【完結】おとぎの国の恋愛模様
プロローグ 私と本と魔法使い
当たり前の日常。それは意識するまでもない平凡な毎日を指している。
そして今日も当たり前のことが当たり前に過ぎて行く……はずだった。
部活終わりで疲れ切った身体をベッドに預け、身体だけでなく心の緊張も解いた。
ベッドの脇にある本棚から『それ』を取り出し、適当にページを開いてみた。どのページを見てもカラフルな絵が描かれていて、申し訳程度に文章が載っている。しかも文字のほとんどはひらがな。たまに出てくる漢字にはふり仮名が振ってある。
それも当たり前の話。だって、今私が手にしているのは児童向けの絵本なのだから。
自分が対象読者から大きく外れていることは理解できているけれど、やっぱり好きなものは好きなのだ。
私が手にしていた絵本は『人魚姫』。愛に生き、愛に死んだ少女の物語。彼女の恋は純粋なものだったはずなのに、どうしてか実ることはなかった。そこまでの話なら「ふぅん、可哀想。でも次にきっと良い人が現れるよ」で済んだのだけど、人魚姫に次の恋はない。失恋してそのまま死んでしまうのだから。
私はベッドに横たわった状態で目をつぶり、誰にともなく呟いた。
「本当に王子様を助けたのは人魚姫なのに、どうして幸せな結婚をするのは隣の国の姫様なの? そんなの……おかしいよ」
誰にともなく……そう、私は返事など期待していなかった。当たり前だ、私は今部屋に一人なのだから。
しかし――
「では、ストーリーを変えてみますか?」
静かな部屋に響いたのは、私のものではない声。
慌てて体を起こし見回してみても、部屋の中におかしな所はみられない。
「姫香、貴女は人魚姫に幸せになってもらいたいんでしょう?」
また聞こえた。そのうえ今度は、私の名前をはっきりと言った。
幻聴じゃない。
「誰? 一体誰なの!」
「僕は……ま、魔法使いです……多分。きっと、貴女を絵本の世界へと案内する魔法使い……だと思います」
「ま、魔法使いぃ?」
そんなバカな。しかも『多分』とか『きっと』とかすごく曖昧だ。
怪しさを含んだ……というよりも怪しさの塊みたいな単語を謎の声は発したのだから、私が素っ頓狂な声を上げてしまうのも至極当然だった。
「その通り。僕が貴女の願いを叶えてあげましょう。――人魚姫の世界に行って、姫香の思う通りにストーリーを変えて下さい」
「えぇ! ちょ……ま、待って!」
慌てて止めようとするが、何の意味もなさなかった。
目のくらむような光に包まれたかと思うと、意識が闇へと沈んでいった。
1.目覚めた先は知らない場所で
「うぅ……」
靄がかかったような、酷く気分の悪い目覚めだった。
体全体をフワリと包み込む心地のよい感触に気付き、上体を起こす。どうやら私はベッドで眠っていたようだ。
まだはっきりしない目を擦りながら自分の使っている布団を見ると、一気に意識が覚醒した。
――私のベッドじゃない。
何が起こったのか分からない。
私はいつも通り学校に行って、普通に帰宅した。その後、部活で疲れた体を休めようとベッドに横になった、というところまでは覚えている。
でも、それはこんな、何人で寝るのか分からない豪華なベッドじゃなくて、ホームセンターで簡単に手に入る安物だったはず。
まさか誘拐?
一瞬不穏な想像をしてしまったけれど、きっとそうじゃない。
誘拐犯がこんな高そうな部屋に、縛りもせずに私を置いておくはずがない。それに何より、私を誘拐するメリットがないだろう。うちはごくごく普通の中流家庭だ。
少しずつ思い出せてくる。けれど、とても現実で起こった出来事とは思えない。
だって――魔法使いの声を聞いただなんて信じられるわけがない。
……これは、夢?
私は使いふるされて手あかが付いていそうな方法を試そうと、両頬を思いっきりつねった。
――むぎゅっ。
「痛い……」
痛いうえに、夢が覚めることはない。つまり――夢ではないということになる。
そのままの状態で部屋の中を見渡すと、またもや驚かされた。とにかく、広い。
そして、一体何に使うの? と聞きたくなるような大量の花瓶やつぼ、大皿などが棚に置かれている。もちろんどれもこれも高そうな物ばかり。
床には毛足の長い真っ赤なじゅうたんが敷かれている。
普段の生活の中で見かけるようなものではない。テレビや絵本で目にするたぐいのものだ。
……絵本? なにか引っかかるような……?
「…………あっ!」
さっき――気を失う前、私は絵本を読んでいたんだ。
高校一年生にもなって絵本? と笑われるのが恥ずかしくて誰にも教えていないけれど、私は小さい頃に読んだ絵本を数冊手元に残していた。
その中でも一番大切にしていたのが――『人魚姫』だ。
私は『人魚姫』を読んで憤っていた。そしてその時……あの声が聞こえてきたんだ。
魔法使いと名乗ったおじさん(お兄さん?)は言っていた。
『貴女の願いを叶えてあげましょう』
今この目にはっきりと映る世界は、私が生活していた世界とは確実に異なっている。けれど、シーツを握る感触はリアル。夢のようだけど、夢じゃない。私は今、この部屋に、存在している。
にわかには信じられないけれど、どうやら私は本当に人魚姫の世界に来てしまったらしい。
途端に、どうしようもない不安が体を駆け巡る。
――このまま元の世界に帰ることができなかったら……?
お父さんやお母さん、友達……ぐるぐると、みんなの顔が頭の中に浮かんできた。もしかしたらもう二度と会えないかもしれない。
考えれば考えるほど、胸の奥がキュウッとなって涙がこみ上げてくる。
私は静まり返った部屋で、声を上げずに泣いた。
泣いたからといって、元の世界に帰れるわけでもなければ、帰る方法を思いつくわけでもない。頭で分かっていても、涙は止まらなかった。
その時、コンコンコンッ、という乾いたノックが聞こえた。
私はビクッと身を震わせ、涙をぬぐいながらベッドにもぐり直した。
「……さ、ま?」
ドアの向こうから聞こえてくるのは男の声。何て言っているのかよく聞き取れない。
「ヒメカ様、まだ眠っているんですか? 入りますよ?」
耳をそばだてて聞いてみると、ドアの外の人は私の名前を呼んでいるみたいだ。
私の名前は桜庭姫香。だけど、外の人が呼んでいる『ヒメカ』が私のことだとは限らない。姫香なんて名前はそう珍しくもないのだから。
もしも私じゃない『ヒメカ』を呼んでいるのだったら、ここから出るのはものすごくまずいのではないだろうか。
時代や世界観によっては、見つかれば殺されるかもしれない。
『ヒメカ』は今いません。留守です。出直してきて下さい。
私は一心に祈る。部屋には入ってきませんように。
――ガチャリ。
現実(ここが現実であるかは微妙だけれど)はそう都合よくいかない。重々しいドアノブの音が鳴った。
もうだめだ、と思った。
布団にもぐりこんだまま息を殺し、近づいてくる人の音を聞いていた。けれど、じゅうたんが足音を消してしまうせいで、ほとんど分からない。
突如、バサッと布団が取っ払われる。私の身を守る最後の砦が崩れ、目の前には腰に細身の剣をさした男。
私はおそるおそる、その男の顔を見つめた。
やさしく細められた瞳、大きすぎも小さすぎもしない鼻、血色の良い唇は弧を描いている。敵意など微塵も感じられず、自然と身体の力が抜けていく。
「おはようございます、ヒメカ様」
目の前の彼は、私を見つめて、言った。
2.思わぬ私の役どころ
考えてみれば、この世界に来て初めて見る人間だ。この世界にはちゃんと、人間が存在している。そんな当たり前のことが、私を安心させてくれた。
一人じゃないということが、こんなにも心の安定につながるなんて思ってもみなかった。
けれどすぐに、そうじゃない、と考え直す。
もしかしたら、人間であることよりも彼の纏う雰囲気が今の私には必要だったのかもしれない。
やさしく見守ってくれるような……温かい眼差し。色は深い海を連想させるのに、どうしてだか温かみを感じさせる。
右も左もわからない、すがるものも何もない、そんな状況の中で登場した彼は、私にとっては神様みたいに感じられた。
さらに言うと、彼は全身を見ても顔だけを見ても、恐ろしいくらい整っていた。完成された造形美に思わず見入ってしまう。
「……? どうかなさいましたか?」
動かなくなった私を不審に思ったらしい彼に、グイッと私の顔をのぞきこまれた。視界いっぱいに彼の美しい顔。心臓が、壊れるんじゃないかと思うくらい、強く跳ねた。
――至近距離はダメッ!
慌てて離れると、キョトンとした様子で私を見る彼。
彼の持つ美しさに圧倒されて、自分のおかれた状況を忘れかけていた。視線を彼の顔から逸らし、冷静さを取り戻そうと小さく息を吐く。
「あ、の……」
勇気を出して声を掛けるが、様々な緊張のせいでカラッカラッにかすれている。
私は短い周期で脈打つ心臓を押さえて、唾を呑み下した。
「どうかいたしましたか?」
「……ヒメカというのは、私のこと、ですか?」
「えぇ。貴女がヒメカ様ですよ」
にこやかにそう言った彼。視線が交わると、深い海の色をした瞳に吸い込まれてしまいそうな錯覚におちいった。
「あ、貴方は……?」
「僕、ですか? いつも一緒にいたじゃありませんか……意地悪な人ですね」
彼は眉尻を下げて笑う。
「僕はヒメカ様のお世話係のシグルドでございます。毎朝、ヒメカ様の起床を担当しているので起床係と言ってもいいかもしれません」
冗談交じりに挨拶をするシグルドと名乗る男。ポニーテールのように高い位置で一つに束ねられた髪が、腰のあたりで揺れている。
シグルドが見かけよりもずっと親しみやすそうに思えて、ようやく心臓が落ち着いてきた。
「お父様がお呼びとのことですよ、ヒメカ様」
「お父様?」
一瞬お父さんの顔が浮かんできて……しかしすぐに消えた。きっと本物の私のお父さんじゃない。『この世界のお父様』のはずだ。
それくらいの予想が立てられるくらいには、私は冷静さを取り戻していた。
「えぇ、何でもヒメカ様の婚約の事で」
「こ、婚約ぅ?」
聞きなれない……聞くとしてもあと何年か先だと思っていた単語を突然言われて、戸惑った。
驚く私をにこやかにみつめたまま、大して気にもせず言葉を続けるシグルド。
「隣国の王子らしいですよ」
「王子? どうして私が……」
『隣国の王子』という、どことなく聞き覚えのあるようなないような言葉に、嫌な予感が頭をかすめる。
「婚約によってより強い結びつきを作りたいのでしょうね」
「いえ、だからなんで私が?」
「もちろんそれは、ヒメカ様がこの国の姫君だからですよ」
「……ッ!」
嫌な予感は的中した。
どうして今まで疑問に思わなかったのだろう。人魚姫の世界に来てしまったのだから、自分がどんな役割を持つのかもっときちんと考えるべきだった。
「本当に?」
それでも受け入れたくなくて、しつこく確認してしまう。
「はい。ヒメカ様の他にこの国に姫は居ませんよ」
はぁ、とため息をひとつ。受け入れたくなくとも受け入れるしかないのだろう。思いもよらない自分の役どころ。
人魚姫には『隣国のお姫様』が出て来た。
隣国というのは、人魚姫が好きになる王子様にとっての隣国。逆に『隣国のお姫様』にしてみれば、その王子様が『隣国の王子様』になるわけだ。
状況から考えて、どうやら私がそのお姫様のようだ。あろうことか、絵本を読んでいた時に二番目に憎んでいた隣国の姫の役割を担うことになるなんて。(補足だけど、一番憎らしいのはもちろん人魚姫をフッた王子様だ)
でも、この状況はむしろ好都合とも言える。
『隣国のお姫様』である私が婚約を断りさえすれば、人魚姫はめでたく王子様と結婚できるんだから。
上手く立ち回れば、人魚姫を救うことができる。
「お父様はどこに居るの?」
私はベッドから出ながら、シグルドに『この世界の』父親の居場所を問う。
「王の間にてヒメカ様をお待ちです」
王の間? と一瞬戸惑ったが、私が姫なら父親が王であるのは当たり前だ。
ここでは元々存在していた人物・ヒメカなのだからそんな事で一々驚いていたら怪しまれてしまう。
私は極力、私の想像しうる限りの、お姫様らしい振る舞いを心がけた。
「案内してくれる?」
「はい、仰せのままに」
よかった。「案内なさい」と高圧的にするべきなのか迷ったけど、これで良かったみたいだ。
3.私にドレスは着られない
廊下に出ようとして初めて、私は今の自分の服装に気付いた。
元の世界では着たことのない、ワンピース型のフリフリでヒラヒラの寝巻。言うまでもなく、ネグリジェだ。
ものすごく柔らかい生地で作られていて、着心地抜群だった。けれど、これで部屋から出るわけにはいかない。
「シグルド、ちょっと待ってて」
シグルドには一度外に出てもらい、着替えをしようとクローゼットを開いた。
中には、予想していた通り、見たこともない高そうなドレスがたくさん吊るされていた。
私はその中からレモン色のフリルがたくさん付いているものを選んだ。
けれど――
「あれ……?」
ドレスの着方が分からない。そりゃあそうだ。こんなドレス、現実の世界で着る機会などそうはない。
普通にファスナーが付いているわけじゃないし、袖も……何だかきつくて通らない。
もしかして、本物のヒメカと私とだと体のサイズが違うのかもしれない。だとしたら、いくら頑張っても着られるはずもない。
しかし、ドアの外で待っているシグルドのことを考えると着替えないで外に出るわけにもいかない。
「ヒメカ様、準備は出来ましたか?」
タイミング良く、扉の外のシグルドから声がかかる。
「あぁー……えっと」
何と説明したらよいやら……。
「入りますね。失礼します」
「きゃわぁぁぁあああ」
言葉を選んでいるうちに、部屋に入ってきたシグルド。いくら美形だからって許されることと許されないことがある。
ドレスのスカート部分には胴を突っ込んだままだった私は、上手く着られなかった上半身部分を胸に当てて後ずさった。
「シ、シグルド……」
「まったく、どうして袖を通すところまで着ておかないんですか! あぁ、もう! 紐も結びっ放しじゃないですか!」
そう言って彼はドレスの肩口にあった紐をほどき、袖をゆるめていく。
「……ごめん」
「まったくですよ。ほら、ここに腕を通して下さい」
シグルドに促されるまま、私は右、左と腕を通した。なんだか子どもの頃を思い出す。
彼はそのまま背中に回り込み――なぜか数秒間動きが止まった。
ふにっ。
「な……っ!」
顔のすぐ下を見ると、自分のものより一回り大きな手が胸を覆っている。
「おや、意外に柔らかいんですね。小さいともっと硬いのかと思ってました」
ふにっ。ふにっ。
「ひぃっ……いやあああぁぁぁぁぁ!」
反射的に体を返し、振り上げた手がシグルドの顔を直撃した。
「何するの、何するの、何するのっ? い、今……も、揉んだでしょ! 信じらんないッ!」
彼は一瞬何が起きたのか分からないという表情を見せ、状況を理解した後ひどく狼狽した。
「す、すみません! わざとじゃないんです」
「わざとじゃない? そんなわけないでしょ、三回も揉んでおいて、しらばっくれないでよ!」
「本当ですよっ! どんな感触なのか気にな……いえ、紐を結ぼうとした時に偶然手が触れてしまって、なんか気持ちいいと思ったら手が勝手に動いていたんです。本当に本当なんです、信じて下さいヒメカ様」
私はシグルドをキッと睨みつけた。
無意識に女の子の胸を軽々しく触るはずがない。
「あ、そーだ、ヒメカ様」
シグルドは私から目を逸らしつつ、わざとらしい声をあげた。彼はそのままクローゼットから何かを取り出した。
「今の感じだとヒメカ様、下着付けていませんよね? ドレスの下にコレをつけて下さい。そうです、僕がヒメカ様の胸に触れたのはそれを確かめるためで……」
「それは完全にダウトッ! さっきと言ってること変わってるし。……それより、その手に持ってるのって……」
「ビスチェです。ドレスを着る前にコレを」
目の前に出されたのは、チューブトップのようなデザインで……それでいてとても色っぽい洋服。
ドレスを着る時、下着を付けるべきか悩み、そしてつけようと思った。けれど困ったことに、私がこの世界で目を覚ました時にはすでにさっきのネグリジェを着ていて……とどのつまり、私は付けるべき下着を持っていなかったのだ。
何か誤魔化されているような気はするけれど、下着を出してくれたのはありがたい。
私は無言でそれを受け取った。
「僕はもう一度外に出ますから、その間にこれをドレスの下に着てください」
「……覗かないでね」
「はい、もちろんです」
彼は深く礼をして、しかし私と目を合わせることなく、出ていった。
再び部屋に一人きりになった私は、自分の手の中の物体を眺めた。
こんなもの、どうやって着ればいいの……?
よくよく考えてみれば、ビスチェだって着たことがない。
分からないながらも、とりあえずビスチェに身体を通し、そのまま何本かの紐を固く結ぶ。たぶんこれで良いはず。
まったく、着づらくてしょうがない。
「シグルド、着たよ! これで良い?」
シグルドに呼び掛けると、ゆっくりと扉が開き、ばつが悪そうに目だけをのぞかせた。
きっと、「覗かないで」と言った私の言葉を守っての行動なんだろうけど……逆効果にしかなっていない。その体勢はまさしく覗きだ。
「大丈夫ですか?」
すでに目が合っていて、その問いかけは意味をなしていない。大丈夫でなかったら一目でわかる。動揺しているせいだろうけど、一つ一つの行動が裏目に出ていた。
その行動がなんだかマヌケで……なんだか可愛い。自分でも分かるくらい頬が緩む。
私が返事をするまでもなく、シグルドは部屋に入ってきて先程と同じように、私の後ろへまわった。
「……先程はすみませんでした」
言いながら、ギュウッとビスチェの紐を絞る。ちょっと苦しくて、「うっぷ」ととてもお下品な声が出そうになるのを息を止めてこらえた。
「本当に悪気はなかったんです」
彼の深い海色の瞳の中に不安が見え隠れしている。
そこまで私が怖いのだろうか……。いや、もしかしたら元の『ヒメカ』が怖い人だったのかもしれない。
「もう気にしてないから。……でも、二度としないでね」
みるみるうちに変化していくシグルドの表情。面白いくらい単純で、思わず笑ってしまった。
「もちろんです。よかった、貴女に嫌われてしまったかと思いました」
にこりと微笑んだ彼は心底ホッとしているようだ。
そんなに嫌われたくなかったのなら、最初からしなければ良いのに……。
4.お父様との初対面
部屋を出ると、何人かの兵士の方たちが私に注目した。それがなんだか気恥かしい。
見られれば見られほど、自分の格好が不釣り合いな気がしてきた。もしかしたら、全然似合っていないのかもしれない。
「うーん。おかしくないかな?」
私は苦笑いでそう言った。
「そんなことはありません。よくお似合いですよ、ヒメカ様」
シグルドはお辞儀をすると、こちらです、と歩き始めた。私はその後を慣れないヒールでついてゆく。
長い脚を優雅に動かし、進んで行くシグルド。歩調に合わせて、結われた長い髪が揺れる。闇を連想させるような、見事な漆黒。
「綺麗な髪だね」
艶やかで、決して絡む事のない美しい髪。
「どうして伸ばしてるの?」
私は何気なく問いかけた。
「気になりますか?」
「えっ――」
しまった。ここでは髪を長く伸ばす事は普通の事なのかもしれない。しかし、後悔してももう遅い。
次の言葉を冷や汗をかきながら待ったが、シグルドが口にしたのは意外な言葉だった。
「やっぱり男の長髪は不潔でしょうか?」
ふぅ、安堵から溜息が出た。それを勘違いしたらしいシグルドは露骨に困った顔になる。
「あ、ごめん。そういう意味じゃないの。シグルドの髪、とっても綺麗だと思うよ」
「そうですか、良かった。ヒメカ様を不快にさせてしまったかと思い、肝を冷やしましたよ」
言葉の最後の方に混じっていた笑いに似た声色。それを聞いて、私もつられて笑った。お姫様の世話係にしてはずいぶんと打ち解けた人だ。
「内緒ですが――」
彼はそう言って振り返り、私の耳元に口を寄せ、いたずらっぽい口調で続けた。
「実はこの髪には魔力が宿っているんですよ」
耳にかかった息がくすぐったくて、私は思わず身をすくめた。
「もう、冗談ばっかり!」
彼の瞳は私を見つめているが、何も言わない。
「まさか――」
本当に? と問いかけるより早く、彼はにっこりと微笑み右手を壁についた。
「さ、着きましたよ」
左を見ると、私の背丈の五倍はあるであろう大きな扉が目に入って来た。
予想していたよりも、はるかに音も無く扉は開いた。二つある玉座の向かって右側には、荘厳なたたずまいの男性が座っている。
予想していた通り、『お父様』は私のお父さんとは別人だった。
もう片方の玉座に目を移すが、そこには誰もいない。きっと本来ならお妃さまが座る場所なのだろうけど……。
「ヒメカ」
低く唸るような声に、私は心と体を震わせた。
すごい威圧感。この人の言葉に逆らってはいけない、そう思わせた。
私はここへ、婚約の話を断りに来たのだ。それなのにとてもじゃないけど、それを切りだす気にはなれない。
「――七日後の夜、六時だ」
「な、何がでしょうか?」
震える声で、なんとか尋ねた。
「ルカ王子との対面だ」
間髪入れずに返って来た答えに、頭を殴られたような衝撃を受けた。
ルカ王子というのが、人魚姫に出てくる『王子様』で間違いないだろう。それにしても……七日後?
