牡蠣の詩
僕は海に浸していた二つのバケツを一つずつ引き上げた。クリーム色のプラスチックのバケツにはそれぞれ牡蠣が十二個ずつ入っている。片方のバケツの一ダースが僕の分で、もう一つのバケツが彼女の分だ。僕は中の牡蠣を落とさないように気をつけて海水だけ捨てた。捨てた海水が、太陽の光をきらきらと反射しながら、静かに打ち寄せる波に泡を立てて消えていった。彼女が裾をたくしあげて水際に入ってきて、バケツの隣に立てておいたワインの瓶を取り上げた。瓶が倒れないよう集めてあったたくさんの石が、小さな海底火山のように水の中に残った。
僕は水を捨てて軽くなったバケツを一つずつ左右の手に持って浜辺に戻った。ここは浜といっても砂浜ではなく、茶色や灰色の小石が一面に広がっている。波打ち際が遠くまで緩やかなカーブを描き、視界のずっと向こうでよく晴れた空に端っこを引っ掛けるように急に曲がっていた。空は抜けるように青く、真っ白な雲がところどころに浮かんでいる。
僕ら以外に誰もいない浜辺は静かだった。穏やかな波が浜辺の小石を洗う音が、絶え間のない海のひとりごとのように響いていた。波音は静かだったが、近くの波は静かなりによく聞こえ、少し離れた波打ち際の波音は少し距離をおいて聞こえて、ずっと遠くの波音はかすかな気配のように空気を震わせている。試合が終わった球場から駅へ向かう道が人で埋め尽くされるように、波打ち際は無数の静かな波音でずっと先まで埋め尽くされていた。僕はしばらく波音のグラデーションに耳を傾け、それから何も言わずに海に背を向けて街の方へ歩き始めた。彼女もワインの瓶を持って後からついてきた。
浜辺から伸びる舗装路を五分ほど歩くと住宅地に入った。通り沿いのどの家も朽ちることなくまだちゃんと往時の様子を留めていて、でも時の流れの中に少しずつ風化の兆しを見せ始めている。立ち並ぶ家々のうちの、赤い屋根の一軒の空き家に僕は目を留めた。住む人がいなくなってから経過した時間が、砂埃の積もり始めた窓枠や雑草に覆われ始めた花壇に、静かに刻み込まれていた。時おり風がやわらかく吹き抜けていき、すぐにまた静寂に包まれた。浜辺の波音はいつの間にかもう聞こえなくなっていた。
僕らは無人のこの街で牡蠣を食べる場所を探した。しばらく歩くうちにメインストリートに行きあたった。
「ねえ、あそこ、レストランじゃない?」
彼女が少し先の白い建物を指差した。
「そうかもしれないね。行ってみよう」
僕らは人のいない大通りを歩き、その建物の前まで来た。大きなガラス張りの壁を通して中が見えた。何もかもがすっかり運び出され、がらんとした空間があるだけだ。中の壁は外壁と同じ白一色に塗られていたが、その白も時の経過とともに少しずつ褪せ、いまはすこし茶色がかって見えた。ガラス越しに午後の太陽の光が差し込んで、幾何学の問題に補助線を引くように向こう側の壁にざっくりと斜めの線を入れている。
扉の横の柱にはアルファベットを縦に倒して書かれたRestaurantという文字が残っていた。ふと彼女の方を振り返ると、道端の街灯の脇に放り出されたままの黒い木の板を見つめている。板の表面にBernard'sと書いてあるのが見えた。
「ここにしましょう」
彼女はそう言うと、ガラス扉を手で押し開けた。扉には鍵がかかっておらず、少しだけキーっときしみながらゆっくり大きく開いた。僕も彼女の後からバーナーズレストランに入った。中は乾いた空気とホコリの入り混じったにおいがした。石張りの床に薄く積もっていた砂埃に、クッキー生地を型で抜いたようにくっきりとスニーカーの跡がついた。
「あそこの階段、登ってみない?」
彼女が奥の壁際にある階段を指差して言った。僕は頷いた。
