一匹の件がいました。大勢の人々がどこへ向かうかもわからず行き交う往来で、件は鳴きました。これからどこかで起こるだろう悲劇について。
 けれど誰も件の声に耳を傾けません。件がそこにいることはみんな知っているのです。しかし件の声は、もう人々には届かなくなってしまいました。いつからでしょうか。昔はあんなに真剣に耳を傾けてくれていたというのに。件は泣きました。鳴いたのではなく、泣きました。けれどその涙すら、誰も見ようとはせずに通り過ぎていってしまいます。
 件は必死に探します。自分の声を聞いてくれる誰かを。しかし見つかりません。どこを探してもそんな奇特な人はいないのです。たとえ件の姿を一瞥したとしても、多くの人は嘲笑を漏らして、人気のスイーツ店やらラーメン屋やらの話をしながら去ってしまいます。
 件は途方に暮れました。これから自分はどうすればいいのかと。件は人々に悲劇を予言しなければなりません。そのために件は生まれてきました。それだけのために。それなのに、誰もその件の役割を成し遂げさせてはくれません。伝えられなかった予言など、朝起きてすぐに忘れてしまった夢と同じです。ただの絵空事です。件はそれが堪らなく悔しくて、なおも自分の声を聞いてくれる人を探し続けました。横槍の雨の中を、干からびそうな日光の下を、ひび割れたアスファルトの上を――。
 ――けれども、やはり件の声を聞いてくれる人は見つかりませんでした。もう歩き疲れてどこへも行けなくなって、件はようやく自分がただの化け物になってしまったことに気づきました。もう昔のような予言者としての件はいません。そこにいるのは、身体は牛で頭は人の化け物だと、ショーウィンドウのガラスに映る自らの姿を見て、件は悟りました。自分はもはや戻ることはできないのだと。
 それでも件は諦め切れませんでした。だから泣きました。もう鳴くことはできませんでした。だから代わりに泣きました。赤ん坊のようにえんえんと泣きました。誰かに気づいてもらいたくて、ただ一言だけでいいから自分の声を聞いてもらいたくて。
 件はどれだけ泣いたのでしょう。幾晩の夜を涙とともに超えたのでしょう。誰もそれを数えてくれた人はいません。少しでも気にかけて、足を止めてくれた人もいません。人々にとって、もう件は厄災ですらありませんでした。どこにでもいる、ありふれた化け物でした。ただの化け物に構ってやれるほど、今の人々には時間も自覚もありませんでした。
 本当は――本当は、件は寂しかっただけなのです。誰も自分の声を聞いてくれないことが、昔みたいに真剣に向き合ってくれないことが、寂しくてどうしようもなかったのです。しかし、それを伝える術は件にはありません。件が伝えられるのは予言だけです。いつかどこかで必ず起こる、悲劇についてだけなのです。
 だから今夜も件は泣いています。今はあなたの家のすぐそばに。聞こえませんか? 悲しそうなあの子の声が。少しでも聞こえるのなら、どうか一言だけでもいいから耳を傾けてやってください。恐れず、面倒臭がらず、優しく接してやってください。それが私の望みです。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-09-22

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted