エクサ・クイックス

その1

 彼女の名前は凪といったが、実際のところ彼女のひととなりは凪いだ海のそれとはまるでかけ離れていた。彼女自身、自分の名前を気に入っていないらしく、ぼくが昔に一度彼女の名前を褒めた時、彼女はそれこそ時化た海のような剣幕でぼくにまくしたててきた。
「きみを馬鹿にしたり、ましてや怒らせようとした訳じゃない」
「そんなこと分かっているわよ。それとこれとは話が別なの。わたしは、『凪』なんていう奇妙で変梃な漢字と、わたしの名前を勝手に決めた祖父に怒っている」
「なるほどね」
彼女はたしかに怒っていたが、感情的になっているようすは無かった。
「でも、ぼくにはわからないんだ。ぼくは生まれてからいままで、ひとつの漢字をそこまでにも嫌いになったことがない」
ぼくは正直にそう言った。自分の名前の漢字とは、持ち主が人生の中で最も多く読み、聞き、書くものではないだろうか、とさえ思っていた。『凪』という漢字はこれまでも、そして、恐らくこれからも、彼女にぴったりと寄り添っていくのだろう。もちろん、ぼくの名前だってそうだ。名前とは、そういうものだ。
「それに、役所へ行けばすぐにでも名前を変えられるはずだよ。もちろん、親の同意なんていらない」
「そういうことではないのよ」
彼女は、たしなめるような口調でそう言った。
「それは根本的な解決策ではないのよ。わたしの名前が凪である以前に、わたし自身が凪なの。呼び方が変わっても、その事実は変わらない」
「公文書に書いた字を白く塗って、その上から新しく字を書くことは許されない」
「というより、そんなことはまったく無意味なのよ。そして、わたし自身を定義する機会はもう失われてしまった。失われたものは、二度と戻らない」
彼女から発せられる声は奇妙なゆらぎを湛え、ぼくに響いた。実際、ぼくは彼女の主張がなんとなく分かったような気がした。
「しかし、きみのことをなんと呼べばいいんだろう。少なくともぼくは、きみの嫌いな名前できみのことを呼びたくない」
「あら、あなたはわたしを凪って呼んでくれるじゃない」
「凪?」
訳が分からず、ぼくは聞き返した。
「そう、ナギよ。あなたからはナギって呼ばれている気がするの。何故だかね」
彼女はどこからか持ってきた紙に、ペンで「凪」「ナギ」「nagi」と書いてから、「ナギ」をくるくると丸で囲いながら言った。
「ぼくには区別しているつもりがないし、まったく区別がつかないけれど」
「それでもいいのよ。わたしがあなたからナギと呼ばれている、わたしがそう感じることが重要なのよ」
「それでもいいなら」
「それでもいい」
あっけらかんと話す彼女はぼくの目に、ひどく魅力的に映った。

そしてある日、彼女はぼくの前から突然いなくなった。

その2

 目覚めると、部屋はまだ薄暗かった。ぼくはテーブル・ランプを点けてから寝室を出て、メモ帳とペンを取り出した。そして、先ほどまで見ていた夢の内容をできる限り具に書き留めようとした。しかし、結局思い出せたのは見たことのない記号がひとつと、「エクサ・クイックス」という言葉、それに、あの静止した世界だけだった。この記号と言葉が一体何を意味するのか、そもそも何らかの意味を持っているのかさえぼくにはわからなかった。そして同時に、これらは忘れてはいけないものだと感じていた。
 謎の記号と言葉を書き残してから、ぼくは彼女が起きるのを待つことにした。ひょっとして彼女ならこの記号と文字のことを知っているかもしれない。ああ、それならこの前友達が話してたわよ、などとなげやりに話す彼女の顔を、ぼくは思い浮かべた。
「意味なんてどうでもいいのよ、あなたが納得することが重要なの」
ぼくの頭の中の彼女はそう続けた。彼女はたびたび、そうして半ば強引にぼくを説得した。

