灯の孤島

軒下瑞燕

  1. 第一章 狸娘
  2. 第二章 手紙
  3. 第三章 ベルが鳴る
  4. 第四章 ある郷土史
  5. 第五章 闇と灯
  6. 第六章 事件
  7. 第七章 ボストンバッグ
  8. 第八章 島の事情
  9. 第九章 出家二人
  10. 第十章 写真一葉
  11. 第十一章 こがねの朝
  12. 第十二章 通夜
  13. 第十三章 月の夜
  14. 第十四章 第三の事件
  15. 第十五章 手掛かり
  16. 第十六章 墓
  17. 第十七章 薬師如来
  18. 第十八章 諸行無常
  19. 第十九章 因果の果て
  20. 第二十章 返り血
  21. 第二十一章 空蝉
  22. 第二十二章 来りて帰る旅人は

第一章 狸娘

 今は昔、艦橋に防空監視所を増設した戦艦が、主砲を巡らし、三式弾を撃ち上げたのはB29の襲来を受けてだが、八月、広島と長崎にピカドンを落とされての玉音(ぎょくおん)放送。

「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」

 とであるが、ラジオの電波が悪く、よく聴き取れなかった人もいた。

 ともあれ、敗戦の次第、津々浦々に広まると復興が始まって、焦土にビルや工場、住宅を並べ、国土を新幹線で貫き、オリンピックを成功させ、と、昭和の世は休みを知らず、また、貪欲で、経済と軍事に優れているのは優良な文化の証、と、かつての敵国をもてはやす。

 東京、大阪だけではない。

 瀬戸内海で泡の軌跡を生む、その連絡船においても事情は変わらなかった。一昔前に比べると空調がよくなり、涼しくなった船室には柄物のTシャツを着た地元の青年達、アロハ・シャツを着た観光客、ハンチングを目深に被った身分不祥の男らが。

 途中の島で乗り込んだ二人組の男達などは破壊や死を連想させる英文を胸元に踊らせている。腐った社会に鉄槌を下す、との主張だが、改革と身勝手を履き違えるのはよくあることで、ガラが悪い。品もない。

「また、凄いのがおるのぉ。あれじゃ、あれ。日本にあげな女子(おなご)がおるとはなぁ。まぁ、九十と二三は下らんじゃろうて」

 とは隅の長椅子に掛けた十八、十九あまりの小娘についてで、ブラウスの胸元がたっぷりと。ショルダーバッグを斜めに掛けているばかりか、半ズボンを留めた腰が締まっているので、豊かなること殊更の一言に尽きる。とはいえ、

「何や、狸に似とらんか?」

 と、評されたのは、然程、背が高くないのはむろん、大きな眼鏡を掛け、顎の高さまでの髪が外に跳ね、と、如何あっても格好がつかない所為で、額が広く、目が大きな顔立ちも、

「造りは整っとるけれど、まぁ、子供っぽいなぁ。中学生みたいで」

 しかし、知性はそれなりに成熟していて、水兵風の平たい帽子を膝に置き、捲る文庫本は李白の詩集。詰まりもせず読みこなしているのが、

「残念じゃのぉ。小道具がインテリくさい」

 それが、耳に入り、狸娘が面を上げると男達にとってはからかい甲斐があり、

「どうも、どうも、ええおっぱいですなぁ」

 と、一人が片手を挙げる。もう一人が腹を抱える。

 愛想をよくしたところで得にはならない狸娘で、恥ずかしげに瞼を瞬かせていると側で風呂敷包みを抱えていた老女が朗らかに、

「痩せっぽちよりは可愛いですて、貴女」

 この世代、レディ・ファーストなる概念はなく、男の好色な物腰に逐一、目くじらを立てる方がおかしい、との心得。しかし、老女なりの善意は伝わってくる。

 否定しようもなく、眼鏡を傾がせた狸娘が黙ったままでいると、ラッパ状のスピーカーを通し、

「間もなく、姫守島(ひめもりじま)に到着します」

 と、アナウンスが入った。

 閉じた文庫本をショルダーバッグに仕舞った狸娘は帽子を頭に、足元のスーツケースに触れる。

 飛び交う海鳥や手を振る係員に迎えられ、着岸した連絡船から郵便物や生活必需品の包みが上げられると狸娘もまた金属の渡し板を踏む。

 松の葉が青々と茂る高台を仰いだのは、巨大な灯台が一基、初夏の空を突いていたからで。昼夜を問わず、多くの船が行き来するから、と、納得してから待合室や詰所の前を抜ける。

 窓口の横で時刻表に目を通すと連絡船の発着は午前七時と午後七時の間に五本、三時間毎と小さな島にしては多いだろう。

 中小の漁船がもやわれた岸壁には鉄筋コンクリートの建物が数棟あり、窓から覗くと机に肘をついた事務員が欠伸をしていた。隣の作業場も閑散とし、半開きになったシャッターの内を覗くと兎にも角にも生ぐさい。角材を組み合わせた作業台で出刃が鈍い光を帯びてはいるが、捌かれる魚も捌く人もおらず、寂しげで、辺りには漁師もいない。

 港での仕事が忙しいのは午前中、とりわけ早朝で、午後は翌日に備え、別のところで地道な作業をする、と、聞く。

 汽笛を響かせて、テトラポットの脇を抜ける連絡船は午後一時の便だけに、不思議とは言えない有様で、狸娘は道なりに集落へ。

 軒を連ねるのは入母屋造りの民家で、軒に目刺しが吊り下げられていれば、ひらきを干す台が道にはみ出している。慣れない者にとっては歩き難く、細い路地が入り組んでもいるので迷いやすい。

「あの……すみません。道を教えていただけないでしょうか」

 と、狸娘が呼び止めたのは買い物籠を提げた二十代半ばの男で、鼻が高い美丈夫ではあるが、綺麗に頭を丸めた仏弟子である。やや、()せているとはいえ、目立つのは作務衣の青で。

「ええですよ。何処、行かれますん?」

村友(むらとも)さんのお宅に」

「何処の村友さんです? この島では多い苗字ですけぇ」

久江(ひさえ)さん……ご存知だといいんですけれど」

 それは用事があるからこそで、不自然な流れではないが、仏弟子の反応はふつうでなかった。礼節を失わないよう努めてはいたが、動揺は隠しきれず、

「ええと、貴女は?」

 と、警戒する。

 他意がないだけに驚かずにはいられない狸娘であるが、話を打ち切る程でもない。あるいは不測の事態があったのかもしれず、後々、情報不足に陥っても困るので、

「わたしですか? 天城って、その……天城朔(あまぎさく)って言います。その、あの……久江さんが東京の大学に通っていた頃、古本屋で知り合って。あ、親戚がやっているお店です。わたし、小さい頃からお手伝いをしていて、常連だった久江さんとはよくお話を」

 と、事情を小出しにする。

 邪推さえしなければ怪しむにあたらない間柄で、肩の力を抜いた仏弟子は、

「いや、すみません」

 と、短慮を詫びた。

「思えば、知らないのは当然でしょうなぁ。小さな島でのこと、新聞に載ったとしても、隅に小さくでしょうから」

 悪いことがなければ新聞沙汰にはならない、とは大袈裟で、人命救助や褒章の授与なども報じられるが、重たげな口振りだけに、狸娘こと天城朔は、

「新聞ですか?」

 と、慎重に訊き返す。

第二章 手紙

「実は、久江さん、昨日から行方不明になっとりまして」

 と、仏弟子に伝えられた途端、ゴウと渦を巻いたのは天城朔の心持ちだけでなく、雲が出つつある空もまたで、火の見櫓の屋根を仰げば一目瞭然。簡素な風見鶏が取り付けてある。

「まぁ、こげなところで話すのもなんです。寺にお越しになっては? ああ、わたし、栄良(えいりょう)と申します。典座(てんぞ)として、修行させてもろうとりまして」

 船内で唐詩を読んでいただけに、役に立つとは限らない雑学に通じている天城朔で、典座とは食事係ではあるが、小さな寺では雑用や接客も兼ねる、と。記憶している。

 ポンプ井戸のある辻を曲がり、板塀に添って歩くと小屋根を乗せた門があった。一応、『葷酒(くんしゅ)山門に入るを許さず』の札は出ていたが、招かれただけあって女人禁制ではなく、天城朔は本堂、禅堂、僧房などが押し込まれた敷地へと。

 格子戸の奥に鎮座する御本尊は薬師如来で、手の平に角張った器を乗せていた。

 僧房の玄関口には青銅だろうか。雲形の鳴りものが吊るしてあったが、栄良は触れもしない。戸締りがされていなかったので、

「和尚様、お客さんです。女の子です。和尚様」

 と、叫んだ。

 寺を預かる身であれば、老師然としていそうなものだが、出家にも色々あって、つまりは才能、修養、認可状の世界。のそりと上がり口に立ったのは四十代の和尚である。四角い顎が微かに割れた、日本では珍しい相の持ち主で、首が太く、肩幅もあるのが柔道家を彷彿とさせた。

「ふむ、余所の人か」

 と、呟き、天城朔に座布団を勧めたのは玄関脇の六畳で。

 小さな床に書が掛けられているが、筆遣いに極端な勢いがある。楷書ではないから、凡俗には価値が分からない。土壁を隔てて縁が付き、外に柿の木が一本。むろん、実を食す季節ではないから、幅の広い葉が青々と茂っている。

 さて、

「住職の栄寛(えいかん)です」

 と、座布団の上で背筋を伸ばした和尚に天城朔が用向きを伝えていると栄良がガラスのコップを二杯、お盆に載せて運び込み、

「麦茶です」

 旅をすれば喉も渇く。礼こそ短かった天城朔だが、有難く、一口含むと冷たさも舌に染み入る。

 冷蔵庫など、電化製品は一通り揃っているらしい。発電所はなくとも海底ケーブルで繋げばよく、姫守島の集落には電線が張り巡らされている。

「さて」

 とは頃合を見計らった和尚。

「お名前は、そう……天城さんでしたなぁ。久江さんのことじゃが、もう難しいんじゃあないかと。崖から海に落ちよったみたいで」

 であるが、それだけでは察しようもなく、空のコップをお盆に戻した天城朔が、

「事故?」

 と……。

 あり得ることは他にもあるが、あえて触れないのは礼儀で、和尚ももまた、

「遺書があったとは聞いとりませんけぇ。まぁ、詳しいことは御本家でお訊きになられた方がええかもしれません」

「御本家?」

「久江さんが世話になっとった家です。こんまい頃、親御さん達が亡うなって、孤児になったものですけぇ、村友の御本家に引き取られた。お耳にされておられんので?」

「学費を出してもらっていたってことぐらいは一応。ただ、あまり詳しいことは……久江さん、わたしにとっては年上ですから、ちょっと、訊き難かった」

「道理ですなぁ。この後は御本家に行かれますかのぉ? 連絡しときましょうか?」

「あ、それ、お願いします」

「栄良、電話を頼む」

 電話は玄関の靴箱に。

 手短に用件を伝え終えた栄良が、

「御本家の喜三郎(きさぶろう)さんが、お迎えを寄越す、と」

 と、伝えると和尚は大きく頷いた。

「イヨさんかのぉ?」

「ええ、流石に名夜(なや)様ではありません」

「まぁな。御本家の姫さんじゃけぇ、まずは目下に任せておくんが筋じゃろうて」

 天城朔にとっては聞いたことのない人達で、今一つ事情が飲み込めない。

「あの……喜三郎さんとか、名夜さんって?」

 栄良によると、

「喜三郎さんは御当主、名夜さんはその一人娘で、久江さんのハトコ。それから、イヨさんっちゅうんはお手伝いさんです。御大家ですけぇ、一人雇わんと回せんようで」

 和尚達の説明では曖昧さが残る久江の一件で、迎えを待つに心を急かせるばかりの天城朔である。四十あまりの女が柿の根本に立てば、溜息をつかずにはいられない。

 目の前で、

「和尚さん、お客さんちゅうんは、その方で?」

「イヨさん、他にそれらしい人がおりますかのぉ?」

「若うございますなぁ」

「それはもちろん、久江さんの友達じゃけぇ」

 とのやりとりが。

 セーターの上からでも胴の太さが目立つ女で、ふと、濃い眉毛を上げたのは、天城朔が察するところ、偉くもなさそうな子狸、と、侮ったからだが、雇い主の客だけに、失敬な物腰で臨むわけにはいかない。

「じゃあ、行きましょうか? お屋敷は高台の手前ですけぇ」

 公共の建物がある辺りから、目抜きたる坂道を上るとホーローの看板に『たばこ』の文字を浮かべた商店や、三色の筒を回す理髪店、目印に赤い提灯を掲げた飲み屋などがあった。

 その先は片側に段差がある吹き曝しで、ガードレール代わりの柵の下に民家の瓦屋根がひしめき合っている。

「ヒィさん、今日の様子、どげん?」

 と、イヨが話し掛けたのは郵便局員で、定年間近の年配。浅黒い顔に刻まれたしわが深い。

「五通、配達し終わりました。何時もよりありましたなぁ。あ、御本家には一通も来とりません。ではでは、局に戻りますけぇ」

 小包を配達する為、後部に箱を括りつけた自転車を押す背中は狭かった。

 そこからさらに上ると中年男が二人いて、ステテコ、腹巻と気取りがないが、床几(しょうぎ)の上で将棋を指しているのが掛詞(かけことば)めく。洒落てやっているでもなく、

「王手、飛車取り」

 の宣言に、ゲコとカエルのような声が漏れもする。

「ああ、飛車なんぞ、くれてやる」

「そうか? ほれ、ついでじゃ。桂馬が金になった。おいおい、余所見か?」

「この際、駒なんぞどうでもええて。二つ三つ取っていけ。あれじゃ、あれ。安産保証、御守りいらず」

 抱えている事情はそれぞれで、斟酌(しんしゃく)されるとは限らず、一介の島民達にとっての天城朔は付け込みやすそうな小娘でしかない。

 尚も追いかけてくる男達の視線を無視し、

「お客さん、どうぞ」

 と、イヨが通用口の戸を開けた。

 下半分を板で覆った白壁に囲まれて、数寄屋(すきや)造りの家屋と土蔵が数棟。柱や建具の艶が失せているのは潮気を含んだ風の所為だろう。

 天城朔がまず、通されたのは縁沿いの座敷で、十畳とやや広かった。テーブルや箪笥など、調度品は揃っていたが、殊更、飾り立てる家風でもなさそうで、長押(なげし)の額に岩肌を睨む達磨(だるま)太子の墨絵が収めてあるが、他に美術品らしいものはない。

 で、客を迎えた当主、喜三郎は、

「実に申し訳ない。折角、来ていただいたわけですが、久江のことはまるで、希望が持てんのです。高台の柵が一ヶ所、壊れとったそうで。どげんして夜中に出歩きよったか?」

 と、テーブルに腕を置く。

 目鼻立ちのはっきりとした男で、上背があり、ワイシャツの袖口から覗く手が分厚い。頬の張りを保っている割に白髪が多いので、苦労人の雰囲気もあった。

「で、貴女、この後は?」

 と、慎重に、

「予定、滅茶苦茶になってしまったんじゃあ?」

「ええと、わたしのこと、久江さんからは?」

「ちいと聞いとります。まぁ、一晩ぐらいなら泊まっていってもらっても構いませんけれどなぁ」

「民宿とかは?」

白波屋(しらなみや)っちゅうのがあります。そう安くもない宿ですが。あそこも苦しいですけぇ」

「そう?」

「海水浴場があるでもなし、この島、観光には向かんのですわ。お客さんのほとんどは磯釣り目当て。旧跡があるとはいえ、整備はほとんどしとりません」

「旧跡?」

「水軍のです。平安時代ぐらいから、拠点っちゅうか、砦があった、と、伝わっとりまして」

 状況がはっきりするまで帰るつもりのない天城朔だが、厚かましいのは承知している。泊まるか否か、はっきりさせられずにいると黒いワンピースやら、膝下の肌やらが瞳の奥に滑り込んできた。

 喜三郎によると、

「名夜」

 で、三つ指をつきこそしなかったが、座るに裾を押さえる仕草が洗練された娘。長く伸ばした髪はカラスの濡れ羽色、顔の造りも大きな黒目になだらかな頬と整っていたが、口振りばかりは華やかさに欠けて、

「イヨさんから聞きました。お客さん、どうも」

 と、大人しげに。しかし、喜三郎に、

「丁度、今夜はうちに泊まってもらってもええっちゅう話をしとったんじゃが、お前、構わんよなぁ?」

 と、訊かれると精一杯の愛想で天城朔をもてなし、微かながら幼さを滲ませた。

 遠慮をする必要もなくなった天城朔が通されたのは奥の六畳間で、元々、客を泊める為にあるらしく、衣桁(いこう)と無地の枕屏風が隅に。

 天城朔が腹に帽子をあてていると、スーツケースを運び込んだイヨが縁に出て、ガラス戸から真鍮の錠を抜いた。

 さして、こだわりのなさそうな庭で、剪定(せんてい)こそ行き届いているが、植えてあるのは雑木ばかり。茂った葉越しに灯台を眺められたが、高台の建造物は一つだけでなく、赤いレンガの壁が、松の間に見え隠れしている。

「イヨさん、あれって?」

 と、天城朔が指差すと返ってきたのは意外な答えで、

「研究所。戦争中に軍が造りよりましてねぇ。毒ガスやら、何やらと物騒な実験をしとったみたいです。今は埃っぽいばかりの廃墟ですけれど」

 国破れて山河ありは烽火(のろし)が三ヶ月も続き、家族からの手紙が金に等しくなる戦時下の詩で、喩えとするにはふさわしくない。あの芭蕉の句も往時へのロマンを含んでいるそうだから、上手くまとめるには、天城朔本人が感じたままに詠まなければならないが、むろん、遊びに来たわけではなく、

「はぁ、研究所、研究所……」

 と、ただ、口の中で繰り返す。

 島の人にとっては見慣れた景色で、あえて語りたい思い出もなく、何より、

「忙し、忙し」

 で、すぐさま日常の生活へと立ち返る。

「お風呂の仕度はいかがいたしましょう?」

「適当で構いませんけれど」

「いえ、うちで沸かすか、お風呂屋さんに行ってもらうかっちゅうことで」

「えっ?」

「うちでは一から汲むもんですけぇね。遅うなります」

「ええと、ここの人達は?」

「名夜様はもらいに行くおっしゃっとられました」

「じゃあ、わたしも」

「御一緒されるんで?」

「ええ、そうですね」

「じゃあ、名夜様にお伝えしときます。では……あっ、もちろん、お風呂屋さんはロハじゃあないですけれど、ええですかね?」

 天城朔にとっては是非もない。好意で泊めてもらっただけに、小銭の節約にかこつけて他人の仕事を増やすのは気が引ける。

「流石に五百じゃあないですよね?」

「二枚、二枚」

 とは百円玉についてで、天城朔もそう吝嗇(りんしょく)な振る舞いはしなかった。

 一人になるとスーツケースの掛け金を外し、衣服、下着、洗面用具、化粧品、小型の救急箱、ソーイング・セットなどの間に手を入れる。誰かが来はしないか、と、耳をそばだて、抜き出したのは封筒が一通。差出人の名は村友久江で、封は既に切ってある。

 指を入れ、抜き出した四つ折りの便箋には若者らしい簡潔さで、

『相談したいことがある。出来ることはないって謙遜するかもしれないけれど、他の人達に比べれば頼りになる筈。例の一件、わたしは忘れていない。あそこまで大袈裟なことにはならないかもしれないけれど、ややこしいことになっている。姫守島に来て欲しい』

 と、男の手に近い角張った文字が書き込んであった。他に連絡先の住所、電話番号もまた。

 妄想と笑い飛ばさず、天城朔が瀬戸内を訪れたのは、差出人に教養があったからで、そこは、地方の孤島から東京の大学に進学しただけのことはある。中央の秀才にはまるで及ばず、在学中にはそれなりに苦労をしたそうだが、滅多に飛躍しない実際家で、教授達の評判はよかった。

 加えて、行方不明の一件がある。

 この手紙と合わせて考えれば、不穏な事態が持ち上がっているのは間違いなく、天城朔は行間を読もうとする。まず、気に掛かったのは情報の少なさで、この間、電話で連絡を取った時も教えてもらえなかった。

 そこに仔細がありそうだが、後が続かず、便箋を封筒に戻す。

 スーツケースに仕舞いながら、思い出したのは去年の四月、久江が大学を卒業し、下宿先のアパートを引き払う前の会話で、

「こっちで就職するつもり、ないんですか?」

 と、天城朔が訊くと、

「まぁ、仕方がない。若い人が出て行くばかりで大変な時じゃけぇ、でっかちなうちの頭でも、ちいとは役に立つ」

「過疎ってこと?」

「残る人は残るよ。何ぞ文句ある人が少しずついなくなる。東京とは違って、サッパリしとらんところじゃけぇなぁ」

「それ、如何いう?」

「好きか嫌いかは兎も角、こっちには色んな人がおって、色んなことを考えとるわけじゃけれど、島はそういうところじゃあない。伝統って言えば聞こえはええけれど」

「古い?」

「そんなところ。まぁ、こういう世の中じゃけぇ、納得出来なくなる者もおるっちゅうわけ」

 島に帰っても勉強を続けるつもりで、久江は棚から専門書を抜き出していた。

 商品の質を維持すべく、採光を抑えた下町の古本屋で、手伝いの天城朔はエプロン掛けで丸椅子の上に。久江が数冊、レジ脇の框に積み上げると会計の為、話しながら読んでいた『指輪物語』の原書にしおりを挟んだ。

第三章 ベルが鳴る

 そうした回想は一度に限らず、出会って間もない頃、久江を助けた事件もまた。しかし、今回の一件とは縁のなさそうな大都市の問題で、天城朔の推量は未だまとまらず、日当たりがよいところで脚を崩していると、やがて、雲が黄ばみ始めた。

 イヨが、

「四時ですけれど。お仕度の程は?」

 と、報せる。

 百貨店の紙袋に諸々を入れ、名夜と共に御本家の屋敷を出、港の裏まで下りると大きな影が東へ伸びようと。元に煙突があり、幅の広い屋根の下、ゆの字が染め抜かれたのれんが揺れる。

 湯あみをするのに貴重品を持ち歩く人などいない土地で、荷物を置く棚には錠前どころか扉も付いていない。脱いだものを籠に放り込み、髪にピンを差してから、木戸を潜るとそれは西国ならではの様式か。真ん中に二坪程の湯船が切ってある。

 別に槽があるのはかけ湯の為で、プラスチックの洗面器を取り上げた名夜が映り込んだ光を汲み上げた。肩の上からサラリとやり、体に伝わせる。

 筋肉質でこそないが、海育ちだけにしなやかで、天城朔と比べるとその違い、美術品と漫画の如く。もっとも、湯船に浸かれば肌が潤むのは同じで、汗が浮く。

「また、どうぞ」

 と、番台の老女に見送られ、表に出ると潮風がやけに涼しかった。

 これからが風呂屋にとっての商売で、それぞれ手拭いを一本、肩や首に掛けた男達の一団が大股、蟹股(がにまた)でやって来る。髪に水気を残した娘二人を見逃しはせず、とりわけ、余所者が珍しいのか、

