ヒイロな青春

堀井疾兎

ヒイロな青春

「八重樫だ! 八重樫がいる! 古田! 八重樫が」
 煩いな。いきなり人を名指しにすんなよ。しかも呼び捨てで。
 九月初め、残暑の暑さにやられかけているところに追い打ちをかけるように現れた見覚えのない制服姿の大女がスカートを翻しつつ立ち去ると「篤史の元カノか?」と左隣にいた最上義顕が僅かに上擦った声で冷やかし半分に囁く。心地よい声だが発言内容は聞き捨てならない。
「違げぇよ。誰があんなゴリラと」
 きっと他校の生徒だろう。身に着けていた制服が俺の通う高校指定のそれと違う。今グラウンドで野球部が他校と練習試合をしているから、相手側の高校だろう。ちなみに篤史というのは俺の名前だ。
 俺、八重樫篤史。ここ以外どこにもいないし、普通じゃない高校二年生だ。
 俺たちの通う高校、成田西高校は進学校であるがここ数年はスポーツにも力を入れているらしい。なんせ大きなグラウンドが二つも三つも敷地内にあって放課後には無神経なラッパの音に混じってどこかしらかの運動部が声をあげていればそうじゃなくてもそんな気がしてくる。特に野球部は数年前に顧問教師とは別に専属コーチが就任すると、三か年計画を実行に移したという話だ。都立高校ながら本気で甲子園行きを目指しているらしい。
「どうするの?」
 俺たちのやり取りを黙って聞いていた早川景太がこちらの顔色を窺うように訊いてくる。
 今は放課後、俺たちは野球部の練習試合をなんの気なしに見ていたのだが、迂闊にも課題のプリントを教室に忘れたことに気づいた。なので少し面倒くさいが一旦教室へ、校舎内へ戻らなきゃならない。それがたった今、さらに益々面倒くさくなった。
 対戦相手の泉なんとか高校の生徒は昇降口のあたりをキャンプ地にしている。正攻法で校舎内に戻るには彼らのキャンプ地を突っ切る必要がある。無論、さっきのダミ声ゴリラ女とそいつが今呼びに行った古田って奴に再遭遇する恐れも高い。
「回り込む?」
 グラウンドの脇、駐車場を突っ切って中空の渡り廊下のある方向を指さす景太。確かに左に曲がって中庭に出ればそこは昇降口の裏側に出る。回りこんでも昇降口には辿り着く。だが、そんな中途半端なマネはしたくない。
「中庭はやめておこう。どうせやるなら徹底的にだ」
 駐車場脇に口を開けている保健室へと向かった。校舎内に入る方法は昇降口だけじゃない。

 奇策は時に予想外の展開を生む。
 俺の誤算はふたつ。一つ目は苛立つ保険医を尻目に保健室から廊下に出てすぐの職員用昇降口にも泉なんとか高校のキャンプの出店ができていたという事。だがこれは想定内、俺たちが出てきた保健室入り口からは距離もあるし職員用下足箱の死角になっていて見えないからだ。おまけに目の前には階段があるのでさっさと昇っちまえばいい。俺らの目的地は本館二階にある教室だからゴリラにも古田にも遭遇することなく目的を果たせる。
問題は二つ目だ。