 コーヒーを一杯飲み終わったが、彼女はまだ起きてこなかった。しかし、ぼくは彼女を起こそうとは思わなかった。彼女は寝起きの機嫌がとても悪く、その上朝誰かに起こされるのをなによりも嫌った。彼女を無理に起こして、意味のわからない夢の話をする勇気は、ぼくにはなかった。そんなことをすれば、ぼくのメモはたちまちびりびりに破り捨てられてしまって、その日じゅう彼女は出産期の雌獅子のように激怒していたに違いない。
 ちらりと時計に目をやると、時刻は午前七時を過ぎていた。この七時から九時ごろにかけての時間帯を、彼女は最も嫌っていた。
「思うに、朝の七時なんてみんなまだ眠いのよ。それなのにテレビをつければ情報番組って、どうしてああもやかましいのかしら。タレントだかアナウンサーだか知らないけれど、つまるところ赤の他人が私の睡眠を邪魔して無理矢理起こそうとしているのよ。そんなのって、間違いなく権利の侵害よね」
ぼくが昔に一度だけ誤って彼女を起こしてしまった朝、彼女はたしかそんなことを呪文のようにぶつぶつとつぶやいていた。しかし、実際のところ、当時のぼくにはその状況がまったく理解できなかった。いったいなんの罪があってこんな朝早くからぼくは怒りをぶつけられているんだ?
 その日以来、自分が起きてから彼女が起きるまでの間、ぼくは寄る方もなくふらふらと散歩でもして時間をつぶすことに決めていた。眠れる獅子を叩き起こしたせいで日が暮れるまでやかましく吠えたてられるのは、一度きりで十分だった。
 
二年以上使っているせいですっかりくたくたになってしまったコンバースのスニーカーを履いて、ぼくはドアノブに手をかけた。ドアはまるで断末魔の悲鳴のように甲高い音を立てて開いた。その音で彼女が起きてしまったのではないかと心配して身構えたが、結局彼女は起きてこなかった。
 少し背伸びをすれば屋根に手が届いてしまいそうな家屋が並ぶ住宅街をゆっくりと歩いていると、妙な違和感を覚えた。人の姿もなく、まだ薄暗く肌寒い、その上うっすらと霧のかかった街はまさしく時が止まっているようで、「もしかすると自分はまだ夢の世界をさまよっているのではないか」とすら疑ったほどだった。はたしてあの少女はいったい誰だったのか。ぼくは、ぼく自身の真相心理をもとに構築されたあの夢を現実世界にふたたび写し込むことで、自分の思考を、そして少女の存在を再結晶化しようとしていた。
 記憶の断片を追って歩いてゆくうち、毎日のように見ている風景はいつのまにか姿を変え、はと気づいた頃には、見知らぬ場所まで来てしまっていた。
 通行人に道を聞こうと考えたが、それらしき人影も見当たらなかったので、せめてなにか目印になるものでもないかと辺りを見回すと、行儀よく並ぶ建物の群のなかにひと際不自然に森が顔を覗かせていた。
 近くまで寄って森へと続く階段を登ってみると、そこはどうやらカフェのようだった。大きな樫の木が立ち、その葉を惜しみなく振り落としていた。そして、店員らしきひとりの女性が落ちた葉を拾っていた。
「おはようございます」
女性はぼくに気づいたらしく、にこやかな表情でぼくに言った。
「おはようございます」
ぼくはそう返したが、なにしろ朝起きてから人に会うのが初めてだったので、すこしぶっきらぼうな響きがあった。
「こちらにいらっしゃるのは初めてですか?」
「そうなんです。朝起きて散歩をしていたんですが、そのうちに迷ってしまって、気がついたらここにいたんです。もしかしたらまだ夢を見ているのかもしれない」
女性は、まるで珍しい動物でも見たように顔をはっとさせてから、くすくすと笑った。
「よろしかったら、なにかお飲みになりますか」
女性はねぎらうような口調でそう言った。ぼくはアイスコーヒーをひとつ頼んでから、近くの席に座った。それから落ち着いて周りをよく見てみると、そこはなんだかいままでいた世界とは別の空間であるような気がした。現実の世界とも、あの海の世界とも違った第三の世界。
 ほどなくして店員の女性がアイスコーヒーを持ってきた。
「これで少しは目が覚めるかもしれませんよ」
女性は慣れたような仕草でカップをテーブルに置きながら、冗談っぽく言った。
「そうだといいんですが」
ぼくもすこし笑顔を作って返した。女性の短く切りそろえられた髪は、黒色の中にすこしだけ深みのある緑色が入っており、風になびくとまるで意思を持つ生き物のようにゆらゆらと揺れていた。てきぱきとした声や動きとは対照的に、その髪はどこか暗く、不思議な魅力を携えていた。
「こんな朝にお客様のような若い方が来るのは珍しいですよ」
女性は言った。ぼくの他に客はいないようで、特にやることもなさそうだった。つまるところ、この女性は暇を持て余しているようだ。ぼくもなにか用事があってここに来た訳ではなかったし、それにぼく自身、この女性にどことなく興味を引かれた。ぼくの女性に対する嗜好を判断する基準の中で、ショートカットという外見的特徴は非常に重要なシンボルだった。
「この時間はそもそもあまり客が来ないようですね」
「そうなんです。だから朝がまだ明るくないような今の時期にひとりでここにいると、少し怖くなってしまいます。ほら、ここって、空想の話に出て来る森のようで、なんだか不気味ですから」
「夢の世界のような」
「その通りです。だから、この時間にいらっしゃったお客様とはこうしてお話をさせていただいているんです。お邪魔でしたか?」
「構いませんよ。ぼくもちょうど誰かと話したい気分でした」
 女性の年齢は二十四、五といったところだったが、その不自然なほど丁寧なことば遣いのせいで、外見よりもすこし大人びた印象を与えた。
 
