神守島

日乃万里永

神守島

― 第一部 ―

 一

 瀬戸の海は、真夏の焼け付くような日差しを煌々と照り返していた。
 だが龍一にとってその光景は今、先ほどまで見慣れたものとは違っていた。早朝より叔父と同い年の従兄弟の隆生(たかお)とともに沖へ漁に出ていたが無線で、ある知らせを受けたのだ。
 十六年前、終戦翌年の夏、突然家族を置いたきりずっと行方不明だった父が急に帰って来たと言う。
 その知らせを受け叔父は即、漁を取り止め港へと引き返した。
 龍一は当時、まだ六歳だった。その日からずっと父の帰りを待ち侘びていた。高等学校を出て漁師になったのも、どこかで父と繋がっていたかったからだ。
 港へ向かう間、龍一の視界に入る波は、穏やかなはずなのに心なしか荒々しくさえ思えた。
 紺青の海さえも、まるで黒い靄に覆われているかのようだった――。
 船着場に到着するなり、龍一は叔父にことわり、船を飛び降りるやいなや即座に駆け出して行った。
 途中一度も止まることなく走り続ける。
 龍一の家は代々続く漁師の家系で、海岸沿いに軒を連ねる家々の一角にある、木造の古い家屋であった。
 家の奥へ進んで行くと、奥の間の襖戸が音もなく開き、祖母が泣きはらした顔で出て来た。
「龍一……」
 祖母は瞳を潤ませ、なにかを訴えるように見つめる。
 龍一は黙ってその脇を通り、襖戸をさらに開いた。
 薄暗がりの中、目にしたのは一人の男であった。その髪や髭は伸び放題でかろうじて目の周りだけのぞかせている。ちゃぶ台を挟んで向かいに座る祖父が、怒りに顔を歪めていた。
 龍一は立ち尽くしたまま、その男に父の面影を見つけようとしていた。十六年前の記憶に残る父は、叱る時こそ厳しかったが普段は優しい父であった。よく一緒に釣りをしたり、村の祭りなどに連れて行ってもらったことは、今でもおぼろげに記憶に残っている。
 父がいなくなってから間もなく、女と駆け落ちしたのではという噂を耳にした。
 信じたくはなかったが、もしや父は家族を見捨てたのでは、という疑念は心の片隅から片時も離れなかった。
 今日帰って来るのか明日なのか。日を追うごとに、誰よりも信じていた父に裏切られたかもしれないという想いばかりが、自身の中で徐々に膨らんでいった。
 しかし六歳の誕生日にもらった龍の首飾りだけは、何度もはずそうと思ったが、その度どうしてもはずせなかった。この繋がりだけは、完全に断ち切れずにいたのだ。
 そして今、目の前にいる人物が父だと告げられ、どうしてよいかわからなかった。
 積年の思いをぶつけようにも、昔の面影を微かに記憶するだけの今となっては、本当に父であるのかさえわからないのだ。
 その時、今まで押し黙っていた男が口を開いた。
「龍一、すまんかった……」
 その声に微かな聞き覚えがあった。途端に、堪え切れないものが込み上げた。
「なんで、家族を置いて、出て行ったんじゃっ」
「悪かったと……思っとる。どこにいようとお前のことは、一日も、一時も忘れたことはなかった」
 苦しげに声を発する父に、龍一は長年の疑問をぶつけた。
「今まで、どこにおったんじゃ」
「それは、言えん」
 父は口を固く結んだ。
 祖父はぎろりと父を睨みつける。
「まさか女と、暮らしとったんか」
 その言葉に龍一は固唾を飲んだ。父が出て行った日、同時に地主の若妻が生まれてまもない赤ん坊とともに姿を消した。二人がともにいたという姿を目撃した人物もおり、その後村中に、駆け落ちしたという噂が広まった。そのせいで母親はいたたまれずに出て行った。もしも事実なら絶対に許すことなど出来ない。
「そうじゃ」
 だが父はそれをあっさりと認めたのだ。瞬間龍一の体中から怒りが込み上がった。
「家族を、裏切ったんかっ」
 殴りかからん勢いで怒鳴りつけた。両手のこぶしを固く握り締め、怒りにうち震える。
 父は項垂れ、情けない声を発した。
「ずっと、龍一に謝りたかった。謝っても許してもらえんと思ったがせめてひとこ……」
「今更遅いっ」
 最後まで言い終わらぬうちに、龍一は怒鳴りつけた。祖父は龍一に代わって言う。
「一番信頼しとった父親に、突然出て行かれ、龍一が今までどんな思いで生きてきたかわかるか?」
 龍一はうつむいたまま、眼だけを父に向けた。
「また、その女のところに戻るつもりか」
 ぎりっと歯を食いしばりつつ言葉を絞り出す。
「いや、おれはもう年じゃ。この頃では、このまま二人を守り通す自信ものうなって来た。今ではもう、村の様子もいろいろと変わっとる。それでこの際、戻って来ようと思うたんじゃ」
 弱弱しく答える。
「まさか、その女と、ここで一緒に暮らすつもりか」
 龍一は膝を乗り出し詰め寄った。
「いや、ここへ戻ってまで、そんなことが許されるとは思うとらん。しかるべき場所に帰すつもりじゃ」
 この辺り一帯の土地を仕切る地主の宮前は、若妻が出て行ってからまもなく、体裁が悪いと思ったのか数年後に後妻をもうけていた。村人に散々陰口を叩かれ、居た堪れなくなったようだ。
 しかるべき場所というのはわかるが、十六年もともに暮らして来ておいて、それほど簡単に別れられるというのか。
 龍一はふと、顔を上げた。
「いや、あんたの言葉を鵜呑みにはできん。あんたをこのまま、その女のところに戻らせるわけにはいかん」
 父の言葉を、にわかに信じることが出来なかった。女のもとへ戻り、また再びこの家に帰って来るなど、簡単には信じられなかったのだ。
「そうか……」
 父はしばらく黙り込んだ後、言葉を発した。
「ならおまえにも、付いて来て欲しい」

その島は「神守島」といった。
 瀬戸内に点在する島のひとつで、古くから神域として崇められている島である。決して人の手で犯してはならないと。
 遠い昔から、島に渡ろうとする者には必ず災いが降りかかるといわれてきた。
 渡り住むものはないといわれていたが、その島にまさか父が暮らしていようとは思いもしなかった。
 父一人ならともかく、当時生まれたばかりの赤ん坊も同時にいなくなったと言い、無人島である可能性は考えられなかったのだ。 
 それはまったくの盲点だった。
 しかも真面目一筋で誰よりも信心深かった父が、まさか神域を侵すはずがないと誰もが思っていたのだ。
 だが実のところは龍一の叔父が、父をずっと手助けしていたという。
 叔父はその秘密を頑に守り通して来たのだ。叔父は長年父の助けになり、捜索の手がこの島に及んだ時も、三人が決して見つからないよう裏で手を回し、村の様子などもその都度父に報告していたということだった。
 地主の宮前が後妻をむかえた時、それを期に叔父は父に村へ戻るよう話したそうだが、前妻である由紀乃は頑として拒んだと言う。自分と娘だけでもこの島で暮らしたいと。
 そこで父はともにこの島に留まることにしたのだそうだが年齢には逆らえず、時とともに次第に二人を守り通すことに限界を感じ、また由紀乃も、娘の将来を思うといつまでも島に籠ってばかりはいられないと思い、意を決して戻って来ることにしたらしい。

 父は砂浜に舟を引き上げ、そばにあった杭にくくりつけた。
 島には、沢山の木々が生い茂り、人が住む気配は感じられなかった。
 だが視界の中に、人が一人通れるくらいの小路がとらえられ、龍一は父の後に続いた。  
 道なりに坂を上り、森の茂みをしばらく歩いて行くと、微かに水音が聞こえた。
 奥へ進むにつれその音はだんだん大きくなり、森を抜けると突然、さあっと吹き抜ける風が頬を撫で、目の前が急に開けた。
 足元には大小の石がころがり、その合間にさらさらと清らかな沢が流れていた。
 水面は日の光を受けてきらきらと輝き、底が見渡せるほどに透き通っている。その後方では滝の音が厳かに響き渡っていた。
 その奥に、丸太を組み合わせた、見た目には簡素な、家らしきものがあった。
 龍一がそばまで近づくと、目の前の戸が急に勢いよく開いた。次いで、一人の髪の長い少女が飛び出して来た。
 見た目には十代そこそこと思われ、そでのない羽織を帯で留めているだけの質素な身なりである。
 少女は父の後ろに立つ龍一の姿を見ると、はたと立ち止まり、驚いた様子で目を見開いた。
「誰?」
 一歩、後ずさる。
 その時、後ろから由紀乃と思われる女が現れた。由紀乃は龍一を見るや、
「あなたは……もしや、龍一……さん?」
 黙って頷くと、由紀乃は次の瞬間顔を歪め、急に膝を折り地面に手をついた。
「申しわけありませんっ」
 目の前で深く頭を下げる。
 突然のことに戸惑っていると、父が由紀乃の背に手を触れた。
「おまえが頭をさげることはない。悪いんはおれじゃ」
 由紀乃が顔を上げるや、父は龍一に訴え掛けた。
「龍一、この人はずっとおれに、おまえのところに帰るよう言うとったんじゃ。それを、おれが拒んどった。じゃけえこの人はなんも悪くないんじゃ」
 由紀乃が即座にそれを否定する。
「いいえ、違います。私がこの島を出る勇気がなかったけえ、一朗さんを今までずっと引き止めてしもうたんです。悪いのは私です」
 お互い庇いあう。
 由紀乃をよく見ると、真白い肌にほんのりと唇は紅く、慈悲に溢れた眼差しはどこか憂いを帯びている。少なくとも男を誘惑し、たぶらかすような女には見えなかった。
 父は再び口を開いた。
「龍一、おれはこの二人を守りたかったんじゃ。じゃけえ頼む。おれへの恨みを、この二人にだけはぶつけんで欲しい」
 龍一は由紀乃を責めるつもりなど毛頭なかった。目的はただひとつだけだ。
「おれは、この人に対してなんとも思うとらん。ただあんたと、この人の仲だけは、絶対に認めるわけにはいかん」
「それはわかっとる」
 父は頼りなげに言葉を発した。