「本当にやるんですか? 正気を疑いますよ!」
「今更もう撤回はできん」
「撤回ならできますよ。すぐに代役は用意できます」
「勝手なことをするな!」
「勝手なのはどっちですか! 会長に無断で学園紛争が起きただなんて母校の恥をさらそうとしてるのはあなた方の方でしょう! 賛同できかねます!」
「それは君の勝手な意見だ。私は自分の青春時代を恥だとは思わん」
「同感だ。それに俺だって当時の現役生として成高封鎖に参加したんだ。あんまり悪く言われちゃ困る」
 階段の手前で中年男らが四人、言い争いをしていた。見たところ成田西高校の教師でも生徒でもなさそうだ。一番若そうな日に焼けた男がこちらを一瞥する。
「『また』現役生に尻拭いさせる気ですか?」
 やばい、これは巻き込まれる。
「今の現役生は関係ないだろ!」
 やせぎすの頭の禿げあがった中年男が声を荒らげる。
「あるでしょう! 成高の校舎内でやるんですよ?」
 眼鏡をかけた七三分けの中年男がそのごつい体格に似合わない甲高い声で反駁する。先ほどから正気を疑うだの母校の恥だのと、相当お怒りのようだ。ちなみに成高というのは成田西高校の略称だ。見知らぬ中年男らの争いを食い入るように眺めているとさっきの日焼け男が再びこちらを見据える。目が合った。やばい。そして問いかける。
「……君らはどう思う?」
 ああ、連中が身内同士で争っている間に逃げてしまえばよかった。

 彼らは銀杏会の役員だと名乗った。
 一言で説明するなら成田西高校の卒業生による集まりだ。毎年学園祭に合わせて卒業アルバムを展示しつつそれを撮影してSNSなんかに投稿しようとする不届者に目を光らせたり、卒業生向けに講演会を企画したりなんかしている。銀杏というのは成田西高校の正門から裏門へ突っ切る下手な車道よりも広い道の両脇に並ぶ銀杏並木に由来しているらしい。
 問題はその、講演会の演目だった。
 今から五十年前、日本中に学園紛争の嵐が吹き荒れた。日米安保条約とやらの改正に反対したものらしい。だが、それが俺たちにどう関係あるんだろうか。ヘルメットとタオルという有り合わせの防具で頭部を辛うじて保護し、角材と軍手という有り合わせの資材で申し訳程度に武装した集団が彼らより明らかに重装備な機動隊ともみ合う姿はテレビで白黒映像でなら見たことはある。だが、ああいったことが起きたのは東京大学みたいな主に大学というイメージなんだが。俺たちにどう関係があるんだろうか。
「この成田西高校でも学園闘争が起きたんだよ。我々は『成高封鎖』と呼んでいる」
 白髪頭の眠そうな目をした老人がやけによく通る声で説明してくれた。
「だから! それが恥だと言ってるんですよ!」
 七三が口をはさむ。
「とりあえず、その成高封鎖だか学園闘争だかが俺たちとどう関係あるんですか?」
 しびれを切らした義顕がうんざりといった風に大人たちの口喧嘩に割って入った。こういう時に冷静で弁が立つ義顕がいてくれて助かる。景太は多分俺たちの背後に居るが何かを口に出すようなことはしていない。
「十月に講演会をやるんだ」
 やせぎすの禿げた中年男が義顕の疑義に応えた。猛禽類のように全体的に細長い。その脇に立つ白髪頭が続ける。
「テーマは五十年前の学園闘争・成高封鎖について。講師には成高の元教師である篠原先生にお越しいただく予定だ」
「その篠原先生っていうのが問題なんですよ」
 今度は日焼け男が割って入る。そして続ける。
「噂にはいろいろと聞いていますよ。えらく偏った思想をされているとか。なんでもことあるごとにヒロヒトがどうだとかぶつくさ言ってたらしいですよ」
「ヒロヒト! 不敬にもほどがあるな」
 同調する七三。
「証拠はあるのか? 誰が言ってたんだ?」
「黙秘します」
「おいちょっと待て」
 四人のおっさんたちは同時にこちらを見る。部外者でも見るように。人を勝手に巻き込んでおいてそっちのけで盛り上がらないでほしい。
「誰なんだ、そのヒロヒトっていうのは?」
「昭和天皇陛下の事に決まってるだろ!」
 七三が声を張り上げて事態をさらにヒートアップさせた。この蒸し暑い中でギャアギャアと喚きやがって。水もってこい。この煩いおっさんどもにぶっかけてやる。