「ははぁ」

「おいおい」

 と、声を潜めもしない。しかし、漁民らしい豪快さに裏打ちされた好色である。絡みはしなかった。

 そこをいくと、路地を曲がった先で鉢合わせた小柄な青年の方が陰湿そうで、唇の端を上げ、

「お晩ですなぁ、名夜さん」

 と、顔を近付ける。

「この人は?」

 と、天城朔に関心を示すが、つまるところは俗物で、何があろうと目のやり場に困りはしないだろう。

「なぁ、名夜さん」

「東京からお見えになったお客さんです」

「ほほう、久江さんがあげなことになったのに、ようお見えになられましたなぁ」

「知らずに来た人ですけぇ。もう、ええですか? 早う帰らんと湯冷めをしてしまうかもしれませんし」

「ふむ、まぁ、ええでしょう。じゃあ、また今度」

 太り過ぎは本人の所為でなくとも、ズボンのポケットに手を入れたままでいるのが不遜で、お世辞にも女好きがする男ではない。

 何処の誰か、と、首を傾げた天城朔であるが、足を速める名夜には遠慮して、御本家の屋敷で夕餉(ゆうげ)をもらってからイヨに教えてもらった。

「ああ、鈴井(すずい)のガキですか。恭吾(きょうご)っちゅう名前なんですけれどねぇ。半年前に父親の与助(よすけ)さんが村長になったものですけぇ、そりゃあもう態度がでこうなって。旦那様と村長さんに付き合いがあるものですけぇね。ええことにして名夜様にちょっかい出しよりもして」

 口ばかり動かしていては仕事にならないイヨで、お椀や皿をタライの水に入れ、親指の腹を擦り付ける。低めの上がり框が座るのに丁度よい。

 天城朔は後ろの板敷にしゃがんで、

「付き合いって言うと?」

「旦那様と村長さん、まぁ、和尚さんもですけれど、歳が同じなんですわ」

「同級生?」

「いいや、村長さんは本土の出身です。まぁ、戦争中にうちの旦那様方が(くれ)の方に徴用に取られた時、お知り合いになったんじゃとか。ほら、裏の研究所。あそこで村長さんのお父さん……浩平(こうへい)さんっちゅう方ですけれどね。働いとったもんですけぇ、その誼で」

「何で村長さんまでこの島に?」

「浩平さん、一度、本土にお帰りになったんですけれど、公職追放に遭ったとかで、家族を連れて戻ってきたんで」

「それは……ええと?」

「まぁ、軍部に協力した学者なんかが、再就職出来んよう、国とGHQが組んで、色んなところに圧力を掛けよったわけで」

「つまり、軍国主義が盛り返さないように?」

「で、すっかり首が回らんようになったみたいで。挙句、体壊したものじゃから、こっちで静養するつもりになった、言うとりました」

「で、そのまま?」

「元のところにあてがあるわけでもないでしょうし」

 話の区切りがつくと柱に掛けられた時計が偶然、鳴った。

 八時半と長短の針が示す文字盤を見上げたイヨが、

「ああ、お客さん、ちいと退いてくれませんかのぉ。布団の仕度をしますんで」

 と、濡れた指をエプロンに擦り付ける。

 慌てて立ち上がり、斜め後ろに下がった天城朔だが、格好がつかないことに壁際の茶箪笥に肘をぶつけた。戸のガラス部分が格子で支えられているので、切り傷こそ作らなかったが、鈍い痛みが広がる。

「気付けて下さい」

 と、呆れるイヨを見送ってから、さすりさすり、母屋をうろついた。

 イヨを含めて三人と、家の者が少ない屋敷ではあるが、広々とし、使われていない部屋が幾つもあった。概ね、閉ざされていたが、老松を模した欄間から差し込む光に市松状の天井板がほのかに浮かぶ。

 明るいところを辿っているとふいに砂が舞い上がり、渦を巻くような雑音が。襖の裏を覗くと喜三郎が携帯ラジオをいじっていた。

「天気予報、聴き忘れたんで」

 アンテナを調節し、チャンネルのダイヤルに触れると抑揚のない声で、気象庁の発表が報じられる。

「瀬戸内海西部。明日、朝方から夜にかけて曇り。昼過ぎから風が出るでしょう。週間予報。明後日、雨になるでしょう」

 聴きたかったのはそれだけ、と、喜三郎はラジオのスウィッチを切り、箪笥の上に持ち上げ、

「下がりますけぇ」

 で、天城朔も客間へと。

 寝床は整っていて、枕屏風越しに色褪せた雨戸の木目が見えた。イヨが閉めて回っていているのか、縁を曲がった先でガラリと鳴る。

 多くを語るに及ばない夜で、薄水色のパジャマに腕を通してから、掛け布団を引き、寝返りを打っているとやがては夢うつつ。頼りなげなスズメの踊りが目覚まし時計の代わりとなった。

 寝癖でいっそう跳ね上がった髪に指を通してから、仕度を済ませ、

「おはようございます。あの……朝御飯は?」
 と、茶の間で名夜と向き合う。

 昨夜は灰色のままだったブラウン管に太った政治家の顔が映し出されていた。興味がなくとも、点けておくには無難なニュース番組だが、それだけに、会話が始まると見向きもされない。

「用意はしてあります。じゃけど、味噌汁、冷めてしまっとるんじゃあないでしょうか。イヨに温めさせますけぇ、お待ち下さい」

「冷や汁でも構いませんけれど」

「そげなものをお出ししたら、父に叱られてしまいます」

 で、御飯とおかずがちゃぶ台に並んだ。

 これもお給仕、と、イヨが火鉢の鉄瓶を台所に運んだのは、茶を淹れる為で、サンダルを突っ掛け、土間を横切り、二つのかめを前にする。

 釉薬が曲面に垂れての波模様。白木の蓋に柄杓(ひしゃく)が横たえられた古物で、水を数杯、移していると茶の間で一人、箸を使っていた天城朔が、

「電話、鳴っていますけれど」

 と、叫んだ。

 しかし、間が抜けている。こうして声が届くわけだから、イヨにしてみれば、

「聞こえとりますて」

 で、板敷の端に鉄瓶を置く。茶の間を抜けてから、襖の陰で、

「村友です。はい、は……はぁ、承りました」

 と、応答し、遙か彼方にいる相手にお辞儀をした。

第四章 ある郷土史

 息を詰まらせ、指に力を込めたイヨの様子はふつうでなく、いよいよ、と、直感した天城朔は角皿に箸を立て掛ける。

 畳に手をやり、敷居際まで進むと(みどり)の本体に受話器を添えたイヨは背筋を伸ばし、目が合っただけで、

「警察の方が、本土の漁師さんの網に土座衛門(どざえもん)が掛かったっちゅうて」

 と、舌の先で焦りと不安を混ぜこぜにした。

「旦那様、旦那様、大事です」

 丹前の衿を掻き合わせ、喜三郎が電話口に立ったのは間もなくで、後ろについた名夜の顔色も冴えない。胸元で指の先を揃え、尖らせる。

 必要な連絡か、それとも、黙っていられなくなったのか、イヨが伝えて回ったので、昼過ぎには島中が知るところ。

 探りを入れる為、御本家の屋敷を訪れる人もいた。天城朔が民宿の白波屋に移るべく、スーツケースを提げ、玄関を出ようとした時も十畳間の縁に掛けていた小男が、

「ああ、そこのあんた」

 と、乾いた土にシガレットの灰を落とした。背広を着、肌の色が薄いので一目瞭然、漁民ではないが、貴族然ともしていない。他人の庭に吸い殻を捨て、革靴の先で踏みにじる仕草はむろんのこと、口振りも横柄ときている。

「キサさんじゃが、さっきの便で本土に行ったとか?」

「キサって喜三郎さんのことでしょうか?」

「他にキサがおるかのぉ?」

「いえ。その……そちらは?」

「村長じゃ。で、どうなんじゃ? 見付かったんは本当に久江さんなんか?」

「あ、あの、その……まだ、はっきりとはしていないそうで。喜三郎さん、身元を確認しに行っているんです」

「帰りは夕方?」

「それか、明日の朝。手間取るなら本土に泊まるっておっしゃっていましたから」

 スーツケースをテーブルの脇に、膝を付いた天城朔。居住まいを正し過ぎると反感を買いかねないので、肩の力を抜いた。古本屋の手伝いで、丁寧かつ、親しみやすく振る舞うのには慣れている。

 一方、

「あ、名夜さん」

 と、縁に片膝を上げた村長に呼び止められ、立ち去るわけにもいかなくなった御本家の姫君はやはりと言うべきか、駆け引きに甘さがあった。恭吾のことで不満があるのは仕方がないにしても、通用口に新たな客があるなり、

「伯父様」

 と、朗らかにするのだから、村長としては面白くない。

 しかし、それぐらいで腹を立て、株を下げるのは上策でなく、

「どうも、勘太郎(かんたろう)さん」

 などと、わざとらしく頭を下げる。

 目だけで応じ、

「上がらせてもらう」

 と、下駄を脱いだ客は五十前の男で、着流しの帯をゆったりと。肌が浅黒く、尖った顎と鼻の下に髭を生やしていた。長めの髪を撫でつけていたが、ややほつれて、ポマードのにおいもしない。

「天城さんっちゅうんはあんたかのぉ」

 天城朔が、

「えっ、わたしのこと、ご存知?」

 と、訝ると勘太郎は顎を捻り、面持ちも険しく、

「家に来て、イヨさんが話していきよったけぇ。東京で久江と近付きとか? 何ぞ聞いとらんかのぉ?」

 天城朔が手紙のことに触れずとも、他人が洞察出来ることはある。つまり、今、島にいるのは偶然か、と。下手に誤魔化すと怪しまれそうで、言葉を選んで答えるにしても、不自然な間が生じる。

 瞳に(くう)にやった天城朔で、軽く握った左手を額にあてる。横から出された舟に助けられなければ、いっそう焦っていただろう。

「伯父様、お客さん、困っとるじゃあないですか。初めて会う人に、そげな訊かれ方をしたら、うちかて」

 との名夜、天城朔に勘太郎の素性を伝えもした。

「天城さん、勘太郎伯父は父の兄です。分家の御当主で」

 疑問が残る話で、分家新家はふつう、弟が作る。そこは天城朔が生まれ育った東京でも同じ。下町の老舗など、親族間でのれん分けをしなければならない家では、孔子先生の教え通り、年齢による序列が重んじられている。

 ありがちなことで、天城朔が黙っていても勘太郎としては察するところ。

「喜三郎の奴がこの家の養子になったんじゃよ。娘一人きりの先代じゃったけぇ、親戚の息子を婿に、と、うちの父に掛けおうた」

 何が、

「なるほど」

 なのか、天城朔は曖昧にしたまま。機を逃したか、先程の問い掛けもうやむやとなり、御本家の屋敷に居続ける理由もなくなった。やや、坂を下って集落の端へ。

 松林を背にした二階建てが白波屋で、昨日の内に喜三郎が電話を入れておいてくれたらしく、宿泊の交渉は難なく済んだ。

 宿帳に万年筆を走らせていると奥の障子が黄ばみ、人の形もおぼろげに。予報通りに雲が出、日の光をあてに出来なくなったからで、

「ああ、どうも。ここの主ですて」

 と、馬面を覗かせた男が、天城朔の相手をしていた女将を押し退け、スタンドのスウィッチを入れた。それは帳場での一幕で、

「貴方、ちいと」

 などと、女将が丸い顔をしかめるが、男は、

「おう」

 と、ただ、片手を挙げる。それもその筈、夫婦者だけに、家庭内だけで通じるツーカーもあるだろう。

 いかにも主の血を引いて、額が狭く、鼻の下が長い娘が、

「あれ、よう分からん人達でしょう。我が親ながら、言葉が足りんので」

 と、帳場裏の箱階段を上ってから天城朔に囁いた。雑用など、家業の手伝いをしているようで、松の間、と、札が掛かった客室の木戸を開ける。

 ガタリゴトリと建て付けが悪く、中は八畳で、修繕の為、千代紙が貼ってある押入れの襖こそ鮮やかだったが、おちこち、日に焼けて、それとなくぼんやりしていた。電灯の紐を引くとやや、はっきりとする。

「あの、美子(よしこ)さんでしたよね。今、他にお客さんは?」

 との天城朔に、宿の娘は窓を開けながら、

「おりません。連休中は磯釣りに何組かお見えになるものですけれど、今の時期は毎年、暇なものです。お客さんみたいに、島の者と縁がある方なんて、そうはおりませんけぇ」

「縁かなぁ。まだ、御本家がどんな家かも分かっていないわけですから」

「そう? あそこは昔の網元です。まぁ、近頃の海は漁協が仕切っとりますけぇ、そう簡単に口出しは出来んのですけれど、あそこの旦那様、上手うございましてね。何せ相場に敏い」

「へぇ、そうなんですか?」

「相談役として信頼されとりますんよ。財産を保つ為、投資もされとるとか。まぁ、御本家に限らず、村友さんは旧家ですけぇ、苦労されとるみたいです。やっぱり、自分の代で潰してはご先祖様への面目が立たんでしょうから」

「ご先祖様? へぇ、村友さんって、どれぐらい前からあるんです?」

「さぁ、そこまでは。ただ、水軍の大将の家柄で、日頼(にちらい)様とも繋がりがあったとか」

「ニチ……お坊さんでしょうか?」

「いいえ、日蓮(にちれん)上人違います。毛利元就(もうりもとなり)公のことで」

 安芸郡山(あきこおりやま)の小領主から始まり、権謀術数を駆使して、厳島(いつくしま)(すえ)氏、月山冨田城(がっさんとだじょう)尼子(あまご)氏を撃破して、大大名にのし上がった希代の名将。

 天城朔も無知ではなく、一通りの歴史は本で学んでいる。しかし、地元付近での呼び方までは知らず、

「あだ名でもついている?」

 と……。

「まぁ、そんなところ。で、です。この辺りは昔っから海の商売が盛んなところで、お大名としても放っておけんかったんですなぁ。その所為で戦も多かったそうで。海にも関がありまして、お大名、水軍に守らせるわけですけれど、やっぱり絡んどるのは支配権。この辺りでも鉄砲弓矢ほうろくと」

「ほうろく?」

「ちょっとした爆弾。そんなこんなで、迎え討つんに村友のお姫様が出陣したこともあったとか」

「へぇ」

朱鷺(とき)姫様、言いましてね。隣の島陰に船伏せといて、朝日が昇ると共に敵の船団に火かけた。奇襲するんがバレんよう、夜中、この島の高台や砦に松明(たいまつ)を焚き、敵の目を引き付けもしたそうで」

 宿の娘だけあって、郷土史を語るのはお手のものであるが、それだけでは仕事にならない。美子は押入れを開き、

「ここに浴衣がありますけぇ」

 乱れ箱に白と青の縞柄が畳んであったが、和装は慣れないと着崩れしかねない。天城朔は遠慮こそしなかったが、当ててみるつもりもなく、一息入れてから、

「早速ですけれど、出掛けます」

 と、一階に下りた。

第五章 闇と灯

 行く先は決まっていても、ところを知らない。高台と聞いているので、天城朔はとりあえず、集落を抜けた。アスファルトやコンクリートで舗装されているのは御本家の裏辺りまでで、そこからは固めた土に滑り止めの丸木が埋められているばかり。

 半ばで二つに分かれるが、どちらに行くにしても、赤いドクロとなった旧日本軍の亡霊が睨みつけてくる。出入口や窓の配置が目鼻を思わせるからで、錆びた蝶番(ちょうつがい)だけが残っているのがいかにも廃墟らしい。

 いっそう気味が悪いことに、室内に備え付けられた鉄パイプが、大蛇の群か、とも。このような建物でも、それなりに使い道はあるようで、肝試しに訪れた悪童達のものか、埃に足跡がついている。

 建物の周りには松葉が密に重なって、枝から枝へとカラスが飛んだ。

 鼓膜が震える。

 波が砕け、泡と消える様が瞼に浮かぶ。

 誘われるように、レンガの小道を歩くと林が途切れた。研究所の一部か、崖の際に広場が整備されている。

 転落防止用の柵は貧弱な上、半ば朽ちてもいるので、寄り掛かるわけにはいかないが、地獄の沙汰はここにあり。壊れたところにロープが張られ、ぶら下げられた近寄るべからず、の札が真新しく、久江が転落した現場と知れる。

 地を這って、手掛かりが見付かれば苦労はしない。科学に基づく調査とは無縁の天城朔で、分はわきまえている。場に漂う諸々の気を肌に染み込ませただけで白波屋に引き返した。

 手法などと偉ぶれば(ばち)も当たろう平凡な思い付きでしかないが、見て何一つ考えないような、愚か者でもない。実利はそれなりにあって、風車、水車と知恵の程。真相には届かずとも、道を歩む切欠にはなる。

 まとめる前に、

「あれ、お客さん、お散歩で?」

 との女将に、

「ええ、高台まで」

 下駄箱は四段、戸にカタカナが、イロハニ、と。

 天城朔が靴を仕舞おうとすると、女将は手を止めた。台拭きで帳場の掃除をしており、邪魔になったか、分厚いソロバンを掴んでもいる。

「お靴、片付けときましょうか?」

 天城朔も客商売で、心配りをするならば、常識道徳よりも、申し出を受けた方が気まずくならないのは承知している。一足、右手で摘み上げていたが、たたきに下ろした。

 女将は帳場を離れようとしたが、間が悪くも、

「おい」

 と、呼んだのは宿の主で、商才に乏しいのか、客の前であるにも拘わらず、茶の間でくつろぐような物腰で、

「新聞は?」

 対する女将の、

「そこ」

 とは帳場の脇、三畳の座敷で、一隅に古びたテレビ、将棋や囲碁の道具が寄せてある。

 敷居に戸が立てられていないので、行き来はしやすく、主は胡坐をかき、放り出してあった世間様を広げた。社会、政治、文化など何処吹く風。まずはテレビ欄、さらにスポーツ欄に目を通す。

「広島、打率、悪いなぁ。きっと、打順の所為じゃて」

 そこは二割を切ろうと、三割を超えようと文句のつけ方は同じで、代わりの戦術を示しもしない、ありがちな威張り方。連れ合いにとっては器の小ささが手に取るようで、

「はいはい」

 と、お座なりに相槌を打ち、客の靴をロの字の段に上げた。

 戸が閉ざされた音を聞き、箱階段の上から一瞥をくれた天城朔だが、あえて女将達に伝えることもない。松の間の窓際で、眼下に集う民家の屋根を眺める。

 空はいっそう曇り、島々や本土が黒ずんで、墨絵の風情もあるが、それはそれとして久江の一件。ただの事故ではなさそうで、現場には街灯一つなく、夜歩きをするにはふさわしくない。

 とはいえ、自殺の可能性は低く、そのつもりがあるならば、わざわざ天城朔に手紙を出しはしないだろう。

 と、なれば、事件と考えざるを得ないが、ところは孤島。東京でいざこざがあった輩が追いかけてきたとしても、本土に呼び出した方が計画としては理に適っている。連絡船を使っては船員や船着き場の係員に顔や特徴を覚えられかねない。

 しかし、島の人を疑うにしても、今のところはお手上げで、当てずっぽうに犯人扱いしては、不信感を持たれかねない。

 柔らかな指先を顎にあて、天城朔が明日の計画を練ろうとするとふいに打たれた窓ガラス、癖毛の先も揺れた。

 大時化(おおしけ)にはなりそうもないが、清々しくない空で、不安になるのは旅人だけでない。明日の未明、船を出すにしても、網の上げ方を工夫しなければならないから、漁師達、

「腕の見せ処」

 と、島のおちこちで湯呑みやコップに清酒を注ぎ、一杯引っかけ、道具の手入れをしていたが、板子一枚下は何とやら。侮ってもいなかった。

 日が暮れる。

 周りの島にも集落はあって、空から星を盗んだかのように、騒ぐ(うしお)に灯りが浮かぶ。ただ、天城朔が洗面用具を抱え、白波屋の一階に下りる頃には、一つ消えてはまた一つ、と。

 つまり、遅くまで起きている理由がない。あったとしても野球中継ぐらいで、丸めた座布団を枕にし、宿の主が、

「頼むぞ」

 と……。

 電波が不安定で、実況音声こそ聴き取れなかったが、映像は悪くない。二対一とリードしているのは広島で、マウンドに立つピッチャーの帽子が赤い。鋭く投げた球がキャッチャー・ミットに吸い込まれ、虚しげなバッターの大振りに宿の主が起き上がる。

「抑えた」

 中継の延長で時間が()していた所為か、ヒーロー・インタビューを無視してニュース番組が始まる。左上の時刻は九時三十分。しかし、間もなく灰色に覆われた。スウィッチが切られたからで、視聴者は潰れた座布団を拾う。

 座敷から出た先で、天城朔とぶつかりそうになっての、

「ああ、失礼」

 天城朔も一つ頭を下げ、

「あ、そこ、使わせていただきますね」

 と、指差したのは住居手前の洗面所で、ホーローの器に澄んだ水が用意されていた。歯を磨き、顔を洗い、流し台のタイルに汚れが残らないよう、引っ繰り返すだけならば、そのまま休めただろうが、眼鏡を掛け直し、鼻の先を窓に近付ける。

 洗面所は高台に面しているのだが、さて、それは鬼火か、牡丹灯籠か。灯台の灯りとは別に、昼間でも人気(ひとけ)のない坂道に浮かんでいるのが、怪談めいている。科学の俎上に載せるならば、懐中電灯やカンテラの類に決まっているが、いずれにしても不審であることには変わりがない。

 都合が悪く、また、後からすれば都合がよく、巻き込まれなかったのは唸りを上げる松風(まつかぜ)のお陰で、土地勘のない者が下手に出歩けば怪我をしかねない、と、そのままにしておいた。

第六章 事件

 忘れられず、布団に包まっていると夢に見た。あるいは、思い込みでしかなく、後からこじつければ、混沌は死し、別のものが生まれる。

 箒と塵取りで土間を清める美子に挨拶をしたのは朝早く。

 天城朔にとっては布団の片付けや朝餉も重要で、ことわざにある一文の得をドブに捨てるつもりはない。急かして米が炊き上がるでもないから、ヒステリックにはならなかったが、悠長に感じていたのも本当で、美子は、

「お布団はこの後。御飯は出来上がり次第、お持ちしますけぇ。まぁ、八時までには」

 などとのんびりしている。

 玄関の格子戸を開け、集めた砂埃を捨てると舞い上がり、歩み寄る人の足元に漂った。

「ヨッちゃん、ちいとええか?」

 帽子の鍔を目深に下ろし、腰のベルトに警棒と捕縄を帯びた、若い、

「駐在さん」

 で、美子が屋内に招くと左見右見(とみこうみ)、頬骨が発達した面を巡らせる。

「念の為、訊いとくがのぉ。村長さんところの恭吾君、来とらんよなぁ?」

 まだ、薄暗い頃で、

「うちに泊まったかっちゅうことでしょうか?」

 と、美子が訝ると駐在は、

「じゃけぇ、念の為じゃと。女の子にとっては話にならん男じゃっちゅうんはこっちも承知しとる」

 これは、夜這いについてほのめかしたわけだが、美子は呆れるばかり。

「当たり前。うちかて蓼食う虫が好きなわけじゃあないですて」

「じゃろうな。まぁ、それならええ」

「何ぞあったんで?」

「昨日の夜から帰っとらんのじゃと。で、事故に遭ったんじゃあないか、と、届け出があったもんじゃけぇ、こっちの仕事になった」

「はぁ、そげなことが?」

「青年団の連中にも手伝うてもらっとるがのぉ」

 これは皆、不承不承で、駐在もまた疲れている。甘い米のかおりが漂ってくるなり、

「飯、炊いとるのぉ」

 と、わざわざ、言ったのは一膳、抜いてもいるからだろう。

 その後、松の間に運ばれたのは、飾り包丁が斜めに交わるカレイの煮物で、天城朔が箸で身を摘み、口に運ぶと昆布かカツオ節か、舌の上に出汁(だし)の深みが広がった。臭みを消すべく添えられたショウガの風味も爽やかだが、鼓は打てず、

