ことわざ使い
三名人
「河童さま!」
「どうした雑兵。何をそんなに慌てふためいている」
「猿さまが人間によって木から滑らされたとの報せがたった今はいりました!」
「馬鹿な! 弘法に続いて猿までが!」
「その人間がこちらの城に向かっているとの斥候からの情報があります」
玉座の間の扉が開いて諺使いが現れる。
「河童よ! お前もこれまでだ、我が軍門に下れ!」
「人間の諺使い風情が何を!」
「諺には人々の言霊の力が宿っている。故事成語などにはその成り立ちに関わった人物たちの精霊か何かの加護がある。我々諺使いはそれらの力を召還し、事物を言葉通りに操ることができるのだ。河童よ、お前は河を流れるのをまぬがれることはできん!」
「おのれ……、そう易々とはいかんぞ!」
長い死闘の末、河童は打ち負かされ、河を流れた。
諺の呪力によって身体は動かず、ただ流れに身を任せるしかなかった。
そのうち、川辺の懐かしい光景が視界の端に見えてくる。
河童は考える。
いつからだろう、河を流れることを恥ずかしいと感じるようになったのは。
三大名人の一角などと呼ばれる前、唯の名もなき河童だった頃。
昔は何の咎める気もなく、こうして水面に浮かんで、日がな一日河を流れていたものだ。
もしかしたら自分はあの諺使いによって呪縛から解き放たれたのかも知れない。
久しぶりにこのまま海まで流れていくのもいいだろう。
犬御門
犬はその昔、当時飼い主であった諺使いから、戯れに「歩けば必ず棒にあたって死ぬ」という呪をかけられ、以来ずっと輿に乗って生活している。
世界を裏から牛耳った犬は、諺使いを根絶やしにするため、日夜暗躍している。
学校
おいお前たちなに喧嘩なんかしてんだ先生は悲しいぞ。理由はなんだ理由は? なんだお前らそんなことで喧嘩してたのか先生はほんと悲しいぞ。わかったわかったじゃあこうしろいいか弘法は筆に謝れ、で、筆は弘法に謝れ、な。よし偉いぞお前たち先生はうれしいぞ。ほんと先生はうれしいぞ。おれは幸せだなお前らみたいな良い生徒を持てて……
糠に釘
糠を釘で打ち留めることができるほどの諺の達人がいるという。
そういう噂を聞きつけた輩が年に一度くらいの割合で男の許を訪れてくる。どうやって調べているのかは男には皆目わからない。諺使いなどはとうの昔に廃業したというのに。
その日もひとりの若者がやって来て男に教えを請いたいと言った。
瞳の澄んだ実直そうな若者である。身なりも汚くはなく、作法も心得ていた。経歴を聞くと都のある有名な諺使いに師事していたそうで、そこを破門同然に飛び出し、男の所へやってきたのだと言う。話し振りにも押し付けがましさなどはなく、今まで男の許にやってきた己の実力や流派の正統性を誇示する者たちとは一線を画していた。若者が諺に対して真摯な態度で取り組んでいることが男にもわかった。
「諺は廃業したし、弟子は取らん」と男は若者の頼みを冷たく断った。
「では、ご迷惑でしょうが、弟子入りを許していただけるまで、毎日通わせていただきます」若者はそう言ってその日は引き取っていった。
若者は近くに宿を取ったようでそれから毎日男の許に通ってきた。通ってきては弟子入りを頼み、断られ、男の娘が出した茶を飲み、暫く諺についての雑談などして帰っていく。そういう日々が半年ほど続いた。
その日、珍しく機嫌の良かった男はやって来た若者に自分の現役時代の逸話のひとつでも聞かせてやろうかと考えていた。
「君もなかなか懲りんな」前置きとしてそう言って、余程諺が好きなようだなとか何とか月並みな言葉を後に続けようとしたが、男の話は若者の言葉に遮られた。
「今日は弟子入りをお願いしに参ったのではありません」常から礼儀作法の行き届いている若者がさらに居住まいを正して言った。「今日は別の事をお願いしに参りました」
男の娘が茶も持たずに部屋に入ってきて、若者の隣に座って男に頭を下げた。
そうか、と男は納得する。
