好きな人

月らくだ

好きな人

「好きな人ができたの」と彼女が言う。彼女はベッドの上で真っ直ぐ天井を睨んでいる。離陸前のパイロットみたいに。
「どんな奴?」と僕は腕枕をしている手で彼女の肩を抱きながら言う。
「すっごく逞しくて、かっこいいの。筋肉もりもりで、背も高いし。子供を片腕に三人くらいぶら下げられるような人。だから、私、もうここには来れない」
「わかった」
 彼女は服を着ると、ベッドで寝そべったままの僕に優しくキスをして、さようなら、と言う。
 彼女を目で見送る。玄関のドアを閉まる音が聞こえる。僕はシャワーを浴びようかどうか迷って、そのまま寝てしまう。


 次の日、彼女は夕方頃に食材を抱えてやって来て、言う。「あの人、車に轢かれて死んじゃったの。だから、私、もう少しここに来るね」
 僕は、仕方ないな、と言う。いいよ。
 彼女は食材をテーブルに広げると、今日は、ペスカトーレを作るんだ、と楽しそうに言う。
「イカも買ってきたし。見て見て、この生ハム。美味いしそうでしょ?セールでとっても安かったんだよ」
「じゃあ、今日はちょっといいワインを開けますか」
「いいねえ」
 彼女はにっこり笑う。永遠に宝箱に閉じ込めておきたくなるような笑顔で。
 僕らはワインで乾杯する。生ハムに、冷蔵庫に残っていたチーズ。彼女は幸せそうにグラスに口をつける。僕は、ベートーヴェンのピアノソナタのアダージョだけを編集したプレイリストをかける。ばらばらにほどけた宇宙の粒一つ一つを繋げるように。彼女はこの前の誕生日に僕があげた指輪をしている。僕は彼女のグラスに三杯目を注いであげる。
「あなたっていい男よね」と彼女が言う。
「そうかな」
「友達も、かっこいい、って言ってる」
「光栄だね」
「私にはもったいないよね」
「そんなことないよ」
「私、特に可愛くないし」と彼女は話す。「鼻は高くないし、目と目は少し離れてるし。胸は小さいし、足は妙に大きいし、なんか化粧は似合わないし」
 僕は生ハムの最後の一枚を半分に切る。それ、ヨウちゃんのでしょ、と彼女は言う。半分こだ、と僕は言う。
「ヨウちゃんは私なんかにはもったいないよ」と鼻から大きく息を吐いて言う。
「じゃあ、どうすればいい?」
「私なんか早く捨てて、もっといい女にいきなさい」
 そう言って、彼女は少し涙ぐむ。酔ってきているのだ。僕はチーズの一切れをフォークで刺して、彼女の口に運んであげる。彼女は少しためらった後、口を開ける。子猫みたいに。
「時間はどんどん過ぎていくんだよ」と彼女は続ける。「ヨウちゃん、もう三十歳でしょ。そろそろ人生、取り返しがつかなくなるよ?」
「君はいくつだっけ?」と僕は知っていて訊く。
「二十五」
「まだまだ未来は明るいね」
「明るくなんかないよ。女の二十五って言ったら、もうおばちゃんなんだよ?今の仕事だっていつまで続けられるか不安だし、給料は安いし。かと言って、夜の世界で売れるほどいい顔も体も持ってないし。明るい要素なんて一つもないよ」
「僕は、君の顔と体、好きだけどな」
「可哀想な人」と彼女はため息をつく。
 僕はぐっとワインを飲み干す。そして最後の一杯を彼女と自分のグラスに注ぐ。
「美味しいワインだったね」と僕は言う。
「うん、どこの?」
「チリ」と僕は答える。「チリでは、恋人同士は食前の一杯の後に必ずセックスするんだって。そうするとメインが美味しく食べれるし、メインの後にもう一度セックスできるから」
「ふうん」と彼女は言う。頬が紅い。「じゃあ、私達もしなくちゃね」
「もちろん」
 彼女は椅子から立ち上がると、寝室の方に行きかける。
「違うよ」と僕は彼女を呼び止める。「食前のセックスはテーブルの上でやるのがマナーだ」
「チリでは?」
「そう、チリでは」


 彼女がペスカトーレを作っている間、僕は彼女の後姿を眺めながら、自分と彼女の歳について考える。それからこの瞬間のことを。ベートーヴェンは三回目のリピートに入っている。何回聴いても飽きない。どうしてこんな美しい音楽を作れるのだろう。あんなしかめ面した険しい顔で。彼女は料理が得意だ。生まれつき料理の感覚が備わっているのだと思う。料理を作っている彼女は、ちょっとだけいつもとは違う彼女に見える。なんだか、一つの映画のシーンみたいに静謐に見える。
 彼女は大量にスパゲッティを茹でる。僕が食べるからだ。あまりに美味しくて僕は何度もお替わりをしてしまう。もう一本ワインを開ける。今度はイタリア産。お腹いっぱい食べて、ワインは三分の一くらい余る。
 彼女は食後のアイスクリームまでばっちり用意している。無上の幸せを噛みしめるように、彼女はアイスクリームをスプーンですくって口に運ぶ。彼女はバニラ。僕はチョコレート。そして、三口ずつ交換する。
「で、食後にイタリアではどうするんだっけ?」とコーヒーを飲み終わったところで彼女が言う。
「イタリアではまずキスをする」と僕は言う。「たっぷり愛のつまった熱いキスを」


「実は好きな人ができたの」と彼女がベッドの上で言う。彼女は僕の耳たぶに触れながら、遠くを見ている。渡航前の航海士みたいに。
「どんな奴?」と僕は腕枕をした手で彼女の髪に触れながら言う。
「お金持ちなの。会社の社長で、いっぱいお金を稼いでるの。家はタワーマンションのびっくりするくらい広い部屋で、ポルシェで私を迎えに来てくれるの。だから、私、もうここには来れない」
「わかった」と僕は言う。
 彼女はベッドから抜け出ると、服を着て、ごめんね、と言って僕にキスをする。さようなら。
 寝室を出て行こうとする彼女に、「行くなよ」と僕は言ってみる。「ここにいろよ」
 彼女は少し立ち止まって、でも振り返らずに出て行く。玄関のドアが閉まる音が聞こえる。僕はシャワーを浴びずにそのまま寝てしまう。明日、お金持ちの恋人はどんな死に方をするんだろうと考えながら。

好きな人

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男と女の日常を描いた掌物語です。 (過去作品はこちらから → https://slib.net/a/24408/)

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日 2019-09-28

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