コミュニケーション不全

もういつのことだか忘れてしまいましたが、とある美術館へ行った際に感じたことです。

 現在シェアハウスで共同生活をしている自分にとって、「隣人」の存在は、一般的な居住形態の人に比べ、より意識されるものであるように感じる。年齢も職業も、名前さえもわからない人間とすれ違う。自分と他人との間に見えない壁が生じ、それは半透膜のようにその人の存在感だけを自分へと漉し通してくる。そこで交わされる挨拶のようなやりとりは、現代を生きる我々のコミュニケーション不全をわかりやすく示しているように感じる。
  コミュニケーション不全とは、人々がコミュニケーションをとれなくなることではなく、自己の感情を不完全な形で他者の感受性へ介入させることであると再定義する。
 日々蓄積されてゆくネガティヴ、あるいはポジティヴなストレスを、音や振動へと変換し、空間を媒介として「隣人」へと伝える。この手段は決して悪意を持って行われているのではない。それどころか、明確な対象も、目的すらも存在しない。外部からの刺激に対してほとんど反射的に、自分が何をしているのかも分からずに、ドアを叩く。ギターを鳴らす。そこに、コミュニケーションという知的活動が本来持つ「意思伝達」という目的は存在しない。そのような意味において、このコミュニケーションは「不全」であると言えるだろう。

 コミュニケーションとは、必ずしも一対一で行われるのではない。学校のクラスでの友達との会話において、会社の業績を審議する会議において、あるいは、国家間でなされる政治的交渉において、コミュニケーションは、複数人で行われるシチュエーションが多数存在する。コミュニケーション不全から生じる問題は、それが一対一で行われる前者の場合よりもむしろ、(当然だが)後者の場合において顕著に浮き出てくる。というより、コミュニケーションの規模がおおきくなるにつれて、「不全」によって生まれるズレも大きくなる。

 どのような現象も意味なくしては「不全」となる。どのような芸術作品も理解できずしてはガラクタとなる。その廃棄物に意味を与え、価値を加えることが我々の目的なのだ。芸術家の目的は、作品を容器として意味を注ぎ、それを他者に伝える事だ。そして、美術館の目的とは、芸術家たちの思いを流すための媒介となることなのだ。

コミュニケーション不全

コミュニケーション不全

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-09-24

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