もうすでに私の婚約の話は進められているようだ。
「ま、待って下さいッ!」
ありったけの力と勇気を込めて叫ぶ。
「一体何を待てというのだ」
「婚約のお話です。私の意思に関係なく進めるなんて……」
あまりの迫力に言葉が尻つぼみになっていく。
「ヒメカ、どうしたというんだ。以前話した時には承諾してくれたじゃないか」
その言葉にギクリとした。
「――あ、あぁ……そうでした、ね。忘れていました」
取り繕うために慌ててそう言った。
私は姫香だけど『ヒメカ』じゃない。この世界には私ではない『ヒメカ』が存在していたのだ。彼女の積み重ねてきた過去を否定すれば怪しまれてしまう可能性もある。
私はおとなしくうなずいて話を合わせるしかなかった。
「もう日取りも決まっているんだ、ヒヤリとさせないでくれ」
お父様はため息とともに言葉を吐きだした。
「もう一度言う、七日後の午後六時だ。今度は忘れるなよ」
「はい」
そう返事をしたものの、気持ちの上では忘れてしまいたいと思っていた。
「……話はそれだけだ。それまでに気持ちの整理をつけておきなさい、ヒメカ」
最後にそれだけ言うと、私から視線を外した。それきりシンと静まりかえる室内。
その状況にいたたまれなくなったのか、シグルドが私の肩を抱き扉の方へと促した。私は特に逆らうこともせず、流れに任せて部屋を出た。
「大丈夫ですか、ヒメカ様」
扉が閉まるとほぼ同時にシグルドがそう言った。
「ん……」
私は言葉の内容など耳にも入ってない状態で適当に相槌を打つ。
私の頭の中は、怪しまれず断ることでいっぱいだった。
「ヒメカ様は……この結婚を受けるつもりですか?」
唐突に、シグルドはそう言った。
一体どういうつもりなのだろう。そう疑問に思うと同時に、私が結婚を回避しようとしていることが見透かされたようで、心臓が一拍飛んだ。
彼の真意が分からなくて、なんとなしにシグルドの深い海色の瞳を見つめた。
しかし彼は至って真顔。何かを考えているようには見えなかった。
「ヒメカ様?」
「あ、えっと……受けなきゃいけないのかなーって思ってるけど……」
何言ってるんだろう、私。こんな言い方じゃ結婚したくないってバレてしまう。
「つまり、まったく乗り気ではないのですね?」
「え、いや」
気持ちを完ぺきに言い当てられて、ごまかしの言葉さえも浮かばない。
けれどシグルドはそんな私の様子を気にすることもなく、笑顔で話しだした。そして、私はその内容に衝撃を受けることになった。
「そうですよね。ヒメカ様が結婚に乗り気なわけないですよね。気が変わったのかと思って、少々びっくりしましたよ」
「はぁ?」
それではまるで『ヒメカ』が結婚したくなかったみたいではないか。
なにがなんだか分からなくて、状況が整理できない。
「ヒメカ様は昔からそう思っていましたからね、今さら考えが変わるわけないんですよ。あぁ良かった、安心しました」
「安心? どういうこと?」
「いえ……何でもありません。さしでがましいことを申し上げてしまいましたね。すみません、忘れて下さい」
言い終わると同時に、シグルドは笑顔を作りなおした。
5.夢の中でのお願い
いろいろあったせいか、その夜、眠りに落ちるのは一瞬だった。
自分が今眠っていると理解している不思議な感覚の中で、どこからか声が聞こえた。
〈……姫香、姫香〉
誰かが、私を呼んでいる……。
頭の中に直に響いてくる声。その声には聞き覚えがある……ような、ないような……。
〈姫香……僕の声、聞こえていますか?〉
やっぱり、なんとなく覚えがある。
〈聞こえてますよ。貴方は……えっと……誰でしたっけ?〉
私は脳内で言葉を作り上げて応答した。
〈……やはり、覚えてはいませんでしたか。僕は姫香をこの世界に連れてきた魔法使いです〉
〈あ!〉
あの時の魔法使い! 確かにこんな声だった!
最初は胡散臭いと思って全然信じてなかったけれど、こんな状況に陥ってしまった今ではこの人(人かどうかは分からないけど)が魔法使いだと信じるしかない。
相手が魔法使いだと分かったならば、言うことは一つしかない。
〈魔法使いさん! 今すぐ私を元の世界に帰して!〉
〈それはできません〉
間髪入れずに返ってきた答え。もちろん、それで納得なんかできるはずもない。
〈どうして? 貴方がこの世界に連れて来たのなら、元の世界に帰すことだってできるでしょ?〉
しばらくの沈黙の後、魔法使いさんは言った。
〈……逆にお聞きしますが、姫香は帰りたいのですか?〉
〈もちろん、当たり前でしょ!〉
〈どうしてですか?〉
問われて返答に詰まった。
どうしてと言われても、ただ単にもと居た自分の世界に帰りたいだけ。他に理由なんかない。
そう言ったら、魔法使いさんはふふっ、と軽く笑った。
〈それならいいのです。安心しました。今すぐに帰すことはできませんが、必ず帰すことをお約束しますよ〉
優しい声色で言われたものの、そう簡単には不安は拭いきれない。
〈今すぐには……無理なの?〉
私は無意識のうちにぽつりと呟いていた。
〈――はい。というのも、帰るためには条件を満たさなければならないのです〉
〈条件?〉
〈人魚姫と王子を結婚させることです。その条件さえ満たすことができれば、自然に元の世界に帰ることができますよ〉
〈……逆に言えば、人魚姫と王子様が結ばれなければ私は二度ともとの世界に帰れないということですか?〉
〈……〉
魔法使いさんから返事は返ってこなかった。つまりはそういうことなんだろう。
〈――まったく、全然『必ず』じゃないじゃないですか〉
呆れてそう言うと、魔法使いは先程と同じように小さく笑った。
〈そうでもありませんよ。僕は姫香が『必ず』物語を変えてくれると信じていますから。だって、姫香はずっと昔からこの話を変えたいと思っていたじゃないですか〉
まるで私のことを昔から知っていたような口ぶりだった。さすがは魔法使い、とでもいうべきなんだろうか?
絵本の世界に人間を送り込む魔法使いだ、人の気持ちを読み取ることができても不思議じゃない。(魔法使いという存在そのものが不思議、というのはこの際置いておく)
けれど、人間の気持ちとか感情とかは一過性のものが多い。現在の気持ちを読み取ったからといって、昔からそう思っていたとは限らない……なのに何故?
〈姫香〉
魔法使いさんに呼ばれて、考えは簡単に頭の片隅へと追いやられてしまった。
〈何かこの世界で困ったことはありませんか? できうる限り解決しますよ〉
もちろん、真っ先に浮かんだのはこの世界に居ること自体、という答えだった。けれど、今は帰すことができないと言っている魔法使いさんに対してそんな事を言ったってしょうがない。
私は一日のことを振り返り、そして『困ったこと』に思い当った。
〈服……〉
〈服?〉
〈服をどうにかしてください。できれば一人で着られるように!〉
誰かに手伝ってもらっての着替えなんてまっぴらだ。二度と今日みたいな恥ずかしい思いはしたくない。
〈どうしてですか? 世話係の……そうそう、シグルドという男が居たでしょう? あの男に手伝ってもらえばなんの支障もないじゃないですか〉
〈いやっ!〉
〈何故ですか!〉
思っていたよりも強い口調で返ってきた。すでに疑問形ですらない。
〈年頃の女の子が男の人に着替えを手伝ってもらうなんてありえないです!〉
〈……大丈夫ですよ、彼に下心はありませんから! ……それとも、やっぱり今日のこと怒ってるんですか?〉
〈もう怒ってはいませんけど……って、魔性使いさん、今日のこと知ってるんですか? 知っていて、 シグルドに下心が安全な人だと言ってるんですか?〉
〈そうです。彼には悪気ありませんでしたし、姫香に危害を加えることはないと思いますよ〉
〈……随分、シグルドの肩を持つんですね〉
一瞬、呻くように言葉に詰まった魔法使いさん。その後、長い溜息が聞こえた。
〈分かりました……。そこまで信じられないと言うのならドレスを一人でも着られるように変えておきます〉
かなりしぶしぶといった様子だったけど、魔法使いさんは私の要求を呑んでくれた。
良かった、これで一人で着替えをすることができる……。
〈――では、また何かあったら言ってくださいね、姫香。僕はいつでも姫香の味方ですから〉
この言葉を最後に魔法使いさんの声は聞こえなくなり、私も再び深い眠りに落ちていった。
6.お世話係は規格外
瞼を閉じていても感じる眩しさに、まだ目覚め切らない頭で朝が来たのだと理解した。そこで小さな疑問が浮かぶ。
……はて、いくら疲れていたといっても、カーテンも閉めないで寝たんだっけ? それともカーテンが役に立たないくらいに太陽は威力を増しているんだっけ? (そんな馬鹿な)
身を起こすと、やっぱりカーテンは開いていた。とりあえず、太陽光増強説ではなかったみたいだ。
目の端でせわしなく動く何かを捉えた。
見てみると、昨日より低い位置で結んである髪を腰まで垂らし、テーブルに朝食を並べているシグルドの姿があった。
「……ッ!」
「あっ! おはようございます」
どうして部屋に居るのか、と呆気にとられていた私。そんな私に、シグルドは何もなかったかのように陽気に朝の挨拶をした。
「良い天気ですね」
「良い天気ですね、じゃない! なんでここに居るの?」
「朝食の準備をしていました」
悪びれる様子もなく、実に良い笑顔で言い切った彼。どうも、私が思っていたお姫様と世話係の関係からずれている気がする。
というか寝ている間に部屋に入ったのか……いいの? この国の警備はそれでいいの? あ、世話係だからいいのか。…………いいのか?
魔法使いさんはシグルドを信用しているみたいだったけど、私にはそうは思えない。
「ふぅん……まぁいいや」
「何がですか?」
「こっちのこと。……それより、今日の朝食は……ッ!」
私は用意された朝食に目を向けたまま、言葉を失った。
やはり、というかなんというか……朝食は実に豪華なものだった。数多くのお皿には大量のおかずが輝いている。輝いて見えるのは、窓から差し込む太陽の光のせい……のはず。でもそれすらも、計算されつくされていたように見える。
ふと疑問が浮かぶ。どうして自室で食べることになっているんだろう? 昨日のお父様の話だと、城の中には『会食堂』があるみたいなのに、そこを利用せずにそれぞれ部屋で食べるなんて変な感じ。
「シグルド、あのさ」
私は本当の『ヒメカ』でないことが悟られないよう細心の注意を払って、言葉を紡いだ。
「なんですか?」
「私って、いつから自室でご飯を食べるようになったんだっけ?」
シグルドはうーん、と唸って顎に手を当てた。
「……僕がここに来る前の話なので詳しくは知りませんが、お妃様がまだ元気だったころは三人そろって食事をされていたと聞いています」
私は、ふぅん、と気の抜けた返事をした。お妃様……か。
昨日王の間に行った時には王様しかいなかったから、もしかしたらとは思ってたけど、どうやら亡くなっているらしい。
そう考えて、『ヒメカ』が少し不憫になった。
あの頑固で全く融通のききそうもない人が父親で、母親は亡くなっている。さらには政略結婚……。がんじがらめで、何の楽しみも味わえなさそうな人生だ。
「ヒメカ様、たまにはお妃様のところに顔を出してあげて下さい。きっと……元気になるでしょうから」
「……は?」
それは、私にあの世に行って来い(遠まわしに死ね)、って意味……? 私、なにかシグルドの気に障るようなことしたっけ?
チラッとシグルドの顔色をうかがう。……いやいやいや、そんなわけない。シグルドはいたって真剣な表情だ。
まっすぐに私を見つめる様子は、冗談を言っているようには見えないし、何よりも、シグルドがそんな人を傷つける可能性のある言葉を言うはずもない。……となると、まさか――
「お……お母様は今、どこにいるの?」
「ご自分の部屋にいらっしゃると思いますよ」
やっぱり、生きてるのか! 驚きが口から漏れないように慌てて口を押さえた。
不謹慎かもしれないけど、生きていたことに心底驚いた。元気がないということは何か病を患っているのだろう。
「――私、行ってみようかな?」
お妃様には申し訳ないけど、心配よりも好奇心の方が強かった。この世界の『お母様』に会ってみたい。
そんな思いからシグルドに申し出ると、
「では後ほど、ご案内いたします」
微笑みながらそう言った。
7.フローラさんとの初対面
食事を終えた昼下がり、シグルドに案内されてやってきたのは、城から少し離れたところにある小さな建物だった。もちろん、お城と比べれば小さいだけであって、普通の一軒家よりは大きいくらいだ。
私たちは玄関口に居た二人の兵士に軽く会釈をして中に入った。建物の内部はお城のものと変わらない。
さすがはお妃様、というべきなのだろう。彼女の部屋の前には何人もの兵士が、背筋をピンッと伸ばして立っていた。
シグルドがドアを軽くノックをすると、
「はーい、どうぞー」
女の声で返事が返ってきた。随分と気の抜けた声だ、とぼんやりと思いながらドアを開けると――
ムギュッ!
得体のしれない柔らかいものに顔が飲み込まれ、両側から伸びてきた細長いものに胴体を締め付けられた。なにやら温かいものだ。
何が起きたのか全く理解できなくて、私は目をパチクリさせていると、
「待ってたのよー! 貴女、なかなか私のところに遊びに来ないんだもの!」
頭上から降ってくるアルト。ようやく自分が誰かに抱きしめられてると理解した。
やっとのことで首だけを上に向けると、その人は黒い瞳を輝かせて私を見ていた。絵に描いたように スゥーッと通った鼻筋、薄い唇には真っ赤な口紅が塗られている。かすかに香ってくる甘い香りに、ほんのわずかだけどくらくらした。
「そんなに見つめないで! 照れちゃうわ」
言葉とは裏腹に、彼女は私の額にそっと唇を押しつけた。
「えっ……あの」
「フローラ様、もうその辺にしておいてはいかがですか?」
「えー、久しぶりに会えたのに……」
シグルドの言葉に、しぶしぶといった様子で離れていったフローラという女性。離れたことでようやくその人の全身が確認でき、そして絶句した。
女性にしては結構な長身で、なおかつドレスを着ていても目を引く素晴らしく豊満なバスト。そこに顔をうずめていたと思うと……同じ女性だけど、ちょっとドキドキした。
ウエストはほっそりとしていて……よくもまぁ、その大きな胸を支える事ができるな、と感心してしまうほど。
肩よりも少し長いくらいの髪の毛はふんわりとした内巻きで、彼女の雰囲気を柔らかいものにしていた。
――女神だ。でなければ神に愛された女性だ。
そう思えるほどに完成された美しさだった。
「ヒメカ、ほらほら中に入って!」
彼女に腕を引かれるままに部屋に入る私にシグルドも続く。静かにドアが閉まると、そこは私たち三人だけの世界になった。
部屋の中央にはお菓子と飲み物のおかれたテーブルがあった。私の視線がそこに注がれているとわかると、彼女は青いドレスを翻し、踊るようにしてテーブルに近づいた。
「ヒメカが来るって言われたから、大慌てで用意したのよ。――ほら見て、このクッキー。私が焼いたのよ。一緒に食べましょう!」
破顔させて言う彼女は、容姿に反して子供っぽく見える。
彼女の強烈な魅力――容姿、テンション、強引さ、その他諸々にすっかり飲み込まれてしまっていたが、私はお妃様に会いに来たのだ。病床にふけっているといわれているお妃様に。
しかし、部屋を見回しても他には誰もいない。ベッドもきれいに整えられている。となるとまさか――
「ほらヒメカ、こっちにいらっしゃい」
何事もないように振舞っているこの女性が……お妃様?
「お、お母様……?」
おずおずと、誰にともなく呼んでみる。もし予想が違っていたとしても、『お母様はどこにいらっしゃるの?』という意味合いだと理解してくれるだろう。
と、彼女にいきなり顔を手で挟まれた。
「……?」
戸惑って見上げると、彼女はぷーっと頬を膨らませ、口をとがらせていた。
「お母様って呼んじゃ嫌っ! 『フローラ』って呼んで!」
思いもがけない内容に、私はそのままの状態で唖然とした。
何なの、この人は! 子供じゃないんだから……。これではまるで病気だ。……あぁもしかして、こういう病気……?
『お母様』という呼び掛けに拒絶の意思を示したものの、『お母様』であることに対しては否定していない。ということは、残念ながらこの人がお妃様に間違いないことか……。
あれこれ考えていると、今度は頬に鈍い痛みが走った。一拍おいて、つねられているのだと分かった。
「聞・い・て・る・の?」
「い、いひゃい! いひゃいでふぅ。きいふぇまふかりゃ!」
「何言ってるかわからないわ」
引っ張られたり押されたりと、落ち着かない頬の状態ではまともに話すこともできない。そんな状況をみかねてシグルドがフローラさんをなだめようと声をあげた。
「フローラ様、もうその辺で勘弁してあげては……」
「シグルド、少し黙ってて。そしたらあとでイイコトしてあげるわ」
「結構です」
フローラさんの含みのある発言に、きっぱりと否定の意思を示したシグルド。フローラさんは妖しげな笑みを口元に浮かべた。
「そうよね、だって貴方はロリコンだものね」
「……なッ!」
フローラさんは私の頬から手を離し、身体ごとシグルドの方に向いた。そしてピッと彼を指差す。
「私、知っているのよ! シグルドが本当はヒメカを……」
「うわぁぁぁぁあああ!」
シグルドは似つかわしくない大声をあげ、そしてそのままフローラさんの口を軽くふさぐ。同時に私は、自身の耳をふさいでいた。細い体のわりに随分と大きな声が出るものだ。一瞬遅れていれば、鼓膜が痛んでいたに違いない。
しかし結局、シグルドのせいでフローラさんの言葉の最後は聞こえなかった。
8.引かれた引き金
「今度はお父様を入れて、家族三人で食事をしたいな」
言った後、私はしまった、と思った。
テーブルに乗っていたお菓子の大半が無くなり、ティータイムもそろそろ終わらせようかという時に、何となく言った言葉だった。別段に深い意味はない。今日の朝食の時に、昔は三人で食べていたと聞いたからただ言っただけ……あいさつみたいなつもりだった。
ただ、言ってしまった後軽く後悔したのは、この場にシグルドが居たためだったからに他ならない。
私とフローラさんと、そしてシグルド。たった今まで三人でおしゃべりしながら楽しく過ごしていたのに。これだとまるで、シグルドではなく、お父様と一緒の方が望ましかったみたいだ。
シグルドに疎外感を味わわせるのはなんとなく嫌だった。着替え中にいきなり部屋に入ってきたり、寝ている間に朝食の準備をしたりと、色々規格外の世話係だけど、それはきっと今まで積み重ねてきた『ヒメカ』とシグルドの絶対なる信頼関係があるからだ。
そんな仲良しの世話係をないがしろにはしたくない。
「シグルド、あのね」
フォローしようと話かけた瞬間、
「い……いっやあああぁぁぁぁぁぁ!」
甲高い悲鳴が上がった。フローラさんだった。
見ると、先程までの穏やかでお茶目な様子と打ってかわり、頭を抱えて叫び声をあげていた。
「あの人はあの人はあの人は……」
まるで呪いでも掛けているかのようにボソボソと発せられる声。その途中途中で上がる奇声。ひきつった顔は元の美しさからはかけ離れていて、誰が見ても異常な状態だった。
「まずい!」
シグルドは急いで立ち上がり、部屋のドアを開けた。すると、何事かと武器を構えた兵士たちが何人か入ってきた。続いて、タオルや洗面器を持ったメイドさんたちも入ってくる。
いきなり起こった出来事に、私は何が起きているのか分からず、でも邪魔になってはいけないことだけは分かっていて――仕方なく部屋から出た。
慌ただしく動く人の中にシグルドを発見して歩み寄ると、彼は笑顔を作り、
「大丈夫ですよ。フローラ様はすぐに良くなりますから」
と、言った。
じわり、と視界がにじむ。
あんなに元気な様子だったフローラさんが、一転して狂ってしまったことがものすごく怖かった。もう元に戻らないんじゃないか、二度とまともに話せないんじゃないか、そう思うと……涙があふれてきた。
「大丈夫です。大丈夫ですから……」
シグルドに手をひかれて、私は自室へ戻った。
9.フローラさんの病の発端
部屋に戻ると、シグルドはフローラさんについて話してくれた。
フローラさんの病気は精神的なものだそうだ。なんでも、特定のモノを激しく拒絶し、ああなってしまうらしい。
だからキーワードになる『ソレ』を連想させるようなことをしてはいけない。見ても聞いてもダメ。
それを聞いて、どうしてお妃様であるフローラさんがあんな建物に居るのか納得できた。
きっと――城の方には居られないのだ。
私の予想では、ソレはきっとお城の中に存在するものだから……。
「シグルド……、お妃様が苦手としているソレってさ……」
「はい」
「もしかしなくても――お父様のこと?」
シグルドは何も言わずに、ただ頷いた。
やっぱりと思うと同時に、罪悪感が芽生えた。知らなかったこととはいえ、間違いなくフローラさんを刺激したのは間違いなく私なのだ。
お父様の話なんてしなければよかった。もともとそんなに思い入れがあって話したわけじゃない。なんとなく……思いつきで話しただけだったんだ。
自分の発言でこんなにも後悔したのは初めてだった。
「ヒメカ様のせいではありませんよ。なんの説明もなしに連れて行った僕がいけないのです」
それもそうか……って簡単に割り切れたら苦労はしない。
銃を知らない子どもが誤って発砲し人を傷つけてしまった場合、いくら「お前のせいではない」と言われたって、目の前が人間が鮮血を飛び散らせた様子を一生忘れはしないだろう。そして事の重大さを理解できるほどに成長した時には、すでに変えることのできない過去のことになっているのだ。
私にフローラさんを追いつめるつもりがなくても、引き金を引いたのは……私。その事実は誰が何と言おうと変わらないものだった。
のたうちまわるフローラさんの様子を思い出すと、すごく申し訳ない気持ちになって、今すぐ駆けつけて謝り倒したくなる。
自分の罪を軽くしたいからか、思考がそれて疑問が浮んだ
――どうしてフローラさんはお父様が苦手なんだろう?
二人は国王様とお妃様――つまり夫婦のわけだけど、どうしてこんな状態なのか。
シグルドにそれを訊くと、眉を下げてかなり困った顔をした。
「……どうしても、聞きたいですか?」
そんな言い方をされると聞くのが怖くなるじゃないか。自分の軽はずみな言動でフローラさんを苦しめてしまったのが頭をよぎって、私は自問した。
――この質問は好奇心によるものではないか?
――答えを聞かなければならない理由はあるか?
――答えを聞くことによって苦しむことになる人はいないか?