薄暗い階段を二人で並んで上がりきると、上の階に出た。ここもやっぱりすべてのものが運び出されて、ただ広い空間があるだけだった。壁と天井は下の階と同じ白に塗られ、同じように色が褪せている。木のフローリングの床にはやはりうすく埃が積もっている。窓が閉め切られていてすこしむっと暑かった。僕はバケツを床に置き、壁際に歩み寄って窓を開けた。部屋に閉じ込められていた密な静寂に、外の涼しい静寂が吹き込んで混じり合った。僕は部屋のすべての窓を開けてまわった。風が吹き抜けて気詰まりな静寂をすべて運び去っていった。
僕らは部屋の真ん中でじかに床の上に座った。バケツを脇に置き、僕は牡蠣を一個手に取った。ポケットからアーミーナイフを取り出して幅広の長いナイフを選び、牡蠣の殻をこじあけた。中から海水がしみ出てきて僕の指先を濡らし、それから床にこぼれ落ちた。僕は上の殻にくっついた貝柱を、ナイフの先の感触を頼りに切った。上の殻は力を失ったように簡単にはずれ、下の殻をぴったり覆った牡蠣の身が姿を現した。
「うわあ」
彼女が声をあげた。
「大きいね」
僕は「そうだね」と返事をしてから牡蠣の身の下にナイフをすべり込ませ、こんどは下の殻につながる貝柱を切った。僕が牡蠣を殻ごと渡すと、彼女は「ありがとう」と言ってから牡蠣の身にかぶりついた。丸々と太った身をつるんと口に入れてしまうと、彼女は幸せそうな表情を顔いっぱいに浮かべて牡蠣の身を頬張った。
「おいしい?」
僕が聞くと、彼女は口の中の牡蠣をけんめいに咀嚼しながらうなずいた。
しばらくしてようやく牡蠣を飲み込むと、彼女は言った。
「ああ、おいしい。あなたも食べなさいよ」
僕は笑顔になってワインの瓶を手に取り、彼女に「飲むかい?」と瓶を少し振って見せた。彼女は頷いた。僕は瓶のスクリューキャップを開け、瓶を彼女に手渡した。
「グラスがないけど、このままでも構わないよね?」
僕がそう聞くと、彼女は頷いた。
「他に誰もいないんだもの。気にする必要もないわ」
彼女はそういって瓶に直に口をつけた。それから口に含んだワインを品定めするようにしばらく味わってから飲み込み、また瓶から一口飲んだ。
「まあまあね」
僕はそれを聞きながらもう一つ牡蠣の殻を開き、こんどは自分で食べた。牡蠣が口を満たすと磯の香りが広がって鼻腔へ抜けた。それからワインを口にした。ちょっと甘口の白で牡蠣にはあまり合わない気がしたけれど、決して悪いワインではなかった。それから僕は次々と牡蠣を手に取り、殻をこじ開けて彼女と一つずつ順番に食べた。何も言わず、ときどきワインの瓶に手を伸ばしながら、僕は黙々と牡蠣を開き、それを彼女に渡し、あるいは自分で口に運んだ。
牡蠣をぜんぶ食べ終えると僕はシャツの裾でナイフを拭い、折りたたんでポケットに戻した。
「手を洗いたいな」
僕がそう言うと、彼女は
「浜辺に戻りましょう」
と言ってワインの瓶に蓋をしながら立ち上がった。僕は食べ終わった牡蠣の殻を半分ずつ二つのバケツに入れ、それから開けていた窓をぜんぶ閉めて回った。部屋の沈黙の密度が増して、少しだけ静寂の圧力が上がった気がした。それから彼女のところに戻り、バケツを手に取って周りを見渡した。部屋は僕らが来たときに比べて、床の砂埃の乱れと、床にこぼれた牡蠣の海水の分だけの違いを残して、またがらんと空っぽになった。
階段を降りてバーナーズレストランを出ると、僕らはもと来た道を戻って浜辺に向かった。少し歩くうちに、さっき来るときに通り過ぎた赤い屋根の空き家がまた見えてきた。人の目では違いは分からないけれど、空き家の窓枠に積もった砂埃は、さっき僕らがここを通り過ぎてから経過した三十分だか一時間だかの分だけ増えているはずだった。人のいなくなった街はそれ自体が大きな砂時計なのだ。測った時間を確かめる人もいないまま、この街もいずれは時の砂に完全に埋もれていく。
住宅地を通り過ぎると、また浜辺の波の音が静かに聞こえてきた。僕らはゆっくりと歩いて浜辺に着いた。遅い午後の陽が浜辺に長く僕らの影を落としていた。僕ら以外には、動くものは僕らの影と海の波くらいしかなかった。