「どうしても篠原先生を呼びたいというならこういうのはどうでしょう」
 それからしばらくしてようやく落ち着いた七三が口を開いた。
「篠原先生は鉄道にも詳しかったと聞きます。お題をそう言った方向へ移したらどうでしょう」
「妙案ですね。ちょうど今日お見えになるんでしょう篠原先生」
 日焼けが賛同する。
「今更お題を変えさせるのは無理だろう。しかし……」
 猛禽類はあきれたように反論する。
「遅いですね。確か三時の約束ですよね?」
 と日焼け男。
「連絡はしたんですか?」
 と七三。
「さっき、すぐ着くと連絡があったんだけどなぁ」
 と白髪頭。
「……今のうちに逃げよう。面倒事はたくさんだ」
「……そうだな」
 注意が逸れた今のうちだ。目立たないようにすぐ横の階段は使わずに職員用昇降口前の廊下を通って昇降口脇の階段から二階に昇ろう。泉なんとか高校のキャンプからもそれなりの距離はあるからなんとかなるだろう。煩いおっさんどもに見咎められないように目配せすると俺たち三人は静々とその場を後にした。
 はずだった。

 背後でゴッツンとなにか固いものがぶつかる鈍い音がした。そしてその反響音も。俺たちの現在地からほど近く。直前に通り過ぎてきた来賓用トイレから聞こえてきた気がする。
 そしてその音と示し合わせたように駆け出してきた足音。振り返るとそこには職員用昇降口。西日が逆光になっていてまぶしい。そして逆光に映える人影。何食わぬ顔で校舎外へと溶け込むように足早に走り去ろうとしている。
「義顕! とっ捕まえろ!」
 俺が叫ぶコンマ五秒前に義顕は逆光で人影を追って駆け出した。景太が続く。
 一方俺は物音のした方、外気に触れてむんと蒸し暑い来賓用の男性用トイレへと駆け込んだ。なにもなければいいが。