「恭吾さんのことですけれど」

 それもこれも、久江と同世代の人物で、つい結び付けてしまったからだが、おひつの白米をしゃもじで掬い、お椀につけていた美子は、

「あの男ですか?」

 と、裏も表も賽の目もない、冷ややかさ。不良青年への不満は山程あるのだろうが、饒舌になる前に、

「火事?」

 と、窓を開けもした。

 やけに尾を引く半鐘の音に、鳶口を携え、消防団の法被(はっぴ)をまとった男達が火の見櫓の下に馳せ参じたのは想像に難くないが、火災の煙は一筋たりとも立っていない。

 それはまるで異なる一大事で、やがて、白波屋に転がり込んだ青年が、

「おっさん、女将さん」

 と、勢い余って玄関の柱にしがみつく。

「ち、血塗れじゃとか。け、研究所の中で」

 何事か、と、二階から覗いていた天城朔が、コロコロコロコロ、転げそうになりながらも帳場まで下り、

「もしかして、鈴井の恭吾さんが?」

 と、たしかめる。

 台にぶつかりそうになったので、片足を軸に避けようとしたが、体操選手のようにはいかない。よろめきかけたのを如何にか持ちこたえると青年が、

「そう。あいつ、あいつが……め、滅多刺しにされとるとか」

 それから女将達に見送られ、天城朔は研究所へと急いだ。腕の振り方が頼りなく、御本家の屋敷を過ぎた辺りで息が切れ、手を膝に。息を整えてから、鍛えが足りないふくらはぎも重たげに分かれ道まで上る。

 赤い研究所の屋根に散る黒い点は異変を察したカラスの群で、近くの茂みも騒々しい。一羽、飛び出したのは男が一人、腕を突っ込んでいたからか。

 やがて、引っ張り出されたのは紺色の。丸められ、しわも入り組んでいたが、左右を摘まれ、風に広げられるとフードの付いた合羽(かっぱ)で、

「やっぱりじゃ。血付いとる。犯人の奴、汚れんよう、こいつを着とったに違いない」

 生地の色が濃いだけに目立ちはしないが、右の袖から胸元にかけて黒々とした染みが。

「駐在さん、証拠、証拠」

 で、あるが、呼ばれた方は駆け付けられない。研究所の出入口で仁王立ちをしていなければ、野次馬達に証拠を踏み潰されてしまう。

「触るな。そこはわしら警察の仕事」

「じゃけぇ、証拠」

「じゃけぇ、元のところに置いとけ」

 揉めごとに巻き込まれたくもなかったので、天城朔は人の群には加わらず、遠巻きに腕をさする。勢いに任せてここまで来たが、レンガの赤にこびりついた血を思い、地面に死体が転がっていなかったのがせめてもの救い、と、溜息をついた。

 途端、

「お客さん」

 と、後ろに立たれたものだから、触れられてもいない背中を反り、斜めに傾いだ眼鏡を整えもせず、

「ああ、イヨさん」

 と……。

 髪の乱れに焦りがうかがえるが、息は上がっていない。御本家の屋敷で手伝いをしていれば、力仕事をすることも多く、足腰はおのずと逞しくなる。

「えらいことになりましたなぁ。何でまた?」

 とは、イヨだけでなく、誰もが抱く疑問で、早くも和装の女が甲高く叫び、人差し指を立てる。

「あいつ、あいつがやったんじゃ」

 支える村長が、

「おい、松代(まつよ)。しっかりせんか」

 と、肩を揺さぶったが、憤りの赴くまま、大きな口を歪めた女は般若(はんにゃ)に似て、衿を乱し、浮き出た鎖骨も露わに、

「貴方、恭吾が殺されたんですよ。(かたき)を討つんが親の務め。あいつ、二見(ふたみ)良平(りょうへい)がやりよったに決まっとるじゃあないですか」

 何度も爪の先を突き付けられて、

「何を」

 と、拳を固めたのはつなぎにゴムの長靴と、いかにも漁師らしい青年だった。

「俺じゃあない。やっとらん」

「いいえ、犯人はあんたじゃ。いなくなる前、恭吾は頬を腫らしとった。飲み屋であんたが殴ったんじゃろうが」

「酔っとっただけじゃ。悪いのは恭吾の方」

 潔白を証明するのは権利であるが、あたかも、被害者に非があると言わんばかりの口振りが火に油を注ぐ。

「何じゃと? もういっぺん言うてみい」

 松代が村長を振り払い、前に出ると良平も昂ぶっていて、

「ああ、何べんでも言うてやる。あのゴミ野郎が悪いんじゃ」

 と、汚らしげに罵った。

「この野郎」

 とは村長で、立場があるだけに、憤りを抑えていたが、蓋を外せば歯止めが利かず、怒りと共にぶつかった。

 ひるんだ良平の胸を突き、松代も加わったのが、尚悪く、すわ、と、周りを囲んだ島民達。誰も彼もが権力に叩頭しているわけではない。

 危うさに五歩六歩と下がった天城朔とイヨの脇を抜け、カランコロンと下駄を鳴らし、

「止めんか」

 と、冷え切った水を浴びせかける人がいなければ、十中八九、殴り合いになっていただろう。

第七章 ボストンバッグ

 島の者が、

「ああ、勘太郎さん」

 と、呼び掛けると髭も逆立てんばかりの厳しさで、退けと言わずとも、おのずと道が譲られた。

「一人息子があげなことになって、悔しいのはもっともじゃ。じゃけど、騒ぎを起こしてええっちゅう法はない」

 諭されると激情が失せ、理性もまた。村長は立ち尽くし、松代は崩れ落ちて土に伏したが、泣きもしない。

 露骨に疑われた側は治まらず、憎々しげにしていたが、勘太郎に睨みつけられて居辛くなったか、坂道を下った。

 不満で張り詰めた肩に押し退けられた天城朔だが、啖呵を切る勢いはない。

 良平の広い背中が遠ざかるとイヨが、

「実際、どげんなっとるんでしょうかのぉ?」

 と、囁いたので、辺りを見回しながら切り替えた。

「あの人、犯人かなぁ? 違うような。多分ですけれど、喧嘩をしたばかりの人をこんなところに呼び出したり、連れだしたりするなんて、出来ないんじゃあ?」

「まぁ、ね。ふつうは気ぃ付けとるでしょうから」

「偶然、会ったなんてこともなさそうですし。この辺り、昼間でも人の出入りが少なそうですから」

「ほうほう、お客さん、割かし頭ええんですなぁ」

 ひとまず、良平への容疑を晴らした天城朔は、

「それで、今、大切なのは」

 とで、触れようとしたのは昨夜のこと。事件の発生とあの灯りが不穏の内に重なって、坂伝いに鬼火が舞う奇怪な像を結びもする。あれを手にしていたのは被害者の恭吾だろうか。あるいは、犯人かもしれないが、天城朔にとって肝心なのは、

「午後九時半」

 するとイヨが、

「アイロンかけとりましたけれど」

「誰が?」

「うちがです」

「あ、いえ、そういう話ではないんですけれど。その……船があるかってこと。たしか、連絡船は午後七時までで、翌朝までないんですよね。あの……昨日に限って臨時の便があったなんてことは?」

「まさか。ただでさえ利用する者が少のうて、十時と四時の便を減らすべきじゃあないかって言われとるぐらいです」

 いかなるものが目撃されていようとイヨにとっては他人事で、

「それが?」

 と、一言、加えた。

「余所の人が犯人だったら、朝まで、島の何処かに隠れていないといけなくなるんじゃあないかって」

 そのようなことをするよりは、船がある内に犯行を終えた方がよく、とどのつまり、久江の一件と同じく、島内の出来事である、と、天城朔はほのめかしたわけだが、それだけでは伝わらない。

「それが?」

 と、イヨはやや、強めに繰り返した。

 隠しておかなければならないことでもないが、あやふやなままになったのは、曇天にサイレンが響いたからで、島の人々が松越しに指を差す。所属の示すランプを赤々と、二隻のランチが港に入ろうとしていた。

「捜査、始まるみたいじゃのぉ」

 とは、何時しか場を仕切っていた勘太郎。

「皆、ここにおっても邪魔になるだけじゃけぇ、そろそろ、退散した方がええ」

 と、分別を利かせる。

 櫛の歯が抜けて、木の葉は落ちと現場が静まったのは、雨のにおいが強まりもしたからで、いずこかで唸る雷が獲物に喰いつこうとする獣かと。頬がひやりとするのも錯覚ではない。

 列を成し、上ってきた係官達が合羽を抱えてもいた。濡れるのはまだよくとも、雨足によっては証拠が流れてしまうので、前途は暗い。

 目元口元の険しさに、天城朔が道の端に避けたのは御本家の門前で、揃うことのない、数ばかりの足音が遠のくと、

「天城さん、これからどげんされます?」

 と、ここまで一緒に下りてきたイヨが気を遣った。

 先に入ろうとしていた勘太郎が、

「傘ぐらい、借りればええて」

 と、暗に勧めもしたので、母屋の十畳間で名夜を加え、テーブルを囲む。

 座布団の上で大人しくしていると運ばれてきたのは梅の花が数輪、鮮やかに染め付けられた白磁の湯呑みで、口を付けると薄い緑に葉の欠片が舞った。

 勘太郎が真っ先に飲み干して、

「じゃけどなぁ。恭吾君を殺して、何になるっちゅうんか?」

 と、呟くと天城朔は、

「他人から恨まれていたなんてことは?」

「あれは恨む方。そう出来がええわけでもないのに、自分より優れたのがおると陰口を叩きよった。久江なぞも迷惑しとったじゃろうなぁ。東京の大学まで行った者、男でもおらん島じゃけぇ」

「ひがんでいたってこと?」

「そうそう。じゃけぇ、タカトビ呼ばれる」

「タカトビ? 陸上競技の?」

「いやいや、タカがトビを生むっちゅう意味じゃて。トビがタカを生むの反対でな。村長はそれなりの者。亡うなった村長の親父さんも元は学者じゃが、如何にもこうにも三代目でなぁ」

 父親や祖父が優れていれば、劣っているように言われるのは珍しくないが、妙なこともあるもので、お盆を抱え、台所に下がろうとしていたイヨが、

「まぁ、半分はしがない漁師の血筋じゃけぇね。村長さんの奥さん、さっきワァワァ言っとった松代さんですけれどなぁ。そりゃあもう荒っぽい家の出でしてねぇ」

 と、嘲った。

 都会でも遺伝について語られることはあるが、西洋占星術と同じく冗談の類に属する。イヨは元々、恭吾を好いていないので、何事につけても辛辣に見てしまうのかもしれないが、それにしても穏やかではない。

「いけないことでも?」

 と、天城朔が問い掛けても、

「うちの身内と大差ないですけぇね。まぁ、余所の人とは上手くやれるんじゃあないですか? ああして、祝言、挙げとるわけですし」

 などと、不思議などなさそうに、

「けったいなことお訊きになりますなぁ」

 と、苦笑さえする。

 風土に根ざすことかもしれず、名夜と勘太郎も否定しなかった。

 現状を見定めるには、通って然るべき道があり、細く、危うげな橋がかかってもいる。落ちずに渡るには両腕を広げるか、這って進むか、どちらにせよ、大胆かつ慎重にならなくてはならず、天城朔は時間を掛けながらも、核心を突こうとした。

 言うはやすしと上手くはいかず、今や、

「降ってきましたなぁ」

 と、名夜が縁に出た通りで、庭木の葉が揺れ、土の色も濃い。そこで、滑り込んできたのは雨音だけではなく、

「父様、お帰りなさい」

 いかにも本土から戻ってきたばかりの喜三郎は背広を着、鳥打帽を被っていた。縁にボストンバッグを置き、

「そっちも大変だったそうじゃなぁ」

 とで、勘太郎もテーブルを離れる。

「そっちも? お前の方でも何かあったんか?」

「ああ、それがのぉ。警察の人達に見せてもろうた遺体、久江じゃった。ああ、いや、久江じゃが……そう、久江じゃ」

 混乱していて通じ難く、

「落ち着け」

 と、勘太郎が促すと喜三郎は虚空に目をやった。やがて、項垂れ、背を丸め、

「崖から落ちたわけじゃけぇ、顔の方は滅茶苦茶でのぉ。じゃけど、首のほくろは残っとった。それから、身に着けとった服。確認するよう警察の人達に言われたんじゃが、間違いなく久江のものじゃった。ただ、なぁ」

 凄惨な死体を目の当たりにすれば、胃も悪くなる。おのずと眉間にしわを寄せたが、難しい局面に立たされた人ならではの思慮もあり、

「事故に遭うたわけじゃあない。胸のところに、刺された(あと)があると」

 とを、漸く絞り出したのは、青が轟音を伴い、辺りを包む直前のこと。

第八章 島の事情

 これは、

「落ちたか?」

 と、勘太郎がガラス戸の(へり)に手をやり、冷えゆく外気に(こうべ)を突き出すと石臼が回ったは雲の内。やがて、龍が飛びもする。

 名夜と勘太郎が座敷に戻ったのは、威圧されたからで、喜三郎も玄関に回った。余所行きの革靴を揃え、下駄箱に収めてから、

「イヨ、イヨ、茶を。いや、この際、水でもええ」

 と、コップに一杯、清々しさをもらう。被害者の一人が身内であるだけに、そのままでは済まされず、十畳間で勘太郎と向き合って、

「で、兄貴? 事件のことじゃが、これからどげんしよう?」

「そうじゃのぉ。まず、互いに分かっとることをはっきりさせようか。次第によってはええ案が浮かぶかもしれん」

「まぁな」

 しかし、二人共、饒舌な性格ではない。そのままでは相談になりそうもなかったが、雨と雷の隙を突き、沈黙の沼に小石が落とされた。名夜の、

「それで、父様」

 とで、波紋を描き、重苦しさを和らげ、疑問を口にする切欠にもなる。

「犯人の目的、分からんなぁ。久江と恭吾君、揃って恨まれもせんじゃろうし。久江は兎も角、恭吾君、二人して何ぞするんは嫌がるじゃろうて。仕切られるに決まっとるけぇなぁ」

 ただ、恨みの質によっては当てはまらず、天城朔が、

「お金のことで揉めていたなんてことは?」

 と、障子戸を背にして訊く。

「犯人は久江さんと恭吾さん、二人から幾らか借りていた。何処かでもつれて事件を起こさなくてはいけなくなったとか。その……いかがでしょうか?」

 久江の身内が相手でなければ、真実味のある見方として取り上げられていただろう。天は疎にして漏らさなくとも、天城朔は人だから、不足があって然るべきで、ここでは久江の懐具合。事前に訊いたり、調べたりするのは不躾過ぎる。

「久江は他人様と揉める程、持っとりませんでしたが。親が遺した金もほとんど、学業に使うてしまいまして。それでも足りんっちゅうんで、後見人のわたしがちいと出したぐらいです」

 との反証は喜三郎で、まったくもって正しい。加えて、

「恭吾君も、人に貸せる程、持っとらんかったでしょう。職なしですけぇね。一応、働くつもりはあったみたいですけれど、上手くいかんかったそうで。母方の親戚が、漁師として鍛えてやると申し出たそうですけれど、そげな仕事は嫌じゃ言うたみたいで」

 醜聞は噂となって広がりやすく、勘太郎も耳にしていて、慎重になる義理や利益がないだけに、

「親父も祖父さんもココがええもんじゃけぇ、自分も、背広じゃ、白衣じゃ、と、身の程知らずにのぉ」

 と、皮肉めく。

 手詰まりであるのは否めず、天城朔は別の矢を放とうともしたが、えびらには一本たりとも残っていなかった。口ごもると村友の人々も、状況が転ぶのは右か左か、と、思案げにする。

「ああ、そう」

 と、喜三郎。兄と目が合うと口を噤み、膝に拳を乗せてうつむいた。あえて語るべきことではなかったのかもしれないが、この際、衿を開いてもらわなければならない。

 勘太郎がテーブルに手を乗せるが、ふいに流れが変わり、名夜が腰を浮かせた。

「あれ?」

 門の外ですぼむはコウモリ傘で、通用口を潜った男達が泥水を跳ね飛ばす。玄関に駆け込んで、迎えた喜三郎と名夜に示したのは桜の御紋、それは黒い手帳の真ん中に。表紙の裏が身分証明書を兼ねる。

 人数は都合六人で、背広姿の警部補が代表らしい。

 喜三郎が、

「こげな日にご苦労様です」

 と、挨拶をすると傘の石突から雫を滴らせながら、

「ランチも揺れに揺れましてなぁ。まぁ、お宅の久江さんの件については職務ですけぇ、文句を言う筋合いもないわけですが」

「村長のところのは?」

「ああ、いや、それはまだ、別件でして」

「別件?」

「まぁ、小さな島で二人も立て続けにっちゅうことになれば、連続殺人の疑いが強いわけですが、法的に認定するには捜査を進めて、証拠を突き詰めんといかんのです」

 さて、その上で、聴き取りを始めるにあたり、諸々の令状がなければ、証言、証拠の提出は任意である、と、伝えられたが、天城朔にとっては迷うところ。

 久江の手紙を持っている。内容は記憶しているから、手元になければならないものでもないが、それについて、まともに取り合ってもらえるとは限らない。別室に呼ばれると実に軽い扱いをされた。

「いやはや、なるほど。こっちに遊びに来て、さぞかし驚かれたでしょうなぁ」

 担当の私服はわざとらしい頷き方をし、天城朔が、

「あの、その……あの、それが」

 と、伝えようとしたのも遮って、

「ああ、もうええですよ」

 記録係の若手が手帳を閉じたので、天城朔は引き下がり、玄関脇に。

「ああ、あんたか」

 とは、縁にいた勘太郎で、屋根から滴る雨水越しに庭を眺めていた。他に人気がなかったので、天城朔は座りながら、

「喜三郎さん達は?」

「久江の部屋に行った。訊きたいことがある、と、お巡りさん達に呼ばれてなぁ」

「はぁ」

 とで、それからは手持無沙汰となったが、場を弁え、ふいに浮かんだよしなしごとを喋りもしない。襖が一枚、敷居を滑り、喜三郎と名夜が戻ってくると、

「あの……」

 と、豊かな胸の膨らみをテーブルに乗せんばかりにするが、それでもノロノロとしていて、勘太郎が先に、

「で、あっちで何が?」

 トントン拍子にはいかず、

「さぁさ、こちらで」

 と、イヨが係官達を連れてきた。

「では、捜査本部に戻りますけぇ。ご協力、感謝します」

 一人ずつ、玄関の壁や框に立て掛けてあった傘を取ろうとする。先に靴を履いた警部補が、たたきに倒れていたものを、

「ほい」

 と、拾って渡し、道に出た。

 御本家の人々にとってはそれからも忙しく、とりわけ、イヨにとっては大事で、事件があったとしても、仕事を休むわけにはいかない。汚れものが出れば、腹も減る。

 十畳間にいる主らを下に見ないよう、玄関の板敷に膝をつき、

「お昼ですけれど、勘太郎様の分もお作りいたしましょうか?」

 との心配り。

「ん、いや、別に帰ってもええが」

 勘太郎は立とうとするが、未だ雷が鳴っていて、喜三郎が、

「待った待った、食っていけ。その内、小降りになるじゃろうて。昨日、本土の宿で予報観たら、ザァザァするんは昼まで、と、言うとった」

 と、弟ならではの忖度(そんたく)をした。

「そうか? じゃあ、甘えることにしようかのぉ」

 また、御本家の当主はただ、身内をひいきにしているわけでもない。

「天城さん、貴方は? 食べてゆくんじゃったら、白波屋に電話、入れさせますけれど」

 茶の間でちゃぶ台を囲むとガラス障子の陰で包丁が使われた。まな板に菜っ葉が横たえられていて、湯に通してから、醤油をかけて出すという。

 時は金なりで、二つ三つ、別々のことをするのは台所における不文律、と、イヨはカマドの火も見、弱くなれば竹を口に当てもした。釜から湯気が昇ると緑が鮮やかなのを笊に盛り、運ぶ。

 都会育ちの天城朔にとってはもの珍しいが、観光気分でもいられない。

「ええと、よろしいでしょうか?」

 と、居住まいを正し、喜三郎達が耳を貸すのを待ってから、

「勘太郎さんがさっき、訊こうとしたことですけれど」

 しかし、膨らみもしなかった話だけに忘れられそうになっていた。かろうじて勘太郎が覚えていて、

「ああ、あれか。喜三郎、どうじゃろう?」

 と、雨漏りから畳を守る茶碗に数滴、落ちてから。よろず、土壁に染み入るが如く、漸く、流れを掴んだ喜三郎の、

「日記じゃよ」

 とが、やけに響きもした。

「それって、おかしなことが書かれていたとか?」

 天城朔は使い道から導き出したわけだが、

「いや、そうじゃあないんです。なくなっとりまして」

 とで、豆鉄砲を食らう。

「えっ、久江さんが処分したってことでしょうか?」

「でしょうなぁ。数年前からつけ始めたみたいで、本棚に並べてあったわけですけれど、そこんところだけ空っぽに。イヨが気付いてお巡りさん達に知らせたもんですけぇ、確認の為、わたしと名夜も呼ばれたんですが」

「身の回りで何かあった?」

「進学と卒業」

 東京のことは東京のことでしかなく、孤島での連続殺人とは結び付かない。

「他には? 久江さんだけのことじゃあなくて、親戚が亡くなったとか、揉めごとがあったとか」

 人はいずれ死に。いがみ合いは何処にでもある。まったくの当てずっぽうだが、そこは的を射ていて、謎めいた間が生じた。親戚のことであれば、触れたがらないのもむべなるかな。

 凪を乱すべく、勘太郎が吹かせた風も穏やかさを欠いていた。

「選挙。鈴井……つまり、今の村長の対抗馬がうちの親戚じゃった。千助(せんすけ)っちゅう御仁でなぁ。何年も村長を務めてきた。ふつうにやったら大勝間違いなかったが、準備の段階でこの喜三郎が、鈴井を応援する言い始めてのぉ」

 村友の親族にとっては裏切りで、世の中には親戚が出馬するのであれば一票を投じて当然と看做す人も多い。

 しかし、喜三郎にも言い分はある。

「兄貴、千助爺は歳行き過ぎとるよ。四選もしたわけじゃけぇ。あのままでは村政、停滞しとっただろうよ。政策っちゅうんもある。千助爺のは明らかに古過ぎた。現に赤字解消のきざしが見えたのは……」

「それは、現職の周りにいる者が吹聴しとるだけじゃろうて」

「いや、わしも計算してみたけぇ、間違いはない」

「お前はお役所の人間じゃあない。余計なことはせん方がええんじゃあないかのぉ?」

 ぶつかり合う兄弟だが、罵り合いにはならなかったので、呼吸の間を狙い、天城朔が横槍を入れた。

「選挙って、喜三郎さんが応援するだけで勝てるものなんでしょうか?」

 水軍の子孫にして網元といえども、御本家に昔日の勢いはないとの話であるが、どうやら、法とお足にまつわることだけらしい。勘太郎によると、

「烏合の衆みたいな改革派をまとめられたのはやはり、御本家だからで」

 で、つまりは、

「じゃあ、この辺りでは、まだ、ここを信用している人が多いってこと?」

「もちろん。じゃけぇ、鈴井の村長だけでなく、千助旦那もあてにしとった。あの人はここの御先代のいとこで、大奥さんの兄。まさか、まさかの」

「え、勘太郎さん、ちょっと」

「何?」

「つまり、それっていとこ同士で縁組をされたってことですよね? また、珍しい」

「別に法律に触れてはおらん。喜三郎かて、はとこ同士でやっとる。余所から引っ越してくる者が少ないもんじゃけぇ、縁組の時は何処かしこで血が繋がっとるもんじゃ」

 御本家が重しを成しているのも頷けて、何処であってもリーダーがいなければまとまらない。古い体質の島ならば、他に元とすべきこともなく、

「そういうんは水より濃いっちゅうになぁ。まったく、こいつは何を考えとるんか?」

 と、勘太郎が嘆く。

「兄貴、これからの時代は人物本位じゃて。でないと何もかも立ち遅れていく」

 喜三郎はさも、志がありそうな物腰を貫くが、後ろめたさもあるようで、改革を信条としているが故の熱に欠けた。

第九章 出家二人

 やがて、鳥が休むのを止め、屋根裏や木々の枝、岩陰から発った。波をかすめて羽ばたくのは、いずれの目的があってのことか。それに心を重ね、こればかりが楽しみ、と、ばかりに笠を被り、岸壁から糸を垂らす老人は呆けてはいるが、悟りには近い。

