夏時間/冬のカンガルー
夏時間
「はい……こちらははじまりましたので。そちらも日付変更線を越えたら時計を一時間早めていただいて……。はい……、ではよろしくお願いします」
失礼します、と最後に言って、ユキちゃんが受話器を置き、「ん~」と長くうなりながら伸びをした。
「いよいよ今年もはじまりましたね」
ここは地球管制局。その狭い事務所。おれは半年ほど前ここにアルバイトで採用され、パソコンのモニターに表示される地球の自転速度を一日中チェックしている。そして局長の山下に「今ちょっと早いです」とか「遅すぎます」とかいうことを報告するのが主な仕事だ。
山下はその度にどこかに電話をかけ、「三時間単位で考えろ」とか「地球の息吹を感じろ」とか訳のわからないことを相手にわめいている。
「どうにか無事サマータイムがはじまったな」山下が安堵の表情を見せる。
ユキちゃんが山下に相槌を打ってから、お茶を淹れるために給湯室に入った。
ん……? モニターの表示が今おかしな動きをしたような……!!
「局長……」
「どうした?」
「地球の自転が一時間分早くなってます……」
「嘘だろ……」
「二人ともお茶が入りましたよ。ちょっと一息つきましょう」ユキちゃんがお茶の乗った盆を手に戻ってくる。
「ユキちゃん、中野さんにはサマータイムのこと、ちゃんと説明したよな?」と、言いながら山下はどこかに電話をかけるが、どうやら相手の方が出ないようだ。
「ええ、わかったわかった、って中野さん言ってましたけど……、何かあったんですか?」
「地球の自転が一時間分早くなって、標準時間がサマータイムに追いついた。中野さんが故意にやったとしか思えん!」
「え……、でも中野さん、いつも、わかったわかった、しか言わないし……」
「中野さんって誰です?」と、おれ。
「馬鹿! 最近のバイトはほんと物を知らないな! 中野さんは地球の真ん中で自転車漕いで地球を自転させてくれてる人だよ!」山下は少し冷静さを失っている。
「初耳です、その話……」
「中野さん、サマータイム反対派だったか……。ていうかあの人偏屈なとこあるもんな……」山下が上の空でつぶやくように言う。
「どうします? 空白の一時間できちゃいましたけど」
「……とりかえしつかないよな、これ」
暫しの沈黙の後、山下は「ちょっと考えさせて」と言って、自分のデスクにトボトボ歩いていった。その背中がすごく切なげに見えた。
長い通話
「私、やっぱり向いてないと思う」
「どうしてそう思うの?」
「満月の日に活躍できるのって本当に一握りの選ばれた人だけだと思うんだ。私なんてもう6年も新月や月が見えないうちの下ごしらえばっかり……」
「それも立派な仕事だと思うけど」
「もう何か嫌になっちゃったな。私なんてどうせ満月の夜におもちを搗く役には一生掛かったってなれないんだ……」
短い沈黙。
「君は努力はしてるの? オフの日は何かしてる? 悪いけどとても本気で満月の夜の役を目指すための何かをやってるとは思えないよ。付き合ってる感じでは……。他の人、特に今トップで活躍してる人たちっていうのは、君とは意識からして違うんじゃないのかな。あんまり偉そうなことは言いたくないんだけど……。そういうのって雰囲気ににじみ出てくるもんだし、見る人はそういうところを見てると思う」
「私だってがんばってるよ! 手はおもちを蒸かす時の火傷だらけ、杵をふる練習だっていつもやってる! でももう嫌なの! 私には才能なんてないってわかったの! だからもういいのよ、前みたいに普通のうさぎに戻りたいの!」
先程と同程度の短い沈黙。
「君は才能あるよ……。おれから見たら羨ましいくらいだ。月からの使者がおれじゃなく君を選んだ時、おれは正直君の事を恨んだよ。だから今の君を見てるとなおさら歯がゆいんだ。だって想像してみろよ。夜空にボヤっとした光をにじませてる明るい満月の中で、君が大きく杵を振りかぶって今にも振り下ろそうかとしてる時の素晴らしい姿をさ。きっとおれは感動するよ。泣いちゃうかも知れない。そして選ばれたのが君でほんとに良かったと思うはずだ。君にはおれたちにはない可能性があるんだ。だからそれを活かさなきゃ損だよ」
比較的長い沈黙。
「君、泣いてるの?」
沈黙に溶け込んでしまいそうな曖昧な否定の言葉。
