこの広島が一番合っているし好きなんです。人前に出て自分を着飾るのは性に合いませんから』
『ダメダメ、そんなこと云っていたら自分自身の魅力が泣きますよ。貴女は世間の多くの人を幸せにするために生れてきた存在なんです。いや与える義務がある』
『勝手に決めないで下さい。もう、付きまとわないで!』
菜穂は三上を無視してその場から小走りに離れた。ちょっとばかり、もったいない気もしないではないが余りにも軽い問いかけに決心が揺らいでいた。
〈私って、まんざらでもないかな〉華やかな舞台の自分を脳裏に浮かべ、公園を散策しながらポーズを取ったり、くるっと回ったりの女優気分に慕った。
確かに身長一・七三センチ・体重五十キロ・バスト八三センチ・ウエスト五七センチ・ヒップ八五センチというなかなかのスタイルで、ちょっと浅黒い肌はエキゾチックな南国イメージの笑顔がキュートな健康美溢れる感じである。
夕刻の市内は、昼間の街並に色とりどりの灯りが点り、一人の菜穂には少し寂しい感じすらした。
食事をして帰ろうと中区紙屋町にあるヘルシーイタリアンの“クチーナ星の雫”に入った。全面ガラス張りのおしゃれな構えでイタリア本場のワインと三十種類ものカクテルが揃い、ランチタイムにはピアットデルジョルノがリーズナブルな価格とヘルシーさで人気の店である。
シェフお勧めのディナーを頼んで、窓からの夜景にうっとりと目を注いでいたその時、
『今晩わ、またまた会いましたね。これで三度目ですね』
その主は三上慎司・ウイング・プロダクション社長であった。
『三上さん!私をつけているんじゃないですか?』
『とんでもない。たまたま誘われて来たのがこの“クチーナ星の雫”だったんですよ。嘘じゃない。あの席の女性は広島のあるプロダクションの社長で飯島諒子さんという人でね、ここへ案内されたんですよ。ちょうど良い、何かの縁ですから紹介しましょう』
『いえ、結構です』
『まあまあ、良いじゃないですか。お一人なんでしょう。食事もご一緒にどうですか』
三上は菜穂の返事を無視して、同席の女性
に合図をした。女性はゆっくりと腰を上げ近づいて来た。三上は菜穂に断りもせず、すでに向かい側のイスに座っている。
『お知り合いですか?三上社長』
『飯島さん、先ほど話していた、どうしてもスカウトしたい女性ですよ』
『まあ、この方ですか。じゃあ偶然にもここで会われたって事ですか?』
『そうなんですよ。とにかくご紹介します。こちら“COCOROプロダクション”の飯島社長です。こちらは…えーっと、そう言えば、まだ名前もお聞きしてなかったですよね』
『田嶋菜穂です』
『初めまして、飯島諒子です。菜穂さんでしたね、失礼だけどお幾つになられて』
『十九才です』
『お若いのね、三上さんが執拗に追いかけるのもわかるわ』
『では、やっぱり私のあとをつけていた』
『それは違うわ。今日は私がここへご案内したのよ。でも、先ほどから菜穂さんの話ばかりをしてらして、昨日、宮島で見かけて声を掛けたが今日のお昼に平和公園でまた見かけ
たって、そして今こうしてここで短い時間で三度も巡り会うなんて菜穂さん!運命かもよ』
『だろう。こんな事って、そうあるものじゃない。菜穂さんだったっけ。貴女もそう思わない?』
『ええ、三上さんが、ほんとに私をつけ回していないで三度も偶然が重なったなら少し気味が悪いと思います。と同時に何かそうなるべくしてかもとも思います』
『そうでしょう、それは僕が菜穂さんを執拗に気に止めるのも女優として育てる魅力を持っているからなんですよ』
『菜穂さん?貴女、三上さんが信用できるか不安なんでしょう?だったら心配は無用の事よ。三上社長は東京でも、業界きっての大手プロダクションを動かす大物よ。直接スカウトの目に止まるなんて滅多にないわ。この度は私の所の男優を三上社長に預かっていただく為のご相談に来ていただいたのよ』
『…………』
『まあまあ、で、菜穂さん、ご一緒しても良いですか?』
『はい』
『これで、やっと了解がとれた。ところで菜穂さん、本当に真剣に考えてみてよ。決して軽くなんか考えてないですよ。貴女の将来とこれからの人生を預かるんですからね』
『突然の事で、今すぐはご返事出来ません。家には両親と双子の妹が居ますし相談もしなければ、ましてや東京の生活なんて出来るかどうか』
『そう言うことでしたら、明日でもご自宅の方へ伺い、ご両親に私からお願いしますよ。どうですか?』
『いえ、突然の話では、両親もびっくりしますから、もう少し冷静に考えてみます』
『ええ、まだ二・三日こちらにいますから、取りあえず菜穂さんの履歴をここに書いといてくださいよ』
『はい』
差し出されたプロフィール用紙の項目に記入する菜穂に目をやりながら飯島諒子が
『菜穂さん。貴女、絶対成功するわ。この三上社長が直接スカウトされた人は、間違いなく第一線で活躍しているもの。大丈夫よ。三上社長を信頼して挑戦すべきだわ』
『ええ…とにかく考えてみます』
『では、ご両親が会うと云われたらご連絡下さい。待っていますから』
『はい』
その後、食事をしながら芸能界の事などを聞かされて帰りの際、菜穂の支払いは三上が済ませた。
『済みません。ごちそうにまでなって』
『気にしないで、だからといって無理にとは言いませんから。菜穂さんがその気になってくれなければ意味がないことです。じゃあ、ご両親にちゃんとお話をして返事を下さい。待っていますから』
『はい、今日はありがとうございました』
最終となる宮島へのフェリーはほとんどガラ空きの乗客で出航した。
『菜っちゃん。本土へ行ってたのかい?』
乗船した直後、菜穂は同級生の河合徹也と偶然出合った
宮島では広島市内に行くことを本土に行くと表現していた。
『徹っちゃんこそ、本土に?』
『うん、ちょっとね』
『なによ、もったいぶって』
『バンドのオーディションを受けに行ってたんだ』
学生時代から友達四人でバンドを結成し、文化祭などでも演奏していた徹也は、将来プロのバンドを目指して卒業後も定職に就かず、仲間と時折ライブ活動や街のイベントに出て、少しばかりの収入とコンビニでのアルバイトで生活していた。
徹也とは高校二年の文化祭でバンドのボーカルとして出演したことがキッカケで卒業まで付き合っていた。在校中から愛らしい菜穂には多くの隠れファンがいて、バースディのプレゼントやバレンタインには菜穂から愛を告白するのではなく、男子から愛の告白をする奇妙な光景が見られるほどの人気で“宮高のマドンナ”と言われていた。
その一人であった徹也も卒業後、一向に定職を持たず、かと云って本格的に音楽への道に進むでない態度に菜穂は価値観が合わず自然と離れていった。
『へーえ、で、どうだったの』
『うん、ダメだった。二十組が出て一次予選を通ったのは八組で僕らは落選』
『相変わらずね。もう考え直したら、何時までもそんなことに明け暮れてたらダメになっちゃうよ』
『うん、でもな』
『でもなって、だからってプロとしてやっていけると思ってるの?何時までも若くないんだから』
菜穂はちょっとお姉さんぶった言い方をした。
『菜っちゃんは今の案内の仕事、何時までやるんだ?』
『私、うーん。わかんないわ。でも、ひょっとしたら近いうちに人生が変わるかもね』
『何んだよ、その人生変わるかもって』
『何でもない、じゃね』
取り止めのない会話をしていた十五分ばかりの乗船で、最終便のフェリーは宮島港の桟橋に着岸した。観光協会に置いてある自転車に乗って自宅へ帰ったのは午後十時前であった。
『ただいま』
『お帰り、ゆっくりだったね』
『ええ、お父さんは』
『居間にいるよ』
『お母さんも、ちょっと話があるの』
『何だい、改まって』
『じゃあ居間の方に来てね。お父さん、ただいま。美穂は?』
『おお、今か、美穂はまだだ』
『お父さん、ちょっと話があるの』
『何んだ?』
『お母さんも来てから話すわ』
『何だか、菜穂が話があるんですってよ。お父さん』
『お母さん座って、あのね、昨日の事なんだけれど観光の案内が終わって協会への帰りにこんな人に声を掛けられたの。で今日、平和公園におじいちゃんとおばあちゃんの慰霊に行ったら又、そこで出合ったの。そのうえ夕食に、ほら、前に一緒に行ったでしょう。紙屋町の“クチーナ星の雫”っていうレストラン、そこへ入ったら又、出合ったの』
『何だその男、ストーカーか』
『そうじゃあなかったんだけど。昨日、声を掛けられるまで見ず知らずの人に二日間で三度も会うんだから、それも偶然とは思えない場所でよ。私も気味が悪かったわ』
『じゃあ何なんだ。この名刺の男は?』
『あのね、東京の芸能プロダクションの社長さんなの』
『どうせ、いかがわしい会社なんだろう』
『私も初めはそう思ったわ。貴女を女優に育てたいなんて云うんだから。でもね、三度目に会ったレストランに広島の“COCOROプロダクション”の飯島っていう女性の社長さんもご一緒だったの。でね、色々とお話を伺ってみたら東京では最大手のプロダクションで、 
ほら、よくテレビにも出る女優の岸小百合や男優では石原祐馬なんかが所属しているプロダクションの社長さんなの』
『おいおい、穏やかではないな。じゃあ何か、そこの社長が直接お前に声をかけてきたって言うのか。それで何だって?』
『そうなの。決して甘い誘いじゃなく本格的に女優として基礎からしっかりとレッスンをしてみないかって、必ず第一線での活躍を補償すると言ってくれたの。で、ぜひご両親に会って了解を取った上で、女優を目指すために東京に来てほしいと云われたの』
『ウーム、そんなに簡単なものか?』
『言葉ほど簡単とは思わないし、成功かどうかも、まだ分からないわ』
『菜穂、それでおまえ自身どうなんだ?スカウトされたからって、簡単になれるものでもないんだからね』
『ええ、分かっているわ。でもこんなチャンスは二度とないし、今は自分の隠れたものを見いだしてくれる事に掛けてみたいとも思っているの』
『お前の人生だから、お父さんやお母さんが決めるものでもないよ。とにかくそのプロダクションの社長に会うだけは会ってみよう。なあ母さん』
『そうですね、じゃあ社長さんに来て貰うように連絡しなさい』
『分かったわ。とにかく三上社長の話を聞いてみてよ』
何とか両親を説き伏せ、三上との面会の承諾を取り付けた菜穂は、直ぐに三上へ連絡を入れた。
『はい、一度お会いすると…はい、では明日の午後五時ですね。分かりました。お待ちしています』
どうも、声の側に昨日の飯島諒子らしい声が聞こえたように思えた。午後十一時過ぎなのに…菜穂は何だか二人の関係が気になった。
部屋に入った菜穂は姿見に映る自分の容姿に〈そうよね、まんざらでもないじゃないの〉と自画自賛した。



        《二》
翌日の午後五時過ぎ、三上から菜穂の携帯電話に連絡が入った。
『菜穂さんですね。遅くなりましたが六時ごろ、伺いますので』
『はい、お待ちしています』
間もなくして手みやげらしいものを下げて訪れた三上は、待ち受けていた父の修三と母の敏江に挨拶をした。
『どうも始めまして、ウイング・プロダクションの三上慎司です。今日はお時間を戴いて恐縮です』
『菜穂の父親の修三です。わざわざご足労頂いて、こちらこそすみません』
『初めまして母の敏江でございます。むさくるしいところですが、どうぞおあがりください』
 応接間へ案内された三上は改めて丁重に挨拶をした。
『改めましてウイング・プロダクションの三上慎司です。突然、厚かましく参りました。それとこれは、ご挨拶変わりですどうぞ』
『いゃあ恐縮です。で、早速ですが三上社長さん、昨夜菜穂から経緯を聞きましてね。この菜穂がスカウトされるなんて驚きでした。実際の所、どうなんですか?』
『ええ、実は今回は広島のCOCOROプロの若手をうちに移籍させる話で来たんですがね。
昨々日、この宮島観光にブラッと来た時、菜穂さんと出合って、いゃーあ正直、この人は女優の素質があると一目で思ったんですよ。長年の感というやつで直感的に分かるんです。決して安易なお誘いなんかではありません。こちらとしても、プロダクションの知名と品位・信用が掛かっていますから。こんな言い方は失礼ですが、商品としての価値が出ないものに投資はしません』
『菜穂の何処に?』
我が子の評価に素直に喜ぶべきだが、どうも親の謙遜目から、ほんとに女優なんてなれるのかと言う思いの信じがたい気持ちが一抹として残っていた。
『いや、何処という具体的な事ではなく、菜穂さんの醸し出す雰囲気・仕草や表情などと、
それと外見的な愛らしさとエキゾチック感や容姿の総合的なイメージです。出来ればご両親のご理解とご承認を戴いて、早々にも上京して本格的な基礎レッスンや劇団に所属しての勉強を積んで、まだ先ですが企画中の刑事物のシリーズドラマ出演にと考えています』
三上の話す内容は、もう、すでに我が子が目の前のテレビ画面に登場している錯覚すら覚えるほどリアルで具体的なものであった。
『とにかく、まだピンと来ませんが三上社長がそこまでのお墨付きを下さる言葉に、私どもは有り難く思うだけで、どうぞよろしくお願い致したいと思いますが…当人の気持ちが』
『菜穂さん、ご両親は賛成いただけたようですが、貴女の気持ちは決まりましたか?』
『はい』
〈ただいま〉
『あっ、美穂だわ』
『言われていた双子の妹さんですか?』
『ええ、そうです。美穂、ちょっと来て!』
『なーに、あっ、お客様、いらっしゃいませ』
『どうも、こりゃー瓜二つだ。美穂さんでしたよね。うーむ、お父さん、ぜひ美穂さんもご一緒に私どもに、お世話を考えられませんか?』
『何、菜穂、何のこと?』
『まあ座りなさいよ。実はこの方は東京の芸能プロダクションの社長さんで、三上さんって云われるの。私に女優を目指さないかってお誘いを戴いて、今お父さんとお母さんにご挨拶に見えてられるの。で、美穂の事を今見られて、美穂も私と一緒に女優にならないかと云ってられるのよ』
『イヤだわ、私は』
『そうだな。三上さん!、美穂は外見は菜穂と瓜二つで同じですが、二卵性の双子でして性格はまったく違い、負けん気は強いんですが人前の仕事は向いていないと思います。現に美穂はゲームソフトのプログラマーとして、あるゲーム会社と契約して一人でやっているんですよ』
『そうなんですか残念だナ、美人双子姉妹というキャッチコピーはデビューのキッカケとしてインパクトがあるうえに、どちらも現代的なニーズにピッタリのお嬢さんですがね』
『としても、二人とも手元から離すのは親としても、ちょっと…』
『いや、わかりました。とにかく菜穂さんだけでも当社との契約と云うことで、何とぞよろしくお願いします』
『こちらこそ、よろしくお願いいたします』
『では、取り急ぎ帰京しまして、東京での生活の場所や他の受け入れ準備が整い次第、改めてお伺いをしたうえで、契約に関しての条件をご説明し、正式契約という事にさせていただきますので』
『何とぞ、よろしくお願いいたします』
『三上社長。それまで私はどうすれば良いですか?』
『菜穂さんは、今のお仕事のけじめを付けて待っていてください。遅くとも今月末には、もう一度来ますから』
『分かりました』
『色々ありがとうございました』
『では、失礼します』
意外と父母ともに三上と言う人を信用したようで、菜穂の気持ちを尊重して賛成をしてくれた。ただ、双子の妹である美穂は三上が帰った後も必要に〈そんな甘い話なんて信用すべきじゃあない。女優になるなんて夢だし、どうせ身も心もボロボロになって帰ってくるのが落ちだわ〉と菜穂に迫った。
確かにメディアに見えかくれする芸能界は、表面の華やかさと隠れた裏とは、熾烈な力関係と嫉妬や過激な弱肉強食の世界がひしめき合っていると聞く。
年間何万もの応募者のうち、運よく新人オーディションに受かった者ですら、その世界で一人前に飯が食えるどころか、挫折する方が多いと言われる。
特に東京一極集中の業界事情は、なりたくてもなれない芸能崩れや予備軍、はたまた可能性もないのに夢を追っている若者が大都会の片隅で次の機会を待ちながら、その日暮らしのような生活をしている。
やっとの思いで芸能人としてプロダクションに所属となったものの、過密なスケジュールで縛られ決められた虚像のイメージの役づくりと演技でファンへのサービスに徹して、その期待を裏切れば人気は直ぐに落ちる。
浮き沈みの激しい芸能生命は本来の平凡な人間としての幸せ、喜びを味わうことを望むとしたら、到底出来ない職業である。
とはいうものの、揺るがぬ地位を勝ち得たものには一般社会では味わえない優雅で華やかな名誉と富を味わえる世界でもある。
菜穂自身は人に接する事が小さい頃から好きで宮島のお祭りではのど自慢に出たり、今では観光客に島の案内コンパニオンとして携わるなど、どこか人に見られる事や自分を見てもらいたいと思う潜在意識があったのかもしれない。
その後、三上から〈契約にお伺いしますから〉という連絡が入ったのは夏も終わろうとしている八月の末であった。
『ではお父さん、お母さん、そして菜穂さん、ここに条件内容を明示した契約書を用意しています。契約の基本は五年間として、その間の生活全般である衣食住及び女優への基礎レッスンとして劇団に通う研修教育費はプロダクションが全て管理と保障を致します。最低一年間はまず帰郷も出来ないですし、劇団とマンションとの往復だけのレッスン漬けの日々となります。研修での成果や才能で評価が早ければ、六ヶ月ぐらいから番組のチョイ役やCMのキャストなどの出演が出てくることもあります。それらの出演料は、その都度契約内容での取り決め%です。一年後からはプロダクションが責任を持って出演交渉からギャラ決め、スケジュールを調整して菜穂さんの意見を組み込みながら売り込みます。ただ、これも五年間です。五年後からは菜穂さんの女優としての立場と考えを自由に発揮できる様に独立するなり、他のプロダクションに移籍するなり、当プロダクションとの契約継続のままなら、その後の年間の仕事内容や量の選択など全てに菜穂さん独自で運営管理出来る契約とします。但し、五年内で菜穂さんの考えが変わり廃業又はやむ得ず病気等で再起できない事情となった場合は、基本契約期間の五年間に対して、そうなった時点からの残期間保証の想定される利得試算額の50%を差し引いて、契約解除とします。以上ですが何かご質問は?』
『と言うことは、スカウトでの契約から、五年間は全てプロダクション側が菜穂に対する保証をして下さるという事ですね。で、五年後の時点で女優として地位を築いたとして本人の独自性を生かして、独立も可能というわけですね。それは基本の五年間で三上さんのプロダクションは菜穂への投資額を回収し、更に利益が得られるという事ですか?』
『その試算投資に基づいた人材の発掘がもっとも大事なんですが、それに教育と売り込みの計画バランスを見積もるわけですよ。当然、菜穂さん自身も女優を目指す揺るがない強い精神力とチャレンジ心が必要です。まずは人前での自分を夢見て、やれるという自信を持つことですよ。私は菜穂さんなら大丈夫と見て投資をし、未来へ掛けるんですから』
『分かりました。三上社長を裏切らない為にも私、がんばります』
『いや、私の為じゃない。貴女が女優になる為にですよ。それと東京での住居は事務所から五分の港区六本木にあるスカイコート21というマンションの八階で、ここの六階に同じ所属で歌手の藍原マリが入居しています。当面の荷物がまとまったら事務所へひとまず送ったらいいですよ』
『何から何まですみません』
『それと肝心な事ですが、契約金は一千万円とします。当面の私服衣装代や生活費・雑費はこの中で賄ってください。ステージ衣装や小物・装飾関係は衣装係で用意します。また五年間の期間でレギュラー出演契約が成立した場合は、出演料から所属管理費(家賃の一部や経費)として一定%を控除し、菜穂さん名義の口座へ明細を添えて振り込みます。それと新たな企画ものや売り込みに係る費用(宣伝・広告等)は都度、内容を提示して本人への貸し付けとなります。従って、出演契約が成立した場合は契約額から貸付額の本人負担とする一定の%を控除して支払います。当然契約で勝算のない物件は取り扱わないようプロダクション側で管理し、専属マネージャーを付けますから日常の行動や必要経費の負担は必要ありません。よって年間所得の申告は個人でして貰わなければなりません。それに伴う手続きは五年間については当社の専任税理士がお手伝いしますので心配いりません。それと当面は私が菜穂さんのマネージャーを兼務します。お父さんよろしいでしょうか?』
『分かりました。菜穂も良いんだな』
『はい、三上社長に全てをお任せします』
『お母さんもよろしいですか?』
『はい、よろしくお願いします』
とは言ったものの契約内容の説明から、とにかく本人が女優を目指し、どんな事にもめげずがんばるんだという気持ち次第である事が肝心であった。
思いがけない出会いから業界大手のプロダクション社長の目に留まった菜穂は、いよいよ女優を目指して生まれ育った宮島を離れようとする日を目前に、これからの生活に大きな夢と自分自身への将来に掛ける気持ちを胸に秘めて契約書にサインをした。
両親も保証人として連名で署名し名穂への期待をサインの文字に託した。
『ではここに九月五日の日航のチケットが入っていますので、羽田に午後の二時着ですから遅れないようにここを出てください』
『はい、午後二時ですね』
『私は羽田の国内線出迎えゲートで到着を待っています』
『はい、分かりました。よろしくお願いします』
九月に入った宮島は弥山の原始林の麓にある紅葉谷公園のカエデやモミジが、鮮やかな紅黄色に染まろうとする季節が間近で多くの観光客で賑わっていた。
東京行きが明日となった四日、家族揃って菜穂を送り出す最後の団欒にと宝物館の裏手で商店街の雑踏から離れ、静かに食事ができるあなご料理の専門店”ふじたや“に出向いて家族のひとときを過ごした。
宮島沖で捕れる地あなごに八十有余年の伝統のタレを掛けたあなご飯や新鮮な魚介類の小鉢物は絶品で、観光客より地元の人で賑わう店である。
『菜穂、ほんとに女優を目指すつもり?』
『とにかく一度、チャレンジしてみるわ、こんなチャンスは二度とないもの』
『やるからにはその決心を実らせるんだぞ。お前ならがんばるだろう』
『とにかく東京は物騒な所らしいから気を付けてね、ダメなら早く帰っておいで』
『まだ、行きもしないうちに、ダメはないだろう。菜穂なら大丈夫だ!』
『じゃあ、菜穂の成功を祈って乾杯!』       
双子の妹である美穂は、菜穂といつも一緒の生活を十九年間過ごしてきたが、どんなことでも絶えず一歩積極的な菜穂には自分が持っていない旺盛な感情と、何事にも屈しない明るく前向きな行動力に、羨望の思いとともに自分の弱さと不甲斐なさを感じていた。
プロダクションの社長・三上から美穂も一緒に女優を目指しては…と誘われたが、つい断ってしまった。自分の目の前に自らの夢を抱き旅立つ美穂の輝いた目を見て、うらやましいと言うより憎らしいとさえ思えた。
生まれて以来いつも分け隔てなく父母は育ててくれ、近所の人達や学校の友達・先生全てが、双子の姉妹に同じ心と態度で接してくれた。
しかし、社会に出た時から二人の人生はそれぞれの道へと生き方が変わりつつあった。 
代々、宮島で漁師として生計を営んでいた田嶋家の次男である父・修三の元に因島から嫁いだ母の敏江になかなか子供が出来ないので検査を受けたら不妊症と診断され、医師から排卵誘発剤の服用を進められた結果、母の敏江が三十三才となって妊娠した。
念願の子宝は思いがけず二卵性の双子として菜穂と美穂が授かったのであった。
瓜二つの可愛い二人であったが、年を追うに従ってその性格の違いがはっきりと表れだし、姉の菜穂は自己顕示欲が強く見られる反面、妹の美穂はどちらかというと殻に閉じこもるタイプであった。
それは美穂が創作するゲームソフトの企画内容にはっきりと現れていた。
ゲームをする人が現代社会での悩みや苦しみ・腹立ちさ・怒りの原因となっているストレスをスカッと解消させてくれるストーリーを好んで素材にした事で、一時は多くの若者に共感を呼び人気を得ていたが、それは美穂自身が姉の菜穂に対する気持ちをそのような創作企画で晴らせていたのかもしれない感があった。
いよいよ旅立つ日の朝となった。
『もう時間だわ。じゃあお父さん行って来ます。美穂、元気でね、また手紙ちょうだい』
美穂は返事をせず黙っていた。
『それじゃあな。がんばれよ』
『菜穂、行こうか』
『ええ、じゃあね』
母の敏江は東京で何かと不便があるだろうし、菜穂の住む住居とプロダクションの所在地も自分の目で確かめておきたいと云う思いがあって、同行する事にした。
『子供じゃあないんだから良いわよ』
『分かってますよ。この度だけは三上社長やスタッフの方々にもご挨拶しなきゃ』
『もう、大人なんだから恥ずかしいわ』
『なんで親がよろしくお願いしますって挨拶に行くのが恥ずかしいの?』
『お母さん菜穂が良いって言ってるんだから、やめたら』
朝になって行く行かないの問答の末、取りあえず母が同行することになった。
宮島を出て広島空港から一路、東京に向かう日航二0一便は順調にフライトし、午後二時に定刻通り羽田空港に着陸した。
〈広島発日本航空二0一便はただ今定刻通り四番スポットに到着いたしました〉
フロア内に到着を知らせるアナウンスが流れた。すでに出迎えゲートには三上社長と戸田芸能部長が菜穂の姿を待っていた。     
到着して間もなく十分を過ぎようとしていた出口に、菜穂と母の敏江が姿を見せた。
『やあ、来たね。お母さんもわざわざ、ご一緒に』
『よろしくお願いします。母は皆さんにご挨拶と住むマンションの荷物整理に』
『そうですか。お手数掛けますね』
『いえ、勝手に来ましたので気にしないでください。それより、この度はお世話になります。どうぞよろしくお願いいたします』
『こちらこそ、お母さん、菜穂さん紹介しますよ。彼は芸能部長の戸田君です』
『はい、田嶋菜穂です。これから何かとお世話になります。よろしくお願いします』
『母の敏江でございます。菜穂をどうぞよろしくお願いいたします』
『戸田です、よろしく。うーむ、さすが社長のスカウトした人ですね』
『当たり前だ。しっかりとバックアップ頼むぞ。それじゃ、とにかく事務所へ行きましょう』
ロビーを出て空港の駐車場に止めてあった三上の真っ赤なポルシェターボ九○三に乗り込んだ一行は一路、一号羽田線から首都高速渋谷線に入り六本木の事務所へ向かった。
車窓からは大都会のビル群が見切れないほど乱立している。 
宮島からほとんど出たことのない菜穂や母の敏江にとっては、何か幾何学的な街に人間らしさが見付けられなかった。 
三上の運転するポルシェは間もなく首都高速三号線の六本木出口で降り、しばらく走って全面ガラス張りの通りに面したモダンなビルの地下へと吸い込まれるように入った。
『お疲れさま、着きましたよ。ここの九階です。行きましょう』
地下の駐車場からウイング・プロダクション専用エレベーターに乗り込んだ。
『このビルは全て三上社長の所有ですか?』
『ええ、そうですが実プロダクションが使用しているのは九階から上で、一階が銀行とコンビニと二階から八階までは業界関連の会社と一般企業のテナントに貸しています』
宮島を午前十時半に出て、六本木の事務所に着いたのは午後の三時半過ぎでおよそ五時間の移動であった。

 
        《三》
『いらっしゃいませ』
九階の受付フロアで下りると女性が愛想良い笑顔で出迎えてくれた。
ロビーの壁面には男女の所属タレントや俳優などのフォトが、プロフィールと共に関係する色々な番組のポスターや宣伝コピーとともに、センスあるレイアウトでディスプレーされ、奥の商談デスクの一角にはモニターTVでコマーシャル番組を映し出している。
『どうぞ、こちらへ』
ロビーから奧への廊下を通り、案内された社長室は七十㎡もあろうかと思える広さで、窓からは都内の高層ビル群や眼下に走る高速道路が、あわただしい都会の日々の縮図を見るように目に飛び込む。
壁面は全てが白と黒のみで統一され、部屋内は豪華な装飾品の数々と事務機器や書籍類が、三上の性格を示すかのように整然と配置されている。
『長旅で疲れたでしょう』
『ええ、でもやはり東京ですね。疲れよりも圧倒されるばかりで』
『とにかく、これからはその東京にどっぷり浸かった生活となるわけですから、好きにならなくちゃね』
『はい、早く慣れる様にがんばります』
ドワが開いて入ってきた女性が〈どうぞ〉とコーヒーを勧めた。社長秘書であろうかスラっとした魅力的な女性である。
『紹介しておきましょう。女優業二年目の舞原詩織さんです。現在は女優の研修をしながら私の秘書として勉強中です。菜穂さん、明日からは詩織さんと入れ替わって貰いますから、良いですね』
『あ、はい』
『舞原詩織と申します。よろしくお願いいたします』
『こちらこそ、田嶋菜穂です。よろしくご指導下さい』
『社長、この方のステージネームは決まったのですか?』
『ああ、そうだ菜穂さん。君のこれからのステージネームはこう決めましたから』
そう言って三上は、デスクにある一枚の色紙を見せた。
そこには“木桧 蛍”という文字とサインらしき字体が書かれていた。
『なんて読むんですか?』
『“こぐれ けい”と読みます。草木を飛び回り、鮮やかな光を放ちながら人々の心を和ますホタルのように、これからの芸能界で多くのファンに愛され、光り輝く女優となるようにと名付けました。どう思いますか?』
『ステキです。でも自分の名前と言うより、他人みたいです』
『当然でしょう。そのうち親しみを感じ、自分と一体となりますよ。それと、このサイン文字はスラスラと書けるように練習しておいて下さい』
『はい』
『木桧 蛍さん。ステキなネーミングですよね、三上社長が命名したステージ名は、必ず大成するという今までのジンクスがあるんですよ』
『へーえ、そうですか』
『いや、僕が名付けたからではなく、その名を本人が好きになってしっかりと芸を磨き努力した結果ですよ。蛍さんもがんばりましょう』
三上が自分に目を向けて蛍さんと言われたが菜穂には今ひとつピンと来なかった。
『菜穂さん、貴女の事よ』
『えっ、あ、はい』
一段落した菜穂と母の敏江は、戸田部長の案内で事務所から五分ほどの、これから生活の場となるマンション・スカイコート21の8階の部屋に赴いた。
1LDKの内部は全面フローリングの使いやすい感じが菜穂は気に入った。
『じゃあ、事務所に荷物が着き次第連絡します。それと、そこの電話は事務所との直接取り次ぎが出来るようになっています。これからの連絡はこれで取りますから』
『色々とお世話かけました。明日から何とぞよろしくお願いします』
『こちらこそ。あ、それと今晩は社長がお二人を食事に招待すると言ってられましたから
、後でまた時間を連絡します。じゃあ』
『すみませんでした』
何もない部屋は殺風景で窓のカーテンだけが取り付けられ、この部屋の主人を待っているようであった。
『菜穂、一人で大丈夫かい?当分の間、居ろうか』
『大丈夫よ、何時までも子供じゃないんだから、それよりお母さん。美穂のこと、ちゃんと見ててよ』
『どういうことなの?』
『美穂ね、この所どうも交際している人がいるようでね。お金使いが荒い感じがするの。私が東京に行くことになってからも毎晩、遅かったでしょう』
『そう言えば、そうだね。お金使いが荒いって?』
『この前、美穂の部屋に入ったら、広島の金融会社の案内パンフレットがあったの』
『だからって…』
『とは思うんだけど…とにかく気を付けて』
『分かったよ。菜穂もだよ』
午後六時過ぎ、部屋の電話に三上から食事の誘いが入った。
『はい、分かりました゜事務所に行きます』
夜の六本木は昼間の様相から一変し、いかにも高級な感じの店がビルの階をネオンで埋めている。
ネオンと言えば昼間には目に留まらなかった東京のシンボルでもある“東京タワー”の鮮やかなオレンジ色に染まった姿が夜空にくっきりと映えていた。
『こんな近くだったんですか、東京タワーって』
『そうですよ。知らなかった?同じ港区の芝公園にあるんですよ』
しゃれたフランス料理の店に二人を案内した三上に、馴染み客なのか支配人らしき人物が挨拶に来た。
〈今日までは客人扱いだが、明日からは厳しい生活ですよ〉と釘を刺す三上に、修子は母との食事もこれが最後かなと思いながら、とにかく宮島の閑静な土地の生活から一変しようとする東京に、早く馴染まなければと思うのであった。
翌日から二日間、部屋の掃除と送りつけた荷物の整理を手伝った母の敏江は、少し気がかりのまま宮島へ帰って行った。        
やっと落ち着いた九月の下旬までは三上に連れられ、業界関係への挨拶回りや業界施設の見学などで、あっという間に過ぎた。
十月からの月・水・金の昼間は芸能アカデミー校であるTSUNAMI・E・P・S(ツナミエンタープロモーション・スクール)に通い、基本のレッスン(踊り・ダンス・発声ほか)や芸能知識の勉強というスケジュールで、夜は水泳とエステに通い、火・木・土の昼間は歌のレッスンと夜は事務所のあるウイングビル十二階の会員制パブ“パンティオン”(三上がオーナーの店で接客マナーほかの実技訓練として)でコンパニオンとしてデビューとなるまで勤務する日課を過ごす日々であった。
一週間のビッシリ詰まったスケジュールで日曜日だけが唯一のプライベート日として、ほとんどマンションでの休息に当てていた。
休みと言っても演技の研究には余念がなく、所属俳優の出演ドラマなどのビデオを事務所からもって帰り、配役の演技を参考にする熱心さであった。
そんな研修生活を過ごして、あっという間に一年が過ぎ、女優としてのデビューを夢見ていた二年目十一月のある日、部屋の電話が鳴った。
『もしもし田嶋ですが?』
一応、電話口では本名を名乗るように言われていた。今は未だ良いが世間に知られるようになったらステージネームで名乗ると、嫌がらせや無言電話が掛かってくるようになるからと言うことであった。
『ああ、蛍ちゃん。三上だけど、吉報だよ。今ねクラウンTVにいるんだけど、来年の四月からの新作ドラマに出演が決まるかもよ。先ほどの打ち合わせで金崎チーフディレクター、ほら以前挨拶回りの時ご挨拶しただろう。その金崎さんが木桧 蛍を監督に推薦するって』
『ほんとですか!ほんと…に』
『ああ、又、明日にでも詳しい話するから』
『あ、はい』
菜穂にとっては思いがけず早い結果である。なのに三上が単なる事務的な連絡で電話を切った事に、なにか喜びらしい感激は薄かった。
女優を目指し東京に出て二年目の順調な日々であった菜穂に対して、宮島に残った双子の妹である美穂は手がけているゲームソフト内容の創作企画に陰りが見え始めていた。
『田嶋さん、ちょっと衝撃過ぎませんか、この企画』
デモソフトの画面を見ながら、企画趣旨を聞くソフト販売会社の安田は顔をしかめた。
『でも、この傾向のソフト、人気があるからって言ってたじゃないですか』
『ええ、でもこの度の内容は、ちょっと感心出来ませんね』
『そうでしようか?』
その企画内容は、自分と菜穂のような双子をモデルに主人公として登場させ、一人の男性を奪い合う熾烈なバトル合戦を展開するという内容で、自分の姉を追いつめ最後に相手との戦いを征し幸せをつかむというゲーム内容であった。
リアルな三次元CG画像を取り入れ、二十種もの戦いに勝ち進む場面ではじゃまをする登場人物や動物を次々とセットされた殺害方法を選んで消し去り、ゲーム者が相手と戦って人生の幸せをつかむと言う、美穂が密かに菜穂に思う心が執念のように盛り込まれたストーリーであった。
ゲームの中で障害となる者への殺害方法を選び、うまく実行できれば次の場面に進み点数が増え、最後は自分の思いを遂げて征服出来ればクリアというゲームであるが、その殺害方法があまりにも残酷・衝撃過ぎるとソフト販売会社の担当者が懸念した。
『とにかく預かりますが、選考会議では採用になるかどうか』
『それは、そちらが決められる事ですから』
『では、次の企画も進めてください。次のデモソフトが出来たらご連絡を待っています』
『ええ、そのソフトの採用が決まるまで、ちょっと仕事を休みますわ』
ゲームソフト販売会社との専任プログラマーとして、契約をしていた美穂は、今までも次々と企画する新作ゲームソフトが店頭に並ぶと完売・在庫なしとなる販売数を上げており“みほ伝説シリーズ”と名づけられたそのソフトの愛好者ファンが多く、常に人気ベスト5のゲームソフトであった。
しかし、今回の企画は選考会議で採用からはずれる結果となった。その理由は余りにもリアルで過激すぎ、犯罪誘発に影響を与える可能性があるという意見であった。
先の担当者が受け取る際にデモソフトを見て、懸念を抱いていた事で万一、不採用となった場合には版権を他社へ売り込んででも世間に売り出したいと思うほど、美穂の執念みたいなものが秘められていた。
十二月に入って年の瀬が間近となった東京は街を行き交う人々も何かしらせわしく、ビジネス戦線が冷えきっている昨今の事情も相俟って、職を求めてなのか、商談に走り回っているのか企業戦士達の厳しい顔が多く見られた。
プロダクション所属で女優としての基礎研修も終わりTSUNAMI・E・P・Sのレッスンでも藤堂舞台監督の厳しい指導に必死に絶えながら演技の勉強に立ち向かった事で、待ちわびたデビューが、いよいよクラウンTVの来春四月から放映される六ヶ月間の帯番組“華麗なる誘惑”という刑事ドラマに、クラブの売れっ子ホステス役で出演することを宮島の母に知らせた。
『できるの?ホステス役なんて』
『分からないわ。でもクラブ・パンティオンで実践しているからちょっとは様に出来ると
思うわ。とにかく初めての仕事だから精一杯やるしかないわ。チャンスだもの』
『そうだね、でも修子がテレビに出るなんて、まだ、ピンと来ないわね』
『うん、私もそうなの、年明けに台本を受け取ってスクールでの読み合わせリハが始まったら雰囲気がつかめるかな』
『がんばってね、お父さんにも言っとくから、きっと喜ぶよ』
『ところでその後の美穂はどうなの?メールを入れても返事がないし…』
『それなんだけどね。どうも荒れてるみたいでね、ほとんど帰らない日が多くなってお父さんも気にしているんだよ』
『早いうちに一度、ちゃんと美穂に聞いてみてよ』
『わかったよ。今日でもお父さんに言ってみるから、じゃあ菜穂も身体に気を付けてね』
『はい、分かったわ。じゃね、美穂の事よろしくね』
師走の暮れの三日間と年明け三ケ日を過ぎての五日までは、恒例の業界関係者への年〆めと年始の挨拶回りに社長兼木桧 蛍のマネージャーである三上に同行した菜穂は、ゆっくりと年賀を過ごす間もなく、一月十二日からドラマの台本を片手にスクールでの本格的な役作りや演技指導の研修に入った。
連日深夜に及ぶ指導は、何度もセリフの繰り返しや、役柄・場面での表情や仕草の反復演技でクタクタの状態であった。
今日も午前二時過ぎの帰宅は、人気のない寒さと真っ暗な部屋に入っても着ている服すら着替える気力がないほどの疲れで、ソファーに横たわった。
何気なしにベッド脇の電話に目を向けた菜穂は、赤い点滅ランプが光っている事に気が付いた。ゆっくりと腰を上げ、留守番電話の聞き取りボタンを押した。
〈もしもし、木桧 蛍さんだね。あんた、まだ駆け出しの女優だってね、なのにこの四月からのドラマに抜擢されたそうじゃないかでもな、その蔭には恨む者がいるって事を覚えおけよ。いずれあんたに…ツーーーーー〉  
野太い男の声は、録音テープ量に入りきらなかったのか途中で切れていた。
初めは事務所からの伝言かと何気なしに聞いていた菜穂は繰り返し聞き直して、いたずらにしては内容が関係者以外には知らない事まで言っている。と言って聞き覚えのある声でもなく、それほどの恐怖感もなかった。
特に気にもかけずシャワーを浴びてベットに潜り込むと、眠気が一気に菜穂の身体を襲った。
『蛍ちゃん、最近、君の身辺に何か変わったことはないかい?』
いよいよドラマの第一話分(第四話まで)の収録が始まろうとしていた二月初旬、三上社長が菜穂に問いかけた。
『変わったって…あっ、そうそう、そう言えば先月二・三度、留守番電話に知らない男の人の声で、今回のドラマ出演をやっかむ内容の伝言が入っていたわ』
『何時頃だっ』
『一月…中旬かしら』
『何故、早く言わない!』
『だって、特にその後、激しくなる様子もなく同じ内容の繰り返しで…でも、そう言えばここ最近遅いから留守番電話に入っているか確認してないわ』
『蛍ちゃん、君は誰か知り合いに電話番号を教えたか?』
『いいえ、携帯は家族とか一部の人だけには言っているけど、部屋の電話は一切言ってないわ…あっそうか、なのに何故、私のステージ名も、あの電話番号も知っているのかしら?』
『それだよ、実は僕の方にも最近、蛍の事に関しての嫌がらせが頻繁に入ってくるんだ。でも、だからといって警察に言うのはスキャンダルになるからね』
『そんなに大層な事なんですか?』
『おいおい、そりゃそうだろう。蛍の女優デビューを嫉み、恨んでいる者が蛍を業界から抹殺しようと企んでいるとしたら、こちらとしては悠長に構えてはおれない問題だよ』
『ええっ、そんな怖い話なんですか。蛍は誰かの悪戯か…ぐらいに』
『悪戯がエスカレートして毎日のように留守番電話に入れるほど相手も暇じゃないだろう。どうせ何か目的があるはずだ。後で電話の声を聞かせてくれ』
『はい、でもそうだとしたら気味が悪いわ。心当たりなんてないし』
『今までも、こんな事はちょくちょくあるんだけど、多くは熱烈なファンや同業からの嫉みがほとんどだが、どうもこの度はちょっと違うような気がする』
『でも木桧 蛍は、この度初めてドラマに出るし、業界でもまだまだ知られていないのに』
『だから、そこなんだよ。なのに何故、やっかみや脅迫が出るかだ。蛍としてではなく田嶋菜穂として、何か思い当たる節はないか?』
『そう言われても、ほとんど今まで宮島での生活だったし、他人に恨みを買う様なことは思い当たらないわ』
特に気にしていなかったので誰にも言っていなかったが今日、三上から聞かされた内容は自分だけではなく三上社長、すなわち所属するプロダクションへも同様の内容が入っていたのだった。
菜穂は、その後注意して伝言のテープを聞くようにした。すると、どうも電話は携帯ではなく公衆電話からのようで、その男の声と共に何やら女性か子供の声がかすかに聞こえる様な感じがした。
不安に駆られながら四月のドラマ放映に向かって、順調に本番収録が行われていた。
『木桧さん。お疲れさま。今日のあの酔って絡むシーンはバッチリだったよ。いけるのかい。こっちの方は?』
ADの筒井が手を盃の形にして、飲む仕草をしながら声をかけた。
『いえ、それほどでも、うちの社長が経営するクラブでバイトしていて、ちょっと覚えたから、これも演技ですよ』
『へーえ、それにしては良い飲みっぷりだったよ。どう、これから僕にちょっとだけ付き合ってよ』
『えっ、これからですか?じゃあちょっとマネージャーに聞いてきますから』
東京に来て菜穂が初めて気になる男性であった筒井修太は、東京芸大出身のラガーマンで身長一八0の長身に胸板は厚く、たくましい筋肉が現場を駆け回るたびに躍動する姿に修子にはちょっと気になる存在であった。
ドラマの収録でアシスタント・ディレクターとして現場担当となった筒井からの誘いは日頃、男気がなかった修子の身辺に熱いときめきが流れた。
控え室でマネージャーでもある社長の三上に、筒井の誘いを告げて〈行ってもいいか〉と尋ねた。
『まあ、ADさんとも付き合って情報を聞くのも良いことだからね、でも余り遅くならないようにね』
『じゃ、行かせて貰います』
菜穂は、三上の答えを聞いてホッとした。
『お待ちどうさま。保護者が良いって』
ちょっとおどけて菜穂は言った。
『保護者か、そうだよね。全くだ。はっはっはっ』
『保護者だけど、許可後は私の自由ですよ。いちいち報告は要らない保護者ですから』
『行きましょうか、それはそうと蛍さん、こっちは何党ですか?』
『私は日本酒党なんですよ。これでも』
『へーえ、日本酒ですか』
『ダメですか日本酒?私、広島の宮島出身なんですよ、でね“酔心”って名のお酒があるんですが父が好んで飲んでいて、学生の頃ちょっといたずらに飲んで美味しく思って、それ以来なんです。筒井さんも呑まれるんだったら贈りますよ』
『いや、良いですよ。じゃあ今夜は蛍さんに付き合って日本酒にしよう』
『あら、筒井さんの好みでいいですよ』
初めてとは思えないほど菜穂はリラックスしていた。
筒井は気兼ねしないで居られそうな雰囲気をもたらしてくれる。そこにまた菜穂は惹かれた。
『じゃあ赤坂の“花紋”って店にしょうか。ゆっくりと落ち着けるし、全国の地酒が飲めるよ』
『そんな豪勢な店でなくて良いですよ』
『大丈夫、安月給の僕が進めるんだから』