 かえって、出家の方が俗界にあるもので、臙脂の唐傘を差して坂道を歩く姿があくせくしている。

 合羽(かっぱ)のフードで頭を覆った男がすれ違いざまに、

「ああ、和尚さん栄良さん、お出掛けですか?」

 と、挨拶をすると栄良が傘の骨を軽く押し上げた。

「はい、御本家に」

「ほう、また、それは?」

「久江さんのことで」

「ははぁ、不幸があれば、呼ばれるっちゅうわけで? お医者と一緒ですなぁ」

 幾らか軽口めいた男は港に下りていく。

 仏弟子達は背を向け、やがて、唐傘を畳み、御本家の敷地に。

 逸早く、気付いた名夜が凍りついたような頬に微かな熱を通わせた。スカートが乱れないよう、手で裾を払い、

「父も伯父も待っとりましたんよ」

 で、和尚が、

「然様で。おや、天城さんもお見えですか」

 お釈迦様の故郷では、まず、手を合わせ、ナマステと言わなければならないが、お辞儀をするのが日本における礼節で、

「上がって下さい」

 と、名夜が許すと喜三郎も妨げず、十畳間で向き合った。

「和尚。こげな日に悪いなぁ」

「いや、電話じゃと伝わり難いこともあるじゃろうて。わけもないのに会うのを嫌がるようになったら人間、終いじゃよ。で、久江さんのお弔いについてじゃが」

 御本家と寺で取り決めなければならないことで、天城朔は口出しを控えた。身だしなみとまではいかないが、偶々、触れた襟の乱れを直したのは、隣の一間でのこと。

 喜三郎にとっては些細な仕草で、一瞥もくれなかった。殺人事件の被害者遺族になるとは思いも寄らず、兄、勘太郎に目配せをしたのは、不安のあまりに助言を求めた体であるが、いかんともし難い。

 どの道、後見人の責任として、喪主を務めなければならないから、率先してことにあたらなければならなかった。

「うむ、そうなんじゃがなぁ。何時やったらええじゃろうか? ふつうの通夜、葬式なら亡うなった妻の時と変わらんのじゃろうが、今回ばかりはそうもいかんのじゃろう?」

「まず、御遺体がすぐには戻ってこんじゃろうからなぁ」

「ああ、ことは殺しじゃけぇ、何日もかけて調べないかん、と、警察の旦那方が。それなら、と、こうして、いったん帰ってきたわけじゃが」

「本土で荼毘(だび)にふしてもらうんかのぉ?」

「ああ、そのまま連れて帰るは手ないけぇなぁ」

「それなら、灰が戻ってきてからにするか、先に済ませてしまうかじゃなぁ」

「先に?」

「まぁ、非常の時じゃけぇ、臨機応変にやれなくもない」

「じゃあ、先にやってしまってもええかもしれんなぁ。待っとったら、何時になるか分からんし、そうなったら皆の都合と合わせ難くもなる」

「急げば、明日にも出来るが」

「ほう、じゃあ、そうしたい」

 日程の後は、細かく詰めていくばかりで、ふいに勘太郎が、

「皆に手伝いを頼まんとなぁ。挨拶回りは?」

 と、沈黙を破ると喜三郎は両の指を絡めた。

「名夜に行かせる。イヨじゃあ、納得しない者もおるじゃろうから」

「まぁ、そこは、礼儀っちゅうわけじゃなぁ。そうじゃ、この際、千助旦那のところにはお前が行け」

「どげんして?」

「印象、ようなるに越したことはないじゃろう? 身内と仲違いしたままでは、何かとやり難い。頭下げろ、と、までは言わんが」

 一理あって、喜三郎は一つ息をする間に呑み込んだ。

 通夜葬儀にあたっては、必ずやらなければならないことがあって、茶が出されてから栄良が、

「和尚様、戒名(かいみょう)は?」

 と、訊いたのは誤りでこそないが、一同としては一服したい折。修養の浅さが短慮や空回りに繋がっている。

 師としてあえて叱らないのは和尚の度量か。苦味と熱をゆるりと含み、

「そうじゃなぁ、喜三郎さん。久江さんの戒名の末、他の方と同じ信女(しんにょ)でええじゃろうか?」

 旧家ならではの伝統や、風習を心得ている喜三郎が、

「ああ、親戚中、信士(しんし)信女じゃけぇ、久江だけ大姉(だいし)には出来んて。第一、あれは偉い人やよう修行した人のものなんじゃろう?」

 と、分別(ふんべつ)を利かせると、

「いや、近頃はそう難しいことは言わん。本山の規定も年々、変わりよるけぇ」

「信女で頼む」

 仏の教えも伝わらなければ雑談でしかないが、梵語で煙に巻くような真似をしない和尚で、後はすんなりとまとまった。

「ああ、そうだ。天城さん。貴女も久江さんのお弔いに?」

 と、立ち上がる前にたしかめると、

「そうしたいんですけれど、格好ってこのままでよろしいでしょうか? 持ち合わせがないので」

「そこは喪主さん次第じゃが」

 ふだん着と差がない天城朔の井出達で、格式が徹底されれば拒否もされようが、

「構いません。線香、あげてやって下さい」

 と、喜三郎は快く応じ、

「さて」

 で、和尚が行くのであれば、共をするのは弟子の務め、と、栄良も片膝を立てる。

 下駄の鼻緒に指を通していると預けてあった唐傘を名夜が掴み、差し出した。格子戸、通用口と開けて、

「ほな、明日に」

 と、まではふつうかもしれないが、長々とたたずむ。雨が止み、雲間が明るくなってもいたので、苦になりはしないだろうが、それについては淡くも濃くもない天城朔で、縁の床に手をつきながら、

「栄良さんですか?」

 雛もいずれは巣立ち、つがいとなる。家に縛られていれば、たやすくなく、親との情もあろうか、と。

 名夜だけでなく、喜三郎にとっても込み入ったことで、一つ屋根の下に暮らしていようと、寂しさを拭えずにいる。

 伯父だけに勘太郎は、

「まんなじゃな」

 と、まだ、気軽だが、皆まで触れようとはしなかった。

第十章 写真一葉

 旧家ならではの実情で、自由恋愛、個人の尊重は金科玉条にはならず、ただ、添い遂げさせるわけにはいかない。

「ああ、名夜様達のことですか?」

「ご存知?」

「それはそうですよ。名夜様のお婿さんが、御当主の座を継がれるわけですけぇ、うちらとしては知らぬ存ぜぬでは済まされんのです」

 白波屋の帳場で、ソロバンの玉を弾きながら美子が語る。我流で、時折、中指まで使う癖があったが、むしろ、巧みで、前に後ろへと目まぐるしい。解が出ると舌先で鉛筆の先を湿らせ、帳簿に数字を書き込んだ。

「栄良さんって、如何いう人なんです?」

 とは、三畳間から。天城朔は心の赴くまま、弾けんばかりの豊穣を腕で挟み、深い谷間を作りながら脚を崩している。

 美子にとっては忙しい時で、台の端にソロバンをぶつけ、玉を揃えるが、客あしらいをおろそかにするわけにはいかない。

「村友さんのご親族です。御本家からは遠うございますけれど」

「何でお寺に?」

「ややこしい事情がありますんよ。そもそもの原因は栄良さんのお母さんです。余所の男と駆け落ちしよりましてねぇ。その後、お父さんが事故に遭われて亡うなった」

「ええと、船?」

「そうです。舵を取り間違えて転覆したみたいで。ふつうなら、絶対にやらんような失敗じゃとか」

「落ち込んでいた?」

「そこまでは分かりません。ただ、栄良さん、生真面目な方ですけぇ、えろう落ち込みまれましてなぁ。今があるのは根気に声をお掛けになった和尚さんのお陰でしょう」

「弟子入りをしたのは、そういうことがあったから?」

「そう。今では、本山で本格的に修行をして、和尚さんの後を継ぎたいなんて。まぁ、そうじゃないとうちら檀家が困るんですけれど」

「和尚さんって、お子さんは?」

「女の子一人。お寺を存続させるには、和尚さんが弟子を育てるか、余所の方に頼むしかないちゅうわけで」

「尼寺にするわけにはいかない?」

「お寺にも伝統がありますけぇね。今更、女の子に継がせるわけにはいかんみたいで。それに、可愛い子です。頭ツルツルも可哀想でしょう」

 禅林句集に、師に遭えば師を殺せ、仏に遭えば仏を殺せ、と、あるが、修養の甘い者にとっては戒律を破る言い訳にしかならないから、かえって毒ともなるだろう。ソモサン、セッパの禅問答。頭デッカチ、胸デッカチの天城朔には縁のないことで、論じようとすればたちどころに真実を失う。

「なるほど、栄良さん、お寺の跡継ぎとして大切な人なんですね」

 との天城朔に、美子は帳簿に誤りがないか、指で示しながら、

「可哀想なのは名夜様です。こんまい頃、栄良さんの後にくっついて、お嫁さんになる言うとったぐらいですけぇ。ただでさえ、久江様の方が好かれとったっちゅうのに」

「ん、それって?」

「ほら、久江様ってお勉強、好きだったでしょう? 栄良さんも似たようなもので、子供の頃はよう本の貸し借りをしとりました」

「馬が合った?」

「まぁ、学校の黒板に相合傘(あいあいがさ)書かれるぐらいには。まぁ、お互いに親戚としか見とらんかったでしょうけれど」

「そういうのって、何処にでもあるんですね。四角でしょうか?」

「ん、何がです?」

「その……名夜さんと久江さんは栄良さんを巡って色々とあった。そこに殺された恭吾さんも加わっていた」

「まぁ、あのタカトビは周りを見返せますけぇね。名夜様のお婿さんになれば、御当主になれますけぇ。まぁ、そこら辺の男どもはほとんど、目付けとりよりますよ」

「はえ?」

「第一、名夜様、うちと違うて綺麗じゃけぇね。去年の選挙の時なんぞも、改革派の会合を御本家の屋敷でやっとりましたけぇ、口実にして近付くわ、三郎様の御機嫌をうかごうとするわで」

「あ、もしかして、その流れで村長さんを応援した人とかもいます? 喜三郎さんからいいふうに見てもらう為に」

「それはそうですよ。それぐらいのうま味がないと流石にねぇ。まぁ、追い風は追い風ですけぇ、村長さんは歓迎しとったみたいですけれど」

 そこで、美子は帳簿の表紙を閉じ、

「すみません、そろそろ下がってもええでしょうか? 他にもやらなくてはいかんことがありますけぇ」

 と、箱階段の引出しに仕舞った。

 白波屋の二階に上がると表はようよう白く、流れ、二つに分かれた雲が天岩戸(あまのいわと)か、と。塵の失せた空が広く、本土の山が連なって、眺めるに窓を邪魔にすると濡れたままのひさしから、雫が飛んだに違いない。天城朔が人差し指を這わせたのは広い額の真ん中で。

 鬱屈と感傷を晴らすにはよく、一段高きに片手を置き、長く留まるのを厭いもしなかった。当事者でなければ、通りすがりでもないだけに、村友や鈴井の身内とは異なる、不可解な余裕もある。

 ところを御本家の屋敷に移せば、建具が人を(とざ)していて、薄暗くも息苦しい。

 名夜が寝間の敷居に這い寄りはしたが、障子戸には触れもしなかった。手前の鏡台に用がある。

 台の角がささくれているのが若者の私物らしくない。代々、この家の女の顔を映してきたもので、時折、鏡面に影が差す。

 肉親であれば、目や口元が似ていたとて不思議ではなく、心霊とまではいかないが、名夜にとっては恐ろしくも心地よい。耳に響いたのは、若くして病床についた母親の、

「名夜、お前はこの家の娘じゃ。うちの一人娘じゃ。分かるなぁ」

 で、はげますべく、痩せ切った手を握ろうとした途端、引き寄せられ、枯れた声で囁かれたのも覚えている。

「子作らんと、この家、絶えてしまうけぇ。そげなことになったら、島の者に示しがつかん」

「うち、どげんすれば?」

「心配することはないて。ほんに、お前がやろうとすればええだけのことじゃ。うちも、お祖母様も、そうやって生きてきた。まぁ、聞け」

 身罷ったのは三日の後、寒い冬の一日(いちじつ)だった。

 島の共同墓地に葬られた後、墓石代わりの標を彩ったのは寒椿の花で、一輪二輪ならば手向けにもなろう。しかし、翌日、小雪がちらつく中、手を合わせに行くと土を覆わんばかりに落ちていた。

 あの年頃の鈍い痛み、芯に落ちつつあった影が今もなお、名夜のすべてを操っていて、逃れようとすれば、八本の脚を広げた蜘蛛となって襲いかかってくる。それは母親の亡霊か。それとも、家に獲り付いた物の怪か。

 鏡像から目を逸らし、引出しに触れる。化粧道具を入れているところではなく、イヤリングやネックレスなど、滅多に使わない装飾品の箱と共に小さな手帳が収めてあった。

 革の表紙の裏に写真が一葉。正方形で、セーラー服姿の少女と詰襟姿の少年、そして、人の片腕が映り込んでいる。構図として不自然であるが、それもその筈、名夜と栄良、久江、三人揃っての記念写真だったものにハサミを入れた。

 六年前のことである。

第十一章 こがねの朝

 西の海が微かに染まる。宵となれば星が出て、一刻を過ぎる毎に増えてゆく。道理で、朝日が昇ると小波が無数のこがねを運んでいるかのよう。光に逆らう漁船のマストが黒ずんでもいた。

 一隻ずつ、母港に戻ろうとしているのを数える人は未だ、ふだん着に着替えておらず、パジャマの第一ボタンが外れているのもしどけない。寝癖が一筋、立っていて、膝を抱えながら前髪に指を通す。

 布団の脇に畳んでおいたブラウスと半ズボンを手元に寄せたのは、何時のことか。手持ちの懐中時計は七時を示していた。随分な前日で、夜更けまで眠れなかった天城朔。発育豊かな若者らしからず、不眠の気があった。

 目覚まし代わりに丸い頬を叩き、引き締める。

 控えているのは久江の仮通夜だが、午後からで、午前中はあえてしなければならないことはない。しかし、呑気に過ごしはせず、朝餉をもらってから、散歩に出掛ける。

 運不運によっては行き当たる事実もあるかもしれない、とで、港まで下りると作業場のシャッターが上がっていた。水揚げされた魚を女達が捌いている。手慣れたもので、もたつかず、広いまな板の上でワタを抜くと仲間の手が伸び、発泡スチロールの箱に詰め込んだ。

 正面から差し込む日光と太い二本の梁に吊り下げられた電球に、保冷用の氷が輝く。耳の奥を這い回るのは、巨大な冷蔵庫や、製氷機の稼働音で、銀色の扉に半紙が一枚。開放厳禁、の四文字が読み取れたが、悪筆で、墨が滲んでもいた。

 女達が、

「やれ、早うせんとなぁ」

「えっ、間違えて手ぇ切ったら棺桶一つ増えてしまうじゃろうが」

「じゃけど、昼までに終わらせんとなぁ」

「先に御本家に行って、手伝いをするよう、娘のババに言うといた」

「また、ババなんて……お姑さん、怒りよると違う?」

 と、乱暴に話し、愚痴が零れもするのは椿事が重なって忙しいからだが、仕事をしなければ経済は回らない。後で自分の首を絞める羽目になる。

 木箱や岸壁のコンクリートに座っている男達も遊んでいるわけではない。兵法書を紐解けば、不眠不休を奨励するのは匹夫(ひっぷ)であって、名将たり得ず、と。

 開きにした小魚が金網に。素焼きの七輪が火を孕んだ木炭を抱いている。タンパク質や脂が泡となって弾け、程よいところで煙が立ったのは一升瓶の酒が注がれたからだが、これは目分量。

 ふだんから、それで慣らしている漁師達で、荒々しく、天城朔を呼ぶにも、

「おう、お狸さん」

 と、遠慮がない。

「一つやるわ」

 勧められた天城朔は小魚の尾を摘み、齧る。舌に脂っこさが残った。指にへばりつきもしたので、舐めとらなければならず、

「余所の人にはくどいかもしれんなぁ」

 と、漁師が笑ったが、腹の底からではない。

 島の現状は深刻で、隣にいた老人がシガレットの煙を漂わせながら、流し目をくれもした。親しみやすい容姿の天城朔だが、馬鹿にしたり、不真面目に捉えたりする人もいる。

「うろちょろしよってからに」

 と、老人が独り()ちたのは、天城朔が路地に引っ込んでからで、仲間達の、

「ダン爺、狸みたいなのでも散歩ぐらいはするじゃろうよ」

「そうそう。余所者を嫌っとるお前さんにとっては、おるだけでけったいかもしれんがのぉ」

 に、鼻を鳴らす。

 既に路地の角を曲がっていた天城朔にとっては見ず、聞かず、知りもせずで、耳をそばだてたのは別の出来事。丁度、商店の前で、ガラス戸の隙間から死人に口なしの噂話が。

「タカトビの奴も悪かった」

「そりゃあなぁ。あの態度じゃけぇ」

「本当のところ、ぶっ殺してやりたい、と、思うとった奴もおるじゃろうよ。一昨日(おとつい)の喧嘩にしても、今に土下座させてやるから覚悟しとけ、と、あいつが言うたんが拙かった」

「飲み屋でのことじゃろうか?」

「良平でなくても頭にくるわな。挙句、周りの連中が、ガキの頃みたいにボコボコにしたれ、なんて煽ったものじゃけぇ。まぁ、皆、頭にきとったわけじゃが」

「ふぅむ。しかし、酔っとったとはいえ、土下座とは大きく出たものじゃなぁ。事業でも始めるつもりじゃったんかのぉ?」

「ちゅうと?」

「社長さんになって金ばら撒く」

「いや、あいつには無理じゃろうて。誰がついていくっちゅうんじゃ。大体、事業ってどげな?」

「養殖とか?」

「まさか、公害がきつくて、ふつうに魚獲るだけでも大変じゃろうが。管理が難しい。タカトビじゃあ如何にもならん。すぐに赤字になる。あの阿呆でも、自分の親父がコンビナートへの賠償請求で苦労しとるの知らんわけがないじゃろう」

 二十歳過ぎの青年達であるが、店としては厄介な連中で、何も買わずに居座られては面白くない。

 薄暗い店内の奥、上がり框に掛けていた女が立ち、前掛けをつけた腰に丸っこい手を当てた。住居の四畳半に電球がぶら下がっているので、スポットライトをあてられたかのようでもあるが、トップ・スターにはなれそうもない。いかせん、顔立ちが厳めし過ぎる。

「で、あんたら、何を買うんじゃ?」

「じゃあ、煙草」

「じゃあ、とは何かのぉ? 銘柄は?」

「吸えればええ」

「それじゃあ、こっちが困るけぇなぁ。売りようがない」

 シガレットの棚はレジスターの上で、青年の一人が軽く指を突き付ける。

「売る売らんもない。全部、安物で、味なんて変わらんと違うか?」

 それについては日常とはいえ、天城朔にとっては恭吾のことが気に掛かる。看板とひさしの下で腰を折り、首を突き出したので、店の女に勘違いをされた。

「いらっしゃいませ。何か、御入用で?」

 戸惑ったが、ジュース一本五十円、との文句にお品書きを添えた画用紙が保存用のケースに貼り付けてあったので、

「オレンジジュース、一本、その……」

「ここで飲んでゆかれますかのぉ?」

「あ、そうですね。そうします」

「ちいとお待ちを」

 青年達を押し退けて、女はケースの蓋を持ち上げた。小波も清らかに、氷水から一本、ガラス瓶を抜く。栓抜きは商品の棚に放り出してあった。

 ショルダーバッグ内の財布から五十円玉を抜き、交換するとすぐに口をつけた天城朔で、程よい酸味がさっき、食べた小魚の脂っこさを薄めるのに役立つ。

「飲み終えたら、そこら辺に置いといて下さい。片付けときますんで」

 と、店の女に頼まれて、天城朔はケースとガラス戸の間に瓶を置いた。互いに礼を言ったが、同時であっても、方言と標準語の違いがあって、相和してはいない。

第十二章 通夜

 商店を出てから考えるのは、一昨日(おとつい)の一件についてで、売り言葉に買い言葉の大言壮語でなければ、成功の見込みがあったからこそ、土下座をさせる、と、恭吾は口走ったのではないか。

 これまでに天城朔が見聞きしたことと合わせると、もう一人の被害者である久江と結び付けられもする。恭吾は村友の御本家に近付こうとしていた。犯人がそれを逆手に取り、秘密の相談があるように装ったのだとすれば、夜な夜な、研究所を訪れたとしてもおかしくはない。

 村友の親族、あるいは、喜三郎に近しい人でなければ、その手の嘘に説得力を持たせられないから、犯人の素性もおぼろげながらはっきりとしてくる。

 しかし、図式として扱うには、点なり、線なりが欠けた見方で、状況と方法の上でのことでしかない。

 村長の息子とはいえ、恭吾は一介の不良青年でしかなく、余程のことがない限り、殺さずとも穏便に済ませられるだろう。

 釈然とせずとも、後押しされれば謎が解けそうで、おのずと目頭に力を込めた天城朔だが、午後になり、久江のお弔いに向け、コンパクトを開けても迫力のハの字も映らなかった。

「女将さん、行ってきますね」

 水軍の末らしい村友家。紋所の揚羽(あげは)が由緒ありげで、平家一門と繋がっているかもしれない。一ノ谷、屋島、壇ノ浦。滅亡の歴史を帯びているのもこの辺りの波である。

 弔問客を迎える為、開け放たれた門扉の左右に、羽根の意匠も繊細なのが一頭ずつ。冠婚葬祭の標たる巨大な提灯(ちょうちん)で、間を抜けると未だ、手伝いの人々が仕度に勤しんでいた。

 邪魔をしないよう、ところを選ぼうとするのが、そもそも邪魔で、雑巾(ぞうきん)を手にした女が、

「退いて下さい」

 と、強引に、テレビのブラウン管を拭いにかかった。

「おおい、神棚、閉めたか?」

「まだじゃないか? 行ってくるわ」

 八百万(やおよろず)の神々に配慮をする男達にとっても、天城朔は小娘に過ぎず、

「そこ、そこ、遮んなよ。でっかいおっぱいしよってからに」

 と、悪態をついてから、屑入れを兼ねた踏み台を引く。

 お札に塩やお神酒を供えているだけの家では、前に半紙を貼るらしいが、御本家の神棚は、扉があれば屋根も付き、と、立派なものだった。

 何かにつけて大掛かりで、部屋によっては畳の敷き方を変えてもいる。聞けば、不祝儀様(ふしゅうぎよう)なる様式で、四十九日ぐらいまではそのままにしておくらしい。一枚ずつの向きを揃え、簡素な見た目にするわけだが、裏に溜まっていた埃が立ったものだから、天城朔は唇に手の甲を当て、退散の体。