 それからしばらくの間、ぼく達は他愛ない世間話を、適切な距離を保ちながらし合った。女性の名前はユミといって、絵描きを職業にしているが、画家としての仕事は多くなく、それだけでは生計が成り立たないのでこのカフェでアルバイトを始めたらしかった。
「どのような絵を描くんですか」
「どのような?」
「風景画とか、人物画とか、あるいは抽象的なデザインとか」
ぼくがそう聞くと女性は黙って、すこし考えるような仕草をした。
「自分の描く絵をそういったジャンルにあてはめたことはありませんが、おそらくは抽象画というのが最も近いでしょう。ただ、その中には人も風景も出てきます。もちろん、建造物も」
「なるほど」
ぼくはよくわからないまま頷いた。
「正直、私の絵を『このような絵です』と、ことばにするのは難しいんです。というより、ことばにして表現できない不安定なものごとを絵の中に固定している、というのが正しいでしょうか」
「不安定なものごと?」
「はい、しっかりとしたかたちと質量を持つものをわざわざ絵に描く必要は最早ありませんから」
「その役割は写真に奪われてしまった」
「その通りです」
「つまり、物質的世界の向こう側に存在する、目やレンズに映らない形而上的な世界を、絵画を媒介にして可視化させるということですか」
「そういうことなのだと思います。目に見えるものは、必ずしもその本質的な姿を成していません。たとえば、ある建造物の外観を見たところで、それが会社のオフィスなのか、それとも単なる住居なのかはわからない。内包する本質までは判断できないのです。そういった、視覚として情報化するのが容易でないモノを形にするのが絵画に残された役割なのだとわたしは思います」
ぼくはあの夢のことを思い出した。あの海、少女、記号、そして、エクサ・クイックス。それらは果たしてこの世界には存在しない、ある種の概念のようなものなのかもしれない。そうだとしたら、ぼくはどうしてあんな奇妙な夢を見たんだ?
「もっとも、そんな絵に商業的な価値や需要はほとんどありません。ですから、今は半ば趣味という形でやっています」
女性は自嘲気味に、少しぎこちなく笑った。

 時計を確認すると、時刻は午前九時三十分をまわっていた。
「そろそろ帰って朝食をつくらないと」
「大変失礼しました、絵画の話になるとつい夢中になって話してしまいますね」
「いえ、とても興味深い話でした。今度あなたの絵を見せていただけますか」
「もちろんです。なんの足しにもなりませんが、それでもよければ」
「それでもいい」
「ありがとうございます」
「それと」
「はい」
「今度、ぼくからあなたにお仕事を頼みたいんですが」
 
 