         《四》
赤坂の月世界ビルの地下にある居酒屋の“花紋”は地下鉄銀座線赤坂見附駅の田町通り口から徒歩で一分の、モダンなインテリアとテーブル席に生けられた花が、そっとゲストを迎えてくれる。
坪庭を見ながらくつろげ、堀こたつ式の個室座敷と板前の鮮やかな手さばきを見ながらのカウンターなど、お客様それぞれの好みによって楽しみながら食事が出来き、料理は季節の旬を素材に創作して幅広いメニューで楽しませてくれる店である。
運良く堀こたつの個室に空きがあった。
〈いらっしゃいませ〉上品な仲居さんが出迎えて奥の三畳ほどの個室に案内してくれた。  
旬のこだわり料理と地酒はメニューに広島の“酔心”がなかったので、筒井は出身である愛知県津島市の割田屋酒造の純米大吟醸 ”超 然”を頼んだ。まるみのある甘みと練られた酸味の調和がとれた上品さで、ほのかな旨苦味がさわやかに口の中に広がる絶品だと筒井は進めた。
間もなく料理とお酒が運ばれ、何故か意味もなく乾杯をした。
『別に意味ないのに、どうして乾杯をするんだろうね』
『ほんとですね。でも、よろしくからありがとう・おめでとう・さようならと日本人は何か、けじめ的な挨拶の意味でするんでしようね』
『初め・終わりの自己確認かな』
大して気にする事でもないのに、おもしろい考えをする人だと菜穂は思った。
『ところで蛍さん。今回のドラマ出演の感想はどうですか』
筒井は一変して真面目な話を菜穂に投げかけた。
『はい、セリフが思った以上に多いので覚えるのに大変です。でも、色々なシチュエーションを描いて、自分なりにホステスの翔子役をやらせて貰っています。筒井さんはどう思って下さってますか?』
『いや、大したものだと感心してますよ。だって初めてのドラマなのに共演者との絡みも問題ないですし、とにかく翔子役として役柄のイメージを完璧に表現していて、先ほども言ったようにクラブで客に絡まれるシーンで
は主役の偽女弁護士役のベテラン岸小百合も蔭が薄く感じるほどでしたよ』
『それは誉めすぎですわ。まだまだ岸小百合さんにはほど遠い演技力ですもの』
『いや、僕はそう思いませんね、監督も、いい女優を見付けたと満足されていたから』
何だか、筒井の歯が浮くような評価の言葉に、菜穂は自信を持つべきか話半分と思うべきか考えていた。
筒井とのひとときに、もしかしてのアバンチュールのときめきを胸に食事をした菜穂だが、酒の勢いで欲望を満たそうとする態度は筒井にないようで、今夜の誘いは辞令的な時間を過ごしただけで期待する心が満たされないまま終わった。
各社がそれぞれ趣向を凝らし、力を入れる四月からの新テレビ番組は、すでに色々なPR合戦が繰り広げられていた。
クラウンTVでも“華麗なる誘惑”の題名で四月から六ヶ月、延べ二十四回のドラマ作品については大々的な宣伝を展開していた。
 女性偽弁護士が大手企業の娘をさらう!
企業の顧問弁護士となって、社長を誘惑
 貴男も甘い肉体の罠に
     人生を破滅させられるか!
週刊誌・芸能誌・車内吊りなどの広告媒体の紙面は興味をそそる文字が躍っている。
クラウンTVのゴールデンタイムにはスポットで場面の一部を予告放映して、視聴者の心をくすぐる。順調な前宣伝が他社の新番組から一歩抜き出ているとの番記者評価が各紙に乗った三月下旬、東京ビクトリアホテルのカピタンの間でメイン出演者が出席しての
 クラウンTV春の新ドラマ!記者発表   
    “華麗なる誘惑”
 貴男も誘惑されてみませんか?
と題した記者発表が盛大に行われた。
『それではただ今からクラウンTVが企画制作した春の新ドラマ“華麗なる誘惑”の記者発表を行います。まず、本日出席の出演俳優の登場です。
初めは、主役の女性偽弁護士・常磐礼子役の岸小百合さんです。続いて、嵯峨見コンツェルン社長・嵯峨見忠臣役の石原祐馬さん。嵯峨見コンツェルンの一人娘・嵯峨見由加役の夕霧 霞さん。最後にこの度のドラマで女優デビューとなる、クラブのホステス・翔子役の木桧 蛍さんです』
各社のカメラフラッシュがまばゆいばかりの光を放つ中、報道関係者が一同に集まった発表の席に全員が並んで、華やかな雰囲気が漂った。
『それでは、各社を代表してのインタビューを受けます。尚、質問はドラマに関するものだけとしますのでよろしくお願いします』
『取材各社を代表して、東都芸能の栗原と申します。まず、ドラマの完成おめでとうございます。ではお尋ねしますが初めに岸小百合さん、なかなかお似合いの偽女弁護士役ですが財閥コンツェルンの娘を誘拐して社長役の石原祐馬さんまで誘惑し、身代金をまんまとせしめるそうですが、誘惑して石原さんとの熟年愛の場面はいかがでしたか』
『久しぶりに男性の肌を感じて、若返りましたわ。良い役を戴いて女優として最高よ』
『ちなみに石原さんはどうですか?』
『いや、女性は怖いですよ。地位も名誉も金も娘も、全てを失うんですから、その上精力まで…』
会場から失笑が起こった。
『石原さんのプライベートな思いが実感としてリアルに出ているともっぱらの評判ですが
、本当ですか・』
『いや、若かりし頃は色々経験したから、それが演技に生かされてるのかな』
またもや記者間に笑いが起こる。
『次ぎにコンツェルンの娘・由加役の夕霧さんは、偽女弁護士に誘拐されるんですよね?なのに父親から財産を取るために協力するんですか?』
『ええ同性に、それも母のような人に誘拐されて恐怖感と言うより、逆に父の悪事を聞かされて、日頃から家庭を顧みず好き放題の父に復讐してやろうという心境が分かるような気がしました』
『最後に、デビューでいきなりクラブの売れっ子ホステス役の木桧 蛍さんはクラブの常連客でコンツェルンの社長の石原さんから一目惚れされて、ホテルに誘われベットシーンがあるそうですが、どうでしたか?』
『ええ、無我夢中で石原さんのリードで何とか出来ました。恥ずかしいとかではなく、すばらしい俳優さんと共演させて戴いた事の方が喜びと幸せだと思っております』
『では、最後に岸小百合さんにこのドラマ“華麗なる誘惑”の見所を…』
『ええ、先ほどは質問の感想でしたが、ほんとにいい作品が出来ました。久しぶりの大作で現実の世間でもありがちな誘拐という悪意の裏に、何が原因として存在するのかを人間社会の奥に入って見せます。色・欲・金が渦巻く男女の生き様を視聴者の皆様がそれぞれの思いで感じながら、ぜひご覧になっていただければと思います』
『ありがとうございました。では、四月からのドラマを楽しみにしています』
現代社会の人間関係を浮き彫りにしたドラマだけにバラエティ番組の発表と違い、物静かな中にクラウンTVの“華麗なる誘惑”にかける意気込みが出演者からも感じられた。
菜穂は久しぶりに母へ電話を入れ初出演となるドラマの記者発表があった事を伝えた。
『元気かい。もう、東京も桜は満開に近いんだろうね。こっちは最高だよ』
『そう、こっちはまだ上野公園でも五分咲きぐらいかな。ところでね、今日、ドラマの記者発表がビクトリアホテルであったの』
『ほんとうに出るのかい。で、どんなドラマなの。こっちでも映るのかね』
『クラウンTVだから全国ネットよ、四月からの毎週土曜日・午後八時から一時間のドラマでね、九月までの連続ドラマなの』
『なんて言うドラマなの?』
『“華麗なる誘惑”って言うの。あこがれの岸小百合さんや石原祐馬さん、それに夕霧 霞さんとの共演なの』
『へーえ、すごいじゃないの。で、菜穂はどんな役なの?』
『それが、いきなりクラブのホステス役で、セリフも多くあるし毎回のように出る場面があるの』
『じゃあ、レギュラーなの』
『そう、でね、役柄で石原さんとのベッドシーンがあるのよ』
『まあ!ほんとうなの。お父さんに聞かせたらどう云うかね』
『だって、それもシナリオだから、役として演技のひとつよ』
『そりゃ、そうだね。そんなことも覚悟の上だろうからね』
『とにかく、毎回ビデオにとって送るから菜穂の“木桧 蛍”としてのデビュー作品を見てまた感想を聞かせてよ。じゃあお父さんと優子にもよろしく』
『はい、分かったよ。身体に気を付けて』
『じゃあね』
特に美穂の近況は尋ねはしなかったが、上京以来幾ら携帯に電話しても何の返事もなく
、手紙も一度も来ていない。どうしているのだろう?とは言うものの菜穂も時折そう思うだけで、日頃は自分の事で精一杯の生活であつた。 
留守番電話の嫌がらせやプロダクションへの同様の電話も、一ヶ月でぷっつりと途切れていた。その後に留守番電話に残された声を三上が来て聞き直したが分からずじまいで、未だに修子の部屋につながる番号を知っている者の正体も記憶にないままであった。
ドラマの放映が始まった四月第一週の土曜日、午後八時・九チャンネルの視聴率は事前のPRが功を奏しての興味心からか、開始後一時的に視聴率が四二%という驚異的な数字を出した。
第一回と言うこともあったのだろうが、平均視聴率は三五%という高率で他局の新番組を大きく上回る結果となって、四月からの幸先の良いスタートとなった。
毎週土曜日の放映で最終回の九月まで前月中に翌月分4回をまとめて収録する為、八月いっぱいまでは半月が束縛される日々であつた。
その後、ドラマに出演したことでコマーシャルモデルとして、何社かのスポンサーから引き合いや他の番組への出演依頼などの話が舞い込んでいた修子は、順調に女優として木桧 蛍の名が売れ出し、ファンレターも来るようになっていた。
三上のウイング・プロダクションに所属して三年目となった修子は、アロハ航空のキャンペーンガールとして専属契約し、ドラマが段落した九月十日から四泊六日の日程で、プロモーション用のスチールショットとビデオ撮りの為、ハワイ・オワフ島に来て二日目のロケ撮影に入っていた。
オアフ島はハワイ州の首都ホノルル市がある島で政治・経済・文化の中心地でもある。群島中三番目の面積は一,五四一平方キロほどで、ほぼ東京都と同じでハワイの全人口の八0%がこの島の住民で占められている。
滞在中のリーガー・アロハホテルの前にある有名なワイキキ・ビーチでの撮影も順調に進んでいた。
『良いよ。蛍ちゃん。そうそう、もう少し髪の毛をあげて、そうΟK!』
『おーい、木桧さーん。大変だ!』
『何々、どうかしたの?』
スタッフの一人が砂浜をもどかしげに走ってくる。
『どうかしたの?』
『今し方、ホテルに電話が入って、お父さんが事故で亡くなったんだって!』
『何ですって!父が!事故ってどんな?』
『そこまでは…とにかく航空チケットの手配を急いでするから、直ぐ帰る支度を…』
『でも撮影、まだ終わってないでしょう。あと何カットあるの』
『あと、ここで2カットとダイヤモンドヘッドでの4カットほど残ってます』
『分かったわ。じゃ全部済ませましょう』
『いや、事情が事情なんだから、これまでの撮影した中のショットから選ぶから。蛍ちゃんは一刻も早く日本に帰る準備を』
『いいえ、撮影は最後までするわ。スポンサーに対しても当然でしょう』
『しかし、事が事だけに、スポンサーも承知してくれますよ』
『いいから、続けて』
菜穂はプロとして当然である仕事を、きちっと済ませてから帰ろうと腹に決めた。
直ぐに出たからと言っても、すでに亡くなっている父に息がある状態で会えるわけでもなく、日本との時差が一九時間あるハワイからでは、どうせ明日の到着である。
とにかく仕事だけは完璧にやり遂げようと思った。
『では、次はそのビーチ・チェアに横になって、足を組んだポーズで、よろしく。はい、そうですね。もう少し笑顔で』
どうしても無意識で顔がこわばる。〈何が原因で父は死んだのか?〉菜穂の表情がどうしても曇る。
『蛍ちゃん。ダメダメ、もっと明るい表情で』
『すみません、もう一度お願いします』
今までの順調な撮影が修子の動揺で、何度か撮り直しをしながら、引き続き撮影クルーと移動してのダイヤモンドヘッドで、夕陽をバックに何カットかを取り終えたのは午後五時過ぎであった。
『ご迷惑かけました』
『さあ、急いで、六時には空港へ行けるよ。車の手配はしてるから蛍ちゃんは最小限の荷物をまとめて、後は僕たちが持って帰るから』
『ええ、済みません。よろしくね』
カメラクルーのメンバーとスタッフは手際よく機材をまとめ、菜穂を促した。
『じゃあ、気を付けて、社長は蛍ちゃんからの連絡を待っているって言ってたから、帰って状況を事務所に入れてよ』
『わかりました。ご迷惑かけますが、後のことよろしくお願いします』
『わかったから、急いで、おい橘、安全運転で空港までな』
『ええ、木桧さん。良いですか』
『はい、お願いします』
ホノルル空港午後六時五分発JAL六○五便・関西空港行きへの搭乗手続きを急いで済ませ、菜穂は一路大阪へ向かった。
ハワイから日本へは日付変更線を通るため、日本到着は時差で十九時間ずれた日付けとなる。関西空港からはローカル便がない為、ゲートを出てタクシーで伊丹へ回り、JASで広島空港への便に乗り継いで、あわただしい帰郷となった。
寄りによって海外ロケ中に受けた訃報の一報は今日の撮影が終わると二日間プライベートとして、のんびりするつもりの観光休暇も吹っ飛び、宮島へ向かう機中では帰郷までの時間どうすることも出来ず、歯がゆい思いだけが菜穂の胸を締め付け苦しめた。
夏休みの宮島は多くの観光客で賑わっていて、久しぶりの活気ある島を見た。
日焼けした肌にサングラスと帽子で顔を隠していた事で、木桧 蛍とは知られず実家にたどり着いた時には、すでに町の会館を式場として葬儀の準備も整っていた。
祭壇の中央には生前の元気だった父の遺影が飾られ、棺には変わり果てた父・修三の遺体が納められていた。
周囲への挨拶もそこそこに菜穂は一目散に祭壇に走り寄った。
『お父さん!何で死んだの?お父さん』
菜穂は父の顔にそっと手を置きなぜた。青白い皮膚に唇だけが死化粧をほどこされて赤く染まっている。
東京に出て一年あまりも会っていなかった父は、髪の毛に白い物が増え、少し小さい感じさえした。享年五十六才である。
『菜穂。お父さんはね、もしかしたら誰かに…』
『えっ、誰かにって、殺されたって事』
『まだ、断定されたわけじゃないんだけど、先日、警察で司法解剖が行われた結果ね、どうも腹部を蹴られたか堅い物で強打された事による内臓破裂が死因だって』
『どういう事なの?それって、何処で』
『一昨日の夜、次の日の漁に出る準備をしに行くって漁港に出かけたんだよ。いつも通りだから特に気にもしなかったんだけど、夜の九時過ぎに突然警察から電話が掛かってきてね。お宅のご主人と思われる人が先ほど町立病院に運ばれたが、すでに脈が無く意識もない状態ですからとにかく、身元の確認に来てほしいと…』
『その時は、もう亡くなっていたの?』
『後で聞いたら、そうだって』
『で、何が原因なの?』
『それがね、漁業組合長の富田さんが、いつものように漁港の見回りに来たら、お父さんが単車の横で倒れていたんだって、で、急いで救急車を呼んで下さって町立病院に運ばれたんだけれど、もうその時すでには、なす術もなく息も無かったって。昨日から警察が捜査しているらしいんだがね』
『お母さんには何か、思い当たる節はないの?』
『警察にも聞かれたけど、まったく心当たりなんてないわよ。最近だって変わった事なんか一度もなかったし』
『ところで美穂はどうしたの?まだ帰ってないの』
『それが、何処にいるか分からないんだよ』
『どういう事、それって』
『もう三ヶ月近く帰ってないんだよ』
『帰ってないって、何処にいるかも知らないの?』
『分からないんだよ』
『で、捜索願は出してるの?』
『まだ、出してなんかないわよ。だって、この度はちょっと長いけど、今までもちょくちょく帰らない事があったからね』
『でも、年頃の女性なのよ。心配じゃあないの?』
『そりゃあ、心配だけど、美穂はあまり他人に干渉されるのって嫌がってたから』
『だからって、居場所ぐらいは聞くべきだし、言わすべきよ』
『そうだね、と言って、今は連絡のしようもないしね』
『携帯は?』
『幾らかけても出ないんだよ』
どうも不自然な行動である。
菜穂も上京以来連絡をとり続けていたが、まったく音信不通であった。ましてや、親元に居たにも拘わらず、突然姿を消して父親が亡くなったというのに連絡すら取れないと言う状態であった。
島で生まれ育った父の葬儀・告別式には漁業組合の人々を初め、多くの交友関係ほか町長・町議会・諸団体まで幅広い人達が参列して静粛・祈弔意のうちに執り行われた。
東京からはウイングプロダクション三上社長ほか広島のCOCORQプロダククションの飯島諒子社長もわざわざの参列と共に、所属の仲間やこの度のドラマ共演の俳優やスタッフ、さらには舞台監督・TV各局ディレクターやCMスポンサーからも五十通を越える弔電や生花・花輪などの供物が供えられた事で菜穂が今、話題のテレビドラマ“華麗なる誘惑”に出演している木桧 蛍である事を式場に参列した人々が初めて知る事となった。
焼香の順で修子が祭壇に立ち進んだとき、式場のあちらこちらがざわめいた。
〈菜穂ちゃんが木桧 蛍だったなんて〉〈ほら、木桧 蛍よ。あの方〉知らない人は女優の参列にざわめき、幼い知り合いは何時の間に女優になったのかと式場は少し場違いの雰囲気であった。
告別式が滞りなく終わろうとする次第で喪主の挨拶となって、母の敏江と長女の菜穂・それに葬儀委員長として叔父の田嶋正太郎が祭壇を背に会葬者に向かって立ち並んだ。
しかし、この場には次女の美穂の姿はなかった。
喪主である母に変わって、菜穂が親族代表の挨拶に立った。
『本日は大変ご多用の中、父・修三の葬儀並びに告別式に多く方々の御会葬を賜り、亡き父も大変うれしく思っている事と思います。突然の不慮の死因で享年五六才という短い生涯を閉じた父は残念でならないと思います。今まで誰よりも家族を愛し、この宮島を愛した父の思いをしっかりと受け継ぎ、残された家族で力を合わせ、がんばっていこうと思います。これからもどうか、今まで以上に私達にご指導を賜りますようお願い申し上げ、本日のご会葬のお礼とともに喪主である母敏江に代わり、ご挨拶とさせていただきます。本日はありがとうございました』
落ち着いてしっかりとお礼の言葉を述べた菜穂は、何かドラマの中でのワンシーンのような錯覚を覚え、自分の人生は全て演技なのかと空しく思えた。
『以上で、田嶋修三儀・葬儀並びに告別式を滞りなくお納め致します。本日はご苦労様で
した。この後はご親族の皆様によるご出棺準備でございます。準備ができますまで、今しばらくお待ち下さい。尚、お見送りの皆様は、会場正面に出てお待ち下さい』
司会者の閉式の言葉で、参列者は菜穂達の前を黙礼しながらお悔やみの言葉をかけて会場を後にした。
静まりかえった式場では遺体との最後のお別れと棺にお供えの花を添える儀式が行われ
、出棺の手はずとなった。
その時、見覚えのある友人が菜穂に小走りで近寄って来た。
『菜穂ちゃん。今ね会館の前の木蔭で美穂ちゃんの姿を見たわ』
『えっ!ほんと、何処』
菜穂は友人の言う会館の前の木を目指した。しかし、すでに美穂らしき姿は見あたらなかった。
『もう居ないみたいだわ。で、どうだった美穂』
『しっかりと見た訳じゃないんだけれど、元気そうだったわよ。でも何で美穂ちゃんは式に出ないの?』
『えっ、あぁ・のね。それは・・・出棺だから、また後で』
咄嗟の友人からの問いかけに菜穂は、言葉に詰まりながらあわてて式場へ戻った。
やはり、漏れ聞いていたのだ。なのに何故帰ってこなかったのだろう?とにかく今日の式を済ませなくちゃあ。菜穂は急いで斎場行きの車に乗った。
骨あげを済ませ、親族関係での精進料理のおもてなしの宴が終わったのは、午後七時を回った時刻であった。
『皆さん、今日は父の葬儀にご会葬いただき
ありがとうございました。おかげさまで、人並の見送りを無事済ませることが出来ました。これからもどうかよろしくご指導とおつきあいをお願いします』
『菜穂ちゃん、ご苦労様。疲れただろう』
『敏江さん。気を落とさずにな』
『それはそうと美穂ちゃんはどうしたの』
帰り際にそれぞれの親族からお悔やみや気遣いの言葉が二人に投げかけられたが、美穂の事だけは返事に困って、海外に留学していて仕事の都合で帰られなかったとその場を取り繕った。
『やれやれ、終わったわ』
『菜穂ご苦労様。あんたが居てくれなかったらお母さんには到底、勤まらなかったよ』
『私だって、いっぱい、いっぱいよ』
『いいえ、さすがは女優さんだわ』
『お母さんもそう思う?セリフのようだった?』
『そう言う意味じゃあないわ、人前でしっかりと言葉を言えた事を言ってるのよ』
『ああ、そう言う意味』
菜穂はちょっと安心した。母までも演技と思っていなかったかと…
葬儀のため三日間の休暇を終え、菜穂は東京へ戻った。
葬儀後、詳しく事情を聞かせてほしいと母の敏江に警察からの連絡が来た。
敏江はその事を修子に電話して、いっその事、美穂の家出捜査をお願いしようかと言った。菜穂もこの際、美穂の事を警察に言ったらと伝えた。
『実は、先日の葬儀に来ていた菜穂と双子の美穂と言う二十歳の妹が家を出て音信不通なんです。かれこれ三ヶ月近くになるのですが』
『それは、お父さんの死因と関係する事なんですか?』
『いいえ、それはないと思いますが、とにかく捜索願をお願いしたいと思いまして』
『分かりました、ではこの書類に必要事項を書いて下さい。ところでお父さんが亡くなられた前後、何か変わったことはなかったですか?』
『いえ、いつも通り、翌日の漁の支度に出かけました』
『そうですか。いや、その後の鑑識の結果から、どうもお父さんの死因である腹部破裂はバールのような何か堅い物で横から強打されたのが原因らしいと』
『人に恨まれるような人ではないと思いますが』
『いや、そうですよね。島でも代々の漁師で以前は漁業組合長もなさっていたご主人ですからね。人望があっても恨まれる事などない人でしようから』
代々地元の漁師である田嶋家は島でも有数な資産家として知られていたし、公共関係の人達にも馴染みとして広い交流があつた。
『とにかく万全を期して捜査に当たり、必ず犯人を検挙しますので。それと捜査願いの方も早速,捜索を実施して見つかり次第、ご一報を入れます』
所轄の刑事は気の毒そうな態度を見せつつ、はっきりと言明した。


         《五》
告別式から三ヶ月後の十二月の初め、所轄署から五度目の事情徴収のため、母敏江に何度もご足労をお掛けするが警察へ来てほしいと連絡をして来た。そこで意外な事実が分かった。
『今のところ、ご主人の他殺についての情報はないのですが、先日、届け出のあった双子の妹さんの捜索願ですが、その後。ご自宅の方へはれんらくはありませんか? 』
『はい、なにも・・・』
『そうですか。ところで、ある情報で葬式の当日、お嬢さんが宮島に来ていたと言う目撃者がいましてね。それが男と一緒だったらしく、又、その男がですね、広島県警で公開手配になっている暴力団員の倉田賢二という男らしいんですよ』
『何ですって、美穂が暴力団の男と一緒に?何かの間違いではないでしょうか?』
『どうも事実のようで、現在も特別警戒で全県緊急配備を敷いています。県外に出ていなかったら逮捕も時間の問題でしよう』
『…………』
敏江は声も出なかった。
『逮捕して調べたら何か分かるかもしれませんので、取りあえずお知らせをと…』
『分かりました。何とぞよろしくお願いします』
どういう事情で、美穂が暴力団の男と居るのかが分からない。ましてや、それが父親の殺害事件と関係があるのか?刑事は何かを隠しているようであったが、ある程度は調べが付いているのかもしれない。敏江は今日の事を菜穂へ連絡を入れた。
『心配要らないわよ。美穂がまかり間違っても』
『当たり前じゃないか。菜穂は双子の妹を疑ってるのかい』
『疑うだなんて、ただ』
『ただ、何だい』
『いえね、何もないなら、何故、お父さんの葬儀に帰ってこなかったのかなっと思って。実は葬儀の出棺の時、美穂が会館の前の木蔭で様子を見ていたのを私の友達が見てるの』
『何だって。それじゃあ菜穂は知っていたのかい』
『ええ、言わなかったけど出棺の時、友人から知らされて直ぐ私も見に行ったんだけど、もう居なかったわ』
何か母の敏江は不吉な予感がした。
刑事も菜穂も美穂が葬式の会場に来ていたと言うのなら、何故顔を出さないで隠れるように様子をうかがっていたのだろうか?
『とにかく刑事さんが言っていた、その暴力団の男が手配で捕まったら分かるわ。それしか仕方ないもの。美穂は関わりがないことを祈るしかないわ』
『そうだね。何でこんな事になってしまったのかね』
母だけを残して東京に戻った菜穂は、その後も気になってはいるものの、今まで通りの女優へのレッスンの日々であった。
そんなある日、カメラマンの杉田がハワイロケのスチール写真を持ってきた。
『蛍ちゃん。ハワイのスチールショットが出来たよ。いい感じで仕上がっているよ。特に最後の日の、お父さんが亡くなられたと聞いてから、あわてて撮ったホテルでのスナップは不謹慎な言い方かもしれないけれど、哀愁的な表情がビーチ・チェアに座って夕陽をバックに、いい感じが出ているよ』
仕事とはいえ、父が亡くなった悲しく悲壮な、それも殺害されたという事態にも女優としてのプロ根性は表情にも出すことを許されないはずなのに、ハワイ観光を紹介する航空会社の広告撮影で撮った表情が哀愁をおびた感じで夕陽のバックに又、行ってみたいと旅行者に思わすスチール・ショットに出来上がったという皮肉な結果となった訳だ。
あわただしい父の葬儀を済ませて帰京後も、またレッスンの毎日で気になっていた事も忘れていた矢先、母からの伝言が留守番電話に入っていた。
〈菜穂かい。お帰り、今日刑事さんから連絡で、あの暴力団の男が手配で捕まったって
、でも美穂は一緒じゃあなかったそうよ。で今、取り調べ中だそうなので、また何か分かったら連絡するから。それはそうと身体は大丈夫かい。無理しないでね、じゃあお休み〉
母からの電話はホッとする。しかし、この度の内容はあまり嬉しいものではないが、最後に必ず身体を心配する言葉を投げかけてくれる。親は有り難いものだ。
メッセージを聞いてふっと時計に目をやると、まだ九時過ぎだったので菜穂は母に電話をかけた。
『もしもし私、菜穂。もう寝てるの?』
『ああ菜穂かい。起きてたよ、今し方、また刑事さんからの電話が来てね、美穂の居場所が分かったって、明日早朝に家宅捜索に行くらしいよ』
『ほんと、良かったわ』
『どうも、その暴力団の男と一緒に居たらしいよ』
『まあ、なんて事を』
『とにかく明日には面会って事になるかも』
『何だったら私、帰ろうか?』
『いいよ、菜穂もそんなわがままばかり言ってられないだろうし』
『まあそうだけど、でもお母さん一人で美穂に、ちゃんと聞きただせる?』
『刑事さんも言って下さるから』
『じゃあ、明日また結果教えて、場合によっては私も帰るわ』
『分かったよ。じゃあお休み』
『お休み』
警察の捜索力はたいしたものだ。あれ以来地道な聞き込みの結果、倉田が新たに拘わっている金融会社を突きとめ、集金に行ったとの情報で集金先から帰社のルートを予測して、緊急配備の検問を設置し倉田賢二を逮捕した。罪状は二年前、以前拘わっていた金融会社の、やはり借金の取り立てで相手に怪我を負わせて指名手配となっていた事件の、別件逮捕であった。逮捕後の取り調べで美穂と同棲しているという居場所を聞き出し、明日家宅捜査を行う予定であった。まだ詳しいことは一言もしゃべっておらず、あす美穂を保護し、その後の二人の供述によって詳しい事情が分かるであろうと思われていた。
翌日の午前七時、広島県警察本部の捜査一課は四人の私服刑事が逮捕した暴力団員の倉田賢二の自白による、広島県五日市のアパートへ家宅捜査に出発した。
『倉田さーん。おはようございます』
『……』
『倉田さーん』
家宅捜査に立ち会いをさせるために同行していた倉田をひとまず車に残して、捜査員は二階の倉田の部屋に美穂がいるであろうという予感から、ドワをノックして呼びかけた。
『はい』
蚊の泣くような声に続いてドワが細く開けられた。  
刑事の一人が、直ぐ片足を開いた隙間に差し込む。
『田嶋美穂さんだね。広島県警です。ちゃんとドアを開けなさい。保護に来たんだから心配しないで』
美穂は、恐る恐るドワを開けた。一斉に刑事達が室内へなだれ込んだ。
寝姿着の美穂に
『とにかく服を着替えなさい。それと荷物も持って。倉田賢二を知っているね』
『はい』
『彼を暴力団員と知っていて一緒に居るのかね』
『……』
『まあ、署に行ってからゆっくりと聞くから
。準備が出来たら出てきなさい』
美穂に声をかけた柴田刑事だけがドアの前で出てくるのを待った。
『じゃあ、行こうか』
『はい』
美穂は素直に捜査の車に乗り込み県警本部に移送された。
別の車内で待たされていた倉田は、美穂と入れ違いに顔を会わさないまま家宅捜査に立ち会わされ、捜査官は幾つかのダンボールに証拠品を詰めて持ち出し、県警へ戻った。
移送車中で母や双子の姉である菜穂から心配して捜索願が出されている事を聞かされたが、美穂は黙ってうつむいたままであった。
『さあ、こっちだ。今からちょっと聞きたい事があるから、そこに座って』
『倉田さんは何処ですか?』
『二階の取調室だ』
『会わせて貰えないんですか?』
『今はダメだ。もう倉田なんてあきらめなさい。君には相応しい人物じゃないよ』
『……』
柴田刑事は美穂の正面にドッかと座り、鋭い目で取り調べに入った。
『ところで、もう一度確認だが、名前は?』『田嶋美穂です』
『うむ、で、あんたは倉田とはどういう関係で、何時からの知り合いなのかね』
『倉田さんはどう言っていますか』
『君に聞いているんだよ。倉田の事はどうでも良い』
『倉田さんに会わせて下さい。そしたら話しますから』
『どうしてかね、何を気にしているんだね?』
『……』
どうも要領を得ない。とにかく倉田との面会をさせてほしいの一点張りである。
『ちょっと、待っていなさい』
柴田刑事はそう言って部屋を出て二階に上がった。家宅捜査に立ち会った、倉田も美穂と前後して署に戻り、二階の別室で取調べが始まっていた。
『向井さんちょっと、良いですか』
倉田を取り調べている向井刑事に声をかけ、中に入った柴田は倉田に対して
『田嶋美穂を保護したが、お前との面会をしたいと言っている。お前は希望するか?』
『いいえ』
『会わないのか』
『ええ、彼女は関係ないですから』
『分かった。向井さん、あと頼みます』
それだけ聞いて柴田は再び美穂の部屋に戻った。
『今、倉田に聞いたが、会う必要はないと言うことだ。君は関係ないからと』
『そう言いましたか、ではお話しします』
柴田刑事から倉田の気持ちを聞いて美穂は突然、素直に話を始めた
柴田はちょっと気になったが、とにかく供述を取る事にした。
『倉田さんとは、金融会社の取り立てで知り合いました。実は私、ゲームソフトのプログラマーの仕事をしているんですが、企画したソフトが契約先の販売会社から不採用になりまして、その版権を他社に売り込んだのですが、そこも不採用となって、結局、制作費のデモソフト代などの支払いに困って、返済は次の企画ソフトが契約できれば大丈夫だと考え広島の金融会社からお金を借り入れたんです。ところが、その後も契約が思うように決まらないうえに、借り入れた返済期限が迫ってアパートに頻繁に取り立ての電話が掛かって来るようになりました。それで知り合いの製作会社に倉田さんを紹介戴いて、何とか切り抜けてからお世話になっているんです』
『それだけなら、何も問題はない。そんなきれい事ではないだろう』
『いえ、今お話ししたとおりです』
『どうも、何か隠しているようだな。ところでお父さんが亡くなられた事は何時知ったのかね』
『お葬式の前日です』
『誰から』
『宮島フェリーの船長さんからです。宮島に帰ろうとフェリーに乗ったら、顔なじみの船長さんが、一昨日、父が漁港で誰かに殺されたって聞いたがほんとうなのかと言われました。でも私はその時は知りませんでしたが、はいと答えました』
『何故、知らないのに知っているように言ったのかね』
『娘なのに自分の父親が殺された、それも一昨日の事なのに知らないとおかしいと思われるからです』
『あんたは家を出ていたんだから、知らなくても当たり前だろう』
『でも、幼い頃から知っている船長さんでしたから、家を出ている事を知られたくなかったんです』
『それにしても、じゃあ何故、葬式に戻らなかったのかね。式場の近くで隠れて見てたという証言があるんだ』
『はい、母に会うのも、それ以上に双子の姉と会うのが怖かったんです。いつも姉は私を気にしてくれていましたから、私は家を飛び出して母や父を困らせていたし、姉は東京で女優として有名になっているので会うと迷惑が掛かるうえに自分が惨めになるばかりですから』
『あんたの心境は分からないでもないがね、何か腑に落ちないな』
『何も隠してなんかいません。ほんとうです』
『じゃあ、倉田は単に借金の肩代わりをしてくれただけで同棲しているのかね』
『いえ、好きなんです。だから一緒に暮らしているんです』
『ほんとうかね、借金の代償に関係を迫られて、嫌々そうなったのじゃあないのかね』
『いいえ、違います。それと警察から手配されているなんて、まったく知りませんでした』
『うーむ。あんたの話を聞くだけでは事件性はないようだが取りあえず今日のところは、これで帰って貰っても良いですよ。署にお母さんが迎えに来られているから、実家にちゃんと帰りなさい。良いね』
『はい、色々ご迷惑をお掛けしてすみませんでした』
『倉田の取り調べの内容によっては、明日、また来て貰うかも分からないからね』
『分かりました』
身元引受人として呼び出されてロビーで待っていた母の敏江は、刑事に付き添われて出てきた我が子を他人でも見るような目で見た。その目は、はっきりと美穂の現実を疑わしく思っている目でもあった。
『もう、よろしいんでしようか?』
『今日のところはね。別室で取調べ中の倉田の供述によっては、また参考人として来て貰う事になりますから』
『分かりました。お手数をお掛けしますが、何とぞよろしくお願いします』
刑事に挨拶をして外に出た母に美穂は、一変して噛みついた。
『何が、よろしくよ。お母さんなんて分かっていない!』
『……』
そう言うと美穂は母を無視して歩き出した。あわてて母の敏江は玄関で見送っている柴田刑事に黙礼をして後を追った。
『どうしたの?美穂。母さん何か悪いことを言った?』
『もう、放っといてよ。自分の始末は自分でつけるわ。子供じゃないんだから』
『自分の始末って美穂。どう言う事なの?』
『もう、良いって言ってるでしよう。私アパートに帰るから』
そう言うと美穂はさっさと敏江を残し倉田と暮らすアパートに帰るためにフェリー乗り場へと向かった。
美穂の言葉に、止めようもない母の敏江は美穂は何か隠していると思うのであった。
美穂の気持ちは揺らいでいた。倉田賢二が逮捕された時、刑事からの尋問に〈美穂は関係ない〉と言ったと聞かされた事で、賢二がこの後の取り調べにもその言葉を貫き通すと信じていた。賢二との関係について、単なる借金の肩代わりをして貰ったと言ったが事実は違っていた。
広島の金融会社に二百万円の借金をしたのは事実であつたが、その取り立てに九月の初めにアパートへ来たのが倉田賢二本人であった。ドワを開けた美穂の身体を強引に押しのけて部屋に上がり込み、返済が出来ないなら身体で払えと迫った。
『あんた借りるときに契約書を読んだだろう。今更、待って下さいとは虫が良すぎるよ』
『予定していた契約が決まらず…どうしてもお金の都合が出来なかったものですから』
『それは、あんたの勝手だろう。あんたの実家は宮島の代々の資産家らしいじゃないか。親に頼めば二百万なんて微々たる金だろう。』
倉田はそう言いながら、美穂をなめ回すような菜穂に瓜二つの美穂もそのプロポーションは色気と魅力が漂っている。
『親は関係ありません。私が借りたんですから』
『どうだい、場合に寄っちゃ俺が立て替えてやろうか?』
『えっ!』
『だから、その借金を俺が精算してやろうかと言っているんだよ。どうもあんたを見て、一目惚れしたようだ。俺と同棲するならその二百万を俺が出しても良い』
『………』
『どうだい?俺との取引に応じるかい』
威嚇的な言葉の倉田だが、何か美穂には怖さが感じられない。何故なんだろう。
『ほんとに二百万を貴男が?』
『ああ、但し俺と同棲するって条件だ』
倉田はこの娘を自由に出来るなら二百万なんて惜しいとは思わなかったが、美穂にとっては咄嗟の事で返事に詰まった。
しかし倉田の取引という言葉で何か割り切る気持ちに変わった。今まで心に持ち続けている、ある執念のような思いをこの倉田に託して実行できないかと言う思いが頭をよぎった。
荒々しく部屋に入った目の前の倉田は結構いい男で、スラッとした長身にさわやかなスポーツ刈りから暴力団員とは思えず、乱暴な言葉には似合わない甘いマスクは美穂に恐怖感と言うより親近感を感じさせた。
『いいわ、でも私の方にもお願いがあるわ』
『何だ?』
『同棲って事はこれからは私の信頼できるパートナーって事にもなるわよね、だったら、父から一千万円を出させるために協力してほしいの。成功したら半分の礼金を出すわ』
『何だと、あんた恐ろしい事を言うね。親には関係ないって先っきは言ったのに、その親に金を出さそうなんて』
『お互い様じゃない。貴男だって借金の取り立てに来て、ミイラ取りがミイラになって会社に申し訳が立つ事?取り立てに来たのに自分が立て替えて精算した上に、相手に惚れてたら幾ら身があつても持たないわよ』
『負けたよあんたには、だけど益々気に入ったな。あんたの事』
結局は、倉田の条件を逆手に取った美穂が惚れた弱みの倉田に自分の思いを遂げるためのパートナーとして同棲する事で協力させる条件を呑ませた。
取りあえず倉田は一旦、美穂から返済させたようにして自分の二百万円を金融会社に精算した。
その連絡を受けて夕方、美穂は今までのアパートから身の回り品を整理し、倉田のアパートに移ってきた。
『約束通り来たわ。よろしくね』
『むさ苦しいけど、まあ上がれよ』
『食事まだでしょう?美味しいか分からないけど途中で買ってきたわ。一緒に食べましようよ』
『ほぅー夕飯を買って来てくれたのかい。何だか女房みたいだな』
『そんなもんじゃない。同棲って』
『まあ、そうかもな。でもあんたには味噌汁臭くなって貰いたくないな』
『じゃあ、大事にしてよ。貴男のためにもね
。ところで昨日言っていた父に出させる一千万円だけど』
『本気で言ってるのか』
『そうよ、理由はもう少し貴男を知って信頼のおけるパートナーと私が思ったら話すから
、今は私の思いを遂げる為に言うとおりにしてほしいの』
美穂は父に出さそうとする一千万円の必要性を書き留めた手紙を倉田に渡して、説明した。
『父はいつも漁に出る前の晩の午後七時頃、準備のために漁港に行くの、だから貴男は時間を見計らって漁港に行って父にこの手紙を渡して頂戴。必ず父は一千万円を用意して、私の口座に振り込むわ』
『それじゃあ、俺の面が親父さんに分かるじゃないか』
『大丈夫、この手紙には貴男の事を私の彼氏と書いてあるわ。だから脅迫とかではなく、ある理由で必要なお金と書いてあるの』
その内容はこのように記されていた。
(お父さんへ、突然に渡された事で、驚かないでください。届けた人は私の彼氏です。今、理由があって直接、私がお父さん会えませんので、彼に私の手紙を頼みました。実は三日前、ある女優のマネージャーと言う人から私宛に電話が来て、菜穂がある女優に詐欺まがいの話を持ちかけて、一千万円をだまし取ったと言うんです。ところが菜穂は自分もある人の紹介で騙されたから弁済義務はないと言い張っているらしく、その女優は借金をして菜穂に渡したので、取り立てが来て困っている。このままにするなら、この事を公にして菜穂を業界に居られないようにするがそれでも良いのかと。もし、身内が返済するなら利子も要らないし今後一切、表沙汰にはしないので指定する口座に一週間以内に一千万円を振り込んでくれという内容で、菜穂から聞いた私の電話に連絡をしてきたんです。速やかに言うとおり返済するなら、本人がこれからも女優としていられるが…もし返済しないのなら週刊誌や新聞社に投書して、ファンの目にスキャンダルとして公表する。そうなれば木桧 蛍の女優生命はお終いになると言う内容でした。とは言っても私がどうする事も出来ず、菜穂の女優としてのスキャンダルが表沙汰にならないようにお父さんにお願いするしかありません。どうぞ、菜穂を助けてあげてください。美穂からもお願いします。私の方は彼とがんばって生活をしていますからご安心下さい。では、取り急ぎ振込先を書いておきます。絶対、誰にも分からないようにお願いします。菜穂の女優生命が掛かっていますので。美穂より〉
と言う内容で最後に振込先と口座番号・名義人名が記されていた。
それは美穂が架空名義で口座を開設した振込先であった。
『父の顔はこれよ』
美穂は父・修三の写真をを見せた。
『これを漁港に来た美穂の親父さんに渡せば良いんだな』
『そうよ。美穂さんから頼まれたと言ってね』
『分かったよ。明日の夜八時頃なら来ているんだな』
『ええ、多分ね。いつも行くなら、そんな時間だから。取りあえず行ってみて』
『ほんとにうまくいくのかい。この手紙ぐらいで』
『明日の夜、渡せたら一週間以内には必ず振り込まれるわ』
美穂は自信ありげに言うと賢二にウインクをした。 
買ってきた食事を済ませ、キッチンで洗い物をする美穂には二人がすでに何年も前から生活を共にしていたような感じさえした。
『こっちへ来いよ。いい女だ美穂は、ところで双子の姉だという菜穂って言ったかな?彼女も美穂とは瓜二つなんだろう』
『ええ、だけど二卵性だから性格は違うわ。どちらかと言えば菜穂の方が活発で明るい性格かな?』
『じゃあ美穂は陰気で暗く、きついって事だな』
『そう見える?』
『性格が違うのならそうだろう』
『でもね、男は美穂の方が夢中になるわよ』
『よく言うよ。自分で言うかよそんな事を…男が感じる事だろう』
『嘘かどうか試して見る?もう私から離れられないかもよ』
『もう離れられなくなっているよ。来いよ、美穂』
『いゃーん、もっとやさしくぅ』
美穂の生活は、倉田によって変わりつつあった。 
賢二は意外と優しく、美穂を大事にした。
美穂は初め、自分の思惑を実行するために賢二の条件を受けたつもりだったが日を追うごとに賢二の愛は本物となり、美穂の方も徐々に気持ちが傾きだしていた。


       
         《六》
同棲して四日目の九月十日の午後八時、倉田は宮島の漁港に来ていた。
そろそろ美穂の父である修三が来る頃である。倉田は物陰に身を潜めて、それらしき姿を待っていた。夜の漁港は肌寒く、外灯の明かりだけが暗い港の一部を照らしているが誰一人もいない。間もなくして単車の音が近づいて、波止場に碇泊している漁船の側で止まった。外灯に照らし出された横顔から写真で見た修三に間違いない。
倉田はしばらくの間、蔭からじっくりと確認をしてから、ゆっくりと歩いて修幸丸と書かれた漁船で、網の手入れをしている様子の年輩の男に声をかけた。
『田嶋修三さんですか?』
『誰だい。あんたは』
『実は美穂さんから手紙を渡すように頼まれたんです』
『何だって美穂!あんたか美穂を連れ出したのわぁ!』
そう言うが早いか船から飛び降りた修三は手にした鉄棒で、いきなり賢二を目がけて殴りかかった。
大きくのけぞった倉田は咄嗟に護身用として日頃から持ち歩いているサバイバルナイフを、ズボンのポケットから取りだし、応戦した。思いがけない展開となって、手紙を渡すどころではない。このままだとほんとうに殴り殺されるかもしれないと思った倉田は、次の瞬間、相手の鉄棒を奪い取って手当たり次第に振り下ろした。
『うわぁーぁ』
何処をどう打ったのか相手は身体を折り曲げながら地面に伏せた。
『親父さん、親父さ…』
うっすらとした明るさだけの波止場に止めた単車の側に修三はうずくまるように横たわってピクリとも動かない。
『えらいことになった!』
倉田は修三に近寄り、身体を揺すったがまったく反応がない。
一瞬、誰かに気づかれていないかと当たりを見回したが、誰一人として人影はない。
倉田は手に奪った鉄棒を握りしめたまま、一目散にその場から走り出した。あわてふためいて逃げる倉田は、途中、凶器となった鉄棒を海に投げ捨て、その後フェリー乗り場近くの建物の影で、始発の時間まで身を潜めていた。
全くの予想外であった父親の行動に、何が何だか解らないまま、身の危険を感じて咄嗟に奪い取った鉄棒を相手めがけて打ち込んだが、もしかしたら死んだかもと思っていた。『誰だ。そこに居るのは?』
午後九時を過ぎて静まりかえった漁港に、懐中電灯の光が辺りを照らした。
定期的に漁港を巡回している漁業組合の富田組合長は、暗闇に見える単車の側に人らしい姿を発見して駆け寄った。
『田嶋さん?修三さんじゃないですか。修三さん、どうしたんだ!』
そこには、うつ伏せに倒れ口元にはおびただしい血が広がり、目を見開いて腹が異常に膨らんでいる田嶋修三の姿があった。
『えらい事だ!救急車!救急…』
独り言のようにつぶやきながら、富田は携帯電話から一一九番へ救急車の要請をした。
間もなく到着した救急隊員は現場での確認で、すでに死亡している事を本部へ伝え、取りあえず町立病院への死体搬送を報告して現場から病院へ向かった。
その後、倉田は夜が明けるのを待って、始発のフェリーに乗り、特に怪しまれる事のないまま宮島から広島に帰って、美穂が待つアパートにたどり着いたのは午前八時過ぎであった。
『どうしてたの?連絡もなかったけど?』
父に手紙を渡したら電話を頂戴と言っていたのに、それがなかった事で美穂は帰ってきた賢二を問いただした。
『それが、えらいことになってしまった』
それだけを言うと頭を抱えて座り込んだ賢二に、美穂はまさかという思いが心を掠めた。
『なによ、何があったの賢二!』
『親父さん、死んだかもしれない』
『なんですって!死んだって、どう言う事なの、ねえ賢二ってば』
『解らないけど、とにかく俺が、俺が鉄棒で…』
『だから、どうなのよ、もっとちゃんと説明して!』
美穂はイラだった。解らない。
賢二は小刻みに身体を振るわせ床に俯せて頭を抱えて話すから、言っていることがはっきりと聞き取れない。
『何があったの?ちゃんと話して』
『親父さんに声をかけて美穂から手紙を預かってきたと言ったら、親父さんがいきなり、お前が美穂を連れだしたのかって鉄棒を振り上げて襲ってきたんだ』
『で、どうしたのよ』
『だから、咄嗟に俺も持っていたナイフを出したんだけど、怪我をさせたらいけないと直ぐに親父さんが持っている鉄棒を取り上げたんだが、それでも殴りかかって来るんで夢中で奪い取った鉄棒で何処をどう叩いたかは解らないけど、親父さんが倒れ込んでそのまま動かなくなっちまったんで、恐ろしくなって逃げて始発のフェリーで帰ってきたんだ』
『じゃあ、死んだかどうかも解らないの?』
『ああ、解らない。でも二十分ぐらい後に救急車のサイレンが漁港の方へ言ったようだったから、誰かが見付けたのかも』
『そう、じゃあ、手紙は渡さず終いだったのね』
『ああ、ここにあるよ、渡すどころじゃない、それに万一死んだとしても正当防衛だ』
『争ってるところは誰にも見られなかった?』
『多分な』
父や母に恨みはない。まして怪我あるいは最悪、死んだとしても計画的な結果でもない。あえて言うなら、日頃から両親は双子の姉妹でも、どちらかというと姉の菜穂を中心として将来を夢見ていたことぐらいで、それが憎いと言うほどではなかった。
むしろ何かにつけて人生を謳歌している菜穂に対して、羨望の思いが強かった。
それはスカウトされた事をキッカケに女優として世間に認められ、最近ではテレビや舞台の仕事にも多忙の日々で、芸能誌や週刊誌のグラビアなどで華やかに笑顔を振りまいて紹介される木桧 蛍としての菜穂に対して、双子の姉妹であるのに何故、菜穂だけが恵まれた人生で、自分はこんなに不幸なのかと勝手な嫉妬心で、菜穂の人生の幾分かでも自分も味わう権利があると、偏見と身勝手な思いで菜穂の人生をメチャメチャにしてやりたい衝動に駆られていた。
その後、発見され病院へ搬送された父の修三は腹部を幾度か強打された事による内臓破裂が死因と確認された。
美穂の家出捜索を家族が申し出たことで動き出した広島県警捜査一課は、三ヶ月後所在を突きとめた美穂が脅迫と傷害容疑で逮捕状の出ている倉田賢二と同棲していると言う事実を突きとめた事で、緊急配備の検問によって逮捕した倉田と美穂との関係が、なにか不可解な事情があるような気配に捜査員は色めきだった。
『倉田、本当のところはどうなんだ。おまえ美穂さんの父親の葬儀の時、一緒に宮島に来ていただろう。と言うことは父親が何者かに殺害された事も知っていたよな』
『ええ、美穂から聞きました』
『おまえ、父親が亡くなった日の夜は何処にいたんだ』
『呉市のアパートで美穂と居ましたよ』
『おいおい、嘘を付くんじゃない、じゃあ何故、翌朝の始発のフェリーに宮島からお前が乗ったという目撃があるんだ説明して見ろ』
『……』
『もう、美穂さんをかばうのもいい加減にしてスッキリと話して見ろ、ええ』
柴田刑事の口から出た目撃という言葉で倉田は観念した。
『美穂は関係ないですよ。ほんとうに、実は美穂の借金を俺が精算して、その代償に美穂との同棲を条件に一緒に住みだしたんですが、美穂の実家が資産家と聞いて、俺が出した二百万円を親父さんから取り戻そうとあの晩に翌日の漁の準備に漁港へ来た親父さんに話をしに言ったら、いきなり親父さんが美穂を連れだしたのはお前かって、鉄棒で殴りかかってきたもんだから殺されると思って鉄棒を奪ってもみ合っているうちに倒れたんですよ』
『やっぱり、おまえだったんだな。そんな正当防衛らしい話が通ると思っているのか。どうせお前が初めからやるつもりだったんだろう』
『違いますよ。別件の脅迫と傷害の件は事実ですが、もう今は組からも足を洗って堅気として生活しています。確かに彼女の借金を俺が払ってやる変わりに同棲を強要しましたが、美穂も俺との同棲を自らが承知してくれたから脅迫ではないですし』
『じゃあ何か、親父さんから美穂さんの借金額を取り戻そうとした事は、美穂さんも承知だとでも言うのか』
『いえ、それは俺の独断です』
『おかしいじゃないか。だったら何故、自らが自首して来なかったんだ』
どう言われようと美穂が言い出して父親に会いに行って起こった事だとは、口にするまいと倉田は、頑なに単独犯を主張した。
しかし、ベテランの刑事は倉田の供述を信用せず、午後からもう一度取り調べをするとして一旦うち切った。
柴田は刑事課に戻って直ぐに実家に帰っているはずの美穂に、明日、再度出頭するよう連絡を入れたが電話口に出た母の返事は、あれから実家に帰らず自宅アパートに帰って、ここには居ないと告げた。もしかして…刑事は不吉な予感がした。直ぐにアパートに電話を入れたが応答はなかった。
その頃、美穂はすでに広島から新幹線に乗り東京に向かっていた。
昨日、参考人として尋問を受けた後、母と実家へ行くのを拒んで倉田と同棲しているアパートに戻った美穂は、東京のウイング・プロダクションの三上に電話を入れた。
『もしもし、ウイング・プロダクションでしょうか?三上社長は居られますか?私、広島宮島の田嶋美穂と申します。ええ、あっそうです菜穂の妹です。はい、お願いします』
『もしもし、美穂さん。久しぶりですね。三上です。どうしたんですか?ええ、ほんとですか。解りました。ええ、喜んで、じゃあ、広島を出るとき、東京に着く時間を電話下さい。迎えに行きますから』
『はい、無理を言ってすみません。それとこの事は菜穂には内緒にして下さい。よろしくお願いします』
美穂は倉田が自分への思いから絶対一人でした事だと言い通すと信じていた。
しかし、どうなるか解らない。とにかく東京に行って菜穂の所属プロダクション社長の三上慎司に会って、どんな事をしても自分の思いを果たそうと考えていた。
〈必ず華やかな世界の木桧 蛍としての生活を私が菜穂から奪ってやるわ〉美穂の執念がメラメラと燃え上がった。
新たな年を迎えてその後の菜穂・木桧 蛍は益々順調でTVドラマの出演ほか、第二作目として来春からは主演となる恋愛映画“甘い蜜”の出演が決まっていた。
すでにテレビは帯で週二回のレギュラーをこなし、単発では各局の番組からのゲスト依頼が月に少なくとも四・五本の声が掛かる忙しさで、歌の方も今年の年末に初めてのCDが発売される予定となっていた。
今日も午後から新進デザイナーの新春ファッションショーにゲストモデルとして魅力的な容姿を存分に披露して、観客から絶賛を浴びての二時間のショーを終えたばかりであった。
『お疲れさま、蛍ちゃん良かったよ。いつ見ても最高!』
『お疲れさまでした。ありがとうございます。また呼んで下さいね』
『呼びたいけど、ギャラ高いからね蛍ちゃんは』
『先生のショーでしたらノーギャラでも良いですよ』
『ほんと!嬉しい事言ってくれるけど、三上社長が承知しないだろう』
『だから、先生が私と専属契約をしてくだされば契約金だけで出演ギャラはカット出来ますわ』
『そうか、よし早速、考えるよ』
『ぜひ、よろしくお願いしますね』
すでに三年目となった所属では、菜穂の立場は押すに押されない不動の地位にまでなっていた。ただ唯一の不満は、どんな時でも自分の考えを通す事だけは自由がきかなかった。
共演の男優や他社の男性・芸能記者や関係スタッフなどまで、その範囲が及び、プライベートな恋愛はおろか、付き合ったり二人だけの時間を過ごすことさえ監視されていた。
しかし言い変えればそれが有名税であり、所属の商品として規制される事なんだと割り切るほかなかったが、それは豪勢で華やかな毎日と、人々がうらやむ豊かな生活を手にする代償でもあった。
『三上社長ですか?私、美穂です。東京には午後六時五分に到着します』
『解りました。では、中央口前で待っているから』
『お忙しいのにすみません』
『なーに、気にしなくて良いですよ。じゃあ六時にまた』
あれから倉田はどうなっただろう。もしかして厳しい取り調べに、ほんとうの事をしゃべって、刑事がアパートへ来たかも…美穂は車中で思いを馳せていた。
倉田に渡した手紙も破ったし、私からは殺してとも言ってないし証拠はない。だから結局しゃべっても倉田が言い逃れをしていると思われるだけで、心配することはないと自分に言い聞かせていた。
もともと、借金の条件がキッカケで同棲した倉田を、最近ちょっとばかり気になりかけていた存在だったが、もう美穂には過去の男であった。
〈ご乗車お疲れさまでした。この列車は、ひかり六0三号東京行きです。終着の東京には定刻通り十八時五分に到着です。お忘れ物のなきようお降り下さい。間もなく東京・東京です〉何年ぶりかの東京である。
美穂は出口に向かいながら、三年前に宮島で会った三上の姿を探した。出口付近は帰省客のUターンだろうか、多くの出迎えや見送りの人々でごった返していて、何処にいるのか、まったく見当が付かない。出口を出て立ち止まって探すが、それらしき姿を見つけ出せない。すでに六時十五分である。ちょっと、不安な思いが胸をよぎった。
『あのー、失礼ですが田嶋美穂さんですか?』
『えっ!あ、そうですが』
『ああ、よかった。私、ウイングプロダクションの加納絵里と言います。社長に貴女を迎えに行くようにって言われてきたんです。でも、良かった。木桧 蛍さんにそっくりな感じの人だって言われただけでしたから心配で』
『そうですか、私もてっきり社長さんが来てくださると思っていましたので、姿が見えなくてちょっと心配してたんです』
『すみません、社長が来るつもりだったんですが、急な来客でどうしても時間に間に合わないからと五時半頃言われて、あわててお迎えに来ましたので』
『いいえ、こちらこそお忙しいのに勝手を言ってすみません。ありがとうございます』
『では、行きましょうか。社の車を待たせていますから』
『ほんとうにすみません』
考えたら当然である。幾ら所属のドル箱女優木桧 蛍の妹だからと言って予定もしないで東京に行くので迎えに来てほしいと、それも芸能界の大手プロダクション社長に直に申し込むのだから失礼も甚だしい限りである。
『で、美穂さんは木桧 蛍さんの双子の姉妹ですってね。ほんとに良く似てらっしゃるし
、ステキなプロポーションですよね。蛍さんに間違われるでしよう、この度はオーディションを受けに来られたんですか?』
『いいえ、ちょっと』
出迎えの加納絵里も社長秘書をしながら女優の卵として研修中の身で美穂を見て、どうやらライバル心が湧いたようで、興味深々の様子で何かと問いかけてくる。
美穂は、この絵里もいずれ華やかな世界で優雅な暮らしをするのだろうかと思ったが、自分にはどうでも良いことであった。
薄暮の高速から都内に入り、事務所に着いたのは午後七時過ぎであった。
事務所がある六本木界隈は色とりどりのネオンが点り、これから都会の街が出没する男女のそれぞれの思いと野心を満たす場と化す時間になろうとしていた。
『まだ面会中のようですから、こちらで少しお待ち下さい』
絵里はウイングビルの九階に美穂を案内した゜
『ありがとうございます』
通された部屋は応接室で、テーブルの真ん中に鮮やかな真紅のバラがボヘミアングラスの花瓶に溢れんばかりに生けられていて壁の白さとのコントラストを見事に演出して、いっそう重圧な落ち着きが感じられる。
ここで何千万もの契約が行われるのだろうか?
『やあ、美穂さん。ごめんね。僕が迎えに行くつもりだったんだか、急な来客で申し訳なかったですね』
『とんでもありません。私こそ、勝手な訪問なのにお忙しい社長にご無理を言ってすみませんでした』
『まあまあ、で、どうしたんですか?突然』
『ほんとにすみません。ちょっとしたご相談が…』
『そうですか。じゃあ食事でもしながら、で、今夜は東京に泊まるのでしよう?部屋は取ったの』
『いえ、まだなんです』
『なんなら僕のプライベートマンションが新宿にあるから、美穂さんさえ良かったら使ってもいいですよ』
『いえ、そんな厚かましい、何処か取りますから』
『なに、遠慮しなくても。そんなに使っていないから、まだ男臭さもないですよ』
『……』
『まあ、取りあえず食事に行きましょう。後でどうするか考えたらいいですよ』
『はい、すみません』
三上は地下の駐車場に下りて、愛車のポルシェターボ九○三に美穂を乗せ、青山方面に向けて出た。
『ステキな車ですね。ポルシェでしょう?』
『そう、もう、そろそろ乗り換えようと思っているんですがね』
『幾らぐらいするんですか?』
『新車だったら一千二百万ぐらいかな』
『へえーそんなにするんですか。でも三上社長の年収からでは、ちょっとしたお小遣いぐらいなんでしょうね』
『とんでもない。そんなに取ってませんよ僕の給料は』
『そうですか?だって、何十億もの売上があるんでしよう、プロダクション』
『まあね。プロダクションの営業収入としてはね』
夜の青山界隈は大人のムードをたっぷりと味わえる。
周辺には若い女性を虜にするルイ・ヴィトン・エルメス・プラダ・ディオール・ハナエモリなどの世界の高級ブランド店が軒を並べた表参道や、スマートで品のあるファッション店のほか、青山ならではのグルメスポットが新しくどんどんオープンするなど話題の多いトレンド発信地でもある。


