冬景色銀猫取替譚(ふゆげしきぎんねことりかえたん)
1 私とつきあって
どうすればうまく人を騙せるか。
僕には難しい事なのに、双子の姉である美蘭は平然とやってのける。
「まずは自分が、その嘘を本当だと信じることよ」と言うけど、それも嘘かも。
とにかく、今はやるしかない。僕はキャリーケースに入っているロシアンブルーの雄猫を抱き上げ、「この猫の名前はミントだ」と自分に言い聞かせた。
銀の被毛に包まれた身体にはまだ子供らしい線の細さがあるけれど、大きな前足から察するに、もう一回りは育つだろう。
そんな猫を抱えた僕を見守っているのは、杉田という苗字の二人姉妹とその母親だ。
「迷子になっていたミントです。昨日、こぐま幼稚園の裏で捕まえました」
僕がその言葉を口にした途端、隣に座っていた美蘭がこっそり脛を蹴ってくる。そうか、「捕まえた」じゃなくて「保護した」だ。でも実のところ、僕はこの猫を捕まえても保護してもいない。
僕の名は夜久野亜蘭。高校三年生で、副業は「猫探偵」。迷子の猫を見つける仕事だ。
といっても人間相手の探偵みたいに面倒な事は一切しない。僕はただ、いなくなった猫が愛用していた物を触るだけで、その居場所が何となくわかるのだ。後はその「何となく」をより強く感じる方向をたどるだけ。
猫愛用の品は、爪とぎでもクッションでも構わない。猫用トイレでも無理じゃないけど、できれば別のものがいい。でも、どうしてそんな真似ができるのか、という質問には答えられない。どうして夢を見るのか、なんてきかれても説明できないのと同じだから。
とはいえ今回、僕の仕事は迷子の猫探しではなかった。
「ペットショップで猫を預かって、飼い主さんのところに行って、迷子の猫ちゃんが見つかりましたって引き渡すだけ。あんたがいくら馬鹿でも、これくらいはできるでしょ?」
いつも美蘭が仕事を引き受ける窓口で、料金交渉から日程まで全て管理していて、僕はただ、言われた通りに動くだけ。そして報酬もほとんど彼女が懐に入れてしまう。
「いくら猫が探せても、マネージメントがなけりゃ一円も稼げないし」というのが彼女の言い分で、僕はなんとなく反論できないままでいる。
そして今日、僕らは学校帰りにペットショップ寄って猫を預かり、タクシーに乗った。双子とはいえ僕と美蘭はひどく仲が悪く、並んで座ったところで互いに無言。でも途中、ちょっとした渋滞につかまったせいで、美蘭は退屈しのぎのように口を開いた。
「この猫さ、いなくなったミントの兄弟なのよね。値段が高すぎて売れ残ってたのがラッキーだった」
「その、ミントって猫は探さないの?いなくなったのに」
「探さなくていいの」
「どうして?」
「だからさ、この子をミントって事にして連れて行くのが、今回の仕事なの」
「そんな仕事、誰が依頼してきたの?」
「杉田さんちの娘。二人姉妹のお姉さんの方。せっかくお父さんが買ってくれた猫なのに迷子にしちゃったから、こっそりもう一匹買って、猫探偵が見つけた事にしたいって。親に気を遣っちゃってさ。泣かせるじゃない」
「でもさっき、高すぎて売れ残りって言ったよね。この猫いくらするの?」
「本体価格三十九万円。ロシアンブルーの血統書つきで、父親はコンクールのグランドチャンピオンだもん。それくらいはするわよ」
僕はあらためて、キャリーケースの中にいる猫をしげしげと見た。たしかにバランスのとれた体型で、毛艶もいいし顔立ちも整ってるけど、高校生に払える値段だろうか。
「でもね、払ってもらったのは三万円だけ。値段が高すぎて、いけないバイトとかされたら嫌だから、保険をうまく使ってね」
「保険?」
「購入してから三か月以内に病気で死亡した場合は、同じ価格の猫を差し上げますって保障があるの。だからさ、獣医さんに一万円払って病死の書類作ってもらったわ。だから儲けはたったの二万。ほとんどボランティアよ。もちろんあんたの取り分はないから」
馬鹿らしくて返事する気もない。タクシーはさっきより五メートルぐらいしか進んでなくて、美蘭はまた話をつづけた。
「それはそうとさ、この杉田姉妹って二人とも高三なの。でも双子じゃないのよ。さて何でしょう?」
「は?三つ子であと一人いる」
「あんたにしては、まあまあの回答ね。でも外れ。正解は四月生まれと三月生まれ。間が詰まり過ぎで、色々言われそうなパターン」
自分がいちばん色々言いそうなくせして、美蘭は「ちょっと可哀想よね」と、心にもない科白を吐いてみせた。
「室内飼いの猫って、外に出ただけでパニックになって、帰れなくなったりするんです」
僕がミント「二号」とでも呼ぶべきその猫を抱き上げてみせても、杉田家の姉妹と母親は無言だった。ふつう、迷子の猫なんか連れて戻った日には、飼い主は泣いたり笑ったり大騒ぎだけど、三人は神妙な顔で僕の話を聞いているだけだ。
とはいえ、仕事を頼んできた姉の方は、僕の嘘を判った上で平静を装ってるわけで、いわば共犯者だ。
僕は猫を抱いたまま、真柚という名の姉を盗み見た。学級委員が似合いそうな優等生タイプ。目が大きいんだけど、顔の輪郭が卵型なので大人びた雰囲気があって、まっすぐな黒髪を肩まで伸ばし、口元に微かな笑みを浮かべた、優しげな印象。
僕は自分の姉である美蘭が鬼のような気性だからか、こういう女の子に惹かれてしまう。でも、一番接点がないのもこのタイプだ。
そして妹の靖江は、姉と似ていなかった。前髪を眉の上で一直線に揃え、二つに分けた髪をピンクのゴムできつく縛っているせいで、丸顔がさらに強調されている。ほっそりした姉に対して彼女は分厚い体型で、一重でつぶらな目と少し上向きの鼻も似ていない。
遠慮がちな沈黙はさらに続き、その空気を変えるつもりなのか、おもむろに美蘭が口を開いた。営業モードの笑顔も添えて。
「ミントちゃん、いなくなった時より少し大きくなっているから、感じが違うかもしれませんね」
その言葉に誘われたように、妹の靖江が「ミント、おっかえりー!」と叫んで立ち上がり、僕の手から猫を奪い取った。
「もう、いきなり迷子になるから心配しまくったよ。お仕置きしまくり~!」
少しハスキーな声でそう言って、猫の前足を左右の手でつかみ、すごい勢いで揺さぶっている。不意をつかれたのか、猫はなすがままだったけれど、しばらくすると短く声を上げて靖江の腕をすり抜け、床に飛び降りた。
「あらららら!お仕置き拒否?ミント、許さーん!」
そう叫ぶ間にも、猫は開いていたドアの隙間から廊下に飛び出し、靖江は大きな足音を響かせてその後を追った。まあ、初めての場所だけでも警戒するのに、いきなりあんな事をされたら、どんな猫だって逃げる。
真柚と母親は困ったような笑顔を浮かべるだけで、どうやら靖江のこういった行動はいつもの事らしい。美蘭の様子をうかがうと、「どうにかしろ」といった視線が飛んできた。仕方なく僕は「ちょっと失礼します」と声をかけ、靖江の後を追った。
廊下はそう長くなくて、突き当りの左が玄関、右は階段だ。どうも猫は玄関のシューズラックの下に潜り込んだらしくて、靖江はその前で這いつくばっている。
「ミントちゃーん、出てこないと更にお仕置きポイント五倍だよ」
相変わらず大声で叫んでるけど、これじゃ逆効果だ。さっさと引き上げたい僕は、「あの、代わってもいいですか」と声をかけた。靖江はびっくりしたような顔で振り向くと、「何?」とたずねた。
「いやあの、代わりに猫、捕まえてもいいですか?」
またしても「捕まえる」、なんて言ってしまったけど、靖江は気にする様子もなく頷いて、僕に場所をゆずった。床に手をつき、シューズラックの下を覗き込むと、一対の目が光っている。僕が腕を伸ばすと、鋭い爪にあらん限りの力を込めて攻撃してきた。
「わっちゃ~、痛そう」
同情というよりは面白がっている感じで、靖江は一瞬で傷だらけになった僕の手を見ている。まあこんなの、美蘭の暴力に比べたらどうって事ない。とにかくこのままじゃ、猫は一家が寝静まるまで出てこないから、僕は裏技を使うことにした。
裏技、というのはまあ、猫探しと似たような芸当で、僕は一度さわって「回路」をつないだ猫なら、思い通りに操ることができるのだ。目を閉じて気持ちを集中し、怯えたミント二号の波長を探り当てると、そこに飛び込む。
次の瞬間、全身から冷や汗が流れ、喉がからからになり、胃がせりあがったような感覚に見舞われる。つまりこれが今まさに、この猫の感じている事なのだ。
更にお腹が差し込むように痛くなってきて、放っておくと大惨事になる予感。僕は猫に引きずられるのを踏みとどまり、逆に自分の感覚を送り込んで向こうの不安と恐怖をねじ伏せる。
何度か深くて長い呼吸を繰り返し、心拍が落ち着いたらしばらくは毛づくろい。足の肉球から背中まで一通り舐め終わったら、大きく伸びをして、明るい方へと這い出して行く。
そこで僕はミント二号との接触を切ると、シューズラックの下に腕を伸ばした。すぐに猫の柔らかくて暖かな身体を感じる。
「うわお、出てきたあ!」
靖江の歓声に猫は身体を固くしたけれど、ここで逃がすわけにいかない。僕はしっかりと抱き寄せて「ちょっと静かにしてもらっていいですか?」と言った。
「猫って、うるさいの苦手なんで」
それからまた、自分の失言に気がつく。顧客に向かって「うるさい」とはいかがなものか。何とか取り繕おうとして「猫は明るい元気キャラの人とか、苦手なんです」と言ってみる。
そんな努力も空しく、靖江はさっきの騒ぎが嘘のような真顔で、僕と猫を見ていた。やっぱり「うるさい」が気に障ったんだろう。後で告げ口とかされて、それが美蘭に伝わって、また「失言マシーン」と罵倒されるに違いない。
僕は憂鬱な気分で猫を抱いたまま、リビングへ戻ろうとした。その時靖江が「ねえ」と呼び止めた。
「私とつきあって」
とっさに言葉の意味が分からず、僕はそれを何度か頭の中で再生してみた。ワタシトツキアッテ。ワタ、シトツキアッテ。ワタシトツ、キアッテ。
「あ、私のことはサバエって呼んでね。友達にはそう呼ばれてるから」
「サバエ?」
「そうそう。じゃ、オッケーって事で」
ようやく、何がオッケーなのかが見えてきた頃、彼女は僕より先に廊下を戻ってリビングのドアを開けていた。
「発表します!私、杉田サバエは今日から猫探偵さんとつきあう事になりました!」
そんな馬鹿な。
慌てて否定しようと僕がリビングに飛び込むと、美蘭が「気の利かない弟ですが、どうぞよろしくお願いします」と頭を下げていた。
母親である杉田夫人は「いきなりそんな、ご迷惑かもしれないでしょ?この子はいつもこんな調子で」と困惑ぎみだけど、美蘭は「将来的には婿養子の方向でご検討いただければ、これ以上の幸せはありません」と請け合ってる。
「いやあの、何かの」
間違いだから、と釈明しようとする僕を遮り、美蘭は「じゃあ、猫ちゃんも疲れてるでしょうから、私たちこれで失礼します。弟の連絡先はまた、妹さんにお知らせしますね」と言って、一瞬だけ僕を冷ややかに見た。
何だか判んないけど、これは「絶対やれ」の目つきで、逆らえば半殺しにされる。僕は仕方なく言葉を飲み込み、抱いていたミント二号をリビングの隅にあるケージに入れた。
ここなら身を隠す場所もあるし、とりあえずは落ち着いてくれるだろう。そしてロックをかけようとした時、妙な感じが指先から背中へと走った。それが何だったのかを確かめる前に、サバエこと靖江の「探偵さん!」という声が襲いかかる。
「手の傷、消毒しなきゃダメだよ。絆創膏貼ってあげる」
「いいです。こんなのすぐ治るから」
僕はとにかく全力で彼女を振り切ろうとした。その肩越しに、姉の真柚の優しそうな笑顔が見えて、それがまたダメージになる。なんで、彼女じゃないんだろう。
通りに出てタクシーを拾って乗り込むと、美蘭は鞄から財布を取り出し、一万円札を一枚、僕の膝に投げてよこした。いつもは仕事をしても催促しなければ十円だってくれないのに、何のつもりだろう。
「とりあえず、デートの資金渡しとくわ。一円単位まで割り勘みたいな、しみったれた真似は死んでもしないでね」
「本気で言ってる?悪いけど、あの子とつきあうなんて無理だから」
僕は自分の決意が固いのを強調するため、潔く万札を美蘭に突き返した。彼女はそれを一旦手にすると、三つ折りにして僕のブレザーのポケットに滑り込ませる。まるでスリみたいな早業。
「あんたには相手を選ぶ権利なんかないのよ。いいじゃん、しばらく遊んで、やっぱり妹としか思えないってさよならすれば。うまく立ち回ればお姉さんの真柚ちゃんに乗り換えできるかもね」
美蘭は訳知り顔で笑う。僕の本心お見通しと言いたいんだろうけど、男が百人いれば九十九人はサバエより真柚を選ぶに決まってる。
「早いうちに、婿養子に行ってもらえると嬉しいんだけどね」
「本気で言ってる?」
「だって一人でも食い扶持が減ったら楽じゃない。だからって、いきなりデキ婚とかやめてよね。もめごとは面倒くさいから」
「ありえないし」
僕はもうそれ以上、サバエの話をするのが嫌になって口をつぐんだ。まあいいや、つき合ったふりだけして、別れたって事にしておけば。しばらく寝ようと足を組み、目を閉じたところでふと思い出す。さっきの妙な感覚。
「あのさ、いなくなったミントって、まだ見つかると思うよ」
とりあえずそれだけ伝えて、僕は本格的に眠る体勢に入った。しかし美蘭は「何?」と僕の髪をひっつかむと「どういう事よ」と揺さぶった。
「さっきケージ触った時に感じたんだ。いなくなった猫は、まだ生きてる」
「だったら見つけなきゃ。三十九万円もする猫なんだから、いい値段で転売できる」
「見つけなくていいって言ったのそっちだろ」
僕は美蘭の手を振り払うと、また目を閉じる。それでも美蘭はやる気満々で、運転手に引き返すよう告げていた。
2 古い知り合いってやつ
みんな一体ここへ何しに来てるんだろう。
群れをなして回遊する魚の一匹になったような気分で、僕はゆるい坂道を下る。やたら目につく十代の女の子は、制服姿だったり、流行をしっかり追いかけた私服だったり、ロリータファッションで外国からの観光客と写真をとってたり。
彼女たちをここに引き寄せているのは何だろう。お小遣いで手が届く範囲のアイテムを揃えたショップ、アイドルが写真をアップしたスイーツ、芸能事務所のスカウトが来ているという噂。どれも正解なようで、間違いに思える。ふだんこのあたりに足を踏み入れない僕は、喧噪と人の多さに眩暈を起こしそうになっていた。
「ねえ、次の角で曲がるよ」
力強く腕を引っ張られて、我に返る。隣には制服の上に紺色のピーコートを着たサバエ。僕は彼女に連れられてここに来たのだった。
サバエの一方的な交際宣言を、僕はいまだに断れずにいる。その理由は猫。
僕と美蘭はあの日、まだどこかにいるらしいミント一号、つまり迷子になった最初の猫を探すために杉田家の近くまで戻った。しかし一号が失踪したのは半月近く前の事だし、その気配もすっかり薄れていて、僕はうまく跡をたどる事ができなかった。
「何よ、まだ生きてるとかって偉そうなこと言っといてさ。役立たず」
美蘭は冷たく言い放つと、ブロック塀の陰から杉田家に視線を向けた。
「まあ、まだ可能性はあるか。あんたあの子、サバエちゃんと仲良くなってさ、一号のことよく調べて来なさいよ」
そして彼女は僕になりすまし、サバエに「金曜の放課後空いてる?どっか行こう」なんてメッセージを送りつけたのだ。
「ほら、この店でアイス食べるの、夢だったんだよ」
いつの間にか僕らは小さなアイスクリームショップの前に立っていた。
いきなり二人で出かけることになったけど、不幸中の幸いはサバエが主導権を握るタイプだったことだ。おかげで僕は彼女について歩きまわるだけでいい。
パリの街角にでもありそうな外観の店は、奥がイートインコーナーで、座っている客の姿がガラス越しに見えた。ほぼ満席か、と考えている僕の腕を引っ張って、サバエは中に入ると「キャラメルファンタジーとラズベリーノエルのハーフカップでココナッツとマシュマロをトッピングして下さい」と一気に言ってのけた。
「亜蘭は?何にする?」
「いやあの、まだ全然よく見てなくて」
僕は何だか判らないままに、ショーケースを凝視した。とりあえずこの世に不味いアイスクリームは存在しないはずだから、どれを選んでも外れはないだろうと考え、一番近くに並んでいるバナナラプソディとフロマージュノワゼットを選び、チョコレートチップをトッピングにする。そして美蘭から支給された軍資金で二人分を払った。
どんな店でも僕は人目につかない、奥まった席が好きなんだけど、先をゆくサバエは「こっちこっち」と窓際へ突進し、空いていたテーブルを確保した。
「この店、よく来てるの?」
ピーコートを脱がず、早速アイスを食べようとしているサバエに僕は尋ねた。
「初めてだよ。ここ来るの夢だったって、さっき言ったじゃん」
「だけど、すごく慣れた感じでオーダーしてたよね」
「うん。だって夢だから、ここのホームページでメニューチェックして、どれ食べるかずっと練習してたんだもん。ラズベリーノエルなんかクリスマス限定だからさ、間に合ってよかったあ」
「でも別に、いつでも来れたんじゃないの?」
「だからさ」と、サバエはちょっとうんざりした顔で首をかしげてみせた。
「ここ、カップルでないと入れないから」
言われて周囲を見回すと、確かにどのテーブルも二人掛けで、しかも年齢の幅は多少あるものの、カップルのみ。一組だけ男同士がいたけど、明らかにゲイって判る雰囲気だった。
「そんな決まりがある店なんだ」
「決まりはないけどさ、うちらの間じゃそういう事になってるの。ここに友達同士なんかで入るのは、裸で外歩くより恥だから」
サバエの言う「うちら」って、総勢何名のコミュニティなのか知らないけど、とにかく現時点で店にいる客は全員そのメンバーって事だろうか。
「あーうめー。これがファムファタールの味かあ」
「この店、ファムファタールって名前なんだ」
「そう。フランス語みたいよ」
「運命の女性」
仰々しい名前の店だと思いながら、僕が溶け始めたアイスクリームを食べようとすると、サバエは「やーだあ!」と叫んだ。
「亜蘭って、口説くのうまいよね」
「え、別に口説いてないけど」
「私のこと運命の女性だなんてさ、ズキューン!とまではいかないけど、かなり来たよ。コミュ障で馬鹿だけど我慢してねってお姉さん言ってたけど、全然大丈夫じゃん」
「いやだから、それ店の名前…」
僕が言い終わる前に、サバエは手にしたスプーンを僕のカップに突っ込み、「もらいっ!」とバナナラプソディを抉り取っていった。
「これも濃厚でうめー。ねえねえ私のも食べなよ」
「いや、いいです」
僕はもう十分に疲れを感じていたけど、サバエはようやく暖機完了といった感じで、アイスを平らげると「じゃあ行こっか」と立ち上がった。
「来るのが夢だったって割に、早いね」
「だって時間がもったいないから。さっきの運命って言葉で確信したよ。早く報告に行かなきゃ」
「報告?誰に?」
行けば判るって、とだけ答えて、サバエは人の流れをすり抜けながら足早に歩いた。
クリスマスまであと少しで、聞こえてくる音楽もそうだし、どこの店にも何かしらそんな飾りが施されているけど、僕自身はこのお祭りに思い入れなんて別にない。
そうやってどんどん歩くうち、僕らは別のエリアに流れ着いていた。さっきまでの明るくきらめいた街並みに比べると、ここの空気は鈍く沈んでいて、気温も低いように感じる。サバエは迷う気配もなく歩き続け、車一台がようやく通れるほどの脇道へ曲がった。立ち並ぶのは雑居ビルで、格安エステサロンとか、まつ毛エクステやリンパマッサージといった看板ばかり目につく。
しばらく歩くと間口の狭いコンビニがあって、サバエは「ちょっと寄るね」と宣言する。自動ドアが開いた途端に漢方薬みたいな匂いがして、どうもここは普通のコンビニじゃないと判った。チェーン店じゃなくて、インディーズ。パッケージにハングルや中国語の書かれた商品がやたらと目につく。
カウンターにはセルフサービス用の電気ポットや電子レンジと並んで、炊飯器のようなものが置いてあった。蓋はなくて、茶色く煮しめた殻つきのゆで卵が山盛りになっている。漢方薬の匂いはここから漂ってくるのだ。サバエはそこへ近づくと、備え付けのポリ袋を一枚取り出し、トングを片手に卵を三つ放り込んだ。それからレジに移動して、「おでんつゆ下さい」と言った。
店番のおばさんは黙って頷き、おたまを手にすると、カウンターの中で湯気をたてているおでん鍋からつゆだけすくってコーヒーのカップに入れ、プラスチックの蓋をする。
「卵三個個百八十円、おでんつゆ三十円で二百十円」
このお金も僕が払うべきなのかな、と考える間もなく、サバエは自分で支払いを済ませると「これ持って」と、卵の入った袋を差し出してきた。
「そのカップも、持とうか?」と、聞いてみたけど、「いいよ。自分で持たなきゃ意味がない」という返事。そして店を出てしばらく歩くと、サバエは「ちょっと待って」と立ち止まった。
彼女の視線の先をたどると、ビルの隙間に小さな祠があった。中には地蔵が祀られているみたいだ。周囲のくすんだ色合いの中で、作り物の仏花だけがいやに鮮やかだった。
「ここにお供えするんだよ」と、サバエは腰を屈めておでんつゆのカップを祠の中に置く。
「なんで?」
「お願いが叶ったお礼」
そして彼女は掌を合わせ、目を閉じていたけれど、すぐに「よっしゃ」と背を伸ばして「行こっか」と歩き始めた。
「あの地蔵、何のご利益があるの?」
「恋愛祈願。ただし女子限定だからね。それと、地蔵じゃなくて、やまけんさまっていうんだよ」
「やまけんさま?」
「なんかさ、ずっと昔やまけんって大企業に勤めてた女の人がいて、この辺で殺されちゃったんだよ。超エリートだったのに、夜は売春してたんだって。でさ、それ以来、彼女の幽霊がこの場所に出るようになったの。夏でも冬でもトレンチコート姿で立ってて、男の人に声かけられると「おでんのつゆだけ買ってきてください」って頼むんだってさ。で、言われた通りに買って戻ると、いなくなってるの」
「ふうん」
ちょっとした都市伝説って奴か。
「でさ、皆が怖がってここを避けるようになったから、近所の人がお金出しあってお地蔵様を祀ったの。そしたら幽霊が出なくなったって」
「でもどうして、おでんつゆなの?」
「知らない。好物なんじゃない?あそこのコンビニじゃ一年中売ってるし。とにかく自分の願いが叶ったら、お供えしなきゃいけないんだよ。でないと祟りがあるって」
「なるほど。さっき言ってた報告って、この事なんだ」
「違う違う、まだ行くとこあるから」
そしてサバエは再び足早に歩き始めた。角を曲がり、坂を上がって、鉛筆みたいに細い雑居ビルのドアを押す。並んだ郵便受けのいくつかはチラシでいっぱい。「テナント募集中」という手書きのポスターがその脇に貼ってある。
ためらう様子もなく、サバエは薄暗い廊下をまっすぐに進んだ。正面に塗装の剥げたドアがあり、壁際に丸いパイプ椅子が三つ並べてある。ドアノブに「営業中」という札が掛かっている以外、看板も何も出ていない。そしてドアの前には雑種の斑犬が寝そべっていた。
犬はちらりと僕らの方を見て目をそらす。首輪にはリードならぬ、煤けた縄がついていて、その端はドアノブに縛りつけてある。
「もしかして、この犬に会いにきたの?」
「まさか、これはただの犬だよ。亜蘭って面白いこと言うよね。ブチ、ちょっとどいて」
サバエがそう声をかけると、犬は仕方ないな、という顔つきで立ち上がって道を譲る。彼女は「こんちは、まだやってる?」と言いながらドアを開いた。
中は廊下より更に薄暗く、しかもひどく狭い。事務所というより物置きだけど、テーブルと椅子があって、その奥にはお婆さん、と呼ぶにはもう一押し足りない年格好の女が座っていた。
サバエの肩ごしに彼女の顔を見た瞬間、僕は回れ右をして帰りたくなった。実際、そうしようとドアの陰に隠れたんだけど、「おやまあ、久しぶりだこと。ねえ亜蘭」という声がそれを阻む。
「何?亜蘭もここ来たことあるの?」
サバエは驚いた様子で僕を振り返るけど、答えはもちろん「まさか」だ。
「亜蘭とは古い知り合いって奴だよ。とにかく、入るか出るかはっきりしておくれよ」
仕方ないから中に入ってドアを閉める。靖江はもう椅子に座っていて、僕も壁に立てかけられたパイプ椅子を広げて腰を下ろした。
「はいこれ、おみやげ」と、サバエは僕に持たせていた卵の袋をテーブルに置いた。女は「ありがたいこと」と笑いを浮かべて中をのぞき、「あんたたちも食べるかい」と勧めた。
背中まである白髪混じりの長い髪は緩く波打ち、痩せた身体に黒いニットを着て、赤が基調の派手なストールを肩に巻き付けている。くっきりとした眉の下で光る眼は、その名の通り細く、鋭い。
笹目、というのが彼女の名前だ。どれくらいの近さか判らないけど、僕と彼女は親戚ってものらしく、夜久野という同じ姓を名乗っている。
「今日は報告に来たんだよ。笹目さんの言う通りに、やまけんさまにお参りしたら、速攻で亜蘭とつきあうことになったの」
サバエが嬉しそうに言うと、笹目は「だろう?やまけんさまは霊験あらたかなんだよ」と偉そうに返す。彼女はいそいそと卵の殻を剥いてから半分ほど食べ、テーブルに置いていた保温ポットのお茶らしきものを飲んだ。
「しかしお相手が亜蘭とは驚いたね。ずいぶん会ってないけど、あんた相変わらず猫に甘えてるのかい?」
「そんな事してない」
僕の返事を鼻で嗤うと、笹目はサバエに「猫といえば、こないだのあれは、住職に任せたよ」と言った。けれどサバエは「うん。もういいから」と早口で言っただけで、勢いよく卵にかぶりつき、僕に「早く食べなよ」とせかした。
「ねえ、初めてだと変な味かもしんないけど、この卵、慣れるとおいしいんだよ」
「別に、嫌いな味じゃないかな」
卵はかなりの固ゆでで、八角の匂いが鼻につくけど醤油味が染みていて、空いてきた小腹にちょうどいい。
「それで?あんた今日は何を占ってほしいんだい?」
先に卵を食べ終え、もう一度お茶を飲んでから、笹目は勿体ぶって尋ねた。
「ん、今日はいいや。彼氏できたって報告に来ただけだから」
「そうかい。じゃあもう店じまいにさせておくれ。近頃は暮れるのが早いし、私は目が悪いから足元が危なっかしくて困る。この前も道路工事の穴に落っこちて、えらい目に遭ったんだから」
言いながら、笹目はテーブルのこまごましたものをかき集め、床に置いていたリュックサックの中へ放り込んで立ち上がった。僕は慌てて卵の残りを飲み込むと、「だったら送っていこうか」と提案する。笹目はその細い目を光らせ、「うちへ来たって何も出やしないよ」と皮肉っぽく笑う。
「それに、送るならそっちのお嬢さんが先だろう」
「あ、私は大丈夫。先に笹目さんを送って、それからでいいよ」
サバエはいそいそと卵の殻を集めてポリ袋にまとめると、「亜蘭って親切だね。やっぱ彼氏にして間違いなしだよ」と、満面の笑みを浮かべた。
でも僕は別に親切ってわけじゃない。ただ、さっき笹目が口にした「猫といえば」という言葉に食いついただけだ。その「猫」がいなくなったミント一号と何か関係あるのか、探っておいて損はない。
3 がっついた男子
雑居ビルの仕事場を後にした笹目は、リュックサックを背負い、右手には斑犬ブチの引き綱を短く持って歩きだした。僕とサバエはその後ろに続く。
さっきまで午後の日差しに照らされていた街並みが、今はもう夕闇に包まれている。西の空はわずかに明るい光を残しながら、徐々にその色を変え、宵の明星だけが輝きを増していた。
笹目は眼鏡やなんかで矯正できないほど視力が弱くて、それは生まれつきだ。でも彼女は何か別の力で視覚を補ってるらしく、だからさっきみたいに一瞬顔を合わせただけで、僕が誰だか察知してしまう。変装など無駄なことで、一度彼女に憶えられたら逃げるのは簡単ではない。
うちの一族はとにかく自堕落な面倒くさがりばかりなので、ほとんどの人間は仕事もせずにだらだらと暮らしている。ただ皮肉なことに、怪しげな技の数々だけは大昔から律儀に伝えていて、一族の中でほんの一握り、貧乏くじをひいた者だけがこの技を操って他の一族に仕え、その見返りとして経済的な後ろ盾を得ているのだ。
笹目は貧乏くじをひいた人間の一人で、蛇を遣う。大体は細くて暗い場所に潜り込んで、失せ物やなんかを探すみたいだけど、時には毒蛇を操ってよろしくない事もしているらしい。
とはいえ、蛇って生き物は冬眠するから、寒い時期はまず仕事にならない。だから冬場はインチキ占いで日銭を稼いでるという噂は聞いてたんだけど、まさかここで出くわすとは思ってもみなかった。
「ねえ亜蘭、手、つなごうよ」
有無を言わさない口調で、サバエはいきなり指を絡めてきた。それに反応したかのように笹目はちらりと振り向き、「仲のよろしいこと」と皮肉っぽく笑う。
「もうあと少しでうちに着くから、あとはお二人でどこへでも遊びにお行きよ」
そして彼女の言葉通り、五分も歩かないうちに、僕らは東林寺と書かれたお寺の門に着いていた。
「この奥の離れに住んでるのさ」
笹目とブチの後について門をくぐるとだだっ広い前庭があって、その奥に本堂が見えた。お寺を名乗っているものの、植木や建物、全てに極力お金をかけていないという印象で、要するに安普請、思い切り好意的に評価してミニマリストの宗教施設だ。
笹目はその本堂に寄りもせず、石畳の上を進んで裏手にある墓地へと抜けた。もちろんこんな夕暮れに参拝人などいなくて、時おり吹く強い風に卒塔婆が乾いた音をたてるだけ。サバエはわざとらしく僕に身体を寄せてきた。
「このお墓、なんか怖いよ。笹目さん平気なの?」
「何てことはないさ。電車のホームの方がよほど恐ろしいね」
墓地の脇にある小道を通り、突き当りの塀にある木戸を抜けると、貧相な平屋が目に入った。そこが笹目の住まいらしい。彼女はストールを巻いた襟元から細い紐を手繰り出すと、その先に結んだ鍵で引き戸を開けた。
「それじゃ、お世話さま」
先に犬のブチを玄関に入れると、笹目は後ろ手に戸を閉めようとする。僕は慌てて「せっかく送ってきたんだから、お茶ぐらい出してよ」と食い下がった。このまま帰されたんじゃ意味がない。まあ、笹目も僕の下心は察してるのか「お茶なんざ、飲みたけりゃ自分で淹れておくれ」と大儀そうに言って、中へ通してくれた。
入ってすぐの和室は四畳半ほどで、真ん中にこたつが置かれ、手の届く範囲に雑多なものが積み上げられていた。その奥は台所で、更に向こうはトイレと風呂場。どうも笹目はこのこたつで寝起きしているようだ。うちの一族らしい、活動を最小限にとどめるやり方で、僕がここに住んでもきっと同じ選択をするだろう。
「なんかここ、狭くて落ち着くね」と言いながら、サバエはこたつに入ろうとしたけれど、笹目はすかさず「そこは私の場所だよ」と押しのけて腰を下ろす。
