お醤油の握り飯

よしの かい

相変わらずどの部屋も隅々まで綺麗に掃除が行き届いている実家はいつ来ても懐かしい香を焚いたような匂いがしていた。
挨拶にお仏壇に向かい線香を供え鈴を鳴らした後、掌を合わせている時、
『─どないかしたんかえ─?』不意に穏やかな懐かしい声が聞こえた気がして振り返ると、でっぷりとした白猫がこちらを見て丁度間仕切(まじき)りの辺りに座っていた。この家の飼い猫の二代目ゴエモンだ。初代のメス猫がいつの間にか床下で産み落とした猫で模様のトラジマも大柄な体格も良く似ている。四匹産んでいたのだが後の三匹は身体が弱く皆冬の寒さに耐えきれず死んでしまうと肥立ちが良くなかったのか間もなく初代も衰弱し後を追ってしまった。
沙織が中学入学前のある日、庭で入学式の準備の話をしながら洗濯物を干している母の後ろの茂みから突如蛇が飛び出してきた。驚き(おのの)いていた母娘の前にどこからかのったり現れたのが初代ゴエモンで、鎌首をもたげ上げて臨戦態勢でいる蛇を事も無げに太い前足で一蹴(いっしゅう)して追い払ってくれたのだった。お礼にあげた煮干しご飯が気に入ったのだろう、それからちょくちょく姿を見せるようになると動物嫌いだった母も情が移ったらしく以来飼い猫になった。元から猫好きだった祖母が良く面倒を見、ゴエモンも祖母に良く懐いていた。
「─二代目、おいで」そう声を掛けるとでかい顔にそぐわないおちょぼ口を開け、「うみゃあ」と一声鳴いて耳を心地好さそうに()いた後のそのそ近寄って来た。せっかくゴエモンの名を継いだのだが「二代目」が呼び名になっていた。
大きな(からだ)を抱き上げるとあちこちの毛がぼさぼさして(つや)もなく、まさに老猫といった風貌だった。
「─歳とったねえ、お前も─」撫でつけながらしみじみそう言うと二代目は嬉しげにヒゲを寝かせ目を細め、ゴロゴロと太い喉を鳴らした。その様子が可愛らしく無性(むしょう)に愛おしくなると思わず、
「─元気だった?─何か変わったことなかった?─あたしはね、ケンカしてね─帰って来ちゃった─もう、別れちゃうのかな─」そう話しかけていた。その時開け放った庭側の大窓から入り込んだ風に運ばれた春の香にふとセリの味わいを懐かしく思い出し、昔祖母と来た憶えのある(あぜ)に一人で積みに来ていたのだった。
見渡す限り田畑だった広大な土地も半分近くが造成され一部に住宅が建てられ始めているのを認めると故郷を狭められているようで寂しく感じた。
茎の下に白く細い根があるのがセリ。芋みたいな太い根のあるものが毒ゼリだと教わった。次第に慣れてくると遠目でも緑の中に群生している箇所を見つけることができる。
ナイフの使い勝手も思い出し用意した小籠に溜まり始めた頃(かが)むのに疲れ、腰を伸ばしたついでに仰向けに寝転んでみた。
しらす雲の浮かぶ蒼天(そうてん)は濃い色づけを(ほどこ)したイラストみたいに鮮やかで時折、少し汗ばんだ額に吹きつける風が心地良かった。
二年ぶりに帰省し、本当に久方ぶりに独りだった。
娘のふたばは顔を見た途端(とたん)相好(そうこう)を崩した父が街中に連れ出していて、母は留守番をしている。
椋鳥(むくどり)の群れが高くを北に向かって飛んで行くのをぼんやり見送っていると今度は悲しげな夫の顔を思い出した。
一瞬振り上げた手のやり場に困り果てたように悲しげな眼差(まなざ)しを見下ろしていた。
些細(ささい)なことなのだろうか─。だが咄嗟(とっさ)の嘘が信じられなく、許せなかった。
地元の工務店で営業として外回りをしている夫を買い物途中、繁華街で見かけた。それは別段珍しいことではなかった。娘と近寄り掛け思わず足が止まった。夫は女性を伴い歩いていた。綺麗に化粧を施した容貌も美しい若い女性だった。二人は大きな紙袋を持って歩いていたが夫が彼女の持つ分をごく自然に自分の手に移した。軽く会釈をし笑みを夫に向け、また二人は並んで歩き出した。二人とも社員で街に来ていたのは社用に違いない筈だが時折会話しながら彼女に向けるその笑顔がいつもより優しく愉しげに見えた。夫は遠目に見ている自分たち母娘に気づかずに遠ざかって行った。沙織は二人を見送りながら自分の右手にある大きなスーパーの袋を左に持ち替えた。
夜になって帰宅した夫に、
「─今日も一日中、外回りだったの?」そう()いてみた。
「─あ。あゝ、うん。相変わらずリスト回りだよ」夫はそう応えた。
「─一日中、それだけだったの?」もう一度訊いてみると、
「─何だよ。どうしたんだ?営業だぜ?外回りだけだよ。今日は会議もなかったし─」笑ってそう応えた。少しの間の後、
「─ずっと、一人で?」そう訊くと夫は今度は(いぶか)しげに、
「当たり前だろ?一日中一人だよ」そう即答したのだった。
「─何?どうして嘘をつくの?─」普通に(なじ)るつもりだったが途端に()き上げた感情が抑え切れず不意に涙が溢れ出した。
「─綺麗な人と一緒にいたじゃない、街で─。楽しそうに笑ってた。だけど、仕事でしょ?なのに、どうして嘘を─嘘つく─必要があるの?─何か、─やましいことが─そんな気持ちが─あるから─?」声を震わせながらやっとそう詰め寄ると夫は少しの間を置いた後、
「─ごめん─」と申し訳なげに呟いた。謝る意味が分からなかった。問いかけの全てを肯定する筈もないが、だがそこに(かす)かにでも浮ついた心があったことを認めたのだと認識した。
悔しさから口論は次第に声高になりやがて起こしてしまったふたばが泣き出すまで続いたのだった。
昔から些細でも嘘が嫌いだった。友達にしても恋人にしても当たり前のようにつく小さな嘘を指摘しまたそれが(いさか)いの元となり絶交したり別れたりもした。厳格過ぎると逆に詰られたことがあるがその意味を解せずにいた。
また何だか切なさに気持ちがすぼんでしまいそうで沙織は目を閉じて大きく深呼吸をしておもむろに身体を起こすと、再び緑の畔に向き合った。