        《七》
三上は二四六号線から外苑西通りにでて南青山のカトレアビル駐車場に愛車を止めた。
『このビルの4階にあるレストランバー“ファウント”っていう店で食事とちょっとお酒でも飲もう』
店名の“ファウントとは“泉”を意味し、店内はブルーを基調とした落ち着きのある雰囲気のオリエンタル調で、カウンター後ろの天井から流れ落ちる水の音やテーブルランプの炎が、より一層大人のムードを演出している。
『ステキなレストランですね』
『落ち着きがあって静かに過ごせる店なんですよ。ここの創作料理はなかなかの定評があってね、それにバーも兼ねているから、飲み物だって豊富に揃っている。美穂さんの好みを頼めばいいですよ』
『三上さんにお任せします』
三上は良く来るのであろう。ボーイを呼び寄せ、手際よく今月の創作料理と飲み物を注文した。
窓からの夜景は派手なネオン群は見られないが、パノラマのように広がる街並みに青山外苑の淡い外灯の光りが、ムーディにマッチングし、美穂の気持ちを楽しませてくれる。
『ところで、お父さんの葬儀にも帰ってこないでどうしていたの?蛍いや菜穂さんも心配していたよ。家を出ているんだって?』
『その事なんですが、ゲームソフトの企画がうまくいかず、コンペ用制作費の支払いにある金融会社から借り入れをしたんですが、その返済も出来ない状況となって、ある人に助けて戴いたんです。で家を出て今、その人と同棲しているんです』
『何て名前の人?』
『倉田賢二』
『やっぱり、ほんとか』
『えっ!』
『実はね、今日、君を迎えに行けなかったのは、港署の刑事が来ていたんだよ』
『何ですって!』
『女優の木桧 蛍(本名・田嶋菜穂)の双子の妹・田嶋美穂がこちらに来ていませんかって、尋ねてきたんだよ。で、いいえと言うと、多分、連絡があると思われるので、必ず知らせてほしいと言う事だったんだよ。何があったの?』
『実は同棲している倉田が父を殺した犯人なんです。でも故意に殺したんじゃないんです』
『刑事の話では、その男の自供から君に立て替えた金を、君の父親から取り戻そうと会いに行ったら突然、相手が鉄棒で殴りかかってきたので危険を感じて、それを取り上げ相手の腹を鉄棒で殴ったと言っているそうだ。本人は先に手を出してきたのは父親の方で、自分は正当防衛だと主張しているらしいよ』
『……』
『それと、その事は君には関係ないと言っているようだ。どう言う事なのか、全て僕に聞かせてくれないか。東京まで来たには、何かの思いがあっての事だろう?』
美穂は、三上が急用で来られないと言ったが実際は刑事が自分を探しに来たと言う理由であったと聞かされ、このあと話をする事を躊躇した。
〈お待たせいたしました〉沈黙の雰囲気となった気まずい感じの時であった。
コース料理の前菜の盛り合わせとロメインレタスとパルメジャーノチーズのサラダ・生蛸のカルパッチョが運ばれて、テーブルにセットされた。続いて、程良く冷えたビールがジョッキで二人の前に置かれた。
『まあ先に食事をしよう。さぁジョッキをもって、冷たいビールで気持ちを和らげて、それからだ』
『すみません』
『謝ることはないよ。と言って乾杯もおかしいな。じゃあ、再会を喜んでとでもしようか』
『……』
『食べながら話を聞かせてくれるかな』
事情を知った三上に、美穂はどのように説明し、何を求めて連絡したのか、今更に早まったという思いがしていた。
『もう、良いです。それより今夜は酔いたいナ』
『だから、その酔いたい原因を聞こうじゃないの』
『いえ、やっぱり三上さんに話す事ではなかったわ。ただ菜穂がお世話になっている三上社長を思い出して会いたいと思ったの。もうその事は忘れて今日の再会を楽しみましょうよ、ねっ三上さん』
美穂は三上がどう思おうと、とにかく今は全てを忘れてしまいたいと思った。
『美穂さんが、そう言うなら今は、それ以上は聞かないでおこう。よし、じゃあ徹底的に呑もう』
三上も大人であった。美穂の心が閉ざされた今は、何の話だったのかと言うよりもその思いをほぐしてやるべきだと気分を一新して美穂の言葉を受けた。
美穂はその後の菜穂の女優業はどうかとか、三上とはどうなのかなどを聞きながら、早いペースでビールのお変わりをし、もうジョッキは三杯目である。
『美穂さんはいけるね。蛍も強いけど、君の方が上のようだ』
『ええ、これぐらいはまだ大丈夫よ』
『でも、ちょっと危なっかしいな』
『ねえ、三上さん、今夜は徹底的に美穂の面倒見て下さいますぅ?』
『ああ、いいとも、僕の仮住まいのマンションにちゃんと送るから心配しなさんな』
『なーに、送ってくれるだけ?』
『ほうー送りオオカミになっても、君はそれで良いんだね』
『大人の男女が、それも広島から東京にまで来て、三年ぶりの再会だというのに案外、三上さんってロマンチストじゃないのね』
『君の魅力には三年前の初対面から忘れてないよ。だからこそあの時、菜穂と一緒に女優にならないかって言っただろう。それは今でも変わっていないよ。だから遠慮してるのさ』
『今更、女優なんて、でもそう思って戴いて光栄だわ。だから今日は美穂の寂しさを三上さんが忘れさせて』
『どうも、酔っぱらったようだな』
『ええ、酔ってるわ。でも言ってることは本気よ』
三上は美穂の目的を探った。
突然の連絡で話があるように言っていたのに、刑事が尋ねてきたと告げると急に、まったく関係になく三上に会いたくなったからとはぐらかす美穂に、何かがあると睨んだ。
『あぁ久しぶりに酔ったわ、いい気持ち』
『そろそろマンションに行こうか』
『ええ』
たわいのない会話で二時間余りを過ごして三上は、席にボーイを呼んでカードでの支払いを済ませ、美穂を促した。
多少、足元がふらつき加減の美穂は、三上に身体を預ける仕草で腕を絡ませてきた。
『大丈夫かい?』
『大丈夫じゃあな―い、しっかり支えてよ三上社長様』
『困った人だ』
『困ったらどうするの?このまま放って帰える?』
『いいのかい?』
『ダメっ、意地悪なんだから』
『さあ、こっちだエレベーターで下りるよ』
三上はふらつきながら寄り添う美穂を抱き寄せ、地下の駐車場へ向かった。
何とか車まで来た美穂は、座席に座るになりドワの外に口元から汚物を吐き出した。
『どうも悪酔いをしたようだな。大丈夫かい?』
吐いたものが周辺に散り、ストッキングまで汚している。
『ごめんなさい。これぐらいで悪酔いするなんて今日の私どうかしてるわ』
口元の始末をしながら、美穂は背もたれに身体を任せ、大きく息をした。
『一気に無理したからだろう。どうだ、もう出ても大丈夫かい』
『ええ、ごめんなさい』
三上は美穂の様子を気遣いながら、愛車のポルシェを幾分スローな出足に押さえて、新宿のプライベートマンションへと走らせた。
すっかり宵闇の街なのに、人が多く行き交う新宿界隈は、午後十一時過ぎの今からが本格的な夜の活気を見せようとしていた。
『もう少しだ。大丈夫かい。着いたら着替えてシャワーを浴びなさい』
『……』
眠っているのか、返事がない。
滑るように車庫に入った車から美穂の荷物を持ち、さらに身体を支えて三上は、十一階の一一二五号の自室へと誘導した。
『やっと着いたよ。さあ、荷物はここに置いておくから、それとシャワーは向こうだ。スッキリとしてこいよ』
『ええ、ありがとう、ごめんなさいね』
『いいよ、暖かい物でも作っておくから,行った行った』
美穂は、荷物から着替えの下着をタオルに包んで、バスルームへ向かった。
三上は美穂のシヤワー姿を思い浮かべながら目で見送った。
その後の思いがけない展開が広がろうとしている部屋には、時折、菜穂と一夜を共にする三上の複雑な思いがあつた。 
取りあえずオニオンスープでも作ってやろうとキッチンに向かった。
オニオンをスープで煮込む準備をしたとき
、美穂の声がした。
『ねえ、三上さんバスタオルある?』
『ああ』
『悪いけど、持ってきてくださらない』
三上はバスルーム横のスツールにあるバスタオルを取り、ドワをノックした。
美穂のシルエットがぼんやりとスモークガラスに映っていたが、徐々に鮮明な裸体の形となって三上の前に迫った。
『すみません』
声と同時に扉を少し開けて手を伸ばすと思っていた三上は、殆ど全開して取ろうとした美穂の見事な裸体に一瞬、目を見開いた。
『いゃあーだ。恥ずかしいわ、そんなに見ないで』
『見ないでって言う方が無理だろう。まともに向き合っているのに。僕を誘惑しているのは君の方だぞ』
『ふっふっふっ、後で』
美穂は意味ありげな含み笑いでタオルを受け取りガラス戸を閉めた。
三上は湯気の中でピンクに染まった美穂の艶めかしい裸体の色気を感じながら、この後何かが起こるとの期待感を待ち遠しく思った。
『あぁー、いい気持ち。お先でした』
『酔いは醒めたかい』
『ええ、胸の重苦しい感じは暖かいシャワーでスッキリしたみたい』
『じゃあ、僕も入るよ、ここにオニオンスープを作っておいたからね』
『へぇー三上さんそんな器用な事出来るんだ』
『いゃ、器用というより、必要に迫られてだよ。独り者のつらさかな』
『まだ、奥さんいないの?』
『こんな家業じゃあ、なかなか来てくれ手もいなくてね』
『でも、結構この部屋にも入れ替わり世話役が来ているんでしょう?』
『だったら良いんだけどね。男やもめにそんな気の利く女性は来ないよ』
『じゃあ、私が名乗ろうかな』
『またまた、本気にするぞ。さあ、冷めないうちにスープでも呑んで、ちょっとシャワーしてくるから』
三上がバスルームへ向かうと優子はテーブルに置かれたカップにスープをそそいで味わった。久しぶりのくつろぎのひとときである。
詳しい事情もあえて聞かず、美穂の行動に合わせるように振る舞う三上に本心が見えず 戸惑っていた美穂は今更、自分の考えを話すよりも成り行きに任せながら三上との関係を深めて行くことで、思いを遂げようと考えを巡らせていた。
静けさの中で三上が使うシャワーの音だけが一定のリズムを刻むように聞こえる。
とにかくこれから美穂が仕掛けようとしている行動で、愛欲と肉体を武器に三上の自分に対する本心を知り、思いを成し遂げる為の絶対なる協力者として信用しても良いかを探ろうと思っていた。
『ああ、さっぱりした。どうだった、スープの味は?』
『いい味してたわ、三上さんて意外と料理趣味なんですね』
『だから、さっきも言ったろう、必要に迫られての事だよ』
『料理の味は良いけど、あっちの味付けはいいがなものですか』
誘うかのようにベットの方へ進みながら三上に言った。
『ほう、味わってみたいのかね』
『ぜひとも、ご相伴に預かりたいわ』
『よっし、じゃあ下ごしらえでもしょうか』
雰囲気がそうさせるのか、会話は料理の味付けの事をダシに、成り行きなのか美穂が誘っているのか、自然な言葉のやり取りで互いの気持ちを楽しみながら、三上は部屋の灯りを消してベットに横たわる美穂に静かに近づいた。
『君は何を目的で僕に連絡してきたんだ』
まだ、温もりの残る美穂の身体をガウン越しにそっと抱き寄せながら、三上は耳元でささやいた。
『今は野暮な事を聞かないで、それより思いっきり美穂を幸せな思いにさせて』
美穂の言葉が終わらないうちに三上の唇は言葉を遮った。
『ああっー』
久しい身体の疼きは三上の責めたてる愛撫にすぐさまとろけだし、何もかもが美穂の頭から消え去るほどの快楽となって奥深く何度も押し寄せた。美穂はこのひとときだけでも、過去の出来事を忘れようと三上に全てを任せて愛欲に没頭した。          
そのお互いの欲望は深夜の二時過ぎまで絶えることなく続き、心地よい疲れを覚えながら美穂は三上に声を掛けた。
『ねえ、三上さん、もう寝た?』
『ううーむ。いつの間にか寝入ちまったよ』
『よかったわ。久しぶりに感じちゃった』
『君はすばらしいよ。ナ…ホ、いゃ』
『えっ!今、何て言おうとした?』
『いや、すっかり君の虜になったって言おうとしたんだよ』
『ほんと?ナ…何とかって言いかけなかった?』
『そんなこと言ってない』
美穂は聞き逃さなかった。
三上は菜穂と言いかけたと…それも気になったが、それより三上を絶対的に自分への服従を誓う気持ちにさせるためにも、身体の魅力で自由に三上を操るようにしなければと考えていた。
しかし頭の隅には三上と菜穂の関係が、ふっと気にならずにはいられなかった。
『もう、美穂は僕を虜にした魔性の女だよ』
双子の姉である菜穂とは、業界の御法度である“商品に手を付けるな”の掟を破った唯一の相手であった。それまでは決して所属の女性との一線を越えることはしなかったが、菜穂とは二年前から男女の関係となって何度となく、この部屋にも一夜を共にする仲となっていた。
すばらしいプロポーションと肉感的な欲情をそそる菜穂は、三上からの誘いに自分をスカウトしてくれて女優として一人前にして貰う恩義からか、当然のように身を委ねた。
菜穂は今までの経験からも、これほど自分を愛してくれた男性は存在しなかった事で、夢中で三上の愛を受け止めて、全てを信頼する男性として疑わなかった。
しかし、三上は世間への見事までの振る舞いと社交性を兼ね備え、外見も非の打ち所がない菜穂への魅力は自分の唯一の宝物だと思っていたが先ほどの双子の妹である美穂を抱いて二卵性の双子が外見は瓜二つに見えても、これほどまでに肉体から性格・情熱・振る舞いに違いがあるものなのかと感じていた。言わば模範的な菜穂に対して、魔性的な美穂には男を夢中にさせる違いが歴然とあった。
『離せない魔性ってどういう意味?』
『だから美穂なしでは生きていけないぐらいに、虜になっちまったって事だ』
『ほんと、そんなに良かった?』
『ああ、僕も色々経験したけど、君のようなに何もかもがすばらしい女性にお目に掛かった事はない。このまま、ずっーと一緒に居てくれよ』
『何だか、誉め殺しみたい』
『本心だょ。とにかく今までこんな気持ちにさせたのは君が初めてだ。何でも君の思うとおりにさせてやるよ。だから一緒に居てくれ』
その言葉に美穂は、三上は本心でそう思っていると確信した。
三上は、この美穂をなくす事は自分自身の活力を失う事になるとさえ感じていた。
『オーバーよ。美穂には三上さんの人生を左右するほどのものは何もないわ。それより私こそ三上さんの男らしさと生き方に感銘するのと頼りがいを感じているわ』
『僕は今まで無我夢中でこの業界に携わってきた。しかしね、人を集め育て、社会のエンターテェナーというロボットを創る為に自分を犠牲にしてきたんだ。もう疲れたよ。このまま、同じ繰り返しの人生を死ぬまでやっているのかと思うと空しく感じる。男と女という、この世のパートナーとして君を知ったことで一層そう思った。君が承知してくれるなら、全ての財を君のために使かってもいい』
『三上さん。ほんとうに美穂の事をそこまで思ってくれるの?つい何時間か前までは所属女優“木桧 蛍”の双子姉妹の妹としての存在だったのに』
『蛍の妹とか、時間とかじゃあなくて、フィーリングと言うか、インスプレーションと言うか、君にならこれからの自分の人生を賭けても悔いはないと云う気持ちなんだ。それはいま美穂を抱いて、絶対なものになった』
そこまで言う三上は本心からの言葉なのだろうかと美穂は疑った。
双子姉妹として生まれ育った二人のうち、女優として第一線で活躍し、東京という大都会で優雅に裕福な生活で人々の脚光をあび、華やかな人生を勝ち取った姉の菜穂と片田舎で地味な社会生活のうえ、ビジネスの失敗や借金に追われ惨めな思いの自分とを比べ、何をもって三上は人生を賭けるという気持ちを持ったと云えるのか?
まして、菜穂とはプロダクション社長と所属女優という立場でありながら、すでに関係を持つ間柄だという事も確かなようなのに、先ほど自分との関係を持った事で、単に新しい物への興味と下心を満たすために甘い言葉を投げかけたのか、余りにも軽々しい言葉に思えた。それでも美穂はとにかく菜穂の失脚を果たすことのために三上を誘惑し、自分への虜にするためにはどんなことでもする覚悟であった。
『うれしい!美穂はもう三上さんだけのもの。三上さん好みの女になるわ、そして三上さんが云うことなら、どんなことでもするわ』
『だったら、もう一度美穂がほしい』
『ええ、抱いて』
殆ど寝る時間もないまま、朝の白々しい空がレースのカーテン越しに目に映るまで二人は飽きることない戯れを繰り返した。その後、心地よい疲れで睡魔に襲われた。ふっと何やら人の気配に、横に寝ていた三上がすでにキッチンに立っている姿が美穂の目に入った。
『もう起きてたの』
『ああ、事務所に行かなきゃ、朝食の準備だけしておいたから、起きたら食べなさい』
『ありがとう、でも私はもうダメ、今日はこのままにしておいて、いいでしよう』
『いいとも、僕は十時に人が尋ねてくる予定があるから出るよ』
『何時頃帰ってくるの?』
『さあ、その後の予定によるよ』
『じゃあ電話くれる?』
『ああ、時間によっては、その時の都合にしよう』
『ええ、解ったわ。じゃあ、行ってらっしゃい』
何だか、いつもの朝のような感じがする会話である。
出て行く三上をベットから見送った美穂は、またしても睡魔に襲われて眠った。
どれほど経ったであろうか、ゆっくりと起き上がった美穂は枕元の時計に目をやった。
午後二時になろうかとしている。昨夜の甘く激しい時間の名残りがまだ身体に残っている感じである。ベッドから出てキッチンに行って冷蔵庫を開けた。出がけ前にわざわざ用意してくれた何切れかのハムとゆで卵、それにレタスにプチトマトがボールに盛りつけられてある。その横にメモがヨーグルトの容器で押さえていた。
〈美穂へ、昨日はお疲れさま。しっかりと栄養を取ってスタミナをつけろよ。パンは棚にあるから自分で焼いて、晩食は帰りに買って帰るから〉
まったく旦那気分で違和感がない。このままだと菜穂に挑む気が萎えんでしまいそうだ。こちらが三上を思い通りにするつもりが反対に三上の人形になりそうな気配である。
準備してくれていた昼食兼用を二切れのトーストと共に食べながら、ドリップで点てたコーヒーの香りは、この先の起こりうる事態を予感さすように喉を甘苦く潤した。
食べた後の容器を洗い、ふっと部屋の様子を改めて見回した美穂は、ローボードの上に見覚えのある物を目にした。 
それは紛れもなく菜穂が肌身に付けていたネックレスである。やはり、菜穂はこの部屋に来ていると確信した。
美穂は、スツールやボードの引き出しを手当たり次第に開けて、証拠らしき物はないかと確かめた。部屋に備え付けのクローゼットを開けたとき、女性物の下着類が詰められたケースを開けて一瞬身を引いた。
〈まさか…三上の趣味?〉美穂は恐る恐るケースの中を見た。その中に幾セットかの下着が丁寧に折り畳まれた間に菜穂のヌード写真を見付けた。その他には特に気になる物は見つからなかったが菜穂の写真と下着は、格好の攻め証拠であった。
『ええ、八時過ぎね。わかった』
その後、のんびりとリビングでテレビを見て過ごしていた美穂に、三上から午後七時に電話が入った。
行きつけの寿司屋によって、寿司を買って八時頃には帰るからと云う連絡であった。
菜穂が待っているときもこのようにまめな気遣いをするのだろうか?外見からの三上には、ちょっと想像が付かない感じである。   
とにかく、三上を美穂自身に執着させるようにし向けて、何とか菜穂にも自分が今まで味わった惨めさを思い知らせたいと思った。
ピンポーン・・玄関のチャイムが鳴り、三上は手提げ袋を片手に上機嫌で帰ってきた。
『退屈だったろう』
『そうでもなかったわ。最近ゆっくりするときがなかったから、久しぶりに良い身体安めになったわ』
『さあ、食べよう。ここの寿司は銀座の隠れた名店で、ほんとうにうまいんだ』
テーブルに置かれた桶の上に“銀座久兵衛”とロゴが入った和紙のカバーが掛けてある。銀座八丁目のビルの最上階にある江戸前寿司の頂点を味合わせてくれる店で、有名な魯山人の著書に「にぎりの名人」として紹介されたのが先代の主人である久兵衛で、とにかく究極の味は隠れた名店である。   
『ちょっと呑んでるの?』
『ああ、親父さんに、握って貰っている間にちょっと一杯だけ』
『道理でテンションが高いと思ったわ』
『美穂が僕の帰りを待ってくれていると思うと余計に嬉しくてね』
『まあ、ほんとにそう思ってくれているのかな?』
寿司の準備をしながら、機嫌の良い三上に美穂は今夜もベットで虜にしなくては…と思うのであった。
『ねえ、早く、ここに来て!』
『何だょ。そう、せかさなくても今、美味しいお茶を入れているんだから』
『他の女性が来ても、そんなにまめなの?』
『他に来る女性なんていないと云っただろう。美穂だけだ』
『また、嘘ばっかり』
『ほんとだ。それに、こんなに世話をしてやりたいと思った女性も美穂だけだ』
『信用していい?美穂の全てを愛してくれる?』
『ああ、もう美穂なしではいられないよ。今日だって、仕事をしながらも美穂のことばかり考えていてね、事務所のスタッフに社長、今日は何か変ですよって云われたよ』
『まあ、イャだ。何を考えてたの?』
『美穂のすばらしい身体とテクニックが僕の
頭から離れないんだ。どうしてくれる』
三上はまんざら嘘でもないような素振りで美穂の身体に手を掛けて来た。
『あ・と・で、それより美味しいうちに食べましょうよ』
『そうだな。もう、僕だけのものだから逃げないよな』
『貴男次第よ。私の思いを遂げさせてくれるなら』
『どう云う意味なんだ?』
『後で話すわ。それより食べましょう』
『そうだな。ほんとに、ここの寿司は旨いんだぞ』
久兵衛自慢の“奉行が脚を運んだときのおまかせ盛り”は寿司と言うより、芸術そのもので季節の素材を荒塩・スダチ・醤油の三味で食べる。中トロ・大トロヒラメ・鯛・シマアジ・エビ・イカ・赤貝・ウニ・カツオ・あなご・赤貝のヒモの巻物・鉄火などの盛り合わせで穴子の骨とエビの頭を揚げ物にしてあり、その横に、口止めの香の物として千枚漬けが添えてある。
『まあ、綺麗なお寿司。食べるのも、もったいないくらいね』
『だろう。なんと云っても久兵衛だよ』
『そんなに美味しいの、じゃあ戴きます』
確かに美味しいと思えたが、美穂は広島、それも宮島という海に囲まれた土地で生まれ育って、父が漁師をしていた事で幼い頃から新鮮な魚介類の味を知っていただけに、その味と比べるには比較できないと思えた。
『どうだい。旨いだろう』
『ええ、美味しいわ。宮島にも美味しいお寿司屋さんがあるから今度、連れて行くわ』
せっかくの三上が自慢する味にケチを付けるつもりはなかったし、確かにそこいらの寿司とはネタの新鮮さとシャリの炊き具合いも美味しいと感じた。
『そうだよな、美穂は広島の宮島出だし、それに家が漁師だったから魚介類はたっぷり美味しい物を知っているよな』
『これだって美味しいわ』
『ところで、さっきの美穂の思いってなんだい?』
一頻り寿司の味を堪能し終わった三上が、思い出したように尋ねた。
『えっああ、それより、ほんとに美穂の事を三上さんだけのもので、ずっと離さないって思ってくれる?』
『約束するよ。もう、美穂なしではダメだ。この気持ちはどうしょうもない』
『じゃあ、今から云うことを真剣に聞いてよ』
美穂は、この後の慎司が待っている濃厚なひとときを前に、言ってしまった方が効果があると考えた。今の三上はこの後の美穂との楽しみに飢えている。三上には思いも寄らない美穂の計画を聞かされたら、多分動揺するだろう。しかし、しゃべった事に拒否されたらお終いである。とにかく話をするからには絶対、協力して貰わなければならない。その為にも話してから美穂の魅力的な身体を投げ出し、三上が求める刺激を与える事で三上は必ず0Kするはずである。
『聞くよ。何でも言ってくれ』
『それより、一つだけ聞きたいことがあるの』
『なんだい?』
『三上さん…ほんとに』
『もう、三上さんなんて他人行儀な呼び方はやめて慎司でいいよ』
『じゃあ慎司、ほんとに菜穂とは何んでもないの?』
『……』
『ほんとの事、云って』
『美穂、そこまで云うからには何か証拠を見たんだな』
『…えぇ、悪いと思ったけど慎司が出ていった後ね、ちょっと調べたの。クローゼットに女性物の下着と一緒に菜穂のヌード写真を見付けたの』
『そうか、実は蛍がまだ所属して日が浅いにもかかわらず、あるドラマ出演の候補に推薦されようとした事があったんだ。新人女優として各局や関係先への挨拶回りで、そのドラマの監督の目に止まってね、で、これからの事を考えてもこのドラマに出る事は蛍にとっても大きなチャンスになるが、その条件に蛍を一晩自分に預けろと言うわけだ。僕としては蛍の女優としての゜大事な第一歩とは思ったんだがね。監督の一晩預けろというのは、つまり抱かせろと言う事なんで、ちょっと迷ったんだが取りあえず蛍にその話をしたら、こんなチャンスを逃したくない。女優を志願した時から覚悟はしていた。でも自分は処女だから監督に抱かれて失うなら社長に抱かれてから意を決したいと云うもんだから』
『じゃあ、今も時々は来ているの?』
『時折だ。でもこの間からは2ケ月のスケジュールで、ある新進デザイナーの新作コレクションにゲストモデルとして出演して、各地をキャラバンに行っているから来てないよ』
『何故、ヌードを取ったの?』
『監督が記念に取らせてくれと言ったからって、そのうちの一枚だ』
『下着は?』
『部屋に来て、その日の気分で着けたりする為に』
『なんなの。二人は、まるっきり恋人か夫婦じゃないの。世間には独身で神秘に包まれた魅力的な女優として売り出しているのに、影ではもう男性経験豊富な単なる売り物女優って事ね』
『それほどあばずれでもないよ。それ以来はしっかりと女優業をこなしているし、実力として認められて声が掛かっている』
『そう、でもいずれは私も木桧 蛍よ』
『どういう意味だい?』
『だから、私も木桧 蛍になるわ。そして、菜穂が今みたいに何かの仕事に入っている間
、私が蛍として地方などのキャンペーンや仕事をするわ。ただし舞台や映画などには出ない蛍としてね。わかる?』
『何を考えているんだ!』
『だから、瓜二つの双子の姉妹を生かして、私も日の当たる生活をする権利があるって事』
『美穂はそんな事を企んで僕に連絡してきたのか?』
『でもないわ。ほんとうに相談したい事があったんだけどもう済んだこと。慎司と合った時、刑事が来ていたって云ったわね。その事に関係ある事だったんだけれど、もう父を殺した犯人は捕まって私とは関係ない事や、その後の調べでもはっきりしたし、刑事も何も云ってこないでしょう』
『そう言えば、あの後、連絡もないな』
『宮島の母がどうしているか心配だけど、落ち着いたら、そのうち一緒に行ってよ』
『それはいいけど、さっきの話に戻るが本気で木桧 蛍を演じる気か』
『ええ、サインも練習するし、菜穂の所属後の経歴や業界のつながりなどもしっかりと覚えるわ。だから、慎司は彼女のスケジュールにかぶらない私の蛍としてのスケジュールを組んでよ。これからは多くのファンに囲まれたり、チヤホヤされる世界で思い存分に楽しく生きるわ。そして、優雅に裕福な生活を味わうの』
『しかし、あんまり派手な動きは困るよ。ましてや菜穂にでも存在が解ったら大変だ』
『それは慎司が考えてくれればいいのよ。私は云われるままに振る舞うわ』
『でもな、スタッフ達にも知れたら…どうだ、いっそのこと美穂も新人デビューを志せよ。間違いなくトップスターになれるよ。僕が全面的にバックアップするからさ』
『ダメダメ、今更、双子としてデビューして争うのはゴメンだわ。それより、今まで絶えず味わった私の屈辱感を菜穂にも味わってもらうのよ。そして、すでに第一線女優の地位を不動としている木桧 蛍の名声を使わせてもらって、楽に優雅な人生をこれから送らせてもらうわ。双子として互いに幸せを分かち合うのが当然じゃない。だから慎司も大プロダクション社長なんだから私が木桧 蛍として演じるために、全てを仕切って決めればいいじゃない。何なら慎司との関係をご破算にしても良いのよ』
『ダメだ!それは僕にとって生きる望みを取る事だよ』
やはり、三上は美穂の殺し文句に哀願の言葉を口にした。〈男なんてメスの色気でちょっと甘い言葉や愛撫をしてやったら、もう虜になる弱い動物ね。〉まだ、美穂の本心を三上は理解していなかった。いずれ二人の蛍が存在したなら、いずれ解ってしまうだろう。すなわち、最終的には美穂が本物の木桧 蛍、すなわち菜穂に成り代わり、その菜穂の存在に取って代わるのが目的であった。
それはこの後のベッドで三上が夢中になって、自分の肉体をむさぼっている時に言い含めなければならないと思うのであった。


       《八》
突然姿を消した美穂に、その後の捜査も全く消息が分からないままであった母の敏江は修三が亡くなって間もなく生活のためにと組合から週に四日、漁港で魚介類の仕分けをする仕事にパートをしながら、一人ひっそりと宮島の家で過ごしていた。
一方広島県警は逮捕した倉田賢二の自供の裏付けから美穂の借金を取り立てに行き、その容姿に惚れて同棲を強要したという事や、倉田が自分の出した金を美穂の父親から取り戻そうとして断られた腹いせに殺害した単独犯の犯行として処理をし、美穂が姿を消した事には事件に関係がないとの見解で形式的な捜索はしたものの、田嶋修三殺害事件については解決したとして捜査本部を解散していた。ただ、美穂が居着いていたアパートへの家宅捜査と美穂の取り調べに立ち入った柴田刑事だけは何か割り切れないままでいた。
修三が亡くなって三十五日・四十九日や月命日法要には菜穂も仕事の都合で、美穂は音信不通のまま、近隣の親族と母の敏江だけでひっそりと済ませ、四日後の一周忌を迎えようとしていた。
いつものように漁港のパートから帰ってきた敏江は遅がけの昼食を取りながら、何気なしに目をやったテレビの画面は“各地の紅葉を訪ねて”と題して全国の有名な観光地からゲストの芸能人が現地で取材をしながら紹介するという番組をやっていて、その画面に木桧 蛍が出ているのを目にした。
静岡の修善寺からの秋の紅葉まつりにゲストとしてファンと一緒に楽しげにコメントをしている菜穂である。元気にしているのだとほほえましく見ていた敏江は〈おゃっ?〉と何か違う感じがした。画面に目を凝らして見るとそれは紛れもなく美穂ではないか。何故
、美穂が木桧 蛍として画面に出ているのか一瞬不思議に思った。
双子の姉妹として生まれた二人だが二卵性として菜穂と美穂の違いが、他人には区別がつきにくいけれど母親の敏江には直ぐに違いがわかった。それは美穂にだけある右目下のわずかな黒子であった。
しかし、映し出された木桧 蛍は誰もが当然のように疑いなど見せず、木桧 蛍本人として番組が進行している。 
『木桧 蛍さんいかがですか。すばらしい紅葉ですね』
『ええ、私の生まれ育った宮島も世界遺産の厳島神社神殿の朱赤色と鮮やかな紅葉が相俟って、今すばらしい季節ですが、この修善寺もほんとうにステキな風情ですよね。すぐにでも宮島に帰りたくなりました』
『そう言えば、木桧さんのご出身はあの世界遺産に登録されている厳島神社のある宮島でしたね、それは思い出されるでしよう』
『ええ、四日後父の一周忌ですので帰る予定をしていますから』
『そうですか、では又このようなステキな景色を見られて良いですよね。さあ、ではもう少し紅葉を見ながら散策をしてみましょう』
観光客やファンの人達と一緒に境内の奥へカメラが移動する。
どう見ても美穂だ!でも何故と言って敏江にはどうすることも出来ずに画面を見続けた。
『ところで木桧さんは双子の姉妹だとお聞きしていますが』
『ええ、美穂って妹がいます』
『よく、似てらっしゃるそうですが、何をして居られるのですか?』
『ゲームソフトのプログラマーって云う地味な世界でがんばっていますわ』
『そうですか。双子の姉妹で芸能人って方もおられますが、そんなお考えはないですか?』
『どうでしよう妹は人前に出るのはあまり好きじゃないですから』
『こんなにお美しい姉妹なのに、もったいないですよね』
『どうでしょう』
あくまでも木桧 蛍を演じる美穂に、まさかと思いを巡らした。
その後、特設ステージでのファンとの交流イベントでクイズに正解した人に記念品と木桧 蛍のサイン色紙をプレゼントして番組は終わった。
画面に映し出されサインをする場面も、まったくスラスラとペンを走らせ、この部屋にも飾ってある本物のサインとまったく一緒の字体で書きつづっていた。そこまで見ていると母親ですら、やはり菜穂なんだろうかと錯覚さえするほどであった。
先ほどの番組の中で、四日後の父親の一周忌法要に宮島へ帰ると云うコメントを残したのはどちらの言葉であったのだろうか。
そんな不可解な日から修三の一周忌法要の当日が来た。朝から仏壇には、供え物が飾られ住職が着てくれるのを待つ奥の間には近隣の親族と共に、あわただしく帰郷して参列した菜穂の姿があった。
終わったらその足で、すぐさま四国の松山で番組の収録があるのだが、とにかく立ち寄ったのだと言うことであった。
小一時間ばかりの一周忌法要が終わって、もてなしの料理の配膳をしていた母に、せわしなく帰り支度をしながら菜穂は 
『ゴメンね、お母さん。もう、時間がないの、マネージャーが待っているから行くわ』
『もう行くの?それじゃあ、料理を折に詰めるから』
『良いわ、誰か食べて貰って』
『だって、菜穂の分とマネージャーさんの分として用意してあるんだよ。食べる時間ぐらいないのかい』
『ええ、これでも出番を午後にして貰ったのよ。だから無理は言えないわ』
『そう、忙しいんだね。ほかにもちょっと聞きたいこともあるけど、また改めて話すことにするよ』
『ええ、ゴメンね』
『それじゃマネージャーさんに、ご挨拶だけでも』
今のマネージャーは三上ではなく、初ドラマに出演した時のADとして何かにつけて気遣ってくれたり、食事に誘ってもらったりした筒井修太であった。
ある時、思い切って三上に〈筒井さんを自分のマネージャーに付いて貰えないか〉と頼み込んで、テレビ局を退職してマネージャーになって貰っていた。
『いつも菜穂がお世話になっております。何ですかわざわざご足労戴きましたのに、お時間がないそうで何のおかまいも出来ずに申し訳ございません』
『いいえ、お母さんお気遣いは要りませんよ。それより、スケジュールとは言え、菜穂さんにはゆっくりとして貰えず、すみません』
一見、華やかに見える芸能界だが、生きていくためにはどん欲で、選り好みをせず忠実にスケジュールをこなさなくてはならない。
一旦、貰ったステージネームの創られたイメージは、一生付きまとい、ファンにはいつもサービス精神で分け隔てない八方美人でなくてはならない。女優として創られた虚像を演出する事は、プライベートな部分の自分という素の生き方を押し殺して、絶えず人生を生きなければならないのだと云う裏の一部分を知った。
思えばスカウトされた時は、有頂天でバラ色の生活と自分のほしいものは全て手に入り
、存分に人生を謳歌出来ると思っていた。
また、女優を目指して手始めのドラマ出演に多くの女優の中から自分に白羽の矢が立った事が演技力だけではなく、人選をする権限のある者に身体を張れるかという、芸能界の媚びを売る世界の醜さや人を押しのけてでものし上がり、生きて行く事も覚えた。
『じゃあ母さん行くわ、また時間取れたら帰るから元気で』
『ああ、菜穂も身体に気を付けてね。マネージャーさんよろしくお願いします』
『はい、失礼します』
九時に来て、十一時半に出るという二時間半の滞在のせわしい帰郷であった。
一方、美穂は先の修善寺でのイベントにも木桧 蛍として誰からも疑われず、ぬけぬけと出演をし、木桧 蛍に成りきっていた。
三上は美穂の魔性の身体に溺れ、自分が直接クライアント探しと出演契約を取るという仕事を積極的に美穂に宛っていた。
美穂はもう、まったく自分は木桧 蛍だと思いこんだ振る舞いで、素人の一般人はもとより、熱烈なファン層すら気付く事のないほど完璧な演技を見せ、その後のある日の午後
、横浜の書店で新作写真集の発売を記念する催しに、木桧 蛍としてサイン会を済ませ、マンションに戻って三上と食後のひとときをソファでくつろいでいた。
『ねえ、慎司、何時までもこのままじゃあ、貴男も大変でしよう?』
『ああ、僕も疲れたよ。美穂の演技は完璧だけど何時菜穂にバレるか、それとどうも菜穂が上京してきた日に羽田に迎えに行かせた加納絵里が感づいているような気がするんだ』
『どうして?何を感づいたって云うの』
『実は彼女がたまたま事務所にいた時に、例の静岡のロケに行く日の件で確認が入ったんだ。で、それはこっちでスケジュール調整をしているからって、別の内容を言っておいたんだが、たまたま、その日は彼女が休みでテレビを見ていたらしく、木桧 蛍が修善寺の紅葉まつりにゲストとして出ていたのを見たけどあの日、木桧 蛍は東京で次の舞台の打ち合わせのはずなのに何で静岡に居たのかと聞くんだ。で…あれは録画撮りの放映だと云って何とか繕ったんだか…』
『やはり、ローカルでも全国ネットは無理だったわね』
『そうだな。ちょうど本人は打ち合わせで、スケジュールの空きがなかったんで代替え出演には、もってこいだったんだけどな』
『本人には気づかれなかったけど、テレビ中継で多くの人が見ていただろうし、ましてや関係者が見ていたら、判ったかもね』
『このままじゃあ時間の問題だ』
『じゃあ、どうするの?ねえ一層の事、蛍の存在を一人にしようよ』
『何だって!それはどういう意味だ』
『まあ、そんなに大きな声を出さないで。実は、ほんとの私が貴男に近づいた理由は…』
『理由?どう云う事だ』
『私は菜穂と二卵性の双子として生まれたわ。幼い頃から双子として、互いの気持ちが手に取るように分かり合え、いつも可愛がられながら何時までも一緒にがんばろうねって云って助け合っていたわ。でも学校を出る頃からお互いの考えや生き方が違う事に気付いたの。菜穂は社交的な性格で、多くの人達や人前に出て、ちやほやされたわ。でも私は自分しか信じられなかったし、それは仕事を選ぶときに、はっきりと人に頼らず自分自身で生きる道を選んだわ。だから菜穂は観光案内と言う人との接する仕事を選び、私は一人で企画するゲームソフトの製作者という正反対の仕事についた。それからと云うものは、菜穂は貴男の目に止まって女優に、私は仕事がうまくいかず借金の生活で取り立て屋の餌食になって、身も心もボロボロ。挙げ句の果てには、その元やくざの取り立て屋の男をそそのかせて、自分の父親からお金を引き出そうと父親に会いに行って貰ったら、父が襲いかかって来たからって、逆にその男に殴り殺される始末。何故、なぜ私だけがこんな人生を負わなければならないの?』
『そうか、それであの時、刑事が僕を訪ねて来たんだな。それで判ったよ、でも、美穂はどうして僕に会いに来たんだ』
『貴男が広島に来て、菜穂を女優にならないかってスカウトした時、私にもどうだって云ってくれたわよね。もし、あれが逆だったら、こんな事は考えなかったわ。でも、それも私の運命ってものよね、菜穂は華やかな世界と華やかで自由な人生が授かり、同じ双子なのに私には寂しく不幸な人生でしかない事に、余りにも不公平だと思うようになったの。だから貴男を私の虜にして、菜穂の人生を奪ってやろうと考えて貴男に近づいたって訳』
『何で血をわけた、それも双子の姉にそんなに憎しみを持つんだ』
『菜穂はあの時だって私をほんとに思ってくれてるのだったら、もっと一緒にやろうって進めてくれたと思うの。結局は自分さえよければ良いのよ』
『それはないだろう。僕も美穂を菜穂とペアで女優にならないかって云ったし、菜穂だってそう進めたじゃないか。でも美穂は女優なんて見た目の華やかさが何時までも続くわけはないし、いずれボロボロになってしまうのが落ちだと自分から拒否したのじゃないか?それを今さら自分が不幸だからって、唯一の双子の姉を憎むなんてお門違いだ』
『どう思われたって今の私はもう、木桧 蛍として世間で認められた存在になった。でもこのまま何時までも隠し通せる訳はないわ。そこで慎司に木桧 蛍と云う人物を一人にするために、菜穂の存在を業界から消す力になってほしいの』
『何だって!君は何を考えているのだ』
『だから、今の木桧 蛍という存在を私が変わるって事』
『菜穂を殺るてっことか』
『ええ』
『君は恐ろしい事を口にしているんだぞ』
『判っているわ。でもこのままじゃあ、いずれ世間にも判ってしまうし、慎司の立場やプロダクション事業も業界から認められない存在になるんじゃない?』
『そりゃあ、そうだが。だからといって本人を偽りの人物に取り替えるって事を簡単に出来るもんではないよ。どうだ美穂の面倒は僕が必ず見て幸せにするからもうこんな芝居はやめよう』
『冗談じゃあないわ。折角、思いが叶いつつあるのに。そう、じゃあ、もう私との関係も終りね』
『まっ待ってくれよ。今の僕には美穂が居なくなったら生きていけない事ぐらい、美穂が一番判っているじゃないか』
慎司は美穂に哀願するような目を向けた。
美穂には今の慎司が別れるという殺し文句で必ず承諾するという自信めいた思いを持っていた。
人もうらやむ見事なプロポーションと愛くるしい振る舞いに二十四才という、はち切れんばかりの若い肉体を目の前にさらけ出され、毎夜のごとく溺れ、虜となっている慎司には美穂のなすがままで、どうする事も出来ないほど美穂に執着していた。
『だったら、云うとおりにして!』
命令口調で云う言葉に慎司は反論する訳でもなかった。 
今や年の差は逆転し、若い肉体の虜となった慎司には云うことを聞かすどころか、美穂が主導の立場となっていた。
『いい、とにかくその実行の段取りはこう考えているの。来月のスケジュールで、地方の仕事がある時に、私にも内容を知らせてほしいの。で、私は菜穂が現地入りする前に先乗りして別のホテルに宿を予約して置くわ。当然、変装して別人としてね。菜穂がスタッフと来てチェックインした夜、貴男は菜穂を何か理由を付けて外に誘い出すの。そして途中で前もって頼んだ男に襲わせて始末するの。菜穂の服を脱がして死体は切り刻んで海に投げ込むと良いわ。その後、私のホテルに服を持ってきてくれたら着替えて木桧 蛍になってそこから菜穂のホテルに貴男と一緒に戻って部屋に入る。で翌日からのリハから公演の間、木桧 蛍として振る舞うわ。これで菜穂に取って代わって名実共に木桧 蛍に生まれ変わるの』
美穂の口からは驚くばかりの計画が次から次と出る。三上は、何やら悪寒と虫ずが身体を駆けめぐった。男ですら躊躇するような衝撃的な考えや思いが、この女性らしく魅力的で愛くるしい外見の何処に潜んでいるのか恐ろしくさえ感じた。しかし、今の慎司には美穂に溺れ、美穂を失う怖さのためか、聞く言葉に無意識の暗示をかけられたような感覚であった。
『どう、やれる?』
たたみかけるように迫る美穂に、慎司は今の関係を続ける事を望むなら殺るしかないと云う気持ちになっていた。
『ああ、とにかく時間をくれよ。僕が直接、手を下すわけにはいかないから、その筋の人間を人選しなくちゃあ』
『誰か心当たりある?口の堅いお金で全てを割り切れる人物』
『芸能界の仕事は時にはその世界の助けが必要な事があるので、心当たりがない事もないがね』
『どれぐらいで受けてくれるの?』
『さあ、一本はいるだろう』
『一本って?』
『一億…』
『そんなに!』
『そりゃあ、そうだろう。当事者は第一線の女優で、今やトップスターに上り詰めようとしている木桧 蛍だよ。それに完全犯罪を条件とするなら死体の始末から海外逃亡費用とその上、ほとぼりが冷めるまでの身を隠しての生活費までを提示しなければ簡単に請け負わないよ』
『そう……』
直接、手を汚さずしかもどんな事があっても首謀した張本人である美穂には、まったく関係のない事件として、この世から葬られる事を望む条件なら当然かもしれない。いや、むしろ代償としては安いぐらいかもしれない。だからと云って、どんな相手でも同じかと云えば,始末する相手によってはピンからキリまでで何十億でも受けない相手など、その請け負う意図によって様々だろう。  
木桧 蛍ともなればスポンサーCMによって年間契約額が何億と言うものもある。その本人の菜穂を抹殺し、変わって美穂が木桧 蛍としてこれからも成りすまして活躍をするならば、プロダクション側には何ら影響がないので、その報酬ぐらいは一本のCM契約さえ取ればチャラとなる。
美穂は自分がそのまま木桧 蛍として生きていくなら殺される相手は、すなわち美穂自身であり、誰も影響はない訳で殺害を依頼する者への請負額として一億は必要ないのではと値踏みした。
『ねえ、慎司、始末を頼む人物に私の身体を一晩だけ自由にさせるわ。だから五千万円で手を打って貰うという事はどう?』
『そんな馬鹿な事はできない!』
『どうしてよ?だって死ぬのは木桧 蛍じゃなく田嶋美穂よ、素人の女一人に一億も出すの?生きて居てこそ価値はあるけど。お金は持っていれば増えるし役に立つわ。五千万円を手にしてそれに私を抱けるのよ?そのうえ慎司も五千万円が助かるでしょう。出した五千万円だって私が木桧 蛍として直ぐ取り戻してあげるわ』
『だからと云って、人一人殺めるんだ。相場ってものがある。全ては金で動くし、解決するんだ。万一、証拠が発覚でもしたら、当事者は無期か死刑だ。その代償としては一億でも割に合わない』
『私がその男にこの世の極楽を味あわせてあげるわ。慎司もその場を見るわけでもないし割り切ってビジネスの取引と思えば、一時的な事じゃない』
『ダメだ!そんな事を僕の口からは言えない
。どうしてもと云うなら美穂を殺して僕も死ぬよ』
『何を血迷っているの。そんなことをしたら永遠に慎司は私と終わってしまうのよ。良いの?私はまだまだ慎司に全てを自由にさせるって云っているのに、死んだら元もこうもないじゃない。じゃあ、今まで慎司との関係になる前の事はどう思うの?私だって、慎司との関係になるまでは男を知らないわけじゃないわ。なのに今更どうって事ないじゃない。事が済めば、これからも木桧 蛍として美穂としても全て慎司だけが自由に出来るパートナーが続けられるのよ』
『……』
美穂の言葉に慎司はジィーと美穂を見つめていた。たたみかける美穂の言葉は、とどのつまりになると慎司のもっとも弱い部分に触れ、否応なしに承諾せざるを得なかった。
『良いわね。但し相手には素性を云ったらダメよ。向こうも相手が今、売れっ子の女優だと判ったら要求額を上げて来るとも限らないわ』
『わかったよ、そこまで云うのならその条件で話してみるよ。ちょうど来月の十日に名古屋での仕事が入っているから、その時に実行しよう。それと蛍はホテルにいるところを狙わすより、何処かへ連れ出して始末する手はずをするよ。そして、死体を切断させて証拠を残さないように海の底に沈めれば絶対判らない』
何とか言い含めて、殺る実行相手には顔が知られないように、自分は変装して抱かせると言う事を慎司に無理矢理に承知させた。
慎司は、美穂の企てに、とにかく実行を十一月十日の名古屋でのレコーディングが終わった後に、菜穂をホテルから名古屋港へドライブに連れ出して殺し、その死体をどのように港の沖に運んで始末して、証拠の残らないようにするか。さらに犯行に掛かる時間と方法やその後、木桧 蛍として美穂と一緒にホテルへ帰ってからのアリバイ工作などはどうするかなど、完全犯罪へのありとあらゆる状況を目まぐるしく想定し綿密な計画をしなければ思った。
一方美穂は、この殺害の計画に慎司が心を揺れ動かさないようにと欲望を駆り立てるようにベッドに誘った。
自らの豊満な肉体を武器に妖艶な姿態で、ある時はもて遊び、じらしながら甘くとろけるようなテクニックで積極的に攻め、慎司をマインドコントロールするのであった。
美穂の肉体に溺れている慎司には、目の前に艶めかしい姿態を惜しみなくさらけ出しているこの美穂が、唯一この世に身を分けた双子の姉妹である菜穂を殺害してまでも、自分の思いを遂げようとしている事におぞましい思いであったが、美穂を失う事になるなら、どんな事をしてもかまわない思いの方が強かった。