「あんたせっかく来たんだから、少しは働いてお帰りよ。ブチに水やっておくれ」
「了解!」
「そこのやかんに水道の水をくんで、玄関の洗面器に注いでやればいいから」
「はーい」と答えて、サバエは古雑誌の束やなんかを避けながら台所に向かう。その隙に僕は笹目に小声で尋ねた。
「さっきあの子に、猫の話をしてただろ?」
「さあて、何の事やら。それよりあんた、自分の彼女の名前ぐらい言えないのかい」
「それは関係ないから。猫は住職に任せたって、そう言ってただろ?」
「あんたは子供だから判らないだろうけど、年とると五分や十分ばかり前の話なんざ、きれいに忘れちまうのさ。その代わり昔の事はよく憶えてるよ。あんたはうちの蛇を怖がって、いつも姉さんの後ろに隠れてたっけね」
「そんな事ないよ」
「おやそうかい。じゃあ、ちょうどそこに一匹いるから、撫でてやっておくれよ」
思わず、その指さす方を振り向いた僕を見て、笹目は「ごめんよ、見間違えたようだ」と馬鹿にした笑いを浮かべた。こういうところ、うちの一族共通の意地の悪さで、煮ても焼いても食えない。
そこへサバエが「ブチにお水あげてきたよ」と戻ってきたので、僕は「帰ろうか」と声をかけた。
「でもうちら、まだお茶飲んでないじゃん」
「もう暗くなったし、遅くなると家の人が心配するから」
自分が言ったことの矛盾なんか置いといて、僕はさっさと靴を履き、寝そべっているブチをまたいで外に出た。サバエは「じゃあね、場所おぼえたからまた来るよ」と笹目に声をかけてから後に続き、当然といった感じで手をつないでくる。そして「お墓のそばってやっぱ怖いよ」と、ぴったり身体を寄せてきた。
「そんなにくっつくと、歩きにくいんだけど」
「ちょっと、拒否るってひどくない?」
「いや別に拒否って事じゃなくて」
「じゃあどういう…」と詰問しかけたサバエは、いきなり「ぎゃあ!」と絶叫して飛びのき、そのまま派手に転んでしまった。
「どうしたの?」
「なんか、生暖かいのが、すーって通ったんだよ。きっと幽霊か何か」
サバエは地面に座り込んだままだ。
「幽霊なんて存在しないよ」
「そういう話してるんじゃないし。亜蘭、私のこと心配じゃないの?ひどくない?」
「いやまあ、大丈夫かなとは思ってる」
どうして怒られるのかよく判らないまま、僕はとりあえず彼女のそばにしゃがむ。そこへ「どうかしましたか?」という声が聞こえた。振り向くと、誰かがライトでこちらを照らしながら近づいてくる。
小柄な女の人かと思ったけど、近くで見ると男の子だ。六年生ぐらいだろうか、ジャージの上下で、野球でもやってるのか、丸刈りだ。彼は僕と目が合うなり、表情をこわばらせ、「痴漢!?」と立ち止まった。
「ちょっと待って、別に怪しい者じゃないから」
ここで警察なんか呼ばれたらまずい。僕の釈明にも拘らず、彼は「でも女の人が悲鳴を」と、本堂の方へ行こうとする。
「ねえ、何とか言ってよ」とサバエに助けを求めると、彼女は「この人、痴漢じゃないの。彼氏だけどさ、いきなり抱き着いてきたからびっくりして」と口走った。
「やだよねえ、がっついた男子って」
ぶつぶつ言いながら立ち上がる彼女の傍で、僕の頭はフリーズしそうになっていた。嘘つき女なんて姉の美蘭だけかと思ってたのに、サバエも平気で嘘をつく。男の子は呆れた様子で、「ここはお墓ですから、そういう事はやめて下さい」と言った。
「いやだから、してないし…」と改めて身の潔白を訴えようとしたら、サバエがまた悲鳴をあげて僕にしがみついた。
「これこれこれ!また何か通った!」
慌てて彼女の指さす方に目をこらすと、闇の中で光るものがふわふわと動いている。
「何かの動物じゃない?」と僕が言うのとほぼ同時に、男の子は「ソモサン!セッパ!」と叫び、暗闇にライトを向けた。そこに浮かび上がったのは二匹の猫だ。全身が黒くて、鼻面とお腹と足先がだけが白い。
「すみません、これ、うちの猫なんです。人懐っこくて」
そう言う間にも、猫たちは男の子の足元で交互に身体をすり寄せている。
「なんだ猫か、もう、びっくりした」と、サバエは僕にしがみついていた腕を少しだけ緩めた。男の子は申し訳なさそうに頭を下げ、「あ、怪我してる!」と叫んだ。
たしかに、ライトに照らされたサバエの膝には血がにじんでいる。といっても軽く擦りむいた程度だけど、彼女は途端に「そうなの、もう痛くって!」と騒ぎ始めた。
「すぐに手当てしますから、ついてきて下さい」
男の子は僕らに背を向けると、急いで歩き始めた。サバエはすかさず「痛くて歩けない。おんぶして」と僕を見上げる。
「そんなひどい怪我に見えないけど」
「歩けないの」
ここは逆らわない方がいい。生存本能がそう囁いて、僕は大人しくサバエを背負い、彼女の鞄を拾って男の子の後を追った。
「本当に申し訳ありませんでした。すぐに治るといいんですけど」
男の子はまた頭を下げると、救急箱の蓋を閉めた。サバエの膝には大きな絆創膏が貼られていて、彼女は「明日くらいには痛みも引くかな」なんて勿体つけている。
「せっかくですから、お茶でも飲んでいって下さい」と言いおいて、男の子は部屋を出て行き、僕はあらためて周囲を見回した。
墓地の脇にある勝手口から上がった僕らが通されたのは、広い座敷だった。床の間には掛け軸が下がり、けっこう古そうなお坊さんの写真も何枚か飾られていて、ザ・お寺って雰囲気。
「ね、帰りもおんぶしてね」
へたった座布団の上に足を投げ出し、サバエは当然、という口調で言った。
「もう大丈夫じゃないの?さっき水道まで歩いてって傷洗ってたよね」
「あれは無理してたの。亜蘭って、私のこと全然心配してくれないんだね」
「いや、そういうわけじゃないよ」
これ以上反論するとややこしくなりそうだ。まあいいか、タクシーに乗るぐらいのお金はまだ残ってる、と思い直したところへ男の子が戻ってきた。手にしたお盆を畳に置いて襖を閉めようとする隙に、さっきの猫が二匹、するりと入り込んでくる。
「こら、お客様がいるのに」と男の子が止めたけれど、サバエは「いいじゃん、きっと寒いんだよ」と声をかけた。その言葉通り、猫たちは座敷の隅にあったヒーターの前まで行って、べろんと伸びてしまう。
「すみません、怪我させた上に、特等席まで占領して」と謝りながら、男の子はお盆にのせた緑茶と饅頭を「檀家さんからの頂き物ですが」と勧めてくれた。
「ねえ、あんたまだ小学生でしょ?変に大人みたいな口きくよね」
サバエは饅頭にかぶりつきながら、珍しい生き物でも見るような顔つきになっている。
「小学生じゃないですよ。僕は中一です。あ、申し遅れましたが、河合メックと申します」
「メック?外国の人?」
「いえ、日本人です。滅亡の滅と苦労の苦と書いて、滅苦と読むんです。つまり苦しみをなくするって意味です」
どうも名前に関する質問には百万回ぐらい答えてきたらしくて、やたらと説明上手だ。
「ふーん、いいよねえ、亜蘭もだけどさ、名前かっこいいじゃん」
「亜蘭さんとおっしゃるんですか?そちらこそ、外国の方?」
滅苦はしげしげと僕の顔を見たけど、僕も自分の名前に関しては手慣れたもので、「適当な字を、適当に組み合わせただけ」と説明した。サバエは饅頭の残りを頬張りながら、「彼、双子のお姉さんがいてね、美蘭っていうの。とっても綺麗なんだよ」と口を挟む。
僕は思わず、「君のお姉さんの方が綺麗だ」と反論したけれど、サバエの顔つきから、変な地雷を踏んだことを察知した。
「うん。私より真柚ちゃんの方が綺麗だよ。わざわざ言わなくても判ってるから」
彼女の声は、妙に平坦だった。
「中学の時は男子が陰で真柚ちゃんのことカワスギって呼んでて、私のことブサスギって呼んでたのも知ってる。カワスギってね、可愛い杉田の略なの。ブサスギは言わなくても判るよね」
「いや、僕はただ、美蘭より君のお姉さんの方が綺麗だって言っただけで、君とお姉さんは比べてないし」
「じゃあ私のこと、お姉さんの美蘭より綺麗だって言えるの?言えないでしょ?ぜーったい言えないでしょ?」
「い、や、い、え」
僕はわけが判らなくなってきた。どうしてこんな泥沼に足をとられたんだろう。そもそも綺麗って何だ。何が基準なんだ。でもここで黙ってるのは賢い選択じゃない。
「言える」
サバエはしばらく僕の顔を見て、それから滅苦の方を向くと「いまの聞いた?」とたずねた。彼は少しひきつった顔のまま、ゆっくりと深く頷く。
「この人、私にメロメロ」
「みたいですね」
「私のこと、運命の女性だって言ったし。本気でメロメロだ」
二人の会話を聞くうち、僕は眩暈がしてきた。
「ちょっと横になっていい?なんだか眠くて」
「どうぞどうぞ、縦でも横でも」と、やっぱり子供らしくない滅苦の言葉を聞きながら、僕は畳の上にひっくり返る。
「ねえ、うちら今日、裏の笹目さんちに遊びに来たんだけど、こんど来る時に、亜蘭のお姉さん連れてきてあげるよ。基本、よく似てるけど、もっと女の子っぽい顔で、背が高くて、少しくせ毛のショートカットがかっこいいの。でも、彼にとっちゃ私の方が綺麗だからね」
「はい、是非お目にかかりたいです。でもその前に、貴女のお名前を」
「私?杉田靖江。やなんだよね、こんな地味な名前。まるで昭和だし」
彼女は鞄からペンを取り出して、饅頭の包み紙に漢字を書いてるみたいだった。
「友達にはサバエって呼ばれてる。ほら、この立つって字を魚にしたら鯖だから、鯖江。そのうち福井県鯖江市から表彰されるよ」
これは持ちネタらしくて、サバエはキャハハと笑った。しかしどうして姉妹で真柚と靖江なんて違うテイストの名前なんだろうと思っていると、二匹の 黒白猫が僕の顔を覗き込み、胸と腹にのってくる。
「ソモサン、セッパ、お客様にそんなことしちゃ駄目だよ」と、滅苦が慌てて止めた。
「大丈夫、亜蘭は猫が何しても怒らないよ」
「そうなんですか?」
「引っかかれても平気だもん。ねえ、あの猫二匹ともそっくりだけど、どうやって見分けるの?」
「尻尾の長いのがソモサンで、短いのがセッパです」
「なるほど!確かに尻尾の長さが違う。でも変な名前つけるよね」
「お寺ですから」
ふーん、と思いながら、僕はソモサンとセッパを順番につかまえて「回路」を開いていた。こうしておけば、猫たちを通じて笹目の動きを監視できるし、行方不明のミント一号に関して何かつかめるかもしれない。
二匹は若い雄の兄弟で去勢済み。ソモサンは活発で頭がいい。セッパはかなりの怖がりで、何事でもソモサンにくっついて行くのが安心だと考えている。その理由の一つは、むかし誰かに尻尾の先を切られたせいだろう。セッパの中にはその時の記憶が黒い靄みたいに澱んでいる。
野良猫はもちろんの事、飼い猫だって、人間から痛い目に遭わされた経験を持つものは少なくない。人間以外にも、カラスや野良犬なんかも十分に脅威だ。僕も小さい頃は、猫たちのこういう記憶をうっかり覗き込んでひどい気分になったりしたけど、今はもう、やり過ごすべきだと判っている。
そして僕は少しだけ、自分の中にある黒い靄の表面を撫でてみる。それは治りそうで治らない口内炎みたいな、うっすらとした痛みを伴っていて、あとほんのわずかでも力を加えれば血が流れるという予感がある。
駄目だ、猫の記憶なんかに引っ張られては。
僕は大急ぎで自分の黒い靄から離れると、もうセッパの頭の中を覗かないことに決めた。使うのはソモサンだけにしよう。
「ほらね、亜蘭も猫大好きだから、ずっとじゃれてるでしょ?」
サバエが滅苦に見当はずれな説明をしていると、「誰かお客さん?」という男の声がして、襖が開いた。
黒い中折れ帽を目深に被ってるけど、年は三十過ぎだろうか。黒の革ジャンにサファイアブルーのマフラーを巻いて、足元はジーンズ。背が高いので鴨居に頭がぶつかりそうだ。
僕らに気づいて「ああ、いらっしゃい」と、帽子をとったらスキンヘッド。彫りの深い目鼻立ちで頸が太く、そのまま美術の授業でデッサンに使えそうな感じ。滅苦が「ここの住職の黙如さんです」と紹介しなければ、法事に呼び出されたバンドマンかと思うところだった。
彼は猫を抱いて寝ている僕に「ゆっくりしてってね」と笑いかけ、目を丸くしているサバエに「高校生?」と太い声でたずねた。
「俺ね、坊主カフェやってるから一度遊びに来て。約束だよ」
軽くウィンクすると、「じゃあ行ってくるね」と住職は姿を消したけれど、サバエは「今の何?お坊さん?すげえかっこいい!」と騒いでいる。そして僕は何故だか少し面白くなかった。
4 俺ばっかり話してる
「これだ、イケメン僧侶の出すコーヒーで心の中も暖まる、だってさ」
美蘭はタブレットを僕に見せると、「やだよねえ、こういうの」と馬鹿にした口調で言った。
「カフェ キッコ。モデル顔負けの長身イケメン僧侶、黙如さんが店長を務める坊主カフェ。十代のコにも安心して来てほしいということでアルコールなし、ドリンクとスイーツだけの直球勝負。食事をとりたい方にはお隣の定食屋「あじ万」からの出前OK。二十三時まで営業しているので、お酒の後にもGOOD。黙如さん始め、高スペックなお坊さんたちの胸キュンな笑顔に、煩悩が増えちゃうかも」
声に出して読むうち、僕も馬鹿らしくなってきた。
「その東林寺ってお寺、元々の住職がバブルの頃に借金作って、そこから傾きっ放しらしいよ。でもまあ立地が悪くないから、本山が一枚かんで敷地を切り売りしたり、代わりの住職を派遣したりして持たせてる。で、今はこの黙如ってのが雇われ住職で、坊主カフェとかイベントとかチャラチャラやってるのね。檀家の婆さんたちにも人気あるみたい」
居間のソファに座っていた美蘭は大きく伸びをすると、傍で丸くなっている三毛猫の小梅を抱き上げて膝にのせた。この猫は齢ニ十歳、人間でいえばゆうに百歳超えだけど、まだ元気。
僕と美蘭がいま住んでいる古い洋館は、この猫の飼い主だった老婦人のものだ。彼女が「小梅が天寿を全うするまで、この館の増改築と売却を禁ずる」と遺言したので、僕らは住み込みで小梅の世話をする代わりに、家賃を免除されているというわけ。
「しかし笹目のババアも変な寺に住み着いたもんよね。で?この坊主カフェがどうしたの?」
「うん、まあ、その」
いきなり僕は口ごもる。何からどう言えばいいんだろう。サバエが美蘭も誘ってこのカフェに行きたがってて、その目的はイケメン黙如に、僕が美蘭よりサバエの方が綺麗だと言ったとアピールする事だという、ややこしい割に意味のない話を。
「五秒以内に言わなかったら、あんたの部屋にハクビシンぶち込む」
美蘭のこういう台詞が脅しじゃないのは、以前バスタブにオオサンショウウオが入ってたことで実証済みだから、僕は彼女が「三」まで数えたところで観念した。
話を聞いた彼女は、表情を変えずに「ふーん」とだけ言って、小梅を抱き上げると居間を出て行ってしまった。
どうやら美蘭の「ふーん」はイエスだったらしくて、彼女と僕、そしてサバエの三人は翌日の放課後、件の坊主カフェを訪れた。
「やあようこそ、本当に来てくれたんだね」と、黙如は濃い顔に全開の笑みを浮かべて僕らを歓迎した。
「だって約束って言ったじゃん」とサバエが少し拗ねた口調で返すと、「そうだよ。君はいい子だね」と、黙如は彼女の頭を撫でる仕草をした。
「狭い店だけどさ、ゆっくりして」と、彼は僕らをカウンターに座らせる。僕が一番入口側で、サバエが隣で、美蘭はその向こう。店はいわゆる鰻の寝床って感じに細長く、L字のカウンターには八席、壁沿いの長いシートには丸テーブルが四つ設えてある。カフェというよりバーの内装だ。
「滅苦からきいたけど、君たち笹目さんの知り合いなんだってね。彼女が靖江ちゃんで、彼が亜蘭くん」
この前ちょっと会っただけなのに、黙如は僕らの名前を把握していた。今日は帽子はかぶらず、紫を基調にしたサイケな柄シャツの襟をはだけ、胸元にはシルバーのチェーンを光らせている。
「君は亜蘭くんによく似てるから、双子の美蘭さんだね」
「そう」とだけ答えて、美蘭は手元のメニューに視線を戻す。サバエは「ねえ、なんで靖江ちゃん、美蘭、さんなの?」といきなり不満そうだ。
「いや失礼、彼女の方がちょっと大人っぽい感じがしたんだよな。君たち高校何年?」
「全員高三よ。でもって私の呼び方は美蘭でいいから。さんとかちゃんとか、似合わないし」
美蘭はさらりとそう言って「杏のタルトとホットコーヒー」とオーダーを入れた。
サバエは「私どうしよう!亜蘭は?何かシェアする?」と、メニューを開けたり閉じたりしながら聞いて来るけど、僕もまだ決めてなかった。美蘭はだいたい食べる事しか考えてないから、こういう判断が異様に早いのだ。
「ええと、じゃあ私、ホットココアとブラウニーのチョコアイス盛り」
サバエの選択は「どんだけチョコレート好きなんだよ」というレベルで、僕の感想は素直に顔に出たらしい。
「ねえ、私のことチョコ食べ過ぎって、いま思ったよね」
「思ってない」
「でも、うわあ、って顔したもの」
「してないよ」
「だったら私と同じの選びなよ。ね?一緒がいいよ」
なんだか不条理な理由から、僕も彼女と同じものを頼む羽目になった。本当はコーヒー飲みたいんだけど、なんて言えそうもない。美蘭は営業スマイルで「チョコっていくらでも食べられるよね」とサバエにエールを送っていた。
僕だって甘いものは嫌いじゃないけど、濃厚なホットココアを飲み、ずっしり重いブラウニーを食べるには強い意志が必要だった。でもサバエは「ああやっぱ、チョコうめー」とフルスロットルだ。
「本当にチョコレート好きなんだね」と、黙如も感心している。
「うん。ブタになるから家じゃあんまり食べらんないし、外じゃ余計に食べちゃうかな」
「でもブタには程遠いよ。誰かがそう言ってるの?」
美蘭が杏のタルトを食べながら尋ねると、サバエは「そういうわけじゃないけど」と首を振った。
「うちの真柚ちゃんは、馬鹿食いなんてしないんだよね。例えば家族四人でケーキが六個あったら子供が二個もらえるって思うじゃん。でも真柚ちゃんは絶対に、私ひとつでいいから、って言うんだよ。だからって私が三個もーらいって、ちょっと無理だよね。二個でもかなり欲張りな感じだし」
「そうなんだ」と、僕はサバエの姉、真柚のスレンダーな姿を思い出して納得していた。やっぱり、サバエほど強欲じゃないんだ。
「真柚ちゃんは夜中に冷蔵庫あさったりもしないんだよね。そりゃ、私も本当はしたくないけど、晩ご飯しっかり食べても後でお腹すくんだよ。私、どっかおかしいのかもね」
「夜中にお腹すくのなんて普通よ。十代なんて食べ盛りだもん。すいません、私もブラウニー下さい。アイスはバニラで。あとコーヒーお代わり」
美蘭の追加オーダーに、黙如は「いい食欲してるね」と親指立ててみせた。サバエは「じゃあ私も杏のタルト食べたいな。亜蘭、シェアしようよ、ね?ね?」と押してくる。そしてもちろん、断れる雰囲気じゃないし。
「ねえ、黙如さんって、どうしてお坊さんしてるの?」
二杯目のコーヒーを受け取りながら、美蘭は少し打ち解けた感じで質問した。
「それはつまり、俺が坊主だと違和感あるって事かな?」
「まあ何ていうか、僧侶というにはチャラい印象だから」
「いきなり剛速球だね。でもチャラいってのは見た目でしょ?君たち仏像は見たことあるよね。仏様ってあれでなかなかスタイリッシュだし、瓔珞、っていうんだけど、ペンダント系のアクセサリもつけてるし、ピアスも開けてるし、俺はそういうの取り入れてんだよ。着るものもね、ガンダーラ仏のドレープなんて、ちょっとこう、グラムロックっぽいじゃない」
「だったら頭剃らないで、ロン毛で束ねといた方がいいわよ」
「そこは大人の事情っていうか、本山が見逃してくれるギリギリのラインだったりして」
美蘭に突っ込まれ、黙如は却って嬉しそうに言い訳した。
「まあ正直なところ、俺は進んで坊主になったわけじゃないんだよね。お寺の息子ではあるけど、兄貴が跡継ぎは嫌だって出て行ったから、仕方なく仏教系の大学に進んで、八年かかってどうにか卒業してさ。その間めいっぱい遊んだよね。で、ようやく実家に戻ったところへなぜか兄貴も戻ってきて、会社辞めたからお寺を継ぐって言うんだよね。
冗談だろって思ったけど、向こうはあと二か月で妻が出産って極限状況。両親だって孫と住みたいに決まってるし、必然的に俺がはみ出しちゃった。跡継ぎしないでいいから、よく言えば自由になったんだけど。
でも俺は坊主の職業訓練しか受けてないから、他にできる事がない。それでお寺関係をあちこち流れて、東林寺に落ち着いたってわけ」
「何もできないって、カフェの店長で十分務まってるじゃない」
「ここだって坊主を看板にしてるからね。普通のカフェは無理無理」
黙如は自虐的にそう言って笑った。
「しっかし駄目だな。お客さんに好きな事しゃべってもらう店なのに、俺ばっかり話してる。ちょっと静かにしよう」
そこへすかさずサバエが「だったら私、話すことあるし」と声を上げた。
「亜蘭は私とつきあってまだ十日も経ってないんだけどね、もうメロメロなんだよ。彼に言わせると、私って美蘭より綺麗なんだって。ねえ、どうかしちゃってると思わない?」
ああ、すごくいたたまれない。
別に美蘭に申し訳ないのではない。僕が嫌なのは、苦し紛れで吐いた自分の言葉に、サバエがこんなにも舞い上がってるという現実だった。
ただ、黙如が「そっかあ、君たちラブラブなんだ。いいねえ」と、真剣に頷いたおかげで、僕の気持ちは少し楽になった。
チョコレート並みに濃いサバエの世界観を自分一人で背負わずにすむなら、ラブラブでもメロメロでもいいから誰かにすがりたい。
美蘭はそんな僕らを横目で見ながら、涼しい顔でブラウニーを食べてるけど、サバエは彼女にも話しかける。
「何かさあ、一生お前だけ見てるとか、お前のためなら命捨てるとか、女の子が言われたい胸キュンフレーズっていっぱいあるよね」
「そうよね、お前だけはぜってぇ守る!とかね」
不思議なもので、美蘭の言葉だと僕は自動的に反論する。気がつくと「守るって、一体何からだよ」と口走っていた。
「あらやだ、女の子って何からでも守られたいのにね」
「普通の生活してて、そんなにあれこれ襲ってこないし。まあ、せいぜいインフルエンザぐらいだろうけど、守るの“ぜってぇ”無理だから」
「うわあマジでウザい。今、死ぬほどムカついた。サバエちゃん、これが亜蘭の正体だからね、つけあがらせちゃ駄目だよ」
美蘭はいきなり営業モードを捨てると、サバエの席を越えて僕の脛に蹴りを入れてきた。殺気だった空気を何とかするつもりなのか、黙如は「ねえ君たち、クリスマスの予定は決まってる?」と話題を変えてきた。
「この店はもちろん、お客さんの宗教を問わないよ。でも、クリスマスには乗り切れないって人のために、ちょっとしたパーティーをやる予定なんだ。お釈迦様の誕生日、花まつりまであと百四日のカウントダウン。よかったら遊びに来て」
「残念だけど、私は予定あるから無理。友達と長野に星見にいくの」と、美蘭はそっけない。サバエは「うちらも予定あるけど、ちょっとだけなら来てもいいかな、ね?」と僕の顔を覗き込む。僕はもちろん予定なんかないけど、ここは頷いておくのが無難だと判断した。
そしてパーティー当日のクリスマスイブ、僕はベッドから起き上がれずにいた。前の夜から妙にあちこち痛いと思ってたんだけど、目覚めたら四十度近い熱で、インフルエンザらしかった。
まるで僕の周囲だけ重力が五倍になったみたいでほとんど動けず、ひたすら眠り続けて切れ切れの夢を漂う。そしてたまに息継ぎをするように現実に戻っては、カーテンの隙間から入る日差しだとか、天井のシミだとかを眺めているうちに、また眠りに落ちる。
気がつくと三毛猫の小梅が鼻をくっつけるようにして僕の顔をのぞき込んだりしてたけど、どうやらずっと僕の傍にいたらしい。まあ、人間の病気は猫にうつらないらしいから、気にすることもないか。
そして再び夢うつつで過ごしていると、何かが近づく気配があった。また小梅かと思った僕の額に触れたのは人間の指。そのひんやりした心地よさに思わず目を開くと、美蘭が立っている。
「やだよねえ、こういうの」
彼女は僕の枕元で丸くなっていた小梅に話しかけると、抱き上げてベッドに腰を下ろした。
「こいつのおかげで、私まで隔離されちゃってさ」
「なんで?」と質問したけど、自分の声がどこか遠いところから聞こえる気がする。
「だって私も感染してるかもしれないじゃない。呑気に出歩いてウイルスばらまくほど馬鹿じゃないから。でもまあ、サバエちゃんも黙如も無事らしいから、感染したのはあんただけだね」
「ついてない」
僕はまた目を閉じた。自分だけインフルエンザになった理由はきっと、サバエに振り回されたストレスのせいに違いない。
「ついてないのはこっちよ、全く。ちょっと起きて、これ飲んでくれる?」
乱暴に揺さぶられてしぶしぶ目を開けると、美蘭が小さな保温ジャーに入った液体を差し出している。赤みを帯びた褐色で、うっすら湯気がたっていて、酸っぱいような、かび臭いような匂いを漂わせている謎の液体。
「あんたがインフルエンザでぶっ倒れたって言ったら、宗市さんが持ってきてくれた」
「何が入ってるの?」
「たぶんハクビシンのゲロだね」
「捨てていい?」
「捨てたら本物のハクビシンのゲロ飲ます」
僕はもう何も言わず、身体を起こしてその液体を飲んだ。苦くて、臭くて、渋い。あまりのまずさに涙すら出てくるけど、頭の隅の醒めた部分は、これを飲めば楽になると判断している。
宗市さん、というのは僕と美蘭の後見人のパートナーだ。後見人はとんでもなく悪辣な人物だけど、宗市さんはまあ一言でいえば天使みたいな人。薬に詳しくて、ちょっとした病気なら彼の煎じてくれた薬草ですぐに治ってしまう。問題は、それが死ぬほどまずいって事。
「地獄みたいな味」と、空になった保温ジャーを突っ返すと、美蘭は「しゃべるな、臭いんだよ!」と、思い切り腕を伸ばしてそれを受け取り、大急ぎで蓋をした。そして足元に置いていたミネラルウォーターのボトルを手にすると、蓋を開けて差し出す。僕はもう何も言わずにそれを受け取り、全てを洗い流す勢いで一気飲みした。
「あとはこれ飲んで自力更生してね。サバエちゃんには元気になったらまた連絡するって言ってあるから」
いつの間に運び込んだのか、ベッドの足元にミネラルウォーターとスポーツドリンクのボトルがいっぱい並べてある。美蘭は立ち上がると、胸に抱いた小梅に「下でレコード聞いて、クリスマスのおやつ食べようね」と話しかけながら出て行ってしまった。
死ぬほどまずかった煎じ薬のせいなのか、僕はその後すぐにまた眠った。今度のはとても深い眠りで、夢すら見ない。次に目が覚めるともう夜で、スタンドの小さな明かりだけが部屋を照らしていた。足元にまた小梅のいる気配がしたけど、猫は明かりのスイッチは入れないから、美蘭が来たのかもしれない。
喉が渇いたのでスポーツドリンクを飲んで、それからまた目を閉じる。
クリスマスイブなんて、みんな楽しい事でもありそうに言うけど、僕には今までそんな事一度もなかったし、これからもきっとそう。美蘭は長野に星を見に行くとか浮かれてるけど、吹雪にでもなればいいんだ。
そこまで考えて、僕は何かがおかしい事に気づいた。
長野に行ってるはずの美蘭が、この家にいる。僕のインフルエンザのせいでドタキャンか。だとしたら、僕は美蘭の、ほぼ彼氏である桜丸との、初めての一泊旅行をぶっ潰したことになる。
急に、天井がぐるぐる回ってるような気がして布団をかぶる。たぶんまた半殺しの目に遭わされるだろうけど、まあそれは今じゃない。とりあえずは一番得意な、もうどうでもいいかという考えに逃げ込み、僕は再び深い眠りに落ちていった。
5 死ぬほど偏屈
「はい、長野のおみやげ」
僕を見舞いに来た桜丸は、笑顔とともに「大河歴史マロン」と書かれた小さな包みを差し出した。
「高校の同級生の家が和菓子屋さんでね、これが一番人気だって」
「でもこれ、誤植じゃない?歴史ロマンなのに」
「マロンでいいんだよ、砕いたマロングラッセが入ってる羊羹だから」
「そうなんだ。ありがとう」
納得してその包みを受け取り、一番気になってたことをきいてみる。
「僕のこと、怒ってるよね」
「どうして?」
「僕がインフルエンザになったせいで、美蘭と長野に行けなかったから」
桜丸は僕と美蘭の幼馴染で一つ年上。僕らは全寮制の小学校という、ある意味孤児院みたいな場所にいたので、友達より兄弟に近いかもしれない。でも彼は六年生の時にいきなり学校から消えた。
父親が事業に失敗して一家離散し、長野の親戚にひとり身を寄せていたらしいけれど、そんな事情はつい半年ほど前、偶然に再会した後でようやく知った。彼は今、都内の大学生で、特待生なんて待遇の割に、住んでいるのは風呂トイレ共同の安アパート。毎日のようにラーメン屋でバイトを続ける極貧生活。こういう人生経験だと、多少はすさんできそうなのに、超がつくほど前向きな性格で、子供の頃から変わってない。
彼は美蘭が好きだけど、美蘭の態度は支離滅裂で、謎だ。まあ美蘭が誰かを本気で好きになるなんてありえない話。そのはずだった。しかし彼女はこの前いきなり「クリスマスは桜丸と長野に星見に行くから。小梅の世話はよろしく」と言ったのだ。信じられなくて
「泊まりだよね」と念を押したら、「昼間に星が出るのかよ」と切れたけど。
「別に怒ってないよ。そりゃ残念ではあったけど、代わりに友達が来てくれたし」
桜丸はそう言って居間のソファに腰を下ろし、傍で丸くなっていた三毛猫の小梅を抱き上げると膝にのせた。この猫は気難しいけど、彼にはよく慣れているので嫌がりもしない。
「そういうんじゃなくて、何ていうか、せっかく美蘭と一緒に泊まるはずだったのに」
ようやく、桜丸も僕の言いたいことを理解したらしくて、困ったような顔つきになった。
「あのさ、今回のツアーって、天文台のあるペンションに行って、望遠鏡で星を見て、テラスで寝袋に入って星空眺めて、それから展望台まで登って日の出を見るっていう内容だったんだよ。二人っきりになる時間なんてないから」
「美蘭はそれ知っててOKしたの?面倒くさいとか言わなかった?」
「まあ、最初はあんまり乗り気じゃなかったけど、たまにはいいかもねって」
まさか。だって美蘭はアウトドアも寒い場所も団体行動も大嫌いだし、寝袋なんて窮屈なものに入るはずがないから。
「嘘みたい」
思わず僕が呟いたその時、玄関のチャイムが鳴った。郵便だろうか。二階にいる美蘭が降りてくるはずないので仕方なく出て行くと、一番会いたくない相手が立っていた。
「亜蘭!インフルフルで大変だったね!もう、心配しまくり!」
サバエはそう言いながら飛び込んできて、「うわーお、外から見てもすごいけど、中も素敵なお屋敷だね!」と、はしゃいでいる。