前二問に関しては答えが出ていた。
――私は真剣な気持ちで、何があったか知りたい。汚らわしい野次馬根性なんかじゃない。
――私はフローラさんに罪滅ぼしがしたい。だから答えを知って、できることならなんでもしたい。
そして三つめの質問。
「……シグルドは、言いたくない? 言ったら罰せられたりする?」
国王様とお妃様の個人的な話だ。城の中で口外無用とされている可能性もある。そんなリスクを、私のわがままのために負わせることはできない。
しかし、シグルドは首を横に振った。
「言いたくないのではありません。……聞かせたくないのです」
「ん……?」
言葉遊びのような言い回しに、一瞬何を言っているのか理解できなかった。
「それでも聞きたいというのなら……お話しますよ」
つまり、私への配慮というわけか。私……というか、二人の娘である『ヒメカ』が聞くとショックを受けるような内容ということなのだろう。
私は少し考えたのち、話すように促した。
私の世界にもよくある話だった。
国王様ともなると、何をするにも人が付き添う。身を守る兵士もいれば……世話を焼く女もいる。それも何人も。だからその中に、国王様が気に居るような――つまり関係を持ちたいと思う女性が居てもなんら不思議はない。
だからといってそれが言い訳になるわけでもないが……国王様は浮気したのだ。いや、浮気か本気かは本人にしか判らないことだけど……どちらにせよお妃様・フローラさんを裏切ったのだ。
しかも、タイミングがまた最悪だった。フローラさんが懐妊中の出来事だったのだ。お腹にいた子どもはもちろん、『ヒメカ』。
心も身体も不安定な時期に、頼るべき相手からの裏切りは相当こたえたらしい。それはもう、私なんかが想像できないほどに。
実際、その事実を知ったフローラさんは流産しかけてしまい、やっとのことでなんとか持ち堪えたそうだ。
『だって、生まれてくる子どもにはなんの罪もないもの。元気に産んであげなくちゃ』
そう言ったフローラさんに、周りは拍手喝采だったとか。
しかし、そんな気丈なフローラさんだったからこそ、周りの人間は誰一人として異常に気がつかなかった。
頼る相手が誰もいなかったフローラさんは、徐々に神経をすり減らしていっていた。本人も気がつかないくらい、少しずつ、少しずつ。
出産を終えて数日が経って、フローラさんの身体自体は体力を取り戻しつつあったある日、産まれた子どもの顔を見にやってきた国王様を見て……発狂したのだ。
わけのわからないことを言って怒鳴り散らし、手近にあったものを国王様に投げつけていたという。この時はまだ誰も国王様が原因だとは思わなかった。けれど、何度も繰り返すうちに原因が国王様にあると疑い始める者が出てきた。
ついには国王様自身がフローラさんを別館へ移すと言いだし、大慌てで工事を行い、現在のこの形に落ち着いたということだ。
10.お父様の過去の過ち
話を聞き終えた私は、頭に血を登らせたままある部屋の前にいた。
「ヒメカ様、本当にやるんですか?」
「当たり前でしょッ!」
心配そうな顔をしたシグルドをひと睨みして、私は扉を乱暴にたたいた。ガンッガンッガンッとうるさい音が廊下に響く。兵士の方々が私の方を見ているのは分かっているが、それでも私は手も口も休めない。
「お父様! お父様! 居らっしゃるんですか? 話があるんですけど!」
そう、ここは国王様ことお父様の部屋。
さっきの話を聞いて、一言言ってやらないとすまないと思った私は、シグルドに案内を頼んでここへとやってきた。
「お父様! おと……」
カチャッとドアノブがまわって、小さな隙間ができた。
「騒々しい」
低い声が降ってきた。一段と不機嫌な表情をしたお父様が、隙間から顔を覗かせていた。
私の顔を一瞥した後、ドアを閉めようとするお父様。そうはさせまいと私は隙間に片足をねじ込んだ。そう、まるで悪質訪問販売員のように。
「はしたないぞ」
「お・は・な・し・が、あ・る・ん・で・す!」
互いにじっとみつめ……いや、睨み合う。それが数十秒続いた。
「ふぅ……。入りなさい」
折れたのはお父様の方だった。
「あ、シグルドはここにいて良いよ」
シグルドにそう言い残して、私は一人でお父様の部屋に入った。
部屋には、紙の山ができている机と、コーヒーが入ったカップと灰皿が乗っているテーブル、私の部屋のものと同じクローゼット、そしてきれいに整えられたベッドがあった。特に飾り気のないシンプルな部屋だ。
「で、話とはなんだ?」
お父様はテーブルの近くの椅子に腰を下ろした。私も向かいの椅子に座る。
「お母様のことです」
「ほう」
お父様は軽く目を閉じて、口元に笑みを浮かべた。難しい顔をしているお父様からは想像しがたい、柔らかい笑みだった。
「意外だな。てっきり婚約を取りやめてほしいと言いだすのかと思っていたよ」
それもありますけど、と心の中で呟いて、
「なんでお母様を裏切ったんですか?」
とだけ言った。
ピクリ、とお父様の身体がかすかに動く。ゆっくりと目を開き、こちらを見ている。
「……聞いたのか」
「聞かれちゃまずいことだとは思ってるんですね」
あまりにもイヤミったらしい口調に、自分でも驚いた。けれど、このセリフに限って後悔はない。
「なんで、お母様が大変な時にそんな……う、浮気なんか!」
「すまないことをしたと思ってる」
「すまない、ってそれだけですか? お母様のことが大切じゃないんですか? お母様は貴方の子供をみごもっていたんですよ!」
「……」
お父様は眉間にしわを寄せるだけで、何の弁解もしなかった。
さっきは話を聞いて感情が昂っていたから気がつかなかったけれど、お父様にとってどうでもよかったのはフローラさんだけじゃない。私……『ヒメカ』のこともどうでもよかったのだ。指折り数えて誕生を心待ちにしていたなら、浮気なんてする気にもならないはずだ。
――私は望まれていない子どもだったんだ。
シグルドの言っていた「聞かせたくない」の意味がようやくわかったと同時に、胸が鈍く痛んだ。その痛みは身体を駆けのぼり、涙となってこぼれ落ちた。
そんな私の様子を見たお父様は、驚いたように目を丸くした。
「お父様は、私のことも、お母様のことも……どうでもいいと思っているんですか?」
「そんなわけないだろうっ!」
咆哮のような大声に、身体がビクリと震え、驚きのあまり涙が引っ込んだ。
「馬鹿なことを言うんじゃない。私にとってフローラもおまえも、かけがえのない大切な存在だ」
「じゃあ……どうして……?」
眉間に寄せていたしわを一層深くし、涙が乾ききっていない私の顔を眺めた。きっと酷く不安そうな顔をしていると思う。
「本当はおまえには聞かせたくない、情けない話なんだが……」
そう言うと、お父様は苦笑いを浮かべながら静かに話しだした。
「私はフローラのおおらかさにだいぶ甘えていたみたいでな、彼女だったら浮気くらい簡単に許してくれると思っていたんだ」
「なっ!」
一体何を言いだすのだ。どんなに性格の良いお人好しだったとしても、自分の夫の浮気をそうそう許せるわけがない。
「まぁ、聞きなさい」
立ち上がり、抗議の声を上げようとする私を軽く制す。私は仕方なく座りなおした。
「彼女が妊娠中だったため……私も、あれだったのだよ」
「あれって何ですか?」
「大人の事情だ。――とにかく、浮気したことに対してはなんの弁解をするつもりもない。けれど、フローラを愛してるということも、揺るがない事実だ。皮肉なことに、フローラから拒絶されて初めて気づいたよ、どれほど彼女を頼っているか。すでに彼女は私の一部だったんだ。だからこそ、フローラの気持ちに気付かなかったんだ」
どこか遠くを見つめて話すお父様は、穏やかな表情をしていた。
大人の事情とやらは分からないけど、お父様がフローラさんを大切にしてるということは分かる。
「お母様には会いたいとは……?」
「もちろん、思っている。けれど、会えない。ヒメカも知っているだろうが……フローラは私と会うとおかしくなるから。……こういうのを自業自得というんだろう」
私はさっきのフローラさんの様子を思い出し、気が滅入った。名前を出しただけでアレだ。本人を見たらどうなるかなんて……想像したくもない。
それを分かっているであろうお父様は、たださみしそうに笑っていた。
11.フローラさんを助ける方法
「フローラさんを治す方法はないんですか?」
ないのだろう、と思いつつ言った言葉だったのに、お父様はなぜかうろたえ、視線を泳がせていた。
「あるんですか?」
「……いや、……うむ」
歯切れの悪い言葉を返してきたので、私はさらに詰め寄った。
「あるのに隠してるんですか?」
じーっとみつめると、観念したのだろう、お父様は肩を落としてため息をついた。
「ほんとに、おまえは……まったく、いらないところがフローラに似てしまったようだな」
ため息とともに言葉をこぼしたお父様。
最初こそあのキャラクターに引いてしまったが、話してみると押さえるところは押さえている素敵な人だった。お父様がどういう意味合いで言ったかはともかく、フローラさんに似ているというのは実に光栄なことだ。
「――方法はあるには、ある。一つだけな。だが……」
「だが?」
「……」
またもや黙り込んでしまったお父様。
「だが?」
続きを促すように聞き返すと、先程『情けない話』をしたときと同じ表情になった。
「どうしても聞きたいか?」
どこかで聞いたような言い方だった。フローラさんが発狂してしまった理由を聞きたいかどうか問いかけてきたシグルドと同じトーンだったのだ。
あの時と違うのは、フローラさんの病気を治すことと私とに深いつながりを見いだせなかったということ。はなから治らないと思い込んでいた病気だ。どんな内容であってもショックを受けるとは思えない。
私は首を縦に振った。
「いいだろう。けれど――」
不意に伸びてきたお父様の手が、テーブルの上の私の手を包み込んだ。
「え……、おと、お父様?」
「ヒメカは自分を一番大切にしてくれ。これから何を聞いても、我慢なんかせずに、嫌だったら嫌だと言ってほしい」
ギュッと握られた手から体温が伝わってきて、何か大切なことを言われるんだと直感した。
「安らぎ草という薬草がな、フローラの病によく利くそうなんだ。名前の通り、昂った感情を抑え、安らかな気持ちにしてくれるらしい」
「えっ! まさか、麻薬?」
焦って聞き返すと、お父様は呆れたように半眼になった。
「せっかちなところもフローラ譲りのようだな。そうではない、薬草だと言っているだろう。ただ……やっかいなことに、安らぎ草はそうそう育つものではないし、育つ地域も限られていて中々手に入らない代物なんだ」
「希少価値の高いものなんですね。でも……」
お父様は国王様だ。無駄な権力の行使はいけないことだとは思うけど、国王という立場を利用すれば薬草くらい簡単に手に入りそうなものだ。
そう言ったら、お父様は深くうなずいた。
「確かにその通りだ……ただし、わが国で作っている薬草ならば、な。安らぎ草はこの国の領土では育たない。隣の国の領土でのみ育つ特別な薬草なのだ」
「――隣の国?」
ふと婚約の話が頭の中によみがえり、嫌な予感がし始めた。
「近くの国ではあるが、いまだにあまり国交のない国だ。貴重な薬草をおいそれと売ってはくれないのだよ」
「もしかして……それで私と王子様の結婚の話が出てきたんですか? 私と王子様が結婚してしまえば、両王家はかなり密接な関係になり、薬草を手に入れる事も容易くなるから」
「……その勘の良さは、私の遺伝だろうな」
肯定の意を含んだその言葉に、私は愕然とした。
これでは婚約を断ることなんてできるわけない。
「だが、これを気にして無理に婚約をすることはない。嫌だったら嫌だと言ってくれ」
先程と同じようなことを言うお父様。昨日は私の話なんか聞く耳も持たなかったくせに、こんな断りにくい状態を作っておいて決断を私に任せるなんて……!
もしかしたら、私が断れないことをみこして話しているのかもしれない。
お父様の思惑通りかもしれないが……無理だ。嫌だとしても私は婚約を破棄することなんてできない。結婚を取りやめたらフローラさんを治す手立てが失われてしまう。
こんなことなら聞かなければよかった、と私は今日何度目かの後悔をした。
『安らぎ草』
それさえ手に入ればフローさんの病気が良くなる。けれど、それには私が王子様と結婚しなければいけない。
もちろん、私が本物の『ヒメカ』で、人魚姫について何も知らない状態なら、嫌だろうがなんだろうが迷うことなく結婚をしたと思う。
けれど、私は『人魚姫』の世界の住人じゃないし、帰るべき場所がある。帰らなきゃならない。
第一、この世界に来た……いや、引きずり込まれたのは人魚姫が王子様と結ばれるようにストーリーを変えるためだ。私が結婚してしまっては、何のためにここにいるのか分からない。
それに人魚姫と王子様の結婚は、私が元の世界に帰るための条件でもある。私が元の世界に帰る帰らないの話をおいといたとしても、どちらかを選べば誰かが犠牲になる。結婚すれば人魚姫は死に、結婚しなければフローラさん病は治らない。
――クソッ! どちらも選べるはずがない!
私は心の中で悪態をついた。
イライラをアピールするかのように、椅子に座ったままテーブルに肘をついて激しく貧乏ゆすりをする。
「まぁまぁ、落ち着いてください。……はい、どうぞ」
呑気な声とともに軽い音を立ててテーブルに置かれた紅茶。勢いよく手を伸ばすが、
「熱っ!」
カップがあまりにも熱くて反射的に手を引っ込めてしまった。
「シグルド、熱すぎるよ」
「今のヒメカ様ほどではないと思いますよ。……あ、そんな怖い顔で睨まないでください」
人が睨んでいるというのに、シグルドは穏やかに笑みを浮かべている。
「シグルドは、悩みなさそうでいいよねー」
大げさにため息をついてみせると、シグルドは、
「心外ですね。僕にだって悩みの一つや二つありますよ」
と、言った。
「へぇ、どんな?」
「例えばですね、怖いお父様の部屋に殴りこみに行ってしまった姫君がなかなか出てこなかったり……ってヒメカ様、聞いてますか?」
「はいはい、聞いてますよー」
私は紅茶のカップを両手で包みこみ、息を吹きかける。温度を舌先で確かめながら、少しずつ紅茶を飲み込んだ。
「シグルドはさぁ」
「僕がどれほど心配していたことか……はい?」
姫君の心配をしていたというシグルドの話を遮るように呼び掛けた。
「絶対にどちらかを選ばないといけない二択があった時、どうやって決める?」
「そうですねぇ」
唐突な質問に戸惑うことなく、彼は顎に手を当てた。
「僕なら……その二択は捨てて、一番自分の思うようになる行動を考えます」
「は……いぃ?」
思いもよらなかった答えに、間の抜けた声が漏れる。
「どちらかしか選べないなんて固定概念は捨ててしまって、一番良い方法を自分で考え出します」
まぁ、あくまでも僕ならですけどね、とシグルドは苦笑した。
いやはやしかし、こんな考え方があるだなんて思ってもみなかった。
じゃあどうだろう。私の場合は――
12.ひっそりこっそりヒメカの旅路
翌日の昼過ぎ、誰にも内緒で、私は城を抜け出した。
婚約から逃げるとか、すべてが嫌になったとかじゃない。ちゃんと目的がある。
――安らぎ草を手に入れること。
安らぎ草さえ手に入れてしまえば、もう結婚をする必要は全くない。これならフローラさんの病気を治せるし、人魚姫を救うこともできる。これが私の考え付く、ベストな方法だった。
そのために、私はたくさんの洗濯物が集まる部屋に忍び込んで、外に出ても目立たない格好に着替えたのだ。いくらなんでも、城で着ているドレスでは目立ちすぎる。
今の私は、シグルドの着ていた騎士服と同じデザインのふたまわり小さいものを身にまとい、髪の毛は初めて会った時のシグルドと同じように高い位置で一つに結んでいた。国の紋章の入っている肩当てははずしてきたから、一目で城のものだとはばれないだろう。
この男装をするにあたって、私は胸にさらしを巻いた。今は服の上から触るぶんには違和感がないほど真っ平らだ。壁だ。まな板だ。ペッタンコだ。
……だいぶ物悲しいが、状況を考えれば、運が良かったとも言える。無い胸が役に立つ日が来るなんて、考えたこともなかった。
「それにしても……」
私は街の人たちを順々に目で追った。
街に出ると、意外にも、ドレスと着ている人が目立つ。もちろん私がお城で着ていたものほど派手ではなく、何度も着ているのが分かるほどにくたびれてはいる。
そんな人混みをかいくぐりながら私は街の外に出た。一気に人気が失せた。
目的地は、もちろん隣の国。というか、隣の国のお城。
今朝、メイド達を束ねるメイド長に聞いた話によると、安らぎ草は城の敷地内で育成しているらしい。
城の中に忍び込んで盗み出すのはそうそう簡単なことではないと思うが、敷地内ならなんとかなるかもしれない。
これは私がドレスで来なかった理由の一つでもある。木に登ったり、壁のわずかな隙間に隠れたりする時にドレスなんかを着ていては、成功するものも失敗してしまう。
私は城の書庫から拝借した地図を握りしめて、茂る野原へと足を踏み出した。
城が見えてきたときには、すでに辺りはすっかり暗くなっていた。
「はぁ……やっと、着いた」
決して険しい道のりだったわけじゃない。ただ単に遠すぎたのだ。馬にでも乗れたならこんなに苦労はしなかっただろう。この世界の常識では馬に乗るか、馬車に乗るかで移動しているようだったし。……元の世界に戻れたら乗馬の練習でもしようかな。
門の前では兵士の方々が目を光らせていて、とてもそこから入るわけにはいかない。と、なると……。
私は城壁に沿って裏へとまわる。しかし、そこにも兵士の方々。やっぱり入ることなんかできない。
困っていた時に目に入ってきたのは、城壁に寄り添うように立っている大きな木。もしかしたら、と小さな希望を胸に、私は木をよじ登り始めた。
――ホント、ドレスで来なくて良かった。
服が木に擦れるが、全く傷まない。騎士は外敵と戦う可能性があるのだから、それなりに丈夫な服でないとだめ、ということなのかな。
城壁とほぼ同じ高さまで登ったところで、私は細くなっている枝に少しずつ体重をかけていく。ミシッと軋む音をさせながら先端に向かって歩み、そして――
シュタッ。軽く小さい音をさせて、城壁に無事着地(着壁?)した。
あぁ、こんなに集中したのはいつ振りだろう。
そう思った瞬間、緊張が緩んでバランスを崩した。
「きゃあ……」
落ちそうになりながらも、大声を出してはいけないと自制した。
けれど、結局体勢を立て直すことは出来ず、地面に強かに身体を打ち付けた。
「うっ……!」
息が、止まる、と思った。
本能的に頭をかばったおかげで、気絶するという最悪の事態にはならなかったけれど、とんでもなく身体が痛い。
壁を支えになんとか立ち上がるが、左足に全然力が入らない。とういうか、感覚がない。
不幸中の幸いなのだろうか、私は城の方に落ちたことで、侵入することに関しての問題は解決した。
と、思ったのも束の間、
「そこで何をしているっ!」
大きな声が聞こえて、私はビクリと身体を震わせ声のした方を向いた。
そこにいたのは、この城の兵士であろう男。シグルドとどっちが高いか比べさせたくらいの背丈だ。月に照らされた金髪がキラキラと輝いていて、幻想的な美しさだった。
その男は、私のもとへ駆けてきて、剣を抜く。
13.怪しい兵士の思わぬ協力
「お前、何者だ!」
剣先を突き付けられて、声も出なかった。もともと力の入っていなかった足がその役割を全く果たさなくなり、私はズルズルと地べたに座り込むような形となった。
「答えろっ!」
目の前で鈍く光るソレは、すでに私の喉元にピッタリとくっついていて、少しでも動けば皮膚を破って血を流す。
「わ、私は……」
両手をあげて、降伏の意を表した。すると剣先が少し遠くなる。
「み、道に迷ってしまって……」
ピッと首に何かが掠る。そしてそこからごくわずかの生温かい液体が首から肩へと流れてきた。首の皮を薄く切られたようだ。
「真面目に答えろ」
「はい! 安らぎ草を盗もうとしましたっ!」
慌ててそう言い直すと、ピクリと剣先が揺れる。
「何に使う気だ?」
嘘を言おうか、と考えたが、今みたいに首の皮一枚でさえも斬られるのはごめんだ。しかも二回目とあっては命もないかもしれない。
迷った末、正直に打ち明けた。
「母が精神を病んでいて……安らぎ草があれば治ると聞いて、それで……」
「……そうか」
そう言うと、彼は静かに剣を引き、わずかな金属音を立てて鞘におさめた。
「えっ?」
「ついて来いよ。安らぎ草はこの先で栽培している。そこまで案内してやるから」
私が立ち上がるよりも早く、彼は歩き始めていた。
「待っ……っ痛!」
皮肉にも、しばらく座っていたことで左足は感覚を取り戻していた。酷い痛みを伴って。
「おまえ、けがをしてるのか?」
「平気」
壁に手を付き、やっとのことで歩き始めると、彼は私の前で背を向けてしゃがみこんだ。
「乗れ」
「え……」
これは、おんぶ?
目の前の状況がよく理解できなくてもたもたしていると、
「早く乗れ。見回りが来るかもしれないぞ」
と急かされた。
「うん……」
私は遠慮がちに彼の大きな背中に乗っかった。彼が立ち上がると、必然的に私の目線も高くなる。
「随分と軽いな」
「そ、そうか?」
頭に、『男にしては』という言葉が隠れているであろうその言葉に、ギクリとした。
そうだ、私は今男装をしてるんだ。なんとしてもばれないようにしなければ。女だとばれるだけならまだいい、問題ない。けれど、何かの拍子に婚約中の姫だとばれたら……外交問題になりかねない。
極力注意しなければ、と決意を固めた瞬間、足を支えていた彼の手が不意に動き……ムニッと太ももを挟まれた。
「ひ、あっ!」
情けないうえに、恥ずかしい声をあげてしまった。
「なんだよ、気持ち悪い声あげんな! ……しっかしそれにしても、ぜんぜん筋肉ついてねぇじゃねぇか、この足」
「し、失礼な! これでも人並みにトレーニングしている!」
実際こっちの世界に来るまでは、朝のウォーキングと夕方のジョギング、筋トレを日課にしていた。絶対に筋肉がついてないなんてことはない。
「それでこれかよ。まるで女みたいだな」
再びギクリとなる。
「あ、あぁそういえば……最近風邪をひいて、一昨日まで寝込んでいたんだった。それで筋肉が落ちてしまったんだな、きっと」
ははは、と軽く笑ってごまかすと、目の前の頭がくるりとこちらを向いた。透明感のある瞳と目が合う。
「顔も女みたいだよな……」
じーっと食い入るように見つめてくる彼。私は必死に動揺を隠そうと真正面からその視線を受け止めた。バレるな、バレるな、バレるな、と心の中で唱える。
「……ってそんなわけないよな。女だったら背中にもっと柔らかい感触があってもいいもんだ。おまえからは固い感触しかしねぇし!」
「なっ……!」
バレなくて良かった。と思う反面、男と断定された理由が悔しくてしょうがない。後ろから頭を叩いてやりたい。しかしそんなことしたら、自分から女だと認めるようなものだ。
感情と理性が戦っている最中、
「着いたぜ」
見えていた景色が一気に低くなった。
彼の肩に手を置き、いまだに痛む足を引きずりながら彼から下りる。
見ると、そこには見たことのない丸い葉がたくさん地面から生えていた。
「これが安らぎ草だ。取ってくるから、ちょっと待ってろ」
そう言うと、彼はずかずかと歩いて行き、選びながらその葉を摘み取ってきた。
「――ほら」
「本当に、いいの?」
目の前に差し出された安らぎ草を受け取りつつ、一応確認をとる。
「かまわねぇよ」
「でも、安らぎ草は中々採れない貴重な薬草だって……」
「そうだと知ってて盗もうとしたのはどこのどいつだ! やるっつってんだから、おとなしく貰っとけよ」
盗むよりは貰う方がいい。けれど目の前にいる彼に、薬草をどうこうする権利はあるのだろうか? 一兵士が独断で侵入者に物――しかもかなり貴重な薬草――をあげることが許されるのだろうか?
とその時――
「やべっ、ふせろ!」
声と同時に頭に力が加わって、地面に抑え込まれた。
14.好意が踏み台、脱出劇!