        《九》
最近になってプロダクション内部で木桧 蛍のスケジュールが、時には重複する契約が事務所に入りだした事を、スタッフに判らないはずがなかった。
それは、慎司が美穂を木桧 蛍のスケジュールに合わせ、別のローカル催しに出演させる契約を取っていたからであった。
しかし、その裏契約がスタッフの間で公な事態となった事で、これを機に木桧 蛍のマネージャーである筒井修太に責任をかぶせ、自分がマネージャーに戻り、一気に菜穂の殺害計画を実行しようと考えた。
『社長、先ほど木桧 蛍の大阪心斎橋で行う“エンジェルレコード店”での新曲キャンペーンが十一月十日・午後一時からですのでよろしくって言う連絡が入ったんですが』
『そうだが、それがどうした』
『でも、その日は名古屋のシルクサウンドラップで午後二時からの新曲のレコーディングが入っているはずで、どうもまたダブルブッキングになっちゃっているらしいんですよ』
『またか、この間もそんな事があったな、誰がチェックしているんだ。蛍のマネージャーの筒井を呼べ!』
『判りました』
スタッフの児玉は、ミーティングルームに急いだ。
『筒井さん、社長が呼んでますよ』
『ああ、わかった。じゃあ後の詰め頼むよ』
名古屋でのレコーディングの打ち合わせをしていた蛍のマネージャー筒井修太は“何だろう”と思いながら席を立った。
『筒井です。何か?』
『何かじゃないよ。君はどんなスケジュール管理をしているんだ!』
『どういうことですか?』
『また、ダブルブッキングしてるらしいじゃないか。この間もあったばかりだって云うのに、どういうことなんだ』
『何処とブッキングしてると云うんですか?』
『大阪心斎橋のエンジェルレコード店でのキャンペーンと名古屋のレコーディングだ!』
『ちょ、ちょっと待って下さい。名古屋での新曲レコーディングは今、打ち合わせ中で、予定はそれだけですよ。何です、その心斎橋のエンジェルレコード店でのキャンペーンってのは、聞いたことも依頼されたことも全くないですよ』
『じゃあ、何故このスケジュールが入っているんだ!君は専任の担当女優一人のスケジュール管理も出来ないのか!』
まったく予定すら聞いたこともない内容を突然云われた筒井には返す言葉もなかった。
『とにかく確認をしてみますので、後ほど説明に来ます』
筒井は、とにもかくにもエンジェルレコード店に確認の電話を入れようと部屋を出かけたが、その背中越しに三上の声が追った。
『待て、もういい、君は今日限り、木桧 蛍のマネージャーからはずれろ』
『待って下さいよ。とにかく確認してみますから』
『もう良い!この間から続け様じゃないか。信用台無しだ!明日から内勤に変われ!当分は僕が兼務する』
『……』
いつもの穏やかな社長から思ってもない言葉と激怒が飛んだ。
それにしても、どうも腑に落ちない。この間は相手に詫びを入れて、今後二度とこのような不始末がないようにと云われたばかりであったが、その時も筒井自身まったく覚えのないダブルブッキングで、木桧 蛍のマネージャーとしての立場で言い訳をせず対処したばかりであった。にもかかわらず続け様に同じ事が起こったという。どうもおかしい気がしてならない。
『判りました。失礼します』
筒井は、午後八時に美容院に行っている美穂を迎えに行くことになっていた。後を任せたレコーディングの打ち合わせ室に戻って、まったく素振りを変えず最終の確認をして終わった。
『じゃあ、木桧 蛍を迎えに行って今日は直接マンションへ送って帰りますから、お先に』
誰とはなしに伝えて、筒井は銀座の行き付けの“ミュール美容室”へ菜穂を迎えに出かけた。しかし、どう考えても身に覚えがない。
『蛍さん、もう終わりますか?』
『ええ、あと五分くらい』
『じゃあ、店前に車を止めていますから』
『判ったわ。何か特にない?』
『えっ、あぁ来てから云いますよ』
『はい、もう少し待ってて』
筒井は、車中からエンジェルレコード店に電話を掛けた。
『もしもし、エンジェルレコード店ですか。私、東京のウイングプロの筒井です。いつも木桧 蛍がお世話になっています』
『あ、はい、こちらこそお世話になっております』
『実は来月の十日にそちらでの新曲キャンペーンの事で、ちょっとお聞きしたいんですが』
『ちょっとお待ち下さい。・・・・・・・もしもし、はい、午後一時からの予定ですね』
『そのキヤンペーンは当社の誰との契約になっていますか?』
『えっ、マネージャーの筒井さんのサインになっておりますが…』
『僕の?おかしいな。筒井は僕ですが、そんな契約はしていませんよ』
『はあ、でも間違いないですが、ちょっとお待ち下さい』
『ええ』
『もしもし、すみません。今、確認しましたら先ほど御社の社長さんから当日は名古屋でのレコーディングが午前中に終わる予定でしたが、どうしてもズレそうなので日時の変更をして貰いたいとのキャンセルがあったそうです。すみません確認が行き届きませんで』
『そうですか、こちらこそすみません。また、日時が決まったらよろしくお願いします』
『こちらこそ、失礼します』
『どうも、失礼します』
どう考えてもおかしい。やはり一旦は決まっていたのだ。でも自分は覚えがない、なのにサインがしてあると云う?それと以前にも何時だったか、菜穂も自分が出た覚えのない地方の番組で見たというファンレターが来たとか、蛍さんは風邪を引いたんですかとか、身に覚えのない事を聞かれたなどおかしな事を言ったことがあった。
十分ばかりして菜穂が美容室から、魅力溢れる女優らしい姿で出てきた。
『お待ちどう様。今日はもう何もないでしょう、だったら久しぶりに食事に行かない?』
『ええ、良いですよ』
『私、久しぶりにすき焼きが食べたいわ』
『そうですね。すき焼き、良いですね』
『銀座の三丁目に「吉澤」って店があるわ。あそこの松阪牛は絶品よ。そこへ行きましょう』
以前に東洋TVのディレクターに招待されて来たことのある銀座「吉澤」は全国に四五0店舗しかない松阪肉牛協会に属し、東京都知事に認可を受けた指定仲卸で店主自らが血統・生産者にこだわりをもって創業以来、五十余年厳選吟味した物だけを提供し続けている人気の老舗である。
助手席に乗って携帯で予約を入れる菜穂から美容院で髪を整えた甘酸っぱいほのかな香りと魅力が一層増して車内に漂い、むしゃぶりつきたくなる衝動を抑えながら修太は「吉澤」へと走らせた。
〈ようこそ、いらっしゃいませ〉
玄関で女将が愛想良く迎えてくれた。プライベートだからと顔が指さない席を頼むと、二階座敷を案内してくれた。通された高砂の間は掘り炬燵式で雪見障子があしらわれ、小振りの床の間には季節の花が生けられた六帖余りの和風造りの落ち着く部屋である。
〈今日は何になさいますか〉
女将は、献立を見せながら聞いた。
『すき焼きを戴こうかしら』
〈それでしたら、こちらの最上級松阪牛特選コースでいかがですか?必ず、ご満足頂けると…思いますよ〉
「吉澤」が厳選した肉質、風味共に最高の霜降り松阪牛を使った看板料理でこの最上級の肉身にザクは深谷のネギ、その他の季節野菜を添え、こだわりと自慢の割り下での味は一度食べたらやみつきになるほどである。
『女将さんにお任せしますわ』
〈承知致しました。で、お飲物のはいかが致しましょうか?〉
『女将さん、地酒は何があります?』
〈はい、こちらに品目がございますが何を〉
『えぇっと、広島の酔心は?』
〈酔心ですか、ええございます〉
『それを冷やで二合ほどお願いします』
〈木桧さんは広島に何かゆかりでも?〉
『ええ、出身ですの、父が漁師でしたからお酒が好物で、私も小さい頃からよく呑まされましてね』
〈さようですか。広島ですのご出身は〉
『正確には宮島ですの』
〈あの厳島神社のある?そうですか。良いところですよね宮島って。一度行ったことがあります。まあ、つい話し込んでしまって、お連れ様はいかがいたしましょうか。〉
『筒井さんは?』
『私は取りあえずビールを』
上品な感じの女将は、後でサイン頂けますかと菜穂に頼んで、料理の準備に下がった。
『筒井さん飲むんだったら車は明日の朝、取りに来たらいいわ』
『ええ、明日は空き日ですから、そうさせてもらいます』
『ええ。それはそうと、もう十月も終りね。新曲の打ち合わせどうだったの?』
『ええ、予定通り十一月十日名古屋のシルクサウンドラップで新曲のレコーディングです
。明日から最終レッスンですから』
『ええ、判っているわ。それと先っき云っていた話って何なの?』
『それなんですがね。来る前、社長からまたダブルブッキングしているって、こっぴどく云われまして、今日限りで木桧さんのマネージャーを解任されました』
『何ですって!どう云う事。この間だって筒井さんは知らなかったじゃない。今度はどうなの?何とダブリなの?』
『その名古屋でのレコーディングの日に大阪の心斎橋エンジェルレコード店で午後一時から新曲のキャンペーンが入っているって云うんですよ』
『云うんですって、筒井さんが取った仕事じゃあないって訳。何なのよ。どう云う事、木桧 蛍は一人なのよ。同じ日の同じ時間に別々に出来る分けないじゃないの。何かあるわ。で筒井さんはどう返事したの?』
『いや、真相を調べようとしても一方的に二度も同じ失敗をしたからには、もう良いって
、木桧 蛍のマネージャーは自分がするから明日から内勤だって』
『無茶苦茶よ。だって、当人の私の承諾もなしに勝手に決めつけるなんて!良いわ、明日私から三上社長に云うわ。でもおかしいわね
。続けて二度も私もマネージャーも知らない仕事が事務所の予定に組まれているなんて』
『ですよね、それで先ほどエンジェルレコードに問い合わせたんですが、僕のサインで契約していたが社長から時間がズレそうなので別の日にとキャンセルが入ったそうなんです
。それとこの間木桧さん云ってましたよね、
覚えもない地方の何処だったかのTV番組に出ていたとか、ちょっと痩せたんじゃないかって云うファンレターが来たとか』
『そのなのよ。そんな仕事してないのに、ゲストで出ていたっていう内容だったわ』
『どうも合点がいかないですよね。以前に収録した番組だとしても必ず、いつ何時に放映しますっていう連絡が事務所に入るはずですしね。ましてや蛍さんも私も収録した覚えがない番組に出ているなんて、人違いじゃないのかな』
菜穂は話しながら、ふっと美穂の存在が頭をよぎった。私が仕事をしている時に別の木桧 蛍が他の仕事をする?幾らそっくりでも他人の木桧 蛍が本人として通るはずがない。もしかして美穂なら、二卵性とは言え双子の姉妹で外見は素人には殆ど区別が付かないほどの瓜二つの顔立ちと容姿で立ち居振る舞いや髪型と衣装を似せれば絶対判らない。
では、どうして美穂が自分に成りすまして仕事が出来るのか?ここまでで、その思いは行き止まった。
『どうしたんですか?』
『いえ、別に』
〈どうも、お待たせしました〉
会話が途切れたと同時にタイミングを図ったように仲居が料理を運んできた。
まず飲み物を出してテーブルの中央に仕込まれたコンロに、銅製の鍋をかけてガスを点火した。
〈では、最初のお手前だけさせていただきますので〉
『いえ、勝手にやりますから、良いですよ』
〈そうですか?お願いしてよろしゅうございますか?それでは、お願いします。ご用事がございましたら、そちらのベルでお知らせ下さいませ。どうぞごゆっくり〉
『はい』
『さっきの事ですが、私も私なりに調べてみます』
『待って、とにかく明日、三上社長に話すから、それまで動かないで』
『そうですか。じゃあ、社長との結果を知らせてください』
『ええ、何かあるわ』
その後は、名古屋のレコーディングについての確認をして仕事以外の話で二時間余りの食事を終え、タクシーを呼んでマンションに帰った。
最近の二人はプライベートとして、まったく一緒に行動する事はなく、本来の女優とマネージャーという関係の日々であった。
しかし自分の職であるマネージャー業はやりがいもあり、ましてや第一線級の女優である木桧 蛍のマネージャーは役特な事や何かにつけて優遇される立場で、結構、裏に隠された良い思いもあった。
一方、菜穂は時折、三上がプライベートマンションに誘う以外には男性との機会はない生活であったが、この所、スケジュールも超過密となっていた事もあるが三上からの呼び出しもまったくと云って良いほどなく、悶々とした日々を送っていた。
明日からレコーディング前の最終レッスンの予定で、今日は空きの日であったが、菜穂は筒井から聞かされた不可解な事情を三上に聞くために事務所に出向いて面会を求めた。
『どうだい。その後の仕事は?』
『ええ、マネージャーが辣腕ですからしっかりと売り込んでくれて、超過密な日程ですわ』
『そのマネージャーの筒井なんだが、又ダブルブッキングをしていたんで、君の専任から外す事にしたよ』
『ちょっと待って下さい。昨日、聞きましたけど一方的じゃないですか。私としては有能でしっかりとコントロールをしてくれていますので、このまま続けて貰いたいと思っているんです』
『だって、先月と立て続けじゃないか。この間はローカルだったから、僕の方で何とか代用の企画で了解して貰ったけど。今回は大阪の有名レコード店だけに、今後の蛍の新曲に対してランキング入りやリクエスト数の獲得に、リスナー向けPRをお願いしなければならない矢先だけに問題が大きい』
『だったら、レコーディングから発売予定日までは少なくとも三ケ月は掛かるんですから事情を云って、再度キャンペーンには最優先でエンジェルレコード店とする事で了解を頂けないですか?』
『そんな事は僕の方で決めるよ。とにかく筒井は君の専任から外して、以前のように僕が付くから』
『じゃあ、十日の午後からの名古屋にも同行してくださるの?』
『ああ、行くよ。但し、夜はこちらに帰る用事があるがね』
『でも、今まで筒井さんがすべて打ち合わせをしている細かい事情がありますから、このレコーディングだけは筒井さんにお願いで出来ませんか』
『レコーディングと言っても蛍もよく承知しているんだろう。どうって事はない。僕が後は引き継ぐんで心配しないで良いよ。蛍はしっかりと新曲のレッスンをしていたらいい』
『曲は、ほぼマスターしていますけど』
どう言っても取り合わない三上に、菜穂はどうする事も出来ないまま承諾する以外になかった。
それにしても同じミスを二度も筒井が犯すはずがなく何か腑に落ちない感じであった。
木桧 蛍のマネージャーを外された筒井修太は、菜穂から三上との話の結果を聞くまでもなく、どうしてもこのダブルブッキングの真相を突きとめようと事務所関係者に探りを入れていた。
以前三上社長の秘書をしながら女優の勉強をしていた加納絵里が前回のダブルブッキングとなった時、先方からの確認電話に出た事から、発覚したと聞いている。その時は結局
、三上から二度と間違いをしないようにと言う叱責で、三上が先方への対処をした。
しかし、今回は有無も言わさず木桧 蛍の
マネージャーから外すと言う事に、何か裏があるように思えた筒井は、加納絵里が何か知っているのではと事情を詳しく聞き出そうと思った。
『悪いね、今、時間は良いのかい』
『ええ、何かしら?』
『実は昨日、又木桧 蛍のスケジュールにまたダブルブッキングが出たんだ。でもマネージャーの僕にもまったく身に覚えのない契約なんだが、社長から同じミスを立て続けに起こすとは何事だと言われて、木桧さんのマネージャーを外されたんだよ。前回の時も僕じゃあないんだが、何か知っている事はないかい』
『まあ!またなの?それって何処の契約なの?』
『大阪の心斎橋にあるエンジェルレコード店での新曲キャンペーンだって言うんだけど、同じ日に名古屋で、その新曲のレコーディングをするのに、レコードが発売されてもいないし、まだ有線にもPRしないうちから、キャンペーンの契約をする訳がない』
『前の時もそうだったわ。蛍さんがドラマの打ち合わせで確か東京にいたはずなのに、私はたまたま休みでテレビを見ていたの。そしたら、蛍さんが静岡TVの修善寺からの紅葉まつりにゲストで出ているのよ。あれっ、おかしいな確か蛍さんはドラマの打ち合わせのはずなのにって思って、翌日、社長に聞いたら、あれは録画だって言うの。でもそんな予定は入ってなかったと思うわ。だから不思議?それだってダブルブッキングで蛍さんはドラマの打ち合わせなのに、何とか調整して入れますからって返事していたわ』
『僕は何故、ダブルブッキングと判らなかったんだって問いつめられて、今回は俺が何とか処理しておく。今後は十分気を付けろと言ったんだ。なのにどうして木桧 蛍が出ていたんだ?おかしいな?』
『あのね。ここだけの話なんだけど、蛍さんには双子の妹さんがいるの知ってる?』
『ああ、知っているよ。でも、今は家を出て音信不通だって聞いているし、その妹はゲームソフトのプログラマーをやってるそうだよ』
『ところが、もう去年の事だけど、その妹の美穂って子が、三上社長を訪ねて東京に来たのよ』
『何だって!まさか』
『だって東京駅に社長に代わって私が迎えに行ったんだから』
『ほ、ほんとなのか』
『ええ、嘘じゃないわ』
『と言う事はその美穂って言う妹が木桧 蛍に!そんなに似ているのかい』
『ええ、瓜二つ。容姿から身長、顔立ちまで。素人が見たら間違っても不思議じゃないわ』
絵里の口から出た言葉に筒井は驚きと共に、それだ!と確信した。それで三上がこのところ頻繁に地方への売り込みに行くと出張をしている事が飲み込めた。
しかし、あくまでも証拠はない。とにかく絵里には今の話は誰にも言わないようにと口止めをして、筒井は判らないように調べる事にした。
十一月に入ってレコーディンクが近づく木桧 蛍は新曲の最終仕上げのレッスンにTSUNAMI・E・P・Sに詰めていた。
新曲の“ファンタジー・ロマン”はアメリカの新進歌手が謳っているメロディに“小谷未来”という今、人気絶頂の女性作詞家が女性の幻想的な心の思いを未来に夢見るという詩で木桧 蛍の為に作詞したのである。
又、蛍にとって女優として四年目となる来年、初の映画出演が決まっている“甘い蜜”の挿入歌としても採用される事になっていた。


                《一〇》
仕事を終え、美穂の待つマンションに戻った三上は十一月十日の名古屋でのレコーディングが終わって、二日間の休暇を菜穂と共に取る予定である事と、その機会に名古屋港へドライブに誘い出し、美穂の考えを実行しようと考えている事を口にした。
『そうね。いいチャンスだわ。で、実行する手はずはできているの?』
『ああ、名古屋の知り合いに、その世界の男がいるんで、明日にでも頼もうと考えている。』
『信用が出来るのその人?それと幾らの代償で殺ってもらうの?』
『南洋興業って言う、表向きは港湾土木事業をやっている会社だけど、実際は関東圏の広域暴力団土方組の傘下で愛知を地場に羽振りのあるやくざ組織なんだ。ここのボスは僕が中部地域の興行で何かと世話になっている』
『ほんとは慎司も隅に置けない悪じゃないの。まあ芸能プロダクションだって人身売買的な組織だもんね』
『よく言うよ。美穂のやる事の方が女のくせに、よっぽど僕なんかより残忍で衝撃的じゃないか』
『まあ、信用の置ける良いパートナーって事ね。そりより絶対、完璧な始末をする事だわ。成功したと言う確実な証拠がなければ、私が相手する条件も実行しないし、バレたら慎司には私が思い通りに出来ないのよ。判ってる?』
『判っているよ。美穂を僕だけの愛で縛りたいし、これからの人生を美穂が木桧 蛍として優雅に華やかな世界で暮らせるようにするためなんだから、でも成功したら美穂がその男に一夜とはいえ、相手をする事が心苦しいよ』
『だって、それも一時の事だと割り切ってよ。それより慎司がそう思ってくれる、その気持ちを何時までも美穂のために抱いていてね』
『もちろんだ。じゃあ、明日にでも名古屋に行って手はずを詰めてくるよ』
『ねえ、ほしい?』
『ああ、今日は明日の交渉が成功する為にも美穂からの愛とエキスを一杯貰いたいね』
『いいわ、慎司のお好きなように』
美穂はそう言うと立ち上がってシャワーへ向かった。慎司も上気した気持ちを抑えられないように後に続いた。
『待って、あわてないで、シャワーをしてから』
『いいよ、もう待てない!』
『ダメ!帰ってきたばかりなんだから身体が汚れてるわ』
『だったら僕も一緒に浴びるよ』
しなやかな白い肌が慎司にはまぶしく映る。美穂に夢中の慎司には自分が美穂からどんな事を唆されているかも麻痺していた。
シャワーの湯が若い美穂の肌にはじけ、水玉となって流れ落ちる身体を眺めていた慎司は、待ちきれない思いで、いきなり背後から抱きすくめた。
『キャッ、髪が濡れるじゃない、出てから好きに出来るんだから』
『だって、一緒に入って見てるだけって言うのは生殺しだよ』
『もう、仕方ない慎司ね』
シャワーの心地よい刺激と温かな湯を浴びて美穂の肌は、ほのかなピンクに染まり濡れた髪が悩ましく肩にまとわりついている。
慎司はその悩ましい姿に欲望が押さえきれないほどに膨らんでいた。
シャワーを済ませた二人は絡むように寝室へに向かった。
『もう待てない!』
ベッドに押し倒した、美穂のバスタオルを荒々しくはぎ取ると、上気した肌にむしゃぶりついた。
『来て!慎司』
殺害が成功したら他の男に、このグラマラスで肉感な美穂の裸体をさらけ出すのか思う気持ちが一層愛おしく感じ、慎司は震いつきたくなる欲望を抑え、ゆっくりと時間を掛けて頭から足先まで丹念に愛撫をした。
しかし、陶酔しているかのように見える表情の脳裏には、そんな慎司の愛を受けながらも自分の思いが着々と実行に向かって歩んでいると言う満足感の表情と重なって、積極的に楽しんでいるかのように慎司には見えた。
『よかったわ』
『僕もだよ』
時間も忘れるほどの戯れの心地よい疲れを感じながら、カーテンも閉めていなかった窓外に目をやると、いずれ起こるであろう衝撃な犯行の証拠を暗闇に消し去るかのように、雨が街並みに降り注いでいた。
翌日の午前十時過ぎの新幹線ひかりで慎司は名古屋の南洋興業に向かった。
昨日の夜、名古屋のランドマーク、JRセントラルタワーズ内にあるマリオットアソシアホテルのロビーで、午後一時に南洋興業社長の飯田と待ち合わせの約束をしていた。
飯田とは以前名古屋での興行を行う時に地場を取り仕切る組織へ出向いて、チケットの販売や会場周辺でのいざこざの押さえや警備などでよろしくと挨拶をした事からの付き合いが始まり、どうしても必要悪とする組との関係は互いの利害関係であった。
そんな付き合いは飯田の南洋興業が二年前関西のある組との抗争となった後に、和解工作として関東の上部組織への仲介に入ってもらう資金を三上が飯田に頼まれて用立てした事があって、更に親密となっていた。
だから慎司には、この殺害計画を必ず受けてくれるという確信があった。
部屋を出るとき美穂は改めて、絶対内密で確実な処理をする事と、出来れば実行者の経歴や戸籍も聞き出しておく事を慎司に言い含めた。
『大丈夫だ。間違いのない信用のおける人物だ』
『だろうけど、くれぐれも慎重にね』
十二時前に名古屋に着いた慎司は少し時間に余裕があるので、その足で十日のレコーディングをする中区のシルクサウンドラップのスタジオに挨拶に赴いた。
『やあ、三上さんどうされたんですか?レコーディングは十日ですよ』
『ちょっと、こちらに用があってね』
『そうですか?ちょうど今、木桧さんの新曲の音合わせをやっているんですがお聞きになりますか』
『いや、午後一時に人に会う約束があるから、十日のレコーディングよろしく頼みますよ』
『そうですか。でも木桧 蛍さんの曲は何時聴いても良いですね、今度もオリコンチャートのベストテン入りは間違いないですよ』
『そうだと良いけどね。まあ、このスタジオでの収録は良い音響設備が整っているから、毎回仕上がりに満足しているよ』
『いつも私達を使って戴いてありがとうございます。スタッフ全員で今回も満足いただけるレコーディングにしますので、木桧さんにもよろしくお伝え下さい』
『判りました。じゃあよろしく』
音楽プロデューサーの大野に挨拶を済ませ
た慎司は、表通りからタクシーを拾い、名古屋駅にあるマリオットアソシアホテルへと戻った。
名古屋駅と直結しているこのホテルは、一九二七年の創業で、世界にチェーンを展開しているマリオットグループの「おもてなしの心」が随所に息づく優雅な静けさに溢れた空間で多くの観光客に愛され利用されている。
十日のレコーディングの時もこのホテルに宿泊する予定をしていた。
慎司は、午後一時前にロビーに着いた。
ヨーロピアンクラシック調の閑静な館内で待ち合わせや宿泊客に混じって、奧のソファでタバコを蒸かしている飯田の姿を見付けて歩み寄った。
『どうも飯田さん。ご無沙汰?』
『おお、三上さん。元気そうだな。ところで食事は?』
『まだだよ』
『それじゃ、ここの五十二階にあるフランス料理の“ミクニナゴヤ”っていうレストランで食事をしょう』
『そうだな、それはそうと飯田さんも元気そうだね?』
『いゃあ、このところ公共の発注がさっぱりで港湾関係の仕事がないもんだから資金に詰まってるよ』
『そうかい大変だね、四月になるけど名古屋でディナーショウを企画しているんでその時は又よろしく頼むよ』
『あんたからの依頼を待っていたんだ。何とかそれで資金調達しなくちゃ首をくくる羽目になるかもね』
『オーバーだな。実は今日は、それとは別の話なんだ』
『なに、名古屋の興行の件じゃないの?』
『ああ、ちょっと込み入った事なんだが食事しながら話すよ』
五十二階への高速エレベーターはあっという間に到着した。窓際の席に案内されて見渡す景観は絶好のロケーションであるが、昼間ではせっかくのロマンチックさはなく、雑然とした都会の街並みやビルの群が目に付く。   
これが夜ともなれば一変した色とりどりのネオンやイルミネーションが星のように輝き、男女の心に怪しげな雰囲気をもたらすのであろう。
『どうかした?』
飯田は席について窓からの景色に目を向けたままの慎司を不思議そうに見た。
『いや、ついここからの景色に見とれてたよ』
『東京では見飽きた景色だろう。注文はこのランチで良いかい?』
『飯田さんに任せるよ』
『ところで、この度の用件はなんだい?』
『こんな場所で話す事ではないんだが…実は、人を一人始末して貰いたいんだ』
三上は周囲に気を配りながら、小声で言った。
『またまた、冗談はよそうよ三上さん。あんたにそんな言葉は似合わない。俺の関係者ならまだしも』
『それが冗談じゃないんだ。飯田さんだから頼むんだが、相手の素性は言えないがこの十日の午後十一時頃名古屋港の波止場に、ある女性を連れ出すんで、その女性を殺って貰いたいんだ。で、飯田さんが指名した人物に私が携帯で場所・時間・相手の特徴を伝えるので、絶対何処の誰と言う事を探らせないように実行してほしいんだ』
『なにターゲットは女性!三上さんの不始末の相手かい』
『まあ、そんな所だ』
『うーむ、これは思いがけない話だな。だったら口が堅く忠実な男じゃないと…で、報酬は?』
『こちらの条件を必ず厳守と言う事と、絶対その後何があっても一切関知しないと言う約束で一本でどうだろう?』
『そうだな、相場だなそれぐらいは』
飯田は、いとも当たり前のように言った。
慎司は美穂が条件に出して〈美穂の身体をその実行者に宛うので五千万円で〉という事を口に出さず、一億の現金を出すことを提示した。その言葉には慎司の思う考えが秘められていた。
〈お待たせいたしました〉
言葉が途切れたところにボーイが運んできたランチがテーブルにセットされたので、話を中断したが互いの居心地は何か息苦しい雰囲気であった。
十五分ばかり、黙々と食事する慎司に殆ど食べ終わった飯田から言葉を切りだした。
『三上さん。事情は聞かないが当然、闇の始末を望んでいるんだろう?』
『ああ、完全な始末と証拠は確実に消してほしい。でも飯田さん、これはあくまでも取引として割り切ってほしいんだ。私に対するその後の弱みを利用しようとするなら頼まない』
『俺も義理と人情のかけらを持った任侠の世界にいる男だよ。そんなケチな男じゃない事ぐらい判って俺に連絡してきたんだろう?』
『いや、その通りだ。今のは無駄な言葉だった』
『あんたには抗争の時も世話になったからね。まあ、任せてくれよ。早速、殺る男を連絡させるよ』
『この十日の夜十一時に名古屋港へドライブに連れ出すから、その時に車を襲って連れ出して人目のないところで殺ってもらいたいんだが、その後、死体は切断して名古屋港の沖に沈めて証拠が残らない事が条件だ』
『判った。じゃあ明日にでも、詳しい男の資料をあんた宛に送るから、着いたら本人と打ち合わせをしてくれ。俺は関知しないから』
『いや、それは困る。飯田さんが保証人になって貰わないと、その男との直接取引では信用度が判らない』
『それもそうだな、だったらいっそのこと俺が殺る事にするよ』
『えっ!飯田さんが?』
『ああ、人を介したら後々何かと厄介な事になるし、俺と三上さんだけが承知の実行にすればあんたも信用するだろう』
『それは願ってもない事だよ』
『よし、じゃあ準備はしておくから、十日の午後十時に連絡を待っているよ』
『判った。それではよろしく頼んだよ。始末が済んだら、もう一度会おう』
『それにしても三上さんも隅に置けないな。だからって殺るってのは、よっぽどじゃまなんだな』
『触れっこなしだ』
『そうだったな』
食後のコーヒーを飲んで二人は、何もなかったようにレストランを出た。
『飯田さん、時間はまだ良いかい』
『ああ』
『じゃあ、この足で一緒に名古屋港に行って下調べをしたいんだか、来てくれるかい』
『いいとも』
飯田は一億と聞いて、すんなりと承諾した。彼にとって女一人の始末なんて朝飯前なんだろう。しかし完全犯罪となれば綿密な実行が必要であった。
慎司は多少の不安を抱きながらその足で、とにかく名古屋港の現地に下調べに行くことにした。タクシーに乗って三十分ほどでガーデン埠頭に着いた。
名古屋港の誕生は一九0七年(明治四0年)にこのガーデン埠頭当たりから始まり、今では水族館や海洋博物館・展望台があるポートビルほか臨港緑園・シートレインランドなどの施設が整備されたり、昭和四0年から十八年間南極観測の砕氷船として活躍した“ふじ”が今は船内を博物館として港内に固定接岸され、多くの観光客が訪れるベイエリアスポットである。その観光施設群からさらに海側に進むと、国内外の航路船や貨物船などが接岸するコンテナヤードや埠頭が並んでいる。
二人は港湾事業各社の倉庫が建ち並ぶ先端の方へ状況を見ながら歩いた。何隻もの外国貨物船や国内船が重機を使って荷下ろしの最中である。
『三上さん。これじゃ夜遅くであっても多くの貨物船が停泊していて船員が居るから、ちょっと無理じゃないかな』
『そのようだな。まして、乗用車が入り込んで停車していたら目立つね。ちょっと夜間の事情を聞いてみるよ』
慎司は埠頭で作業中の男に声を掛けた。
返事は到底、自家用車がここまで入れる事は出来ず、ましてや深夜まで荷下ろしや出航準備で作業をしていると云う事であった。
『そうだろう。どうだい、いっそのこと港からクルーザーで海に出て殺った方が沈めるのも始末しやすいだろう』
『その方法もあるな。飯田さんクルーザーの手配と操縦は出来るかい?』
『小振りだが俺のがここのヨットハーバーに係留しているし、小型船舶の免許は持っているよ』
『ほうー以外だね。飯田さんがそんな粋な趣味があるなんて、だったらその方法で殺ろう』
『だけど、その女をどう云って連れ出すんだ』
『それは僕の方に任してくれ』
『それの方が俺も要らぬ手間が省けていい』
名古屋港内にドライブと称して乗り入れて実行する事はあきらめ、飯田の提案であるクルーザーを出して殺る事にして二人は名古屋市内に戻ったのは、すでに午後の五時前であった。
『このまま、帰るのかい』
『ああ、ゆっくりしたいんだが、明日は東京で打ち合わせがあるんで、これで帰るよ。じゃあ万事、よろしく』
『承知した』
午後の八時前、慎司は美穂の待つマンションに戻った。
『お帰りなさい?どうだった、話は付いた』
『ああ、大丈夫だ。予定通り十日の夜、名古屋港に菜穂を連れだして始末するよ』
『で、私の方は?』
『美穂は十日の午後に名古屋へ来て僕からの連絡を待っててくれ。始末が終わったら連絡するから名古屋港まで来て、僕の車で一緒に泊まっているマリオットアソシアホテルに戻って、翌日にチェックアウトをする。それならホテルにも同じ人物だとしか判らない。そして翌日に木桧 蛍として事務所に帰ろう』
『そうじゃなくて、条件の事』
『それ件も0Kだ』
『じゃあ、私が相手をして五千万円で0Kって事ね』
『ああ、僕は今でもイヤだが美穂が云うんだから、その条件で承諾させたよ』
慎司は飯田に提示した一億を云わず、美穂の条件どおりだと嘘をついた。
『そう、いよいよ実行するときが来たのね』
美穂は何か思い詰めたような目で自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
『それはそうと今日、筒井って人から電話が掛かってきたわ』
『筒井が?何を云って来たんだ?』
『三上さんは居るかって、で名古屋に行ってますけどって答えたら、貴女はって聞くので
田嶋美穂ですと答えたら切ったわ』
『名前を云ったのか?』
『ええ、ダメだった?』
『まずかったな。筒井はこの間、僕が担当を外すまで木桧 蛍のマネージャーをしていた男だ』
『えっ!』
『あの男、外されたことを根に持って、何かを探っているようだな』
『私がこのマンションに居る事が判ったしまったわね』
『ああ』
慎司はベッドに座って頭を抱えた。
『どうしょう。その筒井って人、菜穂のマネージャーをしていたのなら、私と入れ替わったら判るかもね』
『多分、見抜くだろうな』
『じゃあ、この実行は筒井って人も一緒に殺さなければ完全犯罪にならないわね』
美穂は当たり前のように筒井も殺る事を口にした。
『それはまずい、マネージャーを外された事はスタッフのみんなが周知している。その男が、突然失踪したら表沙汰になって問題になるよ』
『でも、私が変わって木桧 蛍になっても筒井って人に判るんだったら』
『とにかく、筒井が何を探っているのか調べてみてそれから考えよう』
慎司はそう言って美穂には本心を出さなかった。
筒井がダブルブッキング騒動の発端を加納絵里に聞いたと耳にしたのはマネージャーを外した二日後で、翌日菜穂が筒井を外した事に抗議してきた日でもある。
その夜、美穂との殺害計画を話し合った慎司は、それらの一連の出来事を思い興しながら美穂には予定通りの実行をするかのように云いつつ、このままでは実行してもいずれバレるだろうと思った。そのうえ、美穂が口にする双子の姉妹であるにもかかわらず菜穂だけが華麗で優雅な生活を満喫している事に異常なほどの憎しみと執念とをみなぎらしていた。私にだって木桧 蛍として少しは良い思いをさせて貰うわと言う身勝手な考えで手段を選ばない残忍な計画を実行するために、豊満な肉体を武器に意のままに扱おうとする美穂の思いとは裏腹に、何ヶ月かの同棲で美穂を官能的で魅力に思って一時は盲目の虜になっていた慎司の気持ちは、美穂の全てを知り尽くした今、遠ざかりつつあった。ましてや殺害の代償額を少なくするために自分の肉体まで提供するという考えに、所詮誰にでも色仕掛けで陥落させようとする女の浅ましさと執念の恐ろしさを感じ出していた。