その3

 ユミと連絡先を交換し、ついでに最寄りの電車駅への道のりを教えてもらってから、ぼくはカフェを後にした。この調子でいけば、家に着くのは十時過ぎになるだろう。ナギはもう起きているだろうか。今日はぼくにどんな話をするだろうか、いや、まだこの世界に姿を留めているだろうか、、、
 ぼくは思わず足を止めた。彼女がもうこの世界にいない? 自分自身、なぜそんな馬鹿げたことを考えたのかわからなかった。ナギとの関係は、セックス・レスを抜きにすればおおむね良好だったし、そもそも彼女が理由も告げずに僕の前から姿を消すなど考えられないことだった。しかし、帰路を歩くぼくの足取りは自然と速くなっていた。駅の階段を一段飛ばして上がり、こちら側に向かって歩いて来る人をするすると避け、切符を片手に握り、徐々に密度を増してゆく人混みに苛立ちながら電車を待った。
 電車は案外にすぐやってきた。ぼくの経験上、こんな時に限って人身事故やら車両点検やらで電車はなかなか来ないので、これは極めて希なケースだ。ぼくは降りて来る人を待ち、入ってすぐ横の座席の真横に立った。
 ドアが閉まり、電車はゆっくりと速度を上げた。そうなってしまえば、こちらがどれだけ急ごうとも、電車は定められた時刻を守って走る。そのせいか、電車に乗っている間、ぼくはいくらか冷静になることができた。その上で、彼女がどこか遠くへ行ってしまったという疑念は消えなかった。それほどまでに彼女の存在はぼくの中で不安定なものだった。彼女とぼくが一緒に過ごした期間は半年ほどで、彼女の人間関係や過去の遍歴について、ぼくはほとんど知らない。同様に、ぼくも自分の過去を彼女に話したことはほとんどなかった。というより、彼女は他人の過去とか、反対に未来の展望とか、そういったセンチメンタルであったりノスタルジックである物事には全くと言ってよいほど興味を示さなかった。



 電車が止まり、ドアが開く。よれたスーツを着たサラリーマン風の男がつかつかと降り、続いて制服姿の女子高生が分厚い参考書からひとときも目を離さずに出た。それらを含め、おそらくはもう二度と出会わないであろう人々がちらほらと降りて行った。みな一様に琥珀のような虚ろな目をしていた。彼らはどこから来たのか、そして、どこへ行くのか。彼女はどこから来たのか。そして、どこへ行ってしまったのだろうか。
 ドアがいつもより大きな音をたてて閉まったような気がした。

 自宅の最寄りの駅に着き、名も知らぬ乗客たちと一緒に降り、改札を抜け、階段を降りた。この一連の動作がつい先ほどは全く逆に行われたのだ。まるでデジャヴだ、ぼくはそう思った。デジャヴは不幸の兆しだ。
 昔に観た映画でそのような設定があった。映画では主人公が、黒い猫が同じ動きを二度繰り返しているのに気づき、その直後実際に不幸が起こった。
「違うわよ、あれはデジャヴが原因なのよ」
ぼくがその原因が黒い猫であると勘違いしていたのを彼女に指摘された
「そうなのかい。昔から黒猫は不吉の象徴だと言うじゃないか。たぶん、そのシーンであえて黒猫を出したことにもそういった意味合いがあるんじゃないのかな」
「知らないわよ、そんなこと。あの世界においては実際にデジャヴこそが不吉の印だった、それが事実よ」
「なるほど」
それこそ不吉な予感がしたので、ぼくは彼女の意をとりあえず受け止めた。
 なんというか、彼女は特殊な視点から映画を見ているようだった。映画とは作り手によって構築された現実がスクリーンによって濾し通され、物語として我々に受け止められるものだ。我々の世界とは完全に隔たれていて、時おり別世界の様子をスクリーン越しに観察することができる。それが、フィクションという言葉の真意だとぼくは解釈している。しかし、彼女の視点は観客としての立場をはるかに超越しているようだった。ついさっき自身のそばで起こったできごとのように、彼女は映画を語った。
たくさんの世界を持っていて、自在に世界間を行き来できるようだった。
そんなことを思い出しながら、彼女はほんとうにどこか別の世界へ行ってしまって、二度と戻らないのではないかとも思った。どこか別の世界ー。なぜか心当たりがあった。