僕は水際まで歩いていってバケツを置き、海水で手を洗った。彼女も一緒についてきて、水際にしゃがみこんで手を洗った。牡蠣の匂いが海の水で落ちるのかどうかよく分からなかったけど、気分はすっきりした。ついでにアーミーナイフも洗い、シャツの端で海水をしっかり拭き取った。
それからバケツを手に取り、牡蠣の殻を海に投げ捨てようとしたところで彼女が言った。
「ねえ、その殻をちょうだい」
「この殻? どうするの?」
彼女は何も答えずに僕からバケツを受け取ると、浜辺の石ころの上に牡蠣の殻を丁寧に一列に並べ始めた。僕は波打ち際から少し離れたところまで戻って座り、彼女が牡蠣殻を並べるのを眺めた。
二ダース分の牡蠣の上下の殻をぜんぶで四十八枚、まっすぐ一列に並べ終えると、彼女は満足そうに自分の成果を眺め、それから僕の隣にきて座った。
「長いでしょう」
「長いね」
「わたしたちこれだけの牡蠣を食べちゃったのよ」
「二十四人の仲間が急にいなくなったら、牡蠣たちはどう感じるんだろう」
彼女は答えなかった。僕らはじっと黙り込んだまま牡蠣の殻の長い列を見つめ、僕らのまわりからいなくなってしまった人たちのことを考えた。
「詩を思いついたわ」
しばらくして彼女が言った。
「どんな詩?」
僕が聞くと、彼女は牡蠣の詩を口ずさみ始めた。
晴れた日の午後に、二十四個、僕らは食べた。
二十四個の牡蠣を、僕らは食べた。
大きくて美味しかった。
食べ終わった牡蠣の殻を、僕らは一列に並べた。
殻の列は長かった。
僕らは渚を歩いた。
海は牡蠣のにおいがする。
牡蠣は海なのだ。
石ころだらけの渚は、牡蠣の殻の色だ。
牡蠣は渚なのだ。
空を見上げると、ぽこぽこ浮かぶ雲は、牡蠣の身の色だ。
牡蠣は雲なのだ。
その雲をぜんぶ包み込む青空が、どこまでも広がっていた。
僕らの胃袋のように。
胃袋は空なのだ。
雲をいっぱい溜め込んだ青空は、
牡蠣をいっぱい溜め込んだ僕らの胃袋のように、
どこまでも広がっている。
「どう?」
彼女が言った。
「素敵だね」
僕は答えた。
「だけどどうして『僕ら』なの? 『わたしたち』じゃなくて」
「これはあなたの詩だからよ」
「僕の詩?」
「そう、あなたのための詩なの」
「ふうん」
言葉が途切れ、僕らの間に静寂がそっとすべり込んだ。
彼女がワインの瓶を手に取り、僕に渡した。僕はキャップを開け、少し飲んでから彼女に瓶を渡した。彼女も瓶から少しワインを飲んだ。それから彼女は立ち上がり、お尻を手で払った。彼女は原始の時代から伝わる秘密の境界を見やるように牡蠣殻の列をしばらく眺め、それからその境界をぴょんと飛び越えて波打ち際へ歩いていった。彼女は水際で裾をたくし上げると、サンダルを履いたまま少しずつ海の中に入っていった。
ひざ下くらいまで水につかったところで彼女は僕の方を向いて、笑顔で片手をあげた。僕は浜辺に座ったまま彼女に向かって右手をあげた。彼女はときどき水の中をのぞきこんだり、危うく体勢を崩しそうになりながら、ずっと足を海に浸していた。
僕は波音を聞きながら、眠気を感じていた。ゆっくりと体を横にすると、静かな波音が僕を包み込んだ。
目が覚めると、僕は浜辺でひとりっきりだった。彼女がいなくなってしまったことが僕には分かった。みんないなくなるのだ。彼女が並べた牡蠣の殻の列が、深く傾いた夕陽に照らされている。さっきより潮が引いて、波打ち際は牡蠣の列からだいぶ遠くなっていた。僕は殻の行列をまたいで水辺へ寄っていき、そのままズボンの裾が濡れるのも気にせず海に足をつけた。彼女が越えていった境界を、僕も越えたかったのかもしれない。だけどいくら待ってみても僕は消えなかった。きっと境界が開くには潮の深さが違っているのだ。
彼女の足を洗っていた水が、いまは僕の足を濡らしていた。あたりに広がる静けさを、穏やかな波音が絶え間なく揺らし続けている。彼女がいなくなった分だけの空隙をそっと残して、前と同じ波音が僕を包んでいた。
牡蠣の詩