 俺の淡い願望はあっさりと打ち砕かれた。さもなくばこんなこと態々人に読ませる文章にしてないし、しょうがないよな。

「亡くなったのは篠原久一。元高校教諭。死因は頭部を強打されたことによる頭蓋骨陥没と脳挫傷。強い力で突き飛ばされた拍子に柱の角に頭部をぶつけたものと思われる」
 あの煩いおっさんたちはこの日、心待ちにしていた篠原先生とついに会うことはなかった。あの言い争いの直後来賓用トイレで他殺体となって発見されたからだ。当然ながら十月に予定されていた成高封鎖の講演も鉄道云々の講演も聞けなくなったわけだ。興味なかったしどうでもいいけど。
そんなことよりお陰様で校内が騒然として、教室に戻れなくなったことの方が俺にとっては重大事だ。そのまま駆けつけた警察らによって“任意”で近隣の阿佐ヶ谷警察署まで連れてこられてしまった次第だ。目撃者、第一発見者、そして被疑者として。
「……しかし、お前とはよく会うな」
 くたびれたダークグレーのスラックスに白いワイシャツ姿の刑事は俺へ視線を合わせてからあきれたように言った。焦げ臭い。さては、出動前に一服ふかしてきたな。それに態々身を屈めなくたって身長も目線も俺と大して変わらないじゃないか。
筧修造。たった今俺の目の前で忌々し気に喋るあまり背の高くない刑事の名前だ。背は低いがもみあげは無駄に長い。
 俺と筧修造の腐れ縁は三年前に遡る。あるきっかけで傷害事件を起こした俺に彼は取引を持ち掛けた。罪の免除と引き換えに捜査、主に潜入捜査への協力だ。おかげで俺がこの手の事件に巻き込まれると大概こういう情報は入ってくるしその代わりに手伝わされる。捜査協力費名目で若干の小遣いは出るけどな。この悪徳刑事はそういった協力者を複数抱えており、彼らのことを『予備役捜査官』と呼んでいる。よく刑事ドラマとかに出てくるエスって呼ばれているのに似たあれだ。
「被疑者の手際よい拘束ご苦労だった。だが根拠を教えてほしいな」
 筧修造が言う被疑者というのは、あの物音の直後に逃げたやつらの事だ。あの後、義顕と景太が速やかに捕縛してきたのは制服姿の男子生徒が二人と体操着姿の男子生徒が一人。併せて三人。想定していたよりもちょっと多い。すぐに成田西高校との練習試合のために遠征してきた都立繞泉学園高校の生徒だと分かった。
義顕曰く、あの瞬間に職員用昇降口付近にいたやつを全員連れてきたとのことだが、逆光だったため俺も含めて誰も正確に顔を見ていない。服装だって制服は胸元に紺色の校章を刺繍された白いワイシャツにグレーのズボン、体操着は胸元に紺色で生徒氏名を刺繍された白いシャツグレーの短パンと配色が似ていて誰も正確に覚えていない。なにより距離があったし逆光だったんだ。おまけに三人のうち制服の一人と体操着姿の二人は双子だ。顔を覚えていてもこれじゃ分からない。
 双子ではない制服姿の生徒は戸坂、そして双子はそれぞれが越川と名乗った。体操着の方が兄で制服の方が弟らしい。三人は俺たちとは別室で取り調べを受けているそうだ。俺たちと扱いが違うがそれは俺たちが目撃者と第一発見者であって彼らが被疑者であるという違いのせいだ。
 全く関係ないだろうが、阿佐ヶ谷署には今、ついでに銀杏会役員の四人も連れて来られている。白髪頭の名前は銀杏会副会長の飯能、猛禽類が川口、七三が熊谷、日焼けが尾上というらしい。順当に考えれば俺たちの後方で四人で固まっていた彼らが現場内に居合わせただろう誰かさんを欺いてリアルタイムで篠原某を殺害できるとは考えにくい。
「俺思うに、飯能と川口の二人が講演会に賛成で、尾上と熊谷が反対派みたいだね」
 景太がぽつりと呟いた。やり取りを見ていればあの四人の誰が賛成でだれが反対かなんてすぐわかるんだが、こいつはなにも聞いていなかったのか? あとそれから、今それは関係ない気がするんだが。相変わらず空気なんて読まないやつだ。
「前者二人は学園『闘争』、後者二人は学園『紛争』って呼んでた」
「それ一緒じゃね?」
「違うよ、あれは立場によって表現が微妙に変わるんだ」
 こちらの思惑なんざ気にも留めず景太は続ける。確かに景太にはどこで会得したのかと思うほどの膨大で広域な知識を持っている。だが、その代償なのか基本的に空気は読まないし話も合せない。影も薄い。いうならば究極のマイペースだ。そういう奴を陰キャだのコミュ障という奴もいるが俺はそうは思わないしそういう見下した表現が大嫌いだ。もし俺の連れを、友達をそんな見下した表現で馬鹿にする奴がいたとしたら、片っ端から血祭りにあげてやる。俺に言わせれば他人を平気で傷つけられる奴こそが真の意味での“コミュ障”だ。
「ああ、あれか、反乱と革命みたいなもんか」
「うーん、ちょっと違うけど似たようなもんかな」
「話はまだ終わっていないんだが」
 義顕が景太の気まぐれ発言を理解しかけた時、筧修造によって強引に現実に引き戻された。いいよなお前ら学生は自由で、とでもいいたげな口ぶりだ。
「おしゃべりなら後で好きなだけやってくれ。どうせお前たちはすぐ自由の身だ」
「で、なんでしたっけ?」
「お前たちがあの三人をとっ捕まえた根拠だ」
「ああ、それでしたら……」
――やっべ、逃げろ!
「……っていう声が聞こえてきたんですよ。んで、その直後来賓用便所から来賓なんかじゃないはずの彼ららしき人影が出てきたんです」
 俺は普通の人と比べて聴覚が鋭敏だ。聞こえすぎて状況に応じて耳栓を愛用しているくらいに。だから、この世界には俺にしか聞こえない音や声がたくさんある。
 そして、俺しか聞けなかった声はもう一つ。

「ハエ?」
「そう、確かにあの爺さんは死に際にそう言った」
 殺された篠原って元教師の事だ。俺が駆け付けた時にはまだ息があった。だが篠原は『ハ』、『エ』と途切れ途切れに言うとそのまま自身も事切れてしまった。
 筧修造の予言通り俺たちはあの後ほどなく解放された。勝手知ったる阿佐ヶ谷警察署の無駄にでかくてきれいな庁舎を後にして、陽が落ちかけて薄暗さにもかかわらず相変わらず勢力を保つ猛暑の中、阿佐ヶ谷駅手前の大通りをちんたらと歩く。
「ハエ、蝿、映え……」
 義顕は一瞬顔をしかめた。厭なことを思い出したように。
「インスタ映え」
「瑞樹か」
 義顕が連想したこと。俺たちとよくつるんでいるのはもう一人、日野瑞樹ってやつがいる。今日はクラスの女子たちと阿佐ヶ谷駅前に新しくできたカフェにパンケーキを食べに行ったために幸運にも事件に巻き込まれずに済んだ。同行する女子は複数人いたため、デートの類ではないようだ。
そんな広すぎる交友範囲のなせる業か帰国子女だからなのか俺たちと比べてどこか距離感とか貞操観念とかがおかしく、よく義顕にセクハラまがいの言動をとったりしているため、義顕は若干敬遠しているんだ。むしろ怖がっているという方が近いかもしれない。
で、その瑞樹が最近よく口にするのが、インスタ映えだ。ろくに食べもしないお菓子やらなにやらを写真にとってその見てくれを比べるってやつだ。そこまでやるんだったらぶりっこしてねぇで全部食えよ。お前が大食漢なのは俺たちはよーく知っているんだからな。まぁ、それを食おうが捨てようが地球の反対側で飢えるアフリカの子供たちにはあまり影響しなさそうだが。
「だとしてもさ、映えるか? あのトイレ」
「映えねぇな」
 義顕は即答した。苦々しい表情のまま。
 確かにあの外気に近く季節柄蒸し暑くて所々タイルが剥離していて最低限の清潔感しかない水色のそれもわずかに異臭の漂う気がする空間が『バエる』とは思えない。あの篠原っていう元教師の爺さんが相当特殊な感性をしていれば別だが。そんなことよりもっと分かりやすく俺にいろいろ教えてほしかった。例えば、犯人の名前を直接言うとか…… 面識なさそうだし無理な話か。

 どうせなにも思いつかないし、思い付きを口にしてみる。
「せっかく阿佐ヶ谷まで来たんだし、瑞樹の言ってたカフェで俺たちもパンケーキ食う?」
「パス、ガラじゃない」
「でも俺たちじゃなにも閃かないし」
「じゃ訊くが瑞樹にそんな難しい問題がわかると思うか?」
「更々思っちゃない」
「なら猶更パスだ。絶対ろくな事になりゃしない。そうだ腹が減ってるならラーメン食おう。それから考えよう」
 どうやら義顕は余程瑞樹と一緒にパンケーキを食うのが嫌なようだ。大体想像がつく。はいあーんだけで済むなら生ぬるい。メニューになにかしら細長くてある態度丈夫な食材があったが最後ポッキーゲームなんてしでかしてくるだろうな。普段俺とかが諸々苦しんでるのをニヤニヤしながら眺めてるサディストの義顕にはたまにはそういう目に遭うのも悪くないんじゃないか。
そういう点では細長くても丈夫さに乏しいラーメンなら義顕にとっては安全というわけだ。ちなみにパスタだと駄目らしい。ディズニーがどうとか、細かい決まりがあるらしい。
「景太はどうする?」
 さっきから一言も発せずに後ろをくっついてきた連れを強引に隣に引き寄せる。
「ハエってことはさ、」
「いやもうインスタ映えはどうでもいいんだよ」
「インスタ映えじゃなくって、確かあの被害者の人……」
 うつむき気味の顔を上げると景太は意を決したようにこちらをはっきりと見つめてきた。

「……はっきりとしたことは言えないけど、とっさにそう考えたのかもしれない」
「なるほど、だがそれじゃ決め手にはならないだろ」
「いいや、俺は十分だと思う」
 コミュニケーションというものは、相手に届いているかどうかがぱっと見じゃわからないから実に厄介なんだ。だから俺たちには状況を推し量るための忍耐力と観察力が必要になるんだ。

 三度目のコールの途中で気だるげな声に切り替わった。
「なんだ、夜分遅くに」
 お前から連絡よこすときはいつもこの時間だよな。と言いたげに聞こえた。それもそのはず。俺が筧さんに連絡をするときは決まってこの時間帯、午後七時半だ。理由はないが習慣になっている。
「被害者の発した『ハエ』の意味が分かりました。その答え合わせです」
「そんなことか。まぁいい」
 被疑者の身柄はすでに抑えている。なにも俺が教えなくたって、時間の問題で早晩解決する事件だろう。だがなにもせず手を拱いているのも俺の正義が許さない。なんにも真相には近づいちゃいないが、それでもなにもしないよりはましだ。なにより今の俺は、犯行時刻に現場に居合わせた人物の数すら正確に把握していない。
「こちらも現場検証で色々分かったことがあってな。一応聞いてやる。ハエってのは誰を指しているんだ?」
 そして犯行動機だってわかっちゃいないんだ。
「越川です」
「……越川は二人いるぞ?」
「兄の方です」
「……で、なぜハエが越川になるんだ?」
「電報の駅名略号です」
「電報?」
 と、景太の言っていたことを一字一句そっくり伝えてみたが、正直俺自身が電報がなにかをいまひとつ理解していない。そもそも被害者の篠原が鉄道に造詣が深いという話すら俺はまともに聞いちゃいなかったというのにだ。
「駅同士で駅名を伝えるとき、電報の文字数を節約するために使われてた略号です。例えば阿佐ヶ谷駅だったら阿佐ヶ谷のガヤからとってカヤといった具合にです。基本濁音半濁音は使いません」
「能書きはいい。結論を言ってくれ」
「ハエというのは川越駅を指します。旧仮名遣いの『かはごえ』に由来しているそうです」
「逆だな」
「そうです、逆なんですが…… 同じ漢字を使っているために連想ゲーム的に閃いたのではないかと」
 景太によると似た駅名として越川駅とや会津越川駅という駅もあるにはあるが、越川駅はすでに廃駅になっており、会津越川駅は余計な文字が多いため川越駅を連想したんじゃないかと自信なさげに言っていた。
 多分あってると思う。
 少なくとも俺は、景太を信じる。
「そして、篠原が越川を越川だと判別する手段は一つしかありません。直接見たんです。彼の体操着に刺繍されている越川という名前を。つまり、あの時体操着を着ていた兄の方が少なくとも現場にいたということになります」
 つまり、あの時体操着を着ていた方の越川が怪しいと。
「そうか」
「ただ、動機が分かりません。なぜ面識のないはずの越川が篠原を殺害したのか――」
 被害者と加害者に面識がなければ衝動的犯行だろうが、どこがどう衝動的になったのか、皆目見当がつかない。
「それには及ばない」
 電話越しでがやがやとした物音がしたのち、筧修造が俺の言葉を遮る。
「たった今連絡があってな、越川比呂人が篠原殺しを自供した」

ヒイロな青春

ヒイロな青春

成田西高校内にて殺人事件発生! 篤史の機転により被疑者らしき人物は確保したものの、その中の誰がやったのか、なぜやったのか一切不明。かくして当事者でありながら蚊帳の外に置かれた篤史は、死者から託された伝言に一縷の望みをかけ、犯人の名前を暴くことで一矢報いようとする。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • ミステリー
  • 青年向け
更新日
登録日 2019-09-18

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