 鴨居にハタキを掛けていたイヨも忙しそうにしていたが、遠方からの客を無碍に扱うわけにもいかない。

「なんぞ、珍しいことでもありましたか?」

「いえ、東京ではやらないこともあって」

「然様ですか? まぁ、あそこまでになっとったら、島と同じようにはいかんでしょうけれど。テレビで観た時は驚きました。東京でオリンピックをやる。国を挙げての一大行事との触れ込みでしたけぇ、ここや分家で買うたんですけれどね」

「オリンピックですか? 賑やかでしたけれど。自衛隊が飛行機、飛ばしたりして」

「開会式の航空ショーですかのぉ?」

「ええ、それで?」

「跳んだり、跳ねたりなんぞはそっちのけで、皆、東京の話ばかりしとりました。あの頃はまだ、あげな町が日本にあるなんて、夢にも思っとりませんでしたけぇ」

「へぇ、そんなふう?」

「遠出をする言うても、広島、岡山、せいぜい大阪ぐらいの時代です。写真を撮ってきよる者もおらんかったので、本土についての知識はラジオのニュースか、そうでなければ噂頼りで」

「はぁ……そう?」

「ただ、ねぇ。オリンピックの時ですけれどね。あんまり驚き過ぎたもので、後が悪うございましたんよ」

「オリンピックって、悪いことじゃあないですよね?」

「受け取る者次第じゃあないですかのぉ? あの時はお祭りみたいなもので、テレビがあるお座敷に集まって、ワイワイやったものですけれどなぁ。変な憧れを募らせて、島を捨てる者が出て」

「つまり、お上りさんの……」

「久江様みたいに、ちゃんと帰ってくることもあるんですけれど、大方はねぇ。中には風の便りに、酷い目に遭いよった、なんてことも」

「そういうもの?」

「東京や大阪で暮らせば一山当てられる、なんて根拠もなしに突っ走った結果ですわ。ものを知るっちゅうんもええことばかりじゃあないですなぁ。皆、半端者ですけぇね。去年の選挙騒ぎも……」

 そこは、両候補者の支持者も来ているから、イヨは矢庭に声を潜めた。

「都会っぽいことに憧れる者が増えたからこそですよ。以前は投票用紙と鼻紙の区別もつかんような者ばかりでしたのにねぇ。あ、このこと、旦那様には内緒にしといて下さい」

 選挙には当主の喜三郎も一枚噛んでいるので、堂々と批判するわけにはいかないイヨである。

 また、ハタキを使おうとすると庭から縁に、買い物籠を提げた青年が手を付いた。いかにも着慣れていない礼服の肩を詰めずともよさそうな、男らしい体躯の持ち主で、天城朔にとっては見覚えのある顔立ち。

「イヨさん、お供えのモナカ、買うてきましたけれど」

「あ、良平さん、お帰んなさい」

 とで、思い出した。

 イヨが前掛けの紐にハタキを挿して、買い物籠を支える。

「運んどきます。他の力仕事、よろしく」

 仏間での仕度が整った、と、天城朔が人伝に聞いたのはややあってからで、紋付きに袴をつけた喜三郎が、早くも喪主の席についていた。

 洋装の名夜も控えている。

 広々とした押板が仏壇として使われている一間で、木彫りの観音像が、切れ長の目で何十基もの位牌を見守っていた。それが先祖達の姿で、一方、新しく仏となった人の壇には香炉、燭台、花瓶からなる三具足(みつぐそく)と共に、遺影代わりのポートレートが飾られている。

 感傷と遺族への礼儀から、天城朔が線香をあげると彼方に誘うような香りが立った。軽く瞼を下ろし、手を合わせると喜三郎が腿に手をやり、

「ご丁寧に」

 たかつきに積まれたモナカは弔問客への返礼でもあり、

「では、お菓子を」

 と、名夜から一包みもらった天城朔だが、親族でもないのに、仏間に居座るわけにはいかない。隣の一間で座布団を借りる。

 日差しが縁を越え、座敷の中まで伸びる頃になると黒また黒。若きは礼服、老いたるは紋付きや喪服と客が連なった。

 袖をサラリと鳴らして、仏間の敷居を跨いだのは勘太郎で、ありがちな、

「この度は」

 の挨拶に片手を挙げてから、

「今、何時かのぉ?」

 時計の針が一つ回れば影が深く、二つ回れば空が染まったように、日は泰然と巡るが、
浮世は何とも慌ただしい。

 この間の警部補が、

「手ぇ合わしに来ました。ああ、お経は失礼させていただきます。我々としては、事件を解決するんが、故人の供養ですけぇ」

 と、駐在と共に顔を見せれば、友人として久江と付き合っていた若者達も駆け付ける。女だけでなく、男もいるのが故人の気さくな性格を示していた。

「おう、来とったんか」

「ああ、連絡もろうたけぇ、祖父さんに船出してもろうた」

「ヤッつんは?」

「今日は仕事。じゃけど、明日の葬式には顔出す言うとった」

「やっぱり、島が別々じゃと高校の同窓で集まるんも大変じゃなぁ」

 地元民ならではの苦労を滲ませて、仏間に進んだ二人組が、作法通りに済ませると、替わって喜三郎の前に出たのは村長夫妻。固く結んだネクタイ、高々と締めた喪服の帯と身形ばかりは立派だが、着慣れておらず、仕草の端々がぎこちない。

 二人もまた、被害者遺族で、喜三郎が、

「大変なところ、どうも」

 と、慮ると悄然としていた松代が短く返した。

「お互いさまですけぇ」

 四方も八方もなく、一処(ひとところ)に沈み込むような悲しみを白眼に湛え、化粧を施していても、瞼の腫れを隠しきれずにいる。

 通夜葬式の慣例に従い、久江の親族と席を同じくするわけにはいかない二人だが、混み合うにつれ、片隅に追いやられた天城朔よりはよい扱いで、上座に座るのを許された。

 しかし、誰も彼もが納得してのことではなさそうで、大柄な老人が、前を通るに傲然と袴を捌く。胸元に舞う揚羽も誇らしげなのは、島内において、十分な権力を持つ人物だからで、

「ああ、千助さん。まだ、和尚さん、お見えになりませんが、間もなくでしょうて」

 と、勘太郎が告げると刺々しいまでに細い顎をしゃくった。

「お見えにならんわけがなかろうて。さて、と……うむ、遺体がない通夜っちゅうんもけったいなものじゃのぉ。実感が湧かんが」

「いずれは返ってくるそうです。まだ、ええですよ。わしと一緒に出征した連中、半分はミンダナオの野ざらしですけぇ。タツの奴なんぞ、遺品さえ戻っとらんの知っとるでしょうに」

 さかのぼっての昭和十年代。勘太郎の歳からすれば、赤紙が届いて激戦地に送られるのも、珍しいことではなかった。

 巨大な熱帯植物が縦横に葉を茂らせたジャングルで飢え、渇き、敵の弾丸に晒される男達は次々と倒れていく。

伝次郎(でんじろう)の奴も呉に行ったきりで。身元不明者として、市が遺骨を保管しとるかもしれませんが。喜三郎、村長、お前さん方はよう知っとるじゃろう」

 過酷な過去を掘り起こされるのを嫌がる人もいて、喜三郎は、

「いや、兄貴。警報が鳴って、砲撃が聞こえてなぁ。榛名(なるな)なぞが応戦しとったそうじゃが、それから消火活動じゃ、いや、退避じゃ、防空壕じゃ、なんて大騒ぎで」

 と、声を震わせた。

 村長も当事者ではあるが、あえて口を出さず、背を丸めて仏間を睨むばかり。視線が返ってくると、咳払いとまではいかないが、喉で息を渦巻かせ、瞳を伏せる。

 近しくない人にとっては映画の一場面に似て、置いてけ堀にされている感があり、天城朔が、

「あの……皆さん」

 と、割り込もうとしても、すんなりとはいかなかった。今更なことに時間を掛けたがる人はおらず、千助をはじめとする数人は、あからさまに相手にするつもりがない。周りで飛び交う雑談に負けないよう、

「あの、あの……」

 と、徐々に声を張り上げるのも虚しく、見かねた勘太郎が、わざわざ、来てくれなければ、ただの阿呆としか看做されなかっただろう。

「どげんしたのかのぉ?」

「伝次郎さんって?」

「わしの上の弟」

 直に火薬のにおいを嗅いだ人の肉声には、客観によって文字の羅列でしかなくなった過去、つまり史学とは異なる深刻さがあった。

「喜三郎とは年子でなぁ。呉で空襲に遭いよった。あれぐらいの歳の者はほとんど、工員として海軍の工廠に駆り出されとったけぇ」

「あ、それって、喜三郎さんが村長さんと知り合ったっていう?」

「そう」

 太郎から始まって、三郎までいけば、次郎もいるのがふつうだから、たしかではないにしても、思い付かなかった天城朔は実にぼんやりとしている。流れから、伝次郎なる人物の人となりについて、何気なしに膨らませようとはしたが、

「和尚様方がお見えになられました。皆さん、和尚様方が」

 と、イヨが報せたので、打ち切るしかなかった。

「お揃いですかのぉ?」

 僧衣に袈裟をかけた和尚が挨拶を済ませると、栄良が紫の風呂敷包みを開く。で、三具足の間に据えた白木の位牌に入れられた戒名の末には喜三郎の希望通り、信女とあった。

第十三章 月の夜

「喜三郎さん、じゃあ、そろそろ」

 と、和尚が数珠を揉む。雑念で澱んでいた場の空気が、矢庭に澄み渡ったのはおりんを打ったからで、木魚の音に合わせて読み上げる経文の文句が、空を落とさんばかりに響いた。

 一通りのことが終わったのは東に宵の明星が輝く頃で、それからは御多分に漏れず、弔問客に夕餉が振る舞われる。

 お膳に添えられた一本が余計だった。大まかに見れば胴と首があり、観音像や地蔵に似ていなくもないが、まさしく徳利で、献杯と称し、

「あ、もう一つ、つけてくれんかのぉ」

 と、摘まみ上げてプーラプラと、手伝いの女達に求めた挙句、一杯一杯又一杯、と、羽目を外す者も少なくない。途中から、

「南無ぅ、南無ぅ」

 と、呂律が回らなくなる。

 辺りに酒気が満ち、口を付けずとも目が回りそうだったで、お吸い物で締めた天城朔はコップの水を呷り、風を求めて席を立った。

 不便がないよう、灯りを点けたままにしてある座敷も多いが、縁に出るとやや暗く、涼しげなのは月が、鏡の代わり、と、光を水に変え、(たた)えているからか。

 明々と庭木の枝葉が照らされてもいるが、母屋に接した蔵と塀の間ばかりは狭く、陰になっていた。ふと、浮かんだ白いものが妖しげで、目がある、鼻がある。天城朔は胸に手を当てたが、首だけの亡霊が舞い出たわけではない。紋付きと礼服が闇に溶け込んでいただけで、

「き、喜三郎さん、村長さん、如何して?」

 そこは相手の方も驚いて、咄嗟に頭を反らす。

「いえ、ちいと話が」

 と、誤魔化すように告げた喜三郎が、突っ掛けを脱ぎ、母屋に上がる。闇に紛れたくとも、名前を呼ばれたからには誤魔化しようがなく、かえって覚悟が決まったのかもしれない。

 しかし、ふつうに話をするだけならば、人気のない庭の片隅を選ばずとも、座敷でこと足りる。

「あんなところで?」

 とは、二人に微かな疑念を抱いた天城朔であるが、喜三郎の後ろに付いた村長が、

「あそこじゃろうと、ここじゃろうとあんたには関係ない。違うか?」

 と、眉も逆さの剣幕。納得をした振りをせざるを得なかった。

「ええ、それは……すみません」

 戦時中からの付き合いで、私情が絡むこともあるだろう、と、こじつけて、一足先に去った二人を追い、天城朔が席に戻ると周りの客が帰り始めていた。通夜とはいえ、当節は早めに切り上げる。

「おい、わしも帰るけぇ」

 横柄に告げたのは前村長の千助で、取り巻くのは支持者だろうか。親族だけでなく、天城朔の側にいた連中も加わった。

 選挙で敵対したとはいえ、御本家にとっては外戚だから、お座なりな扱いは出来ず、喜三郎は、

「名夜、ちいとお客さん達の相手を」

 と、頼み、平身低頭、外まで送る。

 玄関の灯りはぼんやりとし、ずらりと並んだ靴の中から、たった一足を探し出そうとする小さな影に、

「あ、貴女も?」

 と、愚問を投げかけたのは、夜道を行く千助達を送り出してからで、

「あまり、長々とお邪魔しては悪いんじゃあないかって。あ、あった」

 には、

「正直なことを申し上げますとなぁ。明日の予定もありますよって。手伝いの人達も早う帰りたいのが本音でしょう」

 と、零す。

 狸面が親しみやすい天城朔で、靴を履き、爪先でたたきを小突く仕草も柔らかく、

「じゃあ」

 と、門を出ると、別の客も帰ろうと。したたか酔った男で、支える身内の苦労が忍ばれたが、喜三郎は苦言を呈しもせず、喪主の務めを果たした。

「本日はどうも」

 多くを語るに及ばないそれからで、

「では、栄良。わしらもお暇しようか?」

 と、和尚達が道を踏む。般若湯(はんにゃとう)と縁を切っているだけに、しっかりとしたもので、先を行く栄良が懐中電灯を手にしていなかったとしても、危うい目には遭わなかっただろう。

 後に残されたのは家人と手伝いの人々だけで、お膳が片付けられると名夜が燭台の火を見詰めながら、

「お灯明(とうみょう)、十二時まで、見とればええんじゃね」

 と、たしかめる。

 一晩、絶やさないようにするのがしきたりだが、徹夜をしては明日にこたえるので、親子で代わり代わり、番をするつもりだった。

 魔除けの逆さ箒が倒れていたので、立て直した喜三郎は、

「頼んだ」

 と、仏間を離れたが、袴を解いた後、袖を通したのはふだん着で、耳を澄ましながら、忍び足で玄関へと。静々と下駄箱を開け、懐中電灯を出す。

 建具の陰に気を配りながら庭に出て、母屋の縁に影が差せば、木々の根本で息を殺し、辿り着いたのは土蔵の脇で、裏木戸の外で灯りを点けた。静寂(しじま)が揺らぐ。息を呑み、月の片割れとなって行き先を照らす。

 竿に絡みつくキュウリ、茎まで紫のナスと片側に畑が広がって、夜となれば寂しいばかり。ほとんどの民家の裏手にあたる。風を防ぐべく、植えられた松の枝を潜ると防波堤に行き着いた。

 やや離れたところで船着き場の信号灯が輝く。湾の外を横切る巨大な影はタンカーか貨物船だろうが、喜三郎にとっては若かりし日、呉で見た軍艦と大差ない。

 テトラポットの(もと)に小さな浜が広がっていて、古びた小舟が濡れた砂に上げてあった。後は木造の倉庫が建ち並んでいるばかりで、用もなしに訪れる人は滅多にいないが、粗末なひさしの下に赤い火がちらついて、

「おい」

 と、喜三郎が側に立つと灯りに入り込んできた。シガレットを指に挟んだ村長で、灰を一片、散らしながら、

「待たせてくれる」

 喜三郎が、

「で、改めて話したいことっちゅうんは?」

 と、不安げにするのは、今夜十時、浜に来るよう言われたからで、いかにも人目をはばかる様子。また、ここにきて、

「キサさん、互いに正直になろうじゃあないか。わしはなぁ、恭吾が殺されたわけ、じっくり考えてみたんじゃ」

 とは、穏やかでない。

 目玉に溜め込んだ荒々しい熱に操られたか、シガレットを捨て、喜三郎の襟を掴んで締め上げる。

「一つ言うておく。なぁ、御本家様よ。島の連中は皆、お前さんの味方じゃろうが、警察の旦那方は違う。村友の権力なんぞ知らん。いや、わしのような政治家の足元にも及ばんと思うとる」

「何のことじゃ?」

「ええか、裏で何があったか、見当はついとるんじゃ。尻尾掴んだら、出るところに出てやるけぇ、覚悟しとけ」

「わしは……知らん」

「立場、分かっとるんか?」

 はらわたも断ち切れんばかりの親の心か。絞め殺さんばかりの勢いに喜三郎は怯え、咄嗟に片膝を突き出した。心得のない者同士で、手加減は出来ず、受け身もとれず、村長は腹を押さえてよろめく。

 小屋の壁にぶつかると、立て掛けてあった道具が勢いで倒れ、二人の間に散らばった。小さなビクや網の中に(もり)が一本。

 浜に寄せる波が高くなり、流れてきた雲が月を隠さんとする時に……。

第十四章 第三の事件

 灰を集めて空に撒けば、かくもあらんかと空の際が暗く、ようよう燃え上がるのは明け方ならではで、そろそろ、港での仕事が始まる。久江の葬式で忙しい日であるが、喪に服すだけでは生活が成り立たない。

 捌けるものは捌いておかなければならず、水揚げを前に事務員が作業場のシャッターを上げようとした。半ばで止めたのは、床に錆が広がっていたからだが、そこはあり得ぬコンクリートで、魚の血を拭い忘れたにしても量が多過ぎる。

 油のようでもあり、一滴、落ちてきたので、視線を上げた。怯え、後悔したのは後になって自宅に担ぎ込まれてからで、悲鳴を一つ、引っ繰り返ると漁船の舵を取っていた漁師達が甲板に駆け出し、

「おい、大丈夫か?」

 と、舳先から岸壁に跳ぶ。

 風が吹けば桶屋が儲かって、未だ、布団にもぐりこんでいる(わらし)の夢をも震わせる半鐘の音に、白波屋の窓も開いた。パジャマ姿のまま、見を乗り出した天城朔で、すぐさま、ボタンを引きちぎらんばかりの勢いで身支度を済ませ、

「女将さん、美子さん。ちょっと」

 と、断ったのも束の間。玄関の戸を叩きつけんばかりに駆け出す。

 坂道のただ中で、上か下かとたたらを踏んだが、

「殺しじゃ、また、殺しじゃ」

 と、慌てふためく一団についていけば、間違える気遣いはない。引き離されるばかりの足ではあるが、下り坂だけに勢いがつき、慌てて止めるには筋肉が細過ぎる。野次馬にぶつからなければ、岸壁から海に転落していたかもしれなかった。

 上がる息に、

「あ、あの……現場、現場は? ひ、被害者は?」

 との問い掛けもかすれ、背伸びをするのは小柄な故。万重(ばんちょう)の山となるのは老若男女の肩で、作業場の前に集う警官達を八分方、隠している。

 焦燥と混乱は天城朔にも伝わって、呑まれないよう距離をとってから、眼鏡を掛け直した。

 事態はいよいよ収まりがつきそうもなく、

「待ちい。松代さん、遺体の確認はわしらがやるけぇ」

「そうじゃ、行ったらいかん」

 と、追いすがる男達に腕を掴まれたのは村長夫人の松代で、和服の袖を振り回す。喉も千切れんばかりの絶叫で海鳥を驚かせ、支える人がいたからこそ倒れずに済んだが、力が抜けたのは足だけではない。瞳もまたで、

「早う家に」

「医者を。鎮静剤いると違うか?」

 との声があったのも道理。

 男達は無理に腕を引く。

「歩けますかのぉ?」

 と、左右から支え、路地の内へと連れていった。

 それで、被害者の素性を掴んだ天城朔で、この一大事について、更なる情報を仕入れるべく、キョロキョロとしてはみたが、後ろにまで目はついておらず、ふいに肩を叩かれての、

「お客さん」

 で、慌てて振り返る。

 御本家のイヨだった。根は明るくとも、相次ぐ殺人事件に(きも)を潰さずにはいられず、肉付きよい頬を強張らせている。

「また、えらいことになって。村長さん、なんぞ、酷い殺し方をされたとか」

「酷いって?」

「銛で串刺しにされた挙句、ロープで作業場の梁に首吊りじゃとか」

「は? そ、それは、刺し殺されたってことでしょうか。それとも、絞め殺された?」

「うちが知るわけないでしょう」

「犯人、如何してそこまで手間をかけたのか?」

「何ぞ、いかんことでも?」

「あ、それが……です。村長さんを殺した後、すぐに逃げた方が犯人にとっては理に適っていますよね?」

「そう?」

 釈然とせずにいるのは天城朔だけで、ふらりと現れて、

「イヨさん、もしかすると村長、恨まれとったんじゃあないかのぉ?」

 とは、勘太郎。

 手口が残酷であれば、それなりに説得力がある意見だが、それを掘り下げるのは島民にとって都合が悪い。

 天城朔の、

「それって……選挙の?」

 に、鋭い視線が幾つも寄せられた。

 村長を一番、恨んでいるのは敗北を喫した村友一族だが、ただ、疑って済むことではない。未だに権力を持っているので、逮捕者が出れば、島全体に悪い影響が及ぶ。

 もっとも、政治闘争の結果が残虐な殺し方に繋がるのも稀で、歴史を紐解けば、八つ裂きだの、車裂きだのとあるが、現代では滅多に起きない。

 また、勘太郎曰く、

「それはなぁ、天城さん。ちいと無理があるんじゃあないかのぉ。久江も殺されとる。鈴井の者だけじゃったら、説明もつこうが」

 で、言わずもがな、久江は村友家の一員である。動機として成立しない。

 一応、天城朔が、

「もしかして、久江さん、巻き込まれただけなんじゃあ?」

 と、仮説を立てると、勘太郎は否定しなかった。

「天城さん、つまり、犯人は鈴井の者を殺すつもりでいたが、なんぞ拙いことがあって、久江も殺さなくてはいかんようになったっちゅうことじゃろうか?」

 沈黙をもって肯定するには何処か、間が抜けていて、

「ええ、村長さんと恭吾さんの二人、そして、久江さんを繋いでいる人が、大きな役割を果たしている」

 との失言。悪意はなかったが、相手は髭の上から顎を捻り、口元を歪めずにはいられない。

「恭吾君が殺された日、本土に行っとったじゃろうが」

「え、あ、それはそうですけれど。えっ、あの……つまり、勘太郎さん。やっぱり、喜三郎さんが?」

「まぁ、な」

「名夜さんは?」

「同じようなもんじゃろう。今日の事件の犯人ではないじゃろうて。村長、そう大柄ではないにしても、目方はある方じゃ。娘の手では串刺しだの、吊るすだのは出来ん」

 荒ぶる波は海でなく、人の心にある。余所者による露骨な物腰に気分を害した群衆で、はじめは囁き合っていたが、物騒になり、しまいには本人に釘を刺すつもりか、凄みまで利かせた。

「あの小娘、さっきから何ぞ」

「どうせ、口から出まかせじゃろうて。見ぃ、また、トロそうな(なり)しよって」

「あれで傲慢ちきじゃったら、張り飛ばしとる」

 口ではなく、拳でものを言うこともある連中で、天城朔がおっかなびっくり、瞼を上げると幾らか、分別がある性格の勘太郎、

「いや、皆、流石に脅しはようない」

 と、壁になったかのようだが、その実、ほとんど動いていない。

 この手の不興が高じては、なりふり構ってはいられず、天城朔が後退(あとずさ)る。

 狐が威を借りて、虎が吠えれば百獣は従うしかないが、承服はしない。そこを見抜いた勘太郎の、

「この際じゃ、疑いがあるのはもっとも。口に出す、出さんじゃあなく、やっとらん、公明正大じゃっちゅうんを示すんが大事じゃて。いずれ、警察の旦那方も同じふうに考えるんじゃあないかのぉ」

 なる正論のお陰で、袋や簀巻(すま)きにするしないの騒ぎにはならなかった。

 感謝しきりの天城朔で、とりあえず、この場では大人しくいようと決めた矢先、小波と共に押し寄せた、

「ああ、また、サイレンが」

 水上警察署所属のランチの(へり)が、岸壁に吊り下げられたタイヤを擦らんとしたのは、急報を受け、操舵者がうろたえていたからだろう。

 渡し板が掛けられると私服に鑑識、医療関係者らが殺到した。

「退かんか」

「まずはわしらの仕事じゃ」

「痛た、誰じゃ? 足踏みよったの」

 空想科学小説に登場するロボットとは異なって、与えられた仕事をただ、こなしているわけではない。熱が入れば、憂いもある。

 久江の一件を担当しているあの警部補もいて、カメラや銀のケースをぶら下げた鑑識員が野次馬を掻き分け、現場に入ると、

「まずは、連中の仕事ですけぇ」

 前に会ったことがあるだけに、やや、気やすい勘太郎で、

「そげなものですかのぉ?」

 とであったが、警部補は特定の誰かに告げたわけではない。声はいずこからか、と、訝ると頭が一つ、下げられて、

「ああ、いえ」

 と、面持ちばかりは愛想がよい。

「わしらにも担当があるものですけぇ。鑑識の知識もないのに、現場に立ち入っても証拠を踏み潰すだけです」

「ほほう、理に適っとりますなぁ」

「まぁ、その分、ものかしくはありますが。こげなことになって、わしらもぼっけぇ困っとりましてん。主任なんぞ、真っ赤でしてねぇ。久江さん達の件に熱入れて、寝不足になっとったところでのこと」

「頭が下がりますなぁ」

 矢庭に青白い光が走った。稲妻ではない。マグネシウムが焚かれたのである。

 チョークで丸をつけたり、ピンセットでものを拾ったりと現場でないところでも捜査が進む。野良猫が背を丸め、歯を剥く路地裏に落ちていたサザエの殻さえ見逃さず、不審であるかは後で決めるとばかりにケースに収めた。

 俗に捜査は足とのことではあるが、ついでに五感も駆使しなければならず、部外者は息をするだけで邪魔になる。居続けても得るものがない天城朔は、坂道に。ふくらはぎに鈍い痛みが広がるのは慣れない島の地形の所為で、歩くだけでなく、走ったからだろう。

第十五章 手掛かり

 村長殺害事件があったとはいえ、久江の葬式は取りやめにならず、白波屋で朝餉をもらってから、仕度にかかった。御多分に漏れず、昼までに終わる、と、天城朔は人伝に聞いている。

「友引でもないのに、えらいことになりましたなぁ」

 とは、美子で、柱の釘に掛けられた日捲りに一瞥をくれる。

 上下共に黒の洋装だが、朗らかながら雑でもある鄙びた宿の娘だけに、衿元や裾に隙があり、似合ってはいない。

 箱階段の引出しを一つずつ開け、

「お金、お金」

 とで、天城朔が、

「金庫の中じゃあ?」

 と、凡庸な見方をすると、

「香典用のは別にしてあるんです。お母ちゃん、お母ちゃん、包むお金、何処に入れたんじゃ」

「上から四、左から二じゃ」

「ああ、そう。ないけれど」

「あ、左から三じゃった」

 などと、帳場と奥とでやりとりをした。

 下へ右へと動くのは、やけに細い美子の指で、黒光りする金具を握り、摘まみ出したのは油色の粗悪な封筒。札束が中身とはいえ、万は数枚、後は千ばかり。帳場の台に幾ばくか並べてから袋に包んだ。

 羽ばたきそうな水引の上に薄墨の文字が入れてある。

「では、ご一緒しましょうかのぉ?」

 との美子と共に、天城朔が御本家の門を潜ると母屋の一間に見舞いの品が集められていた。

 香典の受け取りは村友家の親族らしい男女で、テーブルにつき、差し出された香典袋を積む。

 旅先のことだけに、持ち合わせがない天城朔は申し訳なさそうにしながら、仏間へと。御本家では馴染みになりつつある顔だけに、喜三郎への挨拶は手短に済んだが、朝方の疑惑を引き摺っていた。

 喜三郎が恭吾を殺していないのは間違いないが、言い換えればそれだけで、何の企みもなかったとしても、事件の背後に村友、鈴井両家の問題が横たわっていないとは言い切れない。

 戦時中、村長の父親が研究員として、姫守島に赴任していた。その(よしみ)で村長は徴用先の呉で喜三郎達と親密になった。父親の赴任先から来た人がいれば、近況の一つも訊きたくなるだろうから、そのことばかりは不自然ではない。

 しかし、戦後の生活は違っていて、村長は父親の都合で地域社会に根を下ろし、去年の選挙で村友の候補を破った。そこに飛躍がある。どれ程、政治的な才能があろうと、村友家の一員であることに比重が置かれる島内の権力構造で、一人の力で成り上がるのは不可能に近い。

 そこは、村長自身、理解していた。で、御本家の当主を動かしたわけだが、勘太郎がそうであったように周りは納得していない。対立候補の千助が高齢であったとするのは、選挙の上でのみ説得力を持ち、親族の中では唐突な裏切りでしかなかった。

 謎の断片を組み違えているか、否か。現状、定かにしようもないのは、

「娘、娘。黙りこくって、どげんした?」

 と、圧がかかったからで、後から御本家を訪れた千助の虫は居所が定まらない。

 そこは、天城朔の落ち度で、霊前に居座れば、他の客の迷惑になる。慌てて、他の弔問客に交じったが、相手にとっては些細なことで、喜三郎への、

「来たぞ」

 さえ、義理のにおいしかしない。

「坊主どもは?」

「いずれ」

「それじゃあ、何時になるか分からん」

「そう待たんでもええかと」

「なら、初めからそう言え」

 今朝の事件、千助にとっても不愉快で、被害者と対立していたことは、警察に調べられる原因となる。出掛けに聴き取りにこられれば、元より傲然とした人物だけに、落ち着いてもいられない。

 席につくなり、親族に愚痴を零した。

「失敬な連中じゃった。一つええですか、二つええですか、なんてのぉ。終わったかと思うたら、三つ目がありよった」

 すり寄れば、利益もあろう御本家は前当主の外戚で、

「ごもっとも。お巡りさん方も右往左往(うおうさおう)しとるんでしょうなぁ」

 と、末席にいた中年の男が、畳に手を置き、黒いネクタイを揺らす。

「じぇけどなぁ。わしを疑うなんぞ、見当違いもええところじゃあないか。質問することさえ決めてこんような能なしどもじゃけぇ、知性っちゅうもんを期待してはあかんのかもしれんが」

「そうそう。昨日、うちに来よった時も、茶だけ飲んでいきよったようなもんで」

「お前、茶出したんか? 茶漬けの方がよかったと違うか?」

「いや、まぁ、そこは、久江さんの件でしたけぇ」

 そこで、足音がしたが、逐一、数えるに及ばない。じきに場は整って、霊前に和尚と栄良が並ぶと、喪主の采配で始まった。

 男盛りの四十代だけに、連日のこととはいえ、和尚の声はよく響く。剃った頭に汗が浮かぶのは、過ぎたる初夏の陽気。妙に暑かったからだが、遺族と客達が三本の指で抹香を摘み、焚き終えるまで、咳込みさえしない。

 酷暑や玄関に耐えるのもまた修行で、料理が出されてから、疲れを露わにしたのは在家の方だった。時と場合だけに憚ってはいたが、ポケットからハンカチを出しもする。

「御本家様、お箸が進んどらんようじゃが」

 と、親族の男が徳利から注いだきらめきを、お猪口(ちょこ)から溢れさせ、喪主は、

「食欲が湧かんのじゃ。やっぱりなぁ。後はご先祖様にお任せしたとはいえ、何年にも渡って養うた娘が亡うなったわけじゃからのぉ」

 その一事に留まらず、憂えずにはいられないここ数日の出来事が、再び箸を取ろうとする手に枷を嵌める。天城朔もまたであるが、被害者遺族の喜三郎にとってはひとしおで、お膳の上が片付くことはなかった。

 察するところがあり、

「喜三郎さん、皆さん、お疲れのようじゃけぇ」

 と、和尚がそれとなく勧めると勘太郎も、

「お前も休んだ方がええかもなぁ」

 で、また、意を同じくする客も多い。御本家の当主に進言する程の身分でなくとも、隣の一間で成り行きを見守り、いざ、帰宅となれば、急いてこそいなかったが、長々と居残りもしなかった。

 畳で脚を崩した天城朔が、腿やふくらはぎを揉んだのは白波屋の帳場脇で、

「お風呂、まだ、沸いていませんよね?」

 と、したのも、汗と共に流してしまいたいものが多かったからである。

 むろん、まだ、日は高い。格子窓の外が白々とし、宿の主は臆面もなく、

「まだですて。今すぐにっちゅうなら、風呂屋に回ってもらうしかありませんなぁ」

 とで、着替えた後、放りだしてあった前掛けの紐を結んでいた美子に、

「なぁ、お前、幾ら包みよった?」

 などと、箱階段に仕舞われていた封筒を振りもする。

 帳簿に赤を入れていた娘だけに、家計については熟知しているが、ものが上手く回る天下ではない。

「御本家様でのお弔いじゃけぇ。それなりに」

 との、言い分は、慣習の面では間違っておらず、宿の主も叱りはしなかった。封筒を投げ込んだ引出しを両手で押す。

 その間、あえて口を挟みもせず、天城朔は二階に上がり、(くだん)の如く、百貨店の紙袋に諸々を詰め、仕度を終えた。

 宿の者は何処に去ったか、微かな塵も舞っていない。呼び付けるのも迷惑かもしれないので、そのまま出掛けると白線が一本、大空を切り裂いていた。民間か、自衛隊か、米軍か、はっきりさせられない高さではあるが、まさしく、人工の翼である。カラスやカモメには劣っても勝らず、単調な飛び方をするが、悠々としていて、別界にあるが如く。

 姫守島では道端にいる猫さえ、背をそびやかせていた。噂に余念がない島民、行き交う捜査員、と、昼寝も出来ない。天城朔が通り掛かると身を伏せ、喉を震わせた。

 爪で一閃、引っかかれるのも嫌なので、足早に過ぎ、ショルダーバッグから財布を出しながら、風呂屋の暖簾を潜る。

 番台に人がいないのは、時間が早いからか。天城朔の、

「あの……あのぉ」

 とで、脇の板戸が開き、この間の老女が狭い板敷に立つ。

「ご利用でしょうかのぉ?」

 履きものがたたきにあるが、いずれも洒落たものではない。

 老女はゴムのサンダルを突っ掛けると丸椅子を引き、座る。無造作にも伝票やペン立てと交ざった眼鏡を取り、蔓を開いてから鼻に乗せた。

 千代紙が貼り付けられた小箱を差し出したのは、入湯料の請求で、天城朔は念の為にたしかめる。

「二百円でしたよね」

「値引き、値上げ等はしとりませんけぇ」

「じゃあ、二枚」

 先には一円たりとも入っておらず、落ちる音も濁っていた。

「いただきました」

 老女に許されると女湯の脱衣場で半ズボンのボタンを外し、床に落としてブラウスも。

 姿見に映り込む豊穣がぼやけたのは光の加減ではなく、ひとえに眼鏡を外したからで、髪にピンを差してから、手拭いを首にあてた。湯煙に潤う肌も瑞々(みずみず)しく、熱に浸る。

 一人きりとはいえ、羽目は外さず、柔らかに腕を撫で、肩甲骨を反らすと百学の源が脇へと引かれた。肘を下ろせばおおいに揺れて、図書館の蔵書にも勝る叡智を生じさせる。

 内に箇条書きを記し、湯船の縁にもたれかかりながら、事実と照らし合わせる。久江の手紙と行方不明の一件、島の人々の事情、恭吾の事件、失われた日記などで、不審な点もまとめ上げたが、未だ、解明には至らない。

 耳をそばだてていても、すべては運不運で、どちらに転ぶかは定かでなく、どれもこれもが半端で、憶測にしかならない。

 膝を抱き、湯を吹いて小波を立てていると体を冒していた澱みが失せた。のぼせたくはないので、洗い場に出る。それからは珍しくもなく、後でサイダーをもらうつもりで、上がると番台の前に人がいた。

「婆さん、誰か来とるかのぉ」

「女湯に御一方。男湯はガラガラです」

「女の方はおりよる?」

「ええ、御本家のお客さんが」

「ああ、あのグラマーか」

 よれたTシャツの襟元が薄汚れているが、その分、日頃の働きぶりがうかがえる。

 壁際の柱時計の文字盤を見詰めるのは同行者か。天城朔にとっては覚えのある人物で、漁民らしい雑な井出達は礼装のネクタイなどより、余程、逞しい体格と吊り合っている。

 ズボンのポケットから出したのは、ガマグチでさえなく、鋳造されたままの百円玉が二枚で、放り出すように納めた。

「じゃあ、混みよる前にサッと浴びようか?」

「俺は賑やかなのも好きじゃがなぁ」

「いや、ここのところの騒ぎで、皆、ろくな話をしないけぇ。その上、俺を疑いよる」

「良平、お前、研究所でのこと、まだ、根に持っとるんか?」

「当たり前じゃ。全員、俺が殺した言う者もおるじゃろうて」

「お前、それは妄想っちゅうもんじゃあないかのぉ。お前に限らず、村長まで殺す理由がある奴、若い連中にはおらんと違うか?」

「余所者がでかい顔をしとるんが気に食わんかったとか?」

「そげなこと、言う奴がおるんか? 久江さんは村友のご親族で、鈴井の者とは違うじゃろうが」

「例えばじゃて。幾らでもこじつけられるっちゅうことじゃ」

「それ言うたら、キリがない」

「うちの祖父様のこともある。村長のこと、散々に言うとるから」

「ダン爺はそうじゃろうな。元々、村長のこと嫌うとるから」

「おう、すべては御本家の喜三郎旦那様が、実の親父さんに掛け合うたお陰。そうでなければ、進学もままならなかったじゃろうなんて」

 のれんを潜ろうとした良平達だが、番台越しに女湯の朱を翻らせた天城朔の、

「あの……その、すみません」

 に、足を止める。

「何じゃ?」

 日常のことであれば、入れ違いに出て行くばかりであったが、事件の被害者の過去についてである。

「村長さんの応援をしていた村友の人って、喜三郎さんだけじゃあないんですか?」

 紺の布が良平の頬を打ったのは、押し上げていた手を下ろしたからだが、頑健な青年だけに、蚊程もわずらわしくない。

「ああ、そのこと? 分家も思い切ったことをしたもんじゃ、と、皆、言うとるんじゃがなぁ。もっとも、俺らがこんまい頃のことじゃけぇ、この婆さんに訊いた方がええじゃろう」

 湯上りの肌こそ麗しくとも、当地の青年達にとっては人柄まで云々するような娘ではない。じきに老女と二人きりになった。求めるまでもなく、

「御本家様の御父上、お金をお出しになられましたんよ」

「そこまで?」

「鈴井さんところの御先代は学者さんではありましたけれどねぇ。島の仕事が出来るわけでもなし。ふつうなら、与助さん、勉強どころではなかったんですけれど」

「村長さんがこの島に来たのって、お父さんが体を壊して、静養をする為ですよね? お金のあてがないなら、本土にいた方がいいんじゃあ?」

「空襲であれやこれや焼けてしまいよった、と、おっしゃっとられましたが」

「お父さんが駄目でも、村長さんが働くことぐらいは……」

「さぁ、うちにはサッパリ。都会の土は滅多に踏まんものですけぇね」

 さも、学がなさそうな、日々の暮らしを年輪としてきた老女だけに、陰湿さはなく、

「いずれにせよ、気前のええ話ですなぁ」

 と、したが、地獄の沙汰も左右するのが金の流れで、清らかな善意ではないかもしれない。村長と喜三郎達の間に約があったとすれば、諍いの源になったかもしれず、久江と恭吾の事件があったとしても疑惑は躍る。

 帰りの上り坂にて、天城朔は胸に紙袋を押し当てた。傾きつつある日の影に、憂いばかりを募らせる。多くが路傍(ろぼう)の小石となり、ふと、我に返ると港周辺の家々が下にあった。

 結果がよければ、過程に優劣はなくとも、夕方、白波屋の一間で、窓際が鮮やかに染まり、畳に境が生じたのは没頭のあまり。膝を抱えていると爪先近くで光が移ろった。やがては薄らぎ、月の白さに敗けてしまう。

 御用もあろうかと訪れた女将が驚きつつ、かろうじて客の影を見付け、

「灯りは? 電球、切れとるとか?」

 と、紐を引く。

「晩御飯、どげんされます?」

 女将が心配したのは、放っておけば抜かしかねなかったからだが、天城朔は我に返り、

「いりますけれど」

 と、それからは暗がりに潜みもしなかった。

第十六章 墓

 宵となれば、暑さが和らぎ、かえって寒くなりもする梅雨の前で、風こそ穏やかでも、ガラス戸を閉めずにはいられない。

 御本家でのことで、ともし火が逆さの筆となったが、文字は記されず、立ち昇るカゲロウが観音の姿をゆらめかせる。

 喜三郎が唱える梵語(ぼんご)は音ばかりで、意までは熟知していない。

 幼い頃、厳しく教え込んだ身内も同じだった。古い家柄にはありがちなことで、信仰を結束の手段にしていただけだろう。

 学校のある土地で、教科書を経文の代わりとするのは、文部省の役人が仕事柄、唱えている詭弁に過ぎない。先祖への畏れは魂魄(こんぱく)に染み付いて、建具の陰や背後に影が差せば、怯えが走る。

 数珠を下ろすと微かに鳴った。

 しかし、とどのつまりは枯れ尾花の、

「ああ、名夜か」

 礼服をふだん着に替えていた。お弔いの後だけに洒落てはおらず、ワンピースの上に一枚、羽織っていなければ、ブローチやペンダントを着けてもいない。

 喜三郎は、

「なぁ、わしは許されるじゃろうか? いんだ後のことじゃがなぁ」

 と、唐突に。通じもせず、名夜が目元にかかった髪を払いもしないでいると、

「けったいなことかもしれんがなぁ。ご先祖様が今のままではいかん、と、怒っとるような。このところの騒ぎで、久江が亡うなってしもうたわけじゃしなぁ」

「父様に落ち度はないけれど」

「そういうんじゃあない。わしは何が何でもこの家、守らないかん。お前の祖父様は期待しとった。御本家は屋根、分家は柱、支え合わなければ成り立たん、と」

「うちも母様に言われた。屋根が壊れれば雨が漏る、柱が折れれば家が崩れるけぇ、村友の者は身を粉にしても、それを防がないかん、と」

「時代遅れかもしれんがなぁ。昔と違うて、余所との結びつきが強い。島の中だけでは話しが終わらん。名夜、お前、ここを出たくなったことあるか?」

「高校の時、本土に下宿しとったけれど」

「いや、一時のことでなくて、綺麗サッパリ縁を切ってしまう」

「そげなこと、したらいかんのじゃろう?」

「じゃなぁ」

 喜三郎はロウソクに息を吹きかける。

 芯から千切れるように火が消え、弔いの残り香が薄らぐと、かつての栄華を偲ぶことさえ虚しくなった。手伝いの為、居残っていた人々が帰れば、縁も座敷も広過ぎる。夕餉に箸をつけてからは、タライの湯で汗を拭い、早々に休んだが、夜もまた長い。

 布団と天井に挟まれて、長年に渡る村友家の系譜が浮き上がる。

 姫の秘策が千の火となって、白む空を焦がし、黒き煙を波に映したのは遙か昔、戦国の世のこと。勝ちに酔った武士(もののふ)達の雄叫びが島々を巡り、杯が空けられもしただろう。指揮棒を手にした姫御前(ひめごぜ)が網膜に秘めた一念は代々、御本家の女達に受け継がれ、時に激しいまでの悲劇を生んだ。

 その夢から覚め、寝間の文机にアルミニウムの灰皿を乗せた喜三郎が、シガレットの灰を落としているとイヨが縁伝いに、

「雨戸、開けますけぇ」

 とで、籠った煙に咳込みもする。雨戸のほぞが挿し込まれていないのは、数が多く、開閉の手数を減らす為で、清らかな朝を招き入れてから、

「昼になったら、また、暑うなるでしょうなぁ」

「この時期はなぁ。仕方がない」

「夏物、お出ししましょうか? 名夜様も木綿をお召しになるそうで」

「和服か?」

「お出掛けになられるとか。島の中ではあるそうですけれど」

 新緑の頃を過ぎれば、草の葉はいっそう盛んで、小さな花が咲きもする。右を胸にあてて、合わせた和服は初夏の風情を損なわず、おはしょりの上に巻いた帯は高々と、背で球となったが、飾り過ぎてもいない。

 新年の振り袖とはまた異なる、外出着で、ぐるりとレエスをあしらった日傘を差し、名夜が屋敷を出たのは朝餉の後。余所行きで、喪に服すにはふさわしくない井出達だが、父親は苦言を呈さなかった。

 三年の長きに渡って節度を保つには、身の回りが慌ただし過ぎる。

 坂道、路地と抜け、傘を閉じ、屋根のない門を潜ると名夜の背丈程の石碑があった。砲弾に似た石が集められているのは、参る人もいない仏を供養してのこと。

 遙かに立派なのは御本家代々の墓石で、彫りこまれた文字が苔に潰されようとしていたが、これもまた風格である。

 一度、土に埋められ、骨となった親族が眠っているだけに、名夜も疎かにはしなかったが、目的は墓参りではない。腕に掛けた傘を持ち直す。

 側らの椿に花はなく、根本近くに埋められた飛び石が小道となり、先には戸が一枚。

 墓地と垣根で隔てられた寺の裏手で、溢れた井戸水が桶へと流し込まれていた。ポンプを上下させていた栄良が、

「おはようございます。御用でしょうか?」

 と、道具をそのままに、作務衣の前で手を拭う。

 戸を押し、僧房の軒を借りた名夜はしなやかな指で衿を引くと首筋を撫で、乱れてもいない髪に触れた。片恋の相手をあえて訪ねただけに心は定まらず、なかなか、用向きを伝えられなかったが、栄良は穏やかで、

「まぁ、中へどうぞ。あ、水だけは運ばんと」

 土間に桶を置こうとして、(かまち)にぶつけたが、互いに傷がつく勢いではない。

 名夜はまだ、戸口にいて、

「別のところでお話がありますんよ」

 と、漸く。木綿の袖を奔流とし、井戸端から墓地に抜けた。指の節までしやなかに、片手で招いたが、栄良はただちに応じはせず、

「ちいと、和尚さんに断ってきますけぇ」

 と、師への筋目を忘れない。

第十七章 薬師如来

 玄関脇の座敷にいたのは和尚だけでなく、ふだん、店先の信楽焼と対を成し、古本の番をしている狸娘もまたで、用事を控えた栄良も、麦茶だけは運んだ。

「では、天城さん、和尚様」

 作務衣の青が失せると和尚の勧めもあって、口に涼を含んだ天城朔。寄木のように切り出し方を定めて、

「今日は昔のことを」

 海の波は岸壁で止まるが、先より立った気は港を越え、木の葉をそそのかし、瓦屋根を打たせる。軒端の柿は八年かかって実をつけた。昔とは若木の頃か、種にさえなっていない頃か、判じられなければ応じようもなく、和尚はまじろぎもせずに次を待つ。