「わかるよ。君が泣いてるかどうかくらいわかるよ。それくらいは、おれには……」
何らかの通信障害により、彼らの長い通話はここで一旦途切れる。
Our Bizarre Relationship
その年のクリスマスの日。
「不採用って書いた手紙、ずいぶん前に届きましたけど」
「それはすまないと思ってる。辞退者が相次いで……。それで、その、今夜なんだが、引き受けてもらえないかな」
「いやぁ、今日の今日はさすがに無理ですね。もう予定入れちゃってるし……」
「君のその鼻が役に立つと思うんだが」
「それ、馬鹿にしてます?」
「そういうわけでは……」
「とにかく無理です。じゃ、よいクリスマスを」
「ああ……、よいクリスマスを」
※
「で、結局昼間っからこんなとこでグダグダしてるわけだ」
葉介からだいたいの事情を聞き終わると、紅は吐き捨てるようにそう言った。他の客のことなどは打ち遣ったままである。
「うるさいな。もともとは和尚のほうが僕を連れて行く気はないって言ったんですよ。いくら他に護衛の当てがなくなったからって、なんで僕のほうから出向かなきゃならないんです」葉介は彼女に話したことを後悔し始める。紅が言うには、彼は居酒屋と食堂を兼ねたこの店の戸外を思案げに眺めてぼんやりしていたという。葉介はそんなわかりやすい自分の性質が恨めしくなった。
「今年の護衛を頼んでた剣客さんが急に志願の口ができたって逃げてっちゃったらしいのよね。それから色んな人に当たったみたいだけど、この年の瀬にわざわざ化け物の出る峠を越えてあんな寒村に行こうなんて奇特な人はいやしないでしょう」と、紅。
「どうせ、和尚もひとりで行こうとは考えやしませんよ。竜ヶ淵の主様ってのがいなくなってからこっち、あやかしの類は増える一方って話でしたよね。いっそ今年は中止にしちゃえばいい」
「なんで和尚さんがあんたを連れて行きたがらないか、理由がわからないわけじゃないんでしょう。拗ねちゃって。やっぱりあんたはまだまだ子供よね。和尚さんに拾ってもらってから何にも成長しちゃいない。だから“涙目”なんてあだ名つけられて皆から馬鹿にされるのよ」その言葉を聞いて葉介は無意識に自分の右目を触った。その右目はまるで一晩泣き明かした後のように赤い色をしていた。「ほんとお人よしって言うかさぁ、あんたが本気出せば、この辺りにあんたに勝てる人なんていやしないのに」
「うるさいな」
「ていうか、あんた何のために剣術の修行始めたんだっけ?」新たな客がひとりやってきた。紅が愛想良く「いらっしゃい」
客が葉介を認め、声を掛けた。「よお“涙目”。相変わらず辛気くせぇ顔してるな。どうした、今日は白石和尚と一緒だったんじゃねえのか。さっき峠のほうに歩いてく姿を見かけたが」
「坊さん。何も命まで取ろうとか身包み全部置いていけとかは言わねぇよ。その荷車の荷物と金だけ置いてってくれれば、後はお前さんが廓で竜宮城の乙姫様みたいな女に会おうと、『失せよ』とその美人から邪険に追い返されようと、俺たちはまったく知ったことじゃねえんだ」行く手を塞いでいる三人の男のうち、首領格と見える男が言った。雇っていた人足は和尚を置いてとうに逃げ出していた。
「この荷物だけはやれん。これは山あいの貧しい村の者たちに与えるための食料だ。せめて正月だけでも安らかに迎えられるようにと、わしが一年かけてこつこつと用意したものじゃ。彼らは毎年わしが届けるのを楽しみに待っておる。」
「安らかな気分で正月を迎えたいのは俺たちも同じだ。というわけで……」
「後生じゃ」荷を検めようとする首領格の男に和尚はしがみ付いた。
「じじい、命を縮めたな」三人のうち最も若く見える男が、首領の体から和尚を引き剥がし、木の根方に投げつけた。そして男は和尚に向けて振り下ろすべく、刀を構えた。
和尚が念仏を唱えながら固く瞑っていた目を恐る恐る開いてみると、首領を除く二人の男が地面に這い蹲っていた。和尚を守るようにして立っている者の背中。振り返るとその片方の瞳が夜目にも赤々と光っているのがわかる。
「こいつ、“涙目”か!」首領格の男はそう言うと慌てて踵を返し、闇へと逃げ込んでいった。
「葉介……、なぜ来たんじゃ」和尚が問う。
「なぜ来たんじゃ、はないでしょう」葉介が刀を鞘に収めながら言う。「和尚こそ、なぜ護衛もつけずにこんな危ない真似を! 僕が間に合わなかったらどうするつもりだったんですか!」