「たぶん見回りのやつだ」
彼の視線の先には、ぼんやりと明かりが見える。たぶんランプか何かを手に持って歩いているのだろう。
「どうして、貴方まで隠れてるの?」
私自身に後ろめたいことがあったから考えが及ばなかったが、この男もかなり怪しい。この国の兵士と同じ服を着ているものの、今は他の兵士から隠れている。
「もしかして、貴方も……泥棒?」
「ば……」
彼は自分の声の大きさを気にして、自ら口を押さえた。
「ばか言うなよ。俺は泥棒じゃねぇって!」
ジト目で睨むと、彼は目をそらした。ますます怪しい。
「ここにいたら、見つかるのは時間の問題だな。……おまえ、ソレ持ってとっとと門の外に出ろ。――歩けるか?」
「うん、なんとか」
さっきよりはだいぶ足が動く。これなら門の外に出ることはできる。その後のことはここを無事に脱出できてから考えよう。
私たちは身をかがめながら、城壁の近くまですり寄った。しかし、ここには木がない。これでは入って来た時の方法は使えない。
「俺が馬になるから、おまえは俺を踏み台にして向こう側に飛べ」
「でも、貴方は? それじゃあ貴方だけ出られなくて、捕まっちゃうよ」
「……おまえ、俺の話聞いてなかっただろ。俺は泥棒じゃねぇから捕まらねぇよ」
あきれた様子で言う彼。しかし、私も食い下がる。
「仮にそうじゃなかったとしても、勝手に安らぎ草を渡した罰とか……」
「仮にってなんだよ、仮にって! 泥棒じゃないって言ってるだろ。まぁ、罰せられることはないだろうし……なんとかなるだろ。とにかく、今やばいのはおまえだけだ。早く行け!」
彼はそう言うと、すばやく地に伏せた。さっきよりも近くに明かりが見えて、私は慌てて彼の上に立った。
しかし――
「全然届かないよ……」
腕を伸ばしても、背伸びしても、軽くジャンプをしてさえも、高さが全く足りない。
「分かってる。おまえ、俺の肩の方に足をかけられるか?」
「え、こう?」
私は肩に足を置いた。
「そうだ。バランス崩すなよ!」
足首をすごい力で掴まれたかと思うと、みるみる体が持ち上がっていく。彼は私を肩に担いだまま立ち上がったのだ。
「俺の頭を踏み台にしても良いから、なんとしても壁を越えろ」
「……分かった」
一瞬躊躇したものの……時間がない。
私は遠慮なしに、彼の頭を踏みつけ、無事に城壁の上に飛び移った。
「……ホントに踏み台にしやがった」
と、頭を押さえる彼。
「ありがとう、これで無事に出られる。じゃあ次は貴方の番だ」
私は手を差し伸べたが、彼はそれを取らず――代わりに首を横に振った。
「俺はいい。……母さんの病気、治るといいな」
ニコッと笑う彼。笑顔を見たのはその時が初めてだった。しかし、それは一瞬のことで、すぐに真剣なものに戻る。
「行け!」
「うん、ありがとう」
すでに他の兵士が数メートル先まで来ているのが分かって、私はうなずいた。
今度は足を滑らせないように気をつけながら、そっとジャンプした。なるべく身体に負担をかけないように、降りた……つもりだったけど、やっぱり痛い。
15.保護者のお迎え
ゆら、ゆら、ゆら、と心地よく揺れる感覚。夢なのか現実なのか、はっきりしない。
重いまぶたを開くと目の端で動く茶色のなにか。なんだろう、と手を伸ばしたら、短くてやわらかい毛だった。それになんだか温かい。
不規則な動きを感じ取って、ようやくそれが生き物なのだと理解できた。
「気がつきましたか?」
突如として降ってきた声にびっくりして、振り向こうとすると、
「わ、わ、わ……」
バランスを崩してひっくり返りそうになる。
「……っと、暴れないで下さい。落ちますよ」
声の主に支えられ、なんとか持ち堪えた。
落ちそうになってようやく、自分の今の状況が分かった。私は誰かに後ろから抱えられる様にして、馬に乗っていたのだ。
そしてその『誰か』の声には、すごく聞き覚えがあった。
「おはようございます、ヒメカ様。もう朝ですよ」
「おはよう……シグルド」
クルリと振り向いた先には、笑顔のシグルドがいた。しかし、いつもの笑顔とは違い、どこかぎこちない。
「馬上のお目覚めはいかがですか?」
温かみのかけらもない言い方。明らかに皮肉だ。
けれど、それよりも気になることがある。
「何でここにいるの?」
私は誰にも告げずに城を出てきたのだ。なのになぜ今、こうしてシグルドと一緒に馬に乗っているのか……不思議でしょうがない。
「ヒメカ様を追って来たに決まっているでしょう。お城に着くまで、もう少し寝ていてかましませんよ。昨夜はさぞ疲れたでしょうから」
「な、なんか……ごめんね、シグルド」
さっきから一言一言に険がある彼に、とりあえず謝罪の言葉を述べた。
「おやおや、なぜ謝るのですか? ヒメカ様は何か悪いことでもしたのですか?」
「だって、シグルド怒ってるし……」
それに怒られることに心当たりがありすぎる。勝手に騎士服と地図を持ち出したこととか、城を抜け出したこととか……。私が安らぎ草を持っているのが見えてるはずだから、隣の国のお城に行ったことだってバレてるだろうし……。
「怒ってなんていませんよ。たとえ、守るべき姫君が勝手に城を抜け出して、無謀にも他国の城に侵入しようとも、男装した状態で傷だらけになって倒れていようとも……怒る理由には値しません」
「怒ってるじゃん」
「違います、心配したんです!」
言われてハッと気がついた、さっきから見え隠れしていた違和感の正体。笑顔がいつもと違って見えたのは、眉間に寄ったシワと少し腫れたまぶたのせい。
そのままシグルドは馬の歩みを止め、私を優しく抱きしめた。
「ヒメカ様にはきっと分かりませんよね、僕がどれほど心配したのかなんて……」
シグルドは気持ちを抑えるかのように淡々と語り出した。
「日が傾いてきてもヒメカ様が部屋に帰ってくることはなく、城で最後にヒメカ様の姿を見たメイド長の話によると、安らぎ草の育成場所を聞かれたとか」
「ごめん」
謝る私をよそに、シグルドは話を続ける。
「さらには洗濯した騎士服の数が合わないという報告も受けて、まさかとは思ったものの、一応確認のために、馬に乗ってここまで来たんです……」
静かに聞いていると、シグルドの抱きしめる力が強くなった。
「そ、そしたら……」
声が震えていた。
シグルドの顔を見上げると、うっすらと涙をにじませている。
見るな、と言わんばかりに強く胸に抱き寄せられて、シグルドの心音がすぐそばで聞こえるようになった。
「人が、木の根元で倒れていて……。着ているものは、よく見憶えのある服。騎士服の報告のことと強く結び付いて、すぐにヒメカ様だと分かり……その瞬間、冗談ではなく、息が止まりました」
昨夜城から脱出した後、私の体力はすでに限界に達していた。痛みと疲れから立ったまま眠ってしまいそうになったくらいだ。
そこで仕方なく、ちょうどいい木を見つけて休んでいたら……いつの間にか眠ってしまったようだ。
「ぐったりとした様子でしたので、一目見たときには……」
ごくり、と唾を呑み下す音がする。
「し、死んでいるのかと思いました。――その後、呼吸を確認できた時の脱力感は……今後味わえないくらいのものでしたし、味わいたくもありません」
シグルドは弱々しい声でそこまで言い終えると、再び馬を動かした。
「ごめんね、シグルド……心配させて。それと……迎えに来てくれて、ありがとう」
安心したせいか、起きたばかりにも拘わらず強烈な睡魔に襲われた。
夢うつつの中で、こんなにもシグルドに大事にされている『ヒメカ』をうらやましく思った。私も……私としてシグルドに心配されたい。『ヒメカ』としてではなく『姫香』として。
もしも、桜庭姫香としてシグルドと出会っていたら、シグルドは私のことをどう思ったのだろう。同じように心配してくれただろうか。
「いえ、いいんです。けれど――」
連れてこなければよかった、と言う彼の声を聞きながら、私はもう一度眠りについた。
16.お姫様の帰還
日が高くなるころにはお城が見えてきた。行きは半日かかったというのに……。馬だと、悔しいくらい早い。
シグルドは慣れた手つきで手綱を操り、馬を動かしてゆく。
「ヒメカ様、ここからは少し走らせますからしっかりつかまっていて下さい」
「え? どうして?」
「ヒメカ様が城の外に出ていたとバレればおおごとになります。すばやく城の中に戻るためには、あまりモタモタもしていられません」
徐々に揺れが大きくなり、振り落とされそうになる。私は必死でシグルドにしがみついた。
馬は正門の方向には向かわず、城壁に沿って駆けていく。
「裏から入りますよ」
裏にだって人はいるだろうに。
しかし予想とは違い、シグルドが馬を止めたところに人はいなかった。――門もなかった。
「シグルド……これ、何?」
「扉です」
「それは分かってるけど……」
目の前にあるのは、金属製の重そうな扉。日常の出入りに利用するような扉には、到底見えない。囚人を閉じ込めておく部屋を連想させるものだ。
「ここから入るの?」
「えぇ」
もしかして、私閉じ込められるの……?
たしかに、お仕置きをされても仕方ないような事をやらかした自覚はあるけれど、いくらなんでもこれはイヤだ。
シグルドは古めかしい鍵を取り出し、扉の穴に入れた。カチャリと鍵の外れる音がした。
「どうぞ」
扉の向こうには――緑が広がっていた。
「……え?」
頭の中に浮かんでいた冷たい牢獄は影も形もなく、穏やかな芝生が続いている。
「どうかしましたか?」
「牢獄が……ない」
「牢獄? いったい何を言っているんですか?」
「だって、あんな頑丈にできた扉だったから……」
考えていたことを説明すると、シグルドはぷっと吹き出した。
「僕がヒメカ様にそんなことするわけないじゃないですか。この扉は非常用の出入り口ですよ」
そのまま中に入って行ってしまったシグルドの後に私も続く。
シグルドは扉を開けた時と同じ鍵を使って施錠した。
……あれ?
「この扉って内側からも鍵を使うの?」
「普段は出入り禁止ですから。この鍵を持っているのもごく一部の人間だけです」
どうりで見張りもいないわけだ。開かない扉なら壁と同じだ。
シグルドは馬をこっそりと戻し、そのまま城内に入った。
「ここまで来ればもう見つかっても構わないでしょう」
城の中に入るまでに他の人間に見つかるようなことはなかった。無事に部屋まで戻れそうだ。
私が部屋に向かおうとすると、腕をしっかりつかまれた。
「どうしたの?」
「それはこちらのセリフです。どこへ行くつもりなんですか?」
「どこって……部屋に戻るんだけど」
シグルドは私の体を眺めた後、露骨にため息をついた。
「その状態で、ですか?」
土で汚れた騎士服、ボサボサの髪の毛。確かにため息を吐かれるほどみっともない格好ではある。
しかし、今すぐどうにかできるものでもない。
「部屋に戻ったら着替えるつもりだけど?」
「服のことではありません。ココと……あとその足のことを言っているんです」
不意にシグルドの手が伸びてきて、私の首に触れた。
「なにがあったかは知りませんが、怪我をしているじゃないですか。着替えよりも手当が先です」
指摘されてようやく思い出した。あの怪しい兵士に切られたことを。
血が乾いてしまったためか、今は痛みもなにも感じない。そもそもそんなに大きな怪我ではないはずだ。
「大丈夫だよ。それより着替え」
「いーえ、怪我の手当てが最優先です」
私の言い分を聞く気はないらしく、そのまま私の腕を掴んで歩き出した。
「ちょ……ちょっと!」
「仕方ありませんね……」
「えッ! なにを……ッ!」
シグルドは手を離したかと思うと、そのまま私の膝裏に手を差し込んで持ち上げた。俗に言う『お姫様だっこ』というやつだ。
「降ろして、シグルド! 自分で歩けるから」
廊下を曲がったところで、シグルドと(今の私とも)同じ騎士服を着た人に出会った。私たちを見て驚いた表情になる。
「ヒメカ様! それにシグルド殿も……無事だったんですね」
「えぇ。しかし怪我をしているようなので、今から医務室にお連れするところです」
私を抱えていることを気にする様子もなく、普段と変わらぬ口調で話すシグルド。
「分かったから、ちゃんと手当するから降ろして」
顔に熱が集中していく。
なかなか降ろしてもらえず、手足をばたつかせて抵抗するが、まったく効果はないらしい。
「さっきからこの調子なんですよ。城の中で迷子になったことがよほど恥ずかしいようです」
「は?」
私は動きをピタリと止めた。
誰が城の中で迷子になったって?
シグルドの言っていることがよくわからず目で訴えかけると、彼は耳元で囁いた。
――僕に合わせて下さい。
どういう意味が込められているのか理解できなかったが、自分のとるべき態度は分かった。
「もう、それは言わないでって言ったでしょ!」
「すみません、つい口が滑ってしましました」
シグルドは笑いながらそう言った。
「そうだったんですか。みんな心配していましたから、僕はヒメカ様が見つかったことを報告してきます。失礼します!」
彼は一礼し、そのまま駆け足で去って行った。
その後ろ姿を見送った後、視線をシグルドへと移す。
「――で、今の小芝居にはどういう意味があったの?」
降ろしてもらうことをあきらめた私は、シグルドの腕の中から問いかけた。
「それは……」
シグルドは左右に視線をやった後、
「医務室に着いてから説明します」
そう言って、再び歩き出した。
17.ドキドキしてる、でも言えない
薬品の匂いが充満した部屋には誰もいなかった。
「お医者さんは……?」
「あぁ、そう言えばヒメカ様は知らないのですね」
彼は棚から薬品や包帯などを取り出している。待っていればお医者さんが来てくれるだろうに……。
「ここは第三医務室ですから、医者はいないんです。第一と第二には医者が常駐していますが、ここには治療道具がおいてあるだけです。治療は自分の手で行います」
だからシグルドは道具を出しているのか。
忙しく動き回る彼を目で追いつつ、なにか居心地の悪さを感じた。
なんだろう、この感じ。静かな部屋、二人きり、大人しくベッドに腰掛ける私、治療道具を用意するシグルド。
「あ!」
どうして私がゆったりと座っているんだ。私の治療じゃないか。
「ごめんシグルド、今手伝うから」
「ダメです」
立ち上がりかけた私を、シグルドが手で制す。
「怪我をしているんですから大人しくしていてください。それに、この医務室に連れてきたのは僕です。本当なら医者のところに連れていくべきところを、わざわざここに連れてきたんです。これくらい僕に任せて下さい」
「……分かった」
シグルドは小さな瓶を手に、ベッドの近くにあった椅子に座った。
「まずは首の怪我を見ますから……失礼します」
首元がゆるめられ、スッと空気が入ってくる。
怪我を確認しようと顔を寄せてくるシグルド。その距離があまりにも近くて、体の芯が熱くなる。
長いまつげに縁取られた深い海の色をした瞳。伏し目がちなため視線を『見る』ことは出来ないが、どうしても『感じて』しまう。
「これは……剣で切られた傷、ですね」
シグルドの親指が、傷口を触れているかいないか分からないくらいの柔らかさでなぞる。
「いったいどうしたんですか?」
「……」
正直に話すべきか迷った。話せば、きっとまたシグルドを心配させることになるだろう。
そう思っていたにも拘わらず、私の口は勝手に話しだしていた。
「実は……忍び込んだときに、兵士に見つかっちゃって……」
シグルドは勢いよく顔をあげた。
驚きを表していた顔がみるみるうちに変化していき、最終的に怒りの表情が出来上がっていった。
「なんて危険なことをっ! もっと気をつけなさいっ!」
「ご、ごめんなさい!」
噛みついてでもきそうな勢いのシグルドに恐怖を覚え、間髪入れずに謝ってしまった。
「あぁ、もう!」
強い力で引き寄せられ、そのまま抱きしめられた。
「本当に……この程度の怪我で済んでよかったです」
キュン、と心臓が音をたてた気がした。
私を包み込む、シグルドの腕が、体温が、匂いが、すべてが心地よかった。
――このまま時が止まればいいのに。
私はようやく自覚した。私はシグルドが好きだ。好きな人だから、抱きしめられると幸せを感じるんだ。
「あのね、シグルド……、私、シグルドのことが、す……」
き、と続きそうになって、言葉がのどに詰まる。
言ってどうするつもりだったのだろう。いつか終わりのくる関係なのに、気持ちを告げるなんて、シグルドにとっても迷惑なことだろう。
「す? す……なんですか?」
「す……すっごくありがとう」
「……なんか文法がおかしくないですか?」
「そ、そうかな? シグルドに感謝の気持ちを伝えた過ぎて、焦っちゃったみたい」
「そうなんですか」
頭をシグルドの大きな手が撫でた。なんとも言えない満足感が体を駆け巡る。
「でも、別に感謝されるようなことなどしていませんよ。ヒメカ様のお世話を任される者として当然のことをしたまでです」
――お世話を任される者として。
その言葉がとても無機質に聞こえて、近くにいるはずなのにどことなく遠くに感じる。
「ささ、治療がまだ終わっていません。ヒメカ様、もう一度そこへ座りなおして下さい」
シグルドは、先程まで私が腰掛けていたベッドを指差しそう言った。
離れていく熱。名残惜しい……。
「ヒメカ様? どうしたんですか?」
私は無意識にシグルドの手を握っていた。
「あ……違うの、ごめんね。なんでもないから」
慌てて手を離し、ベッドに座りなおす。
シグルドの手際は非常によかった。その辺の下手な医者よりも格段に。
首の切り傷は、消毒液で軽く血を拭った後、ツンと鼻につく臭いの軟膏を塗られた。
足のほうは……かなり重傷だったらしい。骨こそ折れていないものの、足は見てられないほど腫れあがり、青くうっ血していた。
しばらく氷で冷やした後、シグルドは首に塗った薬とは違うものをやさしく塗った。スーッとした感覚が足を包む。
その上から大きな葉で覆い、包帯を巻いていく。これは葉っぱが落ちないようにするのと、治る前に足をくじかないようにするためらしい。
「これで治療は終わりです。痛みはありますか?」
「大丈夫。ありがとね、シグルド」
「そうですか。それならいいんですけど……くれぐれも、無理はしないでくださいね」
そう言って、彼は私の頭を一撫で。どうやらこれは彼の癖らしい。
いつくしむような瞳で見下ろされて、とたんに落ち着かない気分になった。
捕われてしまえば二度と逃げられない。捕われたいけど、捕われてはいけない。
私は慌てて話題を提供する。
「そ、そうだ、さっきの話……医務室に着いたら話すって言ってたやつ。あれ、聞かせてくれる?」
「そうでしたね。貴女のことで頭がいっぱいで、すっかり忘れていました」
一言一言が心臓に悪い。
「わざわざ第三を選んだのだって、貴女とこうして話すために他ならなかったのです。なのに忘れてしまっては意味がありませんよね」
シグルドは苦笑した。
「さっきのあれは、いったいどういう意味があったの?」
「ヒメカ様が隣の国に殴り込みに行ったということが知られれば、城中が大混乱になります。だからそれを隠すために、ヒメカ様には城の中で迷子になっていたことにしてもらいたいのです」
引っかかったのは『殴り込み』という単語だ。
私は断じて『殴り込み』はしていない、ただ城に侵入しただけだ。誰にも危害は加えていない、安らぎ草を盗もうとしただけだ。
……ん? これも『殴り込み』といえばそうかもしれない。
「……分かった。騒ぎが大きくならないなら、そっちのほうがいいもんね」
私が了承すると、シグルドは軽くうなずいた。
18.とっても甘い良薬
お城の医務室で怪我の手当てを受けた後、自室に戻りドレスに着替えた。
魔法使いさんにお願いしたおかげで、部屋のドレスはすべてファスナーで着脱できるように変わっている。おかげで、今は一人で着替えを済ませることができるのだ。
「おまたせ。はい、これ」
ドアの外で待っていたシグルドに、汚れた騎士服を手渡した。シグルドがバレないようにこっそり返しておいてくれるそうだ。
「本当に……何から何までごめんね」
「いいえ、これくらい構いませんよ。それよりも、二度と勝手にいなくなったりしないでくださいね。もうごまかしきれません」
「……うん」
私が居なくなったことは、お父様はもちろん、城中のみんなが知っていて、それはもう大騒ぎだったそうだ。(一国のお姫様が行方不明なのだから、当たり前か)
そんなみんなに、私は城を探検している最中に迷子になったという嘘の報告をした。怪我はその時にできたものだと説明したら、案外普通に納得してもらえた。
結果的には、『自分の家で迷子になって怪我をした間抜けなお姫様』という不名誉極まりない烙印を押されてしまったけれど、他の問題に比べたら全然大したことじゃない。
安らぎ草の出所を誤魔化すため、ただ一人、お父様だけには本当のことを話さざるを得なかった。(結果、こっぴどく叱られた)
取ってきた安らぎ草は、第一医務室にいたお医者さんに渡し、夕飯前にフローラさんに飲んでもらうことになった。
本当のことは、当然言えるわけもないので、「お父様がどこかからこっそりと手に入れたものらしいですので、くれぐれも内密に……」と言っておいた。
夕暮れ時、私とシグルドはフローラさんが薬を飲むのを見届けるために別館へと向かっていた。
フローラさんの部屋に着くと、そこにはすでにお医者さんが到着していて、なぜかフローラさんと言い争っていた。
「だから、薬だと言っているんです!」
「イヤ! だって私、どこも悪いところないもの。苦い薬なんて絶対に飲まない!」
ベッドに横たわり、頭からシーツをかぶってしまったフローラさん。
子供のように駄々をこねる様子に、ベッド脇の椅子に座っていたお医者さんはほとほと疲れ果てたらしく、大きなため息をついた。
「そんなに苦い薬なんですか? ……こんなに良い匂いなのに」
部屋に漂う香りを、クンクンと犬のように嗅ぐ。甘いけど、しつこくなくさわやかな香り。名前の通りに安らげる匂いだ。
「ヒメカ、騙されちゃダメよ! 薬なんて、みーんな苦いんだから!」
フローラさんはシーツから頭だけを出してそう言った。
「だから、それは今まで飲んだことある薬限定です。これはそんなに苦くありませんから……」
「ほらぁ、今『そんなに』って言った! やっぱり苦いんじゃない!」
「いや、それは言葉のあやで……」
フローラさんのペースにすっかりはまってしまったお医者さんは、あーだこーだと屁理屈を言うフローラさんを説得できないでいた。
と、その時、コンコンコンと短めのノックの音。
「今、取り込み中!」
フローラさんが叫ぶようにそう言ったとほぼ同時にドアが開いた。私を含め、その場にいただれもがその人物を見て言葉を失った。
入ってきたのは――お父様だった。
きっとフローラさんを除くみんなが「まずい!」と思ったであろう。フローラさんはまだ薬を飲んでいなかったのだから。
この前のフローラさんの様子が脳内に鮮明に再生され、なんとかしなければ、と強く思った。けれど、具体的にどう行動するのがベストなのか分からなくて、呆然と事の成り行きを見守ることしかできなかった。
「貸しなさい」
お父様は静かにお医者さんに言うと、安らぎ草のお茶が入ったカップを受け取った。そのままフローラさんに近づいて行く。
「飲みなさい」
「……」
フローラさんはもう苦いとかなんだとか言うこともなく……ただ、顔をゆがめて震えていた。
いつまたフローラさんが奇声をあげて暴れだすとも限らない。そんな緊張感漂う雰囲気の中、お父様だけが静かに言った。
「飲んでくれ、頼むから。……そして、もう一度私の前で笑ってほしい」
その言葉に、切なさが全身を駆け巡った。
お父様の気持ちは『フローラさんのために』という――偽善というか、上辺だけというか――そんなきれいなところだけすくい取ったものとは違った。
『私のために』という、悪く言えば自己中心的ととれるかもしれない感情をのせたその言葉は他のどんな言葉よりも言われて嬉しい言葉だと、私は思った。
――伝わってほしい。お父様の気持ちがフローラさんに。
しかし、フローラさんはそんなことを考える余裕もないのか、イヤイヤと首を横に振るだけだった。
「フローラ」
呼び掛ける声にも耳を貸さず、シーツを頭から被って耳をふさいでしまったフローラさん。それを見たお父様はわずかに顔をしかめた。
――次の瞬間、信じられないことが起こった。
お父様は何を思ったのか、お茶を自らの口に含み、シーツに包まるフローラさんを抑えつけて、キスをしたのだ。
「な……ッ!」
私とシグルド、そしてお医者さんは目の前で起こっていることを理解できずに、ポカンとしてその様子を見ていた。
フローラさんは抵抗したもののお父様の力に勝てるはずもなく、お茶の大半を飲みこんでいた。
まさかの口移しだった。
「ぼ、僕たちはもう……お邪魔、ですかね」
シグルドがわずかに顔を赤らめて、私を見下ろしていた。いや、正確には顔だけ向けて視線はお父様たちの方にあった。
いつの間にか、フローラさんの腕は拒むどころかお父様の体に巻きついていたのだ。
「う、うん。もう出ようか」
私たち三人は気まずい空気を背負ったまま廊下に出た。そんな私たちを、何も知らない兵士たちが不思議そうに見つめていた。
日が落ち、空の主役が月と星々になっていた。月は、満月まであと数日と言ったところだろうか、少しだけかけている。
都会生まれ、都会育ちの私にとっては、窓から見えるたくさんの星がちりばめられた夜空は珍しいものだった。
あの月が満ちる頃には、私はもうこの世界にはいないかもしれない。フローラさんの病が治った今、私が婚約を断れない理由はないのだから……。
婚約を断ってすぐに元の世界に戻れるのだろうか? もしそうなら、明日にでも帰れるかもしれない。
帰ったら本当のお父さんとお母さんに会える。友達とくだらないおしゃべりすることだってできる。
「みんな、心配してるかな……?」
同じ速さで時が流れているとしたら、私はもう三日ほど行方不明ということになっているはずだ。
――早く、帰れるといいな。
だけど……思ってはいけないのだろうけど、頭の片隅で思ってしまっていることがある。
――帰りたくない。
自分の望みが矛盾してることは分かってる。けれど、どちらも嘘偽りのない本心。
帰るということは……もうこの世界の人たちとは会えなくなるということなのだ。
不器用だけど意外とやさしいお父様。パワフルで人懐っこい絶世の美女フローラさん。そして――
「シグルド……」
ずっと傍で私を助けてくれた人。
最初にシグルドに出会っていなかったら、私の世話をしてくれるのがシグルドではなかったら、私はずっと不安を抱えたままだったかもしれない。
安らぎ草を取りに行ったときだって、なにも言わずに飛び出した私を迎えに来てくれた。
会えなくなるなんて――嫌だ。
私の心はシグルドを求めていた。
穏やかな笑顔、優しい瞳。私を抱き寄せた力強い腕、見た目より厚かった胸板。あの体温も涙も……私に向けられたものだ。
思い出になんかしたくない。
できることなら……ずっと一緒に――
19.姫香と王子の顔合わせ
三日後。
足の怪我はだいぶ良くなっていた。腫れは引き、普通にしていれば痛みも感じない。
しかし、体の調子に反して気分は重い。
食べ物もおいしいし、ベッドもふかふかでよく眠れる。服も素敵で、嫌なことなんてない。……ただ一つ、明日が隣国の王子様との対面ということ以外には。
「だから、何度も言ってるじゃないですか! 嫌なんです」
ルカ王子との婚約を正式に結ぶのを明日に控えた私は、再び王の間に呼び出されていた。
今回は王様だけでなく、お妃様……フローラさんもいる。
お父様に以前のような威圧感はなく、比較的穏やかな様子に見えた。これもフローラさんの笑顔のおかげだろうか。
仲直りできた二人のことは喜ばしかった。けれど――
「もう結婚をする必要なんてないんですから、お断りします!」
もはや叫び声との区別がつかないくらいに声を張り上げる私。
「でもヒメカ、王子様はとーってもかっこいいって噂よ。一度くらい会ったっていいじゃない」
「それになヒメカ、別に私は安らぎ草だけが目的で結婚させようとしていたわけではないのだよ。他にも外交上の色々な問題があるんだ。分かってくれ」
二人して私を説得しにかかってくる。フローラさんが加わった分、より状況は悪くなったような気がする。
「お父様言ったじゃありませんか。嫌だったら断れって! あれはウソだったんですか!」
「フローラの件で我慢する必要はない、とは言ったが……ヒメカを説得しない、とは言っていない」
「卑怯ですよ!」
何としても譲るまい、と思っていた矢先――
「ヒメカ、この婚約はね……実は王子様の方から言いだしてきたことなのよ。直前になって断ったら、かわいそうだとは思わない?」
フローラさんが情に訴えかけるように静かに語りだした。
「愛しの姫君と会える日を、まだかまだかと待ち望み、そうしてようやく明日会える。恋焦がれていたその人と、ようやく、ようやく会える。なにを着ていこうか、どんな話をしようか、胸一杯に幸せな気持ちをため込んでいる時に――想い人から連絡がきた。……それが婚約をお断りする内容だと知った時の王子様の気持ち、想像できる?」
妙に芝居がかった話し方に思わず引き込まれてしまい、断ろうという気がそがれてしまった。
フローラさんの言っていることは誇張だろうと思う。けど、もしも万が一そんな風に思っていたのなら、と考えると簡単に断るとは言えなくなった。
「……会ってみるだけ、ですからね」
結局折れたのは私の方だった。
もちろん最終的にはなにかしら理由をくっつけて断るつもりだけど。理由を見つけるにしても相手を知らなければ、些細な欠点すら見つけられやしない。
「良かったわ、ヒメカには幸せになってもらいたいもの。話によるとかなりヒメカに入れ込んでるみたいだから、浮気の心配もないしね」
フローラさんはすこぶる笑顔で、何事もないかのように言い放った。対称的に、お父様は身体をピクッと震わせ、フローラさんとは逆の方向を見た。
お父様に少し同情したけれど、それどころではない。
王子様が私に入れ込んでいるということが、大きな問題だった。
高い位置に取り付けられた時計が、ゴーンゴーンと深く響く。ちょうど六時――約束の時間になったことを告げていた。
しかし会食堂にいるのは、私とお父様、それにフローラさんの三人だけだった。そこに本来あるべき王子様の姿はない。
「ルカ王子、来ませんね」
約束の時間は六時だったはず。しかし、それを過ぎても王子様は姿を現さなかった。
「……」
お父様は無言のまま微動だにしない。
――やっぱり怒っているのかな?