若者が訪れて、男と話をしているとき、茶を出した娘がその後も下がらず、たいした用向きもないまま座り込んで、二人の話を聞いていることも多かった。
最近では若者は娘に頼まれて、高い所の物を取ってやったり、鳥籠を蛇が狙ってやってきたのを退治してやったり、色々と家の事を手伝ってくれていたようだった。
男は自分の迂闊さを思う。若い二人の気心はいつの間にか通じ合っていたものらしい。
二人が夫婦になることを男は快く許した。
若者は男の家に移り住み、寺小屋のようなものを始めた。諺のことは必要な時以外は全く口の端に上らせようともしなかった。
やがて子も産まれ、寺小屋も賑わい、若者は諺のことなど忘れてしまったかのように見えた。たまにやって来る弟子入りの志願者には若者が代わりに応対し、やんわりと断った。
しかし、おそらく男の娘も気付いているのだろうが、若者が毎晩夜更けに起きだして、ひっそりと諺の修行を続けていることを男は知っていた。
さらに時が経ち、男に死期が迫ってきた。
男は枕辺に若者を呼び言った。
「君に私の知る諺の秘法全てを伝えようと思う」
「それは私の弟子入りを認めて下さるということですか?」若者は戸惑っているようだった。
「わからん。現象だけを見れば君の弟子入りを認めることになるのかも知れんが、私には正直どうなのかわからんよ。死に直面した私の、この世に諺使いとして生きた証を残したいという勝手な思いからかも知れんし、単純に何か君に贈り物がしたいということなのかも知れん。ただ君に私の全てを伝えようと漠然と思ったのだ」
「秘伝を得た私は今の生活を捨て、再び諺使いとして世に出ようと考えるかも知れません」若者は力を持つことの恐ろしさを心得ている。「それでもよろしいのですか?」
「わからん。何が良くて何が悪いかなど、この世が終わってからでないと誰にも判断がつかんよ」
男は若者に秘法の全てを教え、その数日後息を引き取った。
この後、その若者がどうなったのかは知られていない。諺使いの歴史を扱った書物などにもそれに関する記述はない。
禁術・合成呪法・その他
釈迦に豆鉄砲
(合成・禁術・非常に罰当たりな行為)
三つ子の魂百まで
(禁術・三歳児の寿命を百まで長らえさせる呪法)
宵越しの銭は持たない
(ことわざ使いが最初に教えられる心得のひとつ)
火に油を注ぐ
(禁術・消防法にも抵触すると思われる、非常に危険な行為)
春はあけぼの世は情け
(有名な書物の冒頭の一節)
到来物の馬の口の中は見るな
(ことわざ使いが最初に教えられる心得のひとつ)
妖刀苦肉
(村正と並び称される呪われた名刀)
もう動き始めた船に半分以上乗り込んだ状態で毒の入った料理の乗っていた皿を食べているところだ
(合成・若干行儀が悪い、もはや完全に後戻りができない状況とそれに対する潔い覚悟)
泣いて馬謖を斬る
(泣くくらいなら斬らなければいいのに、後悔先に経たずということ)
壁に耳あり障子にメアリー
(内密な話しをする時には細心の注意が必要だ)
石橋を叩いて渡る
(禁術・愉快な気分、でもそういう時に調子に乗ってはいけない、英にも似たようなことを題材にした歌がある(「ロンドン橋落ちた」)、ボブ・ディランの名曲「ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア」なども同様)
寝耳に水
(二階から目薬をさすのが難しいように天井裏から寝耳に水を落すのは難しい)
やぶをつついてへびをだす
その日の帰り道、彼女はいつも気になってはいたが入ったことのない路地に、気まぐれに足を踏み入れてみた。狭い道の左右には下町風の木造りの住宅が立ち並んでいて、開け放たれた窓から聞こえる快活な話し声や、ほのかに香ってくる夕餉の匂いが、彼女を歓迎してくれているようにも感じられた。
塀の上に姿を現した猫を意味もなく追いかけているうちに(すぐに見失ってしまったのだが)、彼女は路地を抜けていた。
そこには草薮に面した道が左右に伸びていて、その藪を背負うようにして、一人の老人が露店を開いていた。老人の座っている椅子の横に立ててある看板には『へびだします』とだけ太い毛筆で書かれていた。