「お前はわしの子供みたいなものじゃ。幾らか剣術が使えるようになったとはいえ、余り危ないことはさせとうない」
「それで和尚が死んじゃったら元も子もないでしょうが! そもそも僕が剣術を始めたのは誰の……」葉介は男の逃げていった方を振り返って目を見開き、耳をそばだてた。「なにか聞こえませんでしたか」
首領の頭部を咥えた女の首は口の端から血と低い笑い声を漏らしながら葉介たちの周りの空をふらふらと飛び回っている。その様子は歓喜の舞を踊っているようにも見えた。ふたりを遠巻きに囲んでいる夥しい数の物の怪たちにも同じことが言えた。めったにない贈り物の到来に喜んでいるのだ。
「いくら年々増えていってるとはいえ、これは……」和尚が声にならない声で呟いた。
「お経で退治とかできないんですか」
「経では飢えた子らの腹は太らんし、追い剥ぎすらも退治れんよ」和尚が妙に悟ったようなことを言う。
「和尚、僕がどうにか囲いを壊しますんで、そこから逃げてください」
「やめい、死んでしまうぞ」
「僕、来年はお供できそうにないですが、どうにか頑張ってくださいね」
「阿呆……、鬼が笑うわ」
戦いになどならなかった。葉介が幾つもの致命傷を受け、和尚をかばうように倒れこむのに、瞬きするほどの時間もかからなかった。
地に臥した葉介の右目から発された赤い光は彼の全身を包み、目映い球となり、球は形を変えていった。妖魔たちはその光に怯え、後ずさっていく。
「竜ヶ淵の主……」和尚は呆然とそう呟いた。
角と鱗とを持った、馬とも竜とも呼びえる姿をしたそれは、小さくいななきその場で足踏みをすると全身から先ほどとは比べ物にならない強い光を放った。すべてが光に包まれた。
「和尚が僕を拾ったのって、竜ヶ淵の祠の前でしたっけ……」光はすべてのあやかしを無に帰していた。地面には首領の頭部だけがごとりと転がっている。葉介の身体は未だ燐光を放っているが、人の形に戻っていた。「笑えないな、それ」
「お前のご母堂と思われる女性は既に冷たくなっておった。夏で、夕立も降っておらなんだが、衣服も髪も水に浸ったかのように濡れておった」和尚は必死で過去の情景を呼び起こそうとしているようだった。「竜ヶ淵の主様が姿をお隠しになったのもその頃だ。……竜は子を成すと力のすべてを子に譲り、天空の気に帰るといわれておる」
「僕は両親を犠牲にして生まれてきたってわけですか」全身をを包む光はいつの間にか消えていたが、葉介の両眼は赤々と染まっていた。「ほんと、笑えないですよね」
「お兄ちゃん、それもらっていい?」
「ああ、いいよ」葉介は子供らに菓子を放ってやる。
昔ほど貧しくないとはいえ、村人たちの歓迎は熱の籠ったものだった。特に子供たちは和尚のことをお正月さまと呼んではしゃいでいる。葉介はこの村に無事に正月を運んでこれたことを満足していた。
「おいしいかい?」子供の一人が葉介の顔を熱心に眺めていた。葉介は何の気なく、そう問いかけていた。
「うん。おいしい」その子は葉介の顔を覗き込み無邪気に言った。「お兄ちゃん、目がまっかだよ」
「そうだね」
「だいじょうぶ?」
「ああ……」気を抜くと人の形を保てなくなるのではないかという予感を葉介は感じていた。「大丈夫さ。お正月さまを家まで無事にお送りしなきゃならないからね。それまではどうにか、ね」
子供は葉介の言葉の意味を正確には理解しかねるといった表情で長いこと彼の顔を見つめていた。
※
トナカイの放つ光は夜空を明るく照らしていた。遠目に見れば、うす曇りの夜の月と、その月がつくる光輪のように見えただろう。
「すまなかったな。もしかすると私は、君のクリスマスの予定を台無しにしてしまったんじゃないのかね」サンタは心から申し訳なさそうに言う。
「そんなことないですよ。サンタさんの橇を引くのは小さな頃からの夢だったし、両親や友人たちもきっと喜んでくれますよ。それに子供たちの寝顔を見ちゃいましたからね。子供たち、プレゼントを気に入ってくれるといいですね」
「ああ、きっと気に入ってくれるさ」
先程から細かい雪がちらついている。夜の冷たい風を踏んでトナカイは次の街へと駆けていく。
お役目ご苦労
ただいま、と奥に向かって声をかけると、こちらの予期した通り、台所から祖母のおかえり、という返答が聞こえてきた。