 一人、崖の上に佇む龍一は、唇を強く噛み締めた。過去にどんな事情があろうとも、やはり父は家族より由紀乃を選んだのだ。
 あらためてそう思うと、怒りよりもはや、絶望が込み上げて来た。
 胸の首飾りに手をやり、ぐっと握り締める。
 子どもの頃、一度海へ投げ捨てようとしたが、叔父の説得で、かろうじて留まったことがあった。
 
 村中に父の噂が流れ、いた堪れなくなって浜を訪れ、海に向かって放り投げようとすると、
「龍一、なにしとるんじゃ?」
 叔父に呼び止められた。
 龍一はびくっとして振り返った。
「なんもしとらん」
 目を背けると、叔父は龍一の右手に目をやった。
「その手に持っとるんは、何じゃ?」
 龍一はそれをさっと後ろに隠した。叔父は即座に感づいた様子で、
「それは、お父さんがくれたものじゃないんか?」
 龍一は答えなかった。
「大切にせんといかんぞ」
 叔父の言葉に、それを思い切り地面に叩きつけた。
「こんなもん、いらんっ」
 拳を強く握り締めた。叔父は黙ってそれを拾い上げると、
「龍一、お父さんはきっと、どこにいようと、今でもおまえのことを思っとるに違いない。お父さんは誰よりも一番、おまえを大切に思うとったんじゃ。なにがあってもそれだけは信じて欲しい。これは唯一、おまえとお父さんを繋ぐものじゃ。絶対に、手放したらいかん」
 龍一の手にそれを握らせ、両肩に手を置き、力のこもった声で言った。
 しばらくはじっと、返された首飾りを眺めていたが、やがて顔を上げ、真剣に問い掛けた。
「叔父さん、お父さんは、女の人と一緒に出て行ったんか?」
 叔父は正面から、龍一の目を見つめた。
「人はいろいろ言うが、すべてはただの噂に過ぎん。誰も確かめてもおらんことをただ真に受けてはいかん。もし仮にお父さんが女の人と一緒にいなくなったんじゃとしても、ここを出て行ったんはきっと、なにかわけがあったんに違いないんじゃ。なんもわからんのに人が言うことだけを信じて、お父さんのことを疑うてはいかんぞ」

 その言葉をひたすら信じ、龍一は唯一心の拠りどころとしていたのであった。
 かろうじて道を外すことなく今まで生きてこられたのは、叔父や祖父母の支えと、父を信じたいというひたすらな想いだけであった。
 だが今となってはもう、その証である首飾りを首に下げている意味もなくなってしまった。
 もうなんの躊躇いも未練もない。龍一は出来るだけ遠くに投げ飛ばそうとした。その時、
「待ってっ」
 背後から声がした。振り向くと少女が立っていた。
「それを、どうか捨てないで、お願い」
「放っといてくれ」
 構わず海に投げようとすると、
「待って、それならどうか、私にくれん?」
 あまりに真剣な眼差しに、どうせ捨てるならと、少女に向かって放り投げた。
 慌てた様子でそれを空中で受け止めた少女は、ほっとしたように安堵の表情を浮かべた。
「あなたに、どうしても見せたい物があるんじゃけど」 
 少女は龍一を見上げた。
「なんじゃ?」
「こっちじゃけえ、付いて来て」
 こちらの返事も待たずに駆け出して行った。
 しかたなく後を付いて行くと、少女は龍一に構わず島の奥へと進んで行った。
 龍一がふと辺りを見回すと、豊富な樹木の数々、たわわに実る木の実や果物、太く雄々しい樹木の合間には、龍一もよく知る薬草などもあった。
 そこここに咲乱れる草花などは、いったいどのくらい種類があるのか数えたらきりがない。
 更に、無数の鳥や虫たちが安心して羽を休め、ここはまさに楽園そのものであった。
 急な坂道に差し掛かるが、慣れた様子で登って行く少女に追い付くと、一瞬、蝉時雨さえも深緑の中に溶け込むような、重々しい雰囲気の漂う空間があった。
 そこを抜け、さらに奥へ進んで行くと、路が少し平らになったところに、目の前に大きな岩が現れた。その岩と岩の間から、なんともいえない神々しさで七色に輝く光が幾重にも降り注ぐ。光のそばまで近寄ると、ちょろちょろと岩から染み出た水が流れ込む、透明で清らかな泉が姿を見せた。
 厳かで神聖な空気が漂い、周りを取り囲む岩々が、まるでその場所を護っているかのようであった。
 沢の中を、一匹の白い蛇がすうっと泳いで行く姿が見えた。龍一はその雰囲気に呑まれ、しばらく魅入られていた。
 この島は人を選ぶといわれている……。
 信じられないが父と由紀乃は、この少女ともども、今までなにごともなく無事に、この島で暮らして来たのだ。龍一が複雑な思いでいると、
「見て」
 少女はある方向を指差した。龍一が顔を上げると、岩の窪みの部分がまるで祠のようになっており、その中に、多分父が彫ったのだと思われる仏の像と、自分が首に下げていた物と同じ、龍の彫り物が置かれてあった。
「この彫り物は、龍と言うんじゃろう?」
 龍一が、答えずにそれをじっと見つめていると、少女は言葉を続けた。
「おじさんは、毎日ここに来て、これを眺めとったんよ。きっとこれを通して、遠くにいるあなたのことを見ていたんじゃと思う。私は小さい時から、おじさんにとってこの龍というものが、とても特別なものじゃって思うとったけえ、これと同じ首飾りを持つあなたが目の前に現れた時、本当に驚いたんよ。まるでここにある龍が、形を変えて、会いに来てくれたんかと思った」
 龍一は、目の前にある龍の彫り物に目を向けた。父は毎日ここへ来ていたと言う。あの時「おまえのことは、一日たりとも忘れたことはなかった」と言っていたことだけは、嘘ではないのかもしれない。だがそれとこれとは別だ。
 黙っていると、少女はなおも話し掛けて来た。
「龍一さん、一朗おじさんは、どんなに遠く離れていても、いつもあなたを思い続けとった。そしてきっと今も、あなたのことを想っているはずじゃ。それだけは嘘じゃない。それだけはわかって欲しいんよ。じゃけえ、どうかこれを簡単に手放したりせんで、お願い」
 首飾りを両手に持ち、せつなく訴え掛ける。
「いや、それだけはもう二度と手にするつもりはない」
 だが、少女は引き下がらなかった。
「おじさんは、私のためにいろいろなものを作ってくれたんじゃけど、唯一こうして身につけるものだけはくれんかった。じゃってこれは、離れとっても常に寄り添っていたいからじゃろう。おじさんの気持ちを、どうか簡単に投げ捨てたりせんで」
「何度言われても、おれの気持ちは変わらん」
 断言すると、少女は困っている様子だったが、
「それなら、いつか龍一さんが再び手にしてもええと思うまで、私か持っとってもいい?」
 そう言って、こちらの目をじっと見つめた。龍一はもう二度と手にする気はなかったが、少女があまりにも必死なのでしかたなく「それは、別にかまわん」と答えた。
 すると少女は「ありがとう」と首飾りを固く握り締めた。
 彼女のほっとした表情が合図のように、鳥たちが集まって来た。 
 少女は名をナギといった。明るい陽射しの下で見るナギは、少し癖のある長い髪に小麦色の肌、きゃしゃで細長い手足をした可憐な少女であった。その瞳は心の奥底まで見透かされてしまいそうなほど透明で、きっと邪心というものがないから動物たちが何の警戒心もなく寄ってくるのである。
 言葉もなく見つめながら、きっとナギは、父と母親の愛情を一身に受けて育ったのだろうと思った。世の中の汚さなどなにも知らずに生きてきたのだろうと。
 だが、これからは……。
 世の中のことをなにも知らずにこの年まで生きてきたナギが、今後、今までとは掛け離れた世界で、きっと様々な苦難を乗り越えて行くことになるだろう。
 その過程で、透明で曇りのない瞳がいつか陰りを帯びる日が来ようと、自分には関係のないことである。
 龍一はこれ以上ナギを直視出来ず、さっと目を逸らした。