                  《一一》
プロダクションに所属して、間もなく菜穂との特別な関係となっていた慎司は先のマネージャーの筒井を外した事で、久しぶりに会って改めて菜穂が洗練され女優としての油が乗って、更に魅力的で官能な女の匂いを新鮮に感じた。
思い出せば広島の宮島でスカウトして早や五年余の歳月が経とうとしていた。菜穂を一目見たときに、この娘は必ず第一線級の売れっ子女優になる素質があると見抜いて、自分の手元で育てた。それは見る目に間違いはなかった。
その後一年も経たないうちにドラマ出演を果たし、見る見るうちにドル箱スターにまでなった。特に女性は研修期間から多くのスターを夢見る卵達との熾烈な戦いが始まり、厳しい訓練と荒波に耐えながらも自分の魅力を認めて貰う為に、業界関係者や監督・ディレクターからデビューのチャンスを貰う事を願って、誘惑の関係に応じる事が業界の慣習的事実のように云われている。
菜穂の場合は自分を認めてくれた三上がこれからの自分の将来を左右する大事なパートナーとして、慕い頼る気持ちから初めての異性経験として身を任せた。
その後はマネージャーと女優の関係ながら菜穂のエキゾチックな姿態と若くみずみずしい肌に溺れ、一時は同棲した時期もあったが、多くのタレント・女優を抱える大手プロダクションの社長の立場から、専属マネージャーを筒井に任せた事で直接会う事も年に数回となって自然に遠ざかっていた。
先日久しぶりに会った慎司の気持ちは更に女性として華麗な変身を遂げ、一段と魅力溢れる女優となっている菜穂に改めて心が揺れ動いた。
慎司は、これからのプロダクション事業の経営と自分の気持ちの整理をした。
もう、全てを知り尽くした美穂への思いは以前ほどでもない。それよりも自信たっぷりな自分に対する言動や挑発的な態度に疎ましい感じさえしだしていた。
その思いは菜穂と久しぶりに会って、より一層はっきりと慎司の気持ちに表れたのが、名古屋で飯田に会って菜穂を殺害する依頼の条件に、美穂が提案した自分の身体と五千万円を代償とする取引条件を無視して口に出した一億円の殺害代償提示であった。
それは慎司の思いで下した判断であった。
『ねえ、菜穂のスケジュールは十日以後はどうなってるの』
『今のところ、二十日から初めての映画出演の打ち合わせだよ』
『えっ、映画にでるの?』
『ああ、来年の夏に封切り予定の“甘い蜜”っていう恋愛ドラマの映画出演が決まっているんだ』
『だったら、演技の勉強をしなくちゃあ。私経験ないもの出来るかしら?』
『そうだね。十日に実行したら、あと木桧 蛍としてTSUNAMI・E・P・Sに通って演技のレッスンをしなくちゃな』
『ちょっと待ってよ。そんな予定があるなんて、出来るかしら私に』
『何云ってんだよ。出来る出来ないじゃない
やらなければ、美穂は木桧 蛍なんだよ』
『そうね、私は木桧 蛍よね』
『しっかりしろよ。美穂がそうなりたいと言ったんだから』
『わかってるわ』
慎司は、今の美穂が言った言葉で、はっきりと決断した。
所詮、素人の美穂に幾ら双子の姉妹で瓜二つだとしても、菜穂が年月を掛けて女優としての基礎レッスンをしてきた演技力や不動の人気は短時間で継げるわけがない。
ましてや菜穂にとっても念願の映画初出演である。単にサイン会やキャンペーンの仕事で人前に出るのと訳が違う。
やはり、木桧 蛍は菜穂以外に誰も勤まらないと確信した。
『そんなに云わなくても良いじゃない。慎司、何をそんなにイラだってるの?』
『別にイラだってなんかしていないよ』
『じゃあ、もっと優しく云ってよ』
『美穂こそ、自分から言い出した事なのに、今更、そんな弱気な事でどうする。女優業は
甘くはないよ。菜穂だって何ヶ月も基礎のレッスンを受けて自分の夢を追いかけ、今の人気を不動のものにしたんだ。木桧 蛍として美穂は誰にも判らないように本人になり切るためにも、明日から真剣にレッスンをしなけりゃ』
『……・』
『判ったかい、もう後に戻れないんだから』
『……・』
慎司の言葉に美穂は返す言葉がなかった。
自分が言い出した軽はずみな考えが現実になろうとしている今、このまま木桧 蛍になり切れるだろうか?でも、双子の菜穂が出来て自分が出来ないわけがない。不安な思いをうち消すように強気な言葉を発した。
『やるわ。絶対やってみせるわ』
しかし、慎司の考えはすでに美穂が考えている計画ではなく、美穂を殺して菜穂とやり直す気持ちに固まっていた。美穂はそんな慎司の心変わりには、まったく気づかず、一週間後の十一月十日に全てが終わり、自分が木桧 蛍として今までの不幸な人生から抜けだして、華やかで優雅な人生が自分を待っているのだと思いこんでいた。
『ねえ、私の事、これからも見守って助けてね』
つい先ほどの強気な言葉と裏腹に、気弱い言葉が口に出た。
『心配するなよ、僕だって、この計画を実行した後は美穂が木桧 蛍となって、今まで通りのプロダクションの看板女優として活躍してくれなければ経営が成り立たないんだから、全面的にバックアップするよ』
『ほんとね、信用して良いのね』
『大丈夫だ』
つい、先日の菜穂殺害の企てをしていた、あの衝撃な考えを口にしたとは思えない、か弱く純心な女に思える今の美穂に、意外な一面を見た。
『ねえ、抱いて』
『いや、今夜は疲れたよ、美穂もゆっくりと休んで気持ちの整理をする事だね。僕は帰るよ』
『……・』
美穂の誘いに、ちょっと気持ちが動きかけたが今夜、美穂を抱いたら、また、その魔性の肉体に溺れてしまいそうな気がして、自らの気持ちを抑えた。何ヶ月かでも夢中で愛し、虜となった美穂をこの世から抹殺する事を決断した今は、未練を残す事は慎司自身、その決断がこの場になって迷わないとも限らない。
疲れたからとその夜はマンションを後にして、事務所の仮眠室に戻ろうと外に出た。時計に目をやると十時半であった。
ふと菜穂は部屋に戻っているかなと思って携帯でマンションに電話を入れた。
『もしもし、菜穂?僕だ三上だが』
『えっ、三上さん?どうされたの』
『いや、事務所に戻ったんだか、今からちょっと行っても良いかい?』
『今からですかぁ?実は風邪を引いたらしくて病院に行って休んでいるんです』
『風邪を引いたのか、で熱は』
『ええ、八度五分ほど、でも薬を飲んだから
だいぶん楽になっています』
『そう、じゃあ悪いから又にするよ。大事にな』
『え、あっ、すみません。お休みなさい』
『ああ、お休み』
菜穂は三上からの電話に、もし〈今から見舞いに行くよ〉と言ったらどうしようと戸惑っていた。なぜならば、部屋に筒井修太が来ていたのである。
『びっくりしたわ、まさか三上さんから電話が入るなんて』
『僕も驚きだ。よく掛かってくるの?』
『ずいぶんないわ。だってこの間までは筒井さんがマネージャーだったから、仕事の事は事務所で済ませていたもの。特に連絡が来ることはなかったから』
『で、なんだって?』
『特に用件らしい事は言わなかったけど、今から行っていいかって』
『……・』
『筒井さんが思っているような事じゃないわ』
『そうかな?』
『もう、前のこと、今は関係ない。そんな仲だったら筒井さんを部屋に上げないわ。そうでしょう』
『ゴメンゴメン、つい』
筒井修太はダブルブッキングとなった経緯について調べた事を菜穂に連絡をしてきたので、こちらに来てと呼んだのである。
『それはそうと先っきの事だけど、加納絵里ちゃんが見たって云うTVの番組なんだけれど、テレビ局に問い合わせたら木桧 蛍本人がゲストで静岡のロケに来たって担当のプロデューサーからの返事だったわ』
『でも蛍さんは、その仕事はしていないんだろう?』
『ええ、だから間違いなく妹の美穂が私に成りすまして出たんだと思う。そして、その契約は三上社長がしたんだと思うわ』
『と言うことは、絵里さんが東京駅に迎えに行った蛍さんの双子の妹さんが、三上社長に取り入って蛍さんの知らない契約に蛍さんに成りすまして出ていたという事?』
『だって業界の人が、まったく疑わないほどそっくりなんだから、そうとしか考えられないわ』
『なんのために?』
『私にも判らない』
『うーむ、何かある』
『何かあるって?』
『そう思わないかい。だってそんな事が何時までも通るなんて社長だってバカじゃない。この度のダブルブッキング自体がそうじゃないか。つじつまが合わない出来事が明るみに出た。今後も妹の美穂さんを木桧 蛍として出演させていたら詐欺だよ。もしかして、この十日の名古屋でのレコーディングで何か判るんじゃないかな』
『判るって何が…』
『いや、わからないけど、心斎橋のエンジェルレコードとの契約は一旦、キャンセルしたようだけど、また蛍さんのスケジュールが入っている日に他の予定を取っているかもしれないし。僕も十日に名古屋へ行って、三上社長を付けてみるよ』
『でも、見つかったら筒井さん。首になるわよ』
『いいさ、もし三上社長の仕業だったら、そんなプロダンションにこのまま居る積もりもないよ』
『そうね、私だって、もし美穂が三上社長と共謀してやっているのなら、今年で契約の五年目だから移籍か独立するわ』
『よし!それなら僕が後のスポンサーを見つけるよ。そして僕をマネージャーとして独立しよう。蛍さんなら、もう十分業界でやっていける』
『そうね、じゃあ徹底的に探ってみてよ』
『わかった。そしたら帰るよ』
筒井は、上気した顔でマンションを出た。
レコーディングを明日に控えた菜穂は、つじつまを合わす為に、三上が連絡してきた日から二日間、風邪を理由にレッスンを休んで今日が最後の仕上げであった。
『OK、完璧にマスター出来ているよ。明日の本番も今日の調子で歌えばトップテン入り間違いなしだ』
『先生、ありがとうございました。明日のレコーディングがんばります』
『お疲れさん、がんばってね』
『はい、失礼します』
レッスンスタジオを出た菜穂は、控え室で待っている三上の元に行った。
『お疲れさまでした。終わりました』
『ご苦労さん。どう、もう自分のものにしたかい』
『ええ、先生もOKですって』
『そうか。じゃあ明日の本番も心配ないね』
『はい、ヒットチャートに乗るようにがんばりますわ』
『明日は午前十時に事務所を出るので遅れないようにね。今日は、あとゆっくりして体調を整えといて。僕はちょっと用があるからこれで』
『あっはい、ではお疲れさまでした。明日よろしくお願いします』
『じゃあ』
三上は愛用のポルシェに乗り込んで何処かへ走り去った。
菜穂はまだ午後の三時と言う時間なので新宿の音楽スクールを出て、久しぶりに一人でぶらっと繁華街の方へ向かった。ゆっくりと足を運ぶ歩道沿いの木々の葉はすっかり色づき、秋の風情をさわやかな風と共に感じさせてくれる。
〈もうすぐに、今年も終わるわ〉
どうかすると秋という季節はロマンチックな感情が心を寂しくする。
宮島の母は元気だろうか?双子の妹の美穂はほんとうに三上社長と居るのだろうか?何となく、そんな事が頭をよぎっていた。
スクールを出た三上は美穂の待つマンションに帰っていた。しかし、美穂の姿はなかった。何処へ行ったのだろうと思いながら、ちょうど明日の手順を南洋興業の飯田に確認しようと思っていたので都合が良かった。
『もしもし、飯田さん、三上です』
『もしもし、ああ、三上さん。ちょうど連絡をしようと思っていた所だ』
『明日、名古屋行きだから例の準備と最終の手順の確認をしておこうと思って』
『ちょっと待ってくれよ。話の内容が内容だから部屋に入るから』
『……』
『もしもし、人に聞かれるとまずいからね』
『で、準備は?』
『万全だ。明日の夜、クルーザーに窒素ガスとシートやロープと高速レーザーカッターを用意する。沖で殺したあと窒素ガスで急速冷凍にして、音の出ない高速レーザーカッターで死体を切断してシートに包み、重りを抱かせて海に沈めるという手順だ。瞬間冷凍するんで血が流れ出る事もないし、切断にも高速レーザーで焼き切る方法だから周囲に機械音が出ることはないから大丈夫だ。ただ、近辺を航行する船に注意しなければならないがね。それで三上さんが港に女を連れてくるのは、大体何時頃の予定なんだ』
『そうだな、出来るだけ遅い方がいいかい』
『いや、換えって遅いと目に付く。クルーザーだから夜景を見るように思わせるためにも遅くとも八時頃が良いんじゃないか』
『判った。では午後八時にしよう』
『OK、じゃあこっちも午後八時前には準備を済ませて、操縦員の姿で待ってるよ。女には観光クルーザーをチャーターしているとでも云えば良い』
『判った。何から何まで悪いな。じゃあよろしく頼むよ』
『なーに、仕事と思えば一億円の契約物件だから、こっちも助かるよ。じゃあ明日』
『よろしく』
飯田は完全周到な手配と準備をしていた。さすがは百戦錬磨の経験とその世界で渡り歩
く強者である。人の命をビジネス感覚で始末する事に一抹の揺らぎもなく、完璧な計算が
されていた。あとは目撃者がない事と、美穂をどう云って連れだしクルーザーに乗せるか
だ。海に出れば監禁同様だからどう騒ごうと喚こうと逃げるに逃げられない。じっくりと
飯田と共同で始末すれば良い。ただ、海に沈める際に目撃者だけ気を付けなければならな
い。
慎司は名古屋行きの荷物の用意に取りかかった。(ピンポーン)玄関でチャイムの音がした。美穂がご帰還らしい。
『美穂か』
『ええ、遅くなって』
『お帰り』
『いつ帰えっていたの?』
『四時前だ』
『早かったのね、明日の名古屋に行く準備にちょっと買い物に行っていたの』
『何を買ったんだい』
『秋用のブラウスとアンサンブルよ。あまり服を持っていないから、明日の名古屋に着ていくのに』
『あとで着て見せてくれよ』
『ええ、慎司の趣味に合うかな』
『何を着ても美穂は似合うよ』
『何していたの?』
『明日の用意だ。それと先ほど南洋興業の飯田に例の手はずの確認をしていたんだよ』
『いよいよね、で大丈夫なの?』
『万全だ。菜穂はレコーディングが五時には終わる予定だから、その足で名古屋港へ連れ出して飯田の手配した男にあとは任す。用意は周到で完全に始末するって事だ。で美穂は午後七時にホテルへ迎えに行くよ。そして名古屋港から観光クルーザーを八時に予約しておいたから、沖にでて夜景でも見ながら楽しもうじゃないか』
『ほんと!そんな手配もしてくれていたの。ありがとう。うれしい!』
そのクルーザーが自分の死に場所となる事も知らずに、嬉しいと喜ぶ美穂を慎司は複雑な思いで見た。しかし、この完全犯罪に自信を持っていた慎司にも、その後思いがけない事態が訪れるとは想像もしなかった。
一方、明日の名古屋で何かが起こると考えていた筒井修太は名古屋行きの前日、菜穂に電話を掛けてきた。
『もしもし、筒井だけど』
『はい、もしもし、どうしたの?』
『いや、この間、三上社長にバレなかった』
『ええ、大丈夫。風邪だと云って翌日から二日間、レッスン休んだから疑わなかったわ』
『そう、それなら良かった。電話したのは、この間云っていたように明日、名古屋に行って三上社長の行動を調べようと思っているんだ』
『そう、ほんとに行くのね』
『ああ、何かが起こると感じるんだよ』
『でも、無理しちゃダメよ。万一見つかったら大変な事になるわ』
『わかっている。気を付けるよ。ところで蛍さんはレコーディングが済んだらどうするの』
『判らないわ。三上さんは何か用事で東京に帰るって言っていたから』
『何処に泊まるの?』
『名古屋駅のマリオットアソシアホテルって言っていたけど』
『そう、じゃあ又、連絡するよ』
『くれぐれも注意してね』
『判った』
執念で何がなんでも証拠をつかもうとする筒井だった。
いよいよ名古屋のシルクサウンドラップでのレコーディングに出発する日が来た。
三上は愛車のポルシェ九○三ターボに荷物を積み込み玄関で菜穂が出てくるのを待っていた。
『お待たせしました』
『忘れ物はないね』
『ええ』
『舞原君、じゃあ留守中よろしく。何かあったら携帯くれよ』
『判りました。お気を付けて』
見送りに出た舞原詩織に後を頼んで、ポルシェは一路、名古屋に向けて早朝の七時過ぎに発車した。        
東名高速に入って、およそ三時間半ほどで名古屋インターに到着し、高針JCTから国道一五三号線を経てスタジオのある中区に着いたのは、東京を出てからおよそ五時間近くの十一時四十分であった。
『疲れただろう?』
『乗り心地が良いんで、そうでもないですわ』
『先に腹ごしらえをしてから、スタジオへ行こう』
三上は車を中区三丁目付近でゆっくりと走らせながら、パルコ西館で中国料理の“桃源亭”という店の看板を目にした。
『ここにしよう』
館の地下駐車場に車を入れて、八階にある店へのエレベーターに乗った。
桃源亭の創業は大正初期で古い歴史と伝統がありながら、新中国料理(ヌーベルキュイジーヌシノワーズ)と銘打った新感覚のオリジナルメニューが自慢の店である。
店内は中国料理店には珍しくジャズのBGMが軽やかに流れ、ほぼ八割の席が食事を楽しむ客で詰まっていた。。
『この限定ランチってどんなの?』
水を運んできた店員に三上が訪ねた。
〈そちらは、お昼の二十人様限定のランチでして、フカヒレスープに料理長気まぐれ二品のメイン料理とミニチャーハン・デザートのセットでございまして、お一人様一四00円でございます〉
『じゃあ、それを、菜穂もそれで良いい』
『ええ』
〈かしこまりました。しばらくお待ち下さい〉
『食べたら、早めにスタジオ入りして、ボイスレッスンしなきゃ』
『そうだな。ここからだと一0分以内で着くよ』
通りがかりに入った店だが、なかなかの味と雰囲気の良い感じで食事をした二人は一時前にスタジオへ向かった。
               


                《一二》
『おはようございます』
『おはようございます。ご苦労様です』
『今日はよろしくお願いします』
『こちらこそ、木桧さん、第二スタジオで準備していますから、それとボイスチェックは第四スタジオを使ってください』
『判りました。じゃあ社長あとで』
『ああ、僕はミキシングルームに入るから』
『木桧さん、こちらです』
『ええ、ありがとう。ミキシング調整は済んでいますの?』
『はい、朝からもう三回して万全ですから』
菜穂は第四スタジオでさっそく、発声のチェックとデモテープでのボイスレッスンを行った。ミネラルウォーターでのどを潤し、スクールで幾度とレッスンした新曲の“ファンタジー・ロマン”は完全にマスターして自分のものにしていた。
『木桧さん、本番の時間ですがどうですか?』
『ええ、良いですよ。レコーディングは第二スタジオですね』
『はい、じゃあそろそろスタンバって貰えますか』
『わかりました』
菜穂は、荷物を持って本番収録のスタジオに向かった。
スタジオの奧にガラス張りのミキシングルームがあり、三上ほか録音スタッフ・ミキサー・音楽プロデューサー・作詞家の小谷未来の顔も見えた。スタジオに姿を見せた菜穂に、小谷がガラス越しに笑顔で手を振る。菜穂もそれに0Kサインで答えた。
スタジオのスピーカーから大野プロデューサーの声が流れた。
『蛍ちゃん。どう、本番行くけど』
『はい、大野プロデューサー出来ればヘッドホーンに一度、メロディーを流して頂けませんか』
『0K』
菜穂はヘッドホーンを耳にあてがい、流れる曲に会わせて歌を口ずさんで確認した。
『いいです、では、お願いします』
目をつむり、曲のイメージを浮かばせながら本番のレコーディングが始まった。
『スリー・ツー・ワン・キュウ』
大野のQ出しの声でヘッドホーンから緩やかな曲のメロディーが流れ出した。
   空に浮かぶ 白い綿のような雲に
     乗って行きたい
       あなたのもとへ
   とても一人じゃいられない…
木桧 蛍のハスキーで可憐な歌声がミキシングルームで収録するスタッフや関係者にモニターから流れた。初めのレコーディングが終わって収録したテープを確認して、続いて二回目の収録に入った。その後も都合、五回の収録をして、その中からベストを選んでCDにプレスされることになった。    
『お疲れさまでした』
『お疲れ、良い出来だったよ。何とかミリオンに持っていきたいね』
『なーに、ヒット間違いなしじゃない』
『そうあって貰いたいですね』
『ジャケットのスチールカットは終わっているんですか?』
『この間、ロケをした時に撮ったのを使う予定です』
『じゃあ、CDの出来上がりで発売ですね』
『そのスケジュールで発売キャンペーンと思っているんだがね』
『判りました。出来るだけ急いでプレスに回します。仕上がりは多分今月末には大丈夫だと思いますが、出来次第ご連絡しますので』
『よろしくお願いします』
『じゃあ、お疲れさまでした』
『お疲れ。これで失礼するよ』
『三上社長、食事でもいかがですか?』
『そうしたいところなんだが、僕はちょっと東京に戻る用事があるから、蛍だけご一緒させてもらうよ』
『はい、よろしいですか?』
『ああ、蛍は泊まるんだから、ご一緒させてもらえよ』
『お忙しいんですね三上社長は』
『なに、ちょっとやり残したことがあるんでね』
『では、木桧さんをお預かりします。食事後は間違いなくホテルにお送りしますから、ご安心下さい』
『頼みましたよ。それでは僕はこれで失礼、お疲れさま』
『お疲れさまでした』
三上はそう言うと、駐車場へ向かった。
収録は午後一時から五時過ぎまで掛かり、すでに五時半を回っていた。
菜穂は、三上の行動を調べると言っていた筒井はどうしたのかと気になった。このスタジオ近くで見ているのかと気になりつつ、スタッフと共に夜の名古屋の街に出かけた。
そのころ美穂は新幹線で午後の四時に名古屋に着き、事前に三上と決めていた名古屋港にほど近い、熱田区のサイプレスガーデンホテルの部屋にチェックインしていた。
約束の午後七時半まではまだ時間がある。
一方スタジオを出た三上は、車中から飯田への最終確認と事務所への何事もないかという連絡を入れた。その時、筒井は?と訪ねたら今日から二日間休むって連絡がありましたという返事であったが、それほど気に掛けず、また連絡するからと電話を切った。しかし、それが筒井の三上に対しての尾行のためとは知る由もなかった。
その筒井はプロダクションに休暇の届けを出し、三上と菜穂を追って午後二時十分発のひかりで名古屋に着いていた。駅前レンタカーで車を借りていつでも追跡できるように、事前に菜穂から聞いていた中区のスタジオビル近くにある喫茶店で三上が出て来るのを見張っていた。  
午後五時過ぎ、ビル玄関に関係者と共に現れた三上は、思ったとおり菜穂とは別行動をとった。急いで喫茶店から車に乗り込み、三上の車の後方二十メートルを見失わないよう注意しながらあとを追跡した。何か私立探偵にでもなった気分である。
レコーディングが終わったら三上は東京に戻ると蛍は言っていたはずだが、その様子でもなく市内をゆっくりと走る三上の車に、ちょっと当てがはずれた気がしだした。しばらく走った三上は、郊外のパチンコ店の駐車場に車を止めて入った。午後の七時前である。仕方なしに近くの路上に止めて様子をうかがう事にした筒井は、腹が減ったのを感じて近くのコンビニにパンと飲み物を買いに出て二・三分だったろうか、車に戻った筒井はパチンコ店の駐車場にあるはずの三上の赤いポルシェがないのに気が付いた。
〈えっ!ない〉あわてて周囲の道路に目立つ赤いポルシェの姿を探したが〈しまった!〉何処にも見あたらない。筒井は急いで発進し、とにかく来た方向へと向かった。
『もしもし菜穂か。僕だ三上だ。何処にいる?』
『もしもし、三上社長、今ホテルに帰るところです。大野プロデューサーーが送るって言って下さったんですがタクシーで帰っているの。ええ、部屋に戻ってシャワー浴びて寝るわ。はい、わかりました。明日の朝こちらに来るんですね。じゃあお休みなさい』
菜穂の行動を確認した三上は、続いて美穂に連絡を入れた。
『もしもし美穂かい、僕だ三上だ。そろそろ迎えに行くよ。ああ、菜穂は午後五時に名古屋港にいるところで男に連れて行かれたよ。大丈夫だ。もうあれから二時間を過ぎた。今頃、海でバラバラになって始末されているよ。大丈夫だって、七時半に相手の男から連絡が入る。もう、ホテルの近くだから用意してロビーで待っていてくれ』
双子姉妹である菜穂と美穂に連絡をして、三上は状況を確認した後、名古屋港で待っている飯田に電話を入れた。
『もしもし、飯田さん。三上だ、準備は良いかい。約束の八時前後には連れて行くからよろしく。それと七時半に僕に電話をくれないか。但し、ベルが鳴ったのを確認したら直ぐ切ってくれ。いや、ちょっとした段取りだ。よろしく頼むよ』
用意は周到だ。美穂の待つサイプレスガーデンホテルが見えた。三上は、ホテルの正面玄関に車を横付けし、ドワボーイに宿泊している友人を迎えに来たが、直ぐ出るのでちょっとこの場に置かせてほしいと頼んでロビーに入った。ロビーは多くの客で混雑している
。中央のオープンチェアに一際目立つ女性の姿があった。美穂だ。背後からゆっくりと近づきながら、やはり並の女性とは違うスタイルとエキゾチックな顔立ちは誰もが注目している。この場になって、ちょっと気持ちが揺らぐ思いがしたが断ち切って声を掛けた。
『美穂、お待ちどうさま』
『ああ、慎司どうだったの?』
美穂は三上の顔を見た瞬間、反射したように聞いて来た。
『もう七時半だ、連絡が入ると思うよ』
その言葉に合わせたように携帯のベルが鳴った。
『もしもし、三上です。待っていたよ。で、結果は、うんうん、間違いないな。そうか完全に全てを始末したんだな。うん判った。じゃあ、後日振り込むから、ただし一ヶ月間の報道で表沙汰にならなかった場合だ。それと
例の条件もそれからだ。ご苦労だったな。それじゃあ』
『どうだった?』
電話を切った三上に、咳き込むように美穂が訪ねた。
『聞いての通りだ。すべ終わったよ』
『ほんと信用して良いのね』
『ああ、間違いのない男だ』
『菜穂が死んだのね。木桧 蛍は私なのね』
『そうだ、今から美穂は木桧 蛍だ』
『菜穂が…死・ん・だ・』
美穂は気が抜けたような顔でつぶやいた。
『さあ、もう忘れて行こう、クルーザーで夜風を一杯浴びながらスカッーと気分を変えよう』
『……・』
『どうした、美穂の念願が叶ったんじゃないか』
『そうよね、私の思いが遂げられたのよね』
『そうだ、どれだけ惨めな思いで、今まで生きてきたんだ。それが今からは優雅で華やかで思い通りの生活が美穂のものになったんだ。さあ、行こう!』
すでに午後の七時半を回っている。急がなくてはここからニ十分は掛かる。三上は促した。
ホテル前から赤いポルシェは名古屋港のヨットハーバーへ全速力で突っ走った。助手席の美穂は、まだ気分が沈んでいるように思えた。双子の姉妹として血を分けた菜穂が、いつも自分より何をしても成功する事を悔しく思っていた事がいつしか憎しみに変わり、菜穂だけが何ぜ幸せな人生を味わうのかと言う気持ちで、つい菜穂さえいなければ瓜二つの木桧 蛍に自分が成れると錯覚し、執念で思いを遂げるために衝撃な計画を企てたのだったが、いざ死んだと聞かされて何とも取り返しの着かない事をしたという思いが胸を締め付けていた。
『何を考えているんだ。美穂の思い通りになったんじゃないか。あの執念はどうした』
その言葉を聞いた美穂は、はっとした顔で慎司を見た。
『そうよね、私は木桧 蛍だわ。しっかりしなくっちゃ、よーし明日からがんばるぞー』
『そう、こなくっちゃね、さあ、もう着くぞ。クルーザーでぶっ飛ばして気分を変えよう』
『ええ、慎司、愛してる!』
『当たり前だ。美穂は僕の宝だ』
係留された多くのヨットが並ぶ先に、飯田のクルーザーの船体が見えた。
『美穂あれだ!』
『うわぁステキ、あれで海にでるのね』
『爽快だぞ』
やっと今までの美穂らしい振る舞いに戻った事でホッとした慎司は、車を止めて先にクルーザーに向かった。
約束の午後八時を三分ばかり過ぎていた。
『飯田さん、待たしたな』
『おお、来たかね、女は?』
『直ぐ来る。これからは観光クルーザーの船長として振る舞ってくれ』
『わかった』
『失礼します』
『いらっしゃい、いゃあステキな女性ですね。女優みたいに美しい』
『今日はよろしく』
『はい、ご予約ありがとうございます三上さん、ところでお連れの女性のお名前は?』
『美穂です』
『美しいと名前までイカしてますね。それじゃあ、二時間ばかりの名古屋の海の観光を楽しんでください。出航します』
独特のエンジン音が港に響いて、クルーザーは名古屋港から沖に向けて出航した。
その時、ヨットハーバーの端に人影があった事に三人とも気づいていなかった。
その影は出航したクルーザーの後、係留されていた場所に近づき、側に止めていた三上の赤いポルシェの運転席をのぞき込むように見ていた。筒井修太である。
筒井はパチンコ店まで追跡したが、コンビニに入った二・三分間に三上の車が姿を消した後、あわてて、もと来た道路へと後を追ったがまったく見失ってしまった。
ほんとに東京へ戻ったのか?筒井はどうしたものかと思案したが、菜穂が名古屋港に行くような事を言っていたのを思い出し、とにかく行くだけ行ってみる事にした。
七時半過ぎに名古屋港に着いた筒井は感が当たるか心配であったが、取りあえず港湾会館付近で観光エリアに入ってくる車を待つカケをした。思い通りに赤いポルシェが来るなら、直ぐ見付けられると思っていた。
午後の八時を少し回った時、待ち続けたかいがあった見覚えのある三上の車である。当然、菜穂が助手席にいるだろうと目を見据えたが、あまり近づいて見つかったら元もこうもない。慎重にヨットハーバーの端から様子を伺った。止めた車からクルーザーに向かった二つの影で三上は判ったが女性は菜穂かどうかの確かな確認が出来ないまま出航してしまった。急いで、車に近寄って中を見たが、何も荷物らしいものも見あたらず判らなかった。とはいうものの、いま菜穂に電話を入れたらクルーザーに乗っていれば話をするわけにはいかない。とにかく、戻ってくるのを待つことにした。
『まぁーステキ、最高!』
沖からの名古屋市街や近隣の街のネオンが宝石をちりばめたように輝き、暗闇に光っている。波もなく爽快なクルーザーの滑るような走りは、今までのドロドロした人間社会の雑念や関係を忘れさせてくれる。美穂も、つい一時間前の思い詰めたような出来事を消し去る気分で過ぎて行く夜景に目を輝かせている。時折、三上は船長に何やら話しかけながら、美穂の方を見る。
『美穂、ビールでも飲まないか』
『なに、聞こえないわ』
後方のシートにいる美穂には疾走するエンジン音で何を言っているのか聞き取れない。
『ビールでも飲・ま・な・いかー』
『ええ、戴くわ』
三上が缶からビールをグラスに入れ、片方には銀皿に盛られたオードブルと一緒に運んで来た。グラスのそこには粉末の睡眠薬が入っていることは美穂には判らない。
『オードブルまであるの』
『ああ、お腹が空いているだろう。カナッペもあるよ』
『じゃあ、中に入って食べるわ』
四人がけのシートにテーブルを配した船内はちょっとした冷蔵庫やテレビなどもあり、なかなかの設備である。
『さあ、全てを忘れて明日から生まれ変わる為にもビールで楽しい気分に酔いしれろよ』
『ええ、思いっきり飲んで過去を忘れるわ。でも、ホテルに帰ったら抱いてね』
『ああ、明日、起きられないほど愛してやるよ』
『いゃだ。そんなに強烈にィ』
もう、菜穂の事は口にも出さない。それは酔うことで、忘れようとしているのか、あるいは割り切ってしまったのかも知れない。
『ああぁもうダメ。私、何杯飲んだ?』
『七杯目だ、大丈夫か』
『何だか眠たくなってきたわ…』
と言いながらシートに身体を沈め静かに目を閉じた。五分ほど経って身動きをしない美穂の肩に手を掛けて揺すってみた慎司は、睡眠薬が効いて完全に寝入った事を確認して、舵を取っている飯田に目で合図した。
『寝たかい。睡眠薬が効いたようだな。これなら抵抗せず手間も省ける。一気にやるよ。あんたは外に出ててくれ』
『じゃあ、頼んだから』
『三上さんにはこの場にいたら、幾らなんでも残酷だ。請け負ったからには俺が始末するから』
『済んだら言ってくれ。放り込む時は手伝うよ』
三上がデッキに出た事を確認した飯田は船室のシートの下に用意していたロープを取って、二重の輪を作ると美穂の首に巻き付けた。一瞬、美穂がううーんと首を振ったその時、飯田の手が一気に左右に力一杯動いた。美穂の手足がビクッとして、その後崩れるように身体ごとテーブル下までずり落ちた。ゆっくりと首からロープを外すと締め付けられたその箇所は赤紫に鬱血し、ドス黒くロープの縄目が残っていた。
正体が分からないほど酔いつぶれ眠っていたのが、せめてもの苦しい思いで命を奪わなかった飯田の温情かと思えたが、直接、手を下さなかった慎司は目の前の生命のない肉体に一時は狂うほど虜になった自分の方が、飯田より残酷で冷血な人間かも知れないと思った。
『終わったよ』
何か、いつもの仕事が済んだように静かな言い方に、慎司は飯田が自分の弱みにつけ込んだらとてつもない恐ろしい男にならないかと感じた。
『完全に死んだのか?』
『確かだ。瞳孔も開いて、脈もない。二度と息を吹き返す事はないよ』
『それじゃあ、凍らして切断するか』
『そうだな、先ずシートを取って広げてくれ。その上に身体を置いて、窒素ガスを切断する箇所に三分も吹き掛ければ凍るから、そしたら高速レーザーカッターで腕と足と首を切断しながら再度、窒素ガスで切断部分を凍らせば血が出ない。そしてシートに用意した鉄の重りを死体と一緒に入れて包むんだ。それをロープで縛って海に投げ込む。およそ四十キロある重りだから、浮き上がることはない。ただ、凍った肉が海で解けると鮫などが血の匂いをかぎつけ、シートを引きちぎったりすると肉片が浮かび上がる事があるがね』
『じゃあ、バレちまわないか』
『そこまでは…後は運を天に任すしかない』
水深の深い沖合に錨を降ろして、飯田は慎重に作業に取りかかった。周辺には船影も見えない。先ずシートへ死体を移し、窒素ガスボンベのノズルを全開にした。プシューというガスが噴射する音が暗闇の船内に広がる。ガスがかかった皮膚が見る見るうちに凍って白紫色に変色した。
『三上さん。そこのレーザーカッターの電源を差し込んでくれないか』
カッターの先を肩の所にあてがってスイッチを入れる。一000度近いレーザー熱光線が青白い光りを放ち、死体の肩口を瞬時に切り離す。凍結凝固した死体からは血が出ない。
切り離した切り口を再度窒素ガスで凍結させる。作業を開始して、三十分もかからず、両腕・両足・胴体・頭にバラして、シートを裂いてそれぞれを油紙に包み、重りとなる鉄のかたまりと一緒にシートに梱包し、ロープで頑丈に縛った。
作業中も慎司は周囲を注意深く観察しながら、航行する船や誰かに見られていないかを観察していた。特にそれらしき姿や船影はこの間、目に入ることはなく小一時間余りで全てを完了した。
『よし、これで出来た。三上さん、もう少し沖に出て沈めよう。ここはまだ、船舶の航行するコースだから、万一の事を考えるともっと沖か、船や人が近寄らない場所で投げ込む方が間違いない』
『そうだな。念には念を入れた方が安全だし安心だ』
錨を上げてクルーザーは、更に沖に向かって疾走した。
『よし、ここらで良いだろう。三上さん。足から投げ込むんで、そちらの方を持ってくれ』
『判った、じゃあ一・二の三で投げ込もう』
『一・二の三!』
ドボーン!ブクブクブク。ブルーのシートは一瞬、波の上に浮いたと同時に、中の重りによって直ぐに海の中に姿を消した。
続いて腕・胴体を包んだシートを投げ込み、最後の頭部分の時、飯田がちょっと待ってくれと声を掛けた。
『どんな仏さんでもやはり弔いをしてやらなければ浮かばれないし、殺った俺達も後味が悪い。線香とロウソクと花を用意してあるから、この頭の部分を投げ込む前に弔ってやろうじゃないか三上さん』
『ああ、そうだな。そこまでは気にしていなかったが、さすがプロだね飯田さんは』
『おいおい、殺しの専門みたいに言わないでくれ。あんたに頼まれたビジネスとして殺ったまでで、本業は港湾土木業だ』
『すまん、つい手際がよいのと、最後までキチッと始末する手はずをしていたもんだから』
『これは当然だろう。ましてや病気や事故で死んだ仏じゃなく、俺達が手を下して殺った仏だ。せめて成仏を願ってやらなければ、何時までも後味が悪い。そうじゃないか』
『その通りだ』
美穂とは今日初めて会って、まったくの他人である飯田が、そこまで用意周到とは思わなかった。自分は厄介者を始末する事だけを考えていたことに人間的にもほんとに冷酷無惨な男だと思った。
『じゃあ、三上さん一緒に合掌をして葬ろう』
頭の部分を包んだシートをデッキに置いて、その前にロウソクと線香を焚き、花束を供えて二人は合掌をした。
三上は合掌をしながら美穂と一緒に過ごした幾月かの日々を思い出していた。
思えば宮島から慎司を訪ねて上京してきて、菜穂への憎しみをうち明けられ、つい美穂の魅力に負けて、その思いを遂げさせてやろうと美穂の企てに荷担するつもりだったが、その肉体を武器に余りにも慎司を自分の思いのままにしようとする身勝手な美穂を、うっとうしく思うようになって、自分の損得を考えてこの際、その企ての相手を美穂にしたのだった。何も知らず慎司の云う事を信じてクルーザーに乗り込んだ優子は、睡眠薬を入れられたビールで正体不明のままこの世から姿を消した。
『何を考えているんだ』
『あっ、いや別に』
『もう、今さら考えても終わったんだ。さあ、最後の頭を放り込むぜ』
ドボーン、ブクブクブク。切り裂いた肉片の固まりを包んだシートはしばらく波間に揺れながら、徐々に海中へと沈んでいった。何か頭の部分だけは、他より長く浮かんでいたように思え、優子の恨みと執念が乗り移ったようにさえ感じた。
『……』
『これで終わった。それじゃ港に戻ろうか』
何事もなかったように飯田はクルーザーの向きを変えて、名古屋港のヨットハーバーに向かってエンジン音を轟かせ全速力で波を蹴って走り出した。
もう、十二時近くである。
デッキで受ける夜風は十一月だと言うのに何故か生暖かく慎司には感じられた。それは優子の怨念というか肌の暖かさにも感じられ、ゾクッと身震いをするのであった。
十二時四十分、クルーザーは元の係留していた場所に静かに着岸した。
『済まなかったな飯田さん』
『俺はちょっと船内の掃除と始末をしてから帰るから、あんたは良いよ』
『そうかい、じゃあ行くよ。何事も出なければいいがね。また、連絡するよ』
『判った.じゃあな』
三上は船から下りて、近くに止めていたポルシェに向かった。


                《一三》
レンタカーの車内で、うつらうつらとしていた筒井は真夜中の港に、低いエンジン音が聞こえたように感じて外に出た。
それは紛れもなく三上が女性と乗り込んだクルーザーであった。
おゃっ…降りてきた影は三上一人である。女は?一瞬身震いがした。寒さのせいでは
ない。待てよ、もう直ぐ女も下りてくるかも…と身を凝らしたが、一向に下りてくる気配がない。 しかも三上はすでに車に乗り、エンジンをかけている。何があったんだ。筒井は思いを駆けめぐらせた。まさか!蛍さんが!
確かに三上は女性と一緒にクルーザーに乗ったはずなのに、降りたのは三上だけだ。何があったんだ。殺された?筒井は咄嗟に携帯電話を取り出し蛍の携帯に連絡を入れた。出てくれ!出なければ一緒にいた女性は木桧 蛍と言うことになる。祈る気持ちで相手の声を耳に携帯を押しつけ待った。
『もしもし、もしもし』
出た!その声は紛れもなく木桧 蛍だ。
『蛍さん!もしもし蛍さんだね』
『もしもし、誰?』
『ぼくです。筒井、筒井修太です』
『どうしたの、こんな遅くに?』
『良かった。間違いなく蛍さんだよね!』
『何よ。何言っているのか判らないわ。どうしたの?』
『ゴメン遅くに、実は今、名古屋港に三上を付けて来ているんだよ。それで今し方、三上と女性が乗って沖に出ていったクルーザーが帰って来たんだか、一緒に乗ったはずの女性がいないんだ。それで、もしかして蛍さんでは…と思って』
『どう云うことなの?私はレコーディングの後、スタッフの方と食事して、その後ホテルに戻ってそのまま疲れたから寝入ってたわ』
『ええっ、じゃあ三上と一緒じゃなかったの』
『三上社長は東京に用事があるからって、レコーディングが終わって直ぐ東京に戻ったわ。なのに三上社長を付けてたって、人違いじゃないの?』
『いや、三上は東京なんて戻ってないよ。僕があのビルの前にある喫茶店で様子を伺っていたらポルシェに乗って出たから、ずっーと追跡してたんだけど、ちょっと目を離したスキに見失ったんだ。で、蛍さんが夜に名古屋港に行くようなことを言っていたから、直ぐに名古屋港に行って待ってたら、案の定、三上のポルシェが来たんだよ。で、女性も一緒だったから、てっきり見失った後、蛍さんを迎えに行って来たんだとばかり』
『いいえ、私はずーと、ホテルにいるわ』
『じゃあ、あの女性は…暗がりではっきりと見えなかったんだけれど、背格好が蛍さんによく似ていたもんだから』
『何ですって!私に似ていたですって!』
『そうか!双子の妹の美穂さん!』
『まさか!で、その女性は下りてこなかったの』
『そうなんだ。あっ、もう三上の車がない!しまった!』
『もう、止めときなさい。それだけでは証拠はないわ。もしかして何処かで下りたかも知れないし。迂闊に今日の事は口にしない方が貴男の為よ。とにかく、東京に帰ってから会って聞くから』
『わかった。遅くにすみません』
『それは良いの。でも急ぐと危険だわ。くれぐれも気をつけてね』
『うん、それじゃあ、お休み』
『ええ、お休み』
咄嗟にかけた電話で、つい蛍の生存の方に気を取られて、三上が車を発車した事に注意をしていなかった。何処へ行ったのだろう?
そう思いながらも今、蛍が言った女性は何処かの港で下りたかも…と言うこともあり得る事は考えてもいなかった。冷静に判断した蛍の考えの方が正しいかも知れない。
姿を消した三上をどうする事も出来ず、後で調べる事にして筒井も疲れ切った身体で車に乗り込み、予約していた名古屋駅にあるホテルに向かった。後で判ったことだが、そのホテルは美穂が予約していたサイプレスガーデンホテルであった。
翌日の十一月十一日の朝、三上からの外線電話が菜穂の部屋に入った。ホテルからのメッセージに一瞬ギクッとした菜穂だったが一呼吸おいて、いつもの明るさで応対した。
『もしもし』
『三上だ、どうです。疲れはとれた?』
『ええ、ぐっすり寝させて貰いましたから』
『そう、今、高速を走っているんで八時半にはそちらに着くから、朝食は取ったの?』
『いえ、まだです』
『じゃあ、ホテルのバイキングでも食べよう。待っていてくれ』
『判りました』
三上は東京から来るような言葉で菜穂に連絡をしてきた。昨日の筒井の言葉が頭を過ぎる。ほんとうに三上は名古屋港に行ったのだろうか?一緒に居たという女性は美穂なのか?修子は三上に会うのが怖かった。と言ってそんな素振りで会う事は出来ない。とにかくシャワーを浴びて、用意をする事にした。
午前八時過ぎ、ロビーで待っていた菜穂に笑顔の三上が昨日とは違う服装で現れた。やっぱり東京に帰っていたのかしら?そんな身なりである。
『おはよう。ステキな服じゃないか。よく似合っているよ』
『そうかしら、新調した服に着替えたの』
『やっぱり、木桧 蛍は菜穂だ』
『えっ!どういう意味ですか?』
『あっいや何でもない。独り言だ。さあバイキングに行こう。東京から夜中を突っ走ってきたから腹が空いたよ』
『ええ』
菜穂は三上の言った木桧 蛍は菜穂だと言う言葉が引っかかったが夜中に突っ走ってきたという言葉で、やっぱり東京に帰っていたのだから筒井の見間違いだと思った。
『昨日、東京で新曲の記者発表とキャンペーンの打ち合わせをしたよ。取りあえずCDが出来たら具体的なスケジュールを組むんで、また、しばらくは忙しくなるよ』
『ダブルブッキングになった大阪心斎橋のエンジェルレコード店も入っているんですか?』
『その件は、ちゃんと処理したから大丈夫だ。改めて挨拶に行ってお願いする。心配しないで良いよ』
『そうですか』
ちようど時間的に宿泊客の朝食タイムと重なり、バイキングコーナーは多くの食事をとる客で混雑していた。三十分ばかりかけて好きな料理と飲み物で空き腹を満たし、チェックアウト後名古屋の観光地に出かけた。
名古屋は徳川御三家の筆頭、尾張家の居城となった金の鯱で有名な名古屋城を初め、名古屋のランドマークのテレビ塔は地上一八0メートルで、展望台からは天気の良い日は北にそびえる御嶽山まで一望できるなどの見所が多い。
しかし、慎司は何を思ったのか熱田神宮へ参拝に行こうと菜穂を誘った。
理由は木桧 蛍の新曲のヒット祈願と言いつつ、本心は昨日殺害した事実から逃れ、発覚されない事を願うのと美穂の霊に対する弔いが目的であった。
殺害後、ホテルに戻って冷水でシャワーを浴び、全てを洗い流して忘れようとしたが、ベッドに入っても目の前に美穂の妖艶な姿態や自分を信じ切っていた会話の数々が思い浮かび、朝方まで眠る事が出来なかった。
とにかく昨日の事を取り払い、菜穂とのこれからに賭ける為にも、悪霊から逃れようと身勝手な神頼みをと考えた。
『せっかくの名古屋だって言うのに何で神社に参拝なの』
菜穂は不満げな顔をした。
『だから、新曲の祈願に…レコーディングが済んで、早いほうが良いじゃないか』
『だって、いつも新曲が出来上がって、それを奉納して祈願するでしょう。それもヒット祈願をするのは東京の浅草寺じゃない』
『今回は名古屋でのレコーディングだから、この地の神社にしよう。盤が出来たら改めて浅草寺に行けばいい』
強引な三上の言葉で、取りあえず熱田神社に向かった。
「熱田さん」の呼び名で親しまれている熱田神宮は伊勢神宮に次ぐ社格を持つ大宮で、三種の神器の一つ“草薙の剣”を御霊代とする天照大神を祭神としている。総面積一九万㎡にも及ぶ広大な敷地内には静かで荘厳な雰囲気に包まれて、文化殿や茶席などが点在し、宝物館には国宝・重要文化財指定の刀剣や舞楽面など四000点が展示収蔵されている。境内にひときわ風格を感じさせるのが樹齢約一000年の大楠木で、弘法大師のお手植えのご神木として、参拝客にあがめられている。
駐車場に車を停め街並みから逸脱したように静かな雰囲気が漂う本宮拝殿へと進んだ。
『何とも言えない幻想的な神宮ね』
『そうだな、心が洗われる様だ。さあ、祈願しよう』
『ええ』
二人は揃って拝殿に向かって、手を合わせた。改めて本祈願は東京の浅草寺でする事もあり菜穂はヒットを祈る言葉ではなく、これからの女優としての大願成就を心で唱えた。 
しかし、慎司は美穂への成仏と、この後に死体発覚がない事を祈った。そんな悪意な祈願が神に届く事はないのは言うまでもなく、祈願後、拝殿横の社務所で“おみくじ”を引いた二人には、菜穂は大吉、慎司には大凶という、まったく正反対の結果で慎司は何か不吉な予感がおみくじに表れた様に思った。その後、宝物殿の展示品を見学し、市内で食事をして帰京した。
一足先に戻った筒井は、三上のポルシェに乗っていた男が、三上とは別人ではと云う菜穂の言葉を確認するために秘書の絵里に三上が十日の夜、帰ってきたかを訪ねたが返事は
わからないと言う事であった。
翌日の午後五時過ぎ、菜穂を伴って事務所に帰ってきた三上は特に変わった様子はなく、いつも通り次のスケジュール調整やら連絡事項がないかを聞くだけだった。
プライベートマンションに戻った三上は、急いで夕刊の社会面を開け記事の内容を丹念に調べたが、それらしきものは見あたらず、さらに飯田へ念のため電話を入れて、名古屋の地方版にも出ていなかったかを聞いたが出ていないとの返事で安堵した。ただ、万一この後、気がかりな記事が出たら連絡をくれるように念押しした。
レコーディングから二週間が経った日、名古屋のシルクサウンドラップからCDが出来上がったとの連絡が入った。初回プレスは五万枚を製作し、全国のレコード店および音楽関係の取り扱いショップ・有線放送会社・地方TV局・芸能プロダクションなどへのサンプルとして配るのとキャンペーン先での記念発売・プロダクションホームページ・関係先へのデモ用に分ける。それと新曲の大々的な売り込みPR作戦を展開する日程のスケジュールに関してのスタッフミーティングや担当別手配が行われた。さらに、発売一ヶ月後には携帯サイトへの配信も行われることが決定していた。
すでにPR用ポスターやテレビCMほか、記者発表の日程なども決定し、木桧 蛍にとっては久しぶりに活気ある活動が始まろうとしていた。
『蛍ちやん、あさって、新曲の記者発表だからね』
『はい、一時から新宿のスカイビルでしたね』
『そう、記者発表がすんだら、有線放送へ行ってPRとインタビューを受けて、その後は一月からクランクインに入る“甘い蜜”の映画台本を受け取りに富士映画に行くから』
『判りました』
『それと、これからの話もあるから、今夜マンションの方へ行くから』
『えっあ、はい』
菜穂は三上が突然、マンションへ来るという事で、何なんだろう?と思った。
さらに筒井もあれ以来、何の連絡もないが多分、名古屋のことを調べているんだろうと察していた。
菜穂は久しぶりに宮島の母に、電話を入れた。
『もしもし、お母さん、菜穂です』
『もしもし菜穂かい。ご無沙汰だね、忙しくしているの?』
『ええ、何とか、今度CDを出すの。それとやっと念願の映画にも私が主演で撮る事が決まったのよ』
『ほんと!やっと女優として認められたんだね、良かったじゃない』
『ありがとう、CDは十二月初旬に発売になると思うわ。それと来週にはテレビのコマーシャルも、それから来年の一月から映画の撮影が始まるわ。それはそうと、美穂の事、何か判った?』
『いいえ、出て行って、今も何処にいるのか判らないままなんだよ。警察も美穂といっしょに居た倉田と言う人の自供から、お父さんを殺した事と、美穂の行方が不明とは関係ないという事で、その後も各方面の警察には捜索手配はしてくれているのだろうけど、一向に連絡はないのよ。ただ、母さんがテレビで一度、あんたが出ている番組を見たんだけど、あれはあんたじゃなく美穂だったと今で思ってるよ』
『何の番組よ』
『ほら、あんたがお父さんの一周忌に帰ってきただろう。あの四日前の番組で、修善寺の紅葉まつりにゲストで出ていたんだけどね。あれは美穂だよ。あの子は右目の下に黒子があるでしょう』
『ええ、確かに』
『そう、あったのよ。他人様には見分けられないだろうけど、あんた達は瓜二つでも二人の違いがあるのを母さんは、はっきりと見たんだよ。でも完全に木桧 蛍になりきっていた。見事に演技していたよ。四日後はお父さんの一周忌で宮島へ帰りますって事も言っていた』
『ほんとだったんだ…』
『ほんとだったって…』
『実は、その話、マネージャーの筒井さんから、後で聞いたの』
『母さんは、一周忌で菜穂が帰ってきた時、話そうと思っていたんだけれど、松山に行く予定があるからってあんたは直ぐに帰ったでしよう、だから話す時間がなかったのよ。それに美穂のことをインタビューでは木桧 蛍として紹介していたし、ファンとのイベントの時だって木桧 蛍のサインをスラスラと色紙に書いていたよ』
『ほんと!何時の間に練習したんだろう?』
『その日、菜穂は何処にいたの?』
『お父さんの一周忌の四日前は…確かドラマの打ち合わせで東京のテレビ局にいたわ』
『やっぱり、美穂だったんだね』
『これで、はっきりしたわ、三上社長だわ、きっと』
『三上社長さん?』
『で、なきゃあ絶対出来っこない』
『それじゃ、美穂はアパートに戻って、翌日居なくなったのは、東京の三上社長さんの所に行ったんだろうか?菜穂はまったく知らないのかい?』
『ええ、三年前からマネージャーは筒井さんになって、その後は社長と事務所でたまに会うぐらいで、滅多に顔を見る事もなくなっていたから。でも、美穂が三上社長に連絡してきた事も事実のようよ』
『じゃあ、菜穂に判らないように、そっくりな事を良いことにして、木桧 蛍に成りすまして三上社長さんに世話になってたんだネ』
『そうとしか思えない』
『どういうつもりなんだろうね美穂は』
『でも、先日、私のスケジュール管理にミスがあったって言う理由で、筒井さんが私のマネージャーをハズされてまた三上社長がマネージャーを兼務する事になったの。と言うことは美穂の木桧 蛍は誰がマネージメントをするのかな?』
『それは母さんには判らないよ』
『いえ、お母さんに聞いてるんじゃないわ。で、とにかく美穂からはまったく連絡はないのね』
『ああ、まったく。もう母さんの手に負えないよ。ぞれぞれ成人なんだから』
『ところでお母さん、生活のほうはどうしてるの?』
『組合長の富田さんから漁港での仕事を紹介して頂いてやってるよ。それと修子から振り込んでくれるお金で十分助かっているから、母さんのことは心配いらないよ』
『そう大丈夫ね、だったら良いけど。それとね、今、お母さんから聞いた事でひょっとしたら美穂に何かあったかも…ちょっと気になることがあるの』
『なに?どんな気になること』
『判ったら連絡するから、じゃあ身体に気を付けて切るわよ』
『菜穂もね』
三十分ばかり、久しぶりに母の声を耳に長話をしたが、その内容は美穂の事が少し判ったのと同時に気がかりな思いがした。
今年もあと一ヶ月余りで終わろうとしている十一月二十日、三上は毎日、五大新聞を買い求めマンションで丹念に社会面の記事に目を凝らしたが、名古屋港でバラバラ死体が見つかったと言う記事は見あたらなかったし、毎日のTV・ラジオ・インターネットニュースと全ての関連にも注意していたが報道されていなかったのと、飯田からも何の連絡もないことで多少は安堵の気持ちで落ち着きの日々に戻っていた。しかし、一ヶ月経つまでは気を抜かず、注意をしなければと考えながらも菜穂との関係を戻し、これからの事業展開を充実させようと思っていた。
『今から行くよ』
『はい、待ってます』
今日も何事もなく三上は午後八時、事務所から菜穂のマンションに向かった。
久しぶりに訪れた部屋は、菜穂の使っている甘い香水の香りが漂い、男の気持ちを高ぶらせた。
『菜穂、久しぶりだね』
『ええ』
『筒井に任せていた二年余りの間に一段と魅力的になったし、女の色気が男心を虜にするほど最高の女優に変身したようだ。我がプロダクションのトップ女優だもんな』
『そうかしら、三上さんが何処かの誰かさんに夢中になっていたから、悔しい思いで三上さんの心を取り戻したい一心でしたわ』
『よく言うよ。誰が居るって言うんだ。僕はプロダクション事業を拡大し業界の大手と言う地位を維持するために、日々経営に没頭していたよ』
『確かにそうだと思うわ。でも、男はその為にも良きパートナーが必要よ。私は三上社長にスカウトされて思いも寄らない、人に夢を与える女優と言う仕事を与えてもらったわ。だからこそ初めてのドラマ出演を決めて貰った時、すごく嬉しかったし恩義を感じて、この人に菜穂の人生を賭けようと、男を知らない身体や心を全て三上さんに捧げた。そうよね』
『そうだったね』
『そんな女の気持ち判ります?』
『わかるよ』
『うそ!』
『うそじゃない!だから今夜、菜穂ともう一度、最愛のパートナーとして多くのファンに慕われ人気を続ける女優への道を僕と一緒に歩もうと、話をしに来たんじゃないか』
そう言うと三上は菜穂の方へ歩み寄った。
『ちょっと、待って、ねえ三上さん。私に隠している事はない?』
『隠している事?何の事だ』
『いえ、ないのなら良いのよ。私の思い違いかも。ねえ、抱いてくれる?』
ちょっと気に掛かる菜穂の言葉に、出鼻をくじかれた三上は一瞬躊躇したが、久しぶりに間近で見る豊満な肉体と艶めかしい色香に気持ちよりも身体が否定をしなかった。
『おいで菜穂』
キスをしながらベッドに倒した菜穂から甘い香水の香りと、すでにシャワーを浴びていたのだろう身体はピンク色に上気した肌が、先ほどの気まずい雰囲気を一気にかき消し、野獣へとかき立てた。
『あぁー』
『菜穂、もう僕だけのものだ』
『絶対離さないで』
『ああ、必ず世界の女優にしてやる。僕の力で』
『ほんとに、うれしーぃ』
男女の性の本能は、全ての疑心や過去の憎しみさえ消し去ってしまうほどの快楽が襲う。菜穂は先ほどの母との会話で、三上に一抹の不信感を抱いたはずなのに、今、初めての男として身を捧げた三上のたくましい肉体と男臭い体臭を本能的に嗅いで陶酔し、久しぶりの抱擁に心に思った気持ちとは逆に、身体が疼き、感じていた。
『もっと強く!もっと』
離れる事が怖いように何時までも確かめ合う二人が、互いの欲望を満たして身体を離したのは、もう午前二時になろうとしている深夜だった。
『コーヒーを入れるわ』
額に滲んだ汗を手で拭きながら、ベッドを離れキッチンに立った菜穂は、そのまま三上に背を向けコーヒーの準備をしながら、まだベッドに横たわっている三上に訪ねた。
『三上さん、もし、違っていたらゴメンなさい何だけど、美穂が三上さんに連絡して来た事なかった?』
『……ああ、あえて云わなかったけど、そう言えば二年になるかな。北海道に行く途中だと言って…』
『来たの?』
『そう、で東京駅に迎えに行って食事をしたよ。元気だったな』
『そう、それだけ』
『それだけだ。何でも北海道の佐呂間に居る友人から来ないかって言われたんで、一度、広島以外で気分を一新して、これからの事をじっくり考えるんだって言っていたよ。だから菜穂もがんばっているんだから、美穂さんもがんばって余り心配をかけないようにと言っといた』
『じゃあ、三上さんを訪ねてから、少しだけ東京に居たのかな?』
『そうだと思うよ。来た夜から一週間ほど東京の友達のところで泊まるって言っていたから』
『そう』
話のあいだ三上を見ないで声だけを聞いた。顔を見るのが怖かった。どうしても疑う様な目つきになりそうで、返事の仕方で何かを感じ取ろうとしたが、まったく普通のしゃべり方で動揺したような所がなかった。
カップに注いだコーヒーを両手に、ベッドに運んで手渡した。
『ありがとう。何だね、何か気になる事でもあるの?』
『いえ、そうじゃなくてね、今日、久しぶりに母に電話をしたら、行方が判らないらしくて、以前美穂が三上さんに会いに行くような事を言ってたって聞いたもんだから、ちょっと聞いてみただけ』
お互いが嘘の言葉で交わした会話に、探りあっている事がバレはしないかと伺う感じであった。
『じゃあ、帰るよ菜穂。明日からがんばろうな、お互いを信じて』
『はい、よろしくお願いします』
何事もなかったように部屋を出て行った三上に信じようとする気持ちと、筒井の言っていた言葉とが菜穂の心で交錯していた。