「ねえ、どうしてここがわかったの?」
「何言ってんの、ラインくれたじゃん。死ぬほど退屈で寂しいから遊びに来てって、地図までつけて」
またも美蘭のなりすまし。僕は彼女をどうやって追い返そうかと考えながら、とりあえず居間へと案内した。
「あ、こんにちはです。私、亜蘭の彼女のサバエです」
彼女が先客の桜丸に挨拶すると、彼もにこやかに自己紹介した。
「初めまして、須賀桜丸です。美蘭から聞いてたけど、君が亜蘭の彼女なんだ」
「そうです!まだなりたてだけど。でもって、ニャンコンニチワ!」
サバエはいきなり屈みこむと、桜丸の膝にいた小梅の前足を両手でつかんでぶら下げ、勢いよく揺さぶった。
僕が止めに入るよりも早く、小梅は「ビャア!」と叫んでサバエの手に嚙みつき、老猫らしからぬ素早さで猫用ドアから逃走した。
「うわあびっくりした!凶暴ニャンコだね」と手をさすっているサバエに、桜丸は「大丈夫?」と声をかけているけど、彼女の肌には歯型すら残っていない。
「あの猫、人間でいったら百歳超えてるんだから、乱暴な事しちゃ駄目だよ」
サバエは「もう、亜蘭って本当にニャンコに優しいよね」とか言ってるけど、小梅が死んだりしたら僕と美蘭はこの屋敷を出なくてはならず、そんな面倒くさい事は一日でも先延ばしにしたいだけだ。
「さてと、これで亜蘭のおうちも確認できたし、そろそろ次いこうか」
「次?」
「なんか今日ね、黙如さんのお寺で餅つき大会やるんだってよ。クリスマスも終わっちゃったし、お正月モードなんだね。インフルフル治ったんだから遊びに行っちゃおうよ。桜丸さんも来ない?」
「そうだね。美蘭も一緒に来ないか、誘ってみようか」
「絶対無理」と、僕は即答した。
美蘭はそういう、「なんとか大会」が死ぬほど嫌いなのだ。しかしサバエはやる気満々で、「なんで?きいてみなきゃわかんないよ。美蘭の部屋って二階?呼んでくるね」と地雷原に向かっていった。
どういう思惑なのか、美蘭は僕らと一緒に東林寺の餅つき大会に参加した。
よく晴れて風もないので、けっこうな人数が集まって賑やかだった。小学生や中学生と大人が半々ぐらいで、この寺の檀家らしい高齢者もかなりいる。
本堂の前に石の臼を置いて、その脇にはキャンプ用のテーブルが置かれている。テーブルには割烹着を着たおばさんが三、四人いて、彼女たちに教えられて子供たちが餅を丸めていた。辺りには埃っぽいような、蒸した糯米の匂いが漂っている。
「私さあ、実は餅つきって見たことないんだよね」と、サバエは珍しそうに周囲を見回した。美蘭は「ノロウイルスが危ないとかって、餅つきなんて減る一方だもんね」と醒めた事を言っている。
でも確かに、餅つきは小学校の体験授業以来だな、などと思っていると、「サバエさん、亜蘭さん」という声がして、振り向くとジャージに割烹着姿の滅苦が立っていた。
「うわあ、滅苦ちゃん、カッポー似合いまくり」
「恐縮です。そちらは、亜蘭さんのお姉さまですか?」
訊かれて美蘭は、「いかにも。私がお姉さまだよ」とふんぞり返った。
「よく似てらっしゃるから、すぐに判りました」
「でしょでしょ?でもって、とっても綺麗でしょ?こっちが美蘭の彼氏、桜丸さんなの。今日は私たち、ダブルデートなんだよね」
サバエの出まかせに、滅苦は「そうなんですか」と大きく頷く。その時、大きな歓声が上がったのでそちらを見ると、作務衣姿の黙如が諸肌脱いで餅をつこうとしていた。
「わーお、黙如さんマッチョでやばくね?見に行こう」と、サバエは僕の腕をぐいぐい引っ張る。美蘭はちらりと視線を投げて、「やだよねえ、ああいうの」と呟いた。
「見せたがり脱ぎたがりの、自分大好き坊主」
そう言われても仕方ないほど、黙如の身体にはしっかりと筋肉がついていた。軽々と杵を振り下ろす彼の周囲にはおばさん、つまり中高年の女性や子供が群がり、「頑張って!」などと声援を送っている。そしてサバエまでが「黙如さーん!」とはしゃいでいて、何だか面白くない。
美蘭は腕組みして「あの人、絶対ホストの経験あるよね」と毒を吐く。実際、黙如がつけば餅までありがたい、という感じで、おばさんたちは我先にと群がっていた。
「すごいね、黙如さん一瞬でお餅ついちゃった。亜蘭もやらせてもらったら?」
戻ってきたサバエは息を弾ませてるけど、僕には考える以前の問題、無理。一方、調子に乗ってるらしい黙如は、早くも次の餅にかかっていて、周りからは相変わらず声援が飛んでいる。
滅苦は呆気に取られている僕らに「見てるだけじゃなくて、中でお餅食べていって下さいね」と、やっぱり子供らしくない口調で勧めてくれた。
「お餅って、できたてはすっごい柔らかいんだね」
サバエはどこまでも伸びるきなこ餅と格闘しながらそう言った。
「なんか私、売ってるのしか見たことないから、最初っから堅いと思ってた」
僕はただ頷きながら、磯部巻きを頬張る。
「でもさあ」と続けたところで、彼女は突然むせて、黄色い煙幕を吐いた。ひとしきり咳き込んだ後でようやく一息つくと、きな粉まみれのセーターを見下ろし、「うぉ、やべえ」と、どこかへ走っていった。
食べるかしゃべるか、どっちかにすればいいのに。
無駄な正論を心の中で呟き、磯部巻きを食べ終えると、僕は少しぬるくなったお茶を飲む。傍に座っていた桜丸は「大丈夫かな」なんて言ってるけど、本当にやばいなら窒息して倒れてるはずだから、心配ないと思う。
このあいだサバエが怪我した時に通してもらったこの座敷は、仕切りの襖を外して二間をぶち抜き、机を並べてある。そこで大人と子供、合わせて十五人ほどがのんびりと餅を食べ、隅に置かれたヒーターの前では、黒白猫のソモサンとセッパが寝そべっていた。
そういえば、美蘭はどこに行ったんだろう。桜丸に聞いても、「なんか、つきたてのお餅が食べたいからって、外に残ってたけど」としか言わない。
嫌いなはずの餅つき大会、実は楽しんでるのかな。そこまで考えて、ようやく気がつく。笹目だ。彼女は笹目に会いに来たのだ。
僕は目を閉じるとソモサンに接触した。
ヒーターの前でだらけていても、熟睡していたわけじゃないソモサンは、ゆっくり起き上がって伸びをした。前足の爪から尻尾の先まで、念入りに伸ばして、ついでに口が裂けるほど大きなあくびをする。そして座敷を出ようと歩き始めると、傍で寝ていたセッパも後からついてくる。
セッパは多分、ソモサンといれば怖い目にあう事はないと考えているのだ。一方、ソモサンはつきまとわれても全く平気。
何となく、自分が小さかった頃を思い出してしまう。美蘭の後ろに隠れていれば、絶対に大丈夫。学校はもちろん、腹黒い後見人に会う時だって、母親の傍にいなければならない時だって、僕はとにかく美蘭の背後に身を潜めていた。
やめよう、面倒くさいこと考えるのは。
僕はソモサンに意識を集中し、「お餅つくの見に行こう!」と立ち上がった子供に続いて廊下に出た。そのまま本堂を抜けて外に出ると、裏の墓地に向かう。
餅つき大会のざわめきは時おり風に乗って聞こえるぐらいで、冬の日差しの下に居並ぶ墓石は沈黙を守っていた。僕とソモサンはその一つを踏み台にして上がると塀を飛び越え、笹目の住む離れに近づいた。後にはもちろん、セッパがいる。
離れの玄関は閉まっていたけれど、中には人の気配がする。ソモサンの耳を前に向けてぴんと立てると、美蘭と笹目の声が入ってくる。
「ほんとにお久しぶり。相変わらず、窮屈な場所が好きなのね」
「あんたの図体が大きすぎるんだよ。その辺のもの、落とさないように座っておくれよ」
「そんなこと言ったって、本当に狭いし」
「あんたも弟も、よくまあそれだけ育ったもんだ。火積はろくすっぽ餌もやらなかったのに」
「その名前は二度と言わないで」
火積、というのは僕らの母親で、我が子を心の底から憎んでいた。今はたぶん、産んだことすら忘れてると思う。
「で?手土産なしかい?亜蘭が死にかけた時には口添えしてやったっていうのに、あんた恩知らずだねえ」
「悪いわね、急に来たもんだから。ねえ、蛇たちは冬眠してるの?」
「ここの床下にもいるし、よそに預けてるのもいるし。あんたの好きな白蛇は山形の温泉だ」
「なんだ残念。あの子も大きくなったでしょ?」
「そりゃもう、あんたらよりずっと立派だ。この秋に脱いだ皮、見るかい?」
何か荷物を動かしたり、落としたりする音がして、かさかさという響きが聞こえる。
「すごいね。前に見た時の倍ぐらいありそう」
「だって色々おいしいもの食べさせてやったし、冬もとびきり暖かい場所に住ませてるし。人間の子供より手厚く世話してるんだからね」
「なるほど」と一息ついて、美蘭は「おいしいものって、子猫なんか食べさせたことある?」と訊ねた。
「言っとくけど、猫なんて安っぽいものをかまうのは亜蘭ぐらいなもんだよ。うちの蛇たちはもっとましなものを食べてる」
「あら失礼。実は、迷子の子猫を探してるの。銀色のとてもきれいな子なんだけど」
「そいつを見つけるのは亜蘭の仕事だろう」
「それがどうも、役に立たなくて」
「いつまでたっても頼りない弟だ」
美蘭の奴、ミントを探すふりして僕の悪口を言いふらしてるだけか。その時、墓地に続く木戸の開く音がしたので振り向くと、スーパーのバスケットを提げた滅苦が現れた。
「お前たち、寒いのに外で何してるの?」
声をかけられ、セッパは滅苦の足に身体をすり寄せる。僕とソモサンはとりあえずニャアと鳴いて成り行きを見守った。
滅苦は「笹目さーん、お邪魔します」と声をかけ、ためらわずに玄関を開けて中に入ったので、僕たちも後に続いた。中には犬のブチが寝そべっていたけれど、ちらりとこっちを見ただけで、動きもしない。
滅苦が座敷へ続く引き戸を開けると、こたつに入っていた笹目が首を伸ばしてこちらを見る。滅苦はバスケットからラップのかかった皿を取り出し、「お餅ついたんで、召し上がって下さい」と言った。
「何だか賑やかだと思ってたら、もう餅つきかい。一年なんてあっという間だね」
「僕には一年って、かなり長いですけど。あ、お姉さまもいらしてたんですか?」
滅苦はようやく美蘭がいるのに気づいたらしい。
「すみません、笹目さんのお餅しか持ってきてなくて」
「いいわよ。あっちで食べるから」
「でもこれ、黙如さんがついたお餅だから、数量限定なんですよ」
「だったら尚のこと、遠慮しとく。笹目、イケメン坊主のついた餅で若返るといいわね。そろそろ喉につめるのが心配な年だけど」
そう言って美蘭は小さなこたつから脱け出すと玄関に降り、寝そべっているブチを撫でてから外に出る。笹目は「相変わらず口の減らない小娘だね」と悪態をつきながらも、どこか嬉しそうで、やっぱり黙如がついた餅のおかげかもしれない。
滅苦は「まだお汁粉とかもありますから、よかったら来て下さいね」と声をかけ、空のバスケットを提げて美蘭の後に続いた。ソモサンとセッパもそれを追いかける。
「何よあんた、上がっていかないの?」
「はい、笹目さんは一人が好きですから」
「あのババア、死ぬほど偏屈だもんね。よく判ってるじゃん」
自分だって死ぬほど偏屈な美蘭はそう言って笑い、「あんた、このお寺の子なの?」とたずねた。
「いいえ。でも実家はお寺です。今ちょっと休業状態なんで、僕はここでお世話になって、都会派の寺院経営を勉強してるんです」
「黙如と一緒にいても寺院経営なんか身につかないでしょ?檀家のおばさん達には人気があるだろうけど」
「人気、ありますよね。黙如さんには華がありますから」
「何が華よ。チャラくて「こっち見て光線」出してるだけ。ただの目立ちたがりじゃない」
「お姉さまって、かなりシビアですね。やっぱり、ご自分の彼氏の方が素敵ですよね」
「そりゃそうじゃん」
それを聞いて、僕は思わず「えっ!」と叫んでしまった。実際にはソモサンが「ミャッ!」と鳴いたんだけど、なんだこの素直な反応。
美蘭は胡散臭そうに僕とソモサンを一瞥してから、「少なくとも黙如よりマシ」と言った。
「あの、今日はダブルデートなんですよね」
「見ればわかると思うけど、サバエちゃんと亜蘭はラブラブなのよ。亜蘭の一目惚れ。会った瞬間に運命の人だって判ったらしいわ。毎日毎日、朝から晩までノロケ話聞かされて、発狂しそうなぐらい」
いくら嘘が得意だからって、言っていい事と悪い事がある。僕は怒りのあまりソモサンに命じて、ジーンズをはいた美蘭のふくらはぎに飛びつくと牙をたてた。
「ソモサン!何するんだ!」
滅苦は大慌てだけれど、美蘭は平然と僕とソモサンの背中をつかんでひっぺがし、「何か悪い霊がついてるみたいよ。お祓いしてもらったら?」と地面に下ろす。その時いきなり誰かに肩をたたかれ、僕は慌ててソモサンとの接触を切った。
「私がいなくて寂しいから、ぼんやりしてたの?」とサバエの声がする。
「そういうわけじゃないし」
「いいよ、隠さなくても。ところでさ、大晦日は何してる?」
「何って、別に」
正直に言ってから、しまった、と思う。
「じゃあ決まり。黙如さんがここで新年のカウントダウンパーティーやるらしいよ。鐘がないから除夜の鐘は無理だけど、自分の煩悩を紙に書いてきて皆で燃やすんだって」
「でもさ、大晦日って普通、家族で過ごすもんだろ?」
何とか阻止しようと、常識的なこと言ってみたんだけど、サバエは「だってうち、年末年始は通常営業だもん」と言った。
「うちのお父さんの仕事、お正月とか関係ないんだよね。お母さんは休みだけど、ふだん働いてる分ゆっくりしたいって。特に今年は真柚ちゃんが国立受けるから、お正月どころじゃないもんね。休むの元旦だけだよ」
「お姉さん、どこ受けるの?」
僕の質問に、サバエは質問で返してきた。
「どうして真柚ちゃんの進路なんか気になるの?」
「いや、そこまで勉強したら、どこに入れるのかと思って」
「どこだって入れるよ、真柚ちゃんだもん。亜蘭、もしかして真柚ちゃんと同じ大学受けようとか思ってる?」
「まさか、僕はもう推薦で行くとこ決まってるから」
「私もそう。明淑お遊び学院のエスカレーターに乗ってるもんね。うちら受験関係ないんだから、めいっぱいフリーじゃん。大晦日は煩悩燃やしに来ようよ、ね?」
サバエはいきなり本題に戻った。
「いや、悪いけど煩悩とかそういうの興味ないんだ。黙如さんに会いたいなら、一人で来ればいいんじゃない?」
僕がそう言ったら、サバエは目を大きく見開き、ちょうど座敷に入ってきた美蘭に「亜蘭ったら、黙如さんに嫉妬してるよ!」と訴えた。
「大晦日のカウントダウンに来ようって誘ったら、どうせ黙如さんに会いたいんだろうって」
何故こうなるのか判らない、サバエの脳内変換能力。
きなこ餅がてんこ盛りになった紙皿を持った美蘭は、軽く眉を上げると「ごめんね、劣等感が強いからすぐ嫉妬するの。おまけにひがみっぽいし。一から育て直してやって」と言った。
6 隠してることない?
結局、僕の煩悩は「劣等感とそれに伴う嫉妬心、ひがみ根性」と定義された。
自分で考えずにすんだからいいか、と思いながら、僕はそれをノートの切れ端に書き、サバエに連れて行かれた東林寺のカウントダウンパーティーで燃やした。
しかし噂によると人の煩悩は百八つ。僕にはまだ多くの煩悩が残ってる。だから素直にそれに従い、杉田家の飼い猫、ミント二号に接触することにした。
今日は新年明けて三日、時間は夜の十一時。ロシアンブルーのミント二号は明かりの消えたリビングのケージで一人遊びに興じている。僕はそんな彼の意識をおもちゃから引き離し、ケージの隙間から前足を伸ばすと、ロックを外して脱出した。
壁際を走り、ドアノブに飛びついてぶら下がる。まだ体重が軽いので少し心配だったけれど、なんとかドアノブは回転し、僕とミント二号は廊下に出る事ができた。
誰かが一緒に寝てくれれば、こんな脱出しなくていいんだけど、この家では誰もそこまで猫に入れ込んでないらしい。
暗く冷えた廊下を抜け、階段を一段ずつ跳んで上がる。サバエによると、二階の一番手前が彼女の部屋で、その次が姉の真柚、つきあたりが両親の部屋らしいから、僕らは迷わず真柚の部屋へ向かった。
ここでいきなり猫が自分でドアを開けて入るのは、少しホラーな展開なので、あざとい方法を選ぶ。ドアに爪をたててひっかくのだ。
世間一般の猫好きな飼い主なら、この程度であっさり陥落する。うまくすれば今夜から一緒に寝てもらえる。哀れっぽく声を上げてもいいけど、サバエや両親に気づかれたくないから、ここは無言で。
ドアを何度かひっかくうち、中で人の気配がして、足音が近づいてきた。ドアノブの回る音がしたので、僕らは少し後ろに下がり、ドアが開くと同時に中へ入り込んだ。
「やだ!どうしたの?」という真柚の声を聞きながら、とりあえずベッドに飛び乗って振り向く。彼女は髪を後ろでまとめていて、淡いブルーの部屋着姿。
初めて会った時から、猫にあまり関心なさそうなのは気づいてたけど、飼ってるうちに情が移ったという事もありうる。僕らは煩悩を込めた声で、何度かニャアニャアと呼びかけてみた。それから、期待をこめてベッドの上で転がってみせる。
しかし真柚は「駄目!毛がついちゃうから降りて!」と言うなり、本棚から大判の青いファイルをを抜き取り、それで僕とミント二号を追い立てた。
手ですらなく、ファイル、というこの拒絶感。
僕らはいったんベッドから跳び下り、ボアのスリッパを履いた彼女の足元にすり寄ってみたけれど、「だからやめてってば」と、かわされてしまった。
真柚はそのまま青いファイルで僕らを廊下に追い出すと、無言でドアを閉めた。せめて抱き上げてケージに戻してほしいんだけど、と未練がましくドアをひっかいていると、いきなり隣室からサバエが顔を出した。
「何やってんの」
まずい。僕とミント二号はすぐさま階段を駆け下りてリビングを目指した。
後からサバエの足音が追いかけてくる。ケージに飛び込んだところで、リビングの明かりがつき、鮮やかなピンクに星柄のフリースを着たサバエが覗き込んだ。
「ちゃんと閉まってなかったのかなあ。ミント、寂しいから上がってきたの?」
このまま彼女の部屋に拉致されたらゲームオーバー、ミント二号との接触を切ろうと考えながら、僕らはケージの隅にうずくまり、彼女の出方を待った。
「寂しくても、真柚ちゃんの部屋は駄目だよ。そんな事したら、うちにいられなくなるから」
サバエはそう言って、ケージのドアを閉めるとロックした。
ミント二号と接触を切った僕は、自室のベッドに寝転がって天井を眺める。真柚のそっけなさに激しく落ち込んではいたけど、それとは別にサバエの言葉が引っかかった。
そんな事したら、うちにいられなくなるから。
僕はミント二号を、迷子になった一号の替え玉として杉田家へ連れていった。それを依頼したのは真柚。サバエは戻ってきたミント二号を歓迎していたけれど、真柚は無関心というか、むしろ疎んじている。
僕の怠惰な頭では、この事実関係を矛盾なく収めることができない。面倒だ。丸投げしよう。
「確かにそう言ったの?」
ベッドに寝そべって本を読んでいた美蘭は、肘をついて起き上がると、傍で香箱をつくっている三毛猫小梅の背を撫でた。
「うん、そんな事したら、うちにいられなくなるから、って」
「そりゃ、しつけでしょ。猫に説教する人なんて、珍しくもないし。そういう人は電柱にでも話しかけるからね。以上。はい出てって」
「でも何かおかしくない?もしかして、ミント一号は迷子になったんじゃなくて、あの家にいられなくなったんじゃないかな」
「だから何よ。いなくなった事に変わりないじゃない。余計なこと考えてないで、さっさとミント一号を見つけりゃいいのよ。何のためにサバエちゃんとつきあってるの」
「いや、つきあってないし」
僕が速攻で否定すると、美蘭は眉間に軽くしわを寄せ、「ここに座って」と、自分の隣を指さした。
「嫌だ」
「明日目が覚めたら、ハクビシンと寝てるかもね」
仕方ないのでベッドに腰を下ろすと、彼女は「サバエ、何か僕に隠してることあるだろ?」と言いながら、僕の顎に指を添えて自分の方へと向けた。
「ばれてないと思ってるだろうけど、ちゃんとわかってるよ。だって僕はいつも君のこと見てるから」
低い声でそう囁きながら彼女は少しずつ顔を寄せてきて、その柔らかな息が僕の首筋をくすぐる。
「そう、猫のミントだよ。あの子猫の事で、何か困ってたんじゃない?秘密なのかもしれないけど、そのせいで君が苦しい思いをしてるのが、僕にはわかるんだ。話してくれたら、きっと力になれるよ」
そして美蘭は僕の頬に頬をつけて、黙ってしまった。一体どうしたんだろうと訝しんだ瞬間、僕は突き飛ばされて勢いよく床にひっくり返った。
「これくらいやってみな。実技指導料三千円つけとく。あと、もう少し丁寧にヒゲ剃れ」
そして彼女は僕に背を向けてベッドに寝転ぶと、「さっさと出てって」と読書を再開する。一部始終を見ていた小梅は、馬鹿にしたようにビャアと鳴いた。
それから二日後、サバエから初詣に誘われた帰り道、僕は彼女の家に上がり込むことにした。面倒くさいのは山々だけれど、何かしなくてはこの拘束状態を抜け出せないからだ。
「亜蘭ってやっぱり優しいよね。ミントがどうしてるか。様子を見たいだなんて」と、サバエは嬉しそうに僕をリビングへ通してくれた。
ミント二号は相変わらずケージの中。退屈そうな顔つきで銀色の毛皮を舐めている。僕がその前にしゃがむと、サバエも隣に来た。
「普通に元気でしょ?」
「うん。少し大きくなったね」
ミント二号は構われないのに慣れているのか、僕らを無視して毛づくろいに没頭している。
「この子の世話って、君がしてるの?」
「まあ基本、お母さんかな。おばあちゃんちで猫飼ってたことがあるから、慣れてるし。私は朝、ギリギリまで起きられないから無理なんだよね。夜のごはんはあげたりするけど」
「じゃあ、猫を飼いたいって言ったのは、お母さんなの?」
「それは真柚ちゃん、になるのかなあ」
「え?お姉さんが、猫が欲しいって言ったの?」
だとしたらこの前の、僕とミント二号に対する邪険な扱いは何だったんだ。
「猫が欲しい、っていうか、何ていうか。あのさ、十一月におじさんの還暦祝いがあったんだよね」
「還暦祝い」
いきなり話が飛んだけれど、ここで何か言っても無駄な気がする。
「それで、うちら家族もお祝いによばれて、四人で栃木まで行ったんだよ。でもさ、おじさんちの辺は田舎でさ、お祝いのご飯食べて、しばらくしゃべって、ぐらいしかする事ないの。
で、近所のショッピングモールのカラオケに行ったら、順番待ち。仕方ないから皆でぶらぶらして、時間つぶして。そしたら、ペットショップがあったの。チワワとかミニチュアダックスの子犬とか、ウサギやハムスターに、子猫もいたなあ。真柚ちゃんはロシアンブルーの子猫を見て「可愛い」って言ったんだよね。で、その後カラオケ行って、夕方まで歌ったかな。それで、次の週末にお父さんがミントを買ってきたの」
「カラオケ、関係ないよね」
「あるよ。順番待ちだったせいでペットショップ行ったんだから」
「でも、どうして君んちのお父さんはいきなりミントを買ってきたの?」
「だからさ、真柚ちゃんが子猫を「可愛い」って言ったからだよ。うちのお父さんって、真柚ちゃんと仲良くなりたい人なの」
「でもお姉さんは、猫を飼いたいとは言ってない」
僕がそう指摘すると、サバエは眉間にしわを寄せた。
「だからさ、お父さんは真柚ちゃんを喜ばせたくて、ミントを買ったんだよ」
「それで、お姉さん喜んだの?」
「あんまり、っていうか困ってると思う。猫とか動物全般、好きじゃないし」
「お父さんはその事を知ってるの?」
「そんなの知られちゃ駄目だよ。せっかく真柚ちゃんのためにミントを連れてきたのに、本当は嫌だったなんて最悪じゃない」
「じゃあ、どうしてお姉さんは子猫のこと可愛いなんて言ったの?」
「だって普通に言うじゃん。とりあえずなんか言っとかなきゃって時は、可愛いって。友達の新しい髪型とか、親戚の赤ちゃんとか、先輩がくれたボールペンとか、全部可愛いだよ。本当はどう思ってるかはどうでもいいし。その場のノリがいちばん大事なんだから」
「でも、お父さんは何故そんなにお姉さんと仲良くなりたいの?」
「理由なんかないよ。お父さんってそういうものだから。亜蘭のお父さんもそうでしょ?」
こんな時、美蘭なら「まあ、そうかもね」なんて話を合わせるだろうけど、僕にそんな才能はない
「父親とは会ったことないから、判らない」
サバエは驚いたような顔つきになって、「もしかして、傷ついた?」と言った。
「いや。どうして?」
「だって亜蘭、お父さんいなくて可哀想な人なのに、私がそのこときいちゃったから」
「父親がいないのは、別に可哀想じゃないし、傷つくことでもないよ」
しかしサバエはかなり神妙な表情で黙っていたかと思うと、いきなり僕の腕をつかみ、顔を寄せてきた。
「ねえ亜蘭、何か私に隠してることない?ばれてないつもりだろうけど、ちゃんと判るよ」
「いや、何もないけど」
「ごまかさなくていいよ。私は亜蘭のことずっと見てるんだから。いつも何だか、困ったような顔してるよね。秘密かもしれないけど、話した方が楽になると思うよ。私は味方だから」
「も、もしかして、美蘭に実技指導料三千円払った?」
「美蘭に三千円?何の話?」
「何でもない」
僕はどうやってこの場を乗り切るかを必死に考えていた。隠してるのは、サバエよりも真柚に心惹かれているという事だけど、白状したら修羅場まっしぐらだ。
「とにかく、僕には隠し事なんてないよ」
やっとの思いでそう言った時、玄関に誰か帰ってきたらしい物音がした。サバエは軽く首を巡らせ、「真柚ちゃんだ」と呟く。靴があるから、僕が来てるのに気づいたはず。でも彼女はそのまま階段を上がり、リビングには姿を見せなかった。ミント二号はともかくとして、僕にも関心がないらしい。別に驚かないけど。
「ほら、その顔だよ」
サバエの声で僕は我に返った。
「今の、困ったみたいな顔。もしかして真柚ちゃんと関係ある?」
「ない。百パーセントないから。顔は生まれつき」
「ふーん」、と気のない返事をして、サバエはケージを開け、ミント二号を抱き上げた。そしていきなり「ニャンコ体操第一!」と叫び、両方の前足をつかんで振り回す。僕は思わず「だから駄目だってば」と、ミント二号を奪い取っていた。
「やっぱりね」と、サバエは低い声でうなずく。
「何?」
「今、困った顔なんかしてなかったよ。普通に驚いてた」
「だって、急にニャンコ体操とかするから」
「でも生まれつきなら、驚いた時でも困ったみたいな顔するよね」
「いや、驚いた時は驚いた顔だよ」
「もういい。亜蘭、私に嘘つくんだ。傷ついちゃったよ。帰ってくれる?」
「…わかった」
いきなり梯子を外された気分で、僕は腕の中のミント二号をケージに戻し、杉田家を後にした。
ミント一号の手がかりこそつかめなかったけど、サバエが僕を切ってくれたんだからこれでいい。そう思って家に戻り、キッチンで小梅の夕食を用意していると、美蘭が現れた。
「あんた、最低ね」
「何が?」
「帰れって言われて、素直に帰る馬鹿がどこにいる」
僕は手にしていた「猫貴族 若鶏のクリーム仕立て」のパウチを床に置き、彼女を睨んだ。また何か、サバエから聞き出したに違いない。
「言っとくけど、私からは何も探ってないからね。サバエちゃんが連絡してきたの」
「だって向こうが僕を切ったんだから、終わりにするしかないだろ」
「じゃなくて、機嫌とらなくてどうするのよ。ごめん僕が悪かったって、フォローすればいいだけの話じゃない」
「そんな嘘はつけない。機嫌とるだなんて、面倒くさすぎるんだよ」
僕の中に、言葉にならない苛立ちが膨れ上がる。
さっさとこの場を離れたい。乱暴にパウチの封を切って、ボウルに中身をあけると、美蘭の足元から小梅が顔を覗かせた。三毛猫はゆっくり近づいてくると、注意深く匂いをかいでから食事を始める。
「嘘でも何でも、さっさと謝って仲直りすりゃいいの」
「絶対無理」
美蘭はまた何か言いかけたけど、口をつぐむとキッチンから出ていってしまった。さすがに分が悪いと感じたんだろう。当たり前だ。
その夜、というか明け方近く、僕は変な気配で目を覚ました。
部屋に何か、生き物がいる。
最初は小梅かと思ったけど、それよりも大きな何かだ。
とりあえず明かりをつけようと手を伸ばしても、いつもの場所にスタンドがない。嫌な予感がして、こんどはスマホを探すけど、これもどこかに移動している。分厚いカーテンのおかげで街灯の光も届かず、真っ暗な中で僕はその生き物の気配を探った。
時折、床を引っかくような乾いた足音がせわしなく動き回る。生き物は遠ざかったかと思うと近くをうろつき、いきなりベッドに飛び乗ってきた。僕が反射的に布団にもぐると、奴はその上に登る。
敏捷な四つの脚が僕の背中を走り、その軌跡に尻尾がアクセントをつける。重さは小梅の倍ほどだろうか。
小梅より大きい、という事はこの部屋の猫ドアを通れない。つまり、この生き物は誰かがドアを開けて放り込んだ事になる。そして僕が追い出さない限り、こいつはずっと居座り続ける。
冗談じゃない、と、僕はベッドを出た。散らかった部屋をつまずきながら横切ると、手探りでドアの脇にあるスイッチを押す。
部屋に光が溢れ、眩しさで細めた僕の目に、ベッドの上にいる獣の姿が飛び込んできた。
褐色の被毛に覆われた頑丈そうな体、長くしなやかな尻尾。鋭い爪を備えた四肢に丸い頭。愛玩動物かと錯覚しそうな、黒くてつぶらな瞳。額から鼻面にかけて、刷毛で引いたような白いラインがある。
「ハクビシン?」
突然の明るさで硬直していた獣は、一瞬でベッドの下に潜り込む。本当、冗談じゃない。
7 気がついたらここにいて
「それであんた、私に泣きつこうって魂胆かい?」
笹目は勿体つけてそう言うと、僕が手土産に持参したゆで卵の殻を剥いた。
「泣きついてるわけじゃない。取引したいんだ」
僕はテーブルの上でもう一つの卵を弄びながら、彼女の出方を待つ。夜久野一族に共通した事だけど、笹目は人嫌いで偏屈で、思いやりってものがない。だから自分の利益にならない頼み事なんて、聞く耳を持たないのだ。
「取引ってかい。まあ、切羽詰まるのも仕方ないか。今日のあんたはハクビシンの匂いがするからね」
笹目は薄い唇に皮肉っぽい笑みを浮かべた。僕の不運を喜んでいるのだ。
「せっかく姉さんが連れてきてくれた獣だ。仲良くしておやりよ。猫とそんなに変わりゃしないだろう」
「ここにハクビシンが出たら、僕の気持ちも少しは判ると思うよ」
「そりゃあないね。ブチのこと、見くびらないでおくれ」
そして笹目はゆっくりとゆで卵を食べ、お茶を飲む。
未明の騒動のせいで、僕は眠くて仕方ない。逃げ回るハクビシンをどうにか毛布に丸め込み、車で遠くに捨ててきたのだ。近所で逃がしたら、美蘭が回収してまた送り込んでくるから。
「でもねえ、首尾よくそのロシア何とかの子猫を見つけて売ったとして、姉さんはすんなり分け前をくれるのかい?」