駅から家までの街並みはつい二時間ほど前に一度見た時から、というより、ぼくがこの街にやってきた時から微動だにしていなかった。モノが変化するということは、それがどんな形であれ生きている証である。逆に、不変とは死んでいるということである。木々がそびえ立つ田舎でも、高層ビルが生い茂る都会でもない中間的な姿を何年間も留めたままのこの街は、おそらく既に死んでしまっているのだろう。巨大な生き物の死体の腹の中で、ぼくと彼女はふたり手を取り合って生きてきたのだ。しかし、もう彼女はいなくなってしまった。ぼくの手を離してしまった。
 奇妙なことだが、家へと歩を進めて行くうちに、彼女が消えてしまったのではないかという疑念はしだいに骨と肉を身につけ、リアリティを帯びていくようだった。彼女はぼくの前から消え、おそらく、二度とこの街に戻って来ない。しかし、しかし、かすかに手がかりは残っている。ぼくには、その足跡を追う必要がある。彼女にふたたび会うためではなく、彼女の存在を、せめてぼくの中でもいい、再結晶化したいと、そのように思った。
 

その4

 玄関のドアは相変わらず不愉快な音をたてて開く。住み始めた時こそ、この音がひたすらに気になってしょうがなかった。それが今となってはすっかり慣れてしまった、などということはまるで無く、現在に至るまでぼくはこの、まるで殺人事件でも起こったかのような不気味な音に悩まされ続けていた。
 靴を脱ぎながら今朝に飲み残したコーヒーがドリッパーに入ったままだったのを思い出して、ぼくはキッチンへ向かった。タンブラーに氷を詰め、すっかり温くなってしまったコーヒーを注ぐ。朝から、いや、厳密には昨晩からぼやけていた意識がしだいにはっきりとしてきた。嫌な酸味が口にこびり付く。やはり彼女のことを思い出す。彼女はコーヒーが嫌いだった。

 「ねえ、なにが楽しくてそんなもの飲んでいるの」
彼女はこんなふうに、’あなたのしていることが全く理解できないし、またこの先も理解する気はありませんよ’とでもいうような、攻撃的なことば使いをした。そういえばその日の夕食のパスタにはきのこが入っていた。
「別に、楽しいことがあったり、そういったことを求めてコーヒーを飲んでるわけじゃない。シャンパンじゃあるまいし」
「シャンパン?」
「ほら、めでたいことがあった時にシャンパンを飲むだろう。たとえば納車式なんかの時に」
「言ってなかったっけ、免許持っていないのよ、わたし」
「とにかく、人のすることなんて無意味なものばかりだし、残りごくわずかな意味のある行動だってそれが果たしてどういった解釈を含むのか、本人にもわからないんじゃないかな」
人が生まれ、そして死ぬことの意味。とうに使い古された、ひどく安っぽいテーマだなとぼく自身思った。
「おのおののパーソナリティだとかアイデンティティが微弱な電波のように放出されていて、それをおたがい送受信するのがコミュニケーションでしょ」
「じゃあ聞かせてもらうけど、きみが、ときどきぼくに使う、妙に攻撃的なことば使いには何か意味があるってことかい」
「そうよ」
「わからないな」
実際、わからなかった。
「そんなことに、そんな馬鹿げたことに意味があるなんて、よっぽど思わなかったぜ。はっきり言って、きみのそういう物言いは、はっきり言って下品だと思うし、不愉快だ」
舌が乾いてきた。コーヒーを一口飲む。味はよくわからなかった。
「もう少しちゃんと話し合いをしないか」
彼女がなにか言おうとしているようだったが、すかさず続けた。
「感情的に」
「逆に、あなたのそういう理屈っぽい物言いって、なんとかならないかしら。うんざりなのよね、いい加減」
彼女はおかまいなしに言葉をねじ込んできた。
「わからないな」
ぼくは言った。実際、分からなかった。
「何が」
彼女がやや食い気味に言った。
「正直言って、君がなぜそこまで怒っているのかぼくにはこれっぽっちも理解できない。きみの言う送受信を、なるだけ正確にしようって、そういうことを、そういうふうに言ってるんじゃないか」
 最後まで言い終えて彼女の言葉を待っていると、彼女のあからさまに無愛想な表情が徐々に和らいでいくように見えた、そうして彼女は、諦めとぼくへの侮蔑を綯交ぜにしたようなため息をつき、そうして出来たスペースを埋めたいのか、ピース・ライトの箱から煙草を一本取り出してベランダへ出ていった。