                《一四》
そのころ筒井は、何が何でも真実を突きとめようと執念を燃やしていた。改めて昨日、知人の葬儀があるとうそを言って休暇を取り、もう一度名古屋港へ行った。ガーデンふ頭のポートビル前から約三0分間の名古屋港周辺を遊覧する観光船に乗り、自分の目で沖合の状況を確かめようとした。しかし遊覧海域からは着岸する施設らしきところはない。ただ、あの日、三上達は出航して四時間余りで帰港したが、単に女性を目的地に運んで下船させ往復したとしたら、伊勢湾沿岸の白子・四日市・鳥羽・師崎・伊良湖などへ行ったとも考えられるが、それだけでわざわざクルーザーをチャーターする事はない。船を使ったという意味は何なのか?遊覧船からの景色を眺めながら考えた。乗った女性が帰ってきた船から下りなかったと言う事は…もしかして…殺されて海に放り投げられたのかもしれない。だけど・・・筒井は、空想が現実であるという証拠はなかった。とにかく、どうしても真相を突きとめたいと思った。
二日後の午後十二時半過ぎ、三上と菜穂は新曲の記者発表会場である新宿のスカイビルにいた。すでに作詞家の小谷未来も到着していた。
会場には多くのマスコミ・報道関係者や週刊芸能誌のカメラマンがスタンバっていた。
『木桧さん、先にグラビア用の撮影をしますので、よろしく』
『もう少しこっちにも』
インタビュー前の会場で五十台余ものカメラがポーズを取る木桧 蛍へ一斉にフラッシュを浴びせる。撮影が終わって改めて午後一時から、いよいよ新曲発表の記者会見が始まった。ステージのバックには全紙大の宣伝パネルが貼られ、新曲CDの空パッケージがビッシリとその周囲にディスプレーされていた。
『まず、曲の作詞をされた小谷未来さんにお伺いしますが、今度の曲は“ファンタジー・ロマン”と言うタイトル名ですが、どんな感じの曲ですか?』
『ええ、説明するより先ず聞いてください』

未来が合図をすると会場に曲が流れた。
   空に浮かぶ 白い綿のような雲に
     乗って行きたい
      あなたのもとへ
    とても一人じゃいられない

会場は静まりかえって聞き入っていた。曲が終わって、代表の記者が評した。
『なかなかロマンチックなメロディですね』
『ええ、曲はアメリカのカレン・バートンさんが作曲したもので、実は私が去年アメリカに行った時に向こうでこの曲を聞きまして、以前から木桧さんに曲作りを頼まれていましたので、木桧さんの声や音域の特徴と雰囲気を生かした詩をと考えました。
メロディは木桧さんにピッタリですからアメリカの作曲家の方に、日本での版権を承諾戴きまして蛍さんのために作詞しました』
『いや、いい感じの曲で、そのメロディに詩がとてもマッチしていますね。これはヒット間違いないですよ』
『ありがとうございます。でもやはり木桧さんが私の詩をイメージ通り、歌ってくださるから良い曲に仕上がったと思います』
『続いて木桧 蛍さんにお伺いしますが、お歌いになっていかがですか?』
『ええ、とっても歌いやすいですし、何と言っても歌詞が曲のイメージにぴったりで大好きです』
『この新曲は、来年の夏から上映される“甘い蜜”という映画の挿入歌にもなるそうですが』
『はい、初めての映画出演で自分の歌がバックに流れるなんて夢のようで、作詞していただいた小谷未来さんほか関係スタッフのお陰だと思っております。ぜひ、ヒットを願ってがんばりますので、よろしくお願いします』
『CDの発売は何時ですか?』
『多分、来月の初めには発売されると思います。ぜひPRの方もよろしくお願いしますわ』
『それと、今回のCDには限定のプレミアが付いているそうですが…』
『ええ、それは販売CDのなかに限定枚数だけ“甘い蜜”のペア映画観賞券と私のデザインしたオリジナルTシャツとブロマイドにサインをして差し上げるというプレゼントカードが入っています。また、その中の一枚だけプラチナカードがありまして、そのカードが入ったCDを当てられた方にはさらに、私と食事をご一緒していただくというプレミアCDなんです。また、当たらなかった方にも、割引観賞券を全員にプレゼントさせていただきます』
『それは、ファンの人にはすばらしいプレミアですね。映画の方も盛況だと良いですね』
『ええ、ぜひCDをお買いあげ戴いて、映画も見に行って戴きたいと思います』
『ありがとうございました。新曲の売れ行きと共に“甘い蜜”の盛況をお祈りします。本日はありがとうございました。これで記者会見は終わります。ご成功をお祈りしています』
『ありがとうございました。お疲れさまでした』
滞りなく新曲発売記念の記者発表の会見が終了した。一旦、控え室に戻って荷物をまとめ、マネージャーの三上と共にゆっくりする間もなく、次のスケジュール先に向かうため玄関に出た。
そこには何百人もの熱心なファンが、出てきた木桧 蛍の姿に大きな声援や奇声をあげ
るなか、会場から移動して待機していた報道カメラのフラッシュが一斉に光った。
スタッフの車に乗り込みながら、蛍はファンに向かって笑顔で大きく手を振り、歓声に答えた。これが演技なのだ。当然、ファンがいてこその木桧 蛍であるが、どんな場合でもイヤな顔や素知らぬ態度は、人気はもとより女優生命に左右する。握手を求められれば気持ちよく応じ、サインをと言われれば、時間がなくても一人でも多くの希望を満たさなければならない。ましてや、めんどくさいとかうっとうしいとかと思われる表情は御法度で、熱があろうと疲れていようと、とにかくファンあっての商売である。だから演技と言われるのかも知れない。人間は誰しもが生まれて死ぬまで無意識のうちに演技をする。だけども一般の人はその%はわずかで、殆ど本音でものが言え、態度で示し、表情に表しても生きていける。しかし、人気商売はまったく逆で本音は数%で稼業を続けるならば、人生の殆どを演技で生きなければならないと言う宿命なのである。
車の座席に着いて、スモークフイルムを貼った窓から外を見るとファンは必死で覗き込もうとしたり、また見てくれているとの思いなのか自分の存在を判って貰おうと大きく手を振ったり、車内は見えていないと思われるのにカメラやカメラ付き携帯電話を頭上に掲げてシャッターを押している。それがファン心理なのだ。自分のあこがれであるスターに自分の思いを見せることで、何か満足な気持ちになれるのがファンなのだ。
やっと都内に出て、車は次の行き先である有線放送㈱がある渋谷のビルへと向かった。  
有線は歌手にとって大事なバロメーターで、日本全国の市区町村からの視聴者によるリクエスト数が大きな判断になる。特に新曲は発売後の動向がこの有線を通して評価対象となるだけに、先ず有線放送で曲を流して貰う事が大事で関係者が本人を伴って日参するほどである。
菜穂も三上と共にデモCDを持って訪問した。手にはちょっとした手みやげも忘れず持って心証をよくしておかなければならない。競争社会の掟のようなものである。
『おはようございます。ウイングプロの木桧 蛍です』
『はい、これは木桧 蛍さんと三上社長』
『いつもお世話になっております』
『こちらこそ、どうぞどうぞお掛け下さい』
『これ、皆さんで、どうぞ…』
『いや、お気遣いなんて結構ですのに…』
『今日は、木桧 蛍の新曲のお願いに伺いました。今度二枚目のシングルCDで“ファンタジー・ロマン”って言う歌を発売しますので、ぜひ有線で紹介をお願いしたいと思いまして』
『そうですか、確か一枚目は“ムーランルージュの恋”でオリコンチャート106位まで上がって100位まで、あと少しの所でしたよね、その後もまだ、リクエストがありますよ』
『そうですか。今度のは来年の夏に富士映画配給で封切りされる“甘い蜜”って題名の挿入歌に決まっているんですよ。だからぜひヒットをさせたくて、有線でも紹介をお願いします』
『判りました。木桧さんは歌がうまいから、一枚目の時は、まだデビューしてネームバリューが弱かったのと、こう言っては失礼ですがファンクラブもなかったですしね、それで106位なんだから、もうデビューされて何年ですか?』
『五年目ですわ』
『いまの木桧さんは、女優としても歌手としても一番、脂がのった押しも押されない人気で大いに活躍されていますから、二曲目はベストテン入り間違いないですよ。私達も応援しています』
『ありがとうございます。そう言って頂けて心丈夫ですわ』
『じゃあ、早速、今かけている曲が終わったら木桧さんの曲をかけて見ましょう。直ぐリスナーからの反響があるかも判りませんよ』
『ありがとうございます』
先のリクエスト曲が終わって、蛍の曲が紹介され有線を通して、多くの契約先のスピーカーに流れた。曲が終わろうとしたとき、リクエスト受け付け用の電話が一本・二本と鳴り出した。
『はい、有線リクエスト受付です。はい、いま掛かっている曲ですか、木桧 蛍の新曲で“ファンタジー・ロマン”です。いえ、発売は来月の初め以降です。はい、えーっとシルクサウンド・ラップからの発売です。はい、判りました。お受けいたしました』
『もしもし、有線リクエスト受付です。はい、木桧 蛍の……・』
『もしもし、有線……・』
すごい反響である。初めて有線にかけたにもかかわらず、次の曲を紹介する間もリクエストが入るほどであった。すでに二・三分の間に十本以上のリクエストである。
『でしょう三上社長、良い歌は直ぐに反響ってあるんですよ。ダメだと思う歌は、反響が遅いし、一定のリクエスト数で止まっちゃうんです。久しぶりですよ。初めてかけて、こんなに直ぐリクエストが入ったのは、木桧さんヒット間違いなしですよ』
『何だか、涙が出そうです。こんなに聞いてくださっているんですね。有線って』
『ええ、日本の隅々まで有線の契約先があります。特に飲食関係・ホテル・いろんな店舗や工場までリスナーの年齢は幅広く、それだけにシビアな採点が出ますからね』
『ほんとうですね、でも良かった。それではよろしくお願いします』
『斉藤さん。じゃあよろしく頼みます』
『判りました。オリコンのベストファイブ入りとなれば良いですね』
『いや、そこまでは、でもベストテン入りは果たしたいですね』
『それでは、ここで失礼します。しっかり流しますから』
『よろしく』
有線というメディア媒体は、強烈な結果が出るものだ。これで、反響がなかったら惨めなもので、携わる係の者も力が入らないだろうから、結局はかける回数が減る。減るから聞く機会が少ない、少ないからリクエストも入らないと言う悪循環となる。
やはり、良い作曲家・作詞家・編曲家・バンド・レコーディングという一連のスタッフに、どれだけ恵まれるかが売れる売れないを左右するが、何と言っても歌い手の歌唱力と人気度となるファン力がマッチングしてこそミリオンセラーが生まれる。
この分だと出足の予測は上々であると思えた。力添えを頼んで有線放送㈱から次の富士映画へと向かった。各先々で30分刻みの移動である。
『次は、最後の富士映画だ。疲れただろう』
『ちょっとね、でも、そうも言ってられない。これからがもっときついスケジュールになるでしょう』
『そうだな。十二月に入って、直ぐ新曲の発売と最終の日曜日から新曲キャンペーン、そして二十四・五のクリスマスディナーショー、年明けの二日が新春ミュージック・フェア・それが終わって一週間後から六月まで映画の撮影入りとビッシリのスケジュールだ。ちょっと落ち着くのは八月からだろう。
とは言っても何時、飛び込みの仕事が入るか判らない。だから身体の管理をしっかりとしてくれないとな』
『ええ、注意するわ。でも、三上さんもね。マネージャーが頼りなんだから』
『あいよ。蛍さん』
三上はちょっと、おどけて返事をした。
千葉の船橋にある富士映画は海老川沿いの敷地にあり、撮影所も併設していた。
内部には、色々なセットが本物そっくりに建造してあり、直ぐそばの海老川の土手や河川敷を使っての撮影には便利な場所に位置していた。湾岸線でおよそ一時間余りで、撮影所に着いた。
『失礼します。ウイングプロの三上です宮地監督との打ち合わせです』
勝手を知っている所なので守衛には挨拶でパスである。事務所で声をかけて、監督室に向かった。
『こんにちは監督、木桧 蛍と一緒に台本を受け取りに来ました』
『いらっしゃい。三上ちゃん久しぶり、どう元気してるの』
『ええ、何とか、監督も元気そうですね』
『僕も何とかね、今度の作品は三上ちゃんの所の木桧 蛍ちゃんがヒロインにぴったしだから、言い作品になると期待してますよ。で、その蛍ちゃんは?来てるの』
『ええ、ちょっと映像のスタッフにそこで挨拶してから直ぐ来ますので、ああ、来ました』
『こんにちは、宮地監督さん。この度はご指名を戴いてありがとうございます』
『おお、来たね、良いね良いね。雰囲気がいい、それに、その男をそそるような目が特に良いね蛍ちゃんは。これが台本ね。一月末までにしっかり読み込んでストーリーとヒロインの“涼夏”という役づくりとイメージをマスターしておいてよ』
『判りました。監督が抱かれている涼夏って言う女性をしっかり自分として演技に出来るようにがんばりますので、よろしくお願いします』
『蛍ちゃんなら大丈夫でしよう。僕が選んだんだから』
『宮地監督、木桧 蛍も念願の映画に燃えておりますし、ましてや初出演でいきなり主役に抜擢して戴いて本人もやる気十分です。必ず監督のご期待を裏切らないと思います。私からもどうかよろしく、ご指導してやってください』
『0K、僕も久しぶりのメガホンをとるので意欲が湧いているの。頼むよ蛍ちゃん』
宮地監督・五十七才。恋愛ものを撮らしたらピカ一と言われる巨匠で、リアルな演技指導と独特のカメラアングルから、男女の生き様を表現させる事でファンも多い。しかし芸能界と言うところは、やたら業界用語を使う。人と会ったら朝でなくても挨拶は、おはようございますだ。また、名を呼ぶのに男女関係なく○○ちやんと年齢に関係なく気安くチャン付けで呼ぶ。スタッフ連中もおかま的な言葉遣いが目立つ、髭面の大男が○○○してよとか○○よろしくねとか、それが当たり前なのだから少し気持ちが悪いがそれに慣れなければ、また付き合いきれない業界である。
宮地もその一人で、撮影での演技指導で特に女の描写にうるさいだけに、どうしても女言葉がでるのであろう。
『はい、一生懸命がんばりますので。よろしくお願いします。あっそれと、今度発売する“ファンタジー・ロマン”という歌のプロモーションビデオとCDなんですが、監督にもぜひ、お聞き戴きたくて持って来ました』
『ほーぅ新曲ね、楽しみに聞かせてもらうよ、ところで、このあと時間はあるの?』
『ええ、特に予定は…今日はこれで事務所に帰るだけですが』
『そう、じゃあ折角、千葉まで来たんだから食事でもどう?』
『ええ、ありがとうございます…が監督の方は、お忙しいのに良いんですか?』
『今日は蛍ちゃんを待ってただけ。どう?鰻は?美味しいのを食べさせる店があるから、今日は僕が招待するよ』
『いえ、それはこちらが』
『良いよ気にしないで、じゃあ行こうか』
宮地は機嫌良く言って、車で来ているなら便乗させてと蛍の腕をとって部屋を出た。
『失礼します』
事務所に挨拶をして、三上の運転するポルシェで宮地が案内する。
関東風“鰻蒲焼き”が有名な日本料理の“ふなばし稲荷屋”に向かった。JR船橋駅前の本通りにあるこの店は、慶応元年の創業で船橋一の和食の老舗である。伝統の季節喰切料理と関東風の鰻蒲焼きが有名で、江戸の昔、船橋が成田街道の宿場町だった頃から地の利を得て三番瀬・江戸前の魚と房総の山海の幸を料理にして人気を得ていた。店の構えは純和風造りで、宮地は離れの数寄屋座敷を予約してくれていた。中庭に竹林と池があしらわれ、高価そうな錦鯉が十数匹ゆったりと泳いでいる。
『風流な良い店ですね』
『落ち着きがあって、良い店でしよう』
〈いらっしゃいませ、宮地様、いつもご贔屓に、お連れ様もようこそ…あら、こちらは女優の木桧 蛍さんですよね、まあ、ようこそいらっしゃいました〉
『女将、よく判ったね』
〈そりゃ、有名な木桧さんですもの。光栄ですわ。出来ましたら後ほど、サイン頂けません、まあ、ご注文もお聞きせず、すみません〉
『それじゃ、稲荷屋膳を三人前お願いしょうか。それと飲み物は、ご両人は何がいいかな。僕はビールね』
『私は運転がありますから・・蛍は戴いたら』
『はい、ではビールで結構です』
〈かしこまりました〉
女将は木桧 蛍の来店に少しあこがれ気味に見つめながら下がった。
『監督、それはそうと、蛍の相手役キャストはもう決まりなんですか?』
『うん、一応ね、蛍ちゃんの相手はアカデミープロの国友竜二君だ』
『あぁ、二年前の監督の作品に主演した若手ホープの俳優ですよね』
『そう、今回の“甘い蜜”で蛍さんの相手役に、彼なら蛍ちやんと良い作品に仕上げてくれると思ってね』
『蛍は知らないだろうが。監督の“夕日に染まる街”って言う戦後の混乱期の日本を描写した日本映画祭で、最優秀監督作品になった作品に準主役で出演した若手だが将来を期待されてる男優だよ』
『そうなんですか』
『そうあの時、酒井中将を演じたのが国友竜二って男でね。彼には今回、蛍ちゃんの演じる看護師の“向井涼夏”が勤務する大学病院の救急救命士で白井裕一役として出演して貰う。来年一月のオールキャストが揃う顔見せで紹介するよ』
『はい、よろしくお願いします。でも、そんな素晴らしい男優さんとの共演なんて光栄ですわ』
『なに、蛍ちゃんだって、あのTVドラマで良い演技してたじゃない。だから僕の監督作品に選んだのよ、蛍ちゃんなら大丈夫、自信をもってチャレンジして頂戴』
映画出演の話題ほかに二時間余りが過ぎ、帰り際、女将が差し出した色紙にサインをして店を出たのは午後八時を少し回った時間であった。
『それじゃ僕はタクシーを拾って帰るから、ここで』
『えっ、送らなくてもよろしいですか?』
『いいですよ、じゃあ蛍ちゃん、良く台本をマスターして於いてね』
『はい、失礼します.今日はごちそうさまでした』
夜の湾岸線は幾分混んでいたが、車窓から東京湾に浮かんで見えるアクアラインと中程の海ホタルが鮮やかに光の帯を木更津方面に湾を横断して、その手前には羽田空港から離発着する機影が見える。昼間はビル群ばかりが目に付く都会の姿は、建物の窓からの明かりと夜のネオンに彩られ、光のページェントとなって神秘的な光景である。景色に見とれて会話もないまま、マンションに着いたのは午後の十時前で、菜穂を送り届けて三上はちょっと事務所に寄るからと別れた。


                 《一五》
師走の風が肌身にしみる季節になろうとしている十二月三日、三上はあれからも毎日、事件関連の記事や報道に神経を尖らせていたが、名古屋港でバラバラ死体が上がったとか、それらしき記事はまったく報道されていない。地方版にはと、名古屋の飯田にも連絡をしたが、名古屋版でも出ていないと言う返事だった。もし、発覚したなら当然、全国ニュースとして報道されるはずだ。
このままで完全犯罪となるならば、約束の十五日には飯田へ一億円を支払わなければならない。三上はそのつもりで、すでに資金を個人用貸金庫を契約している銀行に準備していた。
翌日の朝、三上と菜穂は十二月から年明けのスケジュールをミーティングルームで行った。菜穂は十二月二十四・五の二日間“オーシャンホテル東京”でのクリスマスディナーショーを今年も開催する為に、準備をする日々であった。ただ年末年始のスケジュールに、前々年から三年連続出場を予定していた東京TV恒例の”日本音楽グランプリ祭”は残念ながら今年の選考に対象となるヒット曲がなく、また新曲の発売が十二月の初旬と遅かったため選考から漏れるという結果となっていた。
『蛍ちゃん。今年は色々あって残念だったけれど、今度の新曲は来年上期の対象となるから心配ないよ。今年はゆっくりと年末年始を過ごして来年にかけよう』
『はい、そうですね、一月中旬からは映画の撮影にも忙しくなるし、この新曲は来年のグランプリ対象として一年かけてじっくりキャンペーンでがんばります』
『そう、その意気込みだ』
『だったら今年の年末年始は、久しぶりに宮島に帰ろうかな』
『そうしてあげなさい。ゆっくり帰る事がなかったから、お母さんも喜ばれるよ。特に予定も入っていないから』
『そうさせて貰います。ではこれで』
確認を終わって社長室に戻ろうとした三上は、筒井の姿を見かけて声をかけた。
『筒井君!その後、事務の仕事は慣れたか?』
『ええ、何とかやっています』
『まあ、いろんな仕事を覚えていたらマネージャーに戻っても何かと役に立つよ。腐らずにガンバレよ』
『判りました。あっそれはそうと社長。ちょっとお聞きしたい事があるんですが、時間ありますか?』
『ああ、じゃあ僕の部屋で聞こう』
『はい』
総務などがある十一階から九階の社長室へと三上の後に続いた。ソファに腰を下ろし、三上は筒井と向かい合った。
『話とは何だね』
『実は、大変言いにくい事なんですが社長、先月十日の木桧さんの名古屋でのレコーディングの日なんですが…』
『それがどうした』
『あの日、レコーディングが終わった夜、名古屋港から女性と一緒にクルーザーで海に出ましたよね』
『何っ、なんで君が…それを知っている!』
三上の表情は一瞬、険しい様相になった。
『あっ、それはですね。ちょっとした情報があったものですから、後を付けさせて貰いました』
『どういう事だ! 君は僕の行動の何を探ろうとしているんだ』
『いえ、そう言う積もりは…』
『じゃあ、何のために僕の後を付けたりしたんだね』
『それは二度のダブルブッキングは自分の身に覚えがないのに、何故社長から木桧さんのマネージャーを外されなければならないのかと、どうしてもその真実が知りたくて』
『それじゃ、僕がわざと仕組んだとでも言いたいのか』
『いえ、だから真実を知りたくてですね、社長が以前に木桧さんの双子の妹さんと東京で会っていたと言う事を耳にしたもんですから』
やはり、筒井は美穂のことを知っていた。
以前、三上のいない時、マンションに電話をかけて美穂の名前を聞いていた事で、何かを探ろうとしている様子である。
『だからどうなんだ。確かに美穂さんが僕を訪ねて来て会った事はあるが、その時一度っきりだ。以前、宮島で蛍をスカウトした時に僕と会っていたからね、それで北海道へ行く途中に、こちらに挨拶に来ると言うので会っただけだ。それとダブルブッキングがどうだと言うんだね』
『あっ、いや、関係がどうとかじゃなく、あの夜に女性とクルーザーに乗って沖に出られて、帰ってきたとき社長だけが降りて女性はいなかった。その事をお聞きしたいんですがね』
『君に関係ない事だ』
三上は心の中で動揺していた。なぜ筒井が自分を探っているのか?それもどうも名古屋港から美穂を連れ出したことも、帰港したときに自分だけが下船した事も一部始終を見ていた様子だ。いまの今まで絶対、誰にも目撃されていないと思っていたが、一ヶ月過ぎた今頃、それも身内の男に知られていたという事実を目の前で聞かされ、どのようにこの場を逃れるかと焦っていた。
『そうかも知れませんが、女性はどうしたのかを言ってもらえれば納得するんですが、何故そんなことを言うのかって言えば暗がりでしたので、はっきりは判りませんが、その女性はもしかして美穂さんだったのではないかと思いましてね。初めは木桧 蛍さんによく似ているような体形と髪型だったんですが、女性が船から降りなかったので、直ぐに木桧さんに電話を入れたら本人が出たものですから』
『それじゃあ言おう。君に言う必要もないけどね。あの時の女性はクルーザー所有者の僕の友人に、名古屋で色々と世話になっているお礼に紹介したクラブの女性なんだ。船内で食事をしながらビールを飲んでいるうちに寝ちまったんで、後は好きなようにと言って、僕はとにかく降りたんだが、女性はあの時、夜景を見ながらビールを飲んで酔ってしまって、船室のソファに寝ていたから降りなかったし、外から見えなかったんだよ。それで判ったかい』
もっともらしい三上の説明に筒井は、これ以上聞いてもムダだと感じた。
『すみません。プライベートな事を私の勝手な想像から、社長にイヤな思いをさせました』
『いや、君も自分に身に覚えがないと言うことで、僕のやり方に不信感を持ったのだろうけど、お門違いだ』
『そのようですね、ただ僕にも意地がありますからね、僕も以前のAD時代に木桧さんからの要請と社長の恩義でこちらに移籍し、以来ずっーとプロダクションや木桧さん、そしてお世話になっている社長の為にも影日向なく、木桧 蛍の業界での成功を願って懸命にマネージャーとしてやってきました。それが身に覚えのない二重契約と言う事態の不始末の責任を、一方的に取らされた屈辱は納得がいきません。だからどうしても真実を知りたいんです。失礼します』
『待てよ筒井君!』
三上の声を無視して、筒井は席を立った。
それ以上は三上の声もしなかった。筒井が出ていった後、三上は目まぐるしく、あの日のことを思い出していた。完璧な始末をし、殺害後も一ヶ月余りが経過しても新聞紙上やメディアにも一切の報道が出ない事で完全犯罪の成立を思いながら、飯田に報酬を振り込んで全てが終わると思っていた矢先だけに、思いもよらず社内に目撃者がいたなんて、どうしたものか思案した。
社長室を出た筒井は、仕事が終わったその夜、菜穂に連絡を取った。しかし、ディナーショーの打ち合わせの真っ最中で時間が取れないとの事であった。
一方、三上はどうしたものかと思っていた。今日、筒井に対して苦し紛れに言った内容を彼は信じているだろうか?それにしても、あの後は以外とあっさり出て行ったが、最後の言葉が引っかかる。意地があるから徹底的に真実を突きとめると言うような言葉を言っていた。万一、女が降りなかった事を殺したと考えたら、まずい事になる。死体が出ない限り証拠はないが、美穂じゃなかったのかとの詮索もしていただけに、その行方を不信に思いだしたら厄介な事だ。今後の筒井の動向を今度は自分が逆に尾行して何をやらかすのかを突きとめ、状況によっては筒井も始末する必要がある。三上は名古屋の飯田に相談しようと思った。それと同時に菜穂も筒井がマネージャーを外されたことで、自分に、どうしてなのかと詰め寄ったときに美穂と会った事も云っていたのを思い出した、と言う事は菜穂と筒井は互いが連絡をし合っているのか?またまた、何か不吉な予感が襲った。
慎重に注意深く計画を立て、美穂には知られないまま、首尾通りの手際で完全にやり遂げたと思っていたが、思わない所で墓穴を掘るような事態が起ころうとしている。
三上は飯田とこの事についてどうするかを相談するために、早速電話をかけた。
『もしもし、飯田さん。三上だ』
『おお、三上さん、どうかしたのか』
『実は厄介な事になったんだ。それで急いで相談したい。今日の午後八時にはそちらに行くから時間を取ってくれないか』
『どうしたと言うんだね』
『とにかく、行ってから詳しく話をするよ』
『ああ、じゃあ今日の午後八時だな、時間を空けとくよ』
『よろしく』
三上は菜穂には、ちょっと次の話があるから午後は出かけるのでしっかりとショーの打ち合わせをするようにと伝えて、時間を急ぐこともあり新幹線の予約を入れた。
『どうしたんだ、何を急ぐような事があったんだ』
『実はどうも名古屋港での一部始終をうちの社員に見られていたようなんだ』
『何だって!どういう事だ!』
三上は筒井が言った事を、かいつまんで飯田に説明した。
『おいおい、それはまずいな。あんたはそんな男の事は何にも言わなかったじゃないか』
『僕も気にはなっていたんだが、まさか筒井がそんな行動をしていたなんて思ってもいなかった』
『筒井って言うのかい、その男は、でも何んで名古屋港で見張っていたんだ。誰かが、あんたの行動を教えなきゃ判らないはずだ。そうだろう。今回の始末した美穂って女との経緯を全部しゃべれよ。でないと要領が得ないし解決のしようもない。心配するな。俺だってバカじゃない。三上さんを売るような事はないから、そんな事をしたら俺の方もやばいことになるんだから、そうだろう』
飯田が言った言葉に三上は、それまでの行動と関係のある人物に何を言ったかを思い出してみた。当然、関係するのは菜穂と美穂と飯田の三人だけである。
そもそも美穂の肉体に溺れた弱みから美穂の企てた菜穂を殺して自分が木桧 蛍として成り代わりパートナーを組むと言う事であったが、日が経つごとに美穂の身勝手な振る舞いや自己欲望に嫌気がして美穂を始末して、もう一度菜穂とやり直そうと計画を変更した。
当初は美穂の企て通り、菜穂を名古屋港に誘い出し殺害する計画だったのを、菜穂には自分が東京に用事があるのでレコーディングの翌日に迎えに来ると言う事で、レコーテセィング後ホテルに一人で泊まるように言い、美穂には菜穂をいかにも殺害したように言って安心させ、名古屋港から夜景を見るためにクルーザーを手配したからと言って連れ出した。それを美穂に悟られないようにして、予定通り殺害したまでは良かったのだが…、それまでに美穂を木桧 蛍として闇で契約して代役出演させていた事が社内で噂となって、ダブルブッキングが公になった事が結果的には想定外の事態となった。
それにしても筒井は要注意だ。昨日の筒井は絶対に証拠をつかむと言う執念すらあった。このままでは全てが暴露されるとも限らない。三上は飯田を信用して一部始終の経過を話した。
『どうも、その女優の元マネージャーの筒井って男を何とかしなくちゃならないな』
『ああ、このままだと、筒井が全てを知る事にもなりかねない』
『その筒井とやらを名古屋まで連れ出せよ。そして気になるならクルーザーを見て、実際に乗って気の済むまで自分の目で確かめろっ言うんだ。そして、沖に出て同じように仏にしてやろうじゃないか。一人やるのも二人やるのも同じだ。報酬は結構だよ。一連の請負としてやらなければ俺も枕を高くして眠れない』
『判った。まったく計算外だが頼むよ飯田さん』
『よし、じゃあ決行する日と時間が決まったら、一日前に連絡をしてくれ』
『ああ、そうするよ。済まないね、恩にきるよ』
『お互い様だ。以前は俺の抗争で資金を都合して貰った。これでお合いこだ。気にするなよ。これも友情だと思ったらいいさ』
『友情…か』
飯田に話しをしたら何とかなると言う思いで出かけた名古屋は、この度の一部始終の事情を知られる事になったが、筒井を美穂同様、始末すると言う結論で飯田が無報酬で解決する話となった。
十二月五日土曜日・木桧 蛍の新曲“ファンタジー・ロマン”は、東京を中心に全国一斉の発売となった。朝からのテレビCMやラジオスポットは集中的に発売をPRするコメントやテロップがながれ、また番組の中でもプロモーションビデオがスポットとして映されるなど、大々的な発売記念プロジェクトが展開された。
また、取り扱いの各レコード店では特設コーナーを設けて   

 “木桧 蛍”の第2弾!
  新曲発売記念! 
ファンタジI・ロマン
       一セット 三、五00円
   CDを買って、木桧 蛍主演
  映画デビュI作 “甘い蜜”の
観賞券とオリジナルTシャツ・
  サイン入りポスタIをプレゼント!
ブラチナ賞・一組ペアーを
小桧 蛍とのお食事に”ご招待!

というキャッチコピーが、色とりどりに咲き競うチューリップのカラー写真パネルにプリントされ、来店客の目を引くようにコーナーのバックパネルとして発売記念をPRしている。その前に置かれたカウンターには、ファンタジー・ロマンのCDがボリュウムいっぱいに積み上げられ、その両サイドには等身大パネルの小桧 蛍がさわやかな笑顔でCDを手にしたポーズで、コーナーにセットされ、BGMに新曲のファンタジー・ロマンが流れている。すでに都心のレコード店では、プレミアに多くのファンが発売前日から徹夜で並ぶという光景が見られ、ガードマンがトラブルのないようにと配備されている。
午前七時には五百人ものファンが長蛇の列をなして、十時からの発売開始時間を今か今かと待ちわびていた。外の様子をうかがっていた販売スタッフは、ファンの列が他店や歩道を占領してご迷惑がかかると判断し、急遽、予定より二時間も早い午前八時にシャッターを開けた。
『大変長らくお待ちを戴きました。熱烈なファンの皆さんの思いを考えて、予定より早いですがただ今からお待ちかねの、木桧 蛍の新曲“ファンタジー・ロマン”のプレミアCDを発売いたします。但し、本日は販売枚数に限りがございますので、勝手ながらお一人様一枚に限定販売とさせていただきます。なお万一、販売終了となりました場合は、ご容赦下さい。また、第2弾の販売予定は、来週の土曜日となりますので、本日お求め頂けなかった方は整理券をお受け取りになって十日の土曜にお待ちいたしております。
それではただ今から販売いたします。押し合わずガードマンの指示をお守り下さい』
『はい!列を崩さないように!』
整然と列が進む。買い求める客層は圧倒的に男性のファンが多く、それも大学生か若者が圧倒的で、中高年層らしき年代も多分に見かけられる。女性は以外と蛍と同年代らしい二十代後半から三十代のようである。男性が多いのは色香を漂わせる魅力と男性心を虜にする容姿やエキゾチックな瞳が、以前にTVドラマで見せたクラブのホステス役での木桧 
蛍の演技と彼女の持つ魅惑的な雰囲気がファンへと繋がったからであろう。
『木桧 蛍さんは何時キャンペーンに来るんですか?』
『午後二時から三十分間です』
『午後ですかぁ!』
買い求められた満足な顔から蛍、本人を見られないと言う残念そうな顔・待ち疲れた顔などやっとCDを手にしたファンは、それぞれの思いで帰っていく。一人の女優に自分の気持ちを重ね、幸せな思いでこのファンタジー・ロマンを聞く時は、さぞかし最高の幸せな思いなんだろう。ファンとはそう言うもので癒される対象が、それぞれの受け止め方で満足感を味わうのである。それだけにファンを裏切らないように木桧 蛍という女優を演じ続けなければならない使命が菜穂にはある。順調な売れ行きとなった初回の予約と当日売りは、販売を早めて三時間余で完売となる盛況であった。
『出足は順調のようだ、この分だとミリオンも夢じゃないかも知れないよ』
『そうだといいんですれけど、ディナーショーでのお客様の反応がどうでしょうね』
『今回はタイトルが“蛍のファンタジー・ロマンに酔いしれて”というキャッチフレーズだから、選曲にもファンタスティックなものを中心に魅惑のステージ構成で蛍の魅力を大いにアピールしなければね。それとアメリカのゴスペルシンガーのシャーリー・シーザーがスペシャルゲストとして出演して、神秘的な歌声を披露してくれるから、さらに盛り上がるステージが期待できるよ』
『ええ、シャーリー・シーザーさんに出て頂けるのは、私にとってもショーの内容がすばらしい演出となるので楽しみだわ』
『来週からのリハーサルでセッションをしっかりと打ち合わせしよう』
ゴスペルはそもそもキリスト教の「福音」でイエス・キリストが告げ知らせた〈自分の罪を認め、イエス・キリストを自分の罪の救い主と信じ受け入れ、神を信じて生きるならば神は私達の罪を許してくださり、人は神の国(天国)に入ることが出来る〉と言う教え(G00D NEWS)の事を意味している。
また、新約聖書の中にあるイエス・キリストの生涯を綴った四つの書物「マタイによる福音書」「マルコによる福音書」「ルカによる福音書」「ヨハネによる福音書」をGOSPELと言う。すなわち、これが音楽としてアメリカの黒人奴隷達が、その苦しい奴隷生活からの解放をイエス・キリストがやがてもたらす神の国における解放の日を夢見て歌った黒人霊歌が伝統的賛美歌のようなものに対して現代的なキリスト教の宗教音楽全般を指してGOSPELと言うようになった。
幼い頃から教会に通い、主キリストに一生を捧げる聖職者にも負けないくらいに貢献しクリスチャンシンガーとして活躍しているシャーリー・シーザーを、この度の木桧 蛍クリスマスディナーショーに三上がアメリカの友人を通じてプロモートするという企画は、彼女が歌う美しいカーティス・メイフィールドの「ピープル・ゲット・レディ」ほかの曲目に、思わず涙ぐむほどの感激の場面が聴く人達に訪れる事であろうと期待され、今から蛍の新曲披露の歌声と共に、大いに注目されていた。
思いもよらず、今となって筒井殺害を実行せざるを得ないかもという飯田との話で、美穂の殺害報酬である一億円は、まだ振り込まないままであった。三上は、筒井をやるならこの際、忙しくなるまでの年内にと考えていた。
『筒井君、ちょっと』
『何ですか?』
『まだあの事を不信に思っているなら一度、この間のクルーザーに実際乗って、名古屋港から出てみたらどうだい。案内するよ』
『どういう事ですか?』
『いや、僕が言った女性がどうしていたかを、この間の名古屋の友人も呼ぶので確認したら君も納得するだろうから』
『なぜ、そこまで私が言った事を気にされるのですか?社長が言われた通りであれば、それで良いじゃないですか?』
『だけども君が信じていないじゃないか』
『信じるも信じないも自分で調べますから、それだけですか。じゃあ仕事がありますから失礼します』
筒井修太はそれだけ言うと、きびすを返した。三上はむっとしたが、それ以上しつこく言うと逆にどう思うかが気がかりで言葉が出せなかった。どうしたものか?何とか筒井の行動を止める手はないかと思案した。
その後も報道ではそれらしき事件の記事はなく、とにかく筒井の事だけを気にせずに入られない毎日となった。
今年も世間を騒がす多くの事件や事故、災害が季節に拘わらず発生した。海外ではテロによるビルの爆破や地域戦争が頻繁に勃発し、国内でも以前のようなたわいのない犯罪ではなく、その年齢も小学生や中学生の低年齢を対象とした殺人や誘拐などが発生したり、相変わらずの暴力団抗争や企業がらみの脱税、はたまた国会議員による汚職など、日本も犯罪王国になってしまったという感が見られた。その犯罪史の一つになった三上と飯田が殺った美穂の殺害は、今のところ表沙汰にはなっていなかったが、このままだと筒井が殺害を公にするのではないかという不安が三上にあった。このままでは年を越すにも越せない心境の三上は、再度、飯田に相談を持ちかけた。
『どうしたものかと思案しているんだ』
『奴はほんとうに探っているのか?単なる言葉だけじゃないのか』
『いや、名古屋港まで僕を付けてきたぐらいだから本気のようだ』
『鬱陶しい野郎だな、その筒井って男は』
『ああ、でも筒井を四六時中、見張っている時間がなくて、行動が判らないんだ』
『よし、それじゃ俺の方で筒井の行動を探らせて、場合によっちゃ殺っちまうよ』
『そうしてくれると良いんだが…』
『俺の方で送り込むんで、筒井の顔写真と住んでいる場所や何か特徴なんかをメモって送ってくれ』
『わかった。じゃあよろしく頼んだよ』
『任せてくれ、それじゃ』
飯田の方で後は任せることにした三上は、少しばかり安堵した。