「なんとか交渉する。僕の取り分は全部、笹目にやるよ。とにかく、急いでどうにかしないと、また何かされる」
「なるほどね。とはいえ後払いは信用ならない。手付は先にもらいたいね。別に現金じゃなくていいんだよ」
手付金の代わりに笹目が要求したのは勤労奉仕だった。彼女の住まいである東林寺の離れへ行き、こたつの周囲にそびえるガラクタの山を、多少は秩序ある状態へと積み直す。好きでカオス的な環境に住んでるのかと思ったら、少しは居心地が悪かったらしい。
「うどの大木でも使えるもんだ。滅苦は気が利くけど小柄だから、こういう用事は頼めなくて不自由してたんだよ」
「力仕事なら黙如がいるだろ。あの人はきっと、おだてれば何だってするよ」
「残念ながら住職は引く手あまたでね。それに、ああいう賑やかな人間は暑苦しくていけない。夏だろうと冬だろうと、蛇みたいにひんやりしてるのが一番さ」
そんな事を言いながら、笹目は僕が積み直している箱や包みの中をあらためていた。固めた枯草みたいなものもあれば、螺鈿細工の鏡や、鼻緒の切れた草履も出てくる。和綴じ本の間にフロッピーディスクが入っていたり、「団結 第五十一回メーデー」と染められた日本手拭が出てきたり、要するに全部ゴミだ。
とりあえず全ての山を並べ替えると、床面積が三割ほど広くなり、笹目は「片付けすぎると却って不便だ」と作業を打ち切った。後はまとめた新聞紙や雑誌のたぐいを、墓地の脇にある物置まで運ばされる。
三往復して最後のひと山を運んだところで、滅苦に出くわした。ヒーターの灯油を入れに来たらしい。
「こんにちは。笹目さんのお手伝いですか?檀家さんからいただいたお菓子が沢山ありますから、召し上がっていきませんか?」
相変わらず妙に大人びた誘い文句。笹目のとこじゃ水の一杯も出ないので、僕は「できたらコーヒーも飲みたいんだけど」と彼について行った。
「亜蘭さん、亜蘭さんてば」
何度か僕を呼ぶ声がして、誰かが肩に触れる。気がつくと僕は横になっていて、毛布がかけられていた。
「おやすみのところ、すみません」
声の主は滅苦だ。確かさっきお茶に誘われたはずなのに、どうなってるんだろう。起き上がってみるとそこは、前にも通された座敷だった。
「もしかして僕、寝てた?」
「はい。コーヒーを持ってきたらすごく気持ちよさそうに眠っておられたので、起こさなかったんです」
「三十分ぐらいたってるかな」
「三時間です」
「ごめん、昨日よく寝てなくて」
「ここで寝るのは全然かまいませんよ。でもさっき、笹目さんのところにサバエさんが来られたんです。こっちに寄っていただきましょうか」
その一言で僕の眠気はすっかりさめた。
「駄目。僕がここいるって絶対に言わないで」
「何か都合の悪いことでも?」
「彼女とはもう何の関りもない。ていうか、最初っから何でもないから」
僕がそう言うと、滅苦は心底いぶかしげな顔になって「でも、サバエさんにメロメロなんでしょ?」とたずねた。
「それは嘘。事情があって、つきあってるふりしてただけだから。昨日寝られなかったのも彼女のせいだし」
「眠れないって、好きだからじゃないんですか?」
「違うよ。彼女のせいで美蘭がハクビシンを、っていうか、とにかく絶対に会いたくないから」
そう言う間にもサバエが現れそうな気がして、僕は立ち上がった。
「ちょっと別の場所に避難していい?ここじゃ危ない気がする」
「だったら僕の部屋へどうぞ」
滅苦の部屋は本堂裏の階段を上がったところにあった。四畳半の半分をベッドが占め、あとは本棚代わりの収納ボックスと小さな折り畳みのテーブルだけ。
「よければここで寝て下さい」と言われたけど、さすがにもう寝る気はない。僕は滅苦が淹れてくれたコーヒーを飲み、ずっしり重い最中を食べながら、この寺の猫、ソモサンとセッパの居場所を探った。
二匹の白黒猫は台所の冷蔵庫脇に置かれた段ボールの中で寝ていた。まずソモサンを起こすと、セッパもつられて目を覚ます。僕とソモサンは床に降りると大きく伸びをして、勝手口についた猫ドアから外に出た
僕らは暗くなった墓地を横切ると、墓石を踏み台に塀を飛び越え、笹目の住まいである離れへと近づく。中の様子を探るには裏手の窓の下が一番。僕とソモサンが重ねて置かれたスチロールの箱の上に乗ると、セッパも後からついてくる。
窓に向かって首を伸ばし、耳を立てると、サバエの「でもさあ」という溜息まじりの声が聞こえた。
「謝るどころか、なーんにも連絡してこないんだよ。亜蘭、本気で怒っちゃってるのかな」
「放っておけばいいのさ。男なんてのは犬と同じ。相手が逃げたら、頭が考える前に体が追いかけてる」
「それって、けっこう馬鹿ってこと?」
「馬鹿じゃない男なんて見たことないね」
「そっかあ」
「ついでに言うと女も馬鹿だよ。この世は馬鹿と馬鹿でできてる。大体あんた、世の中の半分が男なのに、亜蘭みたいな粗悪品にこだわる事もないだろうよ。さっさと次の馬鹿をあたればいい」
「でもさあ、うちら女子高だから、出会いなんてないし」
「何をお言いだ。毎日家を出てから帰ってくるまで、何人の男とすれ違うか、一度数えてごらん」
「そんなの、誰でもいいってわけじゃないし。そりゃ黙如さんみたいにカッコいい人ならいいよ。でも、亜蘭だってそう悪くないと思うんだけど」
そこまで言って、ふいにサバエは黙った。笹目も何も言わないし、一体どうしたんだろう。誰かが歩いてるような音だけが聞こえる。もう少し何か聞こえないかと、僕とソモサンがさらに伸び上がったその時、いきなり窓が開いてサバエが顔を覗かせた。
「ニャンコにゃーん!笹目さんすごいね、どうしてニャンコが来てるって判ったの?」
そう言いながら彼女は腕を伸ばしてくる。笹目の奴、猫と僕に気づいていたのだ。なまじ視覚に頼ってないせいで、異様に勘が鋭い。
即座にソモサンとの接触を切ったものの、僕の動悸はなかなか収まらない。猫と一緒なら毛づくろいでもして気持ちを立て直すとこだけど、一人だとそうもいかない。仕方ないからぬるくなったコーヒーを飲んでいると、滅苦が戻ってきた。
「ばたばたしてすみません。ヨガ教室の準備をしてたもので」
「ヨガ教室?ここでやってるの?」
「はい、本堂で毎週夜七時から。他にも色々ありますよ。詩吟に座禅にマインドフルネス。東林寺は地域密着型の開かれたコミュニティを目指してるんです。さらば葬式仏教、生きた教えを暮らしの中に、がモットーです」
「それ、もしかして黙如さんが提案してるの?」
「はい。他にも防災訓練を兼ねた炊き出しとか、野菜の即売会とか。夜のパトロールと一人暮らし見守り隊もありますし、あとは節分やバレンタインみたいな、季節のイベントでけっこう忙しいです。ボランティアの人が手伝ってくれますけどね。亜蘭さんも何か参加してみませんか?」
「悪いけど、そういうの苦手なんだ」
ていうか、考えるだけでも面倒くさい。
「修行か何か知らないけど、こんなとこにいるより自分の家でのんびりしたいとか思わないの?」
「僕はイベントが沢山ある方がいいかな。楽しいから。それに、自分の家にはまだ帰れないんです。うちのお寺は福島にあって、避難解除されたばっかりだから」
「それって、原発事故の?」
「はい。両親はもう村に戻ってますけど、他の人たちが帰ってないからお寺も開店休業なんです。学校もまだだし」
こういう時、何て言うべきなんだろう。それは大変だったね、とか、ありがちな台詞も浮かんだけど、口にはできず、僕はただぼんやりと滅苦の言葉を聞いていた。
「でも僕は、どういう風に東林寺に来たのかよく憶えてないんですよね。気がついたらここにいて学校に通ってたって感じで」
彼は自分自身に呆れたような、少し寂しげな顔つきになった。
「でも黙如さんは、そうそう俺も!酒飲んだ次の日は何も憶えてないし、そんなのしょっちゅうだよ!って言うんですよね」
「確かに僕も、昔のことってあんまり憶えてないよ。気がついたら高校生になってた」
正直なところを述べると、滅苦の顔つきが明るくなった。
「そっか、やっぱり普通の事なんですね」
「でも、美蘭はすごく細かい事まで憶えてるから、僕が忘れっぽいのかも」
「それはきっとお姉さまの記憶力が特別なんですよ。とっても頭が良さそうだし。あんな素敵な人がお姉さんで、亜蘭さんは本当に幸せですね」
「いや、むしろ逆。美蘭のせいで不幸続きだから」
僕がそう言うと、滅苦は「そんなあ!」と声を上げた。
「いいですか、亜蘭さんは自分の幸せに少しも気づいていない。毎日お姉さまがそばにいて、お話ししたり、食事をしたり」
「だからそれが嫌なんだ。いくら説教されても僕の気持ちは変わらないから。はっきり言って、美蘭よりソモサンとセッパの方が…」
僕がそこまで言った時、「きっとここにいるよ」という太い声が聞こえた。
「滅苦、お客さん」と襖を開けたのは黙如で、その後ろから顔をのぞかせたのはサバエだった。
僕も滅苦も固まっていたけれど、サバエも何も言わない。黙如だけが「ほらね!じゃあごゆっくり。俺は坊主カフェ行くから、またあっちにも顔出して」と能天気に立ち去り、僕ら三人は沈黙のうちに取り残された。
「あのう、最中、召し上がりませんか?檀家さんからいただいたんですけど」
ようやく口を開いたのは滅苦で、サバエはにこりともせず「いらない。お正月に食べ過ぎちゃってブタ警報だから」と言った。
「じゃあ、お茶だけでも。っていうか、七時からのヨガ教室に参加されませんか?ダイエット効果もあるって女性に大人気ですよ。ワンレッスンのトライアルだったら無料です」
「一回だけじゃ痩せないから、やらない」
とりつく島もない彼女の態度に、滅苦も困った様子でこちらを盗み見る。でもそもそも僕を切ったのはサバエの方なのだ。こっちには何も言うことなんてない。ただ睨み合いが続いて、サバエの足元をすり抜けて来たソモサンとセッパがいなければ、本当に時間が止まったかと錯覚するほどだった。
いきなり、サバエが僕の前に何か放ってよこした。
「笹目さんから」とだけ言うと、彼女は襖も閉めずに踵を返し、大きな足音をたてて階段を駆け下りる。滅苦は長い潜水を終えたような溜息をついてから「追いかけないんですか?」と非難めいたことを言った。
「だからさ、つき合ってないから」
あらためてそう念押しして、僕はサバエが投げたものに手を伸ばす。
僕が拾ったのは、赤い首輪だった。サイズからみて猫用、それも大人じゃなくて子猫。少しだけ使った痕のある穴に指を滑らせると、僕の頭の隅に小さな明かりのようなものが灯った。それはほとんど消えそうで、しかもちらちらと定まらないけれど、その首輪をつけていた猫の波長を伝えてくる。
替え玉のミント二号によく似た、でも更に活発な気性の雄猫。ミント一号。
笹目の奴、やっぱり最初から知ってたんだ。
8 住職はインテリだ
「起床!」
そう叫んで誰かが上に乗ってきた瞬間、僕はすり抜けて低い姿勢で間合いを取った。
よく見ると相手は作務衣姿の黙如だ。彼はぽかんとした顔で、さっきまで僕が寝ていた布団を抱えている。
とりあえず挨拶はしておくべきだと思って、「おはようございます」と言うと、黙如は布団を抱えたまま「君、何か武術やってる?」と訊ねた。
「いいえ」と僕は首を振る。そんな面倒くさいもの、やるわけない。
「だったら、是非やるべき。センスあるから。寝込みを襲われてこんなに素早く反応するなんて、普通は無理だからね」
何を大袈裟な。そう思いながら枕元のスマホを手に取る。やけに外が明るいと思ったら、もう十二時過ぎだった。
「別にいつまで寝ててもいいんだけど、さすがにお腹が空くだろうと思って起こしにきたんだ。放っといたら君は、二日ぐらい眠ってるタイプじゃない?」
「どうして判るんですか?」
「ただの当てずっぽう。いいじゃない、寝る子は育つ。昼ごはん食べよう」
布団をたたみながら、僕はどうして自分がこの場所、東林寺にいるのかを思い出していた。
昨日、ミント一号の首輪を手に入れて、すぐに笹目のところへ行ったけど、離れは真っ暗。どうせ居留守を使われるし、また出直すことにした。
その判断が甘すぎたと気づいたのは、家に帰り、部屋の明かりをつけた瞬間で、僕を待っていたのは、またしてもハクビシンだった。今度の奴は肝が据わっていて、逃げもせずに部屋の真ん中でこっちを見ている。
背筋に嫌な汗が浮かぶのを感じながら、美蘭の奴、この獣をいったい何匹集めてるんだろうと考える。
もともと彼女は、下らない嫌がらせほど気合いを入れる。この調子だとたぶん、僕が何度ハクビシンを駆除しても、サバエに頭を下げて自分の非を認めない限り、同じことの繰り返しに違いない。
でも僕は断じてサバエに謝る気はなかったので、そのまま自室を出て東林寺へと引き返し、滅苦の部屋に泊めてもらったのだった。
一階に降りてゆくと、キッチンの脇に六畳ほどの和室があって、こたつの上に食器が出ている。いつもここで食事してるんだろうか。ぼんやりと覗き込んでいると、大きなフライパンを両手で捧げ持った滅苦がキッチンから出てきた。
「亜蘭さん、おはようございます!お餅がたくさんあるから、お昼は餅ピザですよ」
「いつも君が食事を作ってるの?」
「ふだんは宇多子さんっておばさんが作って下さるんですけど、今日は日帰りのバス旅行で七福神めぐり。そういう時は僕と黙如さんが交代で作ります」
「へーえ」と、彼が差し出したフライパンを覗こうとしたら、いきなり後ろから首に腕を回して絞められた。即座に身を沈めてかわし、間合いをとって振り返る。また黙如だ。
彼はわざとらしく両腕を広げて「お見事」と笑ってみせた。
「お見事って、亜蘭さんがどうかしたんですか?」
「彼はね、不意を襲われてもすごく上手に逃げるんだよ」と答えきらないうちに、黙如は僕の腕をつかみにかかる。僕はもちろん、身体を反転させて離れた。
「本当だ。なんか忍者みたい」
「だろ?ちょっと二人がかりでやってみない?」
黙如が誘うと、滅苦はためらうどころか「はい!」と答え、フライパンをこたつの上にあった鍋敷きに置いて飛びついてくる。同時に黙如も腕をとりにくるから、僕は夢中で彼らをかわして廊下に逃げた。
こっちの当惑などお構いなしに、二人は大はしゃぎで「ほらね?」「すごいです!」と盛り上がっている。
「亜蘭さん、猫みたいに早いですよね」
「だって猫なら当然だもの」
僕がそう答えた途端、黙如は爆笑した。
「いやいやいや、君は猫じゃなくて人間だから。面白い子だねえ」
黙如はしばらく笑いが止まらず、それが僕を白けた気分にさせた。一方、滅苦は「早く餅ピザ食べましょう」と、皿を配り始める。黙如は「おっと、タバスコ!」と言ってキッチンに消えた。
滅苦はフライパンの中味を皿に取り分けながら「黙如さんはね、大学ではプロレス同好会だったんです。だからいつも技の研究とかしてるんですよね」と、説明とも弁解ともつかない事を言った。
僕の前に置かれた皿には、何やら赤い物体がのっている。餅ピザって何かと思ったら、ピザ生地の代わりに切り餅を並べ、そこにトマトソースを塗って、チーズと輪切りのゆで卵とカニカマをのせて焼いたものだ。一口かじってみると結構いける。
「ねえねえ、タバスコかけない?」
キッチンから戻った黙如はこたつに入ると、自分の皿に勢いよくタバスコを振ってから、僕に差し出した。嫌いじゃないので、遠慮なく使う。
「残念ながら滅苦はお子様だから、辛いの駄目なんだよね」
「はい。あと、酢の物とか、酸っぱいのも苦手です」
「俺はさ、酸っぱいのもおっぱいも大好きだもんね」
黙如は自分の冗談らしきものに自分で高笑いし、僕と滅苦が無言でいても平然と餅ピザに食いついた。いつもこういう寒いギャグを連発しているんだろうか。そう考えると少し滅苦が気の毒になる。檀家のおばさん達には受けるのかもしれないけど。
あっという間に餅ピザを三切れ平らげ、湯呑みの番茶を勢いよく飲み干すと、黙如はまた口を開いた。
「ねえ亜蘭、さっきの技だけど、人に教えてみない?あれは十分に護身術として使えると思うんだ」
「護身術?」
「そうそう。子供とか女の人とか、変な奴にいきなり襲われても、あれならすぐに逃げられるだろ?別に攻撃はする必要ないんだから、とにかく相手から離れて逃げることが目標。ぴったりだよ」
「でも、わざわざ教えるほどの事じゃないし」
「いやいやいや、よく思い出して。さっき俺が何と言ったか」
「さっき?酸っぱいのもおっぱいも大好き?」
「それはちょっと戻り過ぎ。俺が言ったのは、子供とか女の人、って言葉。つまり子供だけじゃなく、女の人も生徒になる。そしたら君」と、彼は僕に身体を寄せてきた。
「こーんな近くで、手取り足取り、教えられるんだよ」
至近距離の黙如は暑苦しい以外の何物でもないけど、これが女の子、たとえば真柚だったりしたら。そう考えると、僕の気持ちは少しざわついた。しかしそれを見透かしたように滅苦が、「黙如さん、もしかしてそれは、煩悩じゃないですか?」と指摘した。
「おっしゃる通り!本当にね、俺は煩悩が百八の二乗あるから、こういう話にはすぐ飛びつくんだけどな」
「でも、黙如さんは出家してるのに、煩悩が多いっておかしくないですか?」
僕がそう言うと、彼は満面の笑みを浮かべた。
「あのね、煩悩が多い人ほど、それをどうにかするために出家するんだよ。煩悩がなけりゃ、そもそも出家する必要ないし。とはいえ、出家したらいきなり煩悩消滅ってわけでもないんだよね。たぶん死ぬまでなくならないし」
「じゃあ出家ってつまり、無駄なこと?」
「無駄、とは言わないけどね」
黙如はいたって真面目な顔つきになり「俺は自分のことを、煩悩と戦うドン・キホーテのようなものじゃないかと考えてる」と言った。
「ドン・キホーテ?」
「そう」と頷く黙如を見上げて、滅苦は「こういう話をするから、檀家さんが住職はインテリだ、とか言うんですよ」と、うっとりしてる。美蘭が見てたら「本当にやだよね」とか言いそうだ。
もう面倒だから話にはつきあわず、餅ピザに集中していると、うまい具合に黙如のスマホに着信があった。
「はいはーい、しゅうちゃん?かるたは二時からだよ。うん、早く来ても大丈夫。お友達連れてきてもいいよ。待ってるからね」
黙如は手早く通話をすませると、「さあ、お昼も済んだし、かるた大会の準備開始だ」と宣言した。
「かるた大会?」
「毎年冬休みの最後の日に、小中学生を集めてやるんだよ。中学生は百人一首だけどね。お菓子も出るし、優勝者には豪華な賞品もあるし。今日は亜蘭がいてくれて本当によかった。ボランティアの子がノロウィルスで来れないって、今朝いきなり連絡がきて困ってたんだ。これも仏縁だね。ありがたいありがたい」
子供って、どうしてあんなに大騒ぎできるんだろう。
ようやく最後の一人が帰ったというのに、僕の耳には彼らのきんきんした叫び声だとか、やたら大きな足音だとか、豪快に鼻水をすする音だとか、色んなものが反響し続けていた。
かるた大会に集まった子供の数は三十人ほどで、そこへ母親だとか、まだ参加できない小さな子も入り乱れての阿鼻叫喚。はしゃぎ過ぎて転んだ上にジュースをぶちまけたり、勝った負けたで取っ組み合いの喧嘩になったり、一瞬たりとも静かにならない。
そして何の因果か、僕はかるたを読み上げる役を任され、生意気そうな女の子二人組に「メリハリがない」だの「切るとこが変」だの、文句ばっかりつけられて散々だった。
黙如は賞品を配り終わると、さっさと坊主カフェに出勤してしまい、後片付けも僕と滅苦。手伝おうって子供もいたけど、そこから次の遊びが始まったりして、いつまでも終わらない。
結局、最後の一人が帰った頃にはすっかり日が暮れて、猫のミントは探せずじまい。滅苦が夕方のお勤めをするという隙に、僕は自分で淹れたコーヒーを手に、彼の部屋へと退却した。
こんな風に気持ちが収まらない時は、毛づくろいをするに限る。
クッションにもたれ、濃いめのコーヒーを一口飲んで、ベッドの上で寝そべっているソモサンに接触する。二匹の猫はかるた大会の喧噪を嫌って、ずっとここに隠れていたのだ。
軽く伸びをして、前足と後ろ足、全ての指と爪を思い切り広げる。そして座り直すと、まずは背中の毛を一通り舐める。それから脇腹や後ろ足も丁寧に舐め、胸元も前足も舐めて、左右の肉球もきれいにする。そして最後にゆっくりと顔を洗い、ヒゲも整える。
これだけやると、撫でつけた毛並みと同じように、僕の気持ちも穏やかに落ち着くというわけ。僕はソモサンとの接触を切り、毛づくろいの間に少しぬるくなったコーヒーを飲みながら、この後のミント捜索をどうしようかと考える。
その時、いきなり誰かが襖を開けた。
顔を上げるとサバエがそこに立っている。いつものピーコートにマフラーを巻いて。
せっかく撫でつけた毛並みが、一気に逆立つような緊張。
「ここで何してるの?」と思わず尋ねると、「そっちが呼んだんじゃない」とぶっきらぼうに返される。
「ちょっと話があるから東林寺に来てって、呼び出したよね」
するわけないし。
また美蘭のなりすましだろうけど、もう限界。僕は全てを暴露する覚悟で「悪いけど、それは僕じゃない」と言おうとする。でも言葉が出る前に、とても奇妙な物音と気配が僕の神経を激しくざわつかせた。
それは静かに低く、一定のリズムを刻みながら近づいてくる。知らないものではないのに、思い出せない。
次の瞬間、丸くなっていたソモサンがいきなり飛び上がり、すごい勢いでベッドの下に隠れた。セッパも慌てて後を追う。
「何?どしたの?」
サバエは僕の顔と、猫のいた場所を交互に見て質問したけど、僕が答えを出す前に、奴らは姿を現した。
「わ、な、亜蘭!何これ!何これ!」
廊下から、サバエの開けた襖を通って、次々入り込んでくる褐色の獣。猫より一回り大きくて、尻尾が長くて、顔には極太の白いラインの、ハクビシン。ざっと見て十匹は下らない。
奴らは人間への警戒心なんか全く見せずに進む。気圧されたサバエは一歩、また一歩と後ずさりを続けた。そして、思わず立ち上がった僕をつかまえて盾にする。でも足がもつれたのか、転んでしまい、僕も彼女に引っ張られて倒れこんだ。
ハクビシンたちはお構いなしに、僕を踏みつけて進み続けた。
猫よりも発達した肉球の、ぷにぷにとした感触が僕の背中を移動し、尻尾がその後を軽くなぞってゆく。とりあえず、攻撃の意思はないらしい。
奴らは一匹また一匹と僕を踏み越え、更に高いところへ上がろうと、棚をよじ登ってるみたいだった。
ようやく最後の一匹が離れたところで顔を上げると、棚の上の天井が破られ、暗い口を開けているのが目に入った。最後の一匹は今まさにその穴から、屋根裏へ姿を消そうとしている。僕は思わず「待て!」と叫んでいた。
奴はほんの一瞬だけこちらを向き、すぐに姿を消したけれど、僕はその丸い耳から、スズメバチが顔をのぞかせていたのを見逃さなかった。
「ああああ亜蘭、今の一体何なの?」
サバエは僕にしがみついたまま離れようともしない。僕は覚悟を決めて「美蘭の仕業だ」と言った。
「ちょっと、ここ見てくれる?」
一番説得力のある証拠はこれだと思って、僕はサバエに左の後頭部を見せる。耳の後ろから、少し上にいったところ。
「ほら、毛が生えてないだろ?子供の頃、美蘭に引っこ抜かれたんだよ。一緒に寝てた時に僕がおねしょしたら、完全にブチ切れちゃって、一瞬で。死ぬかと思うほど痛かった」
「あ、本当だ、十円、ていうか一円ハゲになってる」
「美蘭って、そういうひどい事を平気でやるんだよ。過激すぎるんだ。だからさっきのハクビシンも」と、僕が説明しているのに、サバエは「ありがとう」と言った。
「一円ハゲなんて、そんな恥ずかしい秘密を教えてくれるのは、私のこと信じてくれてるからだよね。嬉しいよ」
いや別に、そういう話じゃないんだけど。
どう軌道修正しようか考えていると、「何かありましたか?」と、滅苦が慌てた様子で駆け込んできた。そして「あ」と言ったきり固まっている彼を見てようやく、僕は自分とサバエがベッドで横になっている事に気がついた。
9 無理しなくていいよ
「だからさ、僕が君の家に連れていった猫は、迷子になったミントじゃないんだ」
「ふーん」
納得したのかどうか、はっきりしない口調でサバエは頷く。
夜気は冷たく冴えて、西の空にはオレンジの三日月が低く光っている。僕と彼女はそれを目指すように歩いていた。
東林寺に現れたハクビシンの群れは、滅苦の部屋の天井を破って屋根裏に入り、そこからまた出て行ったみたいだ。滅苦も最初は信じてなかったけど、外壁に残された大量の足跡を見て「うわあ、本当だ」と息を呑んでいた。
とにかく、もうこれ以上ハクビシンの襲来に耐えるのは無理。なので僕は、一切合切をサバエに打ち明け、ショートカットで全て終わらせようと心を決めた。
「あの猫はミントの兄弟なんだよ。だからまあ、見た目はそっくりだし、値段的には同じだし、同じ猫が戻ってきたと考えても不都合はないと思う」
「ミントじゃなくて、そっくりな別の子猫でいいから連れてきてって、そう真柚ちゃんが頼んだわけ?」
「うん。仕事を受けたのは美蘭だけど」
「じゃあ、亜蘭たちは何のためにいなくなったミントを探してるの?」
「お金になるから。そのまま売ってもいいし、子猫を増やしてもいいし。ミントは父親がグランドチャンピオンだから、子猫にもいい値段がつくよ」
「うちのお父さん、ミントをいくらで買ったの?」
「三十九万」
「さんじゅう、きゅう、まん」
ゆっくりと復唱してから、サバエはペットショップのオウムみたいに甲高い声で笑った。
「そっかあ。やっちゃったな、私」
「やっちゃったって、何を?」
「捨てたの。ミントを」
彼女はまだ笑いが収まらない、という様子で息を弾ませている。
「捨てたって、迷子になったんじゃなくて?どうして?」
「真柚ちゃんが困ってたから」
「困ってた?」
「だからさ、真柚ちゃん、猫とか好きじゃないんだよ。口では言わないけど、見てれば判るもん。なのにお父さんは、真柚ちゃんのためにミントを買ってきちゃったでしょ?有難迷惑って奴だよね。だから私が捨ててあげたの」
「はあ」
「でもまあ、いきなり道端とかに捨てるのはミントが可哀想だから、笹目さんにあげたんだよね。あの人は犬のブチを飼ってるし、動物好きみたいだから」
「笹目がすんなり受け取ったの?餌代とか請求されなかった?」
「うん。仕方ないねえとかって、面倒くさそうにはしてたけど。だから、見つかったって聞いた時には、やっぱり近所に捨てたんだと思ってた。でも結局、真柚ちゃんはミントにいてほしかったんだね。なんか私、余計なことして、馬鹿みたい」
サバエの言葉は、僕に聞かせているというより、自分と対話しているみたいだった。僕はただ黙って、頭の中でカードをあちこち移動させ続けていた。ミント一号、サバエ、真柚、ミント二号、父親、サバエ、笹目、真柚。どう並べても変な感じ。
「ねえ、ミントに会ってく?まあ、本当はミントじゃないけど」
気がつくと、僕らはサバエの家の前まで来ていた。
「今日はお母さん新年会で遅くなるし。お父さんは来週まで出張だし、真柚ちゃんは毎日補講だからね。ゆっくりしてっても大丈夫だよ」
「じゃあ、ちょっとだけ」
ところが、サバエの後についてリビングに入ると、いないはずの真柚がいた。
ジーンズにトレーナー姿で、猫のケージの前にしゃがんでいた彼女は、僕に気づくと立ち上がり、少し笑みを浮かべて「いらっしゃい」と言った。
「あれえ、真柚ちゃん、試験までずっと補講じゃなかった?」
「エアコンが故障しちゃって、今日はお昼で終わりだったの」
「何それ。だったら速攻帰らせてくれたらいいのにね。亜蘭、何か食べたりする?冷凍の讃岐うどんとか」
そう言いながら、サバエはキッチンに姿を消した。束の間、僕は真柚と二人きり。でも彼女は視線をケージの中に向けたままで、そこではミント二号がお得意の一人遊びに興じていた。
何か気の利いた事を言いたい。僕は必死であれやこれや考え、やっとの思いで「猫、元気そうだね」と言った。実にありきたり。当然、真柚はミント二号の方を向いたまま「とても元気よ」と答える。
いや、猫じゃなくて君について知りたくて、もっと親しげな笑顔なんか見せてほしくて。でも僕に見えるのは真柚の白い輪郭と、肩まで流れるストレートの黒髪だけ。
「亜蘭、納豆いっぱいあるから、納豆ごはんとか食べる?」
キッチンから顔をのぞかせたサバエの声で、僕は我に返った。
「いや、お腹空いてないんで」
「そう?讃岐うどんもいっぱいあるから、遠慮することないよ」
サバエが戻ってくると、真柚は僕の顔を見ずに「ごゆっくり」とだけ言って、リビングを出ていった。
僕に興味なし、全く。
判ってはいたものの、空しいというか何というか。
僕はぼんやりとしゃがんで、ケージに指を入れ、ミント二号をじゃらしにかかった。サバエも僕の隣にしゃがみ、しばらく無言で子猫が前足でパンチを繰り出すのを眺めていたけれど、小さく溜息をついてから「真柚ちゃんのこと好き?」と言った。
それは「讃岐うどん好き?」と同じくらいさりげない質問で、僕は思わず頷きそうになるのを抑えて、「え?」と、聞き返した。
「無理しなくていいよ。誰だって私より真柚ちゃんの方を好きになるから。別に男子だけじゃなくて、女子もそう。ていうか、真柚ちゃんがいると、私は消えちゃうんだ」
「でもさっき、彼女も一緒でここにいたよね」
「だからさ、消えるってのは、文学的表現だよ」
妙に淡々としたサバエの声が、却って不安を呼び覚ます。僕はただひたすらミント二号をじゃらしていた。
「誰だって私より真柚ちゃんの方が好き。でも私は絶対に真柚ちゃんを嫌いにならないように、努力だけはしてる」
「別に、嫌いになってもいいんじゃないかな。僕は美蘭のこと大嫌いだし、向こうもそれ以上にこっちを嫌ってるよ」
「それはさ、本当のきょうだいだから安心して嫌いって言えるんだよ。私と真柚ちゃん、そうじゃないし」
「きょうだい、じゃない?」
「違うよ。だって普通、いないじゃん。同じ学年で四月生まれと三月生まれの姉妹なんて。おまけにうちら全然似てないし」
「もしかして、親どうしが再婚とか?」
「それも違う。あのね、真柚ちゃんはお父さんのいとこの子供なの。何て呼ぶか知らないけど、親戚。でもきょうだいって事にしたら、四月と三月生まれもネタとして十分ウケるでしょ」
確かに、美蘭もそこに反応してたっけ。でもウケるという言葉とはうらはらに、サバエは物憂げな表情をしていた。
「真柚ちゃんの本当の家族は群馬に住んでる。お父さんとお母さんと、まだ小学生の弟。でもね、真柚ちゃんは中二の時に男子とトラブったんだ。真柚ちゃんに片想いして、告って断られた奴が、ネットでひどい噂いっぱい流したせいで、学校行けなくなっちゃったんだよ。