ゴミや雑草を取り除き水道水で良く洗い水気を取ったら微塵(みじん)切りにしておかか、多めの醤油をまぶしひたひたにして今度はそれを両の手でぎゅっ、と絞る。炊きたてのご飯に満遍(まんべん)なく混ぜ合わせたら「セリ飯」の出来上がりだ。一口頬張れば瞬間に「春」の(とりこ)になる。思わず目を閉じてしまうのは、味覚が他の五感を優先するからに他ならないからだろう。
「─お母さん、出来あがったよ。お茶入れて食べよう」手際良く調理の後始末をしながら沙織がそう声を掛けた。
年代物の卓袱台(ちゃぶだい)には丸い手作りのレース編みのクロスが敷かれている。
過年、雨の日のパート勤めからの帰り道、飲酒運転の軽トラに自転車ごとはね飛ばされた後遺症で杖をつくようになると家にこもり勝ちになり(なぐさ)みに始めた趣味だった。
「─うん。本当に美味しいねぇ─」茶碗の縁に顔を寄せ匂いを嗅ぎ一口頬張った後しみじみとそう言い、満面の笑みを浮かべる母もいつの間にすっかり老け込んで見えた。最近はあまり体調も思わしくなく車での外出さえ好まなくなったと父から聞いている。
『─こないして組み合わさった掌の中にな、人生の色んな出来事のひとつひとつが(しわ)んなって刻まれとんねや。─笑ったこと、怒ったこと、泣いたこと、嬉しかったこと、辛かったこと、我慢したこと─()められたこと、─みんなこの両の掌に一本ずつ、刻み込まれとるのや─』祖母の葬儀の折、泣き腫らした眼で棺の中の祖母を長い時間見つめていると、いつの間にか横に立っていた関西から来たという年配の男にそんな話を聞かされた。
旨そうにお茶を啜る口元と細かく無数の皺の刻まれた手元を見ていると、ふとその言葉を思い返していた。
同居を始めたばかりの沙織がまだ子どもの頃、
『─本当に、何にも出来ない人なんだから─』折に触れ、母は祖母に向け詰りとも取れるそんな言葉を呟き吐き捨てていた。孫として可愛がられた記憶から始まっている沙織にはその言葉の意味が理解出来なかった。
後に聞かされたことだが二人は嫁姑の折り合いがあまり良くなく、嫁いで間もなくから意地の良くないことを度重ね仕向けられ耐えた昔が憎しみを(はら)み時として振り返すらしく、だが母はその過去を多くは語ろうとしなかった。(およ)そ、今更を蒸し返すことで自分の古傷を(いた)厭気(いやけ)もあるのだろうと考えたが、当時はそんな母の言動を心秘かに否定する自分がいた。
小さな社宅から夢だった自分だけの部屋のある大きな二階屋に越したのは沙織が小学校三年の時だった。越して程なく、祖母との同居が始まった。
田舎の家を売り払い、新居の資金のかなりを調達してくれという。以前の両親の会話から同居を条件にそれを申し出たのはこちらからだと理解していた。
閑散とした田舎の商店街の一番端っこで小さな雑貨屋(もどき)きの化粧品店を営み、恐らくはこつこつ維持して来た彼女の生き様そのものとも言える全てを手放して来たのだ。言葉に出すことは到底出来なかったが子ども心にも母の言動が良識に反していると感じていた。

「─美味しいね。─おばあちゃんに教わったんだよ」沙織がそう言うと、
「─うんうん。おばあちゃんは、山菜が好きだったからねえ。─セリ、ノビル、フキ─タランボの天ぷら、菜の花の辛子和えも上手だったっけ─」箸を止めてふと昔を懐かしむようにそう応じ、遠くを見る目を(にわ)かに細めた。
「─うん。何ていうか、素朴な料理が上手だったよね。─」そう応えながらまた別な懐かしい味の記憶が舌に蘇って来た。
母が工場勤めで忙しかった頃、祖母はおやつ代わりに良く握り飯を作ってくれた。炊きたてごはんをお(ひつ)に取り分け、醤油を混ぜ合わせ中身にやはり祖母お手製の大振りの梅干し、海苔を巻いただけのものだが今でも思い出すだけで口の中に(よだれ)が溜まる。熱々のご飯と醤油のバランス、つけ込まれた種ごとのぶ厚い果肉の梅干しの深い味わいが何とも言えず、口の中で海苔と混ぜ合わせると香ばしさがいっぱいに広がるのだ。
結婚し娘を授かり、真似て(こしら)えてみるのだが一度たりともその味を再現出来ないでいる。丹精(たんせい)を込めて漬け込んたあの梅干しの味わいが足りないのだ。やり方を調べ梅干し作りも二度ほど挑戦してみたが天日干しやら管理が難しくて挫折してしまった。
思い起こしてみれば祖母は寝込んでしまうようになるまでほとんどの家事を母に代わってこなしていた。その合間を縫って大きな(かめ)一杯の梅干しを拵えていたのだ。
『─ぬかとは違うがな、漬ける人によってやっぱり味が変わるんで─』響きの優しい関西訛りでそう言い、皺深い顔を綻ばせていた。
上海で右脚に深手を負い傷痍(しょうい)軍人として復員した祖父と出逢い結婚し二人の子宝に恵まれた。だが終戦間近の空襲が(つむ)いだ尊い命をも奪い去って行った。傷心を引きずる間もなく凄惨(せいさん)混沌(こんとん)とした戦後を生き抜いて来た。
床の間に祖父の隣に祖母、そしてたった一枚切りだという二人の幼児の遺影が掛けられている。セピア色の閑散とした風景の中で緊張した面持ちでこちらを見つめている(つぶ)らな四つの眼差し。二人ともおかっぱ頭だった。
ふと、今際(いまわ)を思い出した。
『─喉が渇いたなあ。─さあちゃん、水を持ってきてや─』臥せていた病床の枕元でそう言われ台所に立ち蛇口(じゃぐち)を捻った時背後でコトリ、と音がした。何気なく振り返ると予感が走り、急いでコップの水を持ち部屋に戻ると祖母は既に事切(ことき)れていた。
いつの間に帰って来たのか母が祖母の両掌を握りしめていた。その後ろでじっと二人を見据えるように二代目が座っていた。
間近に高校進学を控えていた春の出来事だった─。