― 第二部 ― 

 一

 朝陽が顔を覗かせてまだ間もない頃、庭を掃除していたナギは顔を上げ、ふと辺りを見渡した。
 この村に来て、初めは島とはまるで違う世界に、毎日が驚くことばかりだった。島にはなかった、電気というものが夜中でも部屋を明るくし、料理に使う火などはいとも簡単におこすことが出来た。
 車、バス、電車、それらを利用し、祖父はいろいろなところに連れて行ってくれた。
 その中でも特に気に入ったのはガラス窓であった。向こうが透けているのにそこに存在している。恐る恐る手を触れると向こう側にまで手が届かない。それが不思議でたまらなくて、空いた時間はいつでもそれに触れていた。
 それになにより、世の中にこれほど多くの人がいるとは思わなかった。それが一番の驚きだった。
 だが、一歩外に出ると周りの人々の目は皆冷たいものだった。人々にとって母は、佐伯一朗という男を誘惑し、その一家を不幸に導いた人間であり、招かざる客であった。
 父が世間にそう言いふらしたのだと祖父が言った。それに反し、一朗が村の人々に、地主の言うことは間違いだと必死に説得してくれたというが、権力の前にはなす術がないようだった。
 当然、娘であるナギも受け入れられるわけがなく、近所の人々とはまともに挨拶も交わすことが出来なかった。
 一朗は心配し、会いに来てくれたのだが、母がきっぱりと、もうこれ以上世話になるわけにはいかないと告げた。
 それでも一朗は時折、心配げに様子を見に来てくれるが、状況は変わらなかった。
 母は、村に来てから時折体調を崩すことが多くなり、今も自室に臥せていた。
 庭を掃き終え、力なく縁側に座り込み、肩を落とすと、障子の向こうから祖父が顔を出した。
「ナギ、ご苦労じゃったな」
 上がるように言われ、履物を脱ぐ。
「なんじゃ、元気がないのう」
 祖父は心配げに声を掛けた。居間のちゃぶ台の前に腰を下ろすと祖母が冷たい麦茶を運んで来た。一口飲んでひと息つくと、祖父が穏やかな口調で問い掛けて来た。
「ナギ、この村の暮らしには、もう慣れたか?」
「うん、だいぶ慣れて来た。でもなかなか村の人とは仲良くなれんで」
 目を伏せると、祖父は大きく溜息をついた。
「そうじゃなあ。おまえの母親とナギを受け入れてもらえるよう、皆に話をしとるんじゃがなかなか聞き入れてもらえんでな。それでもおまえの母親を昔から知っとる人や、ほかにも理解を示してくれる人は何人かおるんじゃけど、村人の多くは聞き入れてくれんのが現状じゃ。ナギには辛い思いばかりさせてしまうが、もうしばらく、堪えてくれんか」
 労わるように声を掛けられると、張り詰めていた心が急にもろくなる。
「私、一体どうしたらええかわからん。近所の人に話し掛けても、誰も顔も合わせてくれんかったり、私がまるでいないみたいに無視されて」
 祖父は困った様子で、
「そうじゃなあ……わしもどうしてええか、ええ方法がなかなか浮かばんで」
 ともに項垂れていた。だが急になにか思い出したように「ああ、そうじゃ」顔を上げた。
「ナギ、あそこはどうじゃろう? 佐々木さんの家じゃ。あの人は変わり者と言われとるが、おまえの母親のことを昔からかわいがってくれた人じゃ。ついさっきも野菜を届けてくれた。あそこのおばあさんは一人暮らしじゃけえいろいろと大変らしい。じゃけえ畑の手伝いでもさせてもろうたらどうじゃ」
「佐々木さん?」
 ナギは、その人の家もなにも知らなかった。
「少し遠いんじゃが……」
 祖父は、丁寧に道を教えてくれた。
「私、今すぐ行って来る」
 ナギは逸る気持ちを抑えきれず、駆け出して行った。

「ここ……かなあ?」
 ナギは、集落からだいぶ離れたところに、一軒だけぽつんと取り残されたかのように建つ、古ぼけた木造の家屋を見つけた。
 教えてくれた場所に違いないと思うのだが、家の周りを草花が生い茂り、どうにも入口が見つからない。
 しばらく家の前でうろうろ歩き回っていると、
「あんた、だれじゃ?」
 白髪の老婆が草むらから現れ、訝しげにナギを見据えた。
「あ、私ナギというものです。祖父から、ここで畑のお手伝いをさせてもろうてはどうかと言われて来たんですが……」
 祖父の名を告げたが、断わられるかと思いつつおそるおそる返事を待っていると、老婆はにーっと微笑んだ。
「おやまあそうかい、畑を手伝いに来てくれたんかい。遠いのに、すまないねえ」
 老婆はくるっと背を向けた。
「まずはこっちに、来てくれんかな?」
「はい!」
 やっと村人と接する機会が出来たナギは、喜んで後に付いて行った。
「まずは、ここなんじゃけどなあ……」
 老婆が案内した先には、なんとかかろうじて玄関だとわかる扉がうっそうと茂った草むらの中に埋もれていた。
 僅かな範囲に草が踏みしめられた跡があり、そこから出入りしているのだとわかるが、とにかく家の周り中、草だらけであった。
「あの……これ」
「ああ、見ての通り、これじゃあ家に入りにくうてなあ、年寄りじゃけえ、草刈もおっくうで、まあ、一日やることと言ったら畑仕事くらいじゃけど、それも最近じゃ体がもたんでなあ。畑もお願いしたいんじゃが、その前に、この辺りを刈ってくれんかのう」
 ナギが畑? はどこかと思いながら草むらを見渡すと、一帯が緑一色に覆われた景色の中に、唯一トマト……らしき赤い物が垣間見える。
「手伝ってくれる人はおらんのですか?」
「家族はもう、だーれもおりゃせん。村のもんは皆、自分の家のことが忙しいけえなあ、無理には頼めん」
「そうですか」
「あんた、手伝うてくれるか?」
 ナギは、これは大変な作業だと思いながら、
「わかりました。頑張ってみます」
 とても一日では終わらないだろうと思いつつ答えた。
 予想していた通り、作業は思いのほか時間を要し、家の夕飯の手伝いをする時間まで頑張ったが半分も出来なかった。
 だがかろうじて玄関の周りが開けたことで老婆はとても喜び、お礼にと、採れたての野菜をわけてくれた。
 家のまわりは草だらけだが、畑のある場所だけは草がきれいに刈り取られ、そこに育成する野菜はすべてみずみずしくたわわに実っていた。
 老婆は畑を見回しながら、
「畑はねえ、農薬なんてまくもんじゃないよ。土の栄養がなくなっちまう。土の中にはたくさんの虫がいる。とくにミミズがね。土を食べてきれいにしてくれるんじゃ。害虫がどうこう言うけど、そんなものは、てんとう虫とか、クモなんかが全部餌にして食べてくれる。農薬なんてまいたら、虫が全部死んじまうじゃないか。栄養はね、土からとるんだよ。お天道さんの光を浴びて土から湯気が上がる。丁度いい感じに栄養を溜め込んだ土が、それをぜんぶ作物に分け与えるんじゃ。そうして育った作物は皆強い、病気なんか吹き飛ばしちまう。薬なんて、あれはただ作物をあまやかしとるだけじゃ。あんなもんに頼っておったら、自分でなんとかしようとせんようになって、かえって病気に弱くなる。そしてさらに薬をやれば、外見は良くなった気になっても、そのうち中身になにものうなって、自分で生きる努力もなにもせん、ただの抜け殻になっちまう。つまりただ形があるだけじゃ。栄養なんてなんもない。そんなところで次々に生まれた野菜がどうなると思う? 」
 首を傾げるナギに、返事を待つでもなく言葉を続けた。
「……まあ、この先は言わんでもわかるじゃろう。とにかくね、こうやって育てた野菜を食べてればね、あたしみたいに長生きできるんじゃ」
 老婆の言葉はナギの心に染みた。
 その畑で採れたトマトは、一口で力が漲ってくるような感じを覚えた。それはまるで島の植物たちを思い起こさせる味だった。

 日の暮れかけた道を、野菜がたくさん入った籠を両手で抱えながら歩いていると、小さい子どもたちが数人、走りながら後ろから追い抜いて行った。
 その姿をぼんやり見送っていると、急にどんっと背中を押された。ふらっとよろめいた瞬間、籠が傾き野菜が転がり落ちてしまった。
 慌てて腰を屈め、拾おうとすると、ぶつかった子どもは一度こちらを振り返ったが、そのまま走り去ってしまった。ひとつひとつ拾い集めていると、
「はい、これ」
 一人の少年がトマトをこちらに手渡してくれた。
「ありがとう」
 受け取ると、少年はなおも手伝ってくれた。歳の頃はわからないが、立ち上がるとナギの肩ぐらいまでの背の丈である。
 すべて拾い終え、あらためて礼を言うとナギは、
「これ、もろうたもんじゃけど。食べて」
 トマトを一つ差し出した。少年は黙って受け取ると、なにも言わず駆けて行ってしまった。
 ナギはほんの少し心が温まった気がして、家路を行く足取りも、心なしか軽くなった。

