20170221-雨(再掲示)
土曜の昼下がりの雨の中、僕のアパートに突然、入江文香が訪ねて来た。彼女は申し訳なさそうに、
「じゃま?」
と前髪の雨粒を手で拭いながら言った。僕は、そんなことないよと言って、幸田小枝との約束まで、まだ時間があることを確かめた。文香の全身は雨に打たれたとしても、余りに濡れそぼっている。僕は、急いでバスタオルを彼女に差し出した。髪を拭きながら彼女はつぶやく。
「そう言えば、前にも同じようなことがあったよね」
「そうだったね」
僕は、そう言って微笑んだ。
あれは、文香とはじめて会った時だった。僕は入社したてで外回りの研修課題に飛び回っている時だった。朝から酷いにわか雨に降られ、喫茶店の店先で雨宿りしていた。タクシーを拾おうとしたが、突然の雨に中々止まらなかったのだ。あきらめて雨といをながめていると、リクルートスーツの女性が飛び込んできた。僕は、連日の徹夜仕事で風呂に入っていなくて距離をおこうとしたが、彼女に腕を掴まれた。
「すみません。わたしが、おじゃましちゃって。ここに居てください。わたしが、行きますから」
そう言って、彼女は雨の中を行こうとした。僕は、咄嗟に言葉が出た。
「もし、よかったら、喫茶店で雨宿りしませんか?」
彼女は、少しだけ迷ったようだが、すぐになにかをあきらめたように、言った。
「しょうがないな。こんな身なりじゃ、面接は無理よね? おとなしく雨宿りしようっと」
それから僕たちは喫茶店に入ると、店員が持って来てくれたタオルで雨を拭った。そうは言っても、女性だからゴシゴシやる訳にもいかず、タオルを顔に押し当てたという仕草だったが。
まだ、五月の雨が冷たい季節。けれど今日は朝からお日さまが出て、降る気配はなかった。もし、降ると分かっていたらコートを着て来ただろうに。彼女は、会社に謝りの電話を入れると、肩をすぼめてガタガタと震えている。僕は、ジャケットを脱いで彼女に被せた。この際、汗の臭いなんて気にしている場合ではない。
彼女は、少し驚いたような顔をして、
「ありがとう」
とはにかんで、頭をさげた。
それから、僕らは付き合うことになる。僕は、彼女の就職を応援して、彼女は僕にいやしを与えてくれた。そして、彼女が就職の内定をもらった日に、僕たちは結ばれた。どこにでもある、しかし僕らだけの時間が確かにあった。
だが、付き合いだしてから二年目、彼女が親の病気のことを心配し出した頃。不用意に出た俺の言葉が、彼女を傷付けた。
「もう、聞きたくない」
なんて、身勝手なんだろう。心では分かっていたが、それを否定することができなかった。今にして思えば、未熟だった。
彼女はふさぎがちになり、最後の日、今までありがとう、の言葉だけを残して出て行った。
そして、月日はたち、僕に新しい彼女ができ、ついに婚約の日になったその日に、文香は現れた。あの日と同じように、濡れそぼって。
僕は、彼女を目の前にして、まだ愛してると痛感した。胸の奥がズキズキとうずくのだ。今、文香を抱きしめ、愛してると叫びたい。
だが、僕の中にできた大人の自覚が、それをジャマする。ここで、新しい彼女の手を、放すことはできないと。
僕は、冷たい言葉を再び言うしかなかった。
「すまない。今から人に会うんだ」
髪を拭く文香の手が止まった。そして、肩が震えているのが分かる。僕は、差し伸べたい手を必死に握り、歯を食いしばった。
「そうよね、もう三年になるものね」
そう言うと、文香はタオルを僕に返して、無理に微笑んだ。
「さようなら」
彼女はその言葉を残して、玄関のトビラを閉めた。僕は、いたたまれずすぐに外に出ると、文香はもういなかった。
その途端、ザワっと寒気がした。いったい、何なのだろう。不思議に思い辺りを見まわしたが、文香の残り香だけしかなかった。
時計を見ると、もう時間がない。僕は、後ろ髪を引かれる思いで、婚約会場に向かうために急いでアパートをあとにした。
翌日、文香親子が雨で視界が悪い中、運転を誤って丹沢湖に落ちて死んだと、新聞に出ていた。僕は、病気を苦にした心中だと感じた。あの時、僕が文香の手を離さなければ……。だか、すべて遅いのだ。
休日、僕は手を合わせに湖へ行った。そして、愛する人へさよならを言った。
(終わり)
20170221-雨(再掲示)