そう思ってチラリと顔を盗み見るが、表情のない顔のまま目を閉じているのでよく分からなかった。フローラさんはそわそわと落ち着かない様子だったけど、しゃべらず静かに座っている。
もしかしてこれは……婚約破棄?
破棄しようと思っていたとはいえ、逆に破棄されるのはすごく複雑な気持ちだったけど、願ったり叶ったりだ。このまま相手から婚約を破棄されれば、労せずに目的が達せられる。
とその時、
「遅くなりましたッ!」
大きな声が鼓膜を震わせた。
あぁ、来てしまった。
このタイミングでそんなセリフを吐きながらここに来る人物は一人しかいない。私はぬか喜びをさせられて、少しだけげんなりしながら声の主を見た。
「……ッ!」
目に飛び込んできたのは予想外の光景で、私は思わず息を飲んだ。
20.王子様の事情
そこに立っていたのは王子様だけではなかった。いや、この表現は適切じゃなくて、立っていたの王子様だけだったけれど、横抱きに人を抱えていたのだ。
「それはどういう事だ?」
お父様も気になったらしく、王子様に尋ねる。
「あぁ、すみません」
王子様は言いながら、抱きかかえていた人をゆっくりと床に下ろす。
その人は、人形のように可愛い女の子だった。
柔らかくウェーブのかかった栗色の髪の毛、エメラルドをはめ込んだような輝く瞳、それを縁取る長いまつげ。桜色の頬が幼さを演出している。ドレスを着ていても華奢なのがよく分かる体、その上にちょこんと丸い顔が乗っかっている。
絶妙はバランスで出来上がった美しさは、もはや人間離れしていた。
「彼女はマリンと言います。どうしても僕と一緒に行くと言って聞かなかったので連れて来たのですが……途中で足を痛めてしまい、思ったよりも時間がかかってしまいました。遅れて申し訳ありません」
王子様は深々と頭を下げた。それに続いてマリンと紹介された女の子も合わせてお辞儀をする。
「……もうよい。ともかく席につきなさい」
お父様が指差した向かいの席に、王子様が歩き出す。その後に続くマリンちゃん。
「待ちなさい。ここに残るのはルカ王子だけだ」
お父様の地を揺らすような低い声に、私と王子様、マリンちゃんはビクッと体を震わせた。中でもマリンちゃんは相当びっくりしたらしく、へなへなと床にへたり込んでしまった。
「そんな怖い口調で言わないの。……ほら、脅えちゃったじゃない」
フローラさんののほほんとした口調は、この場にとってすごくありがたかった。
フローラさんは自らマリンちゃんのもとへ駆け寄り、手を取った。
「大丈夫かしら?」
「……」
マリンちゃんは無言で、コクコクと首を縦に振る。それを見ていたお父様は小さく息を吐き、
「婚姻に関わる重要な話になる。部外者である彼女には別室で待機していてもらう。かまわないな、ルカ王子」
先程よりも少しだけ穏やかな口調で言った。
「分かりました。……マリン」
王子様は心配そうな瞳を彼女に向けると、それに応えるようにマリンちゃんは小さくうなずく。
フローラさんに支えられて弱々しく立ち上がると、おぼつかない足取りでこの部屋を出て行った。
「さて、ルカ王子」
マリンちゃんが完全に部屋を出たのを確認すると、お父様は王子様のほうへと視線を移した。
フローラさんも席に座りなおし、同じように王子様を見つめる。それにならって私も同じように王子様を見た。
「君は一体ここへ何しに来たのか理解しているのかな?」
落ち着いた声色なのに、何故だか居心地の悪さを感じる。静かに、けれど確実にお父様は苛立っていた。
お父様の方を見ていた王子様の視線がスーッと私の方に向けられ、見つめ合うような形になる。
「ヒメカ王女との婚約を正式に決めるためです」
目と目が合い、金縛りにでもあってしまったかのようにそらすことができない。不覚にも心臓が跳ねた。
さっきはマリンちゃんのあまりの可愛さに気を取られて気が付かなかったが、この王子様も相当の美形だった。
輝きを振りまくブロンドの髪と爽やかで透明感のある青い瞳。ツンと高い鼻が王子様の顔を気の強いものにしている。
「それを理解していて、どうして女連れでここに来たのか……答えてもらおう」
その言葉を聞いて、お父様の苛立ちの原因を理解した。遅刻してきたことだけではなく、マリンちゃんの存在が気に食わなかったようだ。
「彼女は僕の妹のようなものです」
お父様の言葉の意味を的確に解釈したらしい王子様は、視線をもう一度お父様へ戻してそう言った。
それを聞いたお父様はしばらく黙っていた。しばらく……といっても本当は一分にも満たないかもしれない。
けれど沈黙がその場の緊張感を最高まで高めていて、『早く誰か何か言って』と切実に願い続けた。
そしてそう思えば思うほど、時間の流れがゆっくりに感じる。
「……信じられんな」
ようやく口を開いたお父様。けれど口調は依然として重々しかった。
「ですが、事実です」
王子様は怯むことなく、強い口調で反論する。
「……ルカ王子が得体の知れない娘を拾い、保護している事は聞いている」
お父様は口をニヤリと歪めた。
「あの容姿だ。大方愛人にでもしようと考えているのだろう?」
不愉快な話だ、とお父様は言い捨てた。と、ここで――
「自分のことは棚に上げて……よく言えたものね」
ボソリと非難めいた口調でフローラさんが口をはさむ。お父様は、ううん、と咳払いをした。
「フローラ、少し黙っていなさい。――とにかく、他の女にうつつを抜かすような男にはヒメカを任せるわけにはいかないな」
本当によく言えたものだと思った。しかし自分が、言葉では語りつくせないくらい愛している人が居ながら、浮気をしてしまったという経験を持っているからこそ言えた言葉でもあるのだろう。
「……それは誤解です」
王子様は静かに言った。お父様は鼻で笑う。
「僕が彼女を助けたのは――」
王子様は柔らかく微笑んだ。その瞬間、妙な感覚に陥った。
――あれ? デジャヴ?
そう、王子様の笑顔はどこかで見たことがある。そんな気がした。
「ヒメカ様のようになりたかったからです」
21.二つの想い
「ヒメカ様のようになりたかったからです」
「えっ?」
想像していなかった展開に、驚きの声が漏れる。
「僕は先日、船から落ちて海へ投げ出されまして――」
話し出しを聞いてすぐにピンときた。人魚姫が王子様を助ける話だろう。
「とても苦しい思いをしました。……足掻いても、足掻いても、水が僕の呼吸を妨げました。息をしようとすると、海水が我先にと口の中へ流れ込み、全然楽になりませんでした。手で体を支えようとしても沈み込むばかりで、全然思い通りに動けなかったんです。そんな状態の中で僕は――死を覚悟したんです」
しばしの沈黙。時計針の進む音だけが、コチコチコチと聞こえてきた。
「どれくらい時間が経っていたのかは分かりませんが、僕は目を覚ましました」
王子様は静かな口調で、話を続ける。
「幸いにも浜辺に打ち上げられ、一命を取り留めました。けれど、体は疲労しきっていてまるで力が入りません。そんな時、天使が舞い降りたのです」
スッと目を細め微笑む王子様。その視線は間違いなく私を捉えていた。
柔らかいその視線に胸がむずがゆくなり、どうも落ち着かない。
「――それが貴女です。僕が打ち上げられた浜の近くには教会がありましてね、そこでお忍びで修行をしていたヒメカ様に偶然発見され、救われたのです」
私じゃありません、その一言がどうしても口から出て来なかった。まっすぐな――それが真実だと思って、一片の疑いもない――瞳に知らず知らずのうちに気圧されていたのだ。
なにも言えないまま、自分の読んでいた人魚姫の話を思い出す。
私・隣国の姫は確かに王子様を助けたとされている。浜で気を失っていた王子様を助けたのだ。けれどそれ以前に、人魚姫が王子様を助けている。王子様を飲み込もうとしていた荒れに荒れた海、そこから救いだしたのは人魚姫だ。
それに比べたら『ヒメカ』がした事は、あまりにもちっぽけだった。
「その時の僕の服装は、とても王族とは思えないほど粗末なものになっていました。そんな状態の僕だったのに助けてくれたヒメカ様。――僕は貴女の身分を気にしない無条件な優しさに心底惚れました。同時に、僕も同じようになりたいと考えるようになったのです」
長い話を終えると、王子様はお父様の方を見据えた。それを受けたお父様も王子様を見る。
さっきよりも表情が柔らかいような気がした。
「なるほどな。話はよく分かった」
話が終わる。
ここで私が何も口をはさまなければ、婚約はきっと成立する。成立してしまう。
それを分かっていてもなお、私は反対の意思を示すことができなかった。
人魚姫と王子様を結び付けるのが私の役目。そして私が元の世界に帰るための必要条件。
けれどそれは、この世界との別離――すなわちシグルドとの別れを指している。
思えば、王子様と会うことを断らなかったのだって、少しでも長くこの世界にとどまっていたいという気持ちから来ているのだ。「結婚したくない」「婚約を破棄したい」と強く言っていたのは、お父様やフローラさんが反対するだろうと予想していたからに他ならない。
結婚を拒絶し、お父様たちから説得され、しぶしぶ納得する。それは、私が無意識に描いていたシナリオ通りだった。
私は役目を放棄していません、人魚姫を助ける気はあります、でもあんまり強く結婚を拒絶すると不自然だからもう少し待ってね。誰に監視されているわけでもないのに、私はそう言い訳してた。おそらく罪悪感がそうさせているのだ。
分かってる。私がこの世界にいられる時間が限られていることくらい……分かっている。
こうやって、自分が帰る時期を遅らせたところで、行きつく先は同じ。別れしかない。
――しかし、結局私は何も言えなかった。
一通りの話を済ました私と王子様は、マリンちゃんを迎えに行くために長い廊下を歩いていた。
お父様の話では一番端の客室に居るらしい。
「いやぁ、さっきは肝を冷やしたけど、正式な婚約を認めてくれて本当に良かったわ!」
王子様は同一人物かと疑いたくなるくらいの砕けた口調でそう言った。
そう、そうなのだ。婚約がついに成立したのだ。
王子様の話を聞いて、娘のヒメカを嫁がせるに値する人物だと評価したらしい。
「まさかマリンとの関係を疑われるとは思わなかったなー」
誰にともなく呟く王子様に、遠慮がちに話しかけた。
「あの、ちょっといいですか?」
「んー、かまわないけど……敬語はやめてくれ」
夫婦になるんだし、と小声で付け加えた王子様。どう反応していいか迷った私は、その言葉を聞かなかったことにした。
「じゃあ……」
私は気持ちを切り替え言った。
「もしかして二重人格?」
「はぁ?」
王子様は空色の瞳を丸く見開いた。
「いや、だってさ、さっき話してた時と口調も態度も全然違うし」
「あぁ、なんだ」
そういうことか、と言いながら王子様は二カッと、裏表のなさそうな、悪く言えば品のない笑顔で笑った。
「ヒメカだって、よそゆきの顔があんだろ? 一国の王様にさすがに素のままじゃ話せねぇし……かといって、妻になるヒメカに堅っ苦しく話すのも嫌だし……。だから、こうして使い分けてんだ」
なるほど。確かに私にもそういうところはなくはない。
「あ、俺の方からも言いたいことがあんだけど」
「ん?」
なんだろう、と思って王子様の顔を見上げた。
そういえば、シグルドとそう変わらないくらいの長身だ。頭の片隅でそんなことを考えていたせいか、王子様の次の言葉に頭がついて行かなかった。
「母さんの病気、治ったみたいで良かったな」
今度はニィッと含みのある笑顔だった。
え? 王子様にフローラさんの病気のこと話してあったっけ?
思い返してみても、私が話した覚えはない。となると、お父様がなにかの時に話したのだろう。
「あ、ありがとう」
経緯はどうであれ、完治を祝われたのだからお礼を言うのが筋だろう。そう思って言ったのだが、王子様はいまだにニヤニヤとしていた。
「もしかして、まだ分かんねぇのか?」
「え、何が?」
聞き返すと、ニヤケた表情のまま顔を近づけてきて、耳元で低く囁いた。
「あの日、激しい夜を共にしたじゃねぇか。忘れちまったのか?」
22.ルカ王子の正体
「なっ……!」
艶のある言い方と言葉にうろたえて、顔に熱が集中した。しかし、まったくそんないかがわしい覚えはない。
私は王子様の顔を見ようと横を向く。すると、思っていたよりもずっと近くに王子様のきれいな顔があって、透明感のある瞳をいたずらに細めていた。その顔は記憶の中の誰かとダブる。
そしてすぐに、思い当たる人物を記憶の引き出しから発見した。結構最近の出来事だったから、探し当てるのは非常に容易だった。
――安らぎ草をくれた怪しい兵士。
あの時は夜だったこともあって、今と受ける印象が違ったし、瞳の色が空色だということも分からなかった。
「あ、あの時の……兵士の……」
「そうだよ。やっと思いだしたな」
「……って、妙な言い方しないで! 激しい夜だなんて……」
「事実だろ?」
そう言うと彼は意地悪く笑う。
確かに、時間帯としては夜だったし、色々大変だったから激しいという表現もあながち間違いじゃない。けど――
「他の人が聞いたら誤解するでしょ!」
「へぇ、どんな? ……いてっ!」
いまだにからかう気満々の王子様の頭に軽いチョップをお見舞いした。
「そ、そういえばあの時、なんで兵士の格好なんかしてたの?」
このまま話題を引きずられては困る。そう思った私は、咄嗟に思いついた質問を口にした。
「あぁ、あの日は満月だったから、外に出てゆっくりと月が見たかったんだ。けど、世話係のやつらが、『今日の勉強がまだ終わっていません』とか言って、俺を部屋に閉じ込めたんだ。んで、隙を見て抜け出したってわけ。当然見つかったら連れ戻されちまうから、兵士に化けて隠れてたんだ」
王子様は叩かれた頭をさすりながら言った。
口を尖らせて言う彼を見たら、世話係の人たちの苦労が想像できた。
こんなやんちゃな人だったら苦労するだろうな。と考えて、シグルドの顔が浮かぶ。それも、あの日私を迎えに来た時のだ。心配した、と泣きそうに言っていた彼を思い出すと、心がチクンと痛んだ。
もしかしたら、王子様よりも私の方が世話係に苦労をかけているのかもしれない。
「なぁ、ヒメカ」
シグルドに対する行動を少し反省していると、王子様から真面目な声がかかった。
「何?」
歩みを止めて見上げると、満面の笑みの王子様。さっきのような嫌味を含んでいない、純粋な笑顔だった。
「この婚約、受けてくれてありがとな。俺、今、すっげぇ幸せなんだ」
ドキリと心臓が鳴る。
かっこいい王子様に、ストレートに愛を告げられれば……どうしたってドキドキしてしまう。
しかしそれだけが理由じゃない。それとは別に、そんなロマンチックな感情とはまったく違う意味でも、心臓が鳴っていた。
こんなにも純粋に好きだと言ってくれる王子様を、利用するみたいなことをしていいのだろうか。
最終的に断るつもりの婚約でこんなにも王子様は喜んでいる……。
それを自覚したとたん、刺すような痛みが心臓を襲った。
――あぁまただ。また、罪悪感だ。
「……」
王子様の顔を見ることができなくて、私は思わず顔を逸した。
「こっち見ろよ」
私の意志は無視されて、顎に手を添えられ無理矢理顔の向きを変えられる。近づいてくる王子様の顔を確認して、私は数秒後に自分に起こるであろう事態を悟った。
――キスされる!
拒めばいいのか、受け入れればいいのか……どう対処するのが正解か分からず、身体が硬直した。
このどうしようもない状況から逃れようと、反射的に目を閉じてしまう。これでは受け入れる選択をしたのと同じだ。
頭がオーバーヒートしている最中、
「ヒメカ様!」
私を呼ぶ声が、広い廊下に響く。
何事かと思い、目を開けると、ほんの数センチ先に王子様の顔があった。王子様も大きく目を開いて驚いている。
声のした方へ向き直ると、見知った姿が目に入ってきた。
「シグルド……?」
笑みを浮かべ、こちらに近づいてくるシグルド。
どこから見られていたのだろう? ……いや、どこから見られていたとしても関係ない。
タイミングを考えれば、私と王子様がキスしようとしていたところは、確実にシグルドの視界に入っていたはずだ。唯一の救いは、未遂で済んだということくらい。
恥ずかしいというより、気まずい。
「お二人とも、話は終わったんですね」
「うん。今からマリンちゃんのところに行くところなの」
「それはちょうど良かった。――こちらです、ご案内しましょう」
シグルドは軽くお辞儀をすると、くるりと背を向けて歩きだした。
一体シグルドは何をしに来たのだろう?
シグルドは私たちの後ろからではなく、前からやってきた。これじゃあ、もと来た方に逆戻りじゃないか。
些細な疑問を抱きながら、初めて王の間に行った時のようにシグルドの後ろをついて行く。
とその時、
「おい」
低く唸るように言うと同時に、私に腕を掴んでいた王子様。しかし、その刺すような視線は私ではなく、シグルドのほうに向けられていた。その視線はたっぷりと敵意が込められているように感じる。
「あんた、誰だ?」
ゆっくりとした動作で振り返ったシグルドはいつもと同じように微笑んでいた。そしてゆっくりと丁寧に話し出す。
「申し遅れました。僕は幼少期よりヒメカ様にお仕えしているシグルドというものです。日頃からヒメカ様の身の回りのお世話をさせていただいております」
「フン! ただの世話係が色恋沙汰にまで首をつっこむのか?」
「いいえ、僕はただヒメカ様が心配だっただけですよ。悪いオオカミにペロリと食べられてしまうのではないか、とね」
「言うじゃねぇか。……ったく、過保護な世話係がいたもんだな」
王子様は今までの不機嫌な表情を崩し、すっごく意地悪そうな顔で笑った。
「ルカ王子も娘ができれば分かりますよ」
「それは婚約を素直に祝福するという意味か?」
「……それとこれとは別の話です」
にこやか……とはいえないけれど、互いに敵意なく話す二人。緊迫した空気はもうなかった。
23.本心に気付く時
「こちらです」
そう言ってシグルドが立ち止ったのは、廊下の端っこ――角部屋の前だった。
コンッコンッコンッと軽くノックをして、そのまま返事を待たずに扉をあける王子様。
「マリン、待たせたな」
部屋を覗くと、マリンちゃんは窓際にある木の椅子に腰かけていた。
私たちが来たことに気付き、愛くるしい笑顔でこちらに駆け寄ってくる。
「マリン!」
王子様はあわてて部屋に駆け込み、次の瞬間には王子様が倒れ込むマリンちゃんを抱きかかえていた。
「無理をするな」
私の目には王子様の背中しか見えなかった。
けれど、声の調子からどれほどマリンちゃんを心配しているかはわかる。王子様にとってマリンちゃんが大切だということは、それはもう痛いほどに伝わってきた。
王子様はマリンちゃんを抱き上げて、もといた椅子に座らせると、ようやくこちらを振り返った。
「慌ただしくしてしまって、すまない。マリンは――」
そこでいったん言葉を切り、マリンちゃんのほうにもう一度目をやる。何かをためらっている様子の王子様。
マリンちゃんは軽く微笑み、うなずいた。
「マリンは……足が悪く、それに……口も利けないんだ」
私はハッとしてマリンちゃんを見つめた。
人魚姫の物語はよく知っている……つもりだった。
けれど知らず知らずのうちに、人魚から人間になったお姫様にはどこかしらに違いがあって、一目で人魚姫だとわかるもんだと思い込んでいたのだ。
だから私は気づきもしなかった――このマリンちゃんこそが、私が今までずっと、助けたい助けたいと思ってきた人魚姫だということに。
「マリン、紹介するな。こちらの美しい姫君が俺の婚約者のヒメカ。で、こっちのおまけが、ヒメカの世話係のシグルドだ」
「おまけとはなんですか、失礼ですね」
「世話係なんだからおまけで十分だ」
シグルドと王子様が先程と同様のくだらないやり取りをする中、マリンちゃんはただただ微笑んでいた。
マリンちゃんは私のことを一体どう見ているのだろう。
私がマリンちゃんの立場なら、きっと悲しくて悔しくて……とても笑って見ていることなんてできない。ましてや結婚できないと死ぬという状況に身を置いていたら、なおさらだ。
私のことを疎ましく思っていないのだろうか……?
ふと、マリンちゃんと目が合った。
そんな事を考えていただけに、まっすぐなエメラルドの瞳を見つめ返すことができず、あわてて顔を背けた。
自分のとった行動を客観的に考えると、酷いことだと理解できる。けれど、とてもじゃないけどマリンちゃんの顔を見ることは出来なかった。
「なんだヒメカ、気分でも悪いのか?」
シグルドとの(子供のような)口げんかを止め、うつむく私の顔を覗き込んでくる王子様。
「王子様……」
顔をあげるとそこには王子様の顔。髪の間から覗く二つの青い瞳は、色に反して燃えるような輝きを持っている。
「王子様はやめろって! もうすぐ夫婦になるんだぞ。ルカって名前で呼んでくれよ」
「ルカ…………王子」
「お前なぁ……」
ルカ王子は呆れたようにそう言った。
「それじゃあ嫌だ……けどしょうがねぇな、今はそれで我慢してやる」
夫婦になるのだからルカと呼べ。そう言われて、ルカと呼んでしまったら、もう後戻りはできない気がした。
私は卑怯だ。この世界に残る勇気も、元の世界に帰る勇気もなく、ただこの都合のいい状況を維持しようとしている。
シグルドと一緒にいたい。でも、決して結ばれることはない。私がこの世界に残れる条件は、王子様との結婚なのだから。
自分の思考に驚かされた。
『帰れる条件』と考えていたはずなのに、いつの間にか『残れる条件』と意識がすり変わっていたのだ。
「……ごめんなさい。ごめんなさい、ルカ王子」
「いや、そんなに真剣に謝ることじゃねぇけど……」
何度謝っても足りない。けれど、私には謝ることしかできなかった。
だって――私の気持ちはもう決まってしまったのだから。
24.ヒメカの選択
眠りに着くと、初めてこの世界に来た日の夜と同じことが起こった。
〈姫香、姫香……〉
相変わらず、頭に直接響いてくる声だった。
〈魔法使いさん?〉
〈はい、そうですよ〉
〈……あ、そうだ。ドレスの件はありがとうございました。おかげで一人で着替えをすることができて助かってます〉
〈いいえ、お役に立てて何よりです〉
と穏やかに言った魔法使いさん。
そしてなぜか、互いに黙り込んでしまった。もしかして、もう魔法使いさんとつながっていないのかな? そう思い、軽く呼んでみる。
〈魔法使いさん?〉
〈はい?〉
あ、通じてた。
〈あの……今日はどんな用事ですか?〉
〈いえいえ、僕の方には特に用件はありませんよ。……強いて言うなら、姫香が困っていることがないかと聞きに来ただけです〉
そう言われて、考えた。困ったことなんて……あった。それも、かなり大きいやつ。
〈魔法使いさん、王子様と人魚姫が結婚できなかったら、私は元の世界には帰れないんですよね?〉
〈はい、その通りです〉
きっぱりと言われて……私は嬉しくなってしまった。
いけないことだと分かってる。けれど、私はこの世界に残れることを喜ばずにはいられなかった。
〈じゃあ……人魚姫が結婚できなくても泡にならない方法ってありますか?〉
もしも、それがあるのなら実行して……この世界に残りたい。
元の世界に未練はある。生を受け、十六年間生きてきた世界だから当たり前のことだ。
けれどそれに匹敵するくらい、この世界を、シグルドを、好きになってしまった。彼と離れて、彼を忘れて、元の生活を送れるだろうか。
答えは否。無理だ。
だから私は決断した、たとえシグルドと結ばれることがなくとも、この世界に残ろうと。
けれどそれには、大きな代償を支払わなければならない。すなわち、マリンちゃんの死。
私のわがままのために、誰かを犠牲になんてしたくない。
だから、自己満足であるのは分かってるけど、マリンちゃんを救う方法があるのなら教えてもらいたかった。
〈なぜ、そんなことを訊くのですか? ……まさか、姫香は王子と結婚するつもりなのですか?〉
〈うん、できることなら〉
〈そう……ですか〉
それきり、魔法使いさんの声は聞こえなくなった。まさか今度こそ通信が切れてしまったのだろうか。そう思い、口を開きかけると――
〈分かりました。姫香は……王子と結婚することを選んだのですね〉
と、魔法使いさんの声が聞こえた。
〈では、これを姫香に渡します〉
……と言われても、寝ている状態で声だけを聞いているのだから、『これ』がなにか全く分からない。
そう伝えると、魔法使いさんは、そういえばそうですね、と納得した。
〈今は見えませんけど、起きれば分かりますから安心してください。……今、姫香に渡したのは魔法の石です。ひとつだけ願いがかなえられます。それを使えば、人魚姫は泡にならずに済みますよ〉
〈本当に?〉
〈えぇ〉
〈よかった。……魔法使いさん、ありがとう〉
そう言ったが、魔法使いさんはなにも返事をくれなかった。そして、これを最後に魔法使いさんとの交信は本当に途絶えたのだった。
夢をみてどれくらいの時間が経っただろうか。自然と目が覚めた。
「ん……」
右手に違和感を覚え、見ると、石が握られていた。握り込んでしまえば見えなくなってしまうくらいの大きさの、まっ黒だけれど透き通っている石。
光にかざしながらその石を眺めると、あまりの深みに、吸い込まれてしまうような錯覚に陥った。
おそらく、これが魔法使いさんの言っていたものだろう。
これがあればマリンちゃんを助けることができる。そう安心したとき、異変に気がついた。
……静かすぎる。
私が起きる頃には、たいていシグルドが部屋にいるのだ。それなのに今日はまだ来ていなかった。
起きた時に部屋に人がいる方が変であるにも拘わらず、いつの間にかいない方が変だと感じるようになってしまっている。慣れって怖い。
何かあったのかな、と思いつつも身支度を整える。今日は濃いピンク色のドレス。胸元の大きなリボンが可愛らしい。
着替えが終わるのとほとんど同時に、ノックの音が聞こえてきた。たぶんシグルドだ。
「はーい。どうぞー」
扉から顔をのぞかせたのは、予想通りシグルドだった。
そして、部屋に入ってきたシグルドの後ろ姿を確認した瞬間――私は絶句した。
「ど……」
上手く声が出ず、かすれていた。
「どうしたの、その頭」
「おかしいですか?」
「いや……おかしくはないけど」
彼の、艶のある黒髪がバッサリと切られていたのだ。昨日までは腰まであったのに、今は肩にすらつかない。
「……シグルド、失恋でもしたの?」
あまりの変化についていけず、おかしな質問をしてしまう。
元の世界の、真実かどうかも怪しい話だ。その上シグルドは男性。ありえないし、あってほしくない。
しかし、そんな私の希望は打ち砕かれた。
「えぇ、昨夜」
強烈な一撃を脳内に受けた気がした。
そっか……シグルドには好きな人がいたのか……。
自分の知らなかったシグルドの一面が存在していたことが、たまらなく悲しい。そのうえ、それが恋愛のことだとなるとなおさらだ。
好きと伝えてなくて、良かった。
伝えることができなかったおかげで、直接フラれることにはならなかった。
フラれなかったことにホッとしている自分がまた情けない。私は心の中で自嘲した。
「完全に振られてしまいました。……彼女、結婚するそうなので」
かなり沈み込んだ様子のシグルドを前にして、胸が締め付けられた。
シグルドが私ではない誰かに恋心を抱いていたと聞いた私の痛みなのか、それともシグルドの痛みがうつったのか……はっきりとは分からない。
「ずっと、好きだったんですよ。小さいころからいつも一緒で、いるのが当たり前のような感じだったんです」
絞り出すようにそう言ったシグルド。かわいそうに、今にも泣き出しそうだ。
私なら、貴方にそんな思いさせないのに。
「……あきらめられないの?」
あきらめてしまえばいいのに。あさましくもそう思った。
「あきらめられるわけないじゃないですか!」
穏やかなシグルドらか発せられたとは思えない、鋭くとがった言葉。
私の中に込み上げてきたのは、いまだかつて感じたことのないドス黒い感情だった。
――ずるい。悔しい。
シグルドをこれほど悲しませておいて、いまだにこんなに思ってもらえるなんて……。
いったいどこの馬鹿がシグルドにこんな思いをさせているのか。
「だから、僕は……」
シグルドの言葉が終わらないうちに、ドアがはげしく打ち鳴らされた。
「ヒメカ様、そちらにシグルド殿はいらっしゃいますか?」
声の調子が切羽詰まっているように感じた。シグルドもそれを感じ取ったようで、一変キリッとした表情に変化する。
「なんですか?」
シグルドが顔を出すと、ドアの前にいた兵士が、ぼそぼそと彼に耳打ちをした。
「――分かりました、すぐに向かいましょう。あぁ、ヒメカ様は部屋にいて下さいね。良いですか、絶対に部屋から出ないでくださいね」
かなり念を押した後、廊下を走って、どこかへ向かっていった。
25.さよならは突然に
シグルドに思われているどこかの馬鹿について考えていると、時間は驚くほど早く過ぎていった。
数十分したのち、シグルドが部屋に戻ってきた。その表情はかなり暗くひきつっている。
「どうしたの? 何かあったの?」
「落ち着いて、聞いてくださいね」
シグルドは平坦な口調でそう言った。
「国王様が、何者かの手によって――暗殺されました」
何を言っているのか全く理解できなかった。
暗殺……?
「ど……ゆうこと……?」
感情が、理解することを拒んでいた。
違う。本当は理解できてしまっている。でも、言葉にはしたくない。認めたくない。
「国王様が……死んだんです」
シグルドは目を伏せつつ、そう言いきった。
「う、そ……」
「残念ですが……本当のことです」
思考がお父様で埋め尽くされた。
理不尽で頑固で、そのうえ浮気者。なにより本当の、本物の父親ではない。なのに、どうして――
「……悲しいですか?」
「うん……」
胸に、大きな喪失感がある。
「お父様に何が起こったのか、詳しく話してくれる?」
「――はい」
短い返事の後、シグルドは淡々と語りだした。
――事が起こったのは昨日の夜……というか今日の夜。普段、お父様の寝室の前には二人の兵士が立っていて夜通し警護を行っている。今日も例外ではなかった。
その兵士たちの話によると、お父様の部屋に入った人はいなかった。二人別々に話を聞いたらしいが、気になる不一致は出てこなかったので間違いはないとのこと。
逆に、お父様自身が部屋から出た……ということもない。
朝になり、いつもは早起きのお父様が中々起きてこないことを不審に思った兵士の一人が、お父様の寝室を訪れたら……すでに亡くなっていた。
目立った外傷はなく、誰かと争った様子もないことから、寝ている間の暗殺、という見解に落ち着いた――
シグルドもショックを受けているはずなのに、冷静にポイントを絞って話してくれた。
「――そうなんだ」
「……はい」
あるべくしてある沈黙。私には何も言う気力が起きなかった。
二日後、葬式は城の中で一番大きな部屋で行われた。
この世界には写真なんか存在しないので遺影はない。代わりと言ってはなんだけど、かなりの数の花が供えられていた。ものすごくたくさんの花に囲まれた場所に、お父様は棺に入って眠っている。
フローラさんは棺にすがりついて泣いていた。この前ようやく仲直りできて、やっとまた二人で人生を歩みだす……その矢先の出来事だったのだ。
私は犯人が許せなかった。
お父様は国王様だ。誰かから命を狙われることもあるだろう。しかし、そんな理屈じゃ納得できない。
「ヒメカ……」
静かに私を呼ぶ声。振り向くと、そこにはルカ王子がいた。
この前合った時のようにきらびやかな服ではなく、黒くて飾りの少ない洋服だった。
いままで国交はあまりなかったそうだが、婚約を結んでいる最中という微妙な関係の今、王族であるルカ王子が弔問に来るのは当然と言える。
「こんにちは、ルカ王子。私に何か用事?」
「いや……その、なんていうか……」
歯切れの悪いルカ王子。おそらく、私を慰める言葉を探しているのだろうが、気の利いた言葉が浮かばないのだ。
「――ルカ王子、ありがとう」
私はルカ王子の言葉にならなかったなぐさめを受け取ってお礼を言った。
「なっ! まだ、何も言ってないぞ」
「言おうとしてくれたことが嬉しいの」
静かに曲が流れ始めた。
のっぺりと伸びるような音……おそらくオルガンで演奏しているんだろうけど、それにしても――
「暗い曲」
「葬式で明るい曲流すわけにもいかないだろ……」
「……うん」
それはそうなんだけど、ね。
暗い気持ちに、暗い曲。相乗効果で、どんどん、どんどん、気分が沈みこんでいくような気になる。
明るい曲とはいわないけれど、もう少し……こう、聖歌のような神聖で前向きな曲を選んでほしかった。
「ヒメカ、ちょっといいか?」
いきなり腕を掴まれた。
「ルカ王子?」
ルカ王子は真剣な瞳で私を見ている。
「少し話がしたい。……誰にも邪魔されずに話ができる場所に案内してくれ」
国王様の葬式はたくさんの人が来るから、基本的に出入り自由だ。
やってきた人たちはお父様の遺体の前で、順々にお辞儀をして、来客同士で色々話をしてここを出ていっている様子だった。
だから私が出ていっても問題ないだろう。私はコクリと頷いた。
「ついてきて」
向かう先は私の部屋。あそこなら内側からカギをかけてしまえば、誰も入ってこられない。話をするにはうってつけの場所だ。
私たちは足早に部屋へと向かった。
――それは、パタンとドアが閉まると同時だった。
がっちりした腕が私の背中にまわり、顔には程よい筋肉の感触が押しつけられた。すぐ近くで、さわやかな匂いがかおる。
私は部屋に入るなり、ルカ王子に抱きしめられたのだ。
「ル、ルカ王子……?」
「ヒメカ、我慢しなくていいんだぜ?」
と彼は優しい声で言った。
「無理するなよ。泣きたい時は泣いた方がいい」
私を包み込んでいる腕に力がこもる。
「何言って――」
言い終わらないうちに涙が込み上げてきた。
自分でも信じられなかった。
お父様の死は確かに衝撃的だったし、悲しかった。
けれど、本当のお父様ではないのだ。あくまでもこの世界でのお父様だ。だから、まさか自分が泣くほど悲しんでいるだなんて――知らなかった。
「……っく」
押さえがきかず、せり上がってきた声が漏れた。
涙を受けとめてくれる人がいることは、すごく幸運なことだ。私はそれを心から感じた。
溢れだした涙が、ルカ王子の服にしみ込んでいく。
しかしそんなことを気にすることもなく、黙って抱きしめてくれるルカ王子。
「ご、ごめんっね……。すっぐ……と、止めるっ、から……」
「……気にすんな。泣きたいだけ泣けばいい」
「……っん。……っり、がと」
『ありがとう』という言葉すら言えない。悲しさと悔しさが作り出す涙が邪魔をする。
どうしてお父様が殺されなければならなかったのだろう。いったい犯人は、お父様の死にどんな意味を見出していたのだろう。
考えても分からない。人殺しの思考なんか理解したくはないが、考えなければ真相にはたどり着かない。
私は犯人を絶対に許さない。見つけ出して、どうしてお父様を手にかけたのかを白状させてやる。
26.犯人の手がかりを探して
ルカ王子に抱きしめられてひとしきり泣いた私は、ルカ王子を見送った後、厨房へと向かった。
泣いたせいで、喉がからからだったのだ。
幸か不幸か、厨房にはもう誰もいなかった。すでに、部屋に引き揚げてしまっているのだろう。
磨いてあったグラスを手に、金の蛇口をひねる。
水がのどを通るたびに、体と脳の熱を冷ましてくれた。
「あ、ヒメカ様」
一人の兵士が厨房へと入ってきた。その兵士は二日前に、私の部屋にシグルドを呼びに来た兵士だった。
「こ、このたびは……その」
「そんなに気を遣わなくていいよ」
緊張して舌が回らない彼に対して、私は出来るだけ笑顔を作ってみせる。
私は手に持っていたグラスに水を組み直し、それを目の前の彼に差し出した。
「す、すみません。大丈夫ですので」
「いいから、飲んで。水を飲みに来たんでしょ?」
強引に押し付けると、彼はありがとうございますと言って、一気に飲み干した。
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いい?」
「何でしょうか?」
「あのさ、お父様の……暗殺された姿を見たんだよね? ……どんな様子だった?」
犯人の手掛かりになるようなことがあるかもしれない。望みをかけてそう聞いた。
「はい……。とてもきれいな様子でしたよ。外傷もありませんでしたし。私には眠っているようにしか見えませんでした。あの様子を見て殺されたと判断できる人は、そうそういないでしょうね」
「へぇ、お医者様が判断したの?」
「いいえ、シグルド殿ですよ」
シグルド……?
彼には医学の知識もあるのか。そういえば、私の足も上手に手当てしてくれた。
シグルドに話を聞けば、もっと詳しいことが分かるかもしれない。
「ありがとう」
早速シグルドのところへ行こうと厨房の出口へと向かう。
「待って下さい、ヒメカ様。第一の医師から伝言があります」
「伝言?」
「はい。いつでもいいので、第一医務室に来てほしいそうです。手当たりしだいに伝言を頼んでいたみたいなので、何か急ぎの用事があるのかもしれませんよ」
第一の医師と言うのは、フローラさんに安らぎ草を飲ませた人だ。(実際に飲ませたのはお父様だけど)
しかし、それ以外に特に接点はない。いったい何の用事だろうか。
「分かった、ありがとう」
私は向かう先をシグルドの部屋から、医務室へと変更し、今度こそ厨房を出た。
小走りに第一医務室へと向かう。途中で何度か兵士の人と会い、そのたびに「第一の医師が呼んでいる」と同じ伝言を聞いた。
ドアに書かれている『第一医務室』という表示を確認し、軽くノックをしてから中に入った。
「お待ちしておりました」
第一の医師は、私が着くと、開口一番にそう言った。
「ささっ、こちらにおかけください」
医師が座っている椅子よりも、はるかに豪勢な椅子を差し出された。
私は苦笑いを返しつつ、そのまま腰掛ける。
「……いったい何のご用事ですか? いろんな人に言伝を頼んでいたそうですけど……」
早速そう切り出すと、医師はなにやら小瓶を取り出して見せた。小瓶の口には、コルクで栓がしてある。
「これをヒメカ様にお渡ししようと思ったんです」
「これは……?」
渡された小瓶をすかして見ると、うすい水色の液体がゆらゆらと揺れている。
「安らぎ草を煮出した汁で作った……香水、みたいなものです。余ったもので作ったんですけど……ヒメカ様お疲れのようですから、持っていってください。匂いだけでもかなり気分が休まるはずですから」
「ありがとうございます」
手に取ると、ふわっと甘い香りを感じた。ふたの隙間から香ってくる匂いだけでも、心が安らぐ。
そういえば、二日前――お父様が亡くなってからずっと気を張っていた。
ルカ王子のおかげで少しは楽になったけれど、それでも疲れていることに変わりはない。
私は医師と安らぎ草をくれたルカ王子に感謝しつつ、小瓶をポケットにしまった。
「そういえば」
医師は唐突に言った。
「ヒメカ様は国王様の死因についてご存じですか?」
「……え?」
「いえ、知らないのならいいんです」
医師はゆるく首を振る。
普通に考えて、私――国王様の娘――に国王様の死因を訊くだろうか? 問題がなければ訊くはずがない。
もしかしたら、死因が犯人を示すかもしれない。
「お父様の死因に、何か問題があるんですか?」
私は期待を込めてそう訊いたが、返ってきた答えははっきりしないものだった。
「……いえ。分からないんです」
「どういうことですか?」
私は椅子から少し腰を浮かせて、さらに問いかける。
「国王様の死因が――分からないんです。どこをどう調べても全く異常がない健康体そのものなのに、なぜか肉体が活動を停止してるんです。一体、どうしたらあんな状態になるのか……」
分からない、と医師は独り言のように呟いた。
もしかして……。
――お父様は死んでいない……?