 早朝、家畜に餌を与えていたナギは、にわとりに混じって小鳥が餌をついばむ姿を微笑みながら見つめていた。いつしかナギの両肩や周囲にはたくさんの小鳥たちが集まって来た。一日のうちで最も心癒されるひと時である。指に小鳥を乗せ、時を忘れて戯れていると、
「ねえちゃん」
 振り向くと昨日出会った少年が立っていた。
「その鳥、なんでそんなに懐いとるんじゃ?」
「皆、友だちじゃけえ」
「友だち?」
「そうじゃ。島におる時から、ずっと友だちじゃったんよ」
 少年は理解できない様子で首を傾げていたが、
「おれが近づいたら、絶対逃げるじゃろう?」
 少年は自分が近づいた途端、小鳥が一斉に飛んで行ってしまうと思っているのか、こちらに来ようとせずその場から尋ねた。
「大丈夫じゃきっと」
「本当か?」
 ナギが小鳥を乗せた指を差し伸べると、少年は恐る恐る近づいて来た。
「ほら」肩に乗せてやると、少年は一瞬肩を竦めたが、少しして、小鳥が飛び立つ様子がないことがわかるとほっと肩の力を緩めた。するとしだいに、先ほどまで強張っていた少年の顔がしだいに緩んで行った。
「ねえちゃん、おれ、昨日もらったトマトの礼を言いに来たんじゃ」
 鳥と触れ合いながら、明らかに先ほどとは違い、口調まで明るくなっている。
「あら、お礼を言うのは私のほうじゃ。落ちた野菜を拾ってもろうて、とても助かったんよ」
 ナギは少年がわざわざそれを言いに来てくれたことが嬉しかった。
「おれ、昨日はろくに礼も言わんで帰ってしもうたけえ、悪かったと思うて」
「ええんよ。そんなこと気にせんでも、それよりトマト、美味しかったじゃろう?」
 少年は笑顔で頷いた。
「それなら、今日これからまた、そのトマトをくれた人の家に行くつもりじゃけえ、一緒に行かん?」
 少年は少し躊躇っていたが、
「おれが行ってもええんか?」
 と不安げに言った。
「やることが一杯あるけえ、人の手が欲しいと思っとったんよ」
 少年は、「それじゃあ、ちょっとだけ」と遠慮がちに答えた。
 
 その日、ナギが少年をともない佐々木老婆の家を訪れると、一人でやるより、かなり作業がはかどった。老婆は大変喜び、少年にもと、礼に野菜を持たせた。
 翌日少年は村の子どもたちを引き連れて来た。そして皆で庭の雑草をすべて刈り取った。見違えるようにすっきりとした庭を見て佐々木老婆は満面の笑みで、
「おやまあ、みんなありがとうよ」
 礼を述べ、子どもたちにもまた自慢の野菜を配った。

 後に、それを食した母親たちが野菜の味に驚き、老婆のもとに集うようになった。
 そうしてその栽培方法を学び、自家の畑に取り入れるようになった。
 次第に、そこに通うナギも、少しずつ、村の人々の中に溶け込むことが出来るようになって行った――。

 日の暮れかけた岩場で腰を下ろし、海風を頬に受けながら、ナギの口から漏れるのはまた、溜息ばかりであった。
 ようやく村の人とは打ち解けることが出来たが、時折見かける龍一の横顔が以前にも増して暗く沈み、声を掛けようにもなんと言っていいかわからないのだ。
 なにか自分に出来ることはないのだろうか、考えることはそればかりであったが、答えはなかなか見つからなかった。
「ナギはよく、この場所へ来とるんじゃな」
 ふいに男に声を掛けられ、ナギは驚いて振り向いた。人の気配にも気づかないほど、深く考え込んでしまっていた。
「隆生さん?」
 龍一と同い年の従兄弟であった。
「なにか、考え事でもしとったんか?」
 彼はゆっくり歩み寄って来ると、ナギの横に腰を下ろした。
 彼とは最近、この浜に来るようになってから知り合った。人懐こい笑顔が印象的で、誰にも心を開かない龍一が唯一心を許せる存在であった。
 ナギは、毎日龍一と顔を合わせている彼なら、きっと相談に乗ってくれるかもしれないと思った。
「龍一さんのこと、どうしたらええかわからんの。私には、なにもしてあげることが出来んで……」
 隆生は少し考えている様子だったが、やがて口を開いた。
「ナギの気持ちはようわかるが、こればかりは誰にもどうすることもできん。ナギがいくら悩んでも解決にはならん。それよりもナギが、そのことを気に病んどると、龍一はかえって心配するじゃろう。気持ちを切り替えて、自分の幸せだけを考えればええんじゃ。龍一もきっとそれを望んどるはずじゃけえ」
「でも……」
 ナギには、その言葉を受け入れられなかった。
 出口はどこまでも先が見えない闇に覆われ、ただ暗闇の中を必死に手を伸ばして探っているようである。
 いつかわずかな隙間に光が差し込む日がくるのだろうか。
 今のナギは、ただそれを願うしかなかった……。

 村で夏祭りが行われることになり、ナギは隆生から、気分転換にどうかと誘われた。だがとても出掛ける気分になれないと断った。だがそこに龍一も現れると聞くと、それならばと誘いを受けた。彼が自分に話したいことがあると言うのだ。
 藍地に色とりどりの朝顔が描かれた浴衣は、祖母がわざわざ反物から仕立ててくれたものだった。
 人の優しさに触れるたび、ナギは心に染みて胸が温かくなる。
 神社に向かうあぜ道を、隆生の少し後ろから歩きながら暗い足元に目を向けると、初めて履く下駄がカランコロンと音を立てて夜道に鳴り響く。小気味良い下駄の音に、ふと島での生活が懐かしく思い起こされた。
 島では一朗が、ナギのためにいつも草履を編んでくれた。ナギはすぐに草履をすりへらしてしまったが、一朗はその都度、ナギの足に合わせて一生懸命編んでくれた。
 いつも自分のために文句一つ言わず草履を編んでくれるその姿を見て、ナギはもう、すぐにすり減らすような歩きかたはしまいと心に決めた。その日から、歩く時には草履を気にしながら歩くようになった。
 ナギは、自分が身に付けるものや口にするもの、その他すべてのものから絶えず恩恵を受けているのだと幼い頃から感じていた。どんなものでも大切に扱わなければならないのだと思い、日々感謝の心を失ってはいけないと思っていた。
 今、一朗の作った草履をなつかしく思い、血のつながらない自分のためにいろいろなことをしてくれたことを思い出し胸が熱くなった。だがそれは、本来自分が受けるべき愛情ではなかったのだということも決して忘れてはならないと心に留めながら。
 提灯の明かりの下、村人が輪になって踊っていた。所々に出店が並ぶ参道の端で、龍一が杉の木にもたれて立っていた。
 隆生は駆け寄って行き、手の甲で軽く額の汗を拭いながらほっとしたように声を掛けた。
「龍一、待たせて悪かったな」
 日が暮れてから時折風も吹きはじめ、真昼よりは多少過ごしやすいが、少し動くと汗が滲んでくるほど、いまだ夏の盛りである。
 龍一は顔を上げるとナギに向かい、暗く沈んだ表情で言った。
「ナギ、おれが今日ここへ来たんは、おまえがおれに遠慮して、祭りにも来られんと聞いたけえじゃ」
「龍一さん……」
 龍一は一呼吸おいて、再び口を開いた。
「もう、おれのことは一切構わんで欲しい、おれに遠慮されても、かえって迷惑なんじゃ」
 彼が自分に言いたいことがあるとは、こういうことだったのだ。あまりにも冷たく突き放した言いかたであった。隆生が見かねたように口を挟んだ。
「そんな風に言わんでくれ龍一、おれもナギちゃんも、おまえのことが心配なんじゃ」
「それがかえって迷惑なんじゃ」
 龍一は語気を強めた。隆生はなにも言い返せず押し黙ってしまった。
 龍一は、再び顔の向きを変え、立ち竦むナギに向かって言った。
「ナギ、過去のことは、おまえにはなんの関わりもない。おれとおまえはもともとお互い存在さえ知らんかった仲じゃ。じゃけえ、もとからおれたちは会わんかったんじゃと思うて、もうおれのことはもう気にせんで欲しい。そして今後一切、おれのことは忘れて欲しい」
「でも……」
「おれは、自分のために誰かが苦しんだり、犠牲になったりすることを望んではおらん。そんな思いはおれだけで十分じゃ」
 龍一は忌々しげに言葉を吐いた。
「龍一さん」
 目を逸らし、言いたいことはそれだけだとばかりに背を向けた。背後からナギは訴え掛けた。
「忘れることなんて出来ん。会わんかったことになんて思えるわけがない。龍一さんのせいで苦しむ人なんて誰一人おらんの。みんなあなたを心配しとる、じゃけえ、そんな風に言わんといて」
 龍一は、つと足を止めた。
「おれのためを思うてくれるんじゃったら、おれの望むように、このまま放っておいてくれんか」
「龍一さん」
 彼は二度と振り返らなかった。

