蝿と聖女

衣更絲子

蝿に蝕まれる良心



「優しくなれたらと思いました」
 そう言って俯くのは先日入信したばかりの少女だった。彼女は多感な年頃の少女で、親による価値観の押し付けに絶望した、友人との馴れ合いや先生の上っ面だけの関わりにうんざりしたといい、流れるようにここに辿り着いた。
 彼女は年頃の娘と思えぬほどガリガリに痩せ細っていた。彼女をここまで不安定にさせた決定打とは、学校で見せられた屠畜のVHSテープらしく、想像を上回る衝撃を受けた彼女は以降、肉を食べるのをやめてしまったらしい。なんでも可哀想だから、という理由で。
「それはどういうことでしょう。何に対して、かな」
 彼女の質問に自分は首を傾げ、目線をなるべく合わせつつ彼女に問い返す。ふたつにまとめた髪はパサパサで艶がなく、胸元まで伸びたそれはまとまりもなく末広がりになっていた。少女の落ち窪んだ目はぎょろぎょろと辺りを彷徨っており、年相応の愛らしさの欠片も見せず、「私は、」と慎重に言葉を選ぶ。
 しかし声だけは少女そのものだった。垢抜けず、しかし幼い発音やたどたどしく繋げる言葉の流れは、どれほど大人びた言葉を選ぼうとも隠し得ぬもののように思えた。
 アーモンドミルクとラベンダーで仕立てたミルクティーを一口飲んでは彼女の浮き出た喉元を見詰める。筋と皮だけの首筋は花とミルクの甘ったるい匂いを放ちそうにない。蜂蜜の濃い甘さに喉を鳴らすと、彼女は更に続ける。テーブルの下では親指をくっ付けては回したり、爪で指の腹を押し付けているらしく、静かなようで騒々しくもあった。
「誰かに優しくなれたら、こんな風にならなかったと思います。でももう無理です、私は死にたい。終えるに後悔する理由もなくなりした。今の人生に悔いも未練もありません。此処では穏やかに死を迎え入れる、謂わば天国だと伺いました。だから此処に来たのです。でも私は今も思います。優しさって、何だったのだろうと」
 彼女は矢継ぎ早に告げた。折角差し出したラベンダーティーもすっかり冷めてしまい、セトウチの愛用の白いカップも空となってしまった。しかしセトウチは急かしもせず、あくまで少女の言動を注視する。
「見返りを求めたつもりもありません。ただその人が喜んで笑ってくれたらそれでいいと。でもどうやら私には無理な話だったようです」
「と、言うのはどういうことでしょう」
「私にもよく分からなくて……」
「そういうこともありますよ。感覚的には形としてあるのだけど、伝えづらいことが」
 例えば彼女は肉を食らうことに罪悪感を抱く。動物は食われるためだけに飼育され、その時が来れば屠られ捌かれ食卓に並ぶ。大概の人間なら当然のことと看做し、当然のように肉を喰らい、腹がいっぱいになれば余して捨てる。少女からすれば疑問に抱かぬ大人になる自分が化け物に変わり果てるようで恐ろしくならないのだろう。
 しかし食するとは奪うことである。ヴィーガンは救いではない。痛いと叫ぶ口のない植物の命を切り刻み、火にかけて口に運ぶことと変わりないのだ。大事なのは意識であると伝えている。罪悪は罪ではない。慣れることは大罪にはならない。ただ、忘れなければいい。そうして命を繋ぎ生きて死ぬのだ。彼女が飲めずにいるミルクティーだってそうだ。大地に根付き生きる予定だった者たちの命を頂いているにすぎない。