 ぼくは彼女が煙草を吸っている姿を見るのが好きだった。と言うより、彼女は煙草をとてもうまそうに吸った。何でもなさそうに一本を口にくわえてポケットからマッチを取り出すと、少しうつむき気味に火をつけて、まるで深呼吸でもするように深く煙を吐く。そして、吸い終わると何事もなかったかのような顔つきで戻ってくる。その所作のひとつひとつが洗練されていて無駄がなく、もしや生まれた時から煙草の吸い方を知っているのではないか、とすら思ってしまうほどだった。彼女にとって喫煙は、朝起きて顔を洗い、歯を磨き、櫛で髪をとかすくらい当たり前でくだらないことなのだろう。
彼女がドアを閉めるのを見てから、ぼくは玄関からサンダルを取ってきて彼女の後を追った。ベランダに出ると、白い煙が蛇のようにうねって彼女に纏わりついていた。片方のサンダルを彼女のほうへやり、
「なあ、やっぱりきみが怒っている理由は分からないけど、これでも申し訳ないと思っているんだぜ。つまらないことできみと揉めたくないし、これからも一緒にいたい」
「そして、これからもわたしが煙草を吸っている姿を見ていたい」
しゃがんでサンダルを履きながら、彼女は皮肉っぽく言った。顔は見えなかったが、言いながら彼女が少し笑っていたように感じた。
「たしかに、君と別れてそれが見られなくなるのは寂しい」
ぼくは彼女の手を指差してそう言った。本心だった。
「あなたって、やっぱりおかしいわよ。この前いろいろなフェティシズムを紹介している本を読んだけれど、煙草に関するものはひとつもなかった」
「フェティシズム」
繰り返してから、ぼくはあやうく「いったい何処にそんな本が置いてあるんだい」と聞きそうになった。いったい何処にそんな本が置いてあるんだ?
「昔に付き合っていた男の子たちは、わたしが煙草を取り出しただけで嫌そうにしたわよ。顔には出さないけれど、なんでかそういうのがわかっちゃうのよ、わたし」
二本目を口にくわえながらもごもご喋る彼女はどこかあどけなく見え、そこでぼくはつい先ほどまでの彼女のきつい表情が跡形もなく消えていることに気づいた。
部屋へ戻り、照明を消してテーブルランプに火をつけた。彼女は服を脱いで、テーブルの上に置いてある本に手を伸ばした僕の手の首をつかんで、そのままベッドへ連れて行った。そうして仰向けになったぼくの腰に跨ってゆっくりと服を脱がせ始めた。
 
「こういうのって好きなのよね、なんとなく」
彼女とはじめて寝た時、独り言のようにつぶやかれたのを思い出した。言いながら彼女はぼくのシャツのボタンに手をかけた。
「こういうの」
「ほら、男のひとの服を脱がすのが好きなのよ、それもゆっくりと」
少し熱を帯びだした口調で、彼女は語りはじめた。
「脱がす順番が大事なの。まずは上の服、次に靴下、それからベルト、パンツ、下着、といったふうに、順番を決めて脱がせるのよ。ひとによっては、下半身だけを裸にさせちゃって、しばらくそのままにしておくこともある」
「その順番で脱がされるのは、ぼくは嫌だな」
「あら、そんなことしないわよ。あなたはシャツからだもの」
すこし声色を高くして話す彼女は、少し興奮しているようだった。
「ひとにはひとの順番があるのよ。時計からのひともいたし、たぶん、ドッグ・タグからのひともいる。わざわざベッドから出てネクタイを締め直したひとだっていたわ」
「理解できないな」
ぼくはそう言った。理解できなかった。
「なんというか、男のほうからきみにねだってくるのかい。ここから脱がせてください、なんてふうに」
「違うのよ」
食い気味に彼女は言った。
「ほら、なんだかそういうのがわかっちゃうのよね、わたし」
「そういうの」
「そのひとの理想的な順番が」
「へえ」
ぼくは感心して、思わず頷いた。
「でも、やっぱり一番重要なのは、ゆっくりと脱がせること」
まるで専門家が自分の分野について解説するかのように、彼女は抑揚をつけて話を続けた。
「ゆっくり」
「そう。ゆっくり、丁寧に脱がすのよ。プレゼントの包装をはがすように」
「そう言われるとなんだかわかる気がするよ」
彼女の話を聞きながら、子供の頃、誕生祝いで祖母からiPodを贈られたことを、ぼくは思い出していた。あの包装紙は丁寧に折りたたんで、箱とともに保管しているはずだ。
「逆に言うと、ゆっくりでないとだめなのよ。そうでないと、それまでの雰囲気が全部、そっくり台無しになっちゃう気がするの」
「積み木のいちばん上は、円錐形でないといけない」
「あるいは、クイーンのヴォーカルはアダム・ランバートではだめなのよ。大事なのはフレディ・マーキュリーであること」
「ぼくはマーク・マーテルは好きだよ」
「そういうことじゃないのよ。分かってないわ」
「謝るよ」
謝りながらぼくは、自分の状況を頭のなかで整理しようとしていた。彼女は裸で、裸のぼくに自分の性的な嗜好についてつぶさに話して、いったい何がしたいんだろう。
「わたしが言いたいのは、どんな行為にもかならず、ひとつのシンボルみたいなものが存在するということなのよ。ねえ、あなた、わたしとセックスする気あるの。そういえば」
「ちょうどおなじことを聞こうと思っていたよ」
「だって、あなたぜんぜん勃起してないわよ」
ぼくは、そう言われてはじめて、自分がほとんど性的に興奮していないということに気づいた。同時に、彼女の話の続きを聞きたいとすら思っている自分にも。
 その日を境に、ぼくは彼女相手に勃たなくなってしまった。そして、彼女と一緒に住むようになった。

 「ねえ、あなたって、ほかの女の人にもそういう態度なの。それも、これからセックスしましょうっていう空気の時に」
やっと裸になったぼくの体のあちこちを撫で回しながら、彼女は話しだした。
「あまり女の子と付き合ったことがないからわからないな。気に食わないなら謝るよ」
「そうじゃなくて、男のひとって、裸の女の前でやたらきどるじゃない?『君は何もしなくていいから、僕にまかせて』なんてぐあいに。もちろん言葉にはしないけど、なんだかね」
「きみにはそういうのがわかってしまう」
「そうよ」
ぼくの返事に彼女はすこし不満そうな表情をうかべたが、すぐに話を戻した。
「けれど、あなたからはそういった虚勢みたいなものを感じないのよ。勘違いしないで欲しいんだけれど、これでも褒めてるのよ、あなたのこと」
「ありがとう、とてもうれしいよ」
「本当にうれしそうね」
彼女はつまらなそうに言った。
「他方で、あなたが勃起できないのはそういう素直さが原因なのかもしれないわね」
「それとこれは関係ないと思うな」
「大いにあるわよ。男のひとって、ペニスが大きさがそのまま自分の自信の大きさに関係してるのよ。テレビで見たことがあるわ」
「へえ」
彼女の話にはいまひとつ納得できなかったが、ぼくはいちおう頷いておいた。
「でも、ぼくはこうやって裸で抱き合ってきみの話を聞いているのが好きだよ。セックスなんかよりもよっぽどきみのことを理解できるしね」
「あら、わたしはあなたとちゃんとセックスしたいわよ。これは直感なんだけれど、わたしが人生で会う男のひとたちの中で、あなたとのセックスがいちばんいいような気がするのよ。たぶん、あなたよりいいひとは現れない、後にも先にも。冗談抜きでね」
彼女は、俗っぽいことば遣いでそう言った。
「ありがとう」
「べつに褒めてるわけじゃないわ。率直な意見」
「それでもうれしいよ」
「そう」
ほとんど感情のこもっていないような目でぼくを一瞥してから、彼女は大きくあくびをした。
「そろそろ寝ようか、たぶん明日も早い」
「たぶんね」
彼女は別れの挨拶でもするようにそう言って、布団にもぐりこんだ。ぼくもテーブルランプを消し、彼女に背を向けて横になった。
 このようにして、ぼくたちの一日は終わる。

 