途中の居間に鞄を放り投げ、私は台所へと突き進む。
「お腹空いた。何か食べるものない?」
「棚に煎餅が入っているよ」沸々と煮立っている鍋の中身をかき混ぜる手を休めもせずに(学校から帰宅したばかりの、孫である私の顔を見ようともせずにということだ)、祖母はそう言った。
「煎餅か……」その時の私は煎餅程度を有難がれるようなコンディションではなかった。「他に何かない?」
「もうちょっと待ってたら、晩御飯ができるよ」祖母の言うもうちょっとがどの程度なのか、私にはまだ正確につかめていないというのが実情だ。
「じゃあ煎餅食べて待ってますんで」私はテーブルの椅子に腰を据え、袋から取り出した煎餅に噛み付いた。そして豪快な咀嚼音の隙間を通すようなニュアンスで尋ねてみる。「なんかいい匂いするけど、晩御飯は何?」
「今晩のメインはね」祖母は自慢げな表情で、その時はじめて私のほうを振り向いた。「ビーフ・ストロガノフさ」
思わず「おお……」という声が漏れていた。煎餅の小さな欠片たちも幾つか床に散らばったかも知れない。
「澄江さんが最近疲れてる様子だからね」澄江とは私の母のことだ。「栄養のあるものを食べてもらおうと思ってね。」そう言って祖母は作業に戻った。ビーフ・ストロガノフという名前に打ちのめされた私には、その作業が崇高な儀式か何かのように感じられた。
「お母さんは、まだお社にいるの?」ひとしきり感動の余韻を楽しんだ私は、祖母の背中にさらなる質問をぶつけた。母が帰るまでは、たとえ晩餐が完成したとしても、それにありつくことはできないだろうという、利己的な計算が働いたのだと思われる。
「ああ、まだお社にいるよ。最近は珠神様の様子がおかしいみたいでね」
珠神様とは我が家が代々お世話をしている神様のことだ。神様といっても強大な力を持った邪悪な神様の系列で、大昔に悪事の限りを尽くしていた所を我らがご先祖様によって封じ込められたそうなのだ。
珠神様の力はほんとに強大で、私たちの一族は何代もかけてその力を弱めるための儀式を続けてきた。それが生業となった。お母さんも、お祖母ちゃんも、そのまたお祖母ちゃんも……。そしてそのうち私の順番が廻ってくるだろう。
「そういえば」ビーフ・ストロガノフの匂いに導かれたのか、ご先祖様たちの顔を何となく想像してみたことが影響したのかはわからないが、朝の準備の忙しさに取り紛れて忘れていた、今朝見た夢のことをふいに思い出した。
私は祖母にその内容を語った。
立派なお座敷に、私と母と祖母は座っていた。三人とも畏まって、綺麗な着物なんかを着ちゃったりしていた。お座敷には電燈などなかったのだが、妙に黄色な感じに明るくて、そしてとても暖かだった。
私たちの向かいには和服を着た年配の女の人が座っていた。その人は私たちに何か言って、それから深々と頭を下げた。私たちは非道い慌てっぷりで、いやいや頭を上げてください、って感じでそれに応対した。その人は笑って顔を上げ、そしてその顔はなんとなく私たちに似ていたのだ。
いつ姿を現したのか、気付くとその女の人の小脇に三毛猫がいた。大人しい様子で、背筋をぴんと伸ばして行儀よく座っていた。
女の人はまた私たちに頭を下げた。そして頭に手を乗せて手伝ってあげて、その猫からも私たちに向けて謝らせるのだ。猫はちょっと不服そうな表情を見せるが、素直にされるがままになっていた。
祖母は途中からビーフ・ストロガノフをかき混ぜることも忘れて話に聞き入り、私が話し終えた後も何かを思案しているようで、暫くは黙ったままでいた。祖母は作業を再開すると同時に私に問いかけた。
「珠神様が、元々はご先祖様の飼い猫だったってことは知ってたかい?」それはまだ私には知らされていない事実だった。珠神様については断片的にしか話を聞かされていないのだ。祖母は私の答えを待たず、あいかわらずこちらを振り向くこともしないで、穏やかな調子で呟いた。「長かった私らのお役目も、もしかするとじきに終わりになってくれるのかも知れないね」
夢の中のご先祖様は、「ご苦労様でした」と、私たちに言ってくれていたのか……
滑りの悪くなった玄関の戸を開ける、ガタガタという音が聞こえた。こちらの応答を催促するような、ただいまという声も。私たちが、おかえりと返すと、足音はだんだんこちらへ近づいてきた。