                  《十六》
十二月の中旬を過ぎようとしている二十二日、二日後のクリスマスディナーショーを目前に、菜穂はショーのリハーサルが最後の追い込みで連日行われ、疲れて帰った部屋では年明けからの映画撮影のクランクインに向け、これ又、台本のセリフ暗記にと、殆ど寝る暇もないほどの日々であった。
『もしもし、僕だ』
『もしもし、ああ三上さん、何か?』
『いや、お疲れさん。どうだい。順調良く行っているかい』
『何とかね、ちょっときついスケジュールなので大変だわ』
『だろうな。けれど今が木桧 蛍の旬だ!これだけのスケジュールが入るのも、蛍が業界で第一人者として認められているからだよ。今のピークを如何に自分のチャンスとしてモノにするかだ。いずれ時代からハズされる時が必ず来る。その時には自適悠々の生活を出来るようにするには今が大事だ。判るかい?』
『ええ、判るわ。そうよね、いずれこの業界から忘れられる時が来るのよね』
『いや、木桧 蛍は、まだ当分は大丈夫だけどね』
『がんばるわ!大丈夫。元気出たから、もう少しセリフの勉強をするわ。ありがとう』
『ああ、じゃ、がんばれよ』
ここ、二・三日姿を見せなかった三上から 突然の電話が入って激励をくれた事で、菜穂は、疲れた身体に鞭打ってセリフの暗記に深夜まで費やした。
その後の筒井からも、もう半月近く連絡がない。どうしたのかなと三上の声を聴いて、ふっと気になった。
『もしもし、筒井さん。菜穂です』
『蛍さん?どうしたの?こんなに遅く』
『ごめんなさい。ちょっと気になっだもんだから、どうなの、その後』
『どうって、例の三上さんの事かい?』
『ええ』
『それが、どうもね』
『どうもねって、三上さんにも確かめたんでしょう?』
『うん、名古屋港にも、もう一度行って遊覧船で沖の状況も見たし、それとなく三上さんにも聞いたけれどね、もっともらしい説明で
、なかなか証拠となるような事が見えてこないんだ』
『私も一度、探ってみたけれど、三上さんの言うことに何だか不自然なところもあるように思えるんだけど…』
『だろう。まったく信じられるとは言えないけど、と云って嘘だという確信もないんだ』
『もう、止めといたら、美穂も三上さんが云うように今頃、北海道でのんびりとしているかも』
『だったら良いんだけれど、でもどうしても腑に落ちないんだ』
『まだ、探るの?』
『ああ、やるだけやってみるよ。蛍さんの為にも』
『絶対、無理しちゃダメよ』
『判ったよ。じゃあね』
『ええ、お休み』
『おやすみ』
筒井は執念を燃やしているようで、どうしてもはっきりとさせたいようであった。
いよいよ、一年の集大成として開催するディナーショーの本番の日がきた。お台場のオーシャンホテル東京は開演が午後六時からというのに、すでに開場を待つファンが午後四時には三百人近くの人々の列が並び、入場をいまか、今かと待っていた。十二月二十四・二十五日の二日間の観客はチケットの売れ行きから、すでに満席間違いなしの予想となっていた。
『いよいよですね。外は、もう多くのファンで一杯ですよ』
『そうですか。良いステージにしなくちゃ。よろしくお願いしますね』
『ええ、僕たちもやりがいがありますよ。木桧さんのステージは、毎回熱気がありますから』
『ありがとう。それもスタッフの皆さんのおかげですわ』
『いゃあ、それは木桧さんのファンを大事にされる気持ちと、真剣なステージ姿がファンを魅了するからですよ。じゃあ二日間よろしく!』
専属バンドのマスターであるジィミー島谷がさわやかな笑顔で楽屋に挨拶に来た。
あと二時間余りで始まるディナーショーは、そんな開演前のスタッフとの会話や本番直前の最終リハーサルで一気に気持ちを高ぶらせ集中する。毎回の事ながら緊張とワクワクした気分は歌手冥利に付き、多くのファンを目の前に自分のショーを見に来てくれた観客にどう演技し、演出するか真剣勝負の場でもある。たった三時間半ばかりのショーにディナーとはいえ、三万五千円ものチケット代を払ってくれる人々に、一年の締めくくりと、それもクリスマスというファンタジックな夜のひとときを、大いに楽しみ、心から安らいでいただけるように菜穂は全身全霊で、ステージを勤めようと心に誓った。
開演前の楽屋は、ご贔屓筋やファンから届けられた生花や部屋見舞いの品々で埋め尽くされていた。 最後の身だしなみをドレッサーで確認した菜穂は“人”と言う文字を手のひらに書いて飲み込む仕草をした。
『大変お待たせしました。ただ今から開場いたします。お手持ちのチケットは各自でお持ち戴きまして、押し合わずにご入場下さい。尚、お席は全席指定ですので、あわてずに係員がご案内いたしますので、その誘導に従ってご入場願います。それでは、こちらの方からどうぞ』
午後五時、すでに開場を待ちわびる長蛇のファンの列が道路際まで続く正面入り口が開かれた。どちらかというと中年の女性が多い中で、クリスマスと言う事とゲストのゴスペルシンガーのシャーリー・シーザーが出演するとあってアベックやご夫婦連れ、中にはサラリーマンらしい男性など、幅広い年齢層が列をなしている。
『はい、チケットをお見せ下さい。そちらのドアから入られて、テーブルN0をご確認下さい』
続々と観客が入場する。会場は百五十卓がセットされたテーブルに八人席が配され、瞬く間に席が埋まる。初日から満席状態で、今年も盛況のうちに開演時間の十五分前になろうとしていた。
『えっと、こちら様は?』
『今、来ます』
『さようですか。そちらのお子さまは子供様用のイスをお持ちしましょうか』
『いえ、主人が抱きますので』
『さようですか、また、ご入り用でしたら、係りにお申し出下さい』
それぞれの席に着いた観客は会場を見渡したり、献立メニューを見たり、同席同志で語り合ったりして、開演までを過ごしている。
午後六時五分前、会場に開演予告のブザーが鳴り響いて、天井からの豪華絢爛なシャンデリアの灯が徐々にライトダウンした。
 〈本日はようこそ木桧 蛍クリスマスディナーショーへ、ご来場賜りました。
 一年を締めくくり木桧 蛍が今年は“ファンタジーロマンに酔いしれて”と題してのステージをファンの皆様に心を込めて勤めます。どうぞ今宵の一時を心ゆくまでお楽しみください〉
開演のアナウンスが場内に流れ、暗転の客席にステージ両サイドからレインボーカラーのスポットライトの光が、ステージバックから噴射される無数のシャボン玉を浮かび上がらせ、ファンタジックな世界を見事に会場いっぱいにかもし出す中、ゆっくりとドン帳が上がると、正面にセットされた高さ五メートルのセンターステップ上段から、スモークがゆったりと波を打ちながら階段を伝い、ステージ上に広がりながら舞う。会場に割れんばかりの拍手が鳴り響く中、曲が始まり、そのステップ最上段から煌びやかなステージ衣装に身を飾った木桧 蛍が、ゆっくりと足を踏み進め、聞き慣れた第一作の“ムーランルージュの恋”を歌いながら降りてくる。
拍手はその姿を見て一層大きく、会場を揺るがした。
『きゃー蛍!』
『蛍ちゃーん』
会場のあちらこちらから黄色い声援が場内を揺るがす。満面の笑顔を隅々に振る舞いながら、木桧 蛍は華やかな衣装でステージ前面に立ち、観客に手を振った。
『キャー、ステキ!』
『可愛い!』
『こっちにも来てー』
もう、客席は騒然となるほどのオープニングである。ステージを左右に移動しながら声が掛かる方へ笑顔で頭を下げ、オープニング曲が終わった。改めてステージセンターに位置した木桧 蛍は、もう一度深々と客席に頭を下げて手にしたマイクから挨拶の言葉を言う。
『今晩わー』
『こ・ん・ば・ん・わー』
この一言で、また会場は大きな声が一斉にこだました。
『ようこそお越し下さいました。木桧 蛍です』
『キャー』
『本日は、私の新曲“ファンタジー・ロマン”に酔いしれて皆様と共に、木桧 蛍も楽しく、そして心ゆくまでクリスマスイブを過ごしたいと思います。また今回はすばらしいゲストをお迎えして、イブに相応しいクリスマスゴスペルの数々を魅惑の歌声で堪能して頂けるステージもご用意しています。どうぞ最後まで木桧 蛍ディナーショーをお楽しみ下さい。それでは続いて、クリスマスソングメドレーをお届けします。お聞き下さい』
蛍はジングルベルから五曲を熱唱して、第一ステージを終えた。繋ぎのステージでは友情出演の同じプロダクション歌手が歌を披露している。
『どうでした。客席は?』
『ええ、今年もすばらしいお客様でいっぱいだわ』
 〈さあ、それでは再び木桧 蛍さんに登場いただきましよう〉
司会者のアナウンスがステージソデにも伝わり、蛍は待ちの間に衣装を着替え、第二ステージへと向かった。
 〈木桧 蛍さんです!皆さんいかがですか・蛍さんのナース姿は?〉
『すてき!』
『こっち向いてー』
 〈蛍さんは来年の夏に封切られる映画“甘い蜜”のナース役として、銀幕にデビューされます〉
その紹介の言葉に会場から、またもや大きな拍手が鳴り響いた。
〈ある大学病院の看護師・向井涼夏役で確か、お相手は救急救命士役の国友竜二さんですね〉
その言葉に女性客からは、〈ダメー〉、〈出ないでー〉という強烈な声が挙がった。蛍は戸惑ったような顔で司会者の問いかけに返答をした。
『はい、初めての映画出演ですので心配なんですが、共演の俳優さんに助けていただいて精一杯がんばりますので、会場の皆さんもぜひ、見てください』
『蛍さんなら大丈夫よー』
〈会場からも、盛大な応援の言葉が聞こえますよ。ぜひ、ファンに、素晴らしい作品を見せてください〉
『はい、がんばります。皆さんもどうぞ、見てくださいね』
『絶対見るー』
〈さあ、それでは、お待ちかねの新曲で、その“甘い蜜”の挿入歌にもなりましたファンタジー・ロマン”をお聞かせいただきましょう〉
蛍専属のバックバンド“アルモンテ”が甘いメロディのイントロを演奏しだした。
ステージはピンライトだけが蛍を浮かび上がらせ、同時に、バックの真っ白なホリゾント幕がスクリーンとなって、雪が深々と降り注ぐ都会の夜景が映し出され、蛍の透きとおった歌声と舞台の情景が相まって、何ともファンタスティックな雰囲気が舞台と会場全体に漂った。それは今までのフアンの声が飛び交った会場から、息を呑むほどの静寂な時と化した。ステージから客席へのステップを降り、語りかけるように歌う。客席のファンが握手を求める手に優しく答えながら、笑顔を振舞う蛍は、あこがれの歌手を間近に見るファンには最高の一瞬で、涙ぐむファンもあるほどだ。
各テーブルの間を歌いながらまわって

  空に浮かぶ 白い綿のような
雲に 乗っていきたい
     あなたのもとに
   とても一人じゃいられない
  寂しさこらえて待つ わたし
   窓をぬらす雨滴のように
       私の心が濡れている
  来てよお願い 寂しさ募る
   ファンタジー ロマン・恋心  

再びステージに上がった蛍は、情感豊に歌い終わり、大きく手を広げて一礼をした。
観客席からは、割れんばかりの盛大な拍手が途切れる事なく鳴り響き、心からの満足感で、蛍自身も酔いしれた。
︿いかがでしたか。すばらしいファンタジー・ロマンの歌声は、この曲はアメリカのカレン・バートさん作曲のドリームシンフォニーと言う原曲に小谷未来さんが木桧 蛍さんの為に作詞し贈ったもので、木桧 蛍さんは来年度の日本音楽グランプリ祭の出場に向け全国キャンペーンをされます。ぜひ応援をよろしくお願いします。木桧 蛍さんでした﹀
司会の紹介することばに大きな拍手が会場を渦巻いた。
〈それでは木桧 蛍さんには後半まで、ちょっとお休みいただいて、ここで今回のスペシャルゲストのシャーリー・シーザーさんをお迎えしましょう。幼い頃から教会に通い、この世に存在する最高のゴスペルシンガーとしてキリストに生涯を捧げる聖職者にも負けないほど貢献されて居られる彼女の、激しくストレートに繰り出すゴスペルソングのすばらしい歌声を、まずはお聞き下さい。それではお迎えしましようシャーリー・シーザーさんでDon‘t Drive Your Mama Away!﹀
司会の紹介とともに、ステージが暗転し、スポットが当てられた上手から、スラリとした褐色の身を、真っ白なロングドレスで着飾ったシャーリー・シーザーが、黒人独特のボリューム感たっぷりの声で歌いながらステージに姿をみせた。会場は、その迫力と絞り上げるような身体を揺るがす歌声に、拍手も忘れて聞き入っている。
ゴスペルの曲相は8ビートや16ビートのリズムで日本の歌とは多少の違和感がある。  
しかし、独特の開放感と心が癒される魂の叫びのように共鳴する声が、人の心を虜にする。シーンとした客席がシャーリー・シーザーの歌い終わりと同時に、絶賛の拍手と奇声や指笛が、蛍の時と同じように会場を揺るがした。シーザー嬢は客席に投げキッスを浴びせながら、深々と一礼した。
︿シーザーさんに今一度、大きな拍手をお願いいたします!﹀
司会の言葉に、再び盛大な拍手の渦がわいた。その後二十分ばかりの持ち時間を三曲のゴスペルソングで観客を魅了して、ディナーショーもラストステージを迎えた。
再び、真っ白なドレス衣装をまとって登場した木桧 蛍は、クリスマス・イブの最後の曲をホワイト・クリスマスの歌声で締めくくった。その歌声に合わせ、客席ではペンライトの鮮やかな光が会場内に星のごとく輝き、イブの聖夜をステージとファンが一体となって、ファンタジックなムードをかもし出していつまでも漂った。
その後のアンコールの声に、もう一度新曲の“ファンタジー・ロマン”を歌って、ゲストのシャーリー・シーザーと共に、出演者が揃ってのフィナーレとなり、開演して二時間余りのディナーショーは盛況のうちに幕を閉じた。続く翌日の二日目も初日同様の満員盛況で終演し、一年間の締めくくりに相応しい充実した二日間のディナーショーを無事に終えた菜穂はその後、年末年始の出演番組の録画撮りを休む間もなく済ませ、今年の仕事納めとなった。
『今年は大晦日の日本歌謡グランプリ祭も予定がないから、言ってたように宮島に帰りますから』
『ああ、そうしなさい。お疲れさまだったね、来年こそ良い年にしよう』
『ええ、がんばります。じゃあお疲れさまでした』
菜穂は久しぶりの帰郷にも、今ひとつ気持ちが乗らなかった。それも美穂の事で、これからの事態が筒井の調べている結果でどうなるかが、不安という気かがりな思いが気持ちを沈めている要因でもあった。
菜穂は十二月二十九日の夜、宮島に向け出発した。事前に母の敏江に電話を入れた。久しぶりの声に母は、涙ぐんで待っているからと言った。午後八時のフェリーで宮島港に降り立った菜穂に母が出迎えに来てくれていた。港から見える厳島神社は大晦日から元旦にかけての参拝客への準備であろうか、明々と灯が点り、宮司や関係者が忙しそうにしていた。母娘は久しぶりの会話を楽しみながら夜道を家路に向かった。
『今年はゆっくり出来るのかい』
『ええ、新曲の発売が遅かったから、恒例の日本歌謡グランプリ祭もノミネートされなかったの。だから映画のクランクインまで、久しぶりにのんびり出来そうよ』
『何だか良いのか寂しいのか、判らないね』
『そうよね、 芸能人としては年末年始に仕事が入っていないなんてね』
『まあ、菜穂も一年がんばったんだから、それも良いかも』
実家までの夜道を、久しぶりに母と一緒に歩いた。久しく見ていなかったが母の背丈は少し小さくなって老いた感じがした。そんな母を見て菜穂は、宮島の家でひっそりと暮らしている母に、何か親不孝をしているようで辛かった。
『ここにいる間に、お母さんに、うんと親孝行しなくっちゃ』
『なんだい今更、気持ちが悪いね、いつも菜穂にはお金を送ってもらって十分世話になっているし、母さんは助かっているよ』
『それはそれ、お父さんが死んで双子の姉妹なのに、どちらも家を出てお母さんを放ったらかしにして申し訳ないなって思っているのよ』
懐かしい実家に着いて、一息入れたばかりの菜穂に敏江が尋ねた。   
『それはそうと、美穂はどうしているのかね、菜穂には連絡ないの?』
『ええ、まったく連絡はないわ。お母さんの方には?』
『連絡はないんだれけど、そう言えば何時だったか、北海道の佐呂間って所の消印でハガキが来ていたよ』
『えっ!何時よ、それ!』
『確か、十一月の二十日頃だったかね』
その言葉に、菜穂は母に美穂からの手紙を見せてくれと催促した。
『これなんだけどね』
敏江はレター入れから一通の絵はがきを差し出した。それは摩周湖の写真がプリントされた絵はがきだが,便りの字は何故だかコンピュータの文字である。消印は確かに北海道の佐呂間町郵便局となって日付は十一月の二十二日と刻れていた。 この日は菜穂がディナーショーを行う二日前で、確か最終のリハーサルなど忙しい日だったと記憶している。疲れた身体でマンションに帰ってまもなく三上からの電話が久しぶりに掛かってきたり、その電話で、ふっと筒井も久しく連絡がない事が気になって連絡をしたのも、その日だった。美穂からというハガキにはある人の紹介で今、佐呂間町という町に落ち着いている。そこで牧場の手伝いをしながら、相変わらずゲームソフトの企画プログラマーとしてがんばっているので、心配しないで…という内容であった。
『でも、何で手書きじゃなくコンピュータの文字なんだろうね』
『そうよね、美穂が今まで印刷文字で便りを出した事なんて一度もなかったのにね』
何だか気に掛かるハガキであった。まして、住所や連絡先などはなく“佐呂間町にて”とだけ記してある。
『これじゃ連絡しようにも判らないじゃない』
『そうなんだよ』
『美穂らしくないね』
菜穂は、どうも納得いかない思いがした。          
思えば、ちょうど消印日の前後は、三上が事務所にも現場にも顔を出さず所在が不明であった同時期という、その事も気に掛かったし、筒井にかけた電話での言葉もまさか?とは思うのだが…
『一度、北海道へ行ってみるわ』
『忙しいんだから良いわよ。何かあったら連絡してくるだろうから』
『でも、ちょっと気がかりな事もあるし』
『なんだい、気がかりな事って』
『まだ、はっきりしないから判ったら言うわ。それよりせっかくの休暇なんだから、せいぜい親孝行しなくちゃ』
『来てくれただけで親孝行だよ』
二人っきりの年越しは厳島神社への初詣に赴き、菜穂は新曲のヒットを祈願し、母は気にしないと言ったものの美穂の安否が無事であるようにと祈った。
久しぶりの正月らしい日々を過ごして母の作った懐かしいお節料理の味や雑煮を存分に味わって、ゆっくりと身体も心も癒したが母も菜穂もその間、美穂の事は一言も口に出さないまま、四日の午後また戦場の東京へと帰った。
『どうだった、宮島は?お母さんは元気で過ごされていたかい』
『ええ、元気でしたわ。やっぱりふるさとは良いものですね』
『何時になっても、生まれ育った所には愛着があるものだよ。さあ、又今日から木桧 蛍の生活に戻ってがんばってよ』
『はい、直ぐに映画のクランクインだから、ゆっくりも、してられないですわ』
『僕は、明日から三日ほど野暮用で居ないから、蛍はスタジオ入りなんだろう』
『はい、スタッフの顔見せと打ち合わせです』
『じゃあがんばって、何かあったら携帯に連絡してくれ』


               《十七》
三上に飯田からの連絡が入ったのは、年も明けた三日であった。
『どうも、奴の行動が掴めないんだ』
『と言う事は?』
『あれから、俺の部下をそっちに送り込んで筒井って奴の行動を調査させたんだがね、仕事では殆ど外出することもないし、退社後は途中で食事をしたら、真っ直ぐアパートへ直行という毎日らしい』
『じゃあ、怪しげな行動はしていないって訳かい』
『ああ、どうもそうらしいんだ』
『何を企んでいるのかな筒井は』
『もう少し、見張らせるけれど、厄介なことになるようだったら、始末しよう』
『そうだな、このまま済むとは思えないからね』
『じゃあ、もう少し探らせて、また連絡するから』
『悪いな。頼むよ』
その後も、事件が発覚したような記事や報道は聴かない。しかし筒井修太の事が気に掛かる。いっその事、殺ってしまった方が…三上は飯田からの報告を聴いてそう思った。
四日に菜穂が帰ってきた事を確認して、翌日から筒井の行動を三上は自分で探った。筒井は目黒区にある長屋タイプのアパートの、二階の端に住んでいた。六日までの正月休みで、筒井は部屋に居ると思っていたが留守であった。もしかして実家に帰ったのかもと三上は、事務所の社員名簿で住所を調べ、筒井の本籍である、愛知県津島市に愛車のポルシェで向かった。
愛知県津島市は濃尾平野西の海辺に位置し、昭和二十二年の三月、県下九番目の市として誕生した湊町で、毛織物工業発祥の地として栄え、豊臣秀吉が日吉丸と名乗っていた頃、旧堀田家に奉公していたという歴史と文化が大切に受け継がれている町でもある。
三上は東名から東名阪高速道路へ入って、弥富インターから十五分余りの筒井の実家がある、天王通り四丁目へとむかった。閑静な佇住まいの地域の一角に、筒井重信と書かれた表札の家を探し当てたのは、すでに日暮れの午後七時を回った時間だった。呼び鈴を押してもひっそりとした屋内からは返答がない。筒井は帰ってきていないのか?しかし、ここまできたからには、帰っている事とを信じて筒井を待つことにした。車の中で待つこと一時間余りが過ぎた午後八時半、黒色の四輪駆動車が近づいて来た。目を凝らして見ると運転しているのは、紛れもなく筒井修太である。やはり実家に戻っていたのだ。そう思った一瞬、三上はあわてた。赤いポルシェは筒井も知っている。当然、もう彼は目にしているだろう。しかし、今更どうする事も出来ず腹を決めてゆっくりと車から出たその時、停まりかけた四駆が急に走り出した。あわてて、三上は車に戻り四駆の後を追走した。知っているのか筒井の運転する四駆は、まったく停まる気配もなく、国道一五五号線から東名高速へ入り、名古屋へ向かって走り続けた。三上は追走する車内から、筒井の携帯電話に連絡を入れた。しばらくコール音が鳴って、筒井が出た。
『もしもし筒井ですが』
『三上だ。後に付いている事は、知っているんだろう』
『津島まで何しに来たんですか』
『君に話があるんだ。この先のサービスエリアに寄って停まれよ』
『別に話なんかないですよ』
『良いから、言う通りにしろ!』
三上は命令口調で言った。
『判りました。次の名古屋西のサービスエリアに入ります』
『判った』
五キロほど走って筒井の四駆はサービスエリアへ入り、三上が来るのを待った。三分も経たずエリアに着いた真っ赤なポルシェから、ゆっくりと三上が出てきた。
『何故、僕の車を見て急に発進したんだ』
『何故って、別に』
『自分の実家なのに、素通りすることはないだろう』
『三上さんに関係ないでしょう。それよりこんな所まで僕を追いかけて、何か用事ですか?』
『いや、君の行動が知りたくてね』
『何故なんです。三上さんは僕の思い過ごしだと言ったじゃないですか。なのに僕がどう行動しょうと、気にする事はないんじゃないですか?』
『でも君はまだ、僕を不審に思っているんだろう?』
『……』
『だから君の不審に思っている事を、払拭するために来たんだよ』
『三上さんに聴かなくても、私は私なりに真実を突きとめるだけですから、三上さんから聞こうとは思っていませんので、それだけですか。じゃあ私は行きますよ。失礼します』
『おい、ちょっと待てよ。何故逃げるんだ』
『逃げる?人聞きの悪い事を言わないでください。別にやましい事はしていないんですから』
『そう言う積もりじゃないんだが…』
『失礼します』
筒井はそう言うとサッサと四駆に乗り込んで、発進して行った。筒井の忌々しい捨てぜりふに、三上は鬱憤やるかたない思いでポルシェに乗り込んだ。エンジンも掛けずに、どうしたものかと思案したが、今は筒井が何を調べ、何処まで裏付けを持っているのかも判らず、下手に問い詰めたり、脅迫めいた事は出来ない。とにかく、もう少し筒井の行動を見届ける事にして車を発車した。ふと腕時間を見ると、すでに午後十時になろうとしていた。仕方なく近辺のビジネスホテルにでも泊まるかと、インターを降りた。
菜穂は、五日からのスタジオ入りで、いよいよ十五日からクランクインとなる“甘い蜜”の撮影準備に入っていた。すでに宮地監督初め、出演スタッフや関係者が一同に集まっての顔見せも終わり、それぞれのセリフチェックや、相手役とのカット割りシーンの詳細な打ち合わせの連続で毎日であった。
『木桧さん。この黒田という男性が事故で病院に運ばれてきたときに、看護師の涼夏が顔を見て自分の婚約者だと知って泣き叫び、失神する場面があるでしよう。この時、白井救急救命士が抱き留めるシーンなんだけれど、ほんとに失神したように、まったく僕にしなだれかかってくれて良いからね』
『はい』
『さっきのリハでも、意識したような倒れ方じゃあダメだって監督が言っていたように、気兼ねしてはリアルさが出ないから』
『判りました』
ストーリーの一場面で蛍の役である涼夏と婚約をしていた黒田という男が、不慮の事故で病院に運ばれてきて、自分の婚約者とわかった涼夏が、驚きで狂乱し、失神するという場面でのリアクションに対して、救急救命士役の国友竜二に、その演技に対してアドバイスを受けながら本番への最後のリハーサルを何度も繰り返していた。相手役とはいえ、まだ紹介されて一週間余りの日だというのに、今や自他共に輝く男優として、多くのファンを魅了させている国友竜二の男の魅力と整った甘いマスクに、木桧 蛍ではなく、田嶋菜穂として心が疼く毎日であった。
『お疲れさまでした』
『はい、お疲れさま、蛍ちゃん、いよいよ明日から本番だからたのむよ』
『はい、よろしくお願いします』
一週間余のスタッフとの摺り合わせや、監督からのカット毎のシーンに対しての演技指導などの日々が終わり、いよいよ明日クランクインとなった。少し疲れ気味の身体をエステティックで癒し、帰りにコンビニで夜食を買ってマンションに戻ったのは、午後十一時前であった。一息ついて、夜食を食べようとした時、電話が鳴った。今頃、誰からだろう?
『もしもし?』
『もしもし、木桧さん。筒井です』
『筒井さん。どうしたの?こんな時間に』
『遅がけに済まない。実は例の件なんだけれど警察に話をして、調べて貰う事にしょうと思っているんだよ』
『えっ!警察に言うの、何か証拠でも見つかったの?』
『はっきりした事は判らないんだけれど、あれから僕の周辺に、どうも不振な人物や動きがあるんだよ。この間も正月休みに、実家の津島に帰っていたんだけれど、三上社長が来たんだ』
『何ですって!三上さんが?ほんとに』
『そう、実家まで帰ったら家の前に赤いポルシェが止まっていたんで、僕はそのまま行き過ぎようとしたら、追いかけてきて高速のサービスエリアに入れと、そこで、まだ俺を疑っているのかと言われたんだ…』
『何時の事よ』
『四日の夜だった』
『それなら、三上さんが私に、三日ほど野暮用があるって言っていた日だわ』
『じゃあ、僕の事を探るために、日を取ったんだ』
『やっぱり変ね、何故そこまで筒井さんの事を気にするのかしら?』
『絶対、何かを隠している。僕が真相を突きとめると言った事に、これほど執着する事はないからね』
『そうよね、確かにそうとしか思えない。で、筒井さんはあれからどんな事があって、何処まで確信があるの?』
『この前はやくざのような男に付きまとわれたよ。その男が僕の行動を付けている間、あえて何処にも寄らず、真っ直ぐアパートへ帰るようにしたら、四日目には表れなくなったよ』
『それはどう云う事なの?』
『もしかして三上さんが、僕の行動を探らしたのかも知れない』
『まさか、三上さんじゃあないでしょう?』
『判らない、でもアパートの窓から電気を消して覗いたら、朝までその男が車で見張っていたよ』
『気味が悪いわね、で、今はそんな事はないの?』
『だから、その男がいなくなって、今度は三上さんがわざわざ僕の実家まで追いかけてきた…という事は、その男も三上さんの差しがねと思うんだ。このまま、しっぽを掴めず終わるのはどうしても納得いかない。特にあの名古屋港での行動は、とてつもない事件じゃあないのかと思うんだ。だからいっその事、警察に話をして捜査して貰おうと、で、木桧さんも一緒に今までの経緯を話して貰えないかな』
『ちょ、ちょっと待って、筒井さんの言う事は判らないでもないわ。でも私は明日から映画の撮影に入るの、だから時間が取れないわ』
『そうだよね、僕のように時間に余裕はないよね。判った。僕一人で、ひとまず行くよ。で、警察が事件として取り扱うと言う事になったら、そのときは頼むかも知れないから、よろしくね』
『ええ、ゴメンね、でも、はっきりとした証拠がないのだったら、推測だけで思っている事をしゃべってはダメよ。万一、全くの誤解や事実じゃあなかったら、大変な事になるわよ』
『判っている。でも僕は確信しているよ。じゃあ遅くにゴメンね。お休み』
『お休みなさい』
ついに筒井は、警察にしゃべると言った。
ほんとうに、三上社長は何かをしでかしたのだろうか?以前、母が美穂から、北海道佐呂間町の消印ではがきが届いたと言っていた事も、よくよく考えてみると、その消印の日付前後、三上社長の所在が不明であったのと合致する。菜穂は佐呂間町役場に美穂の住民登録がされているかを調べてみようと思った。
いよいよ“甘い蜜”のクランクインとなった一月十五日からは連日、夜を徹しての撮影となり菜穂は何もかも忘れて、没頭する日々に追われていた。
二月に入って筒井は、これまでの一連の経緯と自分の思いを書面にまとめ、代々木署の刑事課を訪れた。しかし、具体的な証拠らしい証拠がないだけに、警察が何処まで信用して動いてくれるかであったが、とにかく、双子姉妹の父親が殺害された件から、その妹の美穂が失踪している事、さらに姉が木桧 蛍という女優で、その所属プロダクションの社長、三上とも美穂が面識のある事、さらに父親が殺害された後に美穂が三上に会った事、そして名古屋での出来事に拘わったと思われるクルーザーの男の事ほか、知らない男に行動を監視されていた事などの経緯を詳細に説明した。
『ほうー、双子のお姉さんは、あの女優の木桧 蛍ですか?何やら臭う話だな。筒井さん
出来れば貴男が書いたそのメモを預からせて貰えませんか。どうもお聞きしただけでも、その美穂さんと言う妹さんの所在を調べる必要があるようだ。で、そのプロダクション社長の三上さんが美穂さんと会った時、美穂さんから北海道に行くと聞いたというんですね』
『そうです』
『なのに、筒井さんは名古屋港からクルーザーに乗ったという女性が、その美穂さんに似ていたと…』
『ええ、でもまったく証拠はないんです、美穂さんは姉の女優・木桧 蛍さんとは瓜二つで容姿や背丈など殆ど変わらない体形なんですが、名古屋港からクルーザーに乗り込んだ女性が暗闇でしたから、はっきりとは言えませんが、僕にはそう思えたんです』
『いや、直感というのは以外と確かなものなんですよ。で、筒井さんは、その女性が帰ってきたクルーザーから降りなかったと?』
『ええ、クルーザーからは三上さんだけが降りたんです。その事を三上さんに直接聞いたら、ビールを飲んで酔っていたから、操縦していた男が船内のソファに寝かせていたと言うんですよ』
『筒井さんは、寝ているところの姿は見ましたか?』
『いいえ、三上さんが降りた後、その男はクルーザーを係留する作業などをしていたまでは見ましたが、私は三上さんが車で出たものですから、あわてて、後を追うためにその場所を離れましたので、あとは判りません』
『うーむ。その船の男は筒井さんの知らない男ですか?』
『ええ、初めて見る男でした。ちょっと小太とりの浅黒い、どちらかと言うと建築関係のような感じの男で、サラリーマンではなかったように思います』
『そうですか、で、その姉妹のお父さんが殺されたって云うのは?』
『はい、その妹の美穂さんが同棲していたという男が、殺したと聞きました』
『何時のこと』
『詳しくは判りません、確か二年前の九月だったと思います。何でしたら姉の菜穂さん、いや木桧 蛍さんから聞いてくだされば、真相が分かります。ただ、いまは映画の撮影中ですので、時間が取れないかも』
『ああ、いや、まだ良いですよ。こちらで筒井さんから聞いた内容を、まず、調査してみます。それによってお聞きする事になるかも、それと、その双子姉妹の出身地をご存知ですか?』
『広島の宮島です』
『じゃあ、お父さん殺しの所轄は広島県警だな。いや、それだけわかれば十分です。筒井さん、これはひょっとしたら大事件かも判りません。どうも臭いますね』
『僕も、単に私立探偵めいた事で今日、こちらに伺ったのではありません。私に対する不可解な出来事も、どうも、それら一連の事が絡んでいるように思えましたので、何とか真相を探ろうとするうちに今、お話ししたような、気がかりな事を観たものですから、この際、徹底的に調べて貰ってスッキリしたいと思い切って、伺いました』
『良く判りました。本署で専任チームを組んで調査する事を約束します。また、お聞きする事が出たら、ご協力下さい』
『はい、いつでもお役に立つなら、ではよろしくお願いします』
『ご苦労様でした』
代々木署を後にして街に出た筒井は、何やら心のもやもやが吹っ切れたような気分であった。どんな結果となるかは判らないが、捜査のプロ組織に頼めば答えは明確に出るだろう。後は警察に全てを任せて、真相究明して貰おうと思った。
『三上さん。どうだった奴の動きは?』
『それが、どうも』
『あんたの思い過ごしじゃあないのか。素人の男が一人で何が出来るんだ。あんた少し臆病になっているから、そう感じるんだろう』
『だったら良いんだが、どうも、まだ何やら探っているようなんだ』
『そんなに気になるなら、いっその事、始末しちまおうか』
『僕もそう思っているんだが、と言っても今もうちのスタッフとして勤務しているだけに、厄介なんだな。これが』
『じゃあ、何か理由を付けてやめさせたら、良いじゃないか』
『それも正当な理由がないんだ。以前、マネージャー職をさせていた時、スケジュール管理のミスからダブルブッキングという失態をした理由だったら通るんだけどね』
『その時やめさせておけば、こんな事にはならなかったのにな』
『それはそうだけどな』
『とにかく何とかしなければ、落ち着いてゆっくり太陽も拝めないからな』
『判っている、もう少し様子をみて見るよ』
『殺るなら、早いほうが良いぞ』
『ああ、その時はまた、頼むよ』
『じゃあ』
三上は木桧 蛍の撮影現場に立ち会う日々の中、あれこれと筒井に対する手立てを思案していたが、すでに筒井が所轄の代々木署に三上に拘わる一連の捜査を依頼しに行った事は、まったく知る由もなかった。


                《十八》
二月の五日に依頼を受けた代々木署捜査一課の須田部長刑事は、精鋭の五人の専任刑事と供に直ちに捜査に入った。須田は、まず双子姉妹の父親が殺害された事件を取り扱った
広島県警宮島署に担当官の柴田部長刑事を訪ねた。
『ご苦労様です』
『いや、この度はよろしく頼みます』
『まあ、どうぞ』
『良いところですね宮島は、東京は雑踏とスモッグで生きている心地がしません。その点
こちらは緑がいっぱいで、厳島神社で象徴される世界文化遺産の歴史ある島でゆったりと時間が過ぎて事件もなく、よろしいですな』
『ところがですね須田さん。この所そうも行かんのですよ。多くの観光客が訪れてくれるのは島の観光にもなって良いんですがね。
若者や、よそ者が何かとごたごたを起すもんで、昔の静かな島は今や夢ですな』
『いやぁ、お互い様で…はっはっはっ』
『ところで、何でも、二年前の田嶋修三さん殺害事件の事で、なにか?』
『いや、その事件直接の事ではないんですがね、どうも、その田嶋さんの双子姉妹に関係する事で、捜査依頼が出ているんですよ』
『どういう事ですか?』
須田部長刑事は筒井からのメモ内容をかいつまんで説明した。
『ほうーどうも臭いますな。でしたら広島本署に拘留中の倉田賢二に直接会って、その美穂さんの事を詳しくお聞きになれば、何か、わかると思いますので早速、連絡しましよう』
『そうですか、それは助かります』
『倉田もまだ公判中で、あくまでも正当防衛だと言い張っちょるんですがね』
『検察はどう云っているんですか?』
『いや、倉田の言い逃れだとして、無期を主張しとります』
『倉田が正当防衛だと主張するほど、何か証拠があるんですか』
『いえ、罪状認否で、罪を軽くして貰いたいための言い逃れだと思いますよ』
『とにかく、その倉田に会わして貰いましょう』
『判りました。私はちょっと扱っとる事件の捜査に出ますので、ご一緒出来ませんが』
『いや、お忙しいのに済みません、後はこちらでやりますから』
宮島署を出て一時間後、須田は広島県警の拘置所に、倉田への面会に訪れた。
『面会の時間は三十分です』
『判りました。倉田賢二だね』
『そうです』
『私は東京代々木署の須田です。今から少しばかり私の質問に答えて貰いたい。出来るだけ詳しく。そして嘘偽りのないように』
『はい』
『田嶋美穂を知っているね』
『はい』
『本人との関係は?』
『同棲していました』
『どれぐらい』
『五ヶ月間ぐらいでした』
『その、同棲するようになった経緯と田嶋修造さん殺しの原因は?』
『私の関係するサラ金から、美穂が借金をしていて期限が来たので、取り立てに行ったんですが、その美穂に一目惚れしたんで、同棲を条件にその借金を立て替えてやりました。その後、家庭の内情を聞き出し、実家が資産家と知ったので、立て替えた二百万を親父さんから取ろうと会いに行ったら逆に、“美穂を唆したのはお前か”と襲いかかられたので殺されると思い、親父さんが振り回していた鉄棒を取って横に振ったら当たり所が悪く、死んでしまいました』
『ほうー、それでお前は正当防衛だと言い張っているんだな』
『少なくとも私はそう思っています。殺すつもりはまったくありませんでしたし、親父さんが鉄棒で殴りかかって来なければ、死ぬ事もなかったと思っています』
『まあ、それは裁判所が判断するだろう』
『ところで、その後の美穂さんの消息やどうしているかは知らないのか』
『知りません。ただ、美穂は殺害には関係ないと、私が取調べで言った事と、美穂が任意の事情徴収後に行方をくらましたと言う事で、以前に、彼女が言っていた姉の菜穂さんが所属するプロダクションに訪ねて行ったのかもと、それも憶測ですが』
『同棲中に北海道に知り合いがいるとか、行くような事は言っていなかったか』
『聞いた事もありません』
『わかった。以上だ。まあ、親父さんの殺害事件は正直に自供して罪の償いするんだな』
『はい』
『看守さん.これで終わりました』
『良いですか。ご苦労様でした。じゃあ行こうか倉田』
以前暴力団員だったと言う事だが、外見からは決して、そうは見えない倉田であった。
一方、他の刑事は二人一組で、担当捜査の聞き込みや裏付けなどに動いていた。名古屋港からに向かった石田・桃井の両刑事は名古屋港周辺での聞き込み及び三上達が乗ったと思われるクルーザーの確認調査に、ヨットハーバー管理事務所に訪れていた。
『ごめん下さい。東京の、代々木署の者ですが』
『警察?何か』
『実はもう二年も前の十一月十日の事なんで
どうかと思いますが、このヨットハーバーに契約係留しているクルーザーが、夜に出航したという記録は残っていませんか?』
『ちょっと待って下さい』
所員は、書庫から係留船舶出航記録簿の年度別綴りを取り出した。
『二年前の十一月十日ですね、十日・十日と、ああ、名古屋の飯田さんと言う方が所有
するスター・メイド号が午後八時から午前一時の間、出航していますね』
『その人の住所や連絡先は判りますか』
『ええ、契約の船舶登録名簿がありますので』
『その部分を、コピーお願いできますか』
『はい、お待ちください』
『それと今、そのクルーザーは係留されていますか』
『ええ、係留されていますよ』
『ご足労ですが、案内して貰えませんか』
『判りました。ちょっとお待ち下さい』
そのクルーザーが捜査に拘わるものか判らないが、とにかく調べて見る事にした。
『お待たせしました。契約者のコピーです。それでは、ご案内します』
『お手数を掛けますね』
『何か事件のことですか?』
『いえ、ちょっと確認ですよ』
『このクルザーです』
『ほう、なかなか豪華なものですね』
『ええ、所有者の飯田さんは港湾土木業の社長ですから』
『ちょっと待って下さい。飯田何という人ですか』
『確か飯田繁蔵とおっしゃる方で南洋興業という会社の社長さんですが』
その名前を聞いた石田刑事は手にした契約者のコピーを改めて見た。
『桃井君、あの飯田じゃないか、土方組傘下の飯田組々長で、表だっては港湾事業の会社をやっている』
『そうですよ?、飯田繁蔵なら間違いなく、そうです。これは何かありますね』
二人の刑事は所員から聞かされた名前に、顔を見合わせ頷いた。案内の所員に断って、両刑事は船内を捜査した。
『いや、ありがとうございました。また、何かでお世話になるかも知れませんので、その節はご協力下さい』
『ええ、何時でもお役に立つ事なら、それでは私はこれで』
『どうもお手間をお掛けしました』
名古屋港から戻った石田・桃井の両刑事と宮島から帰京した須田部長刑事ほか選任チームの刑事たちは早速、情報の確認会議を代々木署内の一室で行った。しかし、美穂が滞在しているらしいと言う、北海道佐呂間町へ飛んでいた伊藤・島田両刑事からは、まだ連絡は入っていない。
『どうだった』
『部長!一発吉報です。例のクルーザーの持ち主は、あの四年前の関西小島組との抗争で
派手にやり合った飯田組の組長飯田繁蔵です』
『何だって!奴の持ち物かい、どうせ悪徳銭で手に入れた、あるいは誰かの借金のかたとして脅迫でもして取り込んだのだろう。よし、これは何かある。もうちょっと裏を取ってからしょっ引こう。それはそうと佐呂間に向かった伊藤と島田からは、まだ連絡ないか』
『ええ、まだです』
『まあ、じっくり調べてからでも遅くはない。犯罪の匂いが、プンプンする事案だ』
さすがは本職のプロ集団である。捜査の的にムダがなく、初動捜査から一ヶ月足らずの三月に入って早くも糸口を見付けた。
一方、未だに名古屋港沖で女性の死体が見つかったという報道はない事で、三上は、このまま死体があがらない限り、あの筒井さえ始末すれば永久に判らないと考えていた。
そんなある日、名古屋の飯田から電話が入った。
『三上さん。飯田だ』
『もしもし飯田さん。何か?』
『実は先日、刑事が俺の所に来たんだよ』
『何、刑事が…』
『ああ、俺のクルーザーの事で聞きたいことがあるってね』
『どう云うことだ』
『それなんだが、あの女を殺った日の十一月十日の夜に、クルーザーを出した事を聞かれたよ』
『えっ!じゃあ、判っちまったのか』
『いや、その事は言わなかったんだが、何時に出て、何時帰港したのか、何の目的で使ったのかと、しつこく聞きゃがってね』
『で、どう答えたんだ』
『何、長く止めていたからエンジンの調子を調べるためと、久しぶりに夜景を見るためにだって言ったら、そうですか判りましたって意外とあっさり帰ったよ』
『でも何故、あの日の事で聞きに来たんだ?』
『それなんだ。どうも、あの名古屋での事を調べているとしか思えない。奴じゃないのか?筒井って男』
『うーむ、その様子じゃ、そうかもしれないな』
『まずいな…だから言っただろう。早いとこ殺っちまったほうが良いって』
『判ったよ。筒井を呼び出そう』
飯田からの内容は、どうも警察が何かをかぎつけた様子であった。三上は急いで、筒井に真相を聞き出そうと携帯に連絡した。
『もしもし、三上だが筒井君だね』
『もしもし、筒井です』
『ちょっと時間を取ってくれないか』
『何ですか?』
『会ってから話するよ。今夜七時にビルの前で待っているから、良いね』
『判りました』
筒井は以外とあっさり返事をした。筒井との待ち合わせ時間が気になって、仕事が手に付かない三上は、午後六時過ぎに事務所の前にある喫茶店で、どうするかと思案しながら時間の経つのを待っていた。
『もしもし、三上だ。今ビル前のシオンって言う喫茶店にいる。知っているだろう。そこに来てくれ』
『わかりました』
二十分ほど経った時、ドアが開いて筒井が姿を現した。
『お待たせしました。でなんですか?』
イスに座るなり、筒井は怪訝そうな面持ちで訪ねた。
『何ですかじゃないだろう。何時まで俺の事を探れば気が済むんだね』
『もう、僕は調べていませんよ。本職の人にお願いしましたから』
『なにぃ、どう言う事だ!』
『だから、警察に頼んだって言う事ですよ』
『おい!いい加減な事を言うんじゃない。どうして警察に言う事があるんだ』
『だって、三上さんがどうしても真相をしゃべってくれないもんですから、私はあのクルーザーに乗った女性は蛍さんの妹の美穂さんだと思っているんですが、違いますか?』
『…………』
『どうなんですか』
『だから、前にも行ったようにクラブのホステスだと…君に関係ない事だ』
『そうでしようか。関係ない事もないんですよ。だから真相を調べて貰うために、警察に頼んだんです』
『君に何の関係があると言うんだね』
『私が蛍さんのマネージャーをしていた時の二度のダブルブッキングも、あなたが仕組んだんでしよう。あのことで僕は身に覚えもなのに一方的にマネージャーをハズされるという屈辱を受け、将来の夢をなくす羽目になった。なのに自分だけが何の関係もなく過ごしている事に、どうしても許せないんです。判りますか私の気持ちを』
『おいおい、自分の不始末を人のせいにして、その挙句の果ては夢を無くしたって、冗談じゃない!いい加減にしろよ』
『あくまでも白を切るのなら、もう話をする必要もないです。もうすぐ刑事がここに来ますので』
『どういう事だ!』
『ここに来る前に電話をかけて、来て貰うように言いましたので』
筒井の言葉に三上の顔色が変わった。暫くして入り口に人影が見えてドワが開いた。筒井は手を挙げて合図した。ジャンパー姿の男がこちらの方にやってきた。筒井に何やら目配せをして、イスに腰を下ろした。
『どうも、ウイングプロダクションの三上社長さんは、この方ですか筒井さん?』
『ええ、そうです』
『初めまして、代々木署の須田と言います。ちょっとばかり、お聞きしたい事がありましてね。ご足労ですが、これから署の方へ同行して頂けませんか』
須田と名乗った男は、あくまでも物静かな口調ではあるが、有無も言わせないような鋭い目つきで三上に声をかけた。
『何の理由ですか?』
『いや、お時間は取らせませんので』
『だから、どういう理由ですか』
『三上さん。この筒井さんから、お聞きになったと思いますがね。それでも私から説明しないとご同行頂けませんか。あくまでも任意ですがね』
『じゃあ、行く必要はないですね』
『それじゃあ、こういう理由ではどうですか?あなた名古屋の飯田興業の飯田繁蔵って男を知ってられますね』
刑事からの問に三上の目が泳いだ。
『ええ』
『実は飯田の事で、ちょっとお聞きしたいと思いましてね』
『そう言う事ですか』
『ええ、何も三上さんご本人の事ではないんですよ、でどうですか』
『判りました。ちょっと事務所の始末をしてきますので、待って貰えますか?』
『判りました。ここでお待ちしています。どれほどで?』
『五分ばかり』
『判りました。どうぞ』
三上は席を立って、向かいのウイングビルの事務所へと向かった。
しかし、何処まで調べ上げているのか?すでに飯田には接触している。表向きは飯田の事とは言っているが筒井の様子から、名古屋港での事ではないか?三上は飯田がどのような尋問を受け、どう説明したのかが気になった。 自室に戻っ三上は、急いで飯田へ電話をかけた。
『もしもし三上です』
『おお、三上さん、どうした』
『実は、今、代々木署の刑事が来ているんだが、あんたの事で聞きたいことがあるから同行してくれと言われてね』
『あんたの所にも来たのか。いゃあの後、何故クルーザーを出したのが判ったのかと調べたんだが、どうも名古屋港の管理事務所で調べたようだ』
『では筒井が、例の見ていたことをしゃべっているんだな』
『そのようだ、で何を聞かれたんだ』
『今から署まで来てくれってさ。なまじっか拒否するとやばいから』
『うーむ、とにかく興行で世話になっていた面識で、と言うことで旨くやってくれ。俺もつじつまを合わせるから』
『判った。また連絡するよ』
三上は机の資料をまとめて、改めて上着をきて事務所を出た。
『お待たせしました』
『ご足労をおかけします。では、行きましょうか。筒井さん、では又』
『失礼します』
筒井は三上には目も合わさず、刑事の須田に一礼した。表には黒塗りの乗用車が止まっていた。
『どうぞ、お乗り下さい』
須田はあくまでも任意同行者である三上に、丁寧な言葉で促した。
代々木署に向かう車窓からは、いつもと変わらぬ街並みの景色が過ぎ行き、十五分ほどで裏門から駐車場へと車が滑り込んだ。
『どうぞ、お時間は取らせませんから、納得のいく説明をして下さい三上さん』
案内された二階の小部屋には、すでに二人の刑事が待っていた。
『どうぞ、お掛け下さい。さっそくですが三上さん。飯田とはどんなご関係ですか?』
『飯田さんは当社が企画する名古屋での興行の際、何かとお世話になっています』
『たとえば?』
『ええ、興行に際しての会場警備やチケット販売の協力。また、地元との調整などに協力をいただいています』
『ほう!飯田は港湾荷受け業のはずだが、警備会社もやっているんですか?』
『それはどうだか』
『石田君、飯田興業の事業項目に警備業務に関する事業登録があるか、定款を調べてくれ』
『判りました』
石田は、須田に言われて部屋を出た。
『ところで、三上さん、二年前の十一月十日の夜、名古屋港から飯田と一緒に、彼のクルーザーに乗ったという目撃情報があるのです、間違いないですか?』
『ええ、その日は名古屋のシルクサウンドラップで木桧 蛍の新曲のレコーディングがありましてね、それが終わって夜に飯田さんが長く係留しているクルーザーのエンジンの調整がてらに、夜景を見るので来ないかと誘われましてね』
『その時、女性が同乗したとの情報が、あるようですが?』
『ああ、その女性は名古屋のクラブに勤める女性です』
『何という名の、クラブで、その女性の名前は?』
『そこまで言う必要はないでしょう』
『差し支えなければ、教えて貰えませんか』
『関係ないでしよう。ちょっと誘っただけですから、その女性にも迷惑になるので』
『ダメですか。せめて店の名前だけでも、聞かせて貰えませんか』
『……』
『まあ、良いでしょう。ただ、筒井さんの話ですと、その女性は確かにクルーザーに乗ったのに帰港したときには姿を見なかったと言われるのですがね』
『筒井君が何処で見ていたのか知りませんが、彼女は船内で酔って、横になっていましたから見えなかったんだと思いますよ。私は飯田さんにあとを頼んで、東京に仕事がありましたので、その足で帰京しましたから』
『ほう!そうですか。ところであなたは所属の女優である木桧 蛍さんの双子の妹さんとも面識がおありですね』
『ええ、知っています』
『その妹の美穂さんでしたか、彼女があなたを訪ねて東京に来たと聞いていますが、間違いないですか?』
『ええ、確かお父さんが亡くなられて間もなくでしたか、突然事務所に電話がかかってき
て、東京に行くので会ってほしいと』
『以前、署の者が会社のほうへ伺って、その妹さんが来ていないかとお聞きしたことがありましたよね…その時は来ていないと言われたので、連絡があったら署まで届けてほしいとお願いしたはずでしたが。で、その連絡して来られた後の事は?』
『あの時は突然でしたので、つい連絡するのを忘れていました。彼女は二・三日東京の友人宅で泊まった後、北海道の佐呂間に居る知り合いの所に行くと言っていました。その後、一度だけ電話が入って、今、佐呂間で知人の牧場を手伝いながら、ゲームソフトの仕事をしていると言っていましたね』
『そうですか、では東京では、その二・三日だけ居たのですね』
『ええ、そのようでした』
刑事の質問に躊躇せず答える三上ではあったが、須田部長刑事の目は鋭く、三上の一言一言の言動に向けられていた。
『いや、どうも色々ありがとうございました。今日の所はこれで結構です。ただ、またお聞きする事があるやも知れませんので、その時はぜひご協力下さい』
『判りました。では私はこれで』
『ご苦労さまでした』
三上が帰った後、須田達は先ほどの調書記録を見ながら、改めて今後の捜査計画を練った。
『部長、三上は平然とした態度でしゃべっていましたね』
『その平然さが何か気になるな』
『私もそう感じましたね』
『サロマに確認に行っている伊藤・島田両刑事からの捜査状況は、まだ入ってないか』
『ええ、もう連絡が来ると思いますが』
そんなやり取りをしていた、矢先であった。『須田部長、伊藤刑事から電話です』
『おお、噂をすればだ…もしもし須田だ』
『もしもし、伊藤です。早速ですが、佐呂間町では田嶋美穂の住民登録はありません。それと町内四ヶ所の牧場を調べたんですが、そこにも美穂らしい女性が、世話になっているという事実もありませんし、どの牧場主からも、広島に知り合いとか友人はいないと言う事です。なお、どの家族にも美穂と同年輩の子供や身内も居ないとのことです』
『そうか、それだけでは証拠は不十分なので、ご苦労だが近隣の町にも足を伸ばして徹底的に調べてくれ』
『わかりました。続けて調べます』
『うむ、頼んだぞ。どうやら殆ど間違いないな。三上の作り話は』
『そうですね、でもあのクルーザーに乗った女性が誰で、どうなったかを確認しなければ
三上をもう一度呼べません』
『そうだな、まあじっくり調べて首っ玉を押さえよう』
『じゃあ、私は木桧 蛍を当たります』
桃井刑事は上着を手にして出た。