「お嬢ちゃん、迷ったのかね」と老人は彼女に尋ねた。
「まあ、迷ったみたいなものかも」実際彼女にとって、自分がここに来た理由も定かではなく、迷い込んだという言い回しが最もしっくりくるという感じもしていた。
「こんなところに店を出しておいて言うのも何だが、この道に人の往来があること自体めずらしい」言って老人は柔和な笑みを見せた。「この道を右手に行けば、数分で元来た大通りに出られる。反対に進めば、まあ晴れた日なんかは清々しい処だが、墓地に至るだけだよ」
彼女には、今はどちらに行くのも億劫に感じられた。
「へびをだすんですか?」彼女は聞いてみた。
「うむ、出す」老人は決然として答えた。彼女が要領を得ず、どう質問を続けていいものやら考えていると、老人は「まあ、実際に見てもらうのが一番じゃろう」と言って、一本の細い棒を手に取った。
「御代は見ての……、まあ気持ち程度でいいが」老人は言った。
ショーが始まった。
老人が藪を棒で突くと、一匹の黒くにょろりとしたものが、そこから姿を現した。
「あ、へび!」そのことに彼女は当たり前に驚いた。蛇を見る機会など最近はめったになかった。
「若いっていうのはいいものじゃな。何にでも新鮮に驚ける」老人は笑って言った。それで彼女はなぜだか少し照れてしまった。
ショーは続く。どういう仕組みなのか、老人の呼び出しに応えて、藪からは様々な種類の蛇たちが顔を出す。赤いのや、白いのや、毒を持っているんだぞ、ということを知らせるためのオレンジと黒の縞模様をした自己主張の激しい奴や、普通の蛇の何倍もの大きさをした大蛇など。
それから次に現れたのは毛のふさふさした……。
「あ! イタチ?」
老人はあきらかに「しまった」という顔をし、すぐに「引っ込め」と言って、イタチを藪の中に追い返した。
「まあ、鳩じゃないだけまだ良かった」老人は小さく呟いて、にやりと笑った。彼女もそれで何だか釣り込まれて笑ってしまった。その後、ショーは滞りなく進行し、終わりを迎えた。
「どうじゃった?」老人は誇らしげな表情だ。
「案外面白かった……」彼女は本心でそう答えた。
「そうか、そうか」と老人は喜んでいる様子だった。「久しぶりに良い気分だ。今日は店じまいにしよう。御代はいいから、お嬢ちゃんももう帰りなさい。すっかり暗くなってしまった」
老人の言うとおり、いつの間にか濃い夕闇が訪れていた。
「おじいさん、もしかしてへび以外も、っていうか、実は何でもだせるんじゃないの?」イタチが出たときから、何となく思っていたことを、彼女は半ば冗談に口にした。
老人の目が、一瞬その色を変えたように彼女には見えた。
「お嬢ちゃんは、何か藪から手に入れたいものでもあるのかね?」老人は彼女を見据え、低い声で言った。
「さあ、よくわかんないけど」彼女は少し考えてから続けた。「何もかも全部ほしいって気もするし、逆に今は何一ついらないって感じもする。結局よくわかんないんだけど」
彼女の言葉に「そうか」と応じた時には、老人の表情は元の柔和なものに戻っていた。
「むかし、藪の中からすべてを手に入れた男がおった。男は人生そのものを藪から引っ張り出した。それが良いことなのか悪いことなのかわしにはわからん。男がそれで、人の言う幸せというものも手に入れることができたのかどうかも。わしは思うんじゃが、藪から出てくるのはへびくらいで充分じゃよ。たまにイタチが出てくることもあるかも知れんが、それはそれ、ご愛嬌じゃ」老人は諦めたような、そのまま霞んでいって消えてしまいそうな笑みを見せた。
彼女は老人と別れ、家路に就いた。口からは我知らず、藪から顔を出すへびたちを表現するような、楽しげなメロディーが零れていた。メロディーは次第に変化していき、老人が最後に見せた表情を表すための哀調を帯びたものになっていくのだが、すぐにイタチがとび出して、また楽しげなものに戻るのだった。
ことわざ使い