うなりごえ
猫の鳴き声も赤子の泣き声に聞こえる
野生動物の唸り声は威嚇だと思う。
接近してきた何かに対して恐怖なのか、あるいは怒りに起因する何かなのか、それはわからないがとにかく自身の環境に何らかの危険を感じた時、野生動物っていうのは唸り声を上げる。と思う。
で、人間はそういう時唸り声を上げないと思う。人間の世界環境がそういうものではないからなのかもしれないし、言葉を話すという習慣によって、危険を感じた時、唸る必要がないからなのかもしれない。
ただ、人間も唸り声を上げる場合がある。
体調が思わしくなくて、言語を話す余裕が無い時など唸り声を上げる場合がある。
だからつまり簡単に言えば、立っていられないほどお腹が痛いときなどだ。
こうして考えると、人と野生動物では唸り声を上げる場合が違う。
それでも、この二種類は同じ唸り声と称される。それは不思議であるように思う。
で、どうしてこんな事を言い出したのかと言えば、
夏の暑い日だった。
「ううう・・・」
河川の近く、堤防のあたりを散歩していたらどこからか唸り声が聞こえてきた。
その瞬間、脳裏をよぎったのはお腹が痛くてうずくまっている人のイメージ。
昔私自身盲腸を切った時、恐ろしくお腹が痛かった。死ぬと思った。
「あ、お、あ」
何も言葉が話せなかったし、考える事も出来なくなった。死ばかりが明滅していた。
「う、うう・・・」
どうやら唸り声は、次の角を曲がったところから聞こえていた。
救急車を呼ぶべきだ。緊張する。うまく話せるだろうか?
そんなことを考えながら角を曲がると、
そこに、
「う、うううう」
一匹の犬がいた。その犬が人の首に、喉元に噛みついていた。その場には血があふれていた。噛みつかれている人の目にはすでに光が宿っていなかった。
死んでる。
私にはそんな知識はない。
そんなこと一目でわかるはずがない。
でも、わかった。
すでに喉元を噛みちぎられて、その人は死んでいた。
どうしたらいいかわからず立ちすくんでる私を、犬が見た。
私を見つけた。
それからいかにもぺっ、と、ぷっ、と吐き出すみたいにその人の首を放すと、
「うううう、うううううう」
歯茎をむき出しにした、凶暴な顔を私に向けて、他の誰でもない。その顔を私に向けて唸り声を上げた。
当然私は恐怖に慄いてその場から逃げた。背中を向けて、丸腰で。
人が死んでる。野犬なのか何なのかわからない犬が殺した。警察に連絡しなくてはいけない。
そんなの一切何も考えなかった。構わなかった。ただ恐怖。いきなりハンマーで頬骨を砕かれたみたいな。意味の分からない、わかることなど一生ないだろう恐怖。
逃げ出してすぐに、
「はっはっはっ」
背後から犬の息遣いが聞こえてきた。
普段走り慣れてないのと、恐怖とで足がもつれた。うまく足が前に出ない。そのせいで無様にも転んでしまった。しかしそれと同時に犬が私の前に、私の前の地面に着地した。
飛びかかってきた。
一目見た瞬間それが分かった。
「わああああ!」
叫び出しそうだった。派手に転んだおかげで、膝にも痛みが走っている。ぬめりも感じる。血が出ているだろう。転んだとき地面に手を突いた。ざっ、と地面をスライドした。だから手のひらからも血が出ている。ビラビラした傷が見えた。
でも、私は起き上がってまた走った。逃げた。
怪我や体の不調は、考えれなかった。
その時、立たねば死ぬ、走らねば死ぬ、止まれば死ぬ。それだけだった。
それから覚悟して川に向かった。堤防の坂も全力で走った。肺が破けても仕方なかった。
川岸まで行ったらそのまま躊躇なく靴のまま川に入った。川の浅瀬。
そこで上に着ていたシャツを脱いで振り返る。
すると犬はちょうど川岸で躊躇しているしている所だった。
よかった。間に合った。
その後すぐ意を決したように犬も川に入ってきた。
「うううう」
犬は改めて私を見て凶暴な唸り声を上げた。
私はマスターキートンの事を思い出していた。
犬の回がある。確かタイトルは『暑く長い日』。
ああ・・・。
確かそうだ。そうだったと思う。今日も暑いもんなあ。
どの巻の話だったかは覚えていない。実家に帰省する度読むのにそれは思い出せない。そこまで頭が回っていない。
でも、私が今この状況から助かるにはあれしかない。あれしかないだろう。
うまくいくかわからない。
突然の出来事だった。こんなことになるのは初めての事だったし、あんな事をするのは初めてだ。何もかもが突然の出来事だった。
だから失敗するかもしれない。
うまくいかないかもしれない。
でも、それでもやらなくては。
今それをやらなくては。
たとえ指がもげても、腕がもげても、命に係わる病を患っても。
今やらなくては。
そうして結果私は現在に至る。
世間、世論からすると、犬を犬とは呼べない、呼ばない昨今だ。
ワンちゃんと呼ばなくてはいけないらしい。
でも、私は犬と呼ぶ。
嫌な顔されても注意されて叱責されても、それを変えるつもりはない。
うなりごえ