 しかし今彼女に告げるには酷薄すぎるだろう、と空になったカップの縁をなぞると、傍らに置いたままの皿を引き寄せた。菓子作りが得意な女性信者が皆のためにと焼いたクッキーだ。入ったばかりの少女にも、とその人が置いていった。皿を真ん中に置くと、少女の肩は激しく揺れ、クッキーからも目を逸らす。趣旨を見失っているのかもしれない。食べることすら禁忌であると目が訴え、頑なに視界に入れようとしなかった。
「まずはあなたは畏れないことだ。終わるためには生きないといけない。食べることも畏れてはならない。みんなそうやって生きてる」
「えっと、せんせ、ちが、えっと、きょう、そ」
「……若い子たちは僕を兄さんや兄様と呼んでくれます。好きな方で」
「に、兄様、は。食べることは怖くないですか」
「怖いですよ。でもこれは与えられたものです。此処では体を清めるために動物の血を体内に入れないというだけで、僕は肉を食べる人達を咎めない。たとえ信者の誰かが戒を破ったとしても、です」
「どうしてですか」
「……肉は動物に戻れないからです」
 たとえばわざと滑らせたカップは床に叩き付けられ、粉々となってしまった。接着したり、欠けたところは金継ぎをしてやれば形は戻ったように見える。しかし従来あった姿ではないのだ。自分が愛用していたカップに似た何かでしかない。終わりは終わり、その先には何もない。人々は終わりに安息を見込んで此処にやってきて祈るのだ。
 ――死にたい、と。
「少しずつでも、変われますか」
「ああ、もちろん。少しずつ食べていけるようにお粥を用意しよう。お粥だからといって馬鹿にしてはいけないよ、薬膳粥だ。体が受け付けるようになったらみんなと同じものを食べましょう。それからでいいんです」
「いつかこのクッキーも美味しいと食べられるようになりますか……?」
「ええ。この方の作るクッキーは格別なんです。もし興味があれば食べてみてもいいんですよ。でも胃がびっくりしない程度に、ね」
 彼女の皿に乗せられたドライフルーツの小さく薄いクッキーは宝石を嵌めたブローチのようにきらきらと煌めいており、骨と皮だけの指で大事そうに一枚を持つと、震える唇でかり、と縁を噛む。その時の目の見開きようといったら、初めて食べ物を口にした子どものようで、彼女は少しずつだかクッキーを齧り、リスのようにさくさくと音を立てて食べていく。
「それも優しさです。僕たち信者や、知らない誰かのために焼いたクッキーも、あなたが優しさに触れてみたいと、彼女のクッキーを受け入れることも、僕の言葉に耳を傾けることも、それも優しさです。利己的な意識を排除し、自分に還元しない、それが優しさです」
 彼女には難しい言葉は伝わりづらかっただろう。こくこくと相槌を打つだけでまた一枚とクッキーにありついていた。そこでやっと冷めたミルクティーに口をつけた彼女を見守り、席を立つ。温かなお茶を淹れてやらねば。
 焼き菓子を頬張る彼女は年相応の少女だった。何者にも縛られず、これから真世界に向かう者のひとりとして、表情は凪いだ海のように穏やかなものになっていった。
 自分とすれ違うように一匹の蝿が入り込もうとしていた。掴もうとしたが所詮人の手では捕らえられもしない。過ぎ去る蝿が飛び込んだあと、少女が「きゃっ」と声を上げ、手を振り回しているようだった。