「和尚さんは御本家の喜三郎さんや村長さんと若い頃からのお馴染だとか。この間、イヨさんからうかがいました」

「ああ、そのこと。喜三郎さんとは馬が合いましたなぁ。それなりではありますが、お互いに勉強が好きでしたけぇ。ただ、村長は余所の者です。それ程のことはない」

「徴用先の呉で知り合われたとか」

「うむ、伝次郎さんがなぁ」

「喜三郎さんと年子の」

「そう、二人目の兄さん。あの人が、鈴井君の父上は軍の仕事をしとる、なんてわしらに引き合わせたんで」

「それ、伝次郎さんにメリットは?」

「メリット?」

「急に連れてきたんですよね。何かあるんじゃあないかって」

「まさか、あの人は軍国少年でしたけぇ。軍の仕事は格好いいものじゃ、身内も偉いものじゃ、と、思い込んどったんですわ」

「へぇ、そういうもので?」

開戦劈頭(かいせんへきとう)はいわゆるところ。空母六隻、真珠湾に仕掛けた時なんぞ、ラジオの報道に大はしゃぎしとりました。まぁ、当時の子供は多かれ、少なかれ、あんなもんで。わしだって色々やりました」

「えっ?」

「意外ですかのぉ? なぁに、人間、いきなり大人になるわけじゃあない。子供の頃は周りに影響されるもんですて」

「そうかも……」

「柳行李を背負った行商人が島にやってくる。雑誌なんぞも商っとる。少年向けのやつにもあれやこれやと載っとりましたけぇ、武勲艦(ぶくんかん)の名前を覚えたり」

「武勲艦って?」

「戦果を挙げとる軍艦のこと」

大和(やまと)とか?」

「いや、大和、武蔵(むさし)は今になってみるとあまり活躍しとりませんでしたなぁ。海軍の象徴みたいな扱いで」

「へぇ、そうなんですか?」

「駆逐艦の方が余程でしたよ。呉の雪風(ゆきかぜ)、佐世保の時雨(しぐれ)なんちゅう言葉があった程で」

 天城朔にとっては雪風、時雨は俳句の季題で、鉄の塊とは結び付けられない。折角、和尚から教えてもらっても、想像が追い付かず、

「はぁ、あの……それあって、どんな意味?」

「どっちが凄いかっちゅうことです。お上がそういうのばかり公表しとりましたけぇ、この辺りの島にも評判が伝わっとりました。ああ、雪風は徴用された時に直接、見ましたなぁ」

「その船ってすぐに分かるものなんですか?」

「駆逐は横んところに堂々と艦名が書いてありました。こう、カタカタで。それに、ちょっと見掛けると伝次郎さんが嬉しそうに教えて回っとりましたけぇ。あの人はそこのところはわしらとは比べものにならんかった。こんまい時から腕白で」

「チャンバラごっことか?」

「近所の連中と組んで、よう棒っきれを振り回しとりました。それが、満州事変が起きると兵隊ごっこになって、知恵がついてくると今度は、将校になりたい、なぞと」

「将校? つまり、プロですよね?」

「そう、階級が少尉より上のなぁ。そこは、それなりの学校を出とるのが条件です。口ばかり達者じゃ、と、親父さんが困っとりました。それに、しばしば、喜三郎さんを小突きよりまして」

「仲、悪かったんですか?」

「喜三郎さん、戦争を控え目に見とりましてね。鉄砲よりも作戦が肝心じゃと子供ながらに見抜いとったみたいなんですが、大本(おおもと)はそこ。身内の小父さん、小母さんが、将校になれるとしたら弟の方じゃろう、なんて、言いよったんが耳に入った。ついには」

「問題を起こした?」

「男は勇ましさじゃ、と、喜三郎さんを海に突き落として、溺れかけさせまして。波の高い日でしたけぇ、あの時は村友の方々も怒り心頭。伝次郎さん、ここの本堂で一晩、明かす羽目に」

「折檻?」

「そう。仏に許しを乞うて、心を入れ替えるように、と、こう……荒縄で柱に括りつけられましてね」

 改心して、念じれば御姿を拝めたか。悪童、伝次郎にとっては本尊、薬師如来も無限の彼方にあって、寂しき夜を打ち破るのに罵詈雑言を用いた。

「それで、わしの師匠もちいとした苦労を。朝の勤行(ごんぎょう)ついでに縄目を解いてやろうとしたら、噛みつかんばかりの勢いであった、とか。ただ、それなりに思いはあったんでしょう。伝次郎さん、表立っての狼藉は控えるようになった」

「それが……何時?」

「徴用される前の年じゃったか。ようよう、荒んだ世相になりよりましてなぁ。お上からも、なるべく、ものを節約するようになんて

「ええと、欲しがりません、勝つまでは?」

「それもこれも、お国の為じゃ、と、伝次郎さんなどは、やっぱり大きなことを言うとりましたなぁ。今となっては虚しいばかりです。人間、爆弾には勝てませんけぇ」

「伝次郎さん、空襲で行方不明なられたそうですね」

「煙に巻かれたか、直撃を食ろうたか。わしは運よく、防空壕に転がり込んで、今日(こんにち)に繋げたわけですが」

「他の人は?」

「アメリカの爆撃機が去った後、同郷の者は、と、探したら、隣の壕に喜三郎さんが村長と一緒におりまして。煤だらけになっとりましたなぁ」

「ん、村長さんって、その……空襲の時、喜三郎さんと?」

「らしいです。じゃけぇ、付き合いが出来たのかもしれません。元から、仲がよかったわけじゃあない。配属されたところこそ同じでしたけれど、村長がよう話をしとったんは伝次郎さんで、喜三郎さんとは別」

 戦火は逆巻き町を呑む。そこに秘密があったとしても、生き残った者が口を噤めば、ものとして残るのは灰ばかり。図らずも知った男の人生は、姫守島の実情と連なり、引けば泥に没した鎖のように、真実を吊り上げるかもしれない。

 そのまま、的を射抜こうとする天城朔はあえて、疑いを論ぜず、行き着く先でサイコロを振ろうとしたが、機は牛であり、馬でもある。足並みは人知を超えて、和尚が口数を減らす切欠にもなった。触れればひびが入りかねない過去を得意満面に語っても、功徳(くどく)にはならず、

「失礼」

 と、縁を向きもする。

「お客さんですて」

 の、柿の木陰。気ままに上がりもせず、恐縮の仕方も朴訥に、猫背をいっそう曲げて挨拶をした男を迎えた和尚は、

「おう、松代さんをお連れか」

 髪も和服の衿も、昨日よりは整えていたが、門の柱に寄り掛からずにはいられない。支えたのはもう一人の男で、他に客らしい人はいなかったが、大伽藍でないだけに、五人も座敷に入れば息も詰まろう。

 男達は天城朔に一瞥をくれたが、邪魔を邪魔と言えないだけにもどかしい。何分、

「松代さんを一人で来させるんは心配でしたけぇ」

 で、つまるところ付き添いでしかなく、客として立場が一段、下がるのは心得ている。

 顔こそ大きくなくとも、何処やらは。本人の所為でなくとも不埒(ふらち)なり、との心内を聞いたかのように、天城朔が膝をずらしていると、和尚が、

「それで?」

 と、促した。檀家の相談を受けるのも修養で、接客に際し、やらなければならないことを済ませたばかり。

「そのですなぁ。この、松代さんですけれどねぇ。亡うなった与助さん達のお弔いは追って出すにしても、今日のところはここの御本尊に手ぇ合わしたい、と、申しとりまして」

 との頼みには、

「では、本堂に」

 折角、出された一杯をおろそかにはせず、たちまち、空にした男だが、道を同じくする者はそもそも、目に留めていなかった。僧房の奥から本堂に入り、隅に積まれた座布団を引く和尚への礼も深く、

「松代さん、こっち、こっちですて」

 と、哀しみにくれた人を、本尊たる薬師如来に任せる。

 おりんも木魚も大仰なのは、寺ならではのこと。太い梁が渡された天井に、ものを擦る音が響いたのは、壇上のマッチ箱を拾い上げた和尚が、百目ロウソクに火を点したからである。弔いの言葉に、溢れるのは涙だけとは限らない。やがて、流れたロウを燭台が受け止めた。

 光を採り難そうな廊下に立つのは天城朔で、木戸に平手をあてる。寺で一緒になっただけに、他生の縁かもしれないが、堂々と席をとるわけにもいかない悲劇の一幕で、首も落ちんばかりに突っ伏した松代が板敷を叩いた。

 和尚が立てた線香さえ危うげな、火傷も辞さない勢いだっただけに、同行の男達が手首を取る。腕を掴む。

「いかん、落ち着いて。いかんて」

 絶叫一声、昂ぶった心も八方に散って、腹に残ったのは疑いばかり。三白どころか四白になりそうな眼で、如来の顔を仰ぎ、怨念を包み、隠しもしなかった。

「二見の良平か、村友の千助か、誰がやりよったかは知りませんけれど、まぁ、今に罰が当たりますて。仏様は御覧になってらっしゃると違いますか、和尚さん」

「心得違いをしとる者がおるとすれば、むろん」

「まぁ、仏様の前に、警察様が黙っておらんでしょうけれど。ちいと、ぶちまけてやりましたけぇ」

「他人を呪えば、もう一つ穴が出来ようて」

「入ってやります。選挙の前、御本家で何ぞ、打ち合わせをした後、主人は恭吾を連れて帰って来た。わしらも安泰じゃ、もう、島の連中にコケにされることもない、と、言うとりましたけぇ、きっと、さかしまに思うた奴がおるんでしょう」

 これは、寺の本堂には相応しくなく、預かる身であれば、訓話の一つも授けなければならない場面ではあるが、壁伝いに入り、後ろについた人の、

「あの……松代さん」

 が、早かった。影は暗くとも格子戸を負っているので、輪郭ばかりは明るい天城朔である。

「その……ですね。つまり、開票する前から勝てそうだった?」

 そうであれば、余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)でいたとしても、おかしくはないが、解せないのは恭吾が加わっていたことで、策を出し、選挙活動を有利に運べる程、有能な人物でない。

 さらに、和尚によると、

「いや、そんなことは。当日も僅差で、集計、遅うまでかかりましたけぇ」

 で、知恵の輪が解けた思いをする天城朔。

「じゃ、じゃあ。あの……その、そう。村長さんにとっては選挙の結果が全部じゃあなかったんですね。恭吾さんが、恭吾さんのことが……」

第十八章 諸行無常

 鐘の音は諸行無常。花の色は盛者必衰。秦朝、二代目にして暗君を生み、驕る平氏が波の下へと消えたが如く、栄華は光陰において幻となる。とこしえを求める者はかえって命を縮め、骨が砕け、土に混じっての一千年。忘却はさだめなり。

 板敷の白布に並べられた漆塗りの器は通夜葬式で使ったもの。仕舞うのに表を傷つけないよう、一つずつ半紙で包んでいたイヨが、

「あら」

 と、手を止めたのは、何時の間にか茶箪笥に向かっていた名夜が引出しから袖の先を抜いたからである。肩から落ちんとする木綿の衿もそのままに、右を前、左も前、裾を割るふくらはぎを隠しもしない。

 名夜は一人、寝間の鏡台に向かい、脚を崩して青を落とす。ライターで、木目の上では目立ったが、瞼に映るのは砕ける波も淡き朝の色。

 小道を挟む大手門、直に水底へと没する船着き場、連なる奇岩に名が付いているのは昔日(せきじつ)の名残で、小屋や櫓は朽ち、残骸さえ留めていないが、水軍の砦とはそこのことである。

「名夜様、何処まで行かれるんで?」

 連れ出した栄良の手を取りもせず、名夜は小さな浜へ。砦の奥に残された天然の庭とも呼べる一隅で、細やかな砂を踏むなり、足元が危うくなった。鼻緒が付いた履きものに慣れていないからで、

「危のうございますよ」

 と、平たい岩の上に引かれる。勢いがつけば、流されずにはいられない。千尋の谷、万里の広野。深く、果てしない心持ちで、すがり付こうとしたが、出家のことわりに阻まれた。

 しなやかな指先が触れたのは(くう)ばかり。下唇に歯をあてて、顎を引き、瞳を上瞼に寄せながら、胸を抑えた名夜にとっては、栄良の、

「で?」

 が、もどかしい。

「お嫁さんに」

 との願いが、十五年あまりの月日を越え、

「おままごと、よう付き合うてもらいましたなぁ。久しぶりにお願いします」

 と、名夜の口を突いた。

 帯締めを解く。花と散らした太鼓で足元を彩りもする。

 腰を抜かした栄良が、

「いけません」

 と、振り回す手を払いのけ、木綿と襦袢を腕に滑らせた。早くも尖った淡き紅は狭間も麗しき玉のいただきで、乱れた裾の奥には影も重なる。かつて、病床にあった母が、

「なぁに、上手く出来とるもんじゃけぇ、安心せい」

 と、結んだ通りで、溢れる(かん)も止め処ない。

 しかし、今となっては残り火に過ぎず、御本家の鏡台に伏せ、引出しを探った名夜は肩を震わせ、件の手帳を投げ出した。手にした写真が圧され、被写体が歪むのは、たった一言、栄良が、

「南無……」

 と、文字にせずとも起請(きしょう)を立てたからである。

 出家を惑わせば地獄落ち、とは古き戒律で、惑わしきれないのもまた、苦しい。泰然たる仏の加護に敗けた裸の心は、崩れ、浜の砂と化しもしなかった。海に転げ落ちそうになりながら、遠ざかる背中を見送る。

 芯に到った空しさが、是も非もなく命を下すと名夜はライターを掴み、よろめきながら縁に出た。細かく散らした火を燃料に移し、万感の源を(あぶ)る。勢いづいた熱が滴り落ちんばかりで、慌てて離すと土さえくすんだ。

 共に焼かれながらも、ひとひら残った魂の赴くまま、名夜は障子戸の裏、鏡台に片腕を置く。(こうべ)を斜めに、眺めるつもりもない庭を向くと、一陣、吹き抜けた。

 水をこすように、庭木の葉が燃え殻を留める。

 霊前でなびく線香の煙が、隣の一間まで届くのは、鯨幕が片付けられていたからで、久江の位牌を拝む喜三郎の、

「名夜、今、おるんか?」

 も、籠らない。

 下座からイヨが、

「お疲れのようで。きょうといことばかり起きますけぇなぁ。うちも目回しそう」

 と、伝えると、当主は膝の先を巡らせた。威厳はなくとも、慈悲深い。

「一通り終わったら、休んでもろうて構わんが」

 村友の血筋を鼻に掛けた親族は日頃から、甘やかし、と、辺り憚らないが、目下の心理を突いていて、畳に手が重なる。

 冠婚葬祭、家事は後回しで、溜まりに溜まった諸々の間に身を投じようしたイヨだが、やや、時機を逸しての、

「あら、勘太郎様」

 御用はいかに、と、隅で様子をうかがった。

 上唇を潰さんばかりの険しさが、尋常でなく、

「久江にか?」

 との喜三郎も、話の切欠を求めてで、

「うむ、まずは」

 と、兄が霊前で手を合わしてから、

「で?」

「実はのぉ。説得、頼まれた」

「誰に?」

 ふと、柱が鳴ったのは、襖が開ききっていないところに手が掛かったからで、仏間の三人ばかりでなく、本人も驚いた。

「あ、あの……すみません」

 声色こそふだんと同じではあるが、あどけない面を引き締めて、眼鏡の裏に憂いを漂わせる。

「あの子じゃて」

 とは、喜三郎とのやりとりを続けようとした勘太郎で、敷居越しの、

「お邪魔してもよろしいでしょうか?」

 に、眼光さらに鋭く、凄みを利かせた。

「むろんじゃ。天城さん、あんたが言うとることが本当か、見極めさせてもらいたい。まずは弟を信用するんが人道じゃて。まぁ、こっちに()いや」

第十九章 因果の果て

 座布団の場所が揃わないのは、盤上でカラスと(さぎ)が競うに似て、コスミを固めるのが喜三郎と勘太郎。やや離れたところに打ち込まれたのが天城朔で、また、加われもしないイヨについて言えば、棋譜を記す帳面か、と。

「で、兄貴まで引っ張り出して、どげんしようっちゅうんです?」

 喜三郎が訊ねたのはすぐに始まらなかったからで、未だ、決心のつかない天城朔は、

「嫌な話を」

 と、壇上のポートレートを見遣る。亡き久江にとっては不本意な、裏切りに等しい行動で、姫守島に災いをもたらしかねない。しかし、黙っていても、王様の耳はロバの耳。いずれ秘密は漏れる。

 勘太郎の咳払いに圧され、背水の陣を敷けば、後は前に出るしかなく、まずは、

「事件のことで。喜三郎さん、貴方……何も知らない、関係ないなんてこと、ないですよね?」

 と、小出しにする。

 喜三郎も手の内を明かさない。

「如何でしょうなぁ。わたしが何ぞやったと?」

 そこは駆け引きで、

「はい、如何やって言えばいいでしょうか。そう……貴方は原因であって、原因じゃあない。わたし、思うんです。一連の事件の後ろには、もっと広い何かがあるんじゃあないかって。多分ですけれど、一連の事件は誰か努力では避けられなかった。起こせもしなかった」

 と、狸娘は尻尾を揺らし、抜け出しようもない(やぶ)へと誘う。

 狐であれば、幻は刃の鋭さを帯びようが、柔よく剛を制していて、その賢さを測りきれずにいる勘太郎が、

「じゃけどなぁ。それでは、事件にはならんのじゃあ?」

「いえ、それが、そうでもないんです。小さなことが幾つも重なれば、大きな出来事になる。それに、呑み込まれ、流されたのが……」

「喜三郎じゃと?」

「村長さん達、被害に遭った人達も。ここであったこと、全部をまとめている、はっきりとした計画なんて初めからなかったんです。どれもこれも、その場しのぎのことでしかなかった」

「それで、三人も殺された?」

「残念ですけれど、そういうことに。勘太郎さん、貴方はこの島の人だから、かえって気付けないのかもしれません。おかしいことがあっても、当たり前のことだって納得してしまう」

「そうかのぉ?」

「腰に刀を差して生活している人がいるところでは、危ないなんて誰も考えないんじゃあないでしょうか? ピストルが手に入りやすい国では、持つのは自由だ、権利だ、なんて話にもなる」

「言われてみれば」

「そういうところは、ふつう、まとまっています。余所からすればおかしくても、ルールがあるわけですから。だけど、外からの影響には弱い。オリンピックの中継を観て、島を捨てようとする人が沢山、出てきたように」

 小娘、案外、難しい理屈を捏ねる。初対面でないだけに性格を掴みかけていて、驚きこそしなかった勘太郎であるが、真意を探るべく、まじまじと。

 隣で喜三郎が拳を上げ、額の汗を拭うのは急所を突かれていたからで、

「そげなことは」

 との反論も弱々しい。

 天城朔に対しては一信九疑で、弟の弁護をする構えでいた勘太郎も、三信七疑、半信半疑と移ろわせ、

「一つ、本題に」

 と、腰に手を当てた。

 天城朔は一度、瞼を下ろし、

「事件の裏にあることで、一番、分かりやすいのは喜三郎さんと村長さんの関係ではないか、と。勘太郎さん、貴方方のお父さんも援助をしていますよね。そんなことをする理由なんてなさそうなのに」

「気前のええ人じゃった。皆、言うとる」

「あのこと、貴方は如何いうふうに?」

「よう分からん。復員したら、話が出来上がっとってのぉ。親父に次第をたしかめたら、お前は関わらん方がええことじゃ、なんて、怒鳴りつけられたもんじゃけぇ」

「秘密を知っている人を増やしたくなかった……もしかすると、貴方を巻き込みたくなかったのかも。いざという時、事情を知らなければ、それで済まされることもあるでしょうから」

「後ろ暗いことが?」

「伝次郎さんのことで」

 半ば憶測でも、心当たりがあれば打ち据えられる。先祖の位牌が並ぶ場に相応しくなくとも、声が溢れ、尾を引いた。まなじりも裂けんばかりに怯える喜三郎を、

「大丈夫か、おい」

 と、勘太郎が揺さぶる。

 中入りがなければ、口も利けなくなっていたかもしれない。その一大事を隠すべく、喜三郎が長年に渡って重ねた苦労は塵となった。

 あまりの出来事に、やや、静まってからイヨが、

「お客さん、貴女はいったい?」

 と、投げ入れる。

「久江さんに頼まれて……ええと、おかしなことになりそうだから、相談に乗ってほしいって手紙をもらったんです。それで、この島に来たんですけれど」

「じゃあ、久江様は旦那様のことを?」

「いえ、そこまでのことは。詳しいこと、何も書かれていませんでしたから。よく分からないことが多いから、そうするしかなかったんでしょう。それから、これ……想像なんですけれど、気を遣っていたのかもしれません。手紙っていうのは、残しておくと何時、誰の目に留まるか分からないものです。それに、わたしが読んでいる時、周りに誰かいるかも」

「お客さんにだけ報せて、お知恵を拝借したかった?」

「でも、思いの外、ことが大きかった。それを最初から見抜いていたとしたら、まず、わたしに相談しようとはしなかった筈です。ただ、進学までさせてもらったこの御本家と切り離せないってことだけがはっきりしていた」

 天城朔の知恵の程、イヨにとって信じ難いのは今でも変わらないが、勢いで言わざるを得ない、

「なるほど」

 で、区切りがついた。

 このまま、机上の空論をもてあそんでいても、龍は画中(がちゅう)にいて、空に昇らない。

「喜三郎さん、話していただけますよね?」

 と、天城朔。

 逃れる為の算段を捨てきれないのも人の(さが)ではあるが、不都合な事実が縄となり、絡みつけば、熟慮を重ねる毎に締まりゆく。喜三郎は姿勢を保てずにいて、肺から絞り出したのは、

「多分、お察しの通りで、伝次郎兄を殺したんはわたしです」

 堰が一つ切れた。

「あの日のことは、如何も忘れ難い。鉄扱っとったんもありますが、暑うて、暑うて……窓を開けるとセミが鳴いとりました。七月でしたけぇ」

「それで?」

「警報が、セミの声を掻き消すようなのが」

「空襲が始まったんですね?」

「何時の間にか、わたしは伝次郎兄、それから村長と一緒に走っとりました。逃げた先に炎、別のところに行こうとすれば爆弾が降ってくる。その内に兄が足挫いてしもうて。わたしと村長は最初、助けようとしました。じゃけど、炎に追いつかれそうになった」

 有事であれば、太平の倫理道徳は通用しない。かつて、ミンダナオの地で、陛下からたまわった銃を手に戦った勘太郎にとっては知るところ。しかし、身内の不祥事とあれば、その限りではなく、

「見捨てたんか?」

 と、鉛と化した五臓六腑を吐き出すように。

 消防や救急の心得があっても、二次遭難の恐れがあれば策を練る。身を市井に置いていれば、兄一人救えなかったとしても責はないかもしれないが、現実はより酷い。

「いや、兄貴、わしは本当に伝次郎兄を殺したんじゃ。足にしがみついてきたけぇ、このままでは二人共焼け死ぬ思うた。気付いたら、血付いたレンガを持っとった」

「き、喜三郎。お前、伝次郎から嫌がらせを受け取ったけぇ、それで、それでなんか?」

「そこはよう覚えとらん。助けろ、助けろ、何度も言われた後のことがまるで。後で村長に教えてもろうたら、伝次郎兄が手離すまで、何度も殴ったと」

 生きようとするその執念は更なる悲劇に繋がって、天城朔の、

「だから、貴方は村長さんと約束をしなければならなくなった?」

 に、喜三郎は、

「あげなことが世間に知られたら、周りが困る。兄殺しの者を出した、と、親戚中が、いいえ、島の者すべてが後ろ指を差されかねん」

「貴方にとっては法律よりも、村友家の名誉が大切だった? あ、いえ、そうじゃあなくて、その……上手い言葉が見付からないんですけれど、もしかして、怖かった?」

「そう、天城さん、そうなんです。破ったら酷い罰が当たりそうで。わたしは村長に頼みました。今後、悪いようにはせんから、黙っとってもらいたい、と」

「それで、戦後、村長さんはこの島にやってきたんですね。お父さんのことで、生活に困って、貴方をあてにしなくてはいけなかった」

「わたしはあらゆる要求に応えなくてはいけなくなりました。父も巻き込んで」

「そんな貴方が、ここの、御本家の婿に迎えられた」

「皆が後を押したんです。頭のええ身内じゃ。御本家の婿にふさわしい、と。もちろん、わたしと父は断りました。村長とのことで、悪いことになるんは見えとりましたけぇ」

「だけど?」

「そう、ここの先代が納得しなかった。何が不服なのか、と、詰め寄られれば、文句を言えないのが村友の分家です」

 苦労の程は現当主も同じで、弟の婿入りに際し、家の中が慌ただしくなったことも忘れ難い。

「御先代にも面子(めんつ)があったんじゃろうなぁ。分家の三男にソッポを向かれたとあっては、他に示しがつかん」

 灰となった線香が崩れたのを、誰が気付くでもなく、肝心なのは天城朔の、

「それで、得をしたのは村長さんだった。自由に動かせる喜三郎さんの立場がよくなったわけですから」

 で、喜三郎も否定しない。

「図に乗るようになりまして、次第に無茶な要求を」

「余所者って陰口を叩かれているのにこの島に居続けたのも、貴方だけは逆らわないって分かっていたからですね」

「義理の父が亡うなった時、この島は村長のものになりました。心の上では反感を抱いとる者も、この御本家が後ろについとる……そう思うだけで、滅多なことは出来んようになってしもうた。不思議なもので、追々、わしは鈴井派じゃ、なんて、言い出す者も現れよって」

「そして、去年の選挙に?」

「島の者の気風も変わった。村長選に立候補する。応援せい、と」

「その所為で、貴方は村友の人達を裏切らなくてはいけなくなった。ただ、去年、村長さんとの間にあったことって、それだけじゃあないですよね? 村長さん、恭吾さんに秘密を漏らした」

「そこは、村長も人の親でした。恭吾君、困ったことに自分では何にも出来ん男でしたけぇ、心配になったみたいです。うちの資産を幾らか、裏から回してもらえるようにしたかったそうで。出馬が確実になったあの日、一緒になって脅してきよりました」

 戦時下の殺人と恭吾の事情が繋がれば、おのずと導き出されるのは、

「で、今回の事件に?」

 との結論であるが、天城朔は思案の体。それはイヨの言で、勢いのあまり、にじり寄ろうとする。

「そうじゃ、皆、わしが殺した」

 と、喜三郎が告げた時には、大分、前のめりになっていた。

「然様で?」

 しかし、天城朔は鵜呑みにはせず、

「喜三郎さん、それ、違いますよね。貴方が殺したの、伝次郎さんと村長さんだけなんじゃあ? そうでないと説明がつかないことがあるので。貴方、恭吾さんを殺せませんでしたよね? あの夜は……」

 とは、島にいなかったことに基づく推量で、元から、そう主張していた勘太郎も、

「そうじゃ、あのことがあった。じゃあ、喜三郎は嘘を? つまり、共犯者がおると?」

 理詰めでいけばごく自然な流れだが、血の流れも逆さまに、喜三郎は兄に詰め寄って、

「わしじゃ、わし。兄貴、全部じゃて」

 と、掴みかからんばかりに訴えた。

「待て、待たんか」

「全部じゃ、全部」

 会話さえ成り立たなくなった兄弟の有様に、ひるみそうになった天城朔であるが、木の葉一枚の妖術と、兎に化けて逃げ出すわけにもいかず、

「共犯者じゃあないと思います。あの人に人を殺させるぐらいなら、喜三郎さんはどんなことでも自分でやった筈です。小さな島で連続殺人なんてあったら、ふつう、犯人は一人だけってことになります。だから、そういう考えが広まることに賭けた。あの人には出来ない……力のいる殺し方をしたのも、いざとなったら、罪を被るつもりでいたから」

 頭を抱える。畳の上でのたうち回る。たとえ、犠牲になったとしても、隠し通さなければならないことだった。悲愴さえもが砕け散り、欠片を数えるのも苦しく、四十年以上も前、産湯に漬かったこともまた、喜三郎にとっては虚しかろう。

第二十章 返り血

 紙、土、木の日本家屋で、声と化した苦悩を留めるものはなかったが、鏡台のライターさえ孤独に染まる奥の一景。

 名夜は木綿のおちこちを乱したままで、遠くで掛け時計が鳴っても数えようとはしなかった。揃わない指先を上げたのは、

「よろしゅうございますか? お客さんが」

 と、イヨが天城朔を連れてきたからで、弱々しく敷居際を示しての、

「どうぞ」

 一枚きりの座布団を膝の下から抜き、勧めてから、着崩れを直そうとしたが、帯を解くわけにもいかない客前で、しどけなさを拭いきれない。畳の(へり)に添って座る姿に朽ちかけた花の風情が漂う。

「では、うちはこれで」

 下がろうとするイヨの背中では前掛けの紐が緩んでいた。あまりの出来事に締め直してはいられない様子。

 名夜と二人きりになると微かな風に庭を眺めた天城朔だが、間が整うとそれまでで、遠回しに切り出した。

「今、勘太郎さんが喜三郎さんを説得しています。村長さんとのことで」

「やっぱり、父が?」

「知っていた?」

「あげなこと、他の誰がすると?」

「そうですね、わたしも昨日の事件があったから……喜三郎さんの事情を知ったから、貴女まで辿り着けた。当事者の貴女にとっては、もっと簡単だったでしょう。ええと、恭吾さんに脅されていましたよね?」

 この先の領分、不確かな点が多いので天城朔は皆まで語らず、名夜の心に任せる。

「去年の、ぼっけぇ寒い日でしたなぁ。選挙のことで、うちに出入りしておったあの男が、用があるなんて。父への伝言じゃろうか、と、思うとりましたら、うちやこの家の今後に関わること。屋敷の中には他人がおる。夕方、研究所まで来て欲しい」

「で、喜三郎さんと伝次郎さんのことを?」

「あれやこれや、心当たりがあることばかり。うちの父様が、千助小父様を裏切ったばかりじゃったっちゅうんもあるでしょうけれど」

「選挙のことは、貴女にとってもあり得ないようなことだった?」

「切り札、切り札、なんてあの男は笑っとりました」

 北の鳥は暖を求め、南の鳥は寒さを避けるべく海を渡る。一方、年中、島にいるカラスは飢えていたのか、叫び、飛び立つ様が荒々しい。物憂げな夕暮れの気配を背負い、真っ黒になって迫る恭吾と重なる。

 怯え、研究所の壁に手をついた名夜の腰に伸ばしたのは太い指で、

「全部、俺のもん。逆らわんといて下さいなぁ、人殺しの娘さん。何、安心、安心。栄良なんぞより、よっぽど、可愛がってやれますけぇ。あの辛気臭い坊主、あんたのことなんて、女と思っとらんのでしょう?」

 と、丸みに這わせること、指紋を刻み付けんばかりに執拗だった。

 その時のことについて、名夜は尚も語る。

「久江さんが来てくれなければ……」

 芯の隅々にまで広がった汚濁に操られるばかりの体になっていた。かたくなに拒絶しようと、凡俗の欲はやがて、形を成し、膨らんで、御本家や村友家、ひいては姫守島を手中に収める。

「日暮れ間近じゃっちゅうのにうちが坂上っとるのを見掛け、何ぞあるんじゃあないか、と、探しにきたそうで」

 久江はあえて火中の栗を拾いたがる性格ではない。しかし、

「それで、一部始終を知ってしまった?」

 と、天城朔がたしかめた通りで、巡り合わせの悪さから巻き込まれた。

「あの男は、このことを他人に言うたら困るのは御本家様じゃ、と、口止めしました。うちも、内緒にしといてほしい、と、頼まずにはいられんかった」

 光を透かしていた障子戸が黒ずみ、縁もまた。名夜の頬も淡く、平べったく、髪の先から消え入りそうになる。やや、大きな雲が流れてきていた。

 すぐには明るくならず、天城朔もつられたような口振りで、

「それから、貴女は恭吾さんを殺す計画を立てたんですね。だから、まず、久江さんに死んでもらうしかなかった。脅されていることを知っているから。どうやって、高台に?」

「あの男に酷い目に遭わされそうになっとる。相談に乗ってはいただけんかのぉ」

「そう、囁いたってことでしょうか?」

「父やイヨには聞かれたくないことじゃけぇ、晩御飯の後に、と。使うた出刃は昼間の間に隠しときました。草の中に」

「そして、隙を見て、久江さんを?」

「勢いがついとったんでしょう。久江さん、柵によろめきかかって、そのまま海に」

「それから、貴女はこの屋敷に戻って、久江さんの日記を始末したんですね? 恭吾さんとのこと、書いてあったら警察が目をつけるでしょうから。久江さんはそういうの、日記に残すような人ではなかったでしょうけれど、貴女は安心出来なかった」

「何時そのことに?」

「ちょっと前に……そう考えるのが、一番、理に適っているんじゃあないかって。日記のことを聞いた時、気付いていなければいけないことでした。久江さん本人が処分したのでないとしたら、貴女方、この家の人達が怪しい。手が届くところに住んでいるわけですから。それだけじゃあありません。もう一つ、見落としていたことが」

「そう?」

「恭吾さんは殺される前、二見の良平さん達に随分なことを言っていたみたいです。それは、もちろん、都合がいいことがあったから」

「うちが呼び出したこと?」

「はい、もちろん、この御本家に近い立場なら、他にも出来た人がいるでしょうけれど、あんな時間に研究所までっていうのは……その、ふつうは無理なんじゃあないかって。貴女が犯人だって分かった後、わたし、本当にそうかって何度か考えてみたんです。そうしたら、他の人なら矛盾してしまうようなことが、全部、なくなってしまって」

「それはそうでしょうなぁ。あの男、大切な用事がある、と、囁いただけで、喜んどりましたけぇ。とっくに合羽と出刃を用意しとったっちゅうに。前の夜、港から盗んどいたんです」

「合羽っていうと研究所の外に捨ててあった?」

「久江さん殺した時、袖に血付いてしまったんで、ああいうものがあった方がええんじゃあないか、と……」

 防水の分厚い生地を合わせ、ボタンを掛けたあの夜のこと。下には一糸も絡ませなかった。汚れを吸われては、処分に困る。

 携えた懐中電灯に、出刃の輝きは鈍い。研究所の一室で、スウィッチを切るとぬばたまの闇に覆われた。

 高鳴る心音に気が遠くなりそうで、灯りを頼りにしたくなったが、ことを成し遂げるには不意討ちしかない名夜の腕。恭吾は漁師程、頑健でないとはいえ、男は男。真っ向から仕掛ければ、反撃の機会を与えかねない。

 出入口の広間に足音が響いたのは何時(なんどき)か。

「名夜様。来とりますか。ええことしましょう。そう、地獄極楽」

 舞った埃が無数の影となり、灯りを乱す。からかい気味に振り回されていた懐中電灯を目掛け、名夜が床を蹴ったからで、恭吾は驚く暇もない。

 みぞおちに刃を突き立てられ、ワイシャツを朱に染めながらよろめいた。壁のパイプによりかかる。指先を震わせ、膝をつく。弾みで刃が抜けるなり血が溢れ、フードの下に入って名夜の頬を濡らした。

 転がった懐中電灯を拾い上げてのもう一閃。太い男の喉を裂いてからの二閃、三閃。勢いでボタンが外れ、剥き出しになった肌に紅が散る。面を引きつらせ、笑いもしなのは情緒が安定するの、しないの、と。

「後ろに誰か、大勢の人がおって、もっとやれ、もっとじゃ、と、騒いどるような。あれは、いったい」

 と、名夜は禍々しい回想を終えた。不可解ではあるが飾らない本音で、この島に生まれた者は宿命を負う。

「名夜さん、貴女にとってはこの島が全部だったんですね」

「でしょうなぁ。うち、高校の時、下宿しましたけれど、体の底に染み付いとったものがあった。ここが広い世界じゃ、なんて言われてもなぁ。けったいで、けったいで仕方なかった」

「久江さんもそうだったかもしれません。東京の大学に進学しても、結局は……」

 亡き人が抱いていたのは宿命への憤りか、諦めか、そこは、天城朔も測り様がない。

第二十一章 空蝉

 ふっつりと二人して黙るなり陰から現れた。初夏の空、雲に隠れていた太陽ではない。髪を乱し、目の下に暗闇を湛えた喜三郎で、

「天城さん、名夜と二人きりになりたいんじゃが」

 父と娘の行く末を照らし、導く才などない天城朔で、返事に変え、うつむきがちに入れ替わる。

 稀なる因果に翻弄されれば、互いの本心を掴むのにあえて語るべきことは少なく、求めるのは猶予ばかりで、じきに別れの時がくる。ここまで長く差し向ったのは、名夜が幼い頃、

「父様、遊んでぇな」

 と、せがんで以来のことだった。あれは、お手玉か、双六(すごろく)か、それとも、(けん)だったか。記憶はおぼろげで、あるいは、似た場面が幾つかあり、混ぜこぜにしているのかもしれない。

「お前、今更じゃが、何かしたいことあるか?」

「父様は? 先に言うてほしい」

「何じゃろうなぁ。よう分からんようになっとる」

「疲れとるんじゃね」

「で?」

「海に出たい」

「簡単じゃなぁ」

「そういうんじゃあない。一人で深いところまで下りてゆきたい。多分、静かじゃけぇ」

「じゃろうなぁ」

 それだけ終えるのに、どれ程、かかったか。床脇の棚で、文箱や文学全集と一緒にしてある古びた置時計だけが、十五分と数えていた。

 喜三郎が、

「そろそろ、行こか? 兄貴達が待っとるじゃろうて」

 と、膝を立てると名夜は鏡台のライターを端に押しやって、

「お化粧」

 道具は今様、角の立たない意匠ではあるが、色合いを抑えてあるのは持ち主の好みで。口紅の筒は薄紫、キャップを外し、唇にほんのりとした春を加える。パフを使えばかおりも立つ。

 ふと、寝間の内を見回すと父親の姿がなかった。

 ついでに着替えもしそうな娘と同席するわけにはいかない。

 座敷の四隅が互いに離れようするのは、錯覚ではあるが、喜三郎にとっては人気(ひとけ)が絶えた屋敷の有様を暗示してのことだった。

 板敷に埃が積もり、畳は雨漏りの跡でまだらとなるだろう。当局の調べが入った後は荒れるに任せるしかなさそうで、親族が幾ら島内で権勢を誇っていようと維持していくだけの余裕はない。

 寂莫に圧し潰されそうになりながら、仏間に戻ると知らず時を越えていたのか、誰もいなかった。気味が悪くとも、余程の夢想家でなければ、耳を澄まし、後ろに目を付けようとするもので、

「兄貴、何処に行った? 兄貴」

 勘太郎と天城朔は茶の間に移っていた。

 ちゃぶ台には湯呑みが二つ。立ち昇る湯気が薄らぎつつあり、イヨが、

「淹れ直しましょうか?」

 と、気を利かせても上の空。

「ここじゃったか」

 との、喜三郎を迎えはしたが、ゼンマイを巻かれたブリキの人形よりも重たげで、勘太郎なぞは台の(へり)に片肘をついたままでいる。

 ただ、天城朔は今更、対岸の火事にはしない。日頃、内気そうな物腰でいても、花のお江戸は下町で、古本屋の店番をしているだけに筋目を通す意気がある。そこが、卑怯との違いで、

「で……その、喜三郎さん。村長さんの事件ですけれど」

 と、目を逸らさない。

 喜三郎にとっては当局の人々にも打ち明けなければならないことで、

一昨日(おとつい)の晩、港に来い言われたんです。事件のことで分かったことがある。人がおらんところで話がしたいっちゅうて」

「それって、蔵の陰での?」

「ええ、まぁ。何時ものことでしたけぇ、仕方がない、と。じゃけど、村長、わしを疑っとった。確たる証拠はなかったものの、罵られて、殴り合いになりそうになって、ついには、名夜のことを……恭吾君が脅し取ったけぇ、犯人じゃあないか、と、言われたもんですけぇ」

「それで、村長さんを殺してしまった?」

「身守る為に(もり)を拾ったんがようなかったんでしょう」

 波打ち際のざわめきが、格闘と悲鳴を包み込む。

 懐中電灯の光を向け、天を突く銛の柄を見詰めたのは喜三郎ばかり。

 切っ先が心臓に達していなかったのか、大の字に倒れた人は指を内に曲げようと。喜三郎が柄を掴み、斜めになって重しをかけると喉を鳴らした。

 泡となって溢れた血が顎に流れた。

「どれぐらい、やったでしょうか。名夜のこと、わたしが昔やったこと。警察に告げられたら、御本家の行く末が危うい。後はご存知の通りで、名夜に疑いがかからんよう、ああした工作を」

 事件について、更に尽くす言はなく、喜三郎は、

「ああ、兄貴。これ、貰うぞ」

 と、許されてもいないのに湯呑みを取る。この際、旧家の主として、憚るべき外聞などあろうか、と、冷めているのをよいことに一息で喉をうるおした。底にひびこそ入らなかったが、下ろすに荒々しく、

「イヨ、名夜を呼んできてくれんかのぉ。そろそろ、仕度、終わっとるじゃろうて」

 イヨにとっては最後の奉公で、うやうやしく従った。

「親父に聞かされとったらなぁ」

 とは、勘太郎で、着流しの袖を小刻みに震わせる。喜三郎を殴り飛ばしたくとも、兄弟の(えにし)があるだけに同情はしていて、

「全部、わしがやっとったかもしれん。名夜やお前が人を殺しては、周りに示しがつかんけぇ」

 とが、喜三郎にとっては有難い。

「兄貴」

 と、思い入るが、さて、木綿を畳み、化粧道具も整えた、

「名夜様?」

 の、寝間は空蝉(うつせみ)に似る。

「何処にいらっしゃるんです。名夜様」

 イヨの声が届くなり、滞りつつあった空気に渦が生じた。箪笥に腕をぶつけながらも、喜三郎が奥へと急ぐと勘太郎もじっとはしていない。

 茶の間に残された天城朔は眼鏡を押し上げ、目頭に指を当てる。

第二十二章 来りて帰る旅人は

 満ちれば半ば水底に。磯の岩は濡れ、より外にあれば孤立する。丸、四角を定めようもない天然の台で、飛沫を浴びる一足は名夜の靴であるが、発見者から連絡を受け、当局の人が駆けつけると片方だけになっていた。

 島内、噂で持ち切りとなり、飲み屋が賑わいもしたが、何分、酒がある。保守派が村友家の名誉を守ろうとすれば、改革派は現代の法を重んじ、これもまた、戦後型の民主主義のあり方、と、コップが割れる。椅子の脚も歪む。損をするのは店ばかりで、現行犯は、

「おい、集会所、行こう。飲み直さんとやってられん」

 と、夜風を切るのに、わざわざ、のれんを落としていった。

 竿を拾ったオカメが看板娘で、

「母ちゃん、ガラスで怪我せんようになぁ」

 と、案じる。

 ふと、仰いだひさしの裏が暗いのは月の所為で、明日も晴れる、と、観天望気。

 見事に当たり、澄んだ空の下、寺の屋根も高々としていた。勤行(ごんぎょう)の声が昇るに合わせ、庭木と共に広がりもして、広大な宮殿となった。いずれは羽衣をまとった天人(てんにん)も現れようが、木魚の音が止めばそれまでで、人間の道ばかりが示される。

 僧房に戻る前、和尚が窓辺にて、

「仕方がない」

 と、呟いたのは、日課として本堂の前に集い、念仏を唱えていた古老達がやけに拝んでいたからで、先は短くとも子や孫はいる。行く末の見通しが立たなければ、安全や繁栄を祈願したくもなるだろう。

 僧房の板敷に敷かれた円坐にお膳が添えられると、これもまた修行で、師弟は定められた文言(もんごん)を唱えた。

 雑念がよぎるのか、栄良の箸の運びは粗い。小鉢に芋を落としたが、師であっても、終えるまで声を発しないのが作法である。戒めはせず、そのまま、締めると庭から六畳間越しに、

「和尚さん、栄良さん」

 と、声がかかった。定年間近の郵便配達員で、

「この柿、ちいと虫がついとりますなぁ。あっ、失敬。お寺で殺虫剤撒くのはよろしゅうないしょうに」

 などと、取り止めのない挨拶をしたが、仕事の面では手を抜かない。縁に一通、封筒を伏せる。

「見ての通り郵便です。栄良さんの実家宛てですけぇ、手配(てはい)通りこちらへ」

(うち)にですか。誰から?」

「差出人の名前、見る限りでは沖子(おきこ)さんからで。昨日の夜の便で、局に届いた時はわしもびっくりしましたけれどなぁ」

「母から?」

 御仏や師の前ではあるが、トントン畳を踏み鳴らす。封を剥がすのに、なかなか、爪を掛けられず、如何にか薄桃色の便箋を引き出しと、早速、文字を追ったが、

「母は……帰ってくるつもりじゃとか。本土で上手くいかんようになって」

 と、苦しげに。異変を覚った和尚を待たずして、指から落ちた便箋が六畳間の敷居を越えた。

「和尚様、黙っていて申し訳ありませんでした。心に母のことがあったものですけぇ、わたしは御仏にすがりました。じゃけど、その為に名夜様を突き放してしもうたんです。名夜様が、あの方が自ら命を絶たれたんは」

 悪事とまではいかずとも、切欠を作ったのは配達員で、和尚と一緒に慰めようにも一介の島民の手には負えない。門の外で自転車のハンドルを押そうとすると港で汽笛が尾を引いた。

 海、穏やかであれば、定刻を守りやすい。連絡船の舳先(へさき)に割られた波が寄せて、砕ける。

 配達員にとっては、あえて、見物するまでもない日常で、そのまま、郵便局へ。

 その間にも、右舷に板が渡されて、利用客が待合室を後にする。

 ぶつかりそうになり、舌を打ったのはリュックサックを背負った中年の男。豊かな胸をかばうのはスーツケースにショルダーバッグの天城朔で、はずみで傾ぎそうになった眼鏡と水兵風の帽子に触れた。

 連絡船に乗り込む足取りは軽くない。島での悲劇がまとわりついている。船室で席を求めようとして、見覚えのある二人組に、

「おう、狸じゃ」

 と、指を差されたが、面に憂いを浮かべ続ける。

 窓際の長椅子に掛けると出港を報せるアナウンスが入った。

 機関が唸り、スクリューが大小無数の泡を生む。

 船は島から離れたが、遅れて岸壁の突端に立った、

「イヨさん?」

 に、手を振られれば、頭を下げずにはいられない。

 やがて、灯台の島は遠くなり……。

灯の孤島

灯の孤島

胸は豊か、しかし、童顔に眼鏡の少女、天城朔は友人を訪ね、瀬戸内海の孤島、姫守島を訪れる。そこで待っていたのは島の因習に根差した連続殺人事件だった。 この作品は「エブリスタ」でも公開しています。

  • 小説
  • 中編
  • ミステリー
  • 青年向け
更新日
登録日 2019-09-27

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