       
《十九》
筒井修太の訴えから捜査を始めた代々木署の担当刑事に見え始めた状況は、以外と込み入って複雑な事案の様相が、感じ取られた。
『しかし、その女性を名古屋港沖で殺したのなら、死体が挙がらないのはどういう訳だ』
『そうですよね。その時、殺害したのが事実なら二年前ですからね』
『普通なら、遅くとも二・三ヶ月もすれば、挙がるはずだ』
死体が出なければ決定的な証拠とはならない。他の刑事達も、さらに証拠固めに署を出た。
三上は、自分への疑惑が筒井からの訴えで迫っている事を感じた。しかし、死体がすでに二年もの歳月、見つかっていないと言う事に、徹底してしらを切る積もりであった。その為にも飯田との口裏合わせと菜穂へのアリバイ工作のために動いた。
『もしもし、三上です。蛍ちゃん順調よく撮影は進んでいるの?』
『はい、もう第三クールに入って、あと二ケ月でクランクアップです』
『そう、ところで今日の夜、時間取れるかな』
『ええ、何ですか?』
『いや、久しぶりに食事でもと思ってさ』
『いいですよ、午後八時過ぎなら』
『じゃあ、八時半に事務所で待っているよ』
『はい、判りました』
一月十五日にクランクインをした第2作目の“甘い蜜”の撮影は、残す五・六月の二ヶ月余となっていた。この三ヶ月間はマンションと撮影現場への往復で、ゆっくりとした日はなく、多少疲れ気味ではあったが、菜穂は久しぶりに三上と逢う事を楽しみに思った。
『遅くなりました』
『いや、疲れているのに悪いね』
『いえ、久しぶりだから、うれしいわ』
『それなら良いんだけれど。じゃあ行こうか』
『今日は何処へ連れてってくれるんですか』
『そうだな。何が食べたい?』
『そうね、中華料理が食べたいわ』
『それなら、海鮮酒家の海皇に行こうか』
神戸が本店でチェーン店も持つ、海鮮酒家・海皇(ハイファン)は、九州・四国や瀬戸内海から直送した海鮮素材を、従来の中国料理では考えられなかった独自の調理・調味方法で、一品一品異なった味わいで仕上げる海鮮料理店である。
『うわー楽しみ!』
菜穂は子供のようにはしゃいだ。
店内は、繊細で豪華な彫刻の中国装飾で彩られ、正面には石鯛や車エビ・かに・アワビなどの海の幸が、横幅が五メートルもあろうかと思う生簀で優雅に泳いでいて、お客は圧倒される。さらに客席は、豪華な螺鈿飾りの円卓に、中国独特の技を凝らした細工仕上げの、重厚な黒檀の椅子が並び、あたかも中国の本場に来たかのような錯覚さえ覚える。
極めつけは、サイド深くまでスリットが入ったチャイナドレスに身を纏ったウェイトレスが、さらに本場の雰囲気を盛り上げ、笑顔で席に案内してくれる。
『ようこそ三上様、海皇へ』
案内された席の円卓には、“熱烈歓迎三上様”と墨字で書かれたカードが立てられて、客の心をくすぐる演出がしてある。
『早速ですが三上様、本日のお献立はいかが致しましょうか?』
卓上のオーダーメニューを開げて聞くウェイトレスに、三上はお一人様一万三千円コースを指して注文した。
『お飲物は?』
『取りあえずビール、それと紹興酒をカンして頼みます』
『承知致しました』
ちょっと気になるチャイナドレスのウェイトレスは、そのスリットを気にすることもなく会釈して下がった。店内には中国楽器の鼓弓が奏でる、優雅で独特の曲がBGMで流れている。
『いい雰囲気の店ですね』
『だろう。料理もほかの中華料理にはない独自の内容だから』
『へえー、そうですか、楽しみだわ』
一万三千円のコースは鳳城魚滑(鯛の刺身)・海皇魚翅(蟹ミソと鱶鰭スープ)・海皇醉蝦(車エビのおどり)・龍蝦肉滑(伊勢エビのおどり)・白灼鮮蝦(車エビのボイル)・蒸し蟹・時菜雙鮮(アワビとホタテの炒め)・清蒸海鮮(蒸し魚)・香荷葉飯(蓮ご飯)・凍甜品(デザート)の以上十品である。その鮮やかな色合いとボリューム・美味しさは、食べたものでなければ判らない。
『三上様、本日の素材はこちらを調理させていただきます』
料理人らしき人物が、桶に入った魚介類をテーブル席まで見せに来て説明した。
活きの良い鯛やアワビ・車エビが、桶の中で跳ねている。
『まぁ、まだ生きているわ』
『よろしく頼みます』
海皇では、その日の献立に使う素材をお客に見せて、納得して戴いたうえで調理するという、心憎い演出が評判でもあった。暫くして、飲み物と前菜が運ばれてきた。
『蛍ちゃん。お疲れさま』
『はい、お疲れさまです』
先ずビールで型どおりの乾杯をして、前菜を食した。
『ほんとに美味しいわ!』
『ほかにはない味だろう、ここのは』
『ほんと、野菜もそのものの色が綺麗だし、シャキシャキしていますわ』
『紹興酒はどう?』
『ちょっと飲んでみようかな』
『ザラメを入れて飲むのは日本人だけらしいんだけれど、ちょっと甘くて美味しいよ』
『ええ、お酒と言うより食前酒のような感じ』
『ところで、話は違うんだけれど、ちょっと頼みがあるんだ』
『えっ!何ですか?』
『実はこんな所で言うのも何なんだけれど、二年前の名古屋で、蛍の新曲のレコーディングをした日の事なんだけどね』
『なに又、えらく前の事ね』
『あの日の夜、蛍と一緒に居たことにしてくれないか』
『どう云うことですか?』
『ちょっと厄介な事になりかけているんだけど、蛍も知っている名古屋の飯田って人、ほら、名古屋公演ではいつもチケットの販売や会場の警備を頼んでいる、飯田興業の飯田さん』
『ああ、あの』
『彼があの日ね、ちょっとした事件を起こしたらしいんだ。それで僕の所に刑事が来て、あの日の居所を聞かれたんで、スタッフと食事をして、その日は木桧 蛍と名古屋のマリオットアソシアホテルに泊まって、朝まで一緒だったと言ったんだよ。だから、もし、刑事が君の所に聞いてきたら、そう言ってくれないか』
『あの日は三上さん、たしか東京に戻るって言ってらしたけど、そうじゃなかったんですか?』
『いや帰ったよ。蛍を迎えに行った日、電話を入れたとき東名を走ってるって言っただろう』
『ええ、確かに、だったらそのように言えば良いんじゃないですか』
『ところが、東京に帰ったのが遅かったもんだから、事務所もマンションにも僕一人だったので、証人がいないんだ』
『でもほんとうだったら、気にする事ないんじゃないですか。私が証言しますわ』
『そうなんだけれど、翌日、君と一緒だった事だし、前日から一緒に居たことにして貰うと、煩わしくないんだがな』
『ええ、それは良いですけどね』
『頼むよ。変な事に巻き込まれたくないからね』
『判りました』
『頼んだよ』
どうも、変な感じである。わざわざ食事に誘って久しぶりにと言ったはずなのに、自分のアリバイを証言してほしいと言う事だけで、ほかは特に誘った意味が見あたらないまま、小一時間の食事を済ませると“マンションに送るよ”と店を出た。
以前に筒井から聞かされていた、三上への一連の疑惑はこの事かも知れない。その上、依然、美穂の居場所、いゃ生死すら判らないままである。やはり、二年前のレコーディングの日に、筒井が三上の後をつけて見た事と、今、三上が証言を頼んだ事は、何か関係があるのか?菜穂は改めて筒井が探っていた事と美穂の行方が判らない事に、繋がるのではないかと思った。
六月の梅雨を迎えたある日、比較的巡航する船舶が少ない時期に、名古屋港沖の海上でサルベージ船による定期的な海底検索が行われていた。三年に一度、港湾当局が航行海域の安全を保つために海底の沈殿物を回収し、水深を維持するために実施される作業である
。作業が開始して三日目に引き上げた中に、ブルーのシートに四・五十キロほどの重りが包まれ、ロープで巻かれた物体が見つかったと、海上保安庁の現地作業本部に入った。  
早速、職員が現地に赴き、現物の確認を行った結果、何やら骨らしき破片がシートの中から見つかったと言う事で、愛知県警察本部への確認要請がなされた。連絡を受けた愛知県警は、鑑識を初め殺人担当の精鋭を名古屋港に派遣すると共に、以前から名古屋港での事案を捜査中の代々木署を初めとする、全国広域未解決事件の照会が各地域警察署に発せられた。連絡が入った代々木署捜査一課の須田部長刑事と担当刑事たちは、筒井修太からの情報による名古屋港での事案捜査に動いていたことで、瞬間、色めきだった。 
その後も代々木署の地道な捜査によって、田嶋美穂が佐呂間町に来た事実はなく、依然行方不明であること、再度の捜査で、飯田の所有するクルーザーのスターメイド号船内から女性らしき髪の毛を採取したこと、また筒井からの聞き取りで、三上の行動の裏付けがコンビニの防犯カメラに残っていたこと、また、当日の夜、名古屋のマリオットアソシアホテルに木桧 蛍の本名である田嶋菜穂のみの宿泊記録しかなかったことで、確認のため
ホテルロビーに設置された防犯カメラの十一月十日・十一日の記録保存テープの任意提出を要請し、確認の結果、動かぬ偽装アリバイの実態となる内容が残っていた事など、次々と証拠を固めつつあった。
『よし、とにかく名古屋へ飛ぶぞ』
『判りました』
もう、事件性は間違いないと、誰もが確信した。須田を初め、専任担当刑事の五名は急いで署を後にした。
『お忙しい所を済みませんね。少しだけ時間を取れますか』
『ええなんでしょう』
三上に口裏を合わせてほしいと言われた一週間後、撮影現場に代々木署の桃井刑事が菜穂を訪ねてきた。
『実は、二年前の、あなたが新曲のレコーディングをされた、名古屋での日の事なんですが』
『あぁはい、えっと確か、十一月の十日でしたかしら』
『そう、その日、あなたは名古屋に泊まられましたね、何というホテルでしたか』
『はい、マリオット・アソシアホテルでした』
『そのホテルには、あなた一人で泊まられたのですか?』
『いえ、三上社長も一緒でした』
『失礼ですが、同部屋でしたか』
『いえ、別々ですが、となりの部屋でした』
『三上さんはその夜は部屋から一歩も出られなかったですか』
『ええ、三上社長の部屋でルームサービスを取って次のスケジュールの事やらを確か、午後の十一時頃まで話していましたし、その後は私も部屋に戻りましたので、そんな夜遅く外出したとは考えられませんが』
『あなたが寝入ってからも、三上さんがいたとはっきり言えるのですか』
『実は…朝まで三上さんと同じ部屋で過ごしていました』
『あぁ、そう言う事ですか』
『えぇ』
菜穂は刑事に、一夜を共にしていたと思われる証言をした。
『そこまで云われるのでしたら、信用しましょう』
刑事は以外とあっさり引き下がった。菜穂は何故そこまで三上をかばうのか、自分自身でも判らなかった。現在、女優として第一線で活躍し、業界で押しも押されぬ立場で活躍できるのも、三上にスカウトされた事が発端である。しかし、その三上に今、疑惑がかかっている。菜穂自身も筒井からの話で何かがあると思っていたにもかかわらず三上から言い含められたアリバイ工作を、さらに明確な証言で刑事に話した。
しかし、それで疑惑が晴れるとは思ってはいなかった。なぜなら余りにもあっさりと帰っていった刑事が、自信に満ちた素振りであったからだ。
さらに、名古屋港の海底から回収された、ロープが巻かれた鉄の重りを包んだブルーのシートに付着していた物は、その後の詳しい鑑識の結果、人骨の破片であると確認された事で、いったん代々木署に戻った須田以下の担当刑事は、緊急の会議を開いた。
『木桧 蛍は三上の女だな』
『どう云う事ですか?』
『彼女は三上に口裏を合わせるように言い含められているようだ。フロントで宿泊名簿の確認をしたら、その日に三上という名では宿泊者はいない。それとロビーに設置している防犯カメラの記録保存テープを確認したら、午後の八時過ぎに木桧 蛍らしき女性がフロントで一人、宿泊手続きをしている姿が映っていた』
『と言う事はですね。彼女一人で泊まったと…』
『そう、しかし木桧 蛍の証言では三上も部屋を取って、その三上の部屋に自分も朝までいた言うんだ。念のため、翌十一日の防犯カメラに記録されているテープを見たんだが、午前八時十三分から一分二十秒の表示画面の間に、玄関からロビーに入ってきた三上の姿を確認した。と言う事は、三上は十日にはホテルに居なかったと言うことだ』
『そこまで証拠があれば、筒井修太が言っていた何かがあることは間違いありませんね』
『ちょっと整理をしよう。先ず、筒井さんからの捜査依頼は女優・木桧 蛍の双子の妹で田嶋美穂という人物の失踪した事を捜索して貰いたいと言う内容だが、その経緯はメモに記されているように、双子姉妹の父親が妹の美穂と同棲していた男に宮島の漁港で殺害された事にも関連していると思われる。これはすでに宮島署に逮捕されて、現在公判中の倉田賢二が犯人だが、その倉田と同棲していた美穂が保護されて事情を聞かれた後に失踪している。ところが、その美穂が三上を訪ねて上京していたという事実もわかっている。三上が言うには、自分と会ったあと美穂は、東京の友人宅に二・三日泊まって、その後、北海道の佐呂間町の友人宅へ行くといっていたと言う事だが…調べた結果、優子が北海道へ行った事実はなく、しかも知り合いもいないということが判明した。
その後に木桧 蛍自身が身に覚えのない番組に出演していたり、契約もしていないイベントとのダブルブッキングとなる事態が起こったりした事で、三上から管理不行き届きと一方的に筒井さんは小桧 蛍のマネージャーをハズされたことで、何か腑に落ちず自分で調べていくうちに妹の美穂が三上を訪ねてきた事実や、その行動に木桧 蛍に瓜二つの妹と三上がダブルブッキングに関係しているのではと言う疑惑を感じて、三上の動きを追いかけていた。そして木桧 蛍が新曲のレコーディングで名古屋に行くという事を耳にして三上の行動を追った。そこで名古屋港での不可解な状況を目にしたわけだ。例の飯田組の飯田が所有するクルーザーで三上が女性と一緒に乗り込んだのを目撃したが、帰港した際には女性の姿が見えなかった。その女性は木桧 蛍によく似ていたので、まさかと思った筒井さんは、直ぐに名古屋に泊まっている木桧 蛍の携帯に連絡をしたら、彼女はホテルに居たことが確認された。さらに裏を取るべく調べを進める内に、昨日、名古屋港沖の海底検索で見つかった鉄の重りが包まれた、ブルーのシートに付着していたものが人骨片だと言う事や、捜査でわかったことだが、飯田のクルーザー船内から採取した髪の毛が鑑識の結果、美穂と同じ血液のA型と一致したと言う事は、その女性が美穂だと言う公算が大きい。以上の状況から、飯田と三上は必ず接触するはずだ。伊藤と石田両刑事は直ちに動いてくれ。それと桃井刑事は筒井さんと木桧 蛍さんにも参考人として、再度事情徴収をするので連絡をして貰いたい。さあ、いよいよ大詰めだ』
須田部長刑事からの経緯説明に各担当刑事は、もうすぐ真相が明らかになると感じた。
筒井修太の要請から、何かがあると睨んで捜査を始めていく内に、露わになりつつある事案の全容だが、まだ関係する人物の特定など根本的な事実関係は、はっきりしていないが殺人が絡んでいることは、ほぼ間違いないことだけは確かである。
『部長、では私は飯田の尾行に行きます』
『うむ、石田君は三上の方を頼む』
『判りました』
その後、名古屋港ではサルベージ船が海底をさらえていた海域を中心に十名の潜水夫が潜り、徹底的な沈殿物の回収と死体の捜索が行われたが、二年前と言うことや海底のヘドロで思うような結果が出ない状況であった。
『物的証拠がほしいな。名古屋港の捜索はどうも難航しているようだ。二年も経過しているし、海流の流れで相当な範囲に死体が分散していることも考えられる。まして白骨化しているから、よっぽど特徴のある仏さんでなければ特定する事は難しいな』
『そうですよね。でも取り調べで本犯と確信できたら家宅捜索で、その女性との関係も判るでしょうし、あと一息ですよ』
『それにしても筒井修太の執念は大したものだ。結局は彼が自分の事からとは言え、徹底した三上への追跡行動から、この事案が発覚しょうとしているのだから』
『それにしても三上も甘いですよね。筒井さんが行動を監視していたのを判らなかったのですかね』
『いや、筒井修太からの話では何度となく呼び出されたり、時には逆に尾行されていたと言うことで、このままでは自分が危ないと身の危険を感じた為に相談にきたんだか、結局はそれが良かったんだな』
『それにしても木桧 蛍の双子の妹・美穂の所在が判りませんね。佐呂間町にも行ってないとしたら、やはり名古屋港からクルーザーに乗ったのが美穂でしょうか?』
『その線が濃厚だな。とにかく飯田と三上を尾行して彼らの行動を徹底マークする事だ。必ず三上は飯田と接触するはずだ。その動きを待って、再度、しょっ引こう』
『わかりました。私はもう一度、木桧 蛍から双子の妹の美穂に関しての情報を集めます』
『そうしてくれ。二年前の当日の夜、木桧 蛍が言うには、三上と名古屋のホテルに同
宿して朝まで一緒だったと言うのだが、口裏を合わせている事は間違いない』
ほぼ、この事案に関する一連の関係者と思われる人物は特定できたものの、決定的な証拠がまだ裏付けられていない事で、代々木署の担当刑事達は追い込みへの捜査に動いた。

 
               《二十》
任意同行で事情を聞かれた三上は、一旦マンションに戻って、再度、名古屋の飯田と連絡を取った。
『もしもし、飯田さん。僕だ三上だ』
『おお、三上さんかい。どうだった』
『今、事情徴収が済んで代々木署から帰ってきたところだ。さっきは、筒井に会って問いつめようと思ったら、奴が刑事に僕と会う事を連絡していたようだ』
『それじゃ筒井の野郎が、警察にチクりゃがったのかい』
『そのようだ。筒井は名古屋での見た事を警察に調べてくれと頼んだらしい』
『それで察が動き出したんだな。三上さん、で何を聞かれたんだ』
『あんたとの関係や、僕のあの日の事も聞かれた』
『やばいな。くそっー!とにかく死体さえ上がらなかったら証拠はわからないんだが』
『ところが、どうも警察は何かをつかんでいるようだ』
『なんだって!じゃあ死体を見付けたという事なのか』
『いや、まだわからない』
『とにかく、察の動きを注意してくれ』
『ああ、また連絡するよ』
『あまり目立つ動きはよした方がいい』
『そうだな。でもあの筒井を始末すべきだった』
『今更もう遅い。それより、この場に及んでは死体さえ出なかったら俺達は口裏を合わせれば判らない』
『一応、木桧 蛍にも万一、警察が聞きに来たら、あの日は僕と朝まで一緒だったというように言ってくれと言ってある』
『木桧 蛍にも警察が行ったのか』
『いや、双子の妹の事で筒井がしゃべっているだろうから、いずれ行くだろうと思って』
『とんだ奴に見られちまったようだナ』
『ああ、くそったれって所だ』
『一度、会って策を考えよう』
『判った。じゃあな』       
その後、警察からは三上に、何も云ってこない。三上はどれだけの証拠を警察が掴んでいるのかが、気になっていた。
初夏の七月を迎えた東京は近年になく冷夏で、各地の海水浴場は海水浴客を当てにして設備を整えていたが、一向に気温が上がらず、やきもきしていた。
菜穂は無事六ヶ月の撮影を終え、久しぶりに休暇をとってのんびりと過ごしていた。三上に口裏を合わせてくれと頼まれて、まもなく経った六月の中旬に、刑事が事情を聞きに 来た。しかし三上は、その後その事は口に出さず、何やら動き回っているようであった。
その上、筒井は六月の下旬、突然プロダクションをやめると退職を申し出て、以後、行方が知れないままであった。
七月の中旬になっても、相変わらず二十度半ばと言う夏らしからぬ気温が続いていたある日の朝刊各紙に一際大きな活字が躍った。
 名古屋港沖で人骨が見つかる!
いつも通りの朝を迎えて、ドワに挟まっている新聞を取りに行った三上は、その文字に一瞬、身体が硬直した。あわてて詳しい記事を読みあさった。
 “海上保安庁名古屋事務所では六月から名古屋港の航行海域でサルベージ船による三年に一度の海底検索と水深維持のための底洗い作業が行われていた海域で、引き上げた回収物
の中に骨片と思われる物を見つけた。所轄警察で詳しい鑑識調査の結果、数年以上経過した人骨の一部であると確認した。“と言う内容であった。
三上はさらに記事の続きに目をやった。
  
“名古屋港沖から見つかった人骨片については更に詳しい分析をす
  ると共に、専門潜水夫による、詳しい海底検策の結果、周辺海域三
  キロの海底からブルーのシートの中に重りが包まれ、ロープが巻き
  付いたものを数個発見し回収した。当局は、現在詳しい鑑定と分析
  を行っているが、人骨片の性別・推定年齢などは未定で、今後の分
析結果によっては、殺人事件の可能性も示唆している!“

三上は、その記事を何度も読み直した。
記事には六月から海底検索をしていたと書かれているという事は、警察が自分に事情を聞きに来た時期や、飯田からクルーザーの事で警察が来たと言っていた時期に合致する。すなわち、その時点で、すでにある程度の裏が警察には取れていたのかもしれない。とは言っても、人骨片、それも切り刻んだ細かい破片から何処の誰かは判らないのでは…とまだ一抹の気持ちがあった。記事を目にして、目まぐるしく回想していた矢先に、部屋の電話が鳴った。
『もしもし、飯田だ!』
『おお、飯田さん。見たか』
『今見た。まさか、サルベージで底洗いをやっていたとはな』
『どうする。警察は本格的に動いているようだ』
『だろうけど、どれだけ人骨片を回収したのか、まして二年も前の事だから特定は無理だろう』
『そんな悠長な事を言っている場合じゃないぜ』
『とにかく、そっちへ行くよ』
『ああ、じゃあその時』
三上は急いで身支度をして名古屋に向かった。マンションを出る時、タイヤが軋む程のスピードを出していたので、ビルの角に白い乗用車が止まっていた事に三上は気づかなかった。その乗用車は三上の赤いボルシェが通り過ぎたと同時に、その後を、一定間隔で追従した。その車は代々木署の伊藤・島田両刑事が私服姿で乗った覆面パトだったが、疾走するポルシェはまったく気づいた様子もなく
、名古屋に向けて高速道路へ向かっていた。
その頃、代々木署の一室では桃井刑事に任意同行を求められた木桧 蛍が、須田部長刑事と向かい合っていた。
『木桧 蛍さん。もう、正直に言ってくれませんか。二年前の十一月十日の夜は、あなた一人でホテルに泊まったんでしよう。このまま偽装証言を通すのでしたら、あなたは犯人隠匿容疑になりますよ。どうなんですか?』
『……』
『もう、証拠は出ているんですよ。あの翌日の午前八時半、ホテルの監視カメラには、三上がホテルに入ってくる姿が残っているんです。そう言ってもまだ、一緒だったと言われますか』
『済みません。実は三上さんから一緒だったと言ってくれと、頼まれましたので』
『やっぱりね。じゃあレコーディングの後、三上さんは筒井さんが言っているように名古屋にいたのですね』
『それは、筒井さんが三上さんの後を付けて名古屋港での一部始終を見たと私に夜中、電話を掛けてきたのでそうなのかと』
『と言う事は、あなたは三上が名古屋にいたという事は筒井さんからの話で、そう思っていると言う事ですか』
『はい、私にはレコーディングの後、東京の事務所に帰ったと云っていましたし、私もそう思ってましたから』
『で、その名古屋港から同船した女性なんですが、妹の美穂さんでは、と言う事はどう思われますか』
『ええ、私も多少の疑惑を感じています。美穂は父を殺した犯人と同棲していたようですが、その後、三上さんを訪ねて上京して、どう言う事からか、私と双子という事を利用して、私に成りすましてダミーで仕事をしていたようです。それは三上さんがそうさせたのか、美穂が頼んだのかは判りませんが』
『ほう!それは初耳ですね。と言う事は、三上さんを訪ねてきてから、東京であなたに成りすまして居たと言う事ですか』
『ええ、少なくとも二・三ヶ月は居たと思います』
『と言う事は、北海道にも行っていない?』
『はい、美穂は北海道に友人などいませんし、行くなど考えられません』
『どおりで佐呂間町には居ないはずだ。それでは、現在でも東京におられるのですか』
『いえ、それが変なんです。二年前の筒井さんが私のマネージャーをしていた時、ダブルブッキング、いえ二重契約をしたと言う事で三上さんからマネージャーをハズされたのと同じ時期前後に、その美穂と思われる私のダミーの動きもなくなっているんです』
『で、その後の妹さんの消息は』
『判りません。三上さんは美穂が北海道へ行くと行って帰ったという事でしたから』
『うーむ。どうもそれだな。名古屋港で筒井さんが見たというあなたによく似た女性は』
『でしようか?筒井さんは三上さんを恨んでいたから、どうしても自分の追いやられた真相を調べると執念を燃やしていて、はっきりと見ていないにもかかわらず、ちょっと偏見的な思いがあるようでしたから』
『でも、筒井さんが言うには、執拗に調べるほどに、三上がその事に執着して筒井さんに迫ったと言うし、時には行動を監視されたり、脅迫をされたと言っていましたからね。そんな経緯と、この度の名古屋港沖から回収した人骨片が美穂さんとも考えられます』
『で、その人骨は?』
『ええ、いま、詳しく鑑識で分析検査をしています。ちょっと年数が経ちすぎていますから、厳しいですが、その後も海底をさらえて幾数かの、人骨片らしきものを回収していますので近々詳しいDNA鑑定から、はっきりと結果が出ると思いますよ』
『美穂でない事を願っています』
『そうですね、そうであれば…でも現状の捜査状況と判っている証拠・それと三上と飯田の動きから推測すると、可能性は否めません。もう少しの時間で、はっきりすると思います。ご協力ありがとうございました。よく話してくれました、ご苦労様』
『それでは、私はこれで失礼します。、よろしくお願いします』
結局は三上の依頼を裏切り、全てを話した菜穂は、複雑な気持ちで代々木署を出た。自分の所属するプロダクションの社長が、双子の妹である美穂を殺したという疑惑は否めないが、今までの五年間、素人の自分を女優として育ててくれ何かと世話になった恩義を忘れてはいなかっただけに、もし事実であったならこれからどうして女優業を続けていくのかが不安であった。
その頃、高速を吹っ飛ばして名古屋の飯田に会いに行った三上は、目立つ車をビルの裏手に止めて飯田の事務所で、どうするものかを話し合った。一方、三上の後を追ってきた代々木署の刑事は、飯田興業が見渡せる側の路上で状況を見守っていたとき、無線連絡が入った。
『代々木本部から代々木移動3どうぞ』
『代々木移動3です、どうぞ』
『いま、鑑識からの結果が入った、骨片検査の結果、女性のものと判明・推定年齢二十才から四十才・血液はA型でDNA鑑定の結果、クルーザーから採取した髪の毛の血液型と一致と判明した。よって身元は田嶋美穂のカルテ記録から、ほぼ本人の骨片に間違いなしと断定・以上代々木本部』
『代々木移動3了解』
無線の連絡内容は、行方不明の美穂が以前、治療に係った病院からのカルテ記録を取り寄せていた資料と、クルーザーに残っていた女性らしき髪の毛を、法医科で識別した検査と、名古屋港海底から回収した骨片を人体組織の細胞内に存在するDNAの塩基配列の個人識別能力の違いを、高性能DNA解析装置によって鑑定した結果が、美穂のものと一致したと言う事であった。
『よし、間違いなしだ。踏み込もう』
伊藤・島田両刑事と数名の警察官は飯田興業と書かれた会社兼飯田の自宅に向かった。
『ごめん下さい』
『飯田さん』
ドワをノックするが返事がない。
『飯田さん、飯田さん』
さらに呼び続けた。
『飯田さん、飯田さん』
『誰だい』
奧から、やっと野太い声がしてドワが開き、浅黒くズングリとした男が顔を覗かせた。
『飯田繁蔵さんだね。代々木署の島田ですが…』
その言葉に飯田は一瞬、たじろいだ。
『三上慎司さんが来ていますね。ちょっと署までご同行願えませんか』
島田はあくまでも丁寧に言った。
『どういう事ですか』
『もう今更、説明は良いでしょう。直ぐ用意して貰えませんか』
『………』
『居るんでしょう三上さんも』
『判った、ちょっと待って下さい』
そう言うと飯田は奧に入った。
三分ほどして、飯田と三上が玄関に出てきた。観念したのか二人とも素直に刑事の後に従った。ビルの側に止めてある、警察の白い乗用車へ向かって歩き出したとき、二人は一目散に走り出した。
『おい!待てっ!』
『飯田!三上!』
ビルの角を曲がって走る二人を、追いかけていた伊藤刑事の前に辻裏から自転車が横切った。咄嗟に避け損なって転倒した。飯田と三上はビルの裏手に止めてあるポルシェに飛び乗った。すでにエンジンが掛かっていたポルシェは追いかけてきた島田刑事を振りきるように急発進して走り出していた。
『くそっ!』
『どうした島田刑事!』
『逃らかりゃぁがった。野郎、奥に入ったとき逃げる手はずをしたらしい。三上の車はエンジンが掛かっていたようだったから』
『じゃあ、さっきの自転車の若者もグルだったんだナ』
『とにかく緊急配備だ!』
両刑事は急いで覆面パトに戻って、無線連絡を入れた。
『代々木3から代々木本部・応答願います』
『代々木本部です・代々木3どうぞ』
『今、飯田・三上の両名を任意同行に至る経過において、車で逃走・名古屋市内全域に緊急検問の配備を願いたし。逃走車両は港33よ62―62赤色のポルシェ903ターボ・市内方面に逃走模様』
『代々木本部・了解・代々木本部から愛知県警・傍受したか、どうぞ』
『愛知県警本部・傍受了解・愛知県警本部から各移動・各移動は市内指定箇所での緊急検問を実施されたし、なお、第2機捜に於いては主要幹線道路での逃走車両の発見に努めよ。なお逃走手配車両については港33よ62―62赤色のポルシェ903ターボ・以上、愛知県警本部』
一報が入って所轄の愛知県警は、直ちに緊急検問配備の手配指令及び逃走車両の発見に動いた。午後の六時を過ぎても、一向に飯田と三上の逃走車両は発見できずにいた。
赤のポルシェは目立つはずで、市内二十ケ所に及ぶ検問配備に掛からないはずはないのに、その姿はまったく、情報すらない状況であった。
『機捜4から愛知県警どうぞ』
『愛知県警です。どうぞ』
『現在、機捜4は名古屋港で逃走車発見!203については発見に至らず・引き続き周辺捜査続行・以上機捜4』
『愛知県警了解』
『代々木本部から愛知機捜4』
『機捜4です・どうぞ』
『機捜4に於いては、名古屋港湾事務所に飯田所有のクルーザーの所在を確認されたし・どうぞ』
『機捜4了解』
逃走車両の発見に動いていた愛知県警機動捜査隊が、名古屋港の駐車場にある三上所有の赤色のポルシェ903ターボを発見したのは、逃走して五時間を経過していた。車内には人影がなく、エンジンの温もりもない事でおそらく逃走後、直行でこの場所に来たのだろう。機捜4が逃走車両発見との一報に無線を傍受した代々木署本部は、両名が名古屋港から飯田の所有するクルーザーで逃亡を図ったと察知し、クルーザーの確認を連絡した。
『ごめん下さい。名古屋港署の者ですが』
『はい、何でしょうか?』
『こちらに係留されている飯田繁蔵さん所有のクルーザーの事ですが、何処にありますか』
『ああ、飯田さんのクルーザーでしたら、二時間前に出航していますが』
『なに出ている?誰が』
『飯田さんと、もう一人お連れの方が乗船されましたが、何か』
『いや、判りました。何処に行くとかは言っていましたか』
『いえ、特に』
『ありがとうございました』
案の定、二人はクルーザーで逃亡したらしく、すでに出航した後であった。
『愛知機捜4から愛知県警本部および代々木本部へ』
『代々木本部です・どうぞ』
『愛知県警本部です・どうぞ』
『クルーザーはすでに出航・飯田と三上と思われる二名が乗船との事です・どうぞ』
『代々木本部了解』
『愛知県警本部本部了解』
寄港する可能性の都県港周辺に、緊急の警備体制を敷くよう依頼した。
『もう、間違いないですね』
『ああ、陸に上がった河童同然だ』
『しかし、あの状況でどうした手はずをしたんだろう?』
『何、どうせ時間の問題だ。いずれ何処かの港に接岸するしかない』
『そうですよね。最後まで手こずらせる奴らだ』
しかし、その後の行方は一向に掴めないまま時間が過ぎた。
空が開けかけた午前五時過ぎ、飯田と三上が乗ったクルーザーは捜査地域である名古屋港近郊から、遠く離れた伊勢志摩の鳥羽港に接岸していた。周囲を用心深く見渡して、捜査の手がない事を確認した二人は、陸に上がった。
『今のところ、ここには手配が来ていないようだな。飯田さん。どうする?』
『ひとまず何処かに落ち着いて、それからにしよう』
『しかし、警察は僕の後を、付けていたんだな』
『判らなかったのかい』
『覆面パトだったみたいだからな』
『それにしても、どうも何かを掴んだようだな』
『ああ、最近の警察の動きと、先日からの俺達への事情徴収からそのようだ』
『くそ!もう二年もの間、死体もあがらずにいたのに、あの筒井が要らぬ詮索をしゃぁがったために、全てがパァだ』
『どうする?』
『とにかく、このままじゃな』
『かと言って』
一旦は逃れたものの、二人はどうする術もなかった。
一方、任意同行寸前で二人を逃した捜査員は、その後の二人の行方がぷっつり途絶えた事で、躍起になって捜査を続行していた。すでに揺るぎない証拠固めをしているだけに、逮捕によって一挙に真相解明で解決するだけであった。代々木署からの担当刑事も合流した名古屋港沖殺害事件本部は、愛知県警名古屋港警察署内に設置されて、飯田・三上の二人の行方を総勢五十人態勢で徹底捜査を行っていた。
『どうだ、何か情報が入ったか』
『いえ、一向に所在が掴めません』
『伊勢湾に面した各港の管轄署には、漁港を含め、クルーザーが接岸できうる場所には徹底配備をしているだろうな』
『ええ、ネコの子一匹抜けられない、配備態勢を敷いています』
『野郎、何処に着くつもりだろう』
『あれから、六時間以上か』
本部に待機中の代々木署柴田部長刑事と、名古屋港署森井本部長刑事ほか、特命捜査メンバーの耳に無線の声が聞こえたのはその時だった。
『三重県警機捜24から、名古屋港署本部どうぞ』
『本部です・どうぞ』
『現在地・鳥羽港で手配中のクルーザーを発見したが、船内無人現認した・どうぞ』
『了解・本部から三重県警本部・本部に於いては周辺道路の緊急封鎖及び検問実施の手配されたし』
『三重県警本部・了解』
警察機構の通信網は、すばらしい連携である。直ちに、鳥羽港一帯の道路を緊急封鎖して、所轄毎の検問を実施した。
『もう,袋の鼠だ。まだ、そんなに遠くには行っていないだろうから、必ず引っかかる』
『それにしても、何処まで逃げおおせると思っているんでしょうね』
『さあ、行き当たりで動いているとしか考えられない行動だな』
『もう、時間の問題ですね』
鳥羽港からどのような方法で動いたのか。少なくともタクシーだろうと捜査員は考えた。緊急検問の実施及び機捜のパトカーが足取りを追っていた矢先、本部に手配の両名を乗せたと思われるタクシーを捜査中の覆面パトが確保したという無線が入った。
『やったか!』
『やりましたね』
『本部から鳥羽機捜8どうぞ』
『鳥羽機捜8です』
『ご苦労さん、確保の203に於いては、本人確認後、鳥羽署へ搬送されたし』
『鳥羽機捜8・了解』
ついに、飯田と三上は身柄を確保された。
鳥羽港付近で三上と飯田がタクシーに乗り込んだときにはすでに県警から各タクシー会社を通じて、運転手に対して男二名は殺人容疑者で、その人物の特徴などが緊急連絡要件として伝えられていた。その事案を聞き止めていた運転手は後部座席にいる二人の男をバックミラーで確認し、もしやと言う思いがした。あえて裏道を通り幹線道路での検問を避けるように走りながら、屋根の社名灯で緊急事態発生を知らせる点滅合図を点灯させながら走っていた。車内の飯田と三上は当然知る由もなく、とにかく郊外に逃げ延びるため急ぐように運転手に頼んでいたが、裏道から表通りに出て直ぐに前方から来た捜査中の覆面パトが、非常事態を知らせる社名灯の点滅をしているタクシーを発見した。
『今のタクシー非常事態を知らせる合図の点滅をしていましたね』
『そうだな。念のため∪ターンして確認しよう』
通り過ぎて次の四つ辻で∪ターンした覆面パトはゆっくりと後方に付き、後部座席に座る二人の男を確認して、タクシーの前に回り停止を命じた。単なるグレーの乗用車であるため、飯田も三上もどうしたのか?と言うほどしか気にしていなかった。
『済みません。ちょっと良いですか。どちらへ行かれますか』
近づいたジャンパー姿の捜査員が客である二人に問いかけた。運転手は窓を開けて後の客への目配せを問いかけた捜査員にした。
意外な質問に窓際にいた三上は咄嗟の返事に詰まった。
『あっ、あの伊勢の方へ行くんですがね』
『失礼だが、お名前は?』
飯田は、その会話で、もしや警察では…と感じた。
『……』
たじろいでいる三上に別の私服の刑事が窓越しに言った。
『三上慎司と飯田繁蔵だな』
『……』
『どうなんだ』
『ああ』
『とにかく出て貰らおうか』
観念したように、二人はドワを開けてタクシーから降りた。
『運転手さんも、お聞きしたい事がありますので、ご足労ですが鳥羽署までお願いできませんか』
『判りました』
『じゃあ,あんた方は、こちらに乗って貰おうか』
刑事は二人を挟む格好で覆面パトに乗せ、鳥羽署に向かった。


      《二十一》
一旦鳥羽署に連行された二人は、名古屋港署差し回しの護送車で名古屋港沖殺人事件の捜査本部が置かれた愛知県警名古屋港署に搬送され初動捜査の所轄署である東京代々木署の柴田部長刑事の待つ取調室に連行された
『飯田繁蔵に間違いないな』
『そうです』
『すでに状況証拠ほか物的な証拠も挙がっているんだ。この場になって隠さずしゃべるんだな』
『何をしゃべれって言うんだね』
『まだ、しらばっくれるのか』
『だから何を』
『じゃあ、聞くが何故事務所から任意同行するとき逃げたんだ』
『それは…三上が今、捕まると面倒だって言うもんだから』
『ほう、三上が言ったから手助けをしただけってか?』
『そうだ』
『じゃあ何故、三上がお前を訪ねてきたんだ』
『……』
『飯田!いい加減にしろ。お前と三上は木桧 蛍の双子の妹・美穂さんを殺害した事は調
べが付いているんだ。ええ、どうなんだ』
『……』
『黙秘か。もう証拠が出ているんだよ。今更黙秘権を使ったって意味のない事だ。正直に話せ』
『……』
『どうしてもしゃべらないんだな』
別々の取り調べであった飯田は、三上がどのように言っているのかが気になり、とにかく三上のしゃべった事を刑事から聞くまでは口を開こうとはしなかった。
一方、別室で取り調べを受けていた三上は観念したのか美穂の殺害をほのめかす供述をし出し始めていた。
『飯田のクルーザーで名古屋港の沖に出て殺ったんだな』
『そうです』
『何故、殺したんだ?』
『美穂が姉で双子の菜穂が女優の木桧 蛍として華やかで、うらやむ人生を送っている事に嫉妬して、同じ双子なのに自分も同じように優雅に生きる権利があるという、わがまま勝手な思いで私を利用しようとしたんです。木桧 蛍に瓜二つを良いことにダミーの木桧  
蛍として出演させていたんですが、そのうち自分がほんとうの女優になるために、このまま姉を殺して自分が木桧 蛍に変わりたいと云いだしたものですから、このままでは私が破滅すると思い、飯田に頼んで殺そうと…』
『邪魔になったわけだな』
『ええ、まあ』
『だけどお前も単にそんな事で人を殺そうなんて思ったのか?何かドロ臭い関係があって
美穂さんとの精算を考えたのじゃあないのか?』
『……』
『もっと詳しく話して見ろ』
三上は飯田が別室で黙秘権をしているとは思わず、殺した事とそれを飯田に頼んだという事を自白していた。飯田が黙秘を続けるため詳しい取り調べは改めて明日に行われる事になった。
『今日はこれまでだ。明日十時から、本格的に取り調べをするから、良いな』
『飯田は何か言いましたか?』
『気になるのか。そうだろう、二人でどう云うか口裏を合わせていただろうからな。お互いの供述が食い違ったらまずいよな。だからと言って、お前たち二人の供述が、全てほんとうだとは思っていないよ。まあ、明日こちらで調査した証拠品と検証の結果を目の前で見たら、ごまかしは通用しないだろう』
『……』
『藤井刑事、三上と飯田の拘留手続きは?』
『十日間取りました』
『よし、連れて行け』
三上は藤田刑事に促され鳥羽署の五階の留置場に向かった。
『飯田、そうして黙秘を続けても今日限りだ。三上は吐いたよ』
その言葉に一瞬、顔をしかめた。
『明日には判る事だ。連れて行け』
取り調べが終わり、飯田も五階の留置場へ連行された。別々の独房に留置されたが、二人は明日の取り調べと刑事が言った証拠とは何処まで調べ上げているのかが気になって寝れないまま、朝を迎えた。
『出るんだ。飯田。その目はどうやら寝られなかったようだな』
『……』
飯田は腫れぼったい目を向けて取調室に向かった。
『三上、取り調べの時間だ。今日は全てを包み隠さず話しろよ』
『判りました』
三上は素直な感じで後に従った。朝靄のうっすらした光が窓から部屋に射し込んで、これからの取り調室のイスに座った飯田の影を照らしている。
『それじゃ、始めようか。まず、これを見て見ろ、何だか判るかね』
柴田部長刑事は何やらドス黒い固まりが入ったビニール袋を三上の前に置いた。
『何ですか、これは?』
『鑑定の結果、女性の人骨片だ。それとこの写真に写っているシートと鉄製の重り・そしてロープの一部と飯田所有のクルーザー・その客室のソファ・どうだ全て見覚えがあるだろう』
差し出された写真を見た飯田は心の中で“やはり、サルベージ船で海底から引き上げていたのだと思った。
『どうなんだ。この人骨はな、名古屋港沖で海底を検索していたサルベージ船が引き上げた沈殿物の中から見つかったものだ。お前のクルーザーを調べて採取した船底に付着していた髪の毛とDNA鑑定の結果、同一人物のものと一致した。それと田嶋美穂が掛かっていた病院から提出されたカルテからも一致した。そこまで言ったら判るだろう』
『実は…二年前の十一月十日・三上が連れてきた女性を私のクルーザーに乗せて名古屋港沖で殺害しました』
『やっと、ほんとうの事をしゃべったな。で、どういう経緯で殺した』
飯田は観念したのか、殺害の状況を自供し初めた。聞き終わった柴田刑事はその手口に嗚咽をして唾を吐いた。
『それでもお前らは人間か、よくそんな残酷な殺し方が出来たもんだ。ところで、その女性は誰なんだ?』
『後で知ったんですが、女優の木桧 蛍の双子の妹の・・・』
『美穂さんか』
『そのようです』
『三上から殺してくれと言ったそうだが、その理由は知っているのか』
『いや、お互いに詮索しないと云う事で、詳しくは聞いていません』
『なのに、そんな大それた事を簡単に請け負ったというのか?どうせお前の事だ、幾らで請け負った』
『一億』
『なにぃ!一億だと』
柴田刑事は、おぞましい思いがした。
毎年多くの事案が毎日のように全国至る所で起こる日本は、今や荒れ狂っている。特に近年はネットという不特定多数が利用するITを介して、その年齢が未成年にまで及び、刑事犯認知件数は一七四万件を超えて戦後最高の平成四年以後年々増え続けていると云われる。その中でも殺人事件は拳銃を使う凶悪犯罪が特に目立つ傾向である。それには国際社会となった日本に外国人移住や密入国・不法滞在者などが絡む事件も増加しつつある事が原因となっている。人の命を、いとも簡単にカネで請け負う輩や、利害関係のもつれや痴情怨恨は元より、窃盗・強盗・誘拐・猥褻・婦女暴行など様々な事が原因で殺害するという凶悪卑劣な結果が今や日常茶飯事に発生する時代となってしまった。その一つが今回の殺害事件でもある。
人一人の尊い命を一億の価格で算定し、しかも酔わせて正体不明の状態にして絞殺した後、切り刻むという残酷卑劣な手口は人間以下とも言える仕業としか云いようのない事件であった。本来、何よりも尊く価値高い人の生命が虫けら同然のごとく闇に葬られた全貌が、ここにいる飯田と三上によって自供され発覚した。三上から殺害の原因を聞き出した柴田部長刑事は、その残忍な手口と実行までの経過に許せない憤りを憶えた。
『お前たちの殺った事は畜生以下の許せない残忍な行為だ。ましてや三上は被害者とは面識があり、姉である田嶋菜穂は自分が経営するプロダクションの専属女優として所属しているにもかかわらず、その双子の妹を利用するだけ利用して殺害した行為は極刑にしても
、まだ償えないうえに三上を頼って上京した仏は浮かばれない凶悪な犯罪行為だ』
『……』
『全てを自白して己の生涯に換えて、お前と飯田は罪の償いの為に極刑を受けるんだな』
吐き捨てるように柴田は言い放った。
二年もの月日が過ぎて発覚した双子姉妹の妹・田嶋美穂の殺人事件は現在の社会傾向を表すかのように、いともたやすく人を殺め、その殺害方法は残忍卑劣な手口であった。
犯行の糸口を一人の若者が執念で探った事から三上も飯田も完全犯罪を目論み、全てが闇に葬られようとしていた矢先に、捜査の依頼を受けた精鋭なスタッフと警察機構の綿密かつ広域捜査の連携組織力によって全貌が解明となった。          

                                                             完

双子姉妹の衝撃殺人事件簿   羨望の憎しみ

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《あらすじ》 世界遺産の景勝地 広島県宮島で生まれ育った双子姉妹の田嶋菜穂は宮島で観光案内の仕事を妹の美穂はゲームソフトのプログラマーとして共にふるさとを愛し純粋で素朴な生活をしていた。その双子の姉妹に、思いがけない芸能界へのスカウトという出来事が事件の発端となる。性格以外すべてが瓜二つの姉の菜穂は女優を目指し上京。妹の美穂は辞退し宮島に残る。やがて女優・小桧 蛍として瓜二つの姉だけが華やかで優雅な人生を味わっていることに美穂は羨望の憎しみを持つようになる。自己満足を得るために後先を考えない行動が肉親という最も愛情と信頼の絆が強い者同士に、はっきりと明暗が別れる人生の生き様となった事件である。

  • 小説
  • 長編
  • サスペンス
  • 青年向け
更新日
登録日
2012-10-26

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著作権法内での利用のみを許可します。

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