ここが地獄の一丁目です

朽木 裕

‪雨の朝、ラジオからストロベリーフィールズフォーエバーとジョンが歌う。嗚呼いいな、こんな雨の朝、誰の記憶にも残らないように消えてしまえたなら、きっと、すごく、すごくいい。‬
‪ なんて漂う豆の香りのなか、ぼんやり考えていたら横から頰をむいっと‬つままれてしまった。
「まーた碌でもないこと考えてたんでしょ」
「……煩いなぁ。花純には分かんないよ。それに碌でもないかどうかは私が決めることだし。あ、トースト二枚ある?」
「あるわけなかろうが。自分で焼きなさい」
ちぇーとしぶしぶ席を立ってトースターに向かうと真っ白いディッシュの上に。こんがり美味しそうに焼けたトースト、ご丁寧にバターがじゅわっと塗り込まれている。
「え、うそ、ありがと」
花純からは、ふふん、感謝しなさい、とでも言われると思っていたのだが花純はトーストを先にかじりながら、
「トースト如きには感謝するのになぁ」
と、ぼやいた。横に着席するのもなんだしな、と先程の位置からは斜めの席に座る。花純の斜め前だ。穴が開くほど見つめられて居心地が悪い。
「な、なに」
「いいこと教えたげる。ゆで卵もある」
「え、それがいいことかぁ」
「もうひとつ」
私はトーストのバターがたっぷり染み込んだ場所を、はぐっと食い付く。お行儀悪く咀嚼しながら、なーにーと聞いた。どうせ、サラダもあるよとか言うのだろう。こないだ作ってくれたシュリンプカクテルは最高に美味しかった。もしあれが出てきたら夕飯は花純の好きなだし巻き卵を作ってあげようと思う。なかなかもうひとつを喋り出さない花純に焦れて声を出した。
「なにってば」
「悪魔が死んだよ」
世界が反転して夜に心臓を掴まれるような心地。私と花純の間で悪魔と言えばアイツだ。化学教師の蓮村。学校の教師であり花純の父親。本当なの、と問う声が震えた。返ってきたのはあっけらかんとしたピースサインだ。
「どう、やったの」
「やだよ、紗羅。私がやったわけじゃない」
屈託無く笑う花純は眩しいくらい朝の光がよく似合う。この笑顔は本質だけど上澄みで底にはヘドロが溜まっているのだ。本人の意思とは裏腹に。そう作りかえられてしまった。悪魔によって。私たちは全くの他人だったけれど或る日分かってしまった。私は人の悪意が視える、らしいから。化学教師の蓮村が同じクラスの市井花純の義理の父親であること、校内で性的交渉を無理強いしていること、バレて教師をクビになったら花純の写真を売って稼ごうとしていること──。いつかの夕暮れに帰り道で一緒になって、私が聞く前に花純はなにもかも話してくれた。私は自分の口が固いのは自覚しているし、元より悪意が透けて視えるせいで話すような人物もいない。花純はそれを見越した上で私になにもかも打ち明けたんだろう。聞いてもらいたかったのだろう。そこで私ははた、と気付いたのだった。花純からは悪意が視えないと。友人になるには至極当然で、まぁ今のように同居するほど仲良くなるとは思っていなかったけれどもとにかく花純と沢山話した。同じ時間を沢山共有した。だから分かるのだ。間違いなく花純がやったと。だが花純はやっていないと言う。幾ら目を凝らしても花純の悪意は視えない。
「花純がそう言うならそうかぁ」
「そーそー」
「アイツ今日通夜?」
「うん。どうやってサボろうかな」
「おばさん怒らない?」
「怒らないよ。あの人には罪があるからね」
「そっか……花純、いっそのことガッコーもサボっちゃう?」
「えぇ! 紗羅がそんなこというなんて天変地異。記念にサボることにする! どこ行く何する? こないだ買ったワンピに着替えてくる」
「でも雨だよ」
「もぉ、なんで紗羅はそうやって水をさすの」
雨だけに。わははと笑いながらクローゼットをどたばたする音。食べた食器はきちんと片付けなさいよと言いながら真っ白いディッシュを二枚、神経質に流しに重ねた。
「悪魔が死んだ、のかぁ」
好きな女の子を苦しめる人物が消えた。何も出来ない無力感が消えた。多分、花純自身の努力によって。
「……ごめんね、」
つよくなりたいなぁ、花純を守れるくらいに。だけどどうしたらいいのか私には分からないのだ。
「おばさんもなくせばいいのかな?」
罪がある、と言っていた。見て見ぬ振りをし続けた、罪。それなら。それなら私は? 花純が戻ってきてワンピースでターンする。そして私の顔色を見て、どした? と聞いた。
「私には罪は、ないの」
聞いてどうするというのだ。あったらどう贖えばいいのだ。花純はからりと笑って言った。
「紗羅に、罪は、ないよ」
ほら支度して行こう? そう言って握り込まれた手は恐ろしいほど冷たかった。

ここが地獄の一丁目です

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  • 小説
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  • 恋愛
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更新日
登録日 2019-09-20

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