傾きかけた薄い陽射しが台所の()りガラスの花模様の彫刻を浮き上がらせていた。
どこか遠くで(うぐいす)(さえず)りが聞こえた。
「─ねえ、お母さん─」沙織が口を開いた。祖母との関わりの本音を聞こうとした。
「─ん?」問いかけに上げたその眼差しが不意に、あの日の祖母の優しい眼差しに重なった。香ばしい匂いの醤油の握り飯を口いっぱいに頬張る自分に向けた嬉しげなあの眼差しに─。刹那(せつな)に知る必要のない事実であることを悟った気がし愚かしい問いかけを恥じていた。例えば今、母の心の奥深くに潜んだ思いを言葉に代え(えぐ)り出したとしても二人の間の真実も何も知らぬ自分はそれを持て余し、ただ狼狽(うろた)えるだけに違いないのだ。
ほんの少しだけだが家族であるが故の関わりというものを悟ったような気がした。
何であれ自分の中には二人ともの血が脈々と流れ、紛れもなく深い慈しみを受け育ちたった今があるのだ。
沙織は曖昧に首を振ると、
「─たくさん作ったんだもん。もっと食べようよ。お父さんとふたばには、またご飯炊いて今度はお醤油のおにぎり作るから─梅干し、あったよね?」そう言って少しだけ頰を赤らめた。暫くの間の後、
「─ねえ、─喧嘩でもしたの─?急に帰って来たりして─」母が(しぼ)んだ眼差しを向け不安そうに訊いて来た。愚にもつかぬ嫉妬心から始まった夫婦喧嘩を言い出せずにいた。
「─え、別に何でもないよ。─ただ去年は何だかんだ忙しくて帰れなかったしさ。─たまにはお墓も参りたいし、─母さんたちの顔も見たかったし─」たどたどしくそう応えた。

「─満月だわねえ─」その晩ふたばを寝かしつけた後唐突(とうとつ)に月見をしようか、と母が言った。
「─どうしてえ?中秋の名月は違うでしょ─?ねえ、お父さん─」笑いながら爪を切っている父を振り返りそう応えると、
「─晴れた夜なら月はいつだって綺麗よ。満月だって、毎月必ずあるんだから─」そう言って促され広縁(ひろえん)に卓袱台を動かしお茶の用意をした。
「─この造作(つくり)は、母さんの夢だったの。暖かい陽射しや庭木の色づき、月の光を感じられるように。─広縁なんて贅沢なお願いを、おばあちゃんが叶えてくれた─」湯を注いで急須を温めながら母が言った。思いがけず母の内心に触れた気がして目をあげると、
「─早いもんね。来年は二十三回忌。わたしも歳をとるわけだ」そう言って笑った。
新築の際に植樹したという大きく成長した山紅葉よりずっと高くにある月の光が美しかった。
「─そう言えば月なんて、ずっと見てなかったなぁ─」しみじみそう言うと、
「─見上げるって、何だか忘れちゃうんだよね。─いつも目先ばかりに気を取られて─それだけで毎日が過ぎて、いつの間に歳を重ねて─」母もガラス越しの月を見上げそう応え少しの間の後、
「─満ちたり欠けたり─あんな風なんだろうねえ、きっと人生も─本当はいつだってまん丸がいいけど、半分だったり、ほんのちょっぴりだったり─時には真っ暗な日もあって、─それでも何があっても、─また満たされる─」深い嘆息(たんそく)混じりにそうつけ加えてまた薄く笑った。
「─うん。─そうかもね─」(うなず)いたその時足元に置いたバッグの中で籠もった振動音が聞こえた。すっかり存在すらを忘れていた携帯を取り出し見ると着電を知らせるシグナルが明滅していて夫からの留守電やメールが時間を置かず入っていた。何の連絡もせず書き置きも残さずに出て来たのだ。
眉間に皺を寄せさぞかし狼狽えているだろうその様子を想像すると不意に可笑(おか)しさが込み上げて来た。
「─あのさ、やっぱり明日、帰るね」笑いを噛み殺して沙織が言うと、
「─うんうん。それがいい。どこの所帯だって他人同士から始まるの─時間はかかるかも知れないけど、いつか本当にかけがえのない存在に気づいて─ああ、これがわたしの家族なんだって─代わりなんて、どこをどう見回してもいないんだなって─」ふと遠くを見る眼をして母がそう応じた。その時初めて遠い日の母の後ろ姿が祖母の今際の記憶の一齣(ひとこま)に結びついた。
何も言わずただじっと祖母の掌を握りしめていた母の背の記憶に。その肩は微かにだが震え母は確かに泣いていた─。
また老いたその横顔に亡き祖母の面影が重なり俄かに切ないような気持ちが迫り上がりかけていた時、
「─ま。しかし、何かあったらいつでも帰って来い。ふたばとお前の面倒くらい、わしが見てやる─」唐突に父がそう口を挟んだ。
半ば驚いて声の方に眼を向けた瞬間見合わせた父の真顔があまりにも仏頂面(ぶっちょうづら)で、その可笑しみに耐え切れず吹き出してしまうと釣られたように母が笑い、ちょっとだけ間を置いて立てた父の(しゃが)れた笑い声に呼応(こおう)するみたいに、いつの間に母の膝の上にいた二代目も目を閉じたまま微かな鳴き声を上げた─。



─了─

お醤油の握り飯

お醤油の握り飯

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-09-23

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