引っ越して学校変わったりしたんだけど、やっぱり噂がついてきてさ。でもお父さんの仕事の都合で群馬を出れないから、一人だけうちに来ることになったの。だから真柚ってのも嘘の名前。本当の名前は、悪いけど亜蘭にも教えられない」
「そうなんだ」
「それで、真柚ちゃんは中三の春からうちの子になったんだよね。うちは元々浜松に住んでてさ、ちょうどお父さんが東京に転勤になって、単身赴任の予定だったのを、家族みんなで引っ越したんだよね。
中三で転校なんて嫌だったけど、しょうがないし。新しい学校で真柚ちゃんと私の同学年姉妹デビューだよ。クラスの子とか「マジで?」みたいな顔したけど、まあ、ひとんちの事なんか基本どうでもいいからさ、すぐに「へえ~、そっか」って納得してくれたよ。
私はいつも成績中の下だけど、真柚ちゃん優等生でね、中学の時は色々と比べられてへこんだよ。でも真柚ちゃんは、とにかく目立たないようにしてた。男子とはほとんど口きかなかったし。
まあ、高校は別になって、お互い楽になったよ。真柚ちゃんは女子だけの進学校で、受験頑張ってるのは、法学部に入って弁護士になりたいからなんだ。
真柚ちゃんは家のこともよく手伝うし、親の言う事きくし、すごくいい子。私には優しくしてくれるし、お風呂の順番とかも譲ってくれて、ケーキとか先に選ばせてくれて、喧嘩とかした事ないんだよね。だから何ていうか、私より真柚ちゃんが好かれるのは当然だし、もし嫌いになったりしたらこっちが悪いって感じなんだよ」
「なるほど」と僕は頷く。ミント二号はいつの間にか遊び疲れて、寝床で丸くなっていた。
「お父さんもお母さんも、真柚ちゃんのこと大好きだと思うよ。だって私よりも全てにおいて上だし、家族と離れて寂しいのに、甘えたりわがまま言ったりもしないし。だからうちのお父さんは、真柚ちゃんが喜びそうな事ばっかり探してる」
「君の事は?」
「私は心配ないよ。いつもわがままで勝手でうるさいし。ご飯のおかずだって私しかリクエストしないし。
まあとにかく、亜蘭が私より真柚ちゃんを好きでも、別に怒ったりしない。それは自然の成り行きって事だから。でもさ、もし最初からそう思ってたなら、私と付き合ってほしくなかった。そっちの方が、ずっと落ち込むから」
うん。僕は最初から真柚の方が好きで、君とは付き合うふりをしてただけ。
全てぶちまける決意をしたはずだったのに、僕は肝心の事を口にできなかった。ただ、「もう少し、お寺の辺りでミントを探してみるよ」とだけ言って、杉田家を後にしたのだ。
結局、僕は安きに流れようとしていた。
サバエとは、表向きは仲直りを装っておく。これでハクビシンの襲撃はいったん収まるはずだ。そしてさっさとミント一号を見つけて美蘭に引き渡す。あとはサバエの前からフェードアウトすればいいのだ。
しかし東林寺の周辺にはまだハクビシンがいそうで戻る気になれず、僕は別の場所へ向かっていた。
「いらっしゃい!よく来たね!」
坊主カフェのドアを開けるなり、黙如の大声が出迎えた。カウンターには女の人がひとり座っていて、振り向くと軽く会釈してきたので、僕も頭を下げた。
「綾ちゃん、彼がさっき話してた亜蘭だよ。今日のかるた大会、彼がいたおかげで本当に助かったんだ」
そう持ち上げられると居心地が悪い。僕はうつむき加減に、綾ちゃんと呼ばれた女の人が白いフェイクファーのジャケットを置いている席にもう一つあけて座った。
「日替わり定食ください」
サバエにはお腹空いてない、なんて言ったけれど、本当はとても空腹だった。昼の餅ピザから後、ほとんど何も食べていないのに、色々な事がありすぎて。
「了解。隣の定食屋さんから出前だから、ちょっと待ってね」と黙如は電話を手にした。僕はその隙に綾さんの方を盗み見る。
常連らしい彼女は、肩まである髪を明るい色に染めていて、ハイネックのラベンダーのセーターにデニムのタイトスカート、ムートンのショートブーツを履いている。年は二十代後半ってとこだろうか。親しみやすい笑顔が印象的で、こんな人が姉だったら僕の人生はずっとましだったに違いない。
「日替わり、生姜焼きらしいけど、それでいい?」
「お願いします」
僕はそれだけ言ってスマホをカウンターに置き、動画なんか見てるふりをする。でも左手はパーカーのポケットの中で、そこにはサバエが放ってよこした子猫の首輪が入っていた。
指先で触れると、ほんの少しだけ銀の子猫の気配を感じるけれど、いかんせん時間がたちすぎてる。他に頼りになるものといえば、笹目が前に言いかけた「猫といえば、住職に任せたよ」という言葉ぐらいか。でも今、他の客がいる前で黙如に話は切り出せない。まあしかし、綾さん一人だったらいいか。
僕が「あの…」と口を開いたその時、店のドアが開き、ダウンジャケットにニット帽のずんぐりした男が入ってきた。
彼は慣れた様子で「遅なってごめん。綾ちゃん久しぶりやね。俺のシフトの時、なんか避けてへん?」と声をかけ、そのままカウンターの中へと回り込んだ。
「避けてませんよ。岳峰さんこそ、最近お店に出るのが減ってない?」
「そやねん。年末からこの方、お葬式やら法事やら立て続けで、えらい忙しかってな」
どうやら彼もこの坊主カフェの一員らしい。ダウンジャケットを脱ぐと、その下は作務衣だった。綾さんは「じゃあ、会えただけでもラッキーって事ね。ゆっくりしててよかった」と立ち上がった。
「もう帰んの?やっぱり避けてるやん」
「だって、九時までに晩ごはん食べないと太っちゃうから」
そう言って財布を取り出した彼女に、黙如は「晩ごはん、今日は何にするの?」と訊ねた。
「キノコのスパゲティかな。お醤油とバターで炒めて」
「ガーリックも入れた方がおいしいよ」
「じゃあそうする」
綾さんは支払いをすませると、バッグを肩にかけてドアに向かった。しかしすぐに振り返ると、「やだ、ジャケット忘れてる」と笑った。
「ごめん、亜蘭くん、だっけ、取ってくれる?」
戻ってきた彼女が手を差し出したので、僕はスツールに軽くたたんで置かれていたジャケットに手をかけた。
その瞬間、僕の視界に金色の格子が立ち上がった。目の前の全てがモザイク状に分割され、金属的な輝きを放つ。その明るさに眩暈がして、思わず目を閉じる。指先から伝わる、まだ大人になりきっていない活発な雄猫の気配が、頭の片隅にほの白く灯る。
「亜蘭?」
黙如の声が遠い。僕は自分に落ち着けと言い聞かせて、ゆっくり目を開いた。
さっきの映像はもう消えていて、僕はまだ綾さんのジャケットに片手をのせたままだった。
「どしたの?いきなりぼんやりして」
「いや、なんかお腹が空きすぎて」
「あれだ、電池切れ。腹が減ると俺もよくなるよ。なーんにも考えられなくなるよね」
黙如の言葉に、さっき来た岳峰さんが「あんたが何も考えてへんのは、いつもの事やろ」と突っ込みを入れる。
「俺は普段、少しは考えてるよ。少し、と何にも、の差は大きいよ。有と無、だからね」
「そんな上等なもんかいな」
坊主二人が言い合っている間に、僕は何とか落ち着きを取り戻し、綾さんにジャケットを渡すことができた。
「定食、早く来るといいわね」
そう言って笑った彼女がジャケットに袖を通す間、僕はバッグを預かった。「気がつくのね」なんて言ってもらえたが、目的はそこじゃない。パウダーピンクのショルダーバッグからも、猫の気配がはっきりと伝わってくる。
間違いなく、綾さんはミント一号を飼っている。あるいは、とても頻繁にこの猫と触れ合う機会がある。
綾さんが帰ってから五分もしない内に、僕の日替わり定食が運ばれてきたけれど、のんびりと味わっている場合ではなかった。空腹にかこつけて一気に平らげると、僕はすぐさま坊主カフェを後にした。
私鉄の駅に近いけど、夜はかなり早じまいの商店街。僕は自分の頭の隅に瞬く小さな光をたよりに、それが明るさを増す方向へと歩き始めた。
寒さは夕方よりも厳しく、風がきつい。診療所やケーキ屋はもう明かりを消していて、シャッターを半分下ろした音楽教室や、店の奥だけ明るいヘアサロンなんかが目につく。
しばらくまっすぐに進んで、コンビニの角を曲がるとその先は住宅街だ。といっても一戸建てより集合住宅、それもちょっと古めのアパートが多くて、時々貸しガレージがあったり、間口の小さなスナックがあったり。
道はだんだんと細くなり、やがて車一台がようやく通れるほどの路地になった。その突き当りに、「みはな荘」と冗談みたいな名前の、古びたアパートがあった。その前に立つ頃には、僕の頭の中の明かりは輝きを増して、たどるべき道筋が夜光塗料でもひいたみたいに浮かび上がって見えた。
そのラインは外階段を上がって三つ目の部屋まで続いていて、どうやらそこが綾さんの部屋らしかった。
僕は外階段の下に立ち、部屋まで行ってドアをノックするところを想像してみた。
無理。
さっき坊主カフェでほんの一瞬会っただけで、いくら何でも突然すぎる。警察を呼ばれても文句は言えない。でも間違いなく、あの部屋のにはロシアンブルーの雄猫、ミント一号がいるのだ。
いつまで待っても、今の状態では勝算がない。といって美蘭に助けを求めるのは何だかむかつく。じっとしている内に寒さがつのってきて、僕は外階段の下でぐるぐると歩き始めた。五回ほど回った時、何かが視界に入った。
猫だ。模様はキジトラ。こちらを見て警戒する様子もなく、路地の真ん中で立ち止まっている。
僕はすぐにしゃがむと、舌を鳴らして人差し指を伸ばした。猫はためらわずに近づき、鼻面を触れてくる。
こいつは使えそうだ。
僕は猫の頭を何度か撫でてから引き寄せると、大急ぎで「回路」を開いた。
このアパートを中心に縄張りを持つ若い雄の野良。健康状態は良好で、あまり人間を恐れていない。今夜の食事は近くの公園で振る舞われたキャットフードで、ほぼ満腹。これなら食べ物に気をとられず、言う通りに動いてくれるだろう。僕は猫を操る場所を確保するために、いったんその場を離れた。
来た道を最初の商店街まで戻ってみる。一人で静かに過ごせる場所だから、喫茶店でもネットカフェでもいいんだけど、もう閉まっているか、存在しない。せめてコンビニのイートインでもないかと歩いていると、ビルの中二階に明かりのついている店があった。明かり、といっても薄暗く、看板から察するにバーらしい。
高校生が一人でバーに入るのは、似つかわしくないかもしれない。でも今は、どこか静かで暖かい場所に身を落ち着けることが必要だ。目的のためには手段を選ぶな。何故か美蘭の説教が耳によみがえり、僕はためらわずに階段を上がって店のドアを開けた。
中はこじんまりとした空間で、ほどよく古びていた。先客の女性二人連れがカウンターでバーテンダーと話し込み、窓際の席にはスーツ姿の男が三人いた。僕はその隣、二人掛けの席に陣取り、メニューを手に取ると、何となく目についた自家製山桃ビネガーのソーダ割りを頼んだ。
窓越しの冷気がじんわりと迫ってくるものの、店は十分に暖かい。運ばれてきた山桃ビネガーのソーダ割りを半分ほど飲むと、さっきのキジトラを探すべく、僕は目を閉じ、池に落ちた小石が波紋を広げるように、意識を薄く伸ばしていった。
一分と経たないうちに、僕はキジトラの波長を捉える。猫は狭い場所でまどろんでいた。そこは暖かくて快適だったけれど、匂いからすると車のエンジンルームらしい。悪いけど、僕は猫を目覚めさせた。
エンジンルームから外に出るとそこは駐車場で、すぐ目の前にさっきのアパートが見えた。
冷え切った夜気の中、キジトラと僕は軽く伸びをして、小走りで駐車場を横切る。アパートの外階段を駆け上り、綾さんの部屋へと向かう。
換気扇から流れてくるのは、パスタを茹でる湯気と、茸とバターと醤油、ガーリックの匂い。さらに食べ物とは別に、猫の匂いもはっきりと感じ取れる。
僕は思い切って、キジトラにドアを引っかかせようと考えていた。耳慣れない音がすれば綾さんも様子を見にくるだろうし、少しでもドアが開けば一気に入り込む。
そしてまさにドアをガリガリやろうと前足を伸ばした時、外階段を上がってくる足音が聞こえた。
けっこう体重のある、たぶん男。軽い足取りから察するに、かなり体力がありそう。見つかって蹴られたりするのは嫌だな、と思いながら、僕とキジトラは姿勢を低くして壁際に蹲った。残念ながら廊下には身を隠すものが何もない。
足音は階段を上り切ると、どんどん近づいてくる。そしてジーンズにスニーカーをはいた二本の足が僕とキジトラの前で止まった。
「おう、野良よ、何してんだ」
聞き覚えのある声に頭を上げると、黙如がこちらを見下ろしていた。
10 今夜どこで寝るの
「本当に人懐っこい野良猫だな。ま、ただの女好きかもね」
黙如はそう言って、茸のパスタをラーメンみたいに箸で手繰った。そして僕とキジトラ猫は綾さんの膝で寛いでいる。残念ながら坊主カフェにいた時のタイトスカートではなく、スウェット地のジャンパースカートに着替えてるけど、それはそれで構わない。
キジトラの平衡感覚によると微妙に南東へ傾いてる、古いアパートの二階。六畳の和室と形ばかりのキッチンと和式のトイレ。これが綾さんの住まいで、風呂はない。
いま僕らのいる和室には、ハワイアンキルトのようなラグが敷かれていて、折り畳みのローテーブルが食卓だ。壁際にシングルベッドが置かれ、他に目立つものといえば窓際にある猫用のケージとヒーターぐらい。雑多なものは襖の代わりにカーテンをかけた押し入れにしまってあるらしく、とてもすっきりした部屋だ。ここで目障りなのは、我が家のように寛いでいる黙如だけ。
僕と野良のキジトラ猫は、彼に便乗してこの部屋に入った。綾さんは「外の子は来ちゃ駄目よ」なんて言ってたけれど、猫を飼ってる人間は野良猫だって邪険に扱えない。こういう時はむしろ、我が物顔にふるまった方が歓迎されたりするのだ。
部屋に上がるなり、僕らは綾さんの足元をすり抜けて奥へと進んだ。予想的中、ロシアンブルーのミント一号はヒーターの真ん前で無防備に寝ていたけれど、突然現れた他の猫の気配に首をもたげた。全身銀色の被毛に包まれた青い目の猫。子猫というには大きいけれど、大人と呼ぶにはまだ線が細い。
僕の操るキジトラもまた、初対面のミント一号を警戒していた。でも、向こうの健康状態をチェックする必要があるので、強引に接近させる。
まずは鼻面を突き合わせて匂いを確認。病気にかかっている気配なはい。毛艶はよくて目が澄み、ヒゲもぴんと張っている。しかし問題は、と思ったところで、ミント一号はいきなり「ブシャア!」と叫んで猫パンチを繰り出し、僕とキジトラが一瞬身を引いた隙にベッドの下へと潜り込んでしまった。
ともあれ、ひとまず安否確認はできたんだから、そこでキジトラとの接触を切ってもよかったんだけど、「ごめんね、ジャコちゃん怖がり屋さんなの」と綾さんに抱き上げられたので、僕はもう少し居座ることにしたのだ。
「ねえ、野良猫なんかずっと抱いてたら、ジャコに嫌われるんじゃない?」
パスタを食べ終えた黙如はグラスに入っていた烏龍茶を飲み干すと、胡坐をくずしてベッドにもたれた。
「大丈夫、ジャコはうちの子だし、あとでちゃんとフォローするから。でも今夜どこで寝るの?うちに泊まってく?」
そう言って綾さん耳の後ろを撫でられると「お言葉に甘えて」、なんて答えたくて、ついつい喉を鳴らしてしまう。
「本当に図々しい猫だな」と呆れ顔の黙如に、綾さんは「今の、そっちに聞いたのよ」と返した。
「え?ああ、俺?」
黙如はにわかに表情を緩めて、「そうだなあ」なんて勿体つけている。まあ、彼が現れた時点で二人がつきあってるとはわかったけど、面白くない。
「やっぱり今日は帰るよ。滅苦が明日から新学期だからさ」
おや、と僕はキジトラの耳を立てる。ここで滅苦の名前が出るとは思わなかったからだ。
「そうなの」と答える綾さんの手は一瞬止まった。心なしか指先が冷たくなったような気がする。
「あの子、ちゃんと学校行ってる?友達とか、大丈夫?」
「ああ。ちょっと真面目過ぎると思われてるみたいだけど、なんせフレンドリーな性格だからね。学校じゃリアル一休とか呼ばれてるらしいよ」
「そうなの。だったらいいけど。でも、色んな事、思い出したりしてないよね。まだ忘れたままだよね」
「それは、心配しなくていい」
「でも私、怖いの。あの子が何もかも思い出して、本当の事を知ったらどうしようって。もちろん謝らなきゃいけない。でも、ぜったい許してくれないに決まってる」
綾さんの手は僕とキジトラの背中におかれたまま、止まってしまった。二人はいったい何の話をしてるんだろう。首をもたげて綾さんの顔を見ると、青ざめて、眼には涙がうっすらと膜をはっている。
「そんな風に自分を責めても意味がないよ。滅苦の両親のことは、綾たちのせいじゃないんだから」
「でも全く無関係とは言えないでしょう?私、今でも夢に見るの。ああ、今日は河合さんちの集まりだ、って。急いで行こうとするんだけど、靴が一足もなかったり、お財布と携帯を落としたり、逆方向の列車に乗ってしまったり。そのたびにトラブルは違うけれど、どうしても行けないの。早く、早くしないと大変な事になっちゃうって、いつも泣きながら目を覚ますのよ」
いつの間にか、綾さんの冷たい指先は震えていた。
「綾はもう十分すぎるほど後悔してる。でも、いくら後悔したって、変えられない過去は置いて行くしかない。変えられるのは未来だけなんだから」
綾さんは何も答えず、静まり返った部屋にヒーターの音だけが低く響いた。
黙如は身を乗り出し、綾さんの顔をのぞきこむと、「やっぱり泊まっていこうか?」と訊ねた。彼女は強く首を振って、こぼれ落ちた涙が僕とキジトラの耳を弾いた。
「大丈夫さ、滅苦は何も思い出さない。笹目さんがちゃんと封じ込めてくれてる。だから綾はまず自分が元気にならいと。他の人を助けるのは、それからだ。今週は病院に行った?薬はちゃんと飲んでる?」
綾さんは黙ってうなずく。
「前みたいに薬とアルコールを一緒に飲んじゃ駄目だよ」
「わかってる」
自分に言い聞かせるみたいに答えると、綾さんは僕とキジトラの背中を何度かゆっくりと撫でた。
「今はもう大丈夫、ジャコが一緒にいてくれるから。ジャコはね、私が落ち込んでるとすぐに判るのよ。何も言わなくても、じっとそばにいてくれるの。元気にしてる時はそっけないぐらいなのに。猫ってテレパシーがあるのかもしれないわ」
「どうだかね。少なくともこの野良猫にはないよ。俺が邪魔だと思ってるの、全然伝わってない」
黙如は綾さんの膝から僕とキジトラを片手で抱え上げると、少し離れた場所におろした。よからぬ気配に振り向くと、奴の胸元に綾さんが顔を埋めている。
出家して煩悩と戦ってるとか、偉そうなこと言ってたくせに。
奴の偽善者ぶりに腹が立ってきて、僕はキジトラをベッドの下に潜らせた。もちろんそこには先客、ミント一号ことジャコがいて、僕らが近づくとありったけの勢いで威嚇してくる。
狂暴な気分の僕はそのまま距離を詰め、緊張に耐え切れなくなったジャコは、ベッドの下から飛び出す。僕とキジトラはすぐさまその後を追って、綾さんと黙如の周囲を駆け巡り、グラスや食器を蹴散らし、カーテンによじ上ってからダイブした。
「ちょっと!野良ちゃん!乱暴しないで!」
綾さんは立ち上がってオロオロするばかり。黙如は呆れ顔で座ったままだ。僕とキジトラは彼の背中を駆け上がると肩を踏み台にして跳び、ケージの上に着地する。その隙にジャコは再びベッドの下へ逃げ込んでいた。
さてこれからどうしてやろう。
ケージの上で背中の毛を思い切り逆立て、尻尾をふくらませていた僕とキジトラだけど、いきなり誰かに脛を蹴られた。
我に返った僕はバーの窓際席に座っていた。
山桃ビネガーのソーダ割りは、氷がすっかり融けている。他の客が通りすがりに足でもぶつけたんだろうか、そう思ってまたキジトラのところに戻ろうとすると、目の前に誰かが腰を下ろした。美蘭だ。
彼女はライダージャケットにジーンズとロングブーツの黒づくめ。石榴色のマフラーだけが、開いた傷口のように目を惹く。
「見つかったみたいね、ミント一号」
当然のようにそう言うけど、どうして僕がこの店にいると判ったんだろう。その質問をする前に、彼女はほとんど聞こえない高さの口笛を短く吹き、それに答えるようにスズメバチが一匹、僕の背後から彼女の指先へ飛び移った。
我ながら呆れるんだけど、僕はずっとこいつに尾行されていたのだ。たぶん東林寺を襲ったハクビシンの群れについてきた奴。美蘭は指先を首筋にそえて、スズメバチを耳の後ろへと移動させた。
「ここは奢ってあげるからさ、早くミント一号を回収して来なさいよ」
美蘭にしては信じられないほど気前が良い。でも僕は返事をしなかった。
「ちょっと、あんた何か隠してるでしょ」
「別に」
「あらそう」
美蘭は冷たい目で僕を睨んで腕を組む。先に頼んでいたらしいモヒートが運ばれてきて、彼女はそれを一口飲んでから「これでサバエちゃんともお別れね」と言った。
「え?」
「だって、ミント一号を探すために彼女とつきあってたんだから、もうその必要ないじゃない。お望みならさっさと真柚ちゃんに乗り換えれば?ま、死んでも相手にはされないだろうけどさ」
そして美蘭はまたモヒートを飲む。僕はあえて話を元に戻した。
「ミント一号のこと、あきらめた方がいいよ」
「はあ?何よ今更。結局は死んでたとか言いたいわけ?」
「いや、生きてるけど、子猫増やすのは無理。あの猫、もう去勢されてる」
僕がそう言った途端、美蘭は少しだけ眉間にしわを寄せ、モヒートを一気に飲み干した。そして空のグラスを勢いよくコースターに叩きつけると「今から乗り込む」と言った。
「だから無理だって」
「飼ってるのは女だろ。ちょっとばかり撫で回してもらったからって、変な義理立てするんじゃないよ」
「乗り込もうと何しようと、今更どうしようもないだろ。もう飼い猫になってるんだよ」
「だとしても猫代は払わせる。最低でも四十万。ひとんちの猫を勝手に着服したんだから」
僕はついさっきまでいた綾さんの部屋を思い出していた。どう考えても四十万なんて無理そうな生活ぶり。
「とにかく今の飼い主に責任はないよ。だってミント一号は、サバエが笹目に預けて、そこから渡ったんだ」
「もういい。屈折した思い入れで、飼い主のこと庇いたいなら勝手にすれば。猫に憑りつかないと女の人に構ってもらえないんだから、本当に空しいわよね」
そして美蘭は立ち上がり「モヒート、ごちそうさま」と言い捨てて出ていった。
僕は長い溜息をつき、ホットレモネードとハンバーガーを注文した。猫を操ると、とにかくお腹が空く。坊主カフェでの定食なんてとっくに消化した感じで、僕は一瞬でハンバーガーを平らげ、再び椅子に身を沈めてキジトラに接触してみた。
どうやらさっきの大暴れが災いして追い出されたらしく、キジトラは駐車場に停められた車のエンジンルームに戻っている。お休みのところ悪いけど、僕はもう一度この猫を連れ出し、綾さんの住むアパートの外階段を上る。
しかしそこへ、何か奇妙な足音が聞こえてきた。
動物、しかも一匹や二匹じゃない、もっとたくさんの。思わず振り向くと、階段の下に褐色の獣が十匹ほど集まっていた。奴らは僕たちを追うように、一段また一段と上ってくる。長い尻尾に顔の白い模様。そしてその後ろ、闇に潜んでいるのは美蘭だ。
僕とキジトラは全身の毛を逆立てて唸り、先頭のひときわ大きいハクビシンを威嚇した。この動物がどのくらい好戦的なのか知らないけど、美蘭が操ってるんだから極めて狂暴に決まってる。案の定、向こうは何の前触れもなしに飛びかかってきた。
間一髪で身をかわしたけれど、ハクビシンの爪はキジトラの脇腹を引っ掻き、むしられた毛がふわふわと宙を舞う。こいつとやり合っても埒が明かない。僕とキジトラは壁際のわずかな隙間をすり抜けてハクビシンの群れを突破し、狙いを美蘭に定めて大きく跳んだ。
問題は、左の目だけとはいえ、美蘭には人間離れした動体視力があるって事。おまけに暗さなど関係ない。案の定、彼女は右目を閉じて左目だけでこちらを見ると、わずかに身体をそらせる。まずい、見切られた。
目標をそれて着地した僕らの腹を、美蘭のブーツの爪先が引っ掛ける。そのまま高く蹴り上げられ、舌打ちする思いで僕らは身体を反転させ、足から着地する。
振り向いた時にはもう、美蘭はアパートの階段を上り切っていた。そしてハクビシンたちは影のように階段に貼りつき、動かずにいる。
ややあって、綾さんの部屋のドアが少し開いた。ドアの隙間に逆光で浮かんだ人影は背が高い。黙如だ。彼が「何の音だろう。さっきの猫かな」と一歩踏み出したその背中に、美蘭は音もなく近づくと両手で目隠しをした。
「黙如さん、後ろの正面誰だ?」
美蘭は女の子にしては背が高いから、黙如の耳元に囁くのもそう難しくない。
「この部屋の中に、銀色の猫がいるでしょう?あれは私のものよ」
低い声で諭すように美蘭は語りかける。このままじゃまずい、僕とキジトラは全速力で階段を駆け上がると、黙如の脛にがっぷり食いついた。
「いったああああ!」
彼は僕らを脛にぶら下げたまま飛び上がる。美蘭はすぐさま身を翻し、小さく舌打ちすると階段の手すりを越えて地面に飛び降りた。そこへ綾さんが「どうしたの?」と顔を出す。
「猫!さっきの!食いついてきた!」と、黙如が騒いでる隙に、僕とキジトラは階段を駆け下りる。ハクビシンたちは美蘭の後を追ったのか、影も形もない。
でも、このまま彼女が引き下がるはずがない。行くとしたら、たぶんあそこしかないはず。
11 どうにもなりゃしない
僕はバーを出るとタクシーを拾い、東林寺の場所を告げてシートに身を沈めた。
美蘭の奴、笹目と話をつけに行ったに違いない。まあ、笹目は例によって面倒くさいの一点張りだろうけど。
面倒くさいのは僕だって同じで、ミント一号のことで美蘭が何をしようが、どうでもいいはずだった。でも何故だか、あの猫を綾さんから引き離すのはよくない気がするのだ。
タクシーはあと十分もしないうちに東林寺に着くだろう。僕は目を閉じると、先に様子を探るため猫のソモサンに接触した。
ソモサンは相棒のセッパとこたつに入り、団子になってまどろんでいた。聞こえてくるのは、女の人の声。うるさいという程ではないけど、緊張したトーンが耳障りで、それが深い眠りを妨げていた。僕はソモサンを起こすと、こたつから頭だけ出した。
声の主は六十ぐらいのおばさんで、髪をひっつめにしているせいで、高い頬骨がよけいに目立つ。ヨモギ色のセーターの上に割烹着姿で、とても慌てた様子で電話の子機を握りしめていた。
「だからとにかく早く戻ってくれないと。そうよ、あたしが帰った時にはカルタ大会の片付けも終わってたんだけどね、あの子ったら悲壮な顔して、宇多子さん、僕は今すぐ家に帰らなきゃいけない、お母さんが死んじゃうかもしれないって繰り返すのよ。そう、七福神めぐりね、ちょっと寄り道してカラオケ行ってたから、遅くなったんだよ」
僕とソモサンは耳を立てて受話器から漏れた声を拾う。相手は黙如だった。
「わかったわかった、すぐに帰るから。とにかく滅苦が出て行かないように引き留めて。今はどうしてる?」
「荷造りしてるよ。一体何がどうしちゃったんだろうね。でも、お年玉を住職が預かっといてくれてよかったよ。あれでお金持ってたら、すぐにでも飛び出してたろうから。最初はあたしに貸してくれってさ、普段そんなこと言う子じゃあないだろう?」
「まさか貸してないよね」
「当たり前だろう。お金の事はあたしじゃ判んないから、住職が帰るまで待っとくれって、そう言ってるの」
「わかったよ。あと、笹目さんは戻ってないかな」
「あの人は湯治だろ?とにかく早く帰ってきとくれよ。あたしの手にはおえないからさ」
どうもこのおばさんが、ふだん食事の世話なんかをしている宇多子さんらしい。彼女は「はーあ、参ったねこりゃあ」と溜息をつくと、電話の子機を置いてこたつに入り、僕とソモサンの頭を無造作に撫でた。僕らはそれをすり抜けると廊下に出て、滅苦の部屋へと向かう。セッパもいつの間にか後に続いていた。あたりには美蘭が送り込んだハクビシンの匂いが残っていて、嫌でも背中の毛が逆立ってくる。
階段を上がり、襖の桟に爪を立てて引っ張る。開いた隙間から顔を出すと、滅苦の背中が見えた。彼は何かぶつぶつ言いながらスポーツバッグに着替えを詰めている。
前に回り込んだ僕とソモサンがニャアと鳴いてみせると、彼は手をとめてこちらを見た。そして思いつめたような顔つきで「お母さんが大変なんだ」と言った。
「僕には判る。お母さんは死んじゃうかもしれない。お父さんたちの集まりに誰も来てくれなかったから、がっかりしたんだよ。最初の頃はみんなあんなに励ましてくれたのに、だんだんと人が減って、今年は誰も来てくれなかった。ただでさえ頑張りすぎて心が折れそうなのに、そんなの悲しすぎるだろ?」
滅苦の目には憑りつかれたような昏い光があって、普段の無邪気な彼とは別人のようだった。
「お客さん、着いたよ」
運転手の声で我に返る。いつの間にかタクシーは東林寺の前に停まっていて、僕は急いで支払いを済ませると車を降りた。敷地内にコインパーキングがあるので、開いたままの門を抜け、本堂の方へと向かう。
本来なら会うべき相手は笹目なんだけど、宇多子さんの話だと留守。だったらこの寺に来る意味などないのに、僕は滅苦のことが気になるのだった。
でも、こんな時間からどんな口実で会うべきか、自分が何をするべきなのかも判らない。バッテリー切れみたいに立ち止まってしまったところで、「不審者発見」という声が聞こえた。
「警察呼んじゃおうかな」と言いながら、美蘭は墓地に続く通路の方から現れた。ようやくモヒートの酔いが回ってきたらしくて、妙に座った目をしている。
「笹目は、いないらしいよ」
「そうね。忘れてた。あのババア、毎年正月明けに山形の温泉で湯治なんてしゃれた真似してるんだった。全身がフリーズドライ化してるからさ、たまにお湯かけて戻さなきゃいけないんだ」
そう言って、美蘭は飛んできたスズメバチを指先にとまらせた。どうやら彼女も中の様子を探っていたらしい。
「なんかさ、滅苦がおかしいみたいだけど」
「ふだんいい子にし過ぎたせいで、爆発したんじゃない?」
「放っといて大丈夫かな」
彼女はそれには答えず本堂に向かうと、躊躇なく勝手口のインターホンを押した。しばらく間があって「住職かい?」という宇多子さんの声が聞こえる。美蘭は無言で目配せしてきて、仕方がないから僕はできるだけ低い声で「鍵、忘れたんだけど、開けてくれる?」と言った。
慌てた様子の足音が近づいてきて、ドアのガラスに人影が映る。「待たせるねえ、本当に。急いどくれよ、もう」という声とともにドアを開けた宇多子さんは、そこにいる僕を見て「あら、どちらさん?」と、固まってしまった。
その隙に美蘭は彼女の背後に回り込むと、「宇多子さん、後ろの正面誰だ?」と両手で目隠しをする。
「ちょっと上がらせてもらうね」
それだけ言うと、彼女は宇多子さんから離れ、「何でこんなの履いてきちゃったんだろ、面倒くさい」と文句を言いながらブーツを脱ぎ、それを片手に提げて上がり込んだ。僕もそれに続き、後には「住職かと思ったのに、ただのいたずらかね全く」と呟いている宇多子さんだけが残された。
「滅苦ちゃん、遊びに来ちゃった!」
美蘭は勢いよく滅苦の部屋の襖を開けた。彼は驚いた様子でこちらを振り返ると「お姉さま」と言った。後ろの僕には気づいてないかもしれない。
「何やってるの?明日の始業式の準備?にしちゃ荷物が多いわね」
美蘭は畳の上にブーツを放り出すと、膝をついて滅苦の手元を覗き込んだ。荷造りは終わったらしくて、中味のつまったスポーツバッグにはソモサンとセッパがのっている。
「お姉さま、ちょうどよかったです。僕はこれから急いで福島の家に帰らないといけないんです。でもお金が千円しかなくって。お年玉は黙如さんに預けてるんですけど、まだ帰ってこないし。もう時間がないから、お金を貸してほしいんです。夜行バスの片道分だけで大丈夫ですから」
滅苦の様子はさっきと変わりなかった。彼とは別のものがしゃべらせてる感じ。いや、もしかするとこっちが本当の滅苦なんだろうか。美蘭はそんな彼に「バスの片道分なんて、しみったれたこと言わないで」と優しく微笑みかけた。
「可愛い滅苦ちゃんのためなら、お小遣いも込みで五万円貸してあげる。十万でもいいわよ。でも私、基本的にカードと電子マネーしか使わないのよね。今つけてるリップグロス一本買うのもムサシドラッグでカード払いよ。でも見ただけじゃそんな事わかんないでしょ?どう?」
そう言いながら彼女は滅苦に思いきり顔を近づける。
「でも滅苦ちゃん、こんな遅くから可愛いあんたを一人でバスに乗せるなんて心配なの。だから車で送ってあげる。あんたの百万分の一も可愛くない亜蘭に運転させてね。今からレンタカー借りて来させるから、少しだけ待ってくれる?」
「本当ですか?嬉しいです!」と、滅苦は目を輝かせてるけど、美蘭は本気だろうか。
とりあえず指示待ちって事みたいなので、僕はそろそろと廊下へ後退する。そこへ聞き覚えのある足音が、すごい勢いで階段を駆け上ってきた。
「滅苦!」
飛び込んできた黙如は、いるはずのない僕にぶつかり、バランスを崩して倒れ込んだ。
「うっわ!最低!」
酔ってるせいか、美蘭は黙如をよけきれず、下敷きになって怒り狂った。彼女は奴の肩を蹴り上げると腕をとってひっくり返し、そのまま関節技に持ち込む。
「あだだだだだ」という呻き声とともに、黙如は空いた手を伸ばして無意識にロープを探している。情けないなあ、と思いながら僕はそれを見ていたけれど、滅苦は「お姉さま、やめて下さい!時間がないんです!」と止めに入った。
ようやく美蘭が力を緩めると、黙如は肩で息をしながら「何?君たちいつ来たの?美蘭、プロレスやった事ある?」と質問を連発した。しかし滅苦が「黙如さん、僕、今から家に帰ります」と言ったので、彼も慌てて戻った理由を思い出したらしい。
「いや、滅苦、君の家のことはお父さんがちゃんとやってるから、帰らなくても大丈夫だよ」
黙如はどこか嘘くさい感じでそう言ったけれど、滅苦は「違う!僕には判るんだ。お母さんが死んじゃうかもしれない。早く帰らなきゃ」と食い下がる。黙如は「どうして急にそんな」と言ったきり、後が続かない。
彼の顔にはありありと「困った」という表情が浮かんでいて、ほぼ思考停止だ。しびれを切らした滅苦が「もういい。お姉さま、早く行きましょう」と美蘭に向き直ったその時、彼女は猫のセッパの背中をつかみ、スポーツバッグから彼の膝に移した。
「滅苦、井戸のまわりでお茶碗欠いたの誰?」
唐突なその質問に、滅苦は答えなかった。
正確には答えられなかったのだ。彼の目は膝の上のセッパを見てるけど、焦点は微妙にぼやけてる。
「あんたは今から猫のセッパだ。私がいいって言うまでね」
そう言って美蘭は滅苦の手をとり、その掌をセッパの背中においた。セッパはセッパで、目を閉じたままじっと動かない。呆気にとられてそれを見ていた黙如は、「滅苦?」と小声で呼びかたけれど、返事はなかった。
「変なちょっかい出さないでくれる?せっかく私が蓋をしたのに」と美蘭が割って入ると、黙如はようやく彼女の方を見て「一体どうなってんの?」とたずねた。
「それはこっちの台詞よ。とにかく今、滅苦は猫のセッパと同調してるから、勝手に出ていったりはしないわ」
「同調、って、猫と?滅苦が?」
「そうよ。うちの馬鹿な弟が、昔よく猫を抱えたままフリーズしてたんだけど、それの応用って奴」
「な、何だかよく判らないけど」と、黙如は僕と滅苦を交互に見た。
「ねえ黙如さん、どうして滅苦はこんなに大騒ぎしてるわけ?お母さんが死にそうって、だったら早く行くべきでしょ」
「いや、何ていうか、色々事情があって」と、黙如はしどろもどろ。「ちょっと、五分だけ待ってくれる?」と、部屋を出ていった。その後を美蘭の放ったスズメバチが追い、僕は僕でソモサンを使って尾行した。
黙如は茶の間をのぞくと、こたつに入っていた宇多子さんに「とりあえず落ち着いたよ。心配かけてすいません」と声をかけた。それから廊下を回って縁側に出ると、携帯を取り出してしばらく触っていたけれど、「あれ?笹目さんの泊ってる旅館の名前、きいてなかったっけ」と頼りない声をあげた。
僕はそこでソモサンを離れ、美蘭は「駄目だこりゃ」と、自分の携帯を手にした。それから一瞬考えて僕に差し出す。
「あんたかけて」
ディスプレイには玄蘭さんの番号。
「嫌だ。そもそもなんで電話なんか」
「笹目の居場所よ。あのババアは携帯なんて気の利いたもの持ってないから、宿に連絡しないと」
「自分できけよ」
「百パーセント宗市さんがとるから大丈夫よ。百円あげるから」
「十万円もらっても嫌だ」
「けっ!一円でもやるか!」
美蘭は自分で電話をかけたけど、出たのはやっぱり宗市さんらしかった。それが判るのは、彼女の表情が一瞬で和らいだからだ。ちょうどソモサンが戻ってきたので、僕は猫の耳を借りた。
「美蘭、どうしたの?こんな時間に」
「ちょっと笹目に急ぎの用があるの。あの人がいつも湯治に行ってる山形の温泉、なんていう宿だっけ」
「玄蘭さんに聞いてみるよ。少し待って」
永遠とも思える待ち時間の後で、宗市さんは「あのね、三万円払えって言ってる」と、ためらいがちに告げた。美蘭はおおげさに溜息をつくと「相変わらず強欲ね」と言った。
「いったん断って、後でまた聞いてきたら五万円だって」
「わかったってば。払うから。来月の生活費から引いといて」
全くもって僕らの後見人、玄蘭さんは偏屈な上にケチで欲深い。まあそれが夜久野一族の特徴なんだからしょうがないんだけど。そして奇妙なことに、ふっかけはするんだけど、対価さえ払えば必ず正確な情報を与えてくれる。それはあの人なりの矜持って奴かもしれない。
ともあれ、美蘭は温泉宿の名前を聞き出すとすぐに検索して電話をかけた。
「はい、鈴乃屋でございます」
もう寝静まっているのか、ずいぶんと長い呼び出し音の後で、甲高い声の女性が出た。美蘭は「夜分にすみません。そちらに泊まっている夜久野笹目につないでいただけませんか?家族の者ですが、急用で」なんて、超よそ行き音声でしゃべってる。
「少々お待ち下さい」という返事があって、保留の音楽が流れる代わりに、「お父さん、内線どうやるんだっけ」などという間延びした声が聞こえ、それから思い切り不機嫌そうな「いい加減にしとくれ」という声に替わった。
「もう寝てたあ?」と美蘭が能天気に呼びかけると、「あんた、滅苦の事で電話してきたんだろう。玄蘭に口止め料つかませとくんだった」と、切り返してくる。
「何よ、判ってるんなら話は早いわ。とりあえず、どうやったら滅苦が正気に戻るか教えてもらえる?」
「悪いけど無理だね。あんた自分で結界を破っといて、よくそんな事が言えたもんだ」
「結界を破った?私が?」
「まあ正しくは、あんたの操ってる変な獣たちだ。今日、あいつらが滅苦の部屋を荒らしただろう」
「まあ、荒らしたっていうか、ちょっと中に入ったかな」
いきなり矛先が自分に向いてきたので、美蘭は少し慎重な口ぶりになった。
「私が手間暇かけてめぐらせた結界を、あの獣たちが汚い足で破ったんだよ。そのせいで今までずっと遠ざけてたものが、滅苦のところに戻って来たんだ。今更どうにもなりゃしないよ」
「そんな言い方されると責任感じちゃうじゃない。何とかならないかな。これまで通りの、明るくて可愛い滅苦に戻ってほしいの」
「あんた、自分の弟が死にかけた時も、こっちが死にたくなるほど大騒ぎしたけどね、無理なんてそうやすやすと通るもんじゃないんだよ」
「無理を通す気はないわ。ただ、笹目なら何とかしてくれるって」
美蘭は妙にしおらしい感じでそれだけ言うと、口をつぐんだ。すぐにやり返してくるはずの笹目も無言で、回線でもおかしいのかと思えてきた頃に「だったら連れといで」という返事があった。
「ただし夜が明ける前にだよ。こっちはおとといから雪だから、道中何が出るかお楽しみってところだ」
それだけ言うと笹目は電話を切ってしまった。美蘭は苦々しい顔つきで「あのババア」と呟いたけど、僕の方を見るなり「車借りてこい。スノータイヤ履いてる奴」と言った。
12 見返りもない行軍
闇の中を近づいてくる、「積雪注意」の文字そのものが、舞い散る雪で見えにくい。
路面は除雪されてるけど、それも高速を降りるまでの話。先はどうなってるのか、考えると気が滅入る。
前を走るトラックのテールランプはほとんど幻で、バックミラーに映るのは暗闇だけ。
助手席では美蘭が気持ちよさそうに寝息をたて、後ろの席では滅苦が猫のセッパを抱いたまま眠り、その隣では黙如がこれまた眠りこけている。一緒に連れて来たソモサンも、彼の膝の上で眠ってるはずだ。
夜の奥から湧き上がる雪は、僕をからかうように渦を巻いてぶつかってくる。ワイパーの動きは頼りなくて、いつ止まってもおかしくない気がする。そろそろ休憩して、何か甘いものでも食べて、熱いコーヒーを飲みたいんたけど。
乱心、とでも言いたくなる変調を来した滅苦を正気に戻すため、僕らは笹目のいる山形の温泉宿に行かなくてはならない。夜が明ける前に。
事の原因は美蘭にあるはずなのに、彼女は平然と「あんたがサバエちゃんと素直に仲直りしなかったせいよね」と、僕に責任転嫁した上に、運転まで強要してきた。
「だってモヒート飲んじゃったしさ。こんな事だと判ってたらシラフでいたんだけど」なんて心にもない事を言う。さらに面倒なのは、黙如までくっついて来たことだった。
美蘭はそれを追い返しもしない代わりに、「ねえ、滅苦の事と笹目と、どういう関係があるのよ」と探りを入れたけれど、黙如は「そこはまあ、個人情報だからね」とごまかしてしまった。この男、普段はうるさいほど喋るのに、変なところで口が堅い。
いきなり大きな欠伸が出て、僕は時計を確かめた。
深夜とも未明とも呼ぶべき時間。目の前の闇と、ヘッドライトに照らされた道路と、渦を巻いてぶつかってくる雪は途切れることがない。
今この時、綾さんと猫のジャコ、ことミント一号はどうしてるだろう。
僕はキジトラ猫を通じて味わった、綾さんの膝の温もりを思い出していた。暖かくて、いい匂いがして、柔らかいんだけど、しっかりと存在感がある。ミント一号はきっと綾さんと寝てるだろうけど、ベッドのどの辺りにいるだろう。布団の上か、中にいるのか。中だとしたら、綾さんの身体の、どの辺りにくっついてるだろう。滑らかな鎖骨に頭をのせているか、白いふくらはぎに前足をかけているか。それとも・・・
「なんか怪しげなこと考えてるだろ」
いきなり美蘭の声がして、僕は我に返った。横目で盗み見ると彼女は右目だけ開いてこちらを睨んでいる。
「コーヒー飲みたいと思ってただけだ」
平静を装うけど、わずかに揺れた車体がハンドルのぶれを物語る。
「あらそう。四年生の時に清掃ボランティアやらされて、エロ本拾ってきた時とおんなじ顔してたけど」
「くっだらない!」
「まあ、居眠りするぐらいなら、妄想ふくらませてる方がましだけど」
それだけ言うと美蘭は身体を起こし、伸びあがって、後部座席にいる黙如の様子をうかがった。
「俺は滅苦の保護者だから一緒に行かなきゃ、なんて偉そうなこと言ってた割に爆睡か」
彼女は座り直すと、高速に乗る前に寄ったコンビニの袋に手を突っ込み、飴玉を取り出して舐め始めた。安っぽいサイダーのフレーバーが車内に広がる。
「あげようか」と勿体ぶった台詞を無視していると、「手」と命令してくる。犬じゃあるまいし、と苛立ちながら出した左の掌に、うずらの卵ほどもある飴玉がのせられた。口に放り込むと、こちらはオレンジのフレーバー。馬鹿みたいな勢いで炭酸が弾けまくって、舌が痛いくらいだ。
「何これ、罰ゲーム用?」
「小学生の間で流行ってるらしいよ。ガキって変なもん喜ぶよねえ」
そういう自分が食べてるくせに。僕は頭に響くパチパチという音を聞きながら溜息をついた。
「もうちょっとスピード上げらんないの?」
「これ以上は無理かな」
「いくらこの季節は日の出が遅くても、夜明け前はけっこう厳しいわね。笹目ってば、滅苦の何を封じこめてるんだと思う?」
珍しく、美蘭は僕の見解を求めているらしい。
「たぶん、滅苦一人の問題じゃないんだよ。黙如とか、あと、ミント一号を飼ってる綾さんって人とか」
「ああ、あのクソ女。ひとんちの猫を着服しやがって。黙如は坊主のふりしてるけど、きっと犯罪者だね。なんかヤバいことしてて、それを滅苦に知られちゃったのよ。でさ、ばれたらお母さんを殺すとか、脅してるんじゃないの?」
「それにしては、滅苦と仲が良すぎるけど」
「後ろめたさがそうさせてるのよ。イベントとかやってるのも、世間の目を欺くためだね。イケメン和尚とか言われてるけど、すっごい腹黒そうだし」
そう言う美蘭こそ、桁外れに腹黒いのに。僕はまだそこまで黙如を疑う気になれないな、と思ううち、サービスエリアの標識が現れた。当然のように指示器を出すと「やめろ馬鹿」と叱責される。
「この状況で、なんでのんびり休憩できると思うのよ」
「コーヒーぐらい飲んでもいいだろ。お腹も空いたし」
「寝言はやめて。この飴いっぺんに三個ぐらい食べれば、いま必要なカロリーは補給できるわよ」
無理に車を停めたら殺されかねない。僕は再びアクセルを踏んだ。
幸運なことに、高速を降りた頃から雪は小降りになり、やがて止んだ。といっても空は鉛色の雪雲に閉ざされて、いつまた降り出すか判らない。融雪設備のある道なんて市街地だけで、笹目が湯治をきめこんでいる温泉に向かう道は雪また雪だ。
僕はもちろん、こんな雪道を走った経験なんかない。ただ、ハンドルの手ごたえだとか、タイヤごしに伝わる路面の感覚を頼りに、手探りみたいにして進むだけだ。おかげで眠気を感じる暇もないけれど、神経を張り詰めているせいで肩だの首だの、悪い霊にでも憑りつかれたような重さだ。まあ、霊の存在は全く信じてないんだけど。
美蘭は再び眠り込んでいて、黙如と滅苦も相変わらず夢の中。この闇夜の底で僕ひとりだけが、何の見返りもない行軍を続けている。
ここにサバエがいてくれたら、退屈しないのに。
「えっ?」
気がつくと僕は声を上げていた。今、何か変なことを考えなかったか?自分の考えじゃないような、起きたままで夢を見てるような。
僕はたぶん疲れ切っていて、だから奇妙なことを考えてしまうのだ。車内の空気が悪くて、酸欠なのかもしれない。
何度か首を振って、真柚の優しげな笑顔を思い浮かべる。せっかくミント一号を見つけたんだから、僕はもうサバエから解放されるのだ。そして、まずはとりあえず、ミント二号を通じて真柚との距離を縮める。いや待て、それよりもキジトラ猫を使って、綾さんのところに泊まりに行こうか。
ハイビームにしたヘッドライトの先は、白と黒、無限のグラデーション。こんな風に雪が降りしきる夜なら、綾さんは絶対にキジトラを追い返したりしない。ああ、でもまたハクビシンがぞろぞろと現れたらどうしよう。
美蘭の奴、いつの間に蜂を使ってあんな獣を操れるようになったんだろう。しかも群れで動かすなんて。同じ操るにしても、僕は猫一匹で手一杯なのに。しかしまあ、他の技なんかできたところで、押しつけられる仕事が増えるだけだ。そんなの面倒くさい。
僕はいつだって美蘭の後ろに隠れてて、美蘭がいなければとっくの昔に死んでて、大人になっても美蘭の稼ぎをあてにして生きる。
もちろんそれで構わないのだ。だってそれこそが、自堕落この上ない夜久野一族の生き方だから。でも、そのせいで美蘭に偉そうにされるのは我慢ならない。
もし僕が猫で、猫だ、というその理由だけで誰かが飼ってくれたなら、大きな顔して暮らせるのに。僕は人生に多くを求めたりしないから、暖かな寝床と食事さえあれば十分だ。他のことなんて面倒くさいだけ。
でも僕は猫ではないし、あと少しで大人になる。大人になってまで、美蘭に見下されていたくない。僕はどうして、猫の大人になれないんだろう。
ああ、ここにサバエがいてくれたら、気が紛れるのに。
そう思った次の瞬間、車は大きく揺れて停まった。
「何やってんのよ」
美蘭の不機嫌生絞り百パーセントみたいな声が聞こえて、僕はようやく我に返る。目の前は真っ白な雪の壁。突っ込んでしまったのだ。
「だから飴玉舐めろって言ったのに」
「嫌ってほど舐めたよ。舌なんかもうザラザラだから」
とりあえず反論だけしておいて、ギアをバックに入れる。エアバッグが作動してなかったのが不幸中の幸いだ。後ろからは黙如の「あ、どうしたあ?」という寝ぼけた声がする。
「馬鹿ドライバーがやらかした」という美蘭の嫌味を聞きながら、僕はアクセルを踏んだ。しかしタイヤは空回りするだけで、動く気配がない。
「あーあ、はまっちゃった。早く降りて、車押して」
美蘭は当然のように僕と黙如を外に出すと、自分は運転席におさまった。ずっと同じ姿勢でいたから、動けるのはありがたいんだけど、二人がかりで押したところで、雪だまりにはまった車は全く動かなかった。
美蘭は窓から顔を出して「もうちょっと気合い入れてよ」と文句をつける。黙如は息をはずませ、「滑るんだよね。タイヤの下に何かかませないと無理だよ」と言った。
「だったら亜蘭でも突っ込んどいて」
美蘭はいったん頭をひっこめ、苛立ちのこもった勢いで何度かエンジンをふかしたけれど、その後急に静かになった。どうやらカーナビだの、スマホだの見ているらしい。
身体を動かすのを止めるとすぐに冷えてきて、黙如もそれは同じらしかった。彼はフロントガラスを叩いて「やらないの?」と身振りで示した。すると美蘭は再び窓から顔を出し「時間がない。歩きましょう」と宣言した。
カーナビによると、僕らは目的地まであと二キロほどの場所まで来ていた。普通なら歩ける距離だけど、雪道は勝手が違う。でも他の選択はなかった。
辺りは真っ暗というわけではなく、ほんのわずかにだけれど明るくなってきていて、それはつまり、持ち時間が残り少ない事を意味していた。
山あいを走る県道の、路肩に寄せられた雪は僕の胸のあたりまであって、その真ん中に一車線の空間が確保してある。もちろん路面なんか見えなくて、夜の間に降った雪が膝近くまで積もっている。
先頭に立つのは黙如で、これは彼の大人かつ保護者としての意地って奴だろうか。その後に美蘭がセッパを抱えた滅苦と並び、彼の背中を押すようにして進んでゆく。滅苦は眠ってはいないけれど、セッパと同調した放心状態であることに変わりはなかった。そして最後についた僕はソモサンを肩にのせ、頭の中の地図と現在地を重ねながら歩いた。
「あーあ、まるで修行だな。でも俺、こんなハードな修行したことないけどさ」
黙如は無理やりテンションを上げようとしているのか、やたら口数が多い。
「ねえ美蘭、君の関節技、すごく綺麗に決まったけどさ、レスリングやった事あるの?」
「あるわけないし」
「じゃあ、何であんなに一発で決められたわけ?」
「あのくらい誰だってできるわよ」
「いやそれ、おかしいって。亜蘭もそんな事言ったけど、きみたちどう考えても普通じゃないから」
「私のこと、そこの地球外生物と一緒にしないで」
「うーん、確かに違いはあるんだよね。美蘭は守りより攻撃だから。ねえ、来月なんだけど、うちのお寺で仮設リング作ってプロレスの節分マッチやるんだよね。鬼軍団VSちびっこ軍なんだけどさ、君も出ない?ちびっこ軍を率いるプリンセスで」
美蘭が返事する前に、僕は軽く失笑していたけれど、辺りが静かすぎるせいで、笑い声は予想外に大きく響いた。
「あんた何がおかしいのよ」
「どう考えても鬼軍団のボスだから」
率直な見解を述べると、美蘭は振り向きざま強烈なタイキックをぶちかましてきた。逃げる間なし。黙如はこちらを振り向きながら歩いていたけど、「頼む。絶対に盛り上がるから」と繰り返した。
「リングマネー次第ね。マネージャーの宗市さんの連絡先教えるから、事務所通して」
なぜか美蘭はタレント気取り。黙如は真に受けたらしくて「判った。商店街がスポンサーだから相談してみるよ」と前のめりだ。
どうせ最後には「面倒くさい」でドタキャンされるに決まってるのに。黙如は美蘭がプロレスに参戦すると思い込んだのか、さっきにも増して勢いよく雪を踏み分けて進んでゆく。
いつの間にか、辺りは少し明るくなっていた。分厚い雪雲のせいでよく判らないけど、もう日の出が近いのだ。
僕らはただ、前に進むしかなかった。
13 その泣きっ面
僕は普段ほとんど実感することのない、幸せというものを満喫する。
黄身の盛り上がった桜卵を溶いて醤油をたらし、湯気をたてている白いご飯にかけ、いい具合にかきまぜたら、一気に食べ始める。途中でちょっと一息ついて、海苔なんかのせてみるけど、それがご飯になじむのも待たずにまた食べる。
食卓にはこの他にも豆腐の味噌汁、鯵の開き、ほうれん草の胡麻和え、玉こんにゃく、そして白菜の漬物が、僕に食べられるのを待っている。部屋の隅にある石油ストーブは青く燃え、その上で古びたやかんが絶え間なく蓋を震わせている。
「お兄さん、見かけない顔だけど、いつお見えになったの?」
毛糸の帽子をかぶり、蛍光ピンクのフリースを羽織ったおばあさんが、ポットのお茶を湯呑に注ぎながら声をかけてくる。
「今朝、着いたところです」
「ああらそう。元気そうに見えるけど、どこが悪くてこんな辺鄙な宿まで湯治に来なさった?」
美蘭がいたら「性格が余命三か月なんです」とか言いそうだけれど、僕は「ちょっと親戚に会いに」と正直に答えた。おばあさんは「道理でねえ。ここには病人と怪我人と年寄しか来ないからねえ」と納得しながら、フリースのポケットから蜜柑を取り出した。
「よかったら食べてちょうだい。ここは本当に温泉以外に何もないところだから、若い人には退屈でしょう」
「ありがとうございます」と蜜柑を受け取り、僕はまた食事を続ける。たとえここに温泉すらなくても、別に構いはしない。後はもう眠りたいだけだから。
雪だまりに突っ込んだレンタカーを乗り捨て、僕らが歩いてこの旅館にたどり着いたのはかろうじて夜明け前。玄関は開いてなかったけど、朝食の準備は始まっていて、厨房から声をかける事ができた。
といっても、中に入れたのは美蘭と黙如と滅苦と猫二匹。僕は車を回収するため、旅館の人が運転する四駆に押し込まれた。
「いま食べ物なんか与えたら、眠りこんで二度と起きてこないから」というのが美蘭の主張で、それはまあ、外れてはいなかった。幸いなことに、車はすぐに引っ張り出せて、僕は今、こうして朝食をとっているわけだ。
もらった蜜柑も食べ終え、少し落ち着いて周囲を見回す。
外から見たこの旅館はずいぶん古びた木造建築だったけれど、この食堂は改装したらしく、壁や床材にテーブルと椅子、全てがなじみの浅い明るさを保っていた。
部屋は十分に暖かくて窓ガラスは白く曇り、外の雪景色は輪郭を失って滲んでいる。僕の意識も輪郭を失い始めて、圧倒的な眠気が襲ってくる。でも寝るならちゃんと横になりたい。僕は気力を振り絞って立ち上がった。
食堂を一歩出ると、時間の断層をくぐり抜けたみたいに、古い世界が始まる。太い柱や梁は煤けたような色で、奥へ奥へと伸びる廊下は薄暗く、朝か夜かも定かではない。
たしか「椿の間」だったよな、と思いながら、僕は廊下の左手に並ぶ部屋の木札を確かめながら歩いた。番号の方がずっと簡単なのに、桔梗、竜胆、木蓮、と脈絡なく植物の名前が現れては消え、もしかして記憶違いかと思い始めたところへようやく、「椿」の文字が目に入る。
下が格子になった引き戸を開けると、ちょっとした板の間の向こうにまた襖。「入るよ」と、一応ことわって、僕は襖を開ける。中はカーテンを閉め切って薄暗く、笹目が一人でこたつに入っていた。
「みんなは?」と訊ねると、黙ってあごをしゃくる。開いた襖の向こうにある次の間で、布団にもぐっている美蘭の髪が見えた
「滅苦と黙如は?」
「あんたの姉さんが追い出した。嫁入り前だから殿方と同じ部屋じゃ寝られないだとさ。どこまで自分に値打ちをつけるんだか。気位の高いところは母親そっくりだね」
「それ、美蘭には言わない方がいいよ。ぶち切れるから」
「本当のこと言って何が悪い」
笹目は細い目を思いっきり見開き、湯呑に入っていたお茶をすすった。
「滅苦は?元に戻った?」
「そうでなけりゃ、こんな呑気にしてるはずがないだろう」
まったく、いちいち嫌味で返さないと気が済まないのも夜久野一族ならでは。とにかく、問題は解決したみたいだし、僕は眠くて仕方ない。
「こたつで寝ていいかな」
「邪魔だからやめとくれ。布団敷いて寝るんだね」
あくびを連発しながら、僕は押し入れから布団を出した。美蘭のそばは危険だけど、今から黙如の部屋まで行くのも面倒くさいし、こっちの部屋で寝よう。
「何時に引き上げるとか言ってた?」
「知らないね。こっちは今すぐにでも帰ってもらいたいんだよ」
そう言って笹目が座り直すと、こたつの中から猫のソモサンとセッパが出てきた。どうも僕の布団を狙ってるみたいだけど、まあいいか。二匹ともいい具合に暖まってるし。
寄って来たソモサンを毛布の下に入らせ、少し離れたところにいるセッパを抱き上げようとしたその時、笹目の声が聞こえた。
「おやめ」
たしかそう言ったと思う。でも確信はない。何故ならその瞬間、僕の指先で何かが炸裂したからだ。
その衝撃は乾いた冬の日、不意打ちで襲ってくる静電気を何倍にもした激しさで、僕ははっきりと髪の毛が逆立つのを感じた。でもそれも一瞬のことで、すぐに視界は真っ暗になり、何かの警報みたいな甲高い耳鳴りが頭の中で膨れ上がった。
身体の自由がきかない。僕は自分の手足を邪魔な荷物のように感じながら、布団の上に倒れ込んでいた。
僕は泣く。
涙はとめどなく溢れてきて、抑える術がない。胸の真ん中に重く冷たい、石のような塊が居座っていて、そいつが僕を押し潰すせいで、全身の細胞に蓄えられた水は、残らず涙になって流れてしまうのだ。
今まで大切にしてきたものが何もかも失われて、これからも続くと思っていたものが、何もかも断ち切られて、ずっと一緒にいられると思っていた人たちが、誰もいなくなる。目の前に続くのは果てしない闇で、振り向いた先にかろうじて見える懐かしい世界は、光の速さで遠ざかってゆく。
怒りと、悲しみと、憎しみと、寂しさと。恐怖と、絶望と、不安と、焦りと。憐みと、後悔と、疑いと、裏切りと。
それらは炎のように足元から這い上がってきて、僕を焼きつくす。なのにその後も、僕はまだ存在して、全ての苦しみを感じ続けている。消えてしまう事もかなわず、重い塊に押さえつけられて、どこへも逃げられずに。
そして僕は問いかける。何故?どうして?それから呼びかける。誰か助けて。
でも助けてくれる相手なんて、もうどこにもいない。
僕が求めているのは、時間を戻すこと。あの日あの瞬間の前、全てが完璧に調和して満ち足りていた時まで戻って、そこに留まること。それ以外の何も、僕は求めていない。
「本当に馬鹿だねえ」
気がつくと、笹目の仏頂面が僕を見下ろしていた。
「猫がいれば見境いなく撫で回す癖がまだおさまらないとはね。その調子じゃ、寝小便もまだやってるんだろう」
何か言い返してやりたいけど、言葉が出てこない。笹目の向こうにぼんやり見えるのは天井の木目で、僕は仰向けに寝ているらしい。
視線を動かして周囲の様子をさぐっても、薄暗い部屋の中、特に何も変わったものはなさそうだ。ただ、僕の内側、あの重い塊の居座っていた場所が、大きな石をひっくり返した後みたいな、暗く湿った穴になっているだけだ。
そこにいるのはミミズやハサミムシといった地中の生き物じゃなくて、僕自身の記憶の底にある、忘れてしまいたい出来事ばかり。いきなり明るい場所に引きずり出されて、奴らは跳ねたり捻じれたり、まだ命を失っていないことを存分に見せつける。
真冬の夜中にパジャマ一枚で、裸足のままベランダへ締め出されたり、こっちは二日間飲まず食わずなのに、目の前で焼きたてのチョコレートケーキを食べられたり、身体を押さえつけられ、指と爪の間に太い針を刺されたり、死ぬほど眠いのに、少しでも目を閉じると煙草の火を押し付けられたり。
飢えや痛みの記憶と絡み合ってよみがえるのは、あの女の罵声と哄笑。そして時おり、気味悪いほどに優しい愛撫。
僕はそいつらが闇を求めて穴の底に戻るのを、ただじっと待った。目を閉じると残っていた涙が頬を伝って流れてゆく。でも、どうして僕は泣いているんだろう。
しばらくしてもう一度目を開くと、少しだけ気分がましになっていた。
「いま、何時?」
ようやく声が出せたけど、別の誰かがしゃべってるみたい。笹目が相変わらず馬鹿にした調子で「もうとっくに夜だよ。全く、猫みたいに一日中眠りこけて」と答えるのが聞こえた。
僕は手足の感覚が戻っているのを確かめ、ゆっくりと動かしてみてから身体を起こした。あちこち油が切れたみたいに軋むのは、夜通し車を運転していたせいだろう。
「さっき、何か変な感じがしたんだけど、僕は普通に寝てた?」
こたつに座っている笹目は僕の質問を鼻で嗤った。暇つぶしに編み物をしていたらしくて、麻みたいな糸玉が畳の上に転がっている。
「変な感じ、かい。私の仕事を台無しにしといて、本当に呑気だね」
「仕事を台無し?どういうこと?」
「どうもこうもない。私がわざわざ滅苦の記憶を猫に封じ込んだのに、何の考えもなしにその猫を触るんだから。あんた、自分が猫と響くってのは百も承知だろうが」
「猫に、滅苦の、記憶?」
「そうだよ。ここは滅苦の住まいじゃないから、結界を張るわけにもいかないし、とりあえず猫に封じ込んで貧乏寺に持って帰らせるつもりだったんだよ。それをあんたが触ったせいで、全部そっちに流れ込んじまった」
「流れ込んだって、じゃあ、さっきのあれは、滅苦の?」
そう言った途端に、あの重い塊がまた戻ってきたような感じがして、胃のあたりに鈍い痛みが広がる。涙が勝手に溢れてきて、視界がぼやけた。
「全く厄介な事だよ。けどご心配には及ばない。あんたに今残ってるのは滅苦の記憶の、そのまた記憶って奴さ。楽しいもんじゃあないだろうが、じき消えるよ」
「じゃあ、滅苦の記憶はどうなったの?」
「また猫に戻すわけにもいかないし、うちの子がひと働きしてくれたよ。礼を言ってもらいたいね」
「うちの子、って、まさか」
嫌な予感がして、僕は慌てて布団をはいだ。そこには胴の太さが人の腕ほどもある、白蛇がとぐろを巻いていた。僕はそれが何なのか考える前にもう飛びのいていたけれど、勢い余って襖に突っこみ、外れた襖ごと次の間に倒れ込んでいた。
「何をやるにも騒々しいねえ」
笹目は心底うんざりした口調でそう言うと、こたつを出て白蛇の傍に腰を下ろした。彼女の節くれだった手が近づいただけで、蛇はルビーの目を光らせて頭をもたげ、縄がほどけるようにするすると移動してその腕に絡みつくのだった。
僕はもう、見ているだけで全身が総毛立つ。小さい頃から死ぬほど苦手だった、笹目が一番可愛がっている白蛇。
「この子があんたにとりついた滅苦の記憶を全部呑み込んでくれた。どうやったか、なんて野暮は言わないよ。せいぜいがまあ、こんなとこさ」
そう言って笹目は鱗を光らせた白蛇を腕に絡め、首に這わせて、新月のような目を更に細めて笑う。僕は自分の身体に白蛇が触れたという事に思い当たって、冷や汗が滲んできた。
「いいかい、この子はじきに卵を産む。滅苦の記憶はその中だ。あんたはその卵を私の言う場所まで運ぶんだよ。わかったかい?」
「そんなの美蘭にやらせればいい。あいつが結界を破ったんだから」
「うるさいね。あんたが猫から記憶を引き抜いたんだから仕方ないだろう。判ったらさっさと風呂でも入って、その泣きっ面を何とかしてくるんだね」
僕は途端に、笹目の前で小さな子供みたいに涙を流していた事が腹立たしくなってくる。とにかくこの部屋を出よう。そう思って立ち上がり、倒れた襖を起こしてみると、大きな穴があいていた。
「そうそう、壊したものは自分でまどうておくれよ。私は玄蘭とは違って、あんたらの尻ぬぐいを買って出るほど物好きじゃないんだ」
「玄蘭さんも、喜んでやってるわけじゃなさそうだけど」
「そうと判ってるんなら、もう少し迷惑かけずにいられないのかい?あの性悪鴉の愚痴はさんざん聞き飽きたよ。姉さんにもそう言っときな」
それ以上相手をするもの面倒で、僕は黙って破れた襖を元の場所に戻す。隣の部屋はもぬけの殻。美蘭にさっきの騒ぎを知られずにすんだのは、不幸中の幸いだった。
湯あたりってこういう事かと思いながら、僕はぼんやりした頭でふらふらと大浴場を後にした。力が入らないのはきっと空腹のせいだ。夜食とか頼めないかと、人のいそうな場所を探してみる。
食堂に続く廊下は真っ暗で静まり返っている。玄関は明かりがついているけど無人。建物に暖房が入っていても、外の冷気が壁ごしに沁み込んでくるのがはっきりと判る。日本家屋ってどうしてこんなに寒くできてるんだろう。
足元で甲高い悲鳴を上げる廊下を、笹目の部屋とは反対の方へと曲がってみる。先には六畳ほどの板の間があって、そこに据えられた卓球台では、黙如と滅苦が浴衣をはだけてラリーに興じていた。
「おーっと、待ってたんだよ」
黙如は手元にきた打球の勢いを殺し、高く跳ね上げてつかみ取ると、僕の方に向き直った。
「眠り姫、ようやくお目覚め。運転長かったもんねえ」
「みんな、もっと早く起きてたの?」
「あんまり大差ないかな、晩飯まで寝てたし」
「僕もそんな感じです」と寄ってきた滅苦は、いつもの彼らしい屈託のない笑顔だ。昨夜の取りつかれたような目つきの少年と、同一人物だとはとても思えない。
「どうしたんですか?僕の顔に何かついてます?」
「いや、そうじゃないけど」
でも、本当の滅苦は一体どちらなんだろう。
そう考えるうち、僕はつい、自分を打ちのめして通り過ぎた、あの重苦しい塊を思い出してしまった。途端に胸がつまり、視界が涙でぼやけて、思わずその場にしゃがみこむ。
「亜蘭さん、どうしたんですか?さっきから何だか変ですよ?」
「風呂でのぼせたんじゃない?冬場の脱水は危ないんだよ。ちゃんと水飲まなきゃ」
滅苦と黙如が覗き込むけど、泣いてるなんて絶対に気づかれたくない。僕はうつむいたまま、「お腹すいて倒れそうなんだけど」と誤魔化した。
「やっぱり、お姉さまの言った通りだ」
「美蘭の、言った通り?」
「亜蘭さんが後で起きてきたら、腹減ったとかギャーギャー言うから、って、お姉さまが旅館の人におにぎりを頼んだんです。黙如さんの部屋に置いてありますよ」
「ギャーギャーなんて言ってないけど」
「でもお腹すいてるでしょ?おにぎりの他にも、湯治のお客さんから、色んなものもらったんですよ。ビスケットに干し柿に羊羹に濡れおかきに芋けんぴ。あと、松露ってわかります?海坊主みたいな形の」
「なんとなく」と答えながら、僕はほっとしていた。涙もおさまったし、何より、朝まで空腹を我慢せずにすむ。先に立って廊下を歩き出した滅苦に続こうとしたら、黙如が「亜蘭」と小声で引き止めた。
「ちょっと話があるんだけど」
「おにぎり食べてからでいい?」
「ああ、そりゃもちろん」
何だか言い難そうな顔をしてるけど、今の僕に大切なのは胃袋の問題だった。
14 すっかり世話になってる
「それじゃ、お先に失礼します。皆さん、たいへんお世話になりましたぁ」
滅苦は居並んだ湯治客に笑顔で手を振ると、旅館の玄関前に停められたワゴン車に乗り込んだ。車の中にいるのはこの温泉町の振興会メンバーで、新幹線で上京してPR活動に回るらしい。滅苦は彼らと一緒に東京へと帰るのだ。
「新学期だってのに二日も休んでるし、早く戻らないとね」というのが黙如の話で、滅苦も無駄に真面目だから、すぐにも登校する気でいる。僕だったら、インフルエンザだとか適当に理由つけて一週間は休むのに。
年寄ばかりの湯治宿、滅苦はわずか一日でアイドルとなり、お菓子や果物はもちろん、タオルや小銭入れなど様々なものを贈られ、はち切れそうな紙袋を両手に提げて帰ることになった。
うわべは笑って手を振りながら、美蘭は彼を使ったビジネスプランを練り続けている。
「これはもう活仏レベルね。春休みに布教ツアーで連れて来よう。色紙一枚三千円に生写真つけて、あと法話のDVD。ファンクラブも作って、年寄相手だから会報は紙媒体がいいかな」
そう言う美蘭も男性客に、そして黙如は女性客に、それぞれ人気だったけど、総合点では滅苦に遠く及ばない。そして僕はもちろん圏外。
後ろ向きになっても手をふり続けている、滅苦を乗せたワゴン車が雪深い坂を下ってゆくと、湯治客たちは口々に「いい子だったねえ」などと言いながら、建物の中へと引き上げた。もちろん笹目はその中にはいない。彼女は夜久野一族らしく、人が集まる場所を極端に嫌うから。
そして女性客たちは滅苦が去った空白を埋めようと、こんどは黙如の周囲に群がっていた。
「和尚さんはまだしばらくいるよね。せっかくだから、何かためになる話でも聞かせてちょうだいよ」
「どうかなあ、俺って駄目になる話しかできないんだけど」
この程度の受け答えでも笑いがとれるんだから、刺激に飢えている湯治客というのはありがたい。しかし実際のところ、そんな話をしている時間などなかった。僕らにはまだ行くべき場所があるのだ。
昨夜、ようやくおにぎりを食べ終えた僕を、黙如は卓球に興じていた板の間まで連れ戻した。
青白い蛍光灯に照らされたその場所は、束の間のうちに寒々とした雰囲気になっていて、卓球台はまるで解剖台のように見えた。黙如が壁際に並んだ籐椅子に腰を下ろしたので、僕も空いた椅子に座り、滅苦にもらっていた干し柿を食べ始めた。
「今回は本当に、色々とお世話になっちゃって」
いきなりそんな言葉を発して頭を下げ、黙如は浴衣の上に羽織った丹前の前をかき寄せると「湯冷めとか、大丈夫?」と訊ねた。
でもまあ、それは本題に入る前の安全確認みたいなものらしく、黙如は両手で顔を撫でてわざとらしい溜息をついてから、「滅苦の事なんだけどさ」と口を開いた。
「あの子はちょっとその、わけあって両親と住めないんで、うちのお寺で預かってるんだよね」
「お寺経営について、黙如さんから学んでるって聞きましたけど?」
「まあそれはつまり、そういう事にしておけば、収まりがいいからって理由で」
黙如の言葉は、いつになく歯切れが悪い。
「俺なんてのはただの雇われ和尚で、坊主カフェだの何だの、やってる事は試行錯誤の繰り返しだよ。偉そうに人に教えられる事なんてないから」
「じゃあ、どうして滅苦は黙如さんのところにいるんですか?」
「うん、知り合いが滅苦の両親と親しくて、その関係で」
「知り合い」
「知り合いというか、女友達というか」
「女友達」
「女友達というか、俺はその人とつきあっている」
「つまり彼女?」
「まあ彼女と言うか、結婚前提だから婚約者だな」
まるで出世魚みたいに肩書が変わるけど、僕はようやく、その婚約者というのが綾さんだと気づいた。
キジトラ猫を通して味わった彼女の膝の心地よさと、泣く彼女の肩を抱いていた黙如の姿が甦ってくる。黙如なんかで妥協しなくても、綾さんにはもっとふさわしい男がいるだろうに。まあ、それが僕ではない事も確かだけど。
僕が無言なのを別の理由だと思ったらしく、黙如は「あのさ、坊主が結婚しないなんての、実際問題として無理な話だからね」と言い訳めいた事を口走った。
「もし一生独身の坊主がいたとしても、その理由は一般の結婚しない人とほぼ同じだから。戒律守ってるなんてごくごく、ごく一部」
僧侶の妻帯の是非はどうだっていい。僕は「そうですか」と答えて話の続きを待った。
「ええと、それでだ、俺は婚約者とボランティア活動が縁で知り合った。彼女のサークルでは福島の農家を支援しててね、何ていうか、原発事故の後で農産物の風評被害ってのがあったのは、わかるかな」
「放射能に汚染されてるんじゃないかってやつ?」
「そう。出荷前にちゃんと検査を通ってるのに、それでも福島から出荷されたってだけで買い手がつかなかったり。それで困ってた農家の人を支援するサークルだ。即売会を開いたり、検査機関が出した数値をネットで公表したり、勉強会を開いたり、産直野菜を使った移動レストランや交流ツアー。色んな事をやってた。それでさ、うちのお寺も即売会に場所を貸したりして」
「ふーん」と生返事をして、彼がどんな風に綾さんを口説いたか考えてみる。まあどうせいつものように、図々しい上に軽いノリでいったんだろう。面白くもない。
「けど、滅苦の家はお寺でしょう?どうして農家を支援するサークルと関係あるんですか?」
「それはさ、ボランティアのメンバーが行くときはお寺に泊めてもらったり、色々と世話になって」
「でも、風評被害って、最近そんなの聞かないように思うけど」
「そうだね、かなり収まってはきたね」
「だったら、それでいいんじゃないのかな」
「いや、そういうわけでもなくて」
言いかけて、黙如はまた顔を撫でると、運勢でも読もうとするように掌を見る。僕は僕で、一体何がどう滅苦と関係するのかさっぱり見えなくて、だんだん面倒くさくなってきた。
ようやく、黙如がまた口を開こうとしたその時、「ここにいたんだ!」という滅苦の声がした。
「何をそんなにびっくりしてるの?」
文字通り飛び上がりそうになっていた黙如を不思議そうに見ながら、滅苦は「せっかくコーヒー淹れたのに、冷めちゃいますよ」と言った。
「いやちょっと、亜蘭から恋愛相談を受けちゃって」と、黙如は口から出まかせ。「はい、じゃあそういう事で、がんばってね!」と僕の肩を叩いた。
「そんな相談してないから」という反論はもちろんスルーされ、全てはうやむや。部屋に戻った僕らはその後なぜかプロレス技の研究を始め、いつの間にか眠っていたのだ。
「ああ、かったるい。もうちょっと勢い出してくんない?」
後部座席の美蘭は、僕が座る助手席の背を蹴りながら伸びをした。彼女の膝には猫のソモサンが乗っていて、その隣ではセッパが眠っている。
「といっても雪道だからねえ。高速に入ったらパーっと行くから我慢してよ」
ハンドルを握る黙如はかなりの低姿勢で、美蘭の暴言に耐えている。
来る時に突っ込んだ雪だまりも通り過ぎて、僕らの乗ったレンタカーは元来た道をずっと引き返していた。でも、まっすぐ東京に戻るわけではなく、目指すのは黙如がカーナビに入れた住所だ。
「私はとにかく早く帰って、小梅に会いたいの」
「小梅?君の彼氏は桜丸って名前だろ?」
「何の話?小梅は三毛猫よ。二日も顔見てないから、拗ねちゃってるかもしれない。すっごく大事に育てられたせいで、女王様気質なの」
「女王様気質か。君と一緒だね」
「判ってるんなら、もっと気遣い見せてよ」
「だからさ、節分の鬼プロレスで、ちびっこ軍団のプリンセスをオファーしてるじゃない。俺は本気だからね」
たぶん退屈しのぎだろうけど、二人の会話は途切れない。美蘭は黙如のことを「やだよねえ」とか言ってたくせに、やっぱり本当は三十代が好みなのかもしれない。
まだ昼前だというのに、どんより曇った空はのしかかるように薄暗い。そう感じるのは気持ちのせいだろうか。
あれから一晩が過ぎたのに、僕の中にはまだ、滅苦の記憶の、そのまた記憶という奴がしっかりと居座っていて、忘れかけていた口内炎みたいに、ふとしたはずみで刺すように痛むのだった。
痛み、とそれを呼ぶのは正確じゃないかもしれない。
一瞬で全身をきつく締め上げるような苦しさで、自分の周囲だけ空気がなくなってしまうような恐怖を伴う。そして、もう何もかも取返しがつかないのだという、絶望的な冷たさと虚しさが身体中に浸み込んでくるのだ。
そいつが襲ってくるたび、僕は意識をソモサンに飛ばした。
美蘭の膝の上で、もうちょっと身体がしっくりくる場所を探して、前足を伸ばしてみたり、頭の位置を変えてみたりしていると、少しずつ気が紛れてくる。
「なんかこの猫、妙に甘えてくるね」
まずい、ばれたら後でどんな報復を受けるか判らない。僕はソモサンとの接触を最小限に絞り、助手席で眠ったふりを続けた。
「そう?ふだんは二匹とも、俺にはそっけないんだけど。心の優しい女の子には甘えるのかもね」
「どうだか」と言いながら、美蘭はソモサンの耳の後ろを指先でゆっくり掻いた。僕と猫が思わずごろごろと喉を鳴らしていると、黙如が「ところでさ、ちょっと質問していいかな」と、あらたまった声を出した。
「君たちと笹目さんって、どういう関係なの?親戚とは言ってたけど、どのくらいの?」
「私まだ、質問していいかどうか答えてないわよ」
「いやまあ、個人情報だし、答えたくないなら仕方ないけど」
ふん、と鼻をならして、美蘭は「同じ苗字を名乗ってるんだから、同じ一味と見做されるかもね」と、他人事のように答えた。
「でも、どのくらいの親戚ってのは、よくわかんない。少なくともおじさんおばさんとか、そんな近いもんじゃないわね」
「それでも親戚づきあいってのは、あるんだ」
「誤解のないように言っとくけど、私達はできるだけ関わり合わないようにしてるの。お互いに嫌いだから。ただ、必要最小限の業務連絡はするってだけよ。それより、黙如さんはどうしてあんな偏屈ババアと関わってんの?」
「いやまあ、俺が東林寺に来た時には、笹目さんはもう離れに住んでたんだよ」
「でもあいつ絶対、挨拶すらしなかったでしょ?」
「そうだなあ。家賃はいつも郵便受けに入ってるし、最初の頃はほとんど見かけたことなかったな。ただ、宇多子さん、ってお寺でご飯作ってくれたりするおばさんがさ、離れにいるのは有り難い拝み屋さんだって教えてくれたんだ」
「有難い」と、美蘭はちゃかした口調でその言葉を繰り返した。
「そうだよ。失くした物はどんなに小さくても見つかるし、心霊現象はもちろん、ストーカーまでお祓いしてくれて、お寺の檀家さんより客層が広いって話だったなあ」
「でも、まともな宗教法人の敷地に、そんな怪しげな人を住ませちゃ駄目でしょ?」
「どうなんだろうね。俺もその辺の事情は全く知らないけど」
「きっと、いい加減な嘘ついて住み着いちゃったのよ。家賃もただ同然じゃない?」
「うーん、あの辺の相場よりは安いかもね」
「絶対みんな騙されてる。来月から大幅に値上げしなさいよ」
美蘭はそう言ってまたソモサンの耳の後ろを掻く。黙如は彼女を諭すように「笹目さんの事、そんな風に言うもんじゃないよ」と言った。
「少なくとも、俺はすっかり世話になってるんだから」
ふと気がつくと、辺りの景色は一変していて、車は寂しげな山あいの道路を走っていた。僕はどうやら眠っていたらしい。
身体を起こし、ドアポケットに入れていたペットボトルの水を少し飲む。
カーナビの画面から察するに、車はもう福島に入っているのだ。黙如は少し疲れた横顔でハンドルを握っていて、美蘭は眠っているらしい。
雪雲こそないけれど、空は薄曇りで、ぼんやり発光する午後の太陽はかなり傾いている。両側から道路を見下ろす山肌のほとんどは雪に覆われ、路肩にも灰色がかった根雪が延々と残っていた。
「ねえ、その先の、つるや食堂ってとこでちょっと停めてくれる?お腹空いたのよね」
眠ってたはずの美蘭が、いきなり前に身を乗り出してきた。
「ああ、了解」
黙如は指示器を出して車を左に寄せる。その先に大きな横長の看板が出ていたけど、「つ」の字が消えかけて「るや食堂」としか読めない。駐車場がサービスエリア並みに広く、そのせいで平屋の店舗がひどく頼りなげに見えた。
「美蘭、この店のことよく知ってたね。トラック野郎には人気の店だけど」
確かに、この山あいのどこから現れたんだろうかと、不思議になるほどのトラックが駐車場に停まっている。僕らのレンタカーはまるで象の群れに迷い込んだ羊だった。
「そんなの、検索すればすぐ出てるし」
「俺はどうも、そういうの使いこなせなくて」
車を停め、外に出た黙如は軽く伸びをしてから歩き出す。美蘭はその後ろに回り込むと、いきなり目隠しした。
「黙如さん、後ろの正面誰だ?」
15 けっこうな目方がある
「黙如さん、先に食堂に入って豚汁定食三つ注文しといて。ご飯大盛りでね。車のキーは預かっとくわ」
美蘭はそれだけ言うと、黙如を目隠ししていた手をほどいた。彼は何も言わず、美蘭にキーを渡すと車を離れ、一人で食堂へと歩いて行く。
「豚汁じゃなくて、焼肉定食とかがよかったんだけど」
僕の訴えはスルーして、美蘭はトラックばかり並んだ駐車場に誰もいない事を確かめると、聞こえないほど高い音の口笛を短く吹いた。
すぐに、僕の背筋をざわざわとした感覚が這い上ってくる。それと呼応するように何か黒いものが、少し離れた場所に停まっている四トントラックの下からあふれ出してきた。それは流れる水のように広がったかと思うとまた集まって、こちらへと移動してくる。
近づいてきたのは、生き物の群れだった。暗褐色の被毛に包まれたしなやかな身体と長い尻尾。小さな耳を立てた丸い頭の真ん中には、ひときわ目を引く白いラインが入っている。
「なんで?ハクビシン?」
思わず後ずさりした僕の足元をかすめるように、奴らは整然と歩み続ける。そして美蘭が車のトランクを開けると、次々と飛び上がってその中へもぐりこんだ。全部で十数匹はいるだろうか。
「いい子にしててね」
そう声をかけるとトランクを閉め、美蘭は後部座席にいるソモサンとセッパを覗き込んだ。
「あの子たちは何もしないからね。心配しなくていいわよ」
猫たちにもハクビシンの匂いや気配は伝わってるだろうけど、二匹は落ち着いた様子でじっとしている。
「あのハクビシン、東京にいた奴?」
「そうよ」
美蘭は左手で車のキーを弄びながら、食堂へと歩き始める。
「どうやって来たの?歩いて?」
「まさか。こっちに来るトラックに便乗させたの」
「でも、何のために?」
「あんたじゃ頼りないからね。黙如がいつ狼にならないとも限らないし」
美蘭はそう言って薄く笑った。
食堂の豚汁定食はおいしかったけれど、僕らは更にレバニラ炒めと唐揚げと餃子六人前を追加した。仕上げはかなり薄いコーヒーと砂糖をまぶしたドーナツを二つずつ。さすがにそれだけ食べると、もうしばらくは大丈夫という気になる。
休憩もそこそこに僕らはまた出発し、引き続き黙如がハンドルを握った。僕はまた助手席。美蘭は後ろで、早々に眠り始めたみたいだった。
彼はかなりとばしていて、それは道路が除雪されているから、という理由だけではないようだった。
「黙如さん、この道走ったことあるんですか?だるま食堂の事も知ったけど」
そう質問しても、彼は「まあね」と曖昧に答えるだけだ。心なしか険しくなったその横顔の向こうには、薄曇りの空と、雪に覆われた山と冬木立。道はいつのまにか二車線へと狭まっていた。
かさついた色の田んぼに、畑に、時おり現れる建物。流れてゆく景色に共通しているのは、不思議なほどの人の気配のなさだった。
だからといって、家の集まってる場所に来ても、やっぱり人が住んでるという感じはしない。誰も歩いてないのはまあ、寒いからかもしれないけど、美容室だとかクリーニング店だとか、そんな看板の上がっている場所も、暗くひっそりしていた。
それに、何だかどの家もくたびれた感じだと思ったら、門が壊れてたり、植木が伸び放題だったり。他にも、網戸が外れていたり、閉められたカーテンが破れている家もあって、まるで撮影後に放置された映画のセットみたいだった。
「人がいない」
何となく僕が呟くと、黙如は「戻れないんだ」と言った。
「みんなどこかに行ってるんですか?」
「だから、戻れないって言ってるじゃん」
後ろで寝てると思った美蘭の、少し苛立った声が割り込んできて、僕はようやく、ここが福島である事を思い出した。
「もしかしてみんな、原発事故のせいで出ていった?」
「そうだね」
外の景色は再び雑木林になっていた。車はしばらく走ってから川を越えて、上りの緩やかなカーブを抜ける。その向こうにちょっとした集落があった。
点在する家の周囲には田んぼが広がり、少し離れた丘のふもとに小学校らしい建物も見える。僕らの乗った車はそこへ向かう細い一本道を進んでいった。これまでと少し違うのは、たまに車が停まっていたり、洗濯物が干してあったりするところ。でも誰も外を歩いていないのに変わりはなかった。
車はやがて小学校を通り過ぎ、消防倉庫と、さらに何軒かの家の前を通った。オオノヤと看板の出ている店があったけど、シャッターは降りたままだ。カーナビを確かめると、僕らはもうほとんど目的地まで来ていた。
「あのお寺?」
美蘭の声に目線を上げると、右前方に門らしいものがある。それは東林寺とは比べものにならないほど小さく、柱も扉も古びて白くなっている。しかし黙如はカーナビを切るとそこを素通りした。
「スルーしちゃうわけ?」と美蘭が突っ込んでも返事はない。
車はやがて三叉路にさしかかり、彼はもう何軒か家があるのとは反対の方向へハンドルを切った。そっちは細い坂道で、どんどん山の中へと入ってゆく。
「もしかして、私のこと誘拐しようとか思ってる?」
美蘭はセッパを抱えたまま身を乗り出すと、その前足を使って「ねえってば」と黙如の肩をつついた。
「ご心配なく。そんな事はしない」
黙如はそれだけ言うと、もうしばらく坂を上って、道路わきの小さな空き地に車を停めた。
「ここが終点ってわけね」
美蘭は猫たちを残して車を降り、伸びをしている。寒そうではあるけど、僕もやっぱり手足を伸ばしたくて外に出た。風はないものの、空気は刺すように冷たく、日陰には根雪が分厚く残っている。
木立の間からは、さっき通ってきた集落が見わたせた。まるで箱庭みたいだ、と眺めていると、「置いてくわよ」という声がした。
振り向くと、美蘭と黙如は道を隔てた斜面の石段を上り始めていた。僕も急いでその後を追いかける。
石段は一度折れ曲がるとなだらかな坂に姿を変え、上り切った先には墓地が開けていた。
並んでいる墓石はそう多くはないけれど、くすんで字も読めないようなものから、けっこう新しいのまで色々だ。
「ここ、お墓じゃない」
見ればわかるのに、美蘭はそんな事を言いながら黙如の後をついて行く。彼は迷う様子もなくどんどん墓地の中を歩き、とある墓石の前でふいに立ち止まった。
他と比べて変わったところもない、灰色の墓標。黙如はそちらに視線を向けたまま、「滅苦の両親はここにいる」と言った。
「ここ、お墓じゃない」
言ってしまってから、僕は美蘭と同じ事を口走ったことに当惑した。腕組みして立っていた美蘭は、「つまり、もう亡くなってるってこと」と呟いた。
「そうだ。二人とももういない」
黙如が低くそう答えた時、「やっぱり、あんたか」という声が聞こえた。
振り向くと、作務衣の上からベンチコートに足元は長靴という格好の男の人が、こちらへ歩いてくるのが見えた。頭にはくたびれたニットの帽子をかぶっていて、年は六十代半ばってとこだろうか。美蘭が社交モードで「こんにちは」とにこやかに挨拶したので、僕もぼんやりと頭を下げる。
「見慣れない車がこっちの方に入っていくから、誰かと思ったら」
やっぱり集落に人はいて、僕らはちゃんと見られていたのだ。黙如は「すいません、挨拶なしで」と謝ったけれど、男の人は「それは構わないんだ」と首を振る。
「ただね、最近あちこちに空き巣が入るんで、皆が心配してるんだよ。一時は収まったのに、人が戻ったらまた出始めたって。まあさすがに、日が暮れる前からはないと思ったが、あんただったとはね。お連れさんは、東京から?」
彼は美蘭と僕を交互に見て、皺の刻まれた顔に親しげな笑みを浮かべた。
「この辺りは初めてかな?」
「ええ」と、美蘭は素直に頷く。
「うちのお寺で一服していかないかな?まだまだ行き来する人間が少なくて、わしはかなり退屈してるんだよ」と笑いかける。
「お寺ってことは、お坊様ですか?」と美蘭が訊ねると、彼は「そう。黙如と同じ、クソ坊主よ。荒れ寺を一人で守っておる、泉岳と申します」とおどけてみせる。
お寺の住職、ということは滅苦の父親だろうか。でも僕らの目の前にあるのは、滅苦の両親のお墓だという。僕は何だかわけがわからず、美蘭の方を見た。彼女は「黙ってろ」という視線を送ってよこし、「どんなお寺か見てみたいわ。少しだけお邪魔していいですか?」と、はしゃいだ声を上げた。
「では一足先に戻って、座敷を暖めておくよ。あまり冷えすぎないうちに来るんだぞ」
彼はそう言って軽く手を振ると、元来た道を戻っていった。その姿が見えなくなった途端に、美蘭は「どういう事?」と黙如に問いかける。
「滅苦はお寺の子だって聞いてたけど、あの人は滅苦のお父さんじゃないよね」
「まあ、そう。つまり」
黙如は上を向いたり下を向いたり、落ち着かない様子だったけど、一つ溜息をついてから「滅苦がお寺の子ってのは、嘘だ」と言った」。
「滅苦って名前も?」
「いや、名前は本当。名付け親はあの住職なんで、お寺の子って話にまとめたけど、実は農家の子だ」
美蘭も黙如もお互いの顔は見ず、冷たく静まった墓石の方を向いたまま話をしている。
「あの原発事故が起きて、この村の人たちは全員避難することになった。滅苦の家族は県内の避難所をあちこち移って、最後にようやく千葉の親戚の近所に落ち着いた。
ここの避難勧告が解除されたのはそれから三年後だ。その間に、おじいさんは認知症が進んで施設に入ることになったし、おばあさんは足を悪くして出歩けなくなった。それでも両親は滅苦を千葉に残したまま、村に帰って農業を再開した。とにかく誰かがやらないと、何も始まらないからって。
もちろん、事はそう簡単じゃなかったけど、二人は頑張ったよ。彼らの他にも村へ戻った人たちはいたし、千葉にいた時に知り合ったボランティアも、農作業を手伝ったり、あちこちのイベントでこの村の作物は安全ですってアピールしたり、熱心に応援してたからね。
そうやって地道に努力を続けるうちに、色んなことが少しずつ動き始めた。ニュースやなんかで紹介されたり、即売会で野菜を売る機会が増えたり。だから、彼らを支えていたボランティアの人たちはもう大丈夫だろうと考えて、活動は下火になっていった。
でも、村の人は一部しか戻っていないし、学校も診療所も再開できないままだ。ある角度から見れば村は元に戻り始めていたけれど、見方を変えれば解決していない問題だらけだった。でもボランティアの目標は農業の再開を応援する事であって、行政の問題は管轄外だったんだ。
そうやって、村にいる人たちと、外から応援してる人たちの間に少しずつ距離が開いて、それはある日、決定的になった。
毎年秋の連休にやっていた収穫祭のイベントがあってね、滅苦の両親はボランティアのメンバーに声をかけて招いたんだ。みんなは「楽しみにしてます」とか答えてたらしいけど、実のところは、誰かが行くだろう、でも自分は別の用事もあるし、ちょっと今回はパスかな、なんて考えていたんだ。
でも滅苦の両親はみんなが来るだろうと思って、ごちそうを準備して待っていた。ところがいつまで待っても、誰も来ない。何かあったのかとメールすると「ごめんなさい、ちょっと都合がつかなくて。でも来年は絶対」なんて返事ばかりが来る。
気の滅入る話だよな。なんだよお前ら、来ないなら最初からそう言えよ、バカヤロー。それくらい怒ってもよかったかもしれない。でも滅苦の両親は誰にも文句を言わず、わかりました、また次の機会はよろしく、なんて答えていたんだ。
そんな中でたった一人、みんな盛り上がってるかな、なんて呑気に考えながら、すっかり暗くなった頃に訪ねていった奴がいた。でも家の明かりは消えて、人の気配がない。不思議に思って誰かいないか探してみると、ガレージに停めた車のエンジンがかかったままだ。切り忘れかと思って中をのぞいたら、滅苦の両親がいた。二人は排ガスをを引き込んで自殺を図ってたんだ」
「滅苦がいるのに?あの子を残して?」
「これは俺の考えだけど、二人はどこかおかしくなっていたんだと思う。疲れました、ごめんなさいって、台所のホワイトボードにそれだけ書いてあったらしい。幸い、発見が早かったおかげで、お母さんは命を取り留めた。でも意識は戻らなくて、郡山の病院に入院することになった」
「滅苦は?」
「すぐに親戚と一緒に村に戻ったよ。でも斎場の都合がつかなくて、お父さんのお葬式は隣町で出すしかなかった。その後でまた色んな事が起きたんだ。両親のどっちが死のうと言い出したかで、互いの親戚の争いになったり。そこにお金や介護の問題なんかも絡んでね。
泉岳さん、さっき会ったお寺の住職も何とかとりなそうとはしたけど、一度こじれたものは簡単に戻らない。それで、滅苦をこれ以上親戚にあずけておくのはよくないからって、回り回ってうちのお寺に来たんだよね。