 夕日の傾きかけた海辺で、濡れた髪からしたたり落ちる雫をそのままに、ナギはいつものように岩場に腰掛け、揺れる波を見つめていた。
 龍一はあれから益々表情が固くなり、隆生でさえもはや遠慮がちになるほど近寄りがたくなってしまった。
 龍一の凍った心を溶かず術はないのか、考えてもやはり答えは出なかった。
 やがて日が沈み、大きく溜息をつきながら立ち上がると、気づかぬうちに後ろに人が立っていた。隆生かと思いきやそこにいたのは、ナギの父親であった。
「あなたは……」
 父は、母がナギと実家に身を寄せるようになってまもなく、一度だけ会いに来たのだ。その時の、人を射竦めるような眼光は、村に来て初めて人間に対する恐れを抱かせるものだった。
「ここにおったんか」
 威圧するように鋭い眼差しを向けた。
「な、なんでしょうか」
 多少警戒しつつ尋ねると、父は急に声色を変えた。
「そんなに、怖がらんでええ、おれはおまえを引き取りに来ただけじゃ」
 少しだけ表情を緩めた。
「え? どういうことですか?」
 父にはもう家族がいる。そこに自分を引き取るとは……。
理解出来ずにいると、
「おれはな、おまえの母親を許してやってもええと思うとるんじゃ。昔のことを水に流してやってもええと思ってな。ほんで、おまえの母親が戻って来る気になれば、今おる家族を追い出してもええと思うとるんじゃ」
「え?」
 驚くナギに構わず、父は言葉を続けた。
「それを、さっきおまえの母親に伝えに行ったんじゃ。そうしたら、戻る気はないと言いよった。おれが折角出向いてやったんに。おれはな、今まで欲しいものはなんでも手に入れてきた。村一番の器量よしと言われたおまえの母親もそうじゃ。それなんに、おまえの爺さんときたら、こぶつきの出戻りじゃが誰かもろうてくれんかと村のもんにふれ回っとったそうじゃ。それを聞いておれは黙っておられんでな。誰かほかの奴んところにいかせるくらいなら、おれがまたあいつをもろうてやろうと思うたんじゃ。それに、おれには娘のおまえに対して、親としての責任がある。じゃけえ、まずはおまえだけでもおれの家に戻ってもらおうと思うてな。そんでおまえがまず、母親を説得するんじゃ」
 口調は優しいが、目付きは相変わらず鋭かった。
「でも……御家族が」
 父は平然とした顔で答えた。
「今の家族など、体裁を取り繕うだけの存在じゃ。未練なんぞないわ」
「そん……な」
 ナギは絶句した。家族を追い出すなどとんでもないことだ。ナギははっきり告げた。
「私は、あなたのところには行きません」
「まあ、なにも今すぐにとは言っとらん。取り合えずおまえには、母親を説得してもらおうと思うたんじゃ。おまえも、今のような貧乏暮らしより、おれの家で暮らしたほうがええに決まっとる。一度来てみればそれがようわかるはずじゃ。一度試しにおれの家に来てみい。おまえもおれの娘なら、すぐにおれが言っとることがわかるじゃろう。それからおまえが、母親を呼び寄せればええんじゃ」
 ナギに反論する間も与えず父は、
「今日はそれを伝えに来ただけじゃ。よう考えておけ」
 終始高圧的な態度で、背を向け立ち去って行った。

 家に戻り、ナギが父の言葉を伝えると、母はやはりとんでもないとばかりに大きく首を横に振った。
 母は父に見初められて嫁いだそうだが、当時女は自由に結婚相手を選ぶことは出来ず、親の決めた相手と結ばれることが当たり前であったらしい。
 父は気に入らないことがあると、毎晩のように酔って暴れたのだそうだ。
 母は結婚前、既に自分を身篭っていたという。
 長い間、母が島を出る決心がつかなかったのは、娘である自分を生涯安住の地で、誰の手によっても穢されることなく自分の手で守り通したかったのだという。だがそれが最善の道ではないことも承知しており、そのことで母は随分悩んだのだと言った。
 それになにより、なにも言わずにいなくなったことで長年心配しているであろう、村の両親のことが気がかりでならなかったと。
 だが、父が再婚し子どもをもうけたことを知り、ようやく島をでる決心をしたそうだが、その結果まさかこんなことになるとは思わなかったと嘆いた。

 ナギは、母が嫌がるとわかっていて父に従う意志はなく、翌日自分から父にその申し出を丁重に断りに行った。
 父は苦々しげに顔を歪めていたが、その夜になり、急に大声で「戸を開けろ」と怒鳴り込んで来た。
 鬼のように顔を真っ赤にしており、吐いた息からぷんと酒の匂いが漂ってきた。かなり酔いが回った様子であった。
 戸を開けるなり、父はよろめきながら居間に上がりこみ、ナギの手を掴むや、強引に連れ出そうとした。
 祖父や、騒ぎを聞いて駆けつけた近所の村人に助けてもらわなければ、どうなっていたかわからなかった。

 その日から、毎晩のように父は酒に酔って現れるようになった。用心して家の戸をすべて締め切り、決して中に入れることはなかったが、門の外で大きな声で喚くのだ。それが積み重なるにつれ、母は昼間も外に出られなくなり、日に日に衰弱して行った。
 ナギはとても母を見ていられず、何度も父のもとへ行くといったが、母はそれだけは絶対に駄目だと譲らなかった。

 ある夜、人が皆寝静まった頃、ナギは突然母に揺り起こされた。眠い目をこすりながら起き上がると母は小声で、
「ナギ、今すぐここを出るんよ」
 耳元で囁いた。
「え?」
 驚いて声をあげるナギに、
「お願い、大きな声を出さんで。なにも言わんでお母さんに付いて来て」
 有無を言わせず手を掴み、強引に立ち上がらせた。
 勢いに逆らえず母に従い、連れて行かれるままにやがて浜に出ると、ナギはやっと口を開いた。
「お母さん、いったいどこへ行くつもりなん?」
 だが母は足を止める気配はない。
「とにかくここを離れるんよ、出来るだけ遠くに。あの人が追って来れんところまで」
 ひたすら先へ進む。
 ナギは母の剣幕に押され付き従うしかなかったが、歩きながら、本当にこれでいいのだろうかと思案していた。このまま逃げることしか出来ないのだろうかと。
逃げたところで、いつか見つかるかもしれない不安に怯えて暮らすことになるのではないか。それに母と二人、見知らぬ土地でどうやって暮らして行こうというのか。
 島では一朗がいた。それだけで十分安心して暮らせた。母がどれほど彼を想い慕っているか、ナギは痛いほど感じていた。
 だがこのままでは、自分のせいで母は一朗のそばからも遠く離れることになってしまう。
「私、行かん」
 ナギは、足を止めた。
「なにを言うとるん。もう、こうするしかないんよ」
 母は聞き入れずナギの手を引っ張り先に進もうとする。ナギはそれでも決して動かず、
「私、お父さんのところに行く」
 はっきりそう口にした。だが母は間髪入れず、
「いかんっ。それだけは絶対にいかん」
 声を荒げた。だがナギは一歩も引く意志はなかった。
「逃げても、なんの解決にもならんと思うんよ。それに、あの人は私の父親じゃろう。真剣に頼めばきっと聞いてくれるはずじゃ。話してわからん人なんておらんと思うんよ。私、お父さんの言う通りあの家に行く。そしてどうするんがええか、答えを探したい」
「いかん、絶対にいかん」
 母は頑として聞き入れようとしない。だがナギはもう心を決めた。
「心配せんで、必ずお母さんのところに戻って来るけえ」
 母の手を振り切り、来た道を戻って行った。
 

 海を臨む高台に、古くからまつられている神社がある。その階段を降りた通りの角に、ナギの父親の屋敷があった。ざっと見ただけで周りの家の三軒分ほどの広さがある。
 玄関の前でしばし立ち尽くしたナギは、大きく息を吐くと覚悟を決め、呼び鈴を押した。
 ほどなくして、父の後妻が訝しげに現れた。
「なにか、御用ですか?」
 無表情に瞬きもせずに問う。
「あ、あの私、父に、会いに来ました」
 後妻はナギを上から下まで見下ろした後、
「お待ち下さい」
 と、奥へと消えて行った。
 しばらくして後妻が顔を出し「どうぞ、お入り下さい」と中へ招いた。
 庭に面した長い廊下を渡ると、後妻は突き当たりの部屋の前で立ち止まった。
「お客様をお連れしました」
 すっと障子戸を開ける。
 和室の奥では床の間を背に、父が胡坐をかいていた。
「よう来たな、ナギ」
 父は煙草を吸いながら、そこへ座れと指の先で指し示した。
 ナギは目の前に座し、深いお辞儀をした後、ゆっくり顔を上げた。
「お願いがあって来ました」
 父を正面から見つめた。
「なんじゃ」
 煙を吐き出し、斜めからこちらを見据える。
「もうあの家に、怒鳴り込んで来たりせんで欲しいんです」
「それはおまえしだいじゃと言うとろうが」
 父は即座に言葉を返した。ほかに道はないのだと言わんばかりである。
「では、私がこの家に来たら、言うことを聞いてくれるんですか?」
「じゃけえ、最初からそう言うとろうが」
 父は面倒くさそうに言った。
 ナギは父のことをなにも知らない。だからまず父を知りたいと思った。知った上で解決の方法が見つからないなら、自分に出来ることはもう一つしかない。
 今はただ、父を知ることでなにかが変わることを信じたかった。

 その日の夕食は、今までに見たこともない豪華な料理が並んでいた。
「ナギ、この家におったらな、こんなもん毎日食べて暮らせるぞ」
 父は腹をさすりながら上機嫌であった。
 父の両親や、傍らに座る後妻は誰とも目を合わせなかった。五歳の義妹と、その一つ下の義弟は母親と同じようにただ、黙々と食べ物を口に運んでいた。
 会話は一切なく、ナギは子どもたちに積極的に話し掛けるが、聞こえていないかのように俯いたままだった。

 夕食後、与えられた部屋に戻ると、戸を閉めるなりナギは膝から崩れ落ちた。床には既に布団が敷かれている。
 ナギは持参して来た荷物を開け、その中からある物を取り出した。龍の首飾りである。それを躊躇いながらもそっと自分の首に下げ、強く握り締めた。

