鉄橋

 青年は普段肌に畳み込まれている夥しい数の全身の翅を広げてみた。透明な少し緑色の小さな虫の翅が全身に満遍なく生えていた。飛ぶうえでは非常に非効率的な生え方であることは一見して窺えるが、それでも飛べないことはなかった。ジジジと翅を鳴らしながら窓の外へと飛び立った。
 青年は飛んでいるというよりも浮いていた。ほぼ直立状態で浮きあがり、夕方も近い空をゆっくりと昇っていく。寓話のような羽毛に覆われた二つの翼はなく自分にあるのはこの醜く悍ましい音を立てる翅だけなのだ。なにも翼を持って空を飛翔したかったわけではない、ただこんなものを天に与えられるくらいならばと思っただけだ。
 体はもう平気でビルを見下げる程高くにきてしまったが、高揚感も緊張感もなくただ茫漠とした無限の風景が広がっていた。勿論はばたくのを止めれば墜落するだろう。地球に重力があるというだけの理由でどうしようもなく落ちていくのだ。
 着地した。ゆっくりと知らない道の上に着地して人混みに揉まれる。結局死に切れない、落ちきれないまま俺はなんの為に飛んだのだろう。何処へ行くともなく歩きながら少し苦しくなった。雑踏の中に一人でいる寂しさが肺を浸し胃に回り心臓を潰した。 どこまでも自分が沈んでいくような感覚を覚えて歩を進めたが家の場所もわからずとてつもない疲労に襲われた。
 自分は何故飛び何故降りたのだろう。ほとほと自分に嫌気がさして腕を掻きむしった。翅が散らばる。更に搔きむしり引きちぎりへし折り、もう飛べなくなった。余りの翅を動かしても煩く音を立てるばかりだった。それに卑屈な快楽を感じたが直ぐに冷めた。そんな愉悦は長くはもたないのだ。
 家の近くを流れる川を見つけるとそれを辿るように帰路へついた。何もない日のなんてことない記憶。もう飛ぶことも落ちることもない、これでよかったのかはまだ分からない。考える時間はいくらでもある。考えなくてもいい。今は家を目指して歩こう、疲れた。
 夕焼けが残りの翅をボロボロに焦がし、青年の影を路上に落とした。微風も凪ぎ、辺りは煩わしく舞う羽虫の音が微かに聞こえるばかりだった。

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-09-27

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