 それから数年、彼女は成人を迎えた。教団施設は死を迎え入れる場所だ、婚礼といった祝い事は基本ご法度であるが、振袖を着てみたいという少女を誰も非難しなかった。せめて教団内でお祝いをしようとケーキが振る舞われ、赤とピンクを貴重にした着物をレンタルし、皆で撮影してやりながら「綺麗になったね」「良かったね」と口々に告げた。
「ありがとう、ありがとうございます、私ってばとても幸せだわ。世界はとても優しかったです。皆ありがとう、ありがとうお兄様……」
 涙を浮かべる彼女の頬は痩けていたとは思えぬほど弾力のある肌を取り戻し、薄紅を付けた頬を上げてそれはもう感謝の意を述べ続けた。艶やかな黒髪を巻いて椿の花で飾った彼女は拍手で生を祝福され、見たこともない笑顔を浮かべ、ひたすら頭を垂れた。
 あれが彼女の幸せだった。なんてことのない日々を誰かと穏やかに過ごしたい。学園生活で得られないものを『憧れ』の中で全て手の内に抱えた少女は昨日、真世界へと旅立った。人々に送り出されることなく、ひとりで。優しさを覚えた彼女は冷蔵庫で静かに眠り、穏やかな笑みを肉の上に浮かべ、艶やかな脂を滲ませていた。
「…………変わる、か」
 観葉植物を増やすことにした。最近どうも蝿がうろつくからということで、信者のひとりがハエトリグサを数株ほど購入し、あちこちに小さな鉢が置かれている。サボテンやカランコエなどささやかな植物たちと並べば、ハエトリグサもいち植物として馴染みが良く、蝿も効率良く減りつつあるらしいので、特に不気味だ怖いといった声はなく、やがて珍しいかった食虫植物もただの観葉植物となり、水や光を与えられるだけで特別視されることはなくなった。
 少女ならハエトリグサをどう捉えただろう。怖い? 正しい? どちらを挙げても彼女らしい返答であると頷いたことだろう。しかしあの植物も他の植物と変わりやしない。生きるために栄養を摂取しているだけである。土からの吸収か、虫からの吸収か、それだけだ。
「人ってそう簡単に変わらないんだよ。でも君はすごく変わった。こんなに綺麗になって終わりを迎えた。誰も何も認めなくたって、俺が認めるよ」
 味噌と麹で漬けられた肉は低温でじっくりと焼かれ、噛み締めるごとに脂の甘さが広がり、味噌と麹の作用でくどくもなく、さっぱりとした旨みを齎した。一口大にカットした肉を一切れ取ると、薄明かりに照らすように角度を変え、肉質や脂の付き方を確認しながらまた口へと頬張る。そして何回も何回も噛み締めると、静かに飲み干した。
「でも俺が変わったところでね、誰も食べてくれやしないんだ。俺は君たちを食べていけるけど、生憎俺は食べられるような体でもないし」
 今日の茶は格別だ。少女が趣味で育てたメリッサの葉を緑茶にブレンドして淹れている。ハーブは彼女のように元気に育った。今日もベランダで必死に日を浴むをし、衛生管理は気を付けているが、時期によっては栄養を欲しがる蝿に目をつけられても仕方がない。現に蝿が数匹ほど辺りを飛び交い、肉を狙っている。食われぬようにと手で払いながらまた一口と口に含み、ゆっくりと咀嚼する。しかし脂が多かったかもしれない。それは次回改善する余地がある、と舌に乗った脂を茶で流し込み、また肉を口にする。
「食べてはもらえないんだよね」
 付け合わせのクレソンを齧りながら肉を食すと、次は大根とねぎと塩で煮ただけの肉の煮込みを引き寄せ、スープを啜る。こちらは何度も水を変えて煮込んだおかげか、余分な脂もアクも取り払われ、雑味のない味に仕上がっていた。香辛料を効かせたスープに淡白な素材がよく合い、こちらもスプーンが進む。幾ら腹に詰め込んでも足りないくらいの仕上がりだ。
(美味しい)
 既にハンバーグも詰め込んだ。ローストもシチューも食べた。胃ははち切れんばかりに膨張しているのに、食が止まらなかった。美味しい、感動している、しかしそれを上回る虚無が自分を食に駆り立て、手を止めようとしなかった。
 誰も手を止めてはくれない。もういっぱいだと命令しているのに、脳はそれを許してはくれない。食え、食え、と促して、食わされて、大きな丼に入っていたスープを平らげた頃には、自分はテーブルに突っ伏していた。
(でも嫌だ)
 嘔吐いて疼く胃をそろりと撫でながら、虚ろに並ぶ皿の群衆の向こうで佇む植物を見つけた。湿った空気を浴びるそれは楕円形の口に牙を無数に生やした気味の悪いもので、蝿が止まるのを今か今かと待ち構えている。だらりと開いた口の行儀の悪さ。いっそ清々しいほどに美しくも見えた。
(いつになったら止められるのだろう)
 冷蔵庫の中には少女を切り分けた肉のタッパがぎっしりと占領している。食べきれぬ分は冷凍され、少し時間を要するものは真空パックに入れられて冷たい箱で眠る、髪の毛と他の毛以外は捨てる場所なんてない。食えやしない彼女の魂は冷たい揺りかごに揺られながら真世界と向かったことだろう。
 そんな場所なんてあるはずもないのに、みんな自分を信じて死んで喰われて、何処かへ旅立ってしまう。信仰心ほど幸せを侵害されないものもない。そこには一切の恐怖も後悔もなく、自分を信じてうっとりと目を閉じ、一瞬のうちにして死んでいくのだから。
 俺という人間にのみ用意されなかった真世界。生きていくことは罪だ、食べることは罰だ、最早最大級の愉悦すら凌駕した虚無は自分の指先から貪り始めていたが、原型が残る体に実質的な苦痛はない。
 ただ心ばかりが白く濁っていく。呪いのように胃の腑に染み付いた食欲は尚も自分を支配する。自分の境目すら失われて、何故自分が宗教のままごとごっこをしているのかすら分からなくなった。腹を埋めるのは気持ち悪さと満足感と、それ以上の悔恨。
 容赦のない世界に産み落とされた自分を救う聖母は何処にも居ない。
「美味しくできた心でないことくらい、俺がよく知ってるから」
 母さんと呟く口が吐瀉することもご法度な世界で、ハエトリグサがけらけらと嗤う。蝿を次々に喰らい、暴れる蝿をみしりと押し潰す彼らの笑い声が遠く感じる。
「母さん、かあさん」
 聖母は肉体の墓場で眠る。胃液のプールでとっくの昔に泳ぎ疲れ、溺れた聖母はもう、何処にもいません。とっくに溶けて、今は体の底に。

蝿と聖女

蝿と聖女

  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日 2019-09-21

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