 翌朝、鳥の鳴き声で目を覚ましたナギは、早速家の手伝いをしようと起き上がり布団をたたんだ。
 台所に向かうと、野菜を刻む音が聞こえ、魚介の出汁の香りが漂って来た。父の後妻がせわしく朝食の用意をしているところへ声を掛けた。
「私も手伝います」
「あなたは、そんなことせんでええんです。仕度ができたら呼びに行きますけえ、部屋で待っとってください」
 こちらへ顔を合わせる余裕もない様子で、湯気が噴出す釜戸のほうへ向かった。魚の焼け具合が気になったナギが菜箸を手に取り、確認しようとすると、
「やめて下さい。私が主人に叱られるんです」
 後妻は慌てて菜箸を取り上げた。
「でも……」
 ナギがそれでも手伝いたくてうずうずしていると、
「早う、部屋へ戻ってください」
 後妻はきっと睨み付けて来た。ナギがそれでも立ち去る気になれず留まっていると後妻は、
「わからんのですか。なにもせんでください。私が怒られるけえ、言うとるんです」
 激しい剣幕で怒鳴られた。ナギはなにも言い返せず後ろ髪引かれる思いで、すごすごと部屋へ下がって行った。
 手持ち無沙汰で部屋に戻ると、ほどなくして後妻が呼びに来た。
 朝食もやはり、父以外は皆静かだった。父も夕べのように酒を飲んで上機嫌な時とは違い、朝はあまりしゃべらなかった。
 食事時はいつも、皆と語らうことが楽しみであったナギにとって重苦しい雰囲気であった。
 ナギは父親に、この家で世話になる以上、家の手伝いはさせて欲しいと願った。父はそんなことは必要ないと言うが、どうしてもと頼むと、勝手にしろと言った。
 すると父は、そんなことより身の回りの物を揃えようと言い、ナギは買い物に誘われた。だが、必要なものは持参して来たのでいらないと言うと、
「ええけえ、黙って付いてくればええんじゃ」
 凄んだ眼で睨み付けられた。だがナギは怯むことなく言い返した。
「私のためじゃったら、いらんと言うとるんです」
「おまえ、親に歯向かうつもりか」
 気が付くと周りの者は皆、黙ってこちらの様子をうかがっている。
「歯向かっとるわけじゃありません。おことわりしとるだけです」
 きっぱり言い切ると父は、
「おまえのために言うとるのに。なんで言うことを聞かんのじゃ」
 バンっとテーブルを叩く。
「聞けんものは、なにを言われても聞けんのです」
 怯むことなく訴えると、父は再びなにか言いかけた。が、次の瞬間思いがけず肩の力を抜き、呆れた様子で、
「まあええ、おまえにはここを気に入ってもらわんといかんからな」
 そう言うとおもむろに立ち上がった。
 去り際に、「その言いかた、まるでおまえの母親にそっくりじゃ」呟いて自室に戻って行った。
 だがことわったにも関わらず、父はその日、大量に服や靴、その他身の回りの物を買って来た。ナギはいらないと言ったが、強引に部屋の中に運び込まれてしまった。だがナギは、その一切に手を触れる気はなかった。

 この家で暮らすようになって数日が経ち、しだいにナギは、この家族について不思議に思うようになった。父の妻子は皆おとなしく、ナギのように逆らうことなど決してない。父も子どもに対しては普通に親子として接し、毎日が穏やかに過ぎ、父が家族を追い出す必要などどこにもないのではと思われた。
 ナギは父の部屋を訪れ、その疑問を投げ掛けた。
「おまえは、おれが幸せに見えるか?」
「はい、十分幸せに見えます。なんの問題もなく毎日が平穏に感じます。それなのに、なぜ、大切な家族を追い出してまで、この家に来ることを嫌がる母を、わざわざ呼び寄せようとするんか、私にはわからんのですが」
 父は少し間を置いた。
「おれは、今まで欲しいものはなんでも手に入れて来たと言うたじゃろう。おまえの母親をもろうた時、誰もがおれを羨んだんじゃ。なんといっても村一番じゃけえな。じゃけえほかの誰かに盗られるんは、絶対に嫌なんじゃ」
 拳を強く握り締めた。
「でも……」
 ナギにはその理由が理解出来なかった。器量がどうこう言うなら父の後妻も決して周囲に引けを取らない。本当にそれだけが理由なのだろうか。どうもそれだけではない気がしてナギが納得出来ずにいると、父は少しだけ口調が穏やかになった。
「まあ、また逃げられても面倒じゃけえ、今度はおれも少しはあいつの言うことを聞いてやってもええと思うとる。あいつだけじゃったんじゃ。おれに唯一逆ろうたんは」
 ふっと煙を吐き出した。
 そのひと言に、ナギは少しだけ、父の心を垣間見た気がした。
 父の周りには誰も逆らうものはいない。誰もが父を恐れ、本気で向かおうとしないのだ。
 そう思うと、父には心から打ち解けられる相手がいないように思えた。祖父母でさえ父には遠慮がちである。
 誰も寄り付かない父は常に孤独なのではないか。父自身がそういう現状を作り出してしまったこともあるが、逆らわないのはそのほうが楽だからだ。ナギも出来るなら波風立てず穏やかにやり過ごしたい。
 だが、受け入れられないものは頑として無理なのだ。父を説得したいのではない。ただわかって欲しいだけだ。
 母もきっとそうだろうと思った。逆らっているわけではなく、自の主張を訴えているだけだと。
 父とわかり合うことは難しいのかもしれない。
 だがナギは、そのことを父にわかってもらえなければ、現状は変わらないのだと思った。
 

 父は相変わらず、毎日ナギになんらかの贈り物を用意した。いらないと言っても強引に部屋に運ばせるのだった。
 そんなある夜、ナギの持参してきた荷物がすべてなくなっていた。 
 驚いて父に尋ねると、
「ああ、あれは全部捨ててやった」
 ことも無げに言った。
 言葉も出ず、唖然とするナギに、父は服の内ポケットからあるものを取り出した。
「ネックレスじゃ。おまえの持って来た物はもうそれだけじゃな。そんなもんみすぼらしゅうてかなわん。代わりにこれを着けろ」
「いりません」
 ナギは隠すように、胸の首飾りを握り締めた。
 不安で押しつぶされそうな時、この首飾りを身に付けることが唯一の慰めだったのだ。
 父は、ナギがあまりにも、その好意を受け取ろうとしないことに、とうとう苛立ちを募らせたのか、
「ええけえ、おれの言う通りにするんじゃ」
 この時ばかりは引き下がろうとしなかった。それでもナギが拒否しつづけると、父は声を荒げた。
「黙っておれの言うことを聞くんじゃ」
 ナギの首もとに手を伸ばし、首飾りの鎖を握り締め、ぐいとそのまま力任せに引きちぎった。
「あっ」
 驚くナギを尻目に、父はそのまま庭に面した渡り廊下に出ると、池に向かってそれを放り投げた。
「なんてことをっ」
 あわてて庭に下り、裸足のまま池に飛び込むナギに、父は威圧的に言い放った。
「おまえが言うことを聞かんけえじゃ。あんなもんじゃのうて、これからはこの家にふさわしい物を身に付けるんじゃ。そうすれば、おまえにも少しずつその良さがわかるはずじゃ」
 暗闇の中、ナギは池の底を探り、必死で首飾りを探した。だが、なかなか見つからなかった。
 散々探した挙句、もう空が明るくなってからでなければ難しいだろうと一旦諦めた。夜が明けたらすぐにでも探そうと思い、しかたなく部屋に戻ることにした。だが、玄関を開けようとすると、なぜか鍵が掛かっていた。不思議に思い、窓に向かうがどこも開かない。入り口はすべて確かめたが、どこからも入ることが出来なかった。 
 戸を叩き、大声で叫んでみるが反応はない。父がそうさせたのかと思ったその時、障子戸がすっと開き、後妻が顔を出した。
「あ、開けてください」
 頼むと、無表情のままさっと閉められた。
 ナギは愕然とし、これが答えなのだと思った。父の家族がナギの存在を快く思っていないことはよくわかっていたが、やはり本心ではここにいて欲しくはないのだろうと。
 ナギはその夜、明け方まで納屋で過ごさなければならなかった。