ありえない考えが頭をよぎるが、私はそれをすぐに打ち消した。いくらなんでも、そう都合のいい話があるものか。
第一、お父様の葬式が行われていたではないか。そこにお父様の……『肉体だったもの』もあった。
……そうだ、シグルド。一目で暗殺だと判断した彼なら、何か知っているかもしれない。
「あの、香水ありがとうございました。おやすみなさい!」
いまだに悩み続ける医師に軽くお礼を言い、私はすばやく立ちあがり医務室を後にした。
27.彼のそんな顔を姫香は知らない
もうすでに日付が変わっていた。いつもなら、すでに寝ているであろう時間だ。
私は申し訳ないと思いながらも、シグルドの部屋のドアをノックした。木の音が完全にかき消えてから、数秒の間があって、
「どなたですか?」
部屋の中から声がした。
「私、ヒメカ」
もう一度間があって、そしてキィッと小さな音とともにドアが開く。
「どうしたんですか? こんな夜更けに」
扉の向こうに立っていたシグルドはいつもの騎士服のままだった。眠っていたところを起こしたわけじゃないようなので、ひとまずホッとした。
「ごめんね。ちょっと話したいことがあって」
「……中に、入りますか?」
声に抑揚はなく、表情も些かかたい気がする。
こんな夜遅くに訪ねて来たことを迷惑だと思っているのかもしれない。やっぱり明日にしておけばよかった。
「いいの?」
「はい、構いませんよ」
後ろめたくなって確認をするが、シグルドはいつもと同じ笑顔を浮かべて招き入れてくれた。
――ガチャリ。
夜の雰囲気が恐怖を招くのだろうか?
なんでもない鍵のかかる音。さらにはシグルドだって傍にいる。怖いことなんて何もないはずなのに、どうしてこうも恐怖心を駆り立てるのだろう。
「どうして、鍵をかけるの?」
何かが起きるような、漠然とした予感がする。これも、時間帯が夜だから……?
「どうしてって……それは――」
私はギュッと目を瞑った。
静かな声で紡がれたその言葉は、まるで赤ずきんちゃんの問いかけに答えるオオカミのもののようだった。
答えを聞いてはいけない――聞いたらその時点で、『予感』だったものが『事実』となり、認めまいとしていたことを受け止めなくてはいけなくなる。
「普通ではないですか? こんな時間にわざわざ訪ねてきて話す事ですから、重要な話なのでしょう。だったら、誰にも邪魔されないよう鍵くらいかけますよ。そうじゃなかったら何のために鍵が付いているのか分からないじゃないですか」
おかしな人ですね、と彼は軽く笑った。
私の予想に反して、彼の返答は当たり前で無難なものだった。
「それとも」
シグルドの声のトーンが一気に下がる。
彼を見ると、
「身の危険でも感じましたか?」
笑っていた、いつもと同じように。けれどいつもの笑顔とは違う。
まるで女性のように妖艶で……こんな笑い方をするシグルドは見たことがなかった。
「シ、グ……ルド……?」
妖しい笑みを浮かべたまま近づいてくるシグルド。
私の知る……私の好きなシグルドとはかけ離れていて――別人みたいだ。
――怖い。
スゥーッと伸ばされた腕に反応できなかった。殴られるのか、首を絞められるのか――一瞬先に起こる何かに脅えて、私は身をこわばらせた。
「ヒメカ様」
しかし、思っていたような衝撃は襲ってこなかった。代わりに力強く抱きしめられる。
「……え?」
強く、強く。
このままシグルドの体に取り込まれてしまうのではないかと思った。体だけでなく心までがしびれてくる。
ルカ王子の抱擁とはちがう。腕の強さも、聞こえてくる心音も……。なによりの違いは匂いだった。
比べるのは悪いけど、さっきまでルカ王子に抱きしめられていたんだ。違いを探してしまうのも無理はない。
今さっきまで婚約者であるルカ王子の胸で泣いていて……けれど、今はこうしてシグルドに抱きしめられている。
しかもそれが嫌じゃない。もっと言ってしまえば、抱きしめられてシグルドの体温を感じることで、安心してる自分がいる。
そんな自分が卑怯者に思えて、すごく嫌だった。自分がとんでもなく汚らわしい存在のように感じる。
「……ルカ王子の、匂いがしますね」
心臓が嫌な音を立てて跳ねた。まるで冷や水をいきなりかぶせられたかのような――今にも動きを止めてしまいそうな、気分の悪い動悸。
一度高く跳ねた鼓動はその後、早く小刻みになっていく。それに合わせるように、身体も小さく震えだす。
「非常に不愉快です」
私はシグルドの顔を見上げた。深い海の色をした瞳が、冷たく私を見下ろしている。
いつもの穏やかな笑顔が嘘のようで、怒っているのが一目でわかった。
「さっきまで部屋に二人きりでいたようですし……。……一体、何をしていたのでしょうね」
「見て、たの?」
「部屋に入っていくところをたまたま目撃しただけですよ」
シグルドの腕にさらに力がこもる。
「まったく、結婚前に……はしたない」
「え……?」
はしたない?
シグルドの言葉を反芻して、ようやく彼の言わんとしている事に気付いた。一気に顔に熱が集中する。
「違う! 何か誤解してるよ、シグルド! 私はルカ王子と……その、なんていうか……シ、シグルドが思っているようなことは、してないからッ!」
そんな誤解受けたくない。特に、シグルドには。
懸命に説明しようとしたが、内容が内容だったせいで上手く言葉にできない。
「じゃあなんで、こんなにも匂いが移っているんでしょうかね? ――あぁ、分かりました」
シグルドは、大きな手で乱暴に私の顔を掴むと、そのまま唇へとキスを落とした。
一瞬のことで、何が起きたのか分からなかった。
「ルカ王子とは途中までだった……だから、僕でその熱を冷まそうと思ってここへ来たんですね」
「シグルド、今……んんっ!」
キスした? と問いかける前に、もう一度口づけられてしまって言葉にならなかった。
28.氷解するすれ違い
「良いですよ、僕は。……ですが残念ですね、昔から見てきた貴女がこんなふしだらな女性になってしまうなんて」
「シグルド、違う! 私はそんなつもりでここに来たわけじゃないの!」
なんとか誤解を解きたくて必死に叫ぶが、シグルドは相も変わらず笑っているだけだった。
「夜に一人で男のもとへ来ておきながら、何を今さら」
「私はそんなこと考えてたわけじゃない……」
あぁ、なんでこんなことになってしまったんだろう。
思えば、私はシグルドとキスしたのだ。私の、大好きな、シグルドと。
なのに、なんだこれは。
――全然嬉しくない。
相手はシグルド。問題ない。問題ない……はずなのに、悲しみしか湧いてこない。
相手に押し付けるわけではないが、憧れるシチュエーションというものがある。
お互いにやさしく見つめ合い、どちらからともなく顔を寄せ、口づける。そんなに高い目標ではないはずだ。
こんな怒りにまかせたキスを望んでいたわけじゃない。
いったい何がシグルドを怒らせてしまったのだろう。考えてみても原因は一つしか思いつかない。
「……ごめん、シグルド。やっぱりこんな夜に押し掛けてきたら、迷惑だったよね」
言いながら、涙が込み上げてくるのを必死に抑え込もうとした。
けれど、湧きあがってくる感情が私の努力を簡単になぎ倒していく。
「ごめん! ごめんね、気づかなくて……。でも、そうならそうって言ってほしかった! 言ってくれなきゃ分からないもん!」
半ば叫ぶようにそう言った。もう、涙が止まらない。
これじゃあ逆切れ、もしくはヒステリーだ。
シグルドは私の世話係だからきっと断れなかったのだ。だから、シグルドが悪いわけじゃない。
「……別に迷惑だとは思っていませんよ」
「嘘! だってシグルド、すごく怒ってるじゃない!」
「ここに来たことに対して怒っているわけではありませんよ」
「じゃあどうして!」
彼は驚いたように目を見開いた。
「……貴女がそれを訊きますか?」
「どういう意味よ?」
つい語尾が強くなる。
シグルドは呆れたようにため息をついた。
「普通、自分の愛する女性が他の男と二人で部屋に入っていくのを見かけたら、平常心ではいられませんよ」
「…………は?」
言葉の意味を上手く受け取ることができず、私は二、三回瞬きした後、気の抜けた声を出した。
聞き間違いかと思った。
「……ですから、ヒメカ様がルカ王子と一緒にいるのを見てイライラしていたんです。――心の狭い男ですみません」
そう言ったシグルドは、いつもの雰囲気を取り戻していた。私が恐怖を感じたシグルドはもうどこにもいない。
彼は笑おうとして失敗したような……そんな表情を浮かべている。わずかに口角があがっているのに、その瞳には悲しみが見て取れるのだ。
私、自惚れてもいいの……?
一瞬、自分の都合のいいようにシグルドの言葉を解釈しそうになって……しかし、思いとどまる。
一昨日シグルドは言っていた。失恋した、と。相手が誰かは知らないけれど、私じゃないことは確かだ。
「……分からない。シグルドの言ってることが……分からないよ。期待させるようなこと言わないで……」
「言葉をそのまま受け取ってくださればいいんですよ。僕は――貴女が好きなんです」
――僕は貴女が好きなんです。
――僕は貴女が好きなんです。
頭の中で二回繰り返して、とりあえず意味は理解できた。けれど、腑に落ちない。
「冗談?」
「を言っているように見えますか?」
見えなかった。
「でもシグルド……失恋したって言ってたよね?」
「……随分とストレートに訊きますね」
「だって、おかしいんだもん。私が好きなのは……シグルドだから……」
この世界に残るために、自分が傷つかないために、秘めてきた想い。今まで言えなかったし、これからも言うつもりがなかった言葉。
シグルドを見ると、彼は今までにないほどの間抜けな顔をしていた。
29.欲深き罪人
「冗談……ですよね?」
「そんな風に見える?」
「……いいえ。しかしそれなら、どうしてルカ王子との結婚を決めたりしたんですか?」
『だって貴方といたかったから』
口に出して言えたら……と今の自分の状況を恨めしく思う。
この世界に残るためにはルカ王子と結婚するしかないのだ。けれどそれを説明するということは、同時に、私がこの世界の『ヒメカ』ではないということを告白しなければならないのだ。
この前、フローラさんは言っていた。
『シグルドが本当はヒメカを……』
そしてシグルドも言っていた、小さいころからいつも一緒だったと。
シグルドが好きなのは私じゃない――元の『ヒメカ』が好きなのだ。
……言えない。本当のことは、シグルドには言えない。
「答えられないんですか?」
頭上から降ってきた声は冷ややかだった。
見上げると、先程別人だと感じたシグルドがいた。彼は感情をむき出しにして怒るのではなく、色気たっぷりな笑顔か無表情で怒りを表現するようだ。
シグルドは無表情のままに話し出した。
「答えられないなら、最初から期待させるようなこと言わないでください」
さっき私が言ったセリフに酷似している。
希望を持たされて、そこから絶望に落とされる。それがどれほど苦しいことか、私には想像がつかない。私はそれを恐れていつも悪い方へと考えていたのだ。
「僕は貴女が好きなんですよ、ヒメカ様。小さなころから見てきたんです。ずっと大切にしてきたんです。それを……昨日今日出会ったような人にとられるなんて、僕にはもう我慢ができません。それがたとえ王子でもです。王子の下で貴女が笑うことより、僕の下で貴女を泣かせたいとさえ思いました。せっかく国王を殺して婚約をなかったことにしようとしたのに、貴女はルカ王子のもとへ行ってしまって……」
なんて強い独占欲なんだろう。
他の人のところで幸せになることを望むのではなく、泣かせてでも自分の下においておきたいとは……。
さらには――
「ちょっと、待って……」
うっかり聞き流してしまいそうだったシグルドの言葉の中には、とんでもない爆弾が潜んでいた。
――国王を……殺して……?
聞き間違であってほしいと願うけれど、たぶん違う。シグルドはたしかにそう言った。
「国王を……お父様を殺したのは、シグルド……なの?」
「えぇ、そうですよ」
悪びれる様子もなく言い放つシグルド。それがなにか、とでも言いたいほど自然に言っていた。
あまりにも……あまりにも想定外過ぎてすぐには信じられなかった。
開いていた窓から風が流れ込み、なびいた髪の毛が顔をくすぐった。それを掻き揚げつつ、私は叫んでいた。
「どうして! どうしてそんなことしたの!」
お父様を殺した犯人は許せない。問答無用で地獄に送ってやりたい。そう思ってた。けれど、いざシグルドが犯人だと分かると、理由を聞き、『あぁ、それならしょうがない』と納得したかった。
犯人のシグルドが正義で、殺されたお父様が悪、そうだったらいいのにと願ってしまった。
それほどまでに、私はシグルドが犯人であることを認めたくなかったのだ。
「それは今言った通り、ヒメカ様とルカ王子を結婚させようとしていたからですよ」
冷静になって考えなくても、シグルドのやったことが自己中心的で、情状酌量の余地がないことは明らかだった。
「そんな……。だってシグルドは私の世話係なのに……?」
「それでも、です。それに、僕には権利がありますから」
「なんの?」
「国王の命を奪う権利、ですよ」
――頭に血が昇るまで一瞬だった。
ガシャンという、何かが割れる音を聞いた気がする。
気が付いたら、シグルドの額からは血が流れ、部屋中に甘い匂いが充満していた。
自分のしたことがよく分からなくなっていた。
シグルドの言葉を聞いた直後、私は自らのポケットに手をつっこみ、何かをつかみ取ってシグルドに投げつけたのだ。
そして今、目の前でシグルドが血の止まらない額を押さえて、フラつきながら立っている。
私が投げたのは安らぎ草の香水が入った瓶だった。瓶だったものは、粉々に砕けて床に散らばっている。その状態が、いかに勢いよくぶつけられたのかを物語っているようだった。
「ひ、人の命を奪う権利なんて……そんなものあるわけないでしょ!」
血を流すシグルドにそう叫ぶと、ユラリユラリと歩きながら、私に近づいてきて……そして通り過ぎ、そのまま窓のところまで行ってしまった。
「シグルド……?」
呼び掛けると、彼は血まみれの顔でいつものように笑った。
「……ダメですね。一つ願いがかなうと欲が無くなるどころか、より一層深くなる。そしてその結果がこれです。――さようなら、姫香」
彼は窓の向こうに消えていった。
30.届かない想い
シグルドが私の前から姿を消して数週間。探してもその行方を掴めずにいた。まぁ、掴まれても困るのだけど。
――今、彼は国王殺害の容疑者として指名手配されているのだから。
私はというと、ルカ王子の国のお城にいた。
「ヒメカ、いよいよ明日だな!」
「……うん」
明日、私とルカ王子の結婚式が催される。お父様が亡くなっても破談になることはなく、予定通り結婚することとなったのだ。
「なーんだよ、嬉しくねぇのかよ」
「……嬉しいよ」
ルカ王子を前にして、嬉しくないだなんて言えるわけない。
シグルドが犯人として追われるようになったときに、一生懸命に慰めてくれたのはルカ王子だ。そのおかげで、徐々にだけど、立ち直れている。
「ごめん……ちょっと外の空気吸ってくる」
でも、シグルドのことが頭から離れない。どこにいるのか、けがは大丈夫なのか……生きているのか。
こんな状態でルカ王子のところにいるのがすごく申し訳なかった。ルカ王子もそれを知っているようで、深くは追求してこない。
城の裏側は低い崖になっていて、そこから海を見ることができた。私が息抜きをしようとそこに行くと、
「だから、これを使って王子を殺すのよっ!」
なんとも物騒な声が聞こえてきた。
隠れて様子を見てみると、そこにはマリンちゃんが一人で立っている。
しかし、おかしい。マリンちゃんは声が出ないはず……。
「あっ!」
人がいるはずのない海の方を見てみると、そこには上半身だけを海面に出した人が何人かいた。みんな裸に貝殻のブラというなんともこっ恥ずかしい格好だった。けれど、彼女たちはそんなことを気にしている様子もなく、マリンちゃんに話しかけている。
「分かって、マリン。王子はマリンを選ばなかったのよ。このままじゃ貴女は明日、泡となってしまうのよ」
この場面を私は知ってる。人魚姫のお姉さんが人魚姫を説得するシーンだ。
しかし、案の定、マリンちゃんは首を横に振る。
「マリン、貴女死にたいの?」
ここでもマリンちゃんは首を横に振った。エメラルドの瞳からは幾筋もの涙が伝って落ちていた。
その後も代わる代わる説得をしていたが、マリンちゃんは絶対に首を縦に振ることはなかった。
私は自分の掌の、魔法使いさんから貰った石を眺めた。もしかしたら、これを使ってもマリンちゃんは助からないかもしれない。
たとえ命が助かったとしても、他の女を愛している人の傍にいることで精神的にまいってしまうだろう。
あのフローラさんでさえ、浮気を知って気が狂ってしまったのだ。それも、本気ではなく、浮気でだ。
マリンちゃんの命と心の両方を救う方法は、きっと一つしかない。
「ルカ王子、話があるの」
「ん?」
私はルカ王子の部屋を訪ねると、開口一番でそう言った。
「結婚をする前に話しておきたい大事なことなの」
結婚という言葉に小さく反応するルカ王子。
「……とりあえず、座れよ」
「ありがとう」
ルカ王子が座っているソファの隣に腰かけた。
「あのね、ルカ王子を嵐から助けたのは――私じゃないの」
チラリと隣を見ると、ルカ王子と目があった。なんとなく威圧的で、私はすぐに視線を自分の膝へと落とした。
「それで?」
「それでって……だから、あの……」
できれば察してほしかった。自分の口からはどうしても言いづらい。
「私じゃないの……ルカ王子を助けたのは。だから、その……」
「だから、なんだよ?」
「だから……私、ルカ王子とは……」
強い力で肩を掴まれ、そのままソファへ押し倒された。
「俺とは……?」
ルカ王子の顔がすぐ目の前にあった。青い瞳は相変わらず情熱的で、その視線で射抜かれると、言葉が続かなくなる。
「俺とは、何?」
「あの……だから、ルカ王子とは――結婚できない」
言い終えると同時に唇をふさがれていた、ルカ王子の唇で。
「嘘吐くなよ」
「嘘……じゃない」
「いや、嘘だ」
ルカ王子はきっぱりと断言し、私の言うことを微塵も信用していない。
「本当に私じゃないの。ルカ王子を助けたのは私じゃなくて、マリンちゃんなんだから」
私はその言葉に続けて、マリンちゃんが人魚から人間になった人であることと人間になりたいと思った経緯や代償について説明した。
「そんな……」
私の話を最後まで黙って聞いていたルカ王子が、ゆっくりと口を開く。
「そんな嘘まで吐いて……。そんなに俺と結婚するのが嫌なのかよ?」
後半部分のドスのきいた低い声に、体が震えた。
懸命に話したにもかかわらず、王子には何も伝わっていなかったのだと分かって頭が痛くなった。
いったい、どう説明すればこの人は理解してくれるのだろう。
「ヒメカは、やっぱりあの世話係のことを忘れられないんだな……」
「え……?」
「あいつのことが好きだから、俺と結婚したくないんだろ?」
「どうして……」
どうしてルカ王子がそのことを知ってるの?
シグルド以外に、自分の気持ちを話した覚えはない。特に婚約者のルカ王子には、意識して話さないように気を張っていたくらいだ。
ルカ王子は苦笑した。
31.亀裂と反省
「見てれば分かるっての。あいつが姿を消してから元気なかったしな……。なぁヒメカ、俺じゃダメか? ヒメカのこと絶対大切にするからさ」
「ルカ王子……」
不覚にも、ときめいてしまった。でも――
「ダメだよ」
「……そうか」
ルカ王子は私の上から退き、座ったままがっくりと肩を落とした。
起き上がり、遠慮しつつも王子の隣に座りなおす。
「違うの。そういう意味じゃなくて……私じゃダメってこと。ルカ王子に愛されるべきは、私じゃないから……。ルカ王子は自分を助けた人と一緒にいたいんでしょ? だったら、私じゃない。ルカ王子の命を救った人は他にいるもん」
「いない。俺が妻にしたい相手はヒメカだけだ。たとえあの日助けてくれた子がヒメカじゃなかったとしても、今俺の好きな人は……ヒメカなんだ」
カチャンと何かが割れる音がした。
音のした方を見ると、きちんと閉めたはずの扉が少し開いている。マリンちゃんがそこから顔をのぞかせていた。
「……」
私と目が合うと、長い髪を翻してすぐに視界から消えた。
「ルカ王子、マリンちゃんを追って! きっとマリンちゃんは勘違いしちゃったんだよ。だから、早く……」
「勘違いなんかじゃねぇよ。俺がヒメカを好きなことは本当のことだ」
マリンちゃんを突き放すような態度に、頭にカッと血が上る。
「ルカ王子のバカッ! なんでそんなに意地張るの! 感謝すべき相手を間違えてたって認めて、マリンちゃんのこと本気で考えてよ!」
「ヒメカこそ、なんでそんなに俺の気持ちを無視できるんだよ……」
信じらんねぇ、と不機嫌を見せつけるよう言った。その言葉に、言い返す言葉が何も浮かばない。
私はようやく、自分の言動がルカ王子にどう見えているのかに気がついた。
私、最低だ。私は本当にルカ王子の気持ちを考えたこともなかった。さらにはルカ王子に言われるまでそれに気がつかなかったなんて……。
「……ごめん。無神経だった」
「謝られてもむなしいだけだ。ヒメカにとって俺は、気にするに値しない人間だってことはもう分かったからな……」
「そんな……っ! たしかに、ルカ王子の気持ちまで頭が回らなかったことは事実だけど、ルカ王子のことを無視してたわけじゃないの。私、マリンちゃんのことで頭がいっぱいだったから……」
どんな言葉を言ったところで、言い訳にしか聞こえない。自分でもそう思うのだ。ルカ王子にしてみたら、言い訳どころかこの状況を取り繕うための嘘に聞こえているかもしれない。
「もう分かったって! ……俺があの世話係どころか、マリンよりもどーでもいい存在なんだろ!」
「そういうことじゃない! だってマリンちゃんは、私とルカ王子が結婚したら泡になって死んじゃうんだよ! マリンちゃんの事を最優先に考えるのは当然でしょ!」
思わず叫んでいた。
ルカ王子は目を丸くしたと思ったら、すぐに憎しみと悲しみが混ざったような表情になった。
「もう黙れよッ! お前がそんな奴だとは思わなかった! 出ていけッ! 顔も見たくないッ!」
「……っ!」
想像しえなかった勢いで怒鳴りつけられ、腰が抜けた。
ルカ王子は、へたり込んでしまった私を一瞬だけ見下ろし、そのまま部屋を出ていってしまった。
半分眠っている意識の中で、頭の痛みだけが感じられた。
結婚式を挙げることが決まった時に、私にはこの客室が用意された。ルカ王子をはじめとした王族の人たちの部屋が並ぶ廊下とは反対側の廊下。そこの一番奥が、今私のいる部屋だ。
私が自分の城で使っていたベッドよりは少し狭いけれど、それでも上質なものであることは間違いない。
柔らかいシーツの感触を全身で味わいながら、私は横たわっていた。
目が、鼻が、頬が、顔全体が……熱い。泣いた後特有の気だるさが、頭にのしかかってくる。
怒らせてしまった。あのルカ王子を、本気で。
あの時、ルカ王子は怒鳴っていたのに、その表情は怒っているというより悲しそうだった。
……どうして上手くいかないんだろう。
私の見通しが甘すぎたのだろうか。ルカ王子は話せば分かってくれる……そう信じてた。だから話して、その結果がこれだ。
信じてくれると思ったのに。
海に落ちて奇跡的に助かったことを覚えている彼なら、マリンちゃんが人魚姫だという話を信じてくれると思っていたのに。
〈……姫香〉
ふと、声がした。
32.結び直される縁
〈姫香、大丈夫ですか?〉
〈魔法使いさん……?〉
どのタイミングで眠りに落ちたのか気がつかなかった。けれど、魔法使いさんの声が聞こえるということはここは夢の中だ。
〈泣いていたみたいですけど、どうしたんですか?〉
〈魔法使いさん……私、何をやっても駄目なんです。マリンちゃんを救うということすら、上手く出来そうにありません……〉
〈どういうことですか? 僕の渡した石に願えば、人魚姫は助かりますよ。そのためにあの石を渡したんですから……〉
私はためらいながらも、言葉を作り上げる。
〈……いいえ。泡にならないようにしたとしても、きっとマリンちゃんは助からないと思うんです。……私とルカ王子の結婚を、マリンちゃんが平気で受け入れられるはずなんてありません。ありえないんです。だから私は……ルカ王子を説得して、結婚を回避し、元の世界に戻らないといけないんです〉
〈元の世界に戻る?〉
少しびっくりした様子が声に混ざっている。
〈姫香はそれでいいんですか? ……貴女は、ルカ王子のことが……好き、なのでしょう?〉
〈……〉
魔法使いさんは勘違いをしている。ルカ王子のことは決して嫌いではないけど、この世界に残ろうと思うほど好きなわけじゃない。
姿を思い浮かべるだけで、切なくなる相手は他にいる。
――シグルド。
シグルドと離れたくなかったから、ルカ王子と結婚しようとしていたなんて、言いたくない。自分に好意を持ってくれる人を、最悪の形で利用しようとしていたなんて……誰にも知られたくない。
絶対軽蔑される。それほど卑怯なことだというのは分かりきっている……。
〈姫香……?〉
でも、と思う。
魔法使いさんになら言ってもいいかもしれない。
この世界に来た頃こそ魔法使いさんを恨んでいたけれど、私がこの世界で上手くやっていけるように手助けをしてくれるし、今みたいに相談相手になってくれる。
〈魔法使いさん、私がこの世界に残ろうと思ったのは……ルカ王子のことが好きだからってわけじゃないんです〉
〈はい?〉
〈私は……〉
「ヒメカ――――ッ!」
え?