EX-trA

 「何ゾなくしごとでもあるんガや、さっきガらあっちバこっちバ見よるが」
彼、未だに彼と呼べばいいのか分からなかったが、やたらに乱暴な言葉遣いをするので、“彼”で納得することにした。今更聞くのも気が引けるし、彼について、少なくとも性別はさしたる疑問点ではない。
「なんだっただろうか」
分からなかった。ひょいと置いた鍵のありかように、または今朝に見た怖い夢の内容ように、まるっと僕の頭から抜け落ちてしまった。
「したっゲ、そガにデェジいもんでもないんじゃろうが」
「そうだといいんだけどね」
思うに、ことば訛りとは言い回しそのものよりも、むしろイントネーションやプロナンシエーションが独特の癖を生んでいるのである。その観点において彼の言い方には不愉快な語尾上げはない。
「バッだや、おんのそゲなとこがウザってえだよ」
「そんな?」
「ゼ、おんがなもかも分ガっちょるていがウザってえだよ」
「いや」
口を開きかけたが、彼の語気がそれを許さなかった。
「シシさまじゃなガろうが、おんはゲぞ、ゲがいっぱしになもかも分ガった風口ハタくな」
ふぅ、とひとつ、ため息が出た。ぼくだってその’ししさま’とやらを気取っているつもりはないし、(その、余談ではあるけど、川底の石というのは始め、ごつごつとした歪な形であるが、それが河川に流されてゆくうちに石同士がぶつかって削れ、しだいに丸みを帯びてゆくらしい。)上流の石みたいにトゲのある節で説教をされるような咎もない。
「なにかを失くしてしまったんだ。たぶん、おそらくそれを探しているんだ。アンタにそれが分かればいいんだけど、もっと言えばあんたがししさまってやつだったら良いんだけどな」

その(6)

 「もう、二度とわたしに連絡だりなんだり寄越さなくてもいいですよ」
そのような言端を言われたのを、いまだに憶えている。今にして思えばどこか不自然な、どこか含みのある言端であったように思う。見回せば住宅街ばかりの街のそのしょぼくれた居酒屋のアルバイトでぼくたちは出会った。

 リハはよく酒を飲む人だった。居酒屋で大学生がやるような飲み放題を恥かしげもなく頼み、そして必ずストローを使って飲むのだ。
「なあ、いつもそんなに酒ばかり飲んでいるけど、いや、なにも注意しようって言うんじゃないけれど、なんというか、大丈夫なの」
ぼくはあっという間にかさが減っていくジョッキを見ながら聞いてみた。ここはぼくと彼女がよく一緒に来る居酒屋で、彼女がストローを頼むと店員は、待っていましたよとばかりに必ず太いもの、ちょうどタピオカなんかを吸うようなやつを出してきた。初めてそんなことがあってからそれ以来、彼女はここを気に入っているようだった。
「あれ、言ってませんでしたか、わたしね、ハイブリッドなんですよ、実は」
「ハイブリッド?」
「父親が九州出身で、母親が岩手なんです。だから、ハイブリッド」
「へえ」
彼女はどこか自慢気にそう言った。
「羨ましいよ」
 
 近くの席では、大学生くらいに見える連中がやかましく歌いながら、不味そうな酒をさもうまそうに飲んでいた。どいつもこいつもふらついた眼球の奥に底知れぬ欲望を湛えているようで、ぼくはこの狂気じみた空間で、そこはかとなく居心地の悪さを感じていた。
 彼女は五分ほど前に頼んだ酒を既に飲み干し、直ぐに店員を呼んだ。おそらくまだ大丈夫だろう。というのも、前述の通り彼女は酒をべらぼうに飲み、飲むのだ。酒の量が増えてゆくにつれてそのボウリング球みたいにぴかぴかな眼球は曇っていって、終いには焦点もロクに合わない、例えばこの世の全てに希望を持てないような、そんな燃滓【もえかす】のような濁りを見せる。
 「そういえば、どうなんですか」
ぼくの思考をぱつりと切るように、リハは言った。
「どう?」
「彼女さんですよ」
「彼女?」
「いや、あ、なんでもあるません」
「そう」「はい」

 「よくないな」
誰かが言った。(隣の卓か?)少なくともそのように勘ぐってしまうだけの臨場感を伴った声がした。その通りだ。

エクサ・クイックス

エクサ・クイックス

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-09-24

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. その1
  2. その2
  3. その3
  4. その4
  5. EX-trA
  6. その(6)