十一
 
 時折生暖かい風と冷たい風が入り混じる。ふと、どこかから一片の花びらが風に運ばれ、足元へと舞い落ちた。
 ナギはそれをそっと拾い上げた。家の裏手で汗を流しながら薪を割っている龍一のもとに、この花びらのように自然に近づくことが出来たら、と思いつつ家の影からそっと眺めるしかなかった。
 夜の冷え込みは思った以上にきつく、昨夜一晩中外にいたせいか身体が少し熱かった。
 明け方ようやく首飾りを探し出し、中に入れてもらえたが、濡れた衣服を見て父は、「なんじゃ、まだ探しとったのか」と呆れ顔であった。
 ナギはもうあの家にはいられないと思った。かといって母のもとへ戻ることも出来ない。
 戻ればまた、父が毎晩騒ぎ立てるだろうし、ほかに頼れる当てはない。そうなれば結論は一つしかなかった。自分さえいなければ父は母の前に現れることはない。ならば行くところはひとつしかない。幾度も帰りたいと願った、あの島である。
 だがその前にひと目龍一に会いたいと思った。
 声を掛けようと思ったが、やはり出来ないと諦めて帰りかけた時、ふいにさあっと、舞い上げるような強い風が吹いた。  
 そのせいで、龍一が首に掛けていた手拭いが地面に落ちてしまった。拾い上げ、少し汚れてしまった部分を軽く払っている姿を見て、ナギは懐から自分の手拭いを取り出し、そっと近づいて行った。
「龍一さんこれ、代わりに使うて」
 振り向いた龍一は、
「いや、かまわんでくれ、どうせ汚れるもんじゃ」
 再び肩にかけ、また作業に戻ってしまった。
 ナギはさりげなく、手拭いをそばの木の枝に掛けた。
「さよう…なら」
 震える声でつぶやく。龍一はそのまま作業を続けている。その凛々しい横顔を見つめながら、ナギは絶対にここで泣くわけにはいかないと必死に堪えた。だが、自分の意志と裏腹に込み上げるものは止められず、それを見せまいと顔を背けた。
 別れる間際になって、初めて自分の気持ちに気がついた。
 ナギは幼い頃から一朗を父のように慕っていた。その面影を持つ龍一に初めて出会った時、胸が騒ぐのを感じた。
 また、その悲しみと怒りに満ちた瞳の奥にさえ、永年ともに暮らしてきた一朗と同じ誠実さと深い思いやりが溢れていた。それはどんな境遇にあっても本質は揺らぐことになかった証であり、その厚い壁を取り除けば本当の素顔が見られるのではないかと思った。
 それに彼は、ナギを突き放す言いかたをして、負い目から解放してくれようとした。
 だが願っても叶わず、彼の心を開けぬままに突然別れはやって来てしまった。そのことは一番の心残りである。と同時に、二度とその姿を見られないのだと思うと、悲しみが込み上げ、自然に涙が溢れてくるのだ。
 親切で優しく、笑顔で接してくれる隆生よりも、なぜこれほど龍一に気持ちが傾くのか自分でもわからなかった。だがその気持ちは永遠に胸の中に留めておくことになるのだろう。
 彼に聞こえないよう風の音に紛らせ再び「さようなら」とつぶやくと、ナギは下を向いたまま走り去って行った。
 首飾りを返さなければ、そう思いつつ、また放り投げられてしまうかと思うとやはり出来なかった。いや本心ではこれだけが今、唯一の心の支えであり手放すことが出来なかった。
 
― 第三部 ―

 夕方から降り出した雨は、夜になり、しだいに激しさを増していた。祖父の用事で出掛けていた龍一は、家に戻るや軒下で傘のしずくを払った。
 ふと人の気配を感じ顔を上げると、暗闇の中から誰かがこちらに近づいて来るのがわかった。やがて玄関の明かりの下、照らし出された人物はナギの父親、宮前であった。彼は渋い顔をしながら尋ねて来た。
「ナギが、ここに来とらんか」
「ナギが?」
 龍一は玄関を開けて祖母を呼び、彼女が来ているかと訊いた。だが来ていないと言う。
「来とらんようじゃが」
「そうか」
「実はな、夜飯の時間になってもまだ帰って来んのじゃ。母親のところにもおらんで、思いつく場所はすべて手当たり次第に捜し尽くしたんじゃが、もう残る場所はここしかのうてな」
 龍一はふと、日暮れ前に現れたナギを思い出した。思い返せば様子がおかしかった。
「なにがあったんじゃ」
「いや、なんでもないんじゃ。おらんのならしかたない。ほかを探す」 
 龍一はなにか嫌な予感がした。宮前本人が探し歩くなどよっぽどのことがあったに違いない。
 龍一はすぐさま彼の横を通り過ぎ、降りしきる雨の中、飛び出して行った。
 その後ナギを見かけたという情報もあり、一朗や漁師仲間なども加わり、大規模な捜索がはじまった。
 だが、皆総出で探し回ったがどこを探しても見つからなかった。
 龍一はもしやと思いながら船着場へ向かった。
 舟が一艘なくなっていた――。
 すぐさま船に乗り込みいち早く出立したが、風雨によって波は荒れ、視界は最悪の状態であった。
 龍一はもしかしたら、ナギは島に向かったのではないかと思った。
 ナギが父親のもとで暮らし始めたということは知っていた。だがそれが彼女の意思だと聞き、それならしかたがないと思っていた。その先のことまで思い図る気持ちの余裕はなかったのだ。
 だが日暮れ前に現れたナギはどことなく思い煩った様子で、なにか人に言えない苦しみを内に秘めた様子であった。
 ナギは自分に別れを告げに来たのだ。そして彼女が行こうとする先は……。
 

 ようやく島に辿り着くと、舟が一艘打ち上げられていた。
 龍一はすぐさま船を飛び降り、即座に走り寄って行った。すると舟のすぐそばに、ナギが倒れ込んでいた。
 龍一はすぐさまナギを抱え上げ、一刻も早く医者のもとへ連れて行こうと船へ向かった。 
 その時、
「待つんじゃ、龍一」
 父の一朗が立っていた。
「父さん」
「これ以上船を出すんは危険じゃ。村のもんにも、おれと龍一だけで行くと伝えて来た。ここはおれを信じて、島にあるおれの家にナギを運んでくれんか?」
「じゃが……」
 龍一が躊躇っていると、
「おれと由紀乃とナギが、十六年間この島から一歩も出ずにやってこれたんは、なぜかわかるか?」
「…………」
「頼む。とにかくここはおれの言うことを黙って聞いてくれ。わけは後で話す」
 龍一は父の真剣さに押され、言う通りナギを島の奥へと運ぶことにした。
 家の中に運び込み、取り敢えず早急に濡れた衣服を着替えさせると、ナギは荒い息を繰り返し、呼び掛けても応える気力さえもう残っていないようだった。
 あの時、ナギの顔は少し赤く心なしか息遣いも多少荒かったように感じたが、もしそのような状態でしかも雨の中、雨から身を守るための術をなにも持たず、ずっとあの浜で雨に打たれていたのだとしたら相当危険な状態である。
 やはりすぐにでも医者に連れて行くべきだと思うが頼みの父は「すぐに戻る」と言い残し、夜の暗闇の中に消えてしまった。
 なにもしてやることも出来ずただ、ナギの流れでる汗を拭き続けていると、しばらく経って、
「すまん、遅くなった」
 父がようやく戻ってきた。
 その手には木製の水入れがあり、蓋を開け、
「これを、ナギに飲ませるんじゃ」
 と差し出した。
「これを?」
「ああ、おれを信じて、飲ませてやってくれ」
 龍一はとにかくここは父の言うことを信じ、ナギを少し抱き起こした状態で、それを口に含ませた。だが口の端から零れ落ちるばかりで喉の動きが僅かにも認められない。
 龍一は今度は自分がそれを口に含み、口移しにナギに与えた。
 すると今度は零れ落ちることなく受け入れたようだった。
「これはなんじゃ?」
 少し口に苦味を覚えつつ父に尋ねると、
「薬草を煎じたもんじゃ。ここに来てどんなに酷く体調を崩しても、これで大概はようなったんじゃ」
「薬草……」
「ああそれにな。なんといってもここの水じゃ。ここの水はな、特別なんじゃ。多少の切り傷なら数日水で傷口を洗うだけでいつの間にかなにもなかったかのようにようなってしまう。ここで三人で暮らしてこられたんも、ここの水のお蔭なんじゃ」
「水の……」
 そういえば、と龍一はこの島にきてナギに島の奥に案内された時、促されて泉の水を口に含むと、なんとも言えず精気が漲るような心地がしたことを思い出した。
 ナギは、しばらく苦し気に顔を歪めていたが、そのうちに気を失うかのように眠りについてしまった。