魔法使いさんの声ではない。
意識が浮かび上がるような奇妙な感覚とともに、頭の中に直接聞こえていた声がなくなり、耳から音を拾うようになった。
目が覚めた。もう、魔法使いさんの声は全く聞こえない。
代わりに私のものではない呼吸の音が聞こえ、慌てて体を起こし、人の気配がするほうに振りむいた。
「ヒメカ……」
ルカ王子がそこにいた。
「ヒメカ、ごめんっ!」
「……え」
彼は唐突に頭を下げた。
突然眠っているところに押し入られて、何がなんだか分からない。
ルカ王子は早口でまくしたてる。
「俺、何も知らずにヒメカを責めちまった。あの後、マリンに聞いたんだ。……そしたら、マリンが、驚いたみてぇだったけど、泣きながらうなずいたんだ。ヒメカの話は本当だって。だから、その……疑って、悪かった」
「それって……私の話を、信じてくれるってこと……?」
「あぁ。怒鳴ったりして悪かった。本当に、ごめんな。頭に血が上っちまって、冷静に話を理解しようともしなかった」
ルカ王子の真剣さは痛いほど伝わってきた。
「ルカ王子、顔を上げて」
彼は顔を上げた。その表情からは不安と申し訳なさが見て取れる。
私なんかに謝ることないのに。私のほうがルカ王子に酷いことをしているのに……。
ルカ王子の素直さや純粋さを目の当たりにすると、自分がいかに醜いかを思い知らされる。
「もういいから。ルカ王子は分かってくれたんでしょ? だから、もう気にしないで」
「ヒメカ……ありがとう。こんな俺を許してくれて……ヒメカは優しいな」
「…………それで、ルカ王子。マリンちゃんとのことはどうするの?」
いたたまれなくなって、無理やりに話題転換を試みた。
「……それに関しても、謝らなきゃなんねぇんだが……。悪いが、ヒメカとの婚約を白紙に戻してもいいか?」
「え?」
「いや、悪いとは思ってるんだ。誰に救われたかに関係なくヒメカの事を好きだって言ったし。けど――」
その後のルカ王子の声は小さくて何を言ってるか聞き取れなかった。
でも内容は想像がつく。
「やっぱり、マリンちゃんを選ぶんだ」
「えっ、いや、その……なんというか……選ぶっていうか……」
別にうらみがましく言ったつもりはないんだけど。
私の言葉をどう受け取ったのか、ルカ王子はしどろもどろだった。
「そんなに罪悪感を感じることないよ、ルカ王子。……お互い様でしょ」
「ヒメカ……」
私もルカ王子が一番なわけじゃない。ルカ王子だってそのことを分かってる。
「マリンちゃんを、幸せにしてあげてね……」
「……分かった。色々、すまなかった。それと――ありがとう」
ルカ王子は眉間にしわを寄せたままの……微妙な笑顔を作った。
「明日の式は中止になったけど、今日はもう遅いからな。ヒメカはこのままここで休んでくれ。……おやすみ」
「うん、おやすみ」
ルカ王子は部屋を出る時に一度だけ振り返った。
33.明かされる真相
自分の体が発する光に目が覚めた。弱い光が私の体を包んでいる。
この光には覚えがあった。
――この世界に来た時と同じだ。
ルカ王子が出ていってからまだそれほど時間は経っていない気がするけれど、ルカ王子がマリンちゃんと結婚することを決めたことで、私はお役御免ということなのだろう。
ようやく元の世界に帰れる。
ホッとすると同時に、心残りに気がついた。
――シグルド。
彼にもう一度会いたかった。
「姫香、帰る時が来たんですね」
幻聴まで聞こえる。
「……姫香、聞こえていないんですか?」
低く温かい声が、まるで現実の声のように聞こえる。
…………本物?
私は慌てて体を起こし、声の聞こえた場所――窓の方を見た。
「姫香……」
いた。彼が、いた。窓を背に、こちらを見ている彼が。
もう二度と会うことはないと思っていたのに。
私は立ち上がり、そのまま彼の胸へと飛び込んだ。お父様を殺した人だと分かっていながらも、自分で自分を止められなかった。
「シグルド……会いたかった」
「僕もです」
腕を回すと、細身のわりにがっちりとした体だということが分かる。
これは現実。この世界が現実なのかはいまだによくわからないけど、今この手にある感触は本物だと分かる。私の作り出した幻なんかじゃない。ちゃんとここに存在する人だ。
「怪我は平気? 痛くない? ……ごめん、この前は……」
背伸びをしてシグルドの髪に触れ、この前ビンを当ててしまった場所を撫でた。
「平気ですよ。もう痕もないでしょう」
「良かった……」
私の体から発せられる光で見えるシグルドの顔。確かに怪我はもう見えない。
「あの……キス、してもいいですか?」
「ん」
唇がやさしく重なった。この前のような一方的なものではなく、私のことを考えてくれているのが伝わってくるやさしくて温かいキスだった。
長いキスを終えた後、彼は言った。
「貴女は……ルカ王子が好きだったわけではないんですよね。しかし、それなら何故ルカ王子と結婚しようと……この世界に残ろうと思ったのですか? あんなにも元の世界に帰りたがっていたじゃありませんか」
「それは……。………………ん?」
答えようとして、色々な意味で言葉が詰まった。
シグルドと一緒に居たい。そんなこと本人に直接言うのも恥ずかしい。
でも、今は、そんなことよりも気になることがある。
どうしてシグルドが、知ってるのだろう。私が『ヒメカ』ではない、と。
誰にも知られないよう上手く隠してきたつもりだ。
私の動揺を見て取ったシグルドは、困った顔で微笑んだ。
「もしかして、まだ気づいていなかったんですか?」
「え」
「とっくに気が付いているものだと思っていたんですがね。――僕が姫香をこの世界に導いた魔法使いです」
「え…………えええぇぇぇぇぇぇっ!」
驚いた。それはもう、ものすごく。シロクマの肌が実は黒と知った時と同じくらいの裏切られた感。
隠そうと思っていた相手が、隠し事を作った元凶だなんて……なんて馬鹿馬鹿しい。
「まぁ、魔法使いというのは正確ではないんですがね。僕にできる事は、手元にある魔力でヒメカをサポートすることだけでしたし……」
「魔力……ね」
そういえば、前にシグルドは自分の髪の毛に魔力が宿っていると言っていた。
……シグルドが髪の毛を大幅に切ったのはいつだったっけ?
「もしかして……この石ってシグルドの……」
私はポケットに手をつっこみ、魔法使いさん……いや、シグルドから貰った石を取り出した。
よく見ればシグルドの髪と同じ色をしている。
「えぇ、それは僕の髪を切って形を変えたものです。……というか、姫香、その石まだ使ってなかったんですね」
「うん……。特に使い道もなかったし」
マリンちゃんも無事に助かった今、特に叶えたい願いなんて…………あっ!
私は頭によぎった願いを、そのまま口にした。
「この石使ったら、お父様生き返らないかな?」
言ってから、しまったと後悔したのは何度目だろう。
目の前で私を優しげに見つめるシグルドこそ、お父様を手にかけた張本人だ。彼にそんなことを言ったところで良い返事がもらえるとは思えない。
しかしシグルドは、私の予想とは全く違った行動に出た。
「……その願いを叶えるためにそれを使う必要はありませんよ。見て下さい」
シグルドの掌から、ふわりと光の玉が浮き上がる。
「それは……?」
「国王の魂……とでもいいましょうか。この世界で人として生きるために必要なものです。僕はこれを彼から抜き取ることによって、彼の生を奪いました」
淡々と語られた彼の殺しの手口。おとぎの国らしい現実離れした方法だったので少しだけ恐怖心が和らいだ。
とはいえ、彼の行為がもたらした結果が許しがたいものなのは間違いなく、不愉快な内容に変わりはない。
私が眉を寄せたのが分かったのか、シグルドは苦笑した。
「そんな顔をしないでください、姫香。分かっていますよ。……さぁ、身体のもとへ」
その不思議な玉はシグルドの手から離れると、迷いを見せずにまっすぐある方向へと飛んで行った。その方向にあるのは私のお城の方だ。
「これで彼は元通り動きだします。安心してください」
「……うん」
殺した人間が改心してその相手を生き返した場合、お礼を言うべきなのだろうか?
どう反応するのが正解なのか分からず、私は小さくうなずくことしかできなかった。
「管理者であっても命を奪うことはしてはいけないことですよね。姫香に言われて、気づきました。悲しい思いをさせて申し訳ありません」
シグルドはうつむきながらそう言った。その言葉の中に気になる単語がある。
「管理者……?」
「えぇ。僕はこの世界の管理をしているんです。姫香の持っていた『人魚姫』の絵本そのものとして」
「絵本そのものって……」
目の前の人間の姿をしたシグルドがあの絵本だとすぐに納得するのは難しい。
困惑する私を笑顔で見つめながらシグルドは話を続ける。
「信じられないかもしれませんが、本当のことなんです」
「……分かった。でも、どうして? どうして私をこの人魚姫の世界に連れてきたの?」
実はずっと疑問に思っていた。どうして私をこの世界に連れてきたのか。
34.夢の終わり
「僕を大切に扱ってくれる姫香に恩返しがしたかった、というのが目的でした。姫香は人魚姫の結末を嘆いていましたからね。それを変えてあげたかったんです」
「でもそれなら、シグルドがただ絵本の内容を変えればいいだけなんじゃない? 管理者なんだよね? わざわざ私を連れてくるなんて、意味がない。それに下手をすれば、ストーリーは変わらないかもしれないし……」
実際、私は一度人魚姫の世界に残るためにルカ王子と結婚しようとした。
「その通りです。それだけなら姫香を連れてくる意味はありませんでした」
「じゃあ、なんで?」
「……僕は、わがままで自分勝手なんです。そのうえ、平気で嘘を吐きます」
彼は唐突に自虐の言葉を口にした。
「恩返しというのは建前で、本当は姫香と一緒に暮らしてみたかっただけなんです。人間と絵本としての関係ではなく、人間と人間として。僕はその願望を叶えるためだけに姫香をこの世界に引き込んだのです」
「……」
「僕のことを軽蔑しますか?」
おずおずとそう言ったシグルド。
嫌われたくないけれど、嫌われることを覚悟している。そんな風に見えた。
「軽蔑した、と思う。……最初の頃だったら」
「それは、どういう意味ですか?」
「だって、私はシグルドのこと知っちゃったから。シグルドは優しくて、何も知らない私に気を使ってくれたし、大切に扱ってくれた。そんなシグルドを知ってるから、私はシグルドのことを軽蔑なんてしない……できないよ」
「姫香……僕のことを許してくれるんですか?」
「許すだなんて……。私はシグルドが悪いことをしたなんて思ってないもん。何を許せばいいのか分からないよ。ここに連れてきてくれたことに関しては、むしろお礼を言いたいくらいだし。……ありがとね、シグルド」
「……姫香っ!」
ガバッと力強く抱きすくめられる。身動きができなくなった。
「そんな可愛いことを言うと、帰したくなくなるじゃないですか」
「私だって……ずっとシグルドといたい」
でも、それは叶わない。それを分かっているからこそ、シグルドは放すものかと言わんばかりに抱きしめてくるのだろう。
「貴女を連れてくる前は」
耳元でシグルドが囁く。
「姫香を連れて来ようと考えていただけの時は、貴女と生活をするだけで満足できると思っていたんです。けれど、いざ姫香を目の前にすると、触れたくなり、抱きしめたくなった。そうして姫香の存在を確認したら、今度は貴女の心を僕でいっぱいにしたくなったんです。他の誰も見ずに、僕だけを見てほしいと思いました」
「……」
私だってそう思った。
シグルドに触れていると安心できたし、シグルドに好きな人がいると知った時には痛みすら感じるほど悲しかった。
ふと、思う。こんなにも自分のことを思ってくれている彼を置いて自分の世界に帰るのか、と。
「ルカ王子とキスしようとしていた貴女を見た時には……嫉妬でどうにかなりそうでした」
「そ、それは……」
「まぁ、阻止しましたけど」
「……」
昼間にキスされてしまったことは黙っておこう。
「自分がこんなに嫉妬深いとは思っていませんでした。最初は小さなことで十分に幸せを感じられていたのに、いつしか姫香を独占していないと気が済まなくなり……」
ついには人を殺してしまいましたよ、と冗談にもならないことをシグルドは苦笑いで言った。……何がなんでも黙っておこう。
私の体の光が一層強くなる。
「……時間ですね。最後にこうして話ができて嬉しかったです」
言葉の最後が震えだしていた。
見上げると、安らぎ草を盗みに行った私を迎えに来てくれた時と同じ顔をしていた。
「あ、ありがとう、ございます、姫香……。貴女と過ごした時間はとても……とても、楽しかったです」
「シグルド……」
――死んでしまう。
シグルドの表情は、そんな心配をしてしまうほど痛々しくて、私まで涙が出てきた。
「愛しています、姫香。大好きです」
「私も、大好き。貴方が……シグルドが大切で……愛しくて……」
さよならなんて言葉で終わらせたくなかった。最後は、愛の言葉で。
――さらに輝きを増す光の中、私は手の中の石を握りしめて祈った。
「ん……」
目をあけると、そこには懐かしい光景があった。
安っぽいベッドに安っぽい机、漫画がぎっしり詰まった本棚。
――帰ってきた。元の世界に、ようやく帰って来れた。
窓から夕陽が差し込んできている。近寄って外を見ると、まさに沈んでいくところだった。
ベッドの上のカバンから携帯電話を取り出してみる。
日付は同じ。時間は……細かくは覚えていなかったけれど、大体合ってると思う。念のために年も確認すると、部活から帰ってきた時と同じだった。
部屋のすべてが、あの時――人魚姫の世界に行く直前のままで、何もかもが夢だったような気がした。
もしかしたら、本当にすべてが夢だったのかもしれない。
そんな考えが頭をよぎった時、枕元に置いてある絵本が目に入った。もちろん『人魚姫』だ。
「……」
本を取ろうと伸ばす手が震えた。
私は絵本の表紙をじっと見つめたまま――開けなかった。
中を見るのが怖い。現実を知るのが怖い。
あの出来事が夢だとは思えない。けれど、夢でないとしたら一体何? 人の心を乱すだけ乱しておいて、呆気なく終わってしまったあの世界。
――あんな強制的に終わりが来る世界が現実であってたまるか。
あの世界は、夢。そういうことにしてしまおう。
私は胸の痛みに気づかないふりをして、絵本を机の引き出しへしまい込んだ。
エピローグ ハッピーエンドの物語
一日、二日。一週間、二週間。そして、一か月。
時間が解決してくれる物事もあるのだろうけど、私の悩みはそれに該当しなかったらしい。もしくは、まだ時間が足りないのか……。
結論から言うと、私はあの世界を夢だと割り切ることは出来なかった。
寝ても覚めても、授業中だろうと、『人魚姫』のことが気になってしょうがない。一番酷かったのは、平均台の上でバランスを取っている時に思い出してそのまま固まってしまったことだ。(その後先輩に怒られた)
私は机の引き出しに手をのばしては引っ込める。それを何日も繰り返していた。
だめだ。いつまでも逃げてちゃ。
そろりと引き出しを開けると、そこには当たり前に『人魚姫』が入っていた。見た目だけはただの絵本そのもの。
あまりにも普通過ぎて、少し拍子抜けした。
しかし、心穏やかでいられたのはそこまでだった。
手にとって最後のページを開くと、そこには幸せそうに微笑みながら王子様に寄り添う人魚姫の姿が描かれていたのだ。おそらく結婚式。
「夢じゃないんだ……」
やっぱり、と思った。
本来悲恋だったはずの『人魚姫』の物語は、得恋へと変わっていた。
その結婚式には私……というか、ヒメカの姿もあった。隣にはお母様とお父様の姿もある。
よかった。お父様は無事に生き返ったんだ。
そして、私は必死に『彼』の姿を探した。けれど、どのページを探しても影も形もない。
もともと『彼』は物語の登場人物じゃない。絵本に描かれていないのもうなずける。
それに私が願ったことを考えると、この状況は当然だろう。
――私は最後の瞬間、シグルドから私の記憶がすべて消えるように願ったのだ。
楽しかったことも、つらかったことも、すべて無くなるように……そう願った。
だからきっと、記憶のなくなったシグルドは、絵本の登場人物のシグルドではなく、元の絵本自体に戻ったのだろう。
分かりきっていたことなのに、なぜか目頭が熱くなって、我慢しようと意識する前にスーッと水滴が流れ落ちた。
もう、私のことを知るシグルドはどこにもいない。何かのきっかけでもう一度人魚姫の世界に行けたとしても、そこにシグルドはいないのだ。
人魚姫と王子様の幸せそうな姿を見ていると、なんとも複雑な気持ちだった。
――うらやましい。もっと言ってしまえば、二人が妬ましい。
私もシグルドとこんな風に結ばれることができたらどんなに嬉しかったことか……。
そこまで思って、考えるのを止めた。
選んだのは私自身。……いや、本当は選べなかったという方が正しいのかもしれない。
目の前から消えてしまう私を、彼の記憶に残しておくのは残酷というものだろう。記憶を消す以外に彼を救える方法が思いつかなかった。
私はシグルドを悲しみから救った……はずだ。もう本人に訊くことは出来ないから、本当のところは分からないけれど。
今の状態が普通。これまでの日常が戻ってきただけ。そう言い聞かせても涙は止まるどころかどんどん溢れてきて、
「あ」
せっかく大切にしてきた絵本を濡らしてしまう。
涙と一緒に、押し込めていた感情も溢れてきてしまった。抑え込もうとしても、感情の方が強かった。
――会いたい。本当はシグルドと一緒にいたい。
私がマリンちゃんみたいにもっともっと恋に積極的で、何もかも投げ打って愛に生きられたのなら、私とシグルドの恋の結末も変わっていただろうか。
マリンちゃんに同情せず、ルカ王子を欺き結婚していたら、シグルドと一緒にいられたかもしれない。
「シグルドぉ……、会いたいよ」
絵本を抱きしめて呟いたその時、驚くべきことが起こった。
小さな爆発音のようなものが聞こえたかと思ったら、部屋が煙に包まれていた。同時に、手にしていたはずの絵本の感覚はなくなっていた。
「呼びましたか?」
聞き覚えのある心地よい声がした。
「なっ!」
煙が晴れると、そこには現実世界には不釣り合いな格好のシグルドがいた。
何が起こっているのか分からず呆然とする私を、にっこりと笑って見ているシグルド。しかもかなりの長身だから、部屋がすごく狭く感じる。
「ど、どうして?」
目の前で起きていることが現実なのか夢のか幻なのかどれとも区別がつかなくて、うわずった声しか出ない。
現実だったらこんなに嬉しいことはない。けれど他のものだったとしたら――こんなにも残酷なことはない。
現実なのかを確かめるのは怖かった。確かめた瞬間に、消えてなくなってしまうのではないだろうか。
私はためらいながら、彼に手を伸ばした。ぬくもりが掌に感じられる。
――触れる!
確かに彼に触れる事ができた。身体の中心から喜びがあふれ出てきそうになるが、ある事に思い当って、一気にそれが引いて行った。
今、目の前にいるシグルドは、私のことが分かるのだろうか? 私はシグルドの記憶を消したのだ。なのに、覚えているはずが――
「……姫香、会いたかった」
ガバッと苦しいくらいの抱擁をされ、彼には昔の記憶が残っていると確信した。
「私も、会いたかった……」
同時に私もシグルドの首に手を回す。
「酷いじゃないですか、僕の記憶を消すなんて……。姫香との時間はこの上ない宝物なんですよ」
「ごめんなさい……。でも、シグルド今は覚えてるんでしょ?」
冷静になってみると現実世界にシグルドがいることも、記憶が残っていることも、どうも腑に落ちない。
「あの石はもともと僕の魔力の一部ですからね、僕の記憶を完全に消すなんてことはできないんですよ。……といっても、姫香が僕を求めるまでは姫香のことを忘れてしまっていましたが」
そこでグッとシグルドの声が近くなる。耳に当たる吐息がくすぐったいくらいの距離だ。
「貴女のことを一時でも忘れてしまった僕を許して下さい」
「ゆ、許すから! だから、お願い、耳元でしゃべらないで」
囁くように言われて、背筋がゾクッとした。
シグルドの口元は楽しげに弧を描いている。
「もう姫香を悲しませるようなことはしません。ずっと貴女の傍にいますから」
「……ずっと?」
「えぇ」
当たり前、と言わんばかりに軽く言い切ったけれど……おかしい。
「シグルドは、ここでもその姿でいられるの?」
「はい、いられるようになりました。僕はもう付喪神ですから」
「つくもがみ?」
聞きなれない単語を聞き返すと、彼は柔らかい笑顔でうなずいた。
「物が感情を持ち、人間の姿になった神様のことです。僕が姫香を絵本の世界に呼ぶことができたのも、きっとその前兆だったのでしょう。姫香と思いが通じあったことで、その力が完全なものとなったようです」
「……」
頭の中を占めていたのは、信じられないという思いだった。でも、信じたい。大好きな彼がここにいて、もういなくならないということを。
「もう、放しません。愛してます、姫香」
「うん」
私も、もう手放したりしない。
【完結】おとぎの国の恋愛模様