俺と初めて会った時の滅苦は、とにかく大人しかった。すごくいい子で礼儀正しくて、行儀もいいし、学校にもちゃんと行く。要するに、全く心を開いてない距離感だったなあ。打ち解けてたのは猫のソモサンとセッパだけだもん。
それでもどうにか冬が過ぎて、三月の初めだったな。お母さんの容態が急変したんだ。もう時間の問題だって連絡があってね。詳しい病状は伏せたままで、俺が郡山の病院まで送ってくことになったんだけど、ふだんあれだけ大人しい滅苦が、まるで別人みたいになってさ。一昨日のあんな感じがもっと激しくなった、というか」
「錯乱状態」
美蘭が乾いた声でそう言うと、黙如も「錯乱状態」と繰り返した。
「お母さんが死んじゃう。そんなの嫌だ、絶対嫌だって、椅子投げたり本棚倒したり荒れ狂ってさ。何かが憑りついたのかと本気で思う程で、俺はすっかりうろたえてしまった。そしたらお寺の宇多子さんが、こりゃもう笹目さんに頼むしかないって言い出したんだ。あの人は偉い拝み屋だから、きっと何とかしてくれるって」
「笹目は偉くなんかないけど」
「でも実際のところ、何とかしてくれたよ。宇多子さんに呼ばれてきた笹目さんは、俺が取り押さえてる滅苦を見るなり、さて住職、あんたはどうしたい?ってたずねた。俺としてはとにかくあの子を落ち着かせてほしかったんで、そう頼んだよ。
でも笹目さんが言うには、滅苦は普通じゃないほどの怒りや悲しみを溜め込んでいるから、このまま落ち着かせるなんて無理な話で、やるとしたら記憶を塗り替えるしかないって。
いきなりそんな事言われても、俺は半信半疑だった。本当の記憶を封じ込めて、新しい記憶を吹き込むだなんて、まるでパソコンのファイルの上書きじゃないか。でも他にあてはないし、滅苦をずっと押さえ続けてるわけにもいかなくて、俺はその、記憶の塗り替えってやつをお願いしたよ」
「なるほどね、笹目はずいぶんと手の込んだことをやったんだ」
「仕事に取りかかる前に、笹目さんはこう言った。住職、嘘ってのは見えないものだが、けっこうな目方がある。その重さをあんたはこれから何年も背負うんだからねって。俺はただ頷くしかなかった。そして笹目さんは本当に滅苦の記憶を塗り替えてしまった。どんな事をしたのかは判らないけど、とにかくうまく行ったよ」
「その間に、滅苦のお母さんは亡くなったわけね」
「ああ。でも俺は後悔してない。だって滅苦はすごく元気になったし、ずっと幸せそうだから。お父さんとお母さんだってきっと、あの子にそうあってほしいと願うはずだ」
黙如は墓石に向かって合掌し、軽く一礼してから、妙に明るい調子で「冷えてきたな。そろそろ行こうか」と、踵を返して歩きはじめた。確かにここは寒いな、と思いながらその後に続いた僕の背中に、美蘭がそっと指先で触れた。
警戒して振り向くと、その手はすぐに引っ込み、美蘭はそっぽを向いたまま「本当にいるのか、確かめただけ」と言った。
僕は本当にいるんだろうか。
小さい頃に死にかけて助かったなんてのは嘘で、とうの昔に死んでいて、美蘭の記憶の中にいるだけじゃないんだろうか。
16 この人たちから奪えるもの
「よかったらこれも持っていきなさい。途中で腹も空くだろうし」
泉岳さんはそう言いながら、一口羊羹と干し芋をこたつの上に並べた。
「これ以上もらったら、和尚さんの分がなくなるわ」
普段は死ぬほどがめついのに、美蘭は取り澄ました様子で「お気持ちだけいただいて」なんて言葉を返している。
墓地の帰り道に寄った村で唯一のお寺、石油ストーブが赤々と燃える部屋でこたつにあたりながら、知り合いであるはずの泉岳さんと黙如は互いの近況報告すらせず、この冬は雪が少ないけれど、春先にどかっと降るかもしれない、なんて話をしている。
そして泉岳さんは僕と美蘭にお茶やお菓子を勧めながら、学校はどうだとか将来は何になるのだとか、そんな質問ばかりしてきた。
「大学は法学部に進むんですけど、何かボランティアをしたいんです。法律の知識が無くて困ってる人をサポートするとか」なんて、美蘭は口から出まかせもいいとこ。なのに泉岳さんは「そりゃ頼もしい」とか、すっかり騙されている。でもまあ、おかげで僕はほとんど発言しなくてよかったけど。
とはいえ、僕らにはあまり時間がなくて、ものの半時間ほどこたつにあたっただけで、黙如は「そろそろ引き上げないと」と立ち上がった。
外は日が落ちたばかりで、辺りは目に見える速さで暗くなっていた。風は強まり、わずかに明るい西の空を、ちぎれた雲が幾つか流されてゆく。
泉岳さんは僕らを見送りに出て来ると「あんたら、五月の連休の頃にまた来なさい。冬場はこんな調子で寂しいとこだが、春は本当に素晴らしいから」と言った。
「春も素敵でしょうけど、今だっていいところだと思います。どうも、ごちそうさまでした」
そう言った美蘭に続いて、僕も「お邪魔しました」とだけ挨拶して車に乗る。黙如はやっぱり「それじゃ」ぐらいしか言わず、頭だけ下げると、慌ただしく車を出した。
バックミラーの中に遠ざかるお寺の門と、その前で手を振る泉岳さんの姿が見えなくなった頃、後部座席の美蘭は「ねえ、ちょっと寄り道したいんだけど」と黙如に呼びかけた。
「寄り道?」と答えたのとほぼ同時に、彼は突然ブレーキを踏み、僕らは皆、前につんのめった。
「何よもう!いきなり停まれって言ってないでしょ!」
「いや、これはまずいな」
そう言った黙如の視線の先、車のライトが照らし出す光の輪の中に、奇妙なものが動いていた。一瞬、野良犬かと思ったけど、それにしては妙に大きくて分厚い。
「イノシシだ」
言われてみると確かにその通りで、大小とりまぜて五、六頭いる。そいつらが立ち塞がり、一斉にこちらを睨んでいるのだ。背中の毛を逆立てて、明らかに威嚇している。
「亜蘭、トランク開けて」
それだけ言うと、美蘭は後ろから身を乗り出し、黙如に目隠しした。
「黙如さん、後ろの正面誰だ?」
もちろん彼は何も答えない。僕はその隙に運転席へ手を伸ばし、トランクを開ける。
美蘭は目隠しを続けたまま、短い口笛を吹いた。
助手席から振り向くと、トランクの蓋がわずかに浮きあがるのが見えた。それは何度か揺れたかと思うと、ゆっくり持ち上がる。
がさがさと、トランクの中で何かが移動している気配が伝わってくる。美蘭の脇に座っていた猫のソモサンとセッパは、少しだけ警戒した様子で、耳をあちこちに向けながら低い姿勢をとった。
やがてトランクの蓋は静かに降りて、何かが移動する気配も消える。その直後、車の前に立ち塞がっていたイノシシたちに変化が起こった。僕らの乗った車ではなく、他のものに気をとられている。それは小さく黒い影で、イノシシたちを囲むようにじわじわと近づいて行く。
黒い影の正体は、ここへ来る途中で積み込んだハクビシンの群れだ。
美蘭の唇から再び、高く細い口笛が流れると、イノシシを囲んでいたハクビシンはいっせいにその距離を詰めて飛びかかり、あちこちに噛みついた。イノシシも怒り狂って反撃するけれど、小回りのきくハクビシンは素早くそれをかわして、また次の攻撃に移るのだった。
「あの子たちが頑張ってるうちに車を出して。滅苦の家に行く」
美蘭がそう耳打ちすると、黙如は車を発進させた。イノシシたちを避けて急ハンドルを切ると、アクセルを踏み込む。バックミラーの中では、イノシシとハクビシンがもつれあったまま、脇の田んぼへと移動してゆく。
「放っといていいの?」
「大丈夫よ。あの子たちお利口だもの。適当なとこで切り上げるわ」
美蘭は何事もなかったかのようにシートに身を沈めると、傍らのセッパを抱き上げ、自分を落ち着かせるかのように何度か撫でた。
五分も走らないうちに、僕らの乗った車は村の外れにある家の前で停まった。建てられて半世紀は経過しているであろう、二階建ての大きな母屋と、物干し場をはさんだ先にある土壁の納屋。真っ暗で人の気配はなく、少し離れた街灯の青白い光だけがその輪郭を浮かび上がらせている。
美蘭は車を降りると、母屋の方へと歩いていった。黙如も無言で続き、僕もその後をついて行く。美蘭は玄関の鍵がかかっている事を確かめると、こんどは家の周囲を歩き始める。軒下に停められた子供用自転車には「河合滅苦」とマジックで書かれていた。
「今は誰も住んでないのね」
暗い窓を見上げた美蘭がそう言うと、黙如は「たまに泉岳さんが風を通しに来てる」と言った。
「でも、家ってのは人が住まないとどんどん傷んでしまう」
「そうね。それに、ほら」
美蘭が指さしたのは、家の裏手にある台所の窓だった。誰かが割ろうとしたらしく、錠の近くにひびが入っている。
「泉岳さんの言ってた通りだな」
黙如はガラスのひびを指先でなぞりながら「もうこれ以上、この人たちから奪えるものなんかないのに」と呟いた。
「ここにいつか、滅苦は帰ってくるの?」
気がつくと、僕はそう質問していた。黙如はガラスから手を離すとゆっくりこちらを向き、「いつかはね」と答える。
僕はまた、自分の中を通り抜けていったあの、重苦しいものの感覚を思い出していた。刺すように冷たいのと同時に焼けるように熱い、どうしようもない絶望の塊。とたんに全身から冷や汗が出て、息が荒くなる。駄目だ、考えては。
暗闇に顔をそらし、溢れてきた涙をこっそりと拭う。僕の深い吐息は街灯の明かりをうけ、冷え切った夜の中を人魂みたいに漂ってゆく。
「来たわ」
美蘭の声で僕は我に返った。彼女の視線の先には、こちらへと歩いてくるハクビシンの群れがいる。見たところ一頭も欠けず、イノシシをまいてきたようだ。彼らは美蘭の短い口笛に答えるように、その足元に集結する。そんなものを見ても黙如が何も言わないのは、きっとまだ「目隠し」されたままだからだ。
もう一度美蘭が口笛を吹くと、一番大きなハクビシンの耳からスズメバチが顔を覗かせた。
「今日からお前たちはここに住むのよ。この家に害をなすものは、それが何であろうと決して近づけては駄目。そしてあの子が戻ってくるまで、これを守りなさい」
そう言って美蘭がライダージャケットの胸元から取り出したのは、麻紐で編んだ小さな袋だった。中に何か白いものが入っている。
「何それ?」
思わず覗き込むと、美蘭は面倒くさそうに「あんたがやらかした奴よ。滅苦の記憶。笹目の白蛇が呑み込んで卵に封じたの」と答える。白蛇と聞いて、僕は反射的に後ずさりしていた。
「あのまま猫のセッパが背負ってくれてたら、まっすぐ東京に戻れたのに。あんたのおかげでとんだ遠回りよ」
滅苦の記憶をセッパに背負わせるのと、白蛇の卵に封じるのと。どっちがどうだか僕にはいま一つよく判らないけど、とにかく今はこの卵をしかるべき場所に収める必要があるらしくて、美蘭はまた家の周りをゆっくりと歩き始めた。
後に続くのはハクビシンの群れと、黙如と僕。彼女は腰をかがめ、落とし物でも探すように地面のあたりに視線を投げていたけれど、「ここだ」と呟いてしゃがみ込んだ。
僕らはいつの間にか母屋をほぼ一周して、南向きの縁側まで来ていた。美蘭が「おいで」と声をかけると、一番大きなハクビシンが彼女の傍へと歩み寄る。よくあんなの近寄らせるよ、なんて僕の呆れた気持ちは伝わるはずもなく、美蘭は手にした袋を小さな獣の鼻面へ持っていった。
ハクビシンは大人しく袋をくわえると、縁の下へつるりと消えた。美蘭はその空間を覗き込んだまま「そうね、そこの石の上に置きなさい」と命じる。僕らにはただの暗闇だけど、美蘭の左目には全てが見えているのだ。
一度だけ闇の中でハクビシンの目が光り、奴はそれからまた這い出してくる。美蘭は「いい子ね。じゃあ頼んだわよ」と言うと立ち上がり、宙に向かって腕を伸ばす。その指先に、ハクビシンの耳から這い出してきたスズメバチが飛んできてとまった。
「お行き。後で仲間を送るから」
彼女がそう言って軽く息を吹きかけると、スズメバチは低い羽音をたてて浮かび、僕らの頭上を一度だけ大きく旋回してからどこかへ飛び去った。
「これでとりあえず片づいたって事ね。ここからは私が運転するわ」
そう言って美蘭は足早に車へ戻り、僕と黙如が乗るのも待たずにエンジンをかけ、「男どもは後ろ」と宣言した。
急発進して方向を変えた車の窓ごしに、僕はもう一度滅苦の家を見る。あの真っ暗な家に、もう一度明かりが灯ることはあるんだろうか。僕の疑問なんかお構いなしに、美蘭はアクセルを深く踏み込み、主人を見送るかのように群れていたハクビシンたちの黒い影は一瞬で遠ざかった。
それから東京に戻るまで、美蘭のスピードの出し方は半端なかった。まるで何かに追われてるみたいに、とにかく前へ、前へと追い越しをかけてゆく。こんな強引な運転、黙如が許すわけないんだけど、彼はまだ「目隠し」されたままで、車に乗ってからずっと、猫と眠りこけているのだった。
右へ左へと繰り返す車線変更に振り回されながらも、僕は恐怖など感じてはいなかった。美蘭の左目には人間離れした動体視力があって、いま目の前にラクダが飛び出して来たとしても、余裕でかわせるからだ。ただ不思議なのは、何をそこまで急いでるかって事だった。
「トイレならサービスエリアにもあるけど」
とりあえずそう進言したけど、「はあ?」としか言われない。
「いや、なんか急いでるなと思って」
「早く小梅に会いたいの」
美蘭はそう言っただけで休憩も入れずに走り続け、次に口を開いたのは東京に戻り、東林寺に着いてからだった。
「私ここからタクシーで帰るから。車は返しといて」
そして僕は素直にレンタカーを返し、お腹が空いたので牛丼を食べたりしてから、美蘭と住んでいる古い洋館に戻った。日付なんてとっくに変わった後だ。
玄関には桜丸のスニーカーが脱いであった。僕らが留守にしていた間、小梅の世話をしに来てくれたのだ。
そしてもちろん美蘭も帰っている。でも家の中は静まり返っていた。
僕はとりあえず居間をのぞいてみた。冷え切って誰もいない、がらんとした空間。
キッチンも応接室も無人だし、ピアノとオーディオセットの置かれたアトリエも真っ暗。
そして僕はできるだけ足音をたてずに階段を上がり、美蘭の部屋の前に立った。彼女が起きてる時は、ドアの下から明かりが漏れてるけど、今はそれもない。
家の中は静かすぎて、外を走る自転車の、緩んだチェーンの音が聞こえてくるほどだ。一瞬、ドアに耳を押しあてて、中の物音を確かめたい気持ちになる。でもその一方、「何をうろちょろしてんのよ」と、美蘭が出て来そうな予感もして、僕は動けなかった。
それからすぐだったのか、ずいぶん経ってからなのか、僕は自分の部屋に戻り、枕元のスタンドだけつけて、着替えもせずベッドに寝転んでいた。
漆喰塗りの天井に映るぼんやりした影を眺めながら、美蘭と、彼女の傍にいるであろう桜丸の事を考える。そして二人と一緒にいる、三毛猫小梅の事も。
誰にも煩わされず、一人でいるのは快適なはずなのに、今はこの部屋にハクビシンが現れても歓迎してしまいそうだ。この世の全ては、何光年も隔てたように遠く離れていて。僕に一番近いのは、福島の山あいにひっそりと建つ、滅苦の家だった。
何だか、サバエに会いたい。
17 そういうわけじゃない
「おっかしいな。笹目さん、戻ってるってモナから聞いたのに」
サバエはそう言うと、雑居ビルにある占い部屋のドアにかけられた「準備中」の白い札を爪で弾いた。
「まあいいや、お寺に行けばいるかも」
彼女はほどけて来たマフラーを巻き直すと、急ぎ足で暗い廊下を戻り、ビルの外へと出た。風が刺すように冷たいけど、午後の空はきれいに晴れている。僕は彼女の後を追いながら、山形で笹目に会ったのは何日前だろうと考えてみる。
あの奇妙な弾丸ツアーはもう何か月も前に思えるけど、実のところ一週間もたってない。でもあれ以来、僕の中では何かが大きくずれたような感じがあって、もしかすると、前とは違う世界に戻ったんじゃないかと疑っている。
たとえば美蘭。
今までは何かにつけブチ切れると、殴る蹴る、とにかく手や足が出ていたのが、罵倒だとか嫌味だとか、その程度で終了。
たしかに僕としては楽なんだけど、不気味なのだ。美蘭がそんなに静かにしていられるはずがないから。
ここは前とは違う世界かもしれない。でもやっぱり同じ世界かもしれない。
その根拠は、相変わらずなサバエの身勝手さ。
今日だってこっちの都合も聞かずに呼び出しをかけて、最初は「ムーンドロップスのお正月限定パフェ食べたい」だったのが、いざ店に行ってみたら整理券は配り終わられていて、「だったらチタチムで天国の七枚重ねパンケーキにしよう」と移動して行列に並び、いざ席についたところで「やっぱブタになるから焼きリンゴのガレットにする。でも写真は撮りたいからパンケーキは亜蘭が食べてね」となり、「そうだ、笹目さんとこ行かなきゃ」となったのだ。
雑居ビルからの最短ルートを通り、僕らは東林寺の門をくぐった。勝手は判っているので本堂の脇から墓地へと回る。参拝客は誰もいなくて、青空の下に並ぶ墓石はどこかの国の衛兵みたいに直立不動だ。僕はふいに、滅苦の両親が眠る山あいの墓地の、静まり返った様子を思い出していた。
うっそうと繁る木立と、根雪の残る黒い地面と、森の匂いを重く含んだ冷気。
「あれ?ここも鍵かかってる」
気がつくと、先に進んでいたサバエが、離れに通じる木戸の取手を揺すっていた。
「引っかかってるだけじゃない?」
代わりにやってみたけど、やはり施錠されているらしく、開く気配もない。ふだんは留守でも離れの玄関までは行けるはずなのに。
「今日はもう諦めたら?そんなに急いで笹目に会う必要ないよね」
僕がそう言うと、サバエは「本気でそう思ってる?」と切り返してきた。
「そう、思ってる、けど」
何だろう。不穏な気配。
僕は慌てて頭の中をかき回し、この前サバエに会った時のことを思い出そうとしたけれど、何だかもう輪郭がぼやけている。そう、たしか彼女の家に行って、偶然にも真柚がいて・・・
「私さあ、笹目さんに確かめてから、答えを出そうと思ってたんだ」
「答えって、何の?」
「亜蘭とお別れするかどうか」
それは待ち望んでいた言葉、のはずだったけれど、いざ本当に言われてみると、僕の心は奇妙にざわついた。サバエは木戸に背を向け、墓地の方に視線を投げかけたまま「だって亜蘭、真柚ちゃんの方が好きなんだよね」と言った。
そうだよ。ここでそう返事すれば、また心穏やかな生活に戻ることができる。なのに僕は「そういうわけじゃない」と答えていた。
「そういうわけじゃない」
サバエは僕と同じ口調で繰り返す。
「じゃあどういうわけで、今日一緒に来てくれたの?」
「きみに会いに」
「だからさ、どうして私に会いにきたの?」
僕はその答えを言えなかった。というのも、鍵のかかっているはずの木戸が突然、わずかに開いたからだ。
「ちょっと、そこでダラダラ会話されるとすっごい迷惑なんだけど」
隙間から顔を覗かせたのは美蘭だった。
「んえっ!?」と声を上げたサバエを制するように、美蘭は「入るんなら早くして」とせかした。
「なんで?なんで?美蘭も笹目さんに会いに来たの?」
「説明は後。坊主に見つかると面倒だから」
言われるままにサバエと僕は木戸を抜け、美蘭はすぐさま鍵をかける。まるで泥棒にでも入るような足取りで、僕らは離れへと向かった。
予想に反して、離れの玄関に鍵はかかっていなかった。いつも寝そべっているブチの姿はなく、アルミの水入れも見当たらない。
「もしかしてだけど、笹目さん中で倒れてるんじゃない?」
いちばん後ろにいるサバエが首だけ伸ばしてそう言うと、美蘭は「だったら嬉しいけどね」と、座敷へ続く引き戸を開ける。でもそこはもぬけの殻だった。
あれだけあったゴミと区別のつかないガラクタや、その真ん中に埋もれかけていたこたつ、全てが消えて、傷んだ畳だけが浮き上がって見える。美蘭に続いて中に入ると、奥の六畳も台所も、きれいさっぱり空になっていた。
「何これ、いきなり引越し?この家、けっこう広かったんだね」
呆れたように呟きながら、サバエは腕を広げて一回転する。それを横目に、美蘭は六畳間の押し入れを開け、中を覗き込んでいる。どうやら彼女がここに来た目的があるらしい。
気づかれないように美蘭のそばへ行くと、目の前にいきなり、長くて白っぽいものが垂れ下がった。
それが何か確かめる前に僕は飛び退いていて、美蘭は高笑いしながら、「ビビり過ぎ」と手にした物体を振った。ひらひらと揺れているのは蛇の抜け殻で、長さからすると笹目の一番のお気に入り、例の白蛇のものらしい。
美蘭の笑い声に引き寄せられて、サバエが「何それ?ビニール?」と身を乗り出してくるので、僕は「蛇だよ、蛇の抜け殻」と忠告してやった。
「抜け殻?蛇って、セミみたいに幼虫から脱皮して大人になるわけ?」
蛇だと言われて臆する様子もなく、サバエは美蘭が手にしている抜け殻に触れる。僕はもう見ているだけで全身に鳥肌が立ってきて、台所まで後ずさりした。
「蛇は生まれた時から同じ格好だけどさ、身体が大きくなるたびに脱皮するのよ」
美蘭は「ねえサバエちゃん、ここちょっとよく見て」と言いながら、彼女に抜け殻を手渡した。
「文字が浮き出てるの、わかるでしょ?」
「文字?うっそ、どこどこ?何て書いてあるの?」
よく見ようとサバエが抜け殻に顔を近づけたところで、美蘭は彼女の背後に回り込むと両手で目隠しした。
「サバエちゃん、後ろの正面誰だ?」
乾いた音をたてて抜け殻が畳の上に落ちる。
美蘭はサバエの耳元に唇を寄せると「あんたの通ってた占い師は笹目じゃない。タロットカードを使うロミって名の女で、やまけん様の通りにある占い横丁で七のつく日に仕事をしてる」と囁いた。
「それ、笹目に頼まれたの?」
つい僕がそう聞いても、美蘭は返事などしない。
「話はそれだけよ。後ろの正面には誰もいなかったから」
美蘭が目隠しをやめると、サバエは「あ、落としちゃった。ごめんなさい」と屈んで抜け殻を拾い上げた。
「大丈夫よ。じゃ、そろそろ行こうか」と、美蘭はサバエから受け取った抜け殻を手早く巻き取り、笹目が一緒に置いていったらしい寄木細工の箱にしまうと鞄に放り込んだ。
なぜ笹目はいきなり消えたのか。
一番の理由は僕と美蘭だろう。夜久野一族は互いのことが大嫌いだから、居場所を知られただけでも不愉快なのに、湯治先の温泉まで押し掛けられたのが我慢ならなかったに違いない。
まあ僕だって、笹目はもちろん、彼女の操る蛇なんか一生関わらずに過ごしたいと思ってるから、この状況は大歓迎だ。
せいせいした気分で墓地の脇から本堂へ向かう小道を歩いていると、先をゆく美蘭とサバエの悲鳴みたいな笑い声が聞こえてきた。
「ヤバいヤバい」と連呼しているのはサバエで、美蘭はその横ですかしたような笑みを浮かべている。二人のそばには学校帰りらしい制服姿の滅苦がいて、僕に気づくと「亜蘭さんもご一緒でしたか」と、にこやかに声をかけてきた。
「亜蘭、ヤバいよ。ヤバ過ぎ。黙如さん結婚するんだって!なんか急すぎるのは、もしかしてデキ婚?」
サバエの剛速球に引き気味の滅苦は「いえ、あの、宇多子さんが辞めちゃうんです。息子さんが伊豆でやってる食堂を手伝いたいからって。それで、新しい人を探さないとって話になったら、黙如さんがいきなり、じゃあ俺、結婚しちゃおうかな、って」と、説明した。
「何、その軽いノリ」と美蘭は失笑し、サバエは「なんて言ってプロポーズしたんだろうね。指輪とかは?見せてもらった?奥さんになる人きれい?」とぐいぐい食いついている。
「黙如さんは今日の五時から坊主カフェですから、詳しいことは直接きいてみて下さい」
「わかった、ぜったい後で行く。でもさ、なんで亜蘭は少しも驚かないの?」
「だって、こないだ山形に行った時に、婚約してる人がいるとか言ってたし」
僕は綾さんの住む傾いた部屋と、彼女の膝の心地よさを思い浮かべる。
「はあ?山形?何それ」
突っ込んできたのは美蘭だった。彼女は心底うさんくさい、といった目つきで僕を見ると「出たよこいつの白昼夢が」と言った。
「亜蘭さんの白昼夢、って何ですか?」
「あれよ、夢ん中の出来事と現実がごっちゃになってんの。嘘つきは自分で嘘ついてるって自覚あるけどさ、こいつは本気で思い込むから始末が悪いのよ」
「でも、山形は滅苦も行ったし、温泉でお年寄りに大人気だったよね」
「まさか!温泉どころか、僕と黙如さんは先週、インフルエンザで三日も寝込んでたんですよ。黙如さんなんか、記憶飛んでるんだよね、とか言ってます」
「それって、熱が高すぎて頭がどうにかなっちゃったの?」
「あの人はさ、たぶん元から脳の回線に不具合あるのよ」
滅苦とサバエ、そして美蘭の会話がとても遠くに聞こえる。
僕はやっぱり山形から福島経由で、別の世界に戻ってきたんだろうか。一体どこが境界線だったんだろう。
何だか眩暈というか耳鳴りがしてきた、と思ったら、虫の羽音だ。僕の頬をかすめるようにスズメバチが飛んでいる。奴はそのまま僕の頭にとまると、髪に潜り込んで左耳の後ろまできた。
「こんど山形の話したら、ベッドに蛇入れるからね」
スズメバチは美蘭の苛立った声を伝えてくる。
「せっかく笹目が全部消したのに、なんで判んないのよ」
「消した?笹目が?」
僕のほとんど声にならない言葉を、スズメバチは拾って美蘭に伝える。傍目には馬鹿話で盛り上がるふりをしながら、美蘭は「だから、笹目なんて最初っからいなかったって事。雑居ビルで占いやってるだとか、お寺の離れにブチ犬と住んでるだとか、そんなババアはいなかったの。滅苦の記憶を封じたのはヒーラーの九重さんて人だからね」と言葉を送ってきた。
「とにかく、こっちは後片付けだけでもうんざりしてるんだから、これ以上邪魔しないでくれる?」
「後片付けって、いくらもらったの?蛇の抜け殻だけってはずないよね」
「さあね。あんたに教える筋合いないし」
美蘭の言葉が途切れると同時に、スズメバチは僕の耳元を離れてふわりと浮かび、冬の空へ吸い込まれていった。
「亜蘭さん、猫見ていきませんか?」
滅苦の声で僕は我に返る。
「猫って、ソモサンとセッパはもう何度も見てるけど」
「そうじゃなくて、新しいニャンコがいるんだってよ。黙如さんのフィアンセが飼ってるニャンコ!」
フィアンセ、をことさら強調しながら、サバエはもう軒先で靴を脱いでいる。美蘭は「よその猫の匂いつけて帰ると、小梅が不機嫌になるから」と、あっさり消えてしまった。
仕方なくサバエたちについて行くと、座敷の隅にキャリーケースが置かれている。
「ソモサンやセッパと仲良くできるかどうか、昨日からお見合いしてるんです」と言いながら、滅苦はキャリーケースを開けて声をかけた。
「ジャコ、出てきてみんなに挨拶しようよ」
とはいえ、猫が出て来る気配はない。慣れない場所で当然のリアクションだけど、サバエは「亜蘭が声掛けたらぜったい出てくるよ」と、僕の腕を引っ張った。
でも、中にいるジャコの正体は、サバエが捨てたミント一号。こんなところで再会しても大丈夫なんだろうか。ためらいながらキャリーケースを覗き込むと、奥にへばりつくようにして、こちらを睨んでいる猫には縞模様があった。
「気をつけて下さいね。黙如さんは今朝引っ掻かれましたから」
そりゃ当然だろう。中にいるのは野良のキジトラなんだから。でもどうしてこいつがジャコで、ロシアンブルーのミント一号がいないのか?正解は猫に聞くしかない。
キャリーケースの奥へ腕を伸ばすと即座に前足が飛び、爪が食い込む。まあ、美蘭の暴力に比べたら軽いご挨拶ってことで受け流し、僕はキジトラを抱きとって記憶を探ってみる。
古いアパートのそばの駐車場。ゴミ箱、残飯。雨でふやけたキャットフード。雀、寒さ、暖かい場所。
次々と浮かんでは薄れてゆく、空間と匂いと音の記憶。警戒と安心。飢えと渇きと、自分で捕らえた獲物の、命が溢れる味。雨がヒゲを湿らせ、冬の日差しが毛皮を暖める。そして僕はモザイクのような断片の中に、知っている匂いを嗅ぎわけた。
美蘭。
別に不思議ではない。僕の操るキジトラは美蘭と一度戦っているから。でもそれとは別に、彼女が親猫の使う優しい声で何やら話しかけたり、とびきりいい匂いの餌をくれたり、そんな記憶が残っている。
きっと、美蘭がキジトラを捕まえて、綾さんのところにいたジャコ、ことミント一号とすり替えたのだ。ご丁寧に去勢までして。そして綾さんの記憶は笹目が細工し、ロシアンブルーのミント一号は美蘭のもの。転売して稼ぐに違いない。結局、美蘭のひとり勝ちだ。
「亜蘭、手は大丈夫?」
「手?なんで?」
「なんでって、さっきニャンコに引っかかれたじゃない。血が出てたし」
「別に何ともないよ」
明かりの灯った街を、僕とサバエは並んで歩いていた。空はわずかに青味を残しているけれど、じき夜の色に染まるだろう。僕らの目的地は坊主カフェ。電撃婚の黙如への質問をあれこれ考えているのか、サバエの口数が妙に少ない。
まあその方がいいか。
無理やり絞り出しでもしない限り、話すことなんて思いつかない僕は、黙って歩き続ける。ただ、あんまり早く歩き過ぎないように、気をつけるけど。
「私、やっぱり決めたよ」
「決めたって、何を?」
「亜蘭とつきあうのを、続ける」
ふーん。
正直な気持ちはそうだったけど、僕の中の多少は社会的な部分が、それを口にするなと告げていた。だから敢えて何も答えずにおく。
「初めて会った時のこと憶えてる?」
僕にはこの手の質問がいちばん難しい。でも返事は不要だったらしくて、サバエは一人で話し続けた。
「ミントがシューズラックの下に隠れちゃって、それを亜蘭が引っ張り出したでしょ?あの時も手を引っかかれて血が出てたよね。でも亜蘭は怒ったりしてなくて、優しい人なんだなって思った。だからつきあってって言ったんだよ」
そうだっけ。
これも言うべきではなさそう。僕は黙ってサバエの言葉を待った。
「でもこないだからさ、亜蘭もきっと真柚ちゃんの方が好きなんだろうと思って、自分からお別れしようって考えてたんだけど、さっき亜蘭が手を引っかかれても怒らないの見てたら、やっぱりそういうとこが好きだと思ったの」
気がつくと僕の心臓は猫並みの速度で打っている。サバエはまっすぐ前を向いたまま、「亜蘭はそれでも嫌じゃないかな」と言った。
「嫌、じゃ、ない」
まるで他人の声みたいに聞こえるけど、やっぱり僕の声がそう返事する。多少、裏返り気味で。
「それはどうして?」
だからさ、と僕は思う。それこそどうして、あれこれ理由が必要なんだ。でも意外なことに、答えは簡単に出てきた。
「きみのこと好きだから」
ふう、と大きく息を吐き、「よかった」と呟く声が聞こえる。
そして僕は思う。やっぱりここは前とは別の世界だ。彼女が僕を、僕が彼女を好きな世界。
その見知らぬ世界を迷わず歩いてゆくために、僕はとりあえず彼女と手をつないでおくことにした。
冬景色銀猫取替譚(ふゆげしきぎんねことりかえたん)