 小鳥のさえずりに目を覚ました龍一は、傍らに眠るナギの顔色をうかがった。
 開けた窓から差し込む日差しは、ナギの体を少しずつ暖めていくようだった。
 ナギはもう高い熱にうなされている様子はなく、だいぶ呼吸も整い落ち着いて眠っていた。
 龍一は……ただただ驚きを隠せなかった。
 たった一夜でここまで回復するものかと。
 始めは父の言うことが信じられず、ナギの容態が悪化するようならすぐにでも村へ連れて行こうと思ったが、あれからナギは危険な状態に陥ることもなく、かえって容態は徐々に安定していったのだった。
「ナギ、大丈夫か?」
 呼び掛けると、わずかに目を開けた。
「龍一……さん」 
 龍一は安堵し、水を汲みに行っている父に、ナギが目を覚ましたことを伝えに行こうとすると、入口の扉がそっと開き、ナギの母親である由紀乃が顔を出した。
「ナギっ」
 由紀乃は娘の姿を確認するや、すぐさま駆け寄ってきた。
 叔父が連れてきたようで、叔父は家の外からこちらに目くばせした。
 由紀乃はナギの顔や体に手を触れ、ほっとした様子で、
「良かった、無事で……本当に、良かった」
 涙交じりに呟いた。
「お……母さん。ごめんなさい」
 ナギが謝ると、
「謝らんといかんのはお母さんのほうじゃ。ごめんねナギ、本当にごめんね」
 ナギの手を由紀乃は強く握りしめた。
「お母さん、私」
 ナギがなにか言い掛けた時、バンっと荒々しく戸が開き、ナギの実父である宮前が現れた。
 宮前はどかどかと家の中へ押し入ると、
「帰るぞ、ナギ」
 遮る由紀乃を振り払い、ナギの腕を掴んだ。
 すかさず龍一が、
「あんた、なにしとるんじゃっ」
 一喝すると、
「おれが娘になにをしようと、おまえに関係ないじゃろう」
 宮前はナギを強引に立たせようとした。
「やめるんじゃ。ナギはまだ、安静が必要な状態なんじゃ」
 そう言うと由紀乃はナギに覆いかぶさり、
「もう、止めて下さい」
 懇願した。
 ナギはその様子を見て、辛そうにその身を起こした。
「お父さん、やめてください。私はもう、あの家には戻りません」
 だが宮前は聞き入れようとしない。
「どこへ逃げても無駄じゃ。おまえの帰る場所は、ひとつしかねえんじゃ」
「それでも出て行きます。何度でも」
 そばにいた由紀乃も訴えた。
「お願いです。もう、私たちのことは放っておいてください。この子が、自分からあなたのところに行くと言うた時、本当は強引にでも引き止めるべきじゃったと今は後悔しとります。あなたのことを知れば、この子もきっと私のところに戻って来ると思うとりました。そうなればまた、どんなことをしても、あなたから遠く離れた場所に逃げるつもりでした。この子をこんな目に合わせたんは私のせいです。あなたを僅かでも父親として信用した私が間違うとりました。もう、娘はあなたとは暮らせんと言うとるんです。じゃけえもう本当に、本当に関わらんで下さい。お願いです」
 必死に訴える。
「なんども言わせるな、逃げても無駄じゃと言うとろうが。それにな。お前がおれのところに戻りさえすればすべてが解決するんじゃ。おまえはもう、おれからは逃げられんのじゃ。どこへ逃げても必ず見つけだしてやる。じゃけえもう諦めて、二人でおれのところに戻って来い」
 吐き気がするほどのしつこさだった。
 だが龍一は、ナギと由紀乃を苦しめているのは、この自分でもあると思った。
 三人が、お互い一歩も引かず睨みあっているところへ、龍一は堪らなくなり、宮前に詰め寄った。
「あんた、いい加減にせんか。こんなに二人が嫌がっとるのに、どこまで苦しめる気じゃっ」
「おれはおまえにそんなことを言われる筋合いはない。引っ込んどれ」
 まるで虫でも追い払うような言いかたであった。だが龍一は引き下がるつもりはなかった。
「おれは、まさかナギがこんなことになるとは思わんかった。この責任はおれにある。じゃけえこれ以上二人を、おれのせいで苦しめるわけにはいかんのじゃ」
「はあ? おまえになにが出来る。この二人をどうしようと言うんじゃ。また、どこぞの島へでも連れて行くとでも言うんか? じゃが、どこに行こうともう……」
「違う、二人を守るんはおれだけじゃない」
 母親とナギを救えるのはたった一人、永年ともに暮らした父だけである。
 二人が互いに抱く感情など龍一はすでに見抜いていた。
 だが父を許すことはその過去を受け入れることになる。それだけはどうしても踏み切れずにいたのだ。
 だがそのせいで犠牲になったのはなんの罪もないナギであった。 
 自分が父とナギの母親の仲を認めてさえいれば、こんなことにはならなかった。
 龍一は次の言葉を一瞬飲み込んだ。だが怯える二人を見るほどに、もう言わざるを得なかった。
「おれの、父親じゃ」
 由紀乃が驚いた表情でこちらを見る。
 すると、父の一朗が戻ってきたようすで、
「龍一……」
 信じられないような顔で呟いた。 
 龍一は、
「そう言うことじゃ。じゃけえ、もう二人には構うな」
 だが宮前は、龍一を睨み返しながら凄む。
「この二人はおれのもんじゃ。誰にも渡さん」
「あんたにはもう、それを言う資格はない」
「おれは諦めんぞ、絶対に」
 この期に及んでまだ諦める素振りさえ見せない。だが龍一は、更に語気を強めた。
「あんたがそう言うなら、おれも黙っちゃいない」
「おまえになにが出来る」
「おれがこの二人に、絶対に手出しさせん」
 二人押し黙ったまま睨みあっていると、ナギが間に割って入った。
「あの……」
 宮前は顔つきを変えることなく、鋭い眼を向けた。
「なんじゃ」
 ナギは少々怯えながらも口を開いた。
「あの、私、もうあの家に行くつもりはありません。でも、お父さんには、時々会いたいと思うとるんです」
 思いがけないひと言であった。すると宮前はおろか、由紀乃も驚いた様子で、
「なにを言うとるん、ナギ」
 娘を咎めた。だがナギは臆せず続けた。
「じゃって、お父さんはこの世でたった一人しかおらん。じゃけえこれっきりにしとうないけえ」
「本当……か?」
 拒絶されるとばかり思っていたのだろう。宮前は疑わしげに問い掛けた。
「おまえはおれを、嫌うとらんのか?」
 ナギは真顔で答えた。
「嫌ってなんかいません」
 宮前はナギの顔を、しばらくじっと見つめた。
 宮前にも、この状況が不利であることをわからないわけではないだろうと思われた。
 龍一がこの親子を父親に任せると言った以上、母親もナギもこの先、一朗のもとへ行くことになる。それを宮前にはもう、阻止することなどできないのだ。
 誰かのものになる前にナギの母親を取り戻したかったようだが、こうなってしまった以上、もう手出しは出来ないことは宮前にもわかっているはずだ。
 わかっていながらどうしても諦められなかったようだが、娘のナギは宮前のところへは行かないというが、会いには行くと言っている。
 宮前はしばし黙り込んでいたが、やがて呟くように言った。
「おまえの部屋はいつまでもあのままじゃけえ。いつ来ようと構わん」
 次いで、ナギの母親に顔を向けた。
「おまえもおれのところに来んか。おまえのために、おれも少しは変わろうと思うとったんじゃ」
 だが母親は首を横に振った。
「今の御家族を、どうか大切になさって下さい。ナギがあなたを訪ねたいというのなら敢えて止めはしませんが、娘を辛い目に合わせることだけはもう絶対にしないと約束してください。あなたが求める幸せは、必ずしも私や娘が望むものではないと、娘と暮らしていてわかったはずです。あなたが今、手にしているものがいかに尊いものであるか、もっと素直に見つめなおしてください」
 宮前はただ、ただ深く項垂れた。

 岩場に向かうと、潮はしだいに引いていき、だいぶ遠くのほうまで足を延ばすことが出来た。
 あらためて龍一は、こんなにたくさんの魚介類を今まで目にしたことがあっただろうかと目を見開いた。まさにここは海の宝庫と呼べるものであった。
 あれから父は「すまない」と何度も頭を下げたが、龍一はまだはっきりとは自分の気持ちに区切りをつけることはできなかった。
 先ほどからしばし、澄み渡った海原を眺めていると、ナギが岩と岩の間の大きな窪みを見つけ、そのまま海の中へ頭からすうっと飛び込み、波しぶきさえ上げずに海の底へと消えていった。
 龍一がしばらく待っていると、やがて穏やかな波間にパシャっと顔を出し、片手を上げた。その手には大きな貝が握られている。
 龍一は上着を脱ぎ捨て海へ飛び込んだ。やがて岩場の魚を掴み海面から顔を出すと、ナギは再び海へ潜り魚を獲り始めた。そこへ龍一が近づき、今度はともに魚を捕まえた。
 ひとしきり収穫した後、龍一とナギは岩場に腰掛け、濡れた体を乾かしていた。
 そばに置いたかごにはたくさんの魚や貝、海藻などが溢れるほどにある。
 龍一はいつの間にか自分が笑っていたことに気付き、驚いていた。
 ナギは衣を羽織り、濡れた髪をほどいた。
「ありがとう、龍一さん」
 澄んだ瞳を向ける。
 村の生活で、様々な辛い思いをしたにも関わらず、彼女の瞳が曇ることはなかった。それは龍一にとって唯一の救いでもあった。
「この島で暮らすんは難しいが、またいつか連れて来てやる」
「ええの?」
「おまえが望むなら」
 ナギは再び「ありがとう」とはにかんだ。
 ふいに、彼女はなにか思い出したように懐に右手を伸ばした。
 龍一の目の前に、ある物を差し出す。
「それは……」
 かつて手放した、龍の首飾りであった。
「これ、やっぱりこれは龍一さんのもんじゃけえ、どうかまた身につけて欲しいんよ」
「いや、もうおまえにあげたもんじゃけえ、ええんじゃ」
「これは、私じゃのうて龍一さんが持つべきじゃと思うんよ」
 強く言われると、龍一はそれ以上ことわる理由が浮かばなかった。 
 拒めば、彼女は再び落胆するだろうと、黙ってそれを受け取った。
 一度は手放したものだ。それにもうこれからの自分にはもう必要のないものかもしれない。だがこれは、やはり自分が持つべきものなのだと思った。
 父の過去は決して今でも割り切ってしまえるものではない。
 一生許すことは出来ないのかもしれないが、父が息子である自分のために、失われた時間を取り戻そうとしてくれていたのはわかっていた。
 それに、かつて由紀乃とナギを連れて島へ渡ったのは、二人を宮前から遠ざけるためだったことも承知している。
 由紀乃を愛していながら、それを決して表に出すことはなく、ひたすらに自分以外の人の幸せを優先している。その姿に龍一は、自分の中で徐々に感情が揺れ動いているような気がしていた。 
 この先自分の心にどんな変化が生じるかわからない。
 こうして少しずつ自分は変わってゆけるのかもしれない。ただ、ナギの笑顔だけはいつまでも絶やしたくはないと心から思う。
 この先、ナギはたくさんの人間と出会い、恋をし、様々な経験を積み重ねて行くであろう。その果てに彼女がどんな男を選ぼうと、彼女が笑顔でいてくれたらそれでいい。
 ナギを想うこの気持ちはまだはっきりしないが、今は純粋にそばにいて欲しいと思う。いつもその癒される笑顔を見ていたい……。
 龍一は、まるでこの心のように揺れ動く波を、いつまでも見つめていた。
 
 

神守島

神守島

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-09-26

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