「あら、いい匂いね」そう言って微笑む母の顔は、私にはやけに晴れやかなものに見えた。
起承転転
余りの暑さに布団を跳ね除けて体を起こす。見廻してみると辺りは一面の砂の海だ。
「うわぁ、今日はどっかの砂漠か……」
昨日は目覚めるとアンコール・ワットの中だったし、その前はシルクロードの通行を妨害する感じで寝ていた。やけに冷えると思って目を覚ますと、ヒマラヤと思しき山脈の山頂付近にいたりしたこともあった。
流石にもう慣れた。
寝床を抜け出して、一日その土地を観光気分でフラフラし、夜、布団に戻る。そして目覚めるとまた違う場所にいる。
「思えば遠くに来たもんだな」
自分の部屋がやけに懐かしくなることもある。
なぜこんなことになったのかはわからないし、誰かの意思が介在しているような感じもしない。何か意味があるのか? そういうことはあまり考えないようにしている。ただ、世界中を転々としていくだけだ。
冬のカンガルー
春のカンガルーは秋と同様、一日の大半を眠って過ごす。
この時期のカンガルーは住まいを持たず、草原の樹木などに背中を預け就眠する。
造園研究の大家フリードマンは67年の名著『趣味人の園芸』の中で「春のカンガルーの長い睡眠は彼らの食料とする植物に何らかの(催眠効果のある物質を含む、栄養価が低くエネルギー源としては不向き、などといった)原因があるのではないか」と推論を述べている。
この時期、カンガルーが何を主な食料にしているかについても、色々な憶測があるばかりで、確かなことは何もわかっていない。
政府によって編成されたカンガルーの研究チームは、97年、奇跡的に一体の衰弱死した野生のカンガルー(後にイシュメイルと命名された)の死骸を確保したが、胃の中にあった植物の種類は特定されなかった。
夏のカンガルーは、我々にその活発な一面を惜しげもなく披露してくれる。
恋の季節なのだ。
しかし、先住民に伝わる神話などによると、夏のカンガルーの恋は偽りの恋であり、本物の恋は別の季節に行っているのだと、各部族の意見が一致しており、この事実は非常に我々の興味をそそる。
現在の研究でも、カンガルーの出産時期から逆算して考えると、どうしてもこの時期ではありえないということが定説となっている。
この偽りの求愛活動はかなり入り組んだドラマであり、人間や他の動物を恐れず、堂々と行われるので、私たちはカンガルーの動作を細かい部分まで容易に観察することができる。
だが、このドラマを見物することによって我々が得られるのは、どうしようもない遣る瀬無さだけであって、その虚無感こそこのドラマの主題であり本質なのだ。
言うまでもなく、カンガルーのダンスは先住民たちの祭事や儀式に大きな影響を与えていて、厭世的な民族性が育まれた要因にもなったと考えられている。
秋のカンガルーは前記の通り、長い睡眠の時期に入っているが、春とは違い、あまり観察できる機会はない。
洞窟や木のウロなどに姿を隠してしまっているからだ。
冬のカンガルーについては、ちょっと筆舌に尽くしがたい。
まず、街なかにやってきて鏡という鏡に映ろうとする。
夕暮れの街路の角には必ず姿を現す。
公園内を幽鬼のように延々と彷徨うごとく徘徊する。
樹木や街灯の支柱などに奇妙な印を刻んで廻る。
帰宅する人の後をヒタヒタとつける。
車の屋根やボンネットの上で飛び跳ね、夜通し騒ぐ。
雨の後などに人家のぐるりを廻って夥しい数の足跡を残す。
二、三日程カンガルーと過ごしていたと帰ってきた子供が主張する迷子事件が起こる。
非道い場合になると、自分ひとりしか居ないと思っていた部屋でふいに気配を感じ、振り向けば、きっとそこにはカンガルーがいるのだ。
このような冬のカンガルーたちの常軌を逸したかに見える行動の原因も、我々には全くもって摑めていない、というかそれどころではないのだ。
カンガルーによる混乱は街全体に広がっていき、それが街と、私たちのムードとなり(それに耐えられない繊細な人々は、扉と窓を固く閉ざし、冬が行き過ぎるまでの間、自室に籠ってしまう)、そのムードにあてられ、私たちは徐々に、全てのカンガルー、人間、その他の動物、そしてそれらを含む街全体が一匹の巨大なカンガルーなのだというような、奇妙な妄想的一体感を抱くようになってしまうのだから。
夏時間/冬のカンガルー