深夜の学校

土井留ポウ

深夜の学校

海野十三著『深夜の市長』を読み、その聞きなれない名詞の頻出に次元の違う想像世界を垣間見て、その着想を元にこの作品が出来上がりました。『深夜の市長』もまた奇抜な着想が溢れていて、大変面白いですよ。

 共同住居の住民が寝静まった頃、僕は寝床から這い出す。
 そっと、部屋から抜け出して台所に行く。電気パン焼き器から飛び出たトーストに『アノーレ』を塗ってそれを喰べ、また作ってはそれを喰べた。そして水で薄めた『輝き』を飲み干した。それから『摩九羅連』の真っ黒な外套を着て、頬まで覆い尽くす二股ディクスン帽を深々と被り、身支度を整えて、用心しながら玄関の扉を開けた。
 時刻は十二時過ぎ。水のような静けさに包まれた共同住宅のドームを後にする。無音の夜の膜に捉えられて街路の樹木もそよがず静止している。宙空で連なるグリーン残灯、通称『煮汁』の弱々しい光が路面を導いてくれている。首を回して鼻から思う存分息を吸い込み、この静かな夜を堪能する。その時『煮汁』のおぼろな彼方から人影が浮かび上がる。夜の膜を纏わせながら、はっ、はっ、と荒い息遣い。『オンブズマン』だ。これはおあつらえだ。僕はこの雲助を呼び止めた。
「坊ちゃん、お供しやしょう」
 そう言うと雲助は片膝をついて、今にも飛び立とうとする鳥の格好で僕を促した。動きやすい紅白縞のレオタード、目深に被った学生帽。
「うん頼むぞ。……中学校の方まで行ってくれ」
「へえ。どうぞ。……ところで学校はクリスピー横町の方ですかい?」
「川向こうだ」
「川向こうというと、豆柴の方ですかい?それとも丸乾酪の方ですかい?」
「とりあえず ホーンオブユニコーン橋を越えた所で降ろしてくれたまえ」
「へえ。もっと先まで行きましてもよろしゅうございますが……へへえ、お楽しみでさね……」
「ふふん、いらない詮索はごめんだぜ」
 適度な贅肉によるクッションに身を委ねた僕は、雲助の荒い息遣いを耳元で聞きながら、今晩の授業科目を思い出していた。物事の根幹に関わる基礎、様々に別々の領域を横断する系列、そう言ったもの全般を言語化する概念、一体こう言った勉強を現実にどのように働き掛けるかと言う応用、などを幾分汗の滲み出してきた雲助の背中の上で考えていた。しかし、結局後に述べるような突発事件のために、折角の予習も徒労に帰してしまった。とは言え、この僕の日課であった『学校』の授業科目において宿題やテストの点数というのものは存在し得ないばかりか、そもそも授業科目自体がその予習通りに行われるかどうかが、僕自身にもその時にならなければ分からない甚だ不明確なものだったので、予習が徒労に帰するのはよくよく考えると結構な頻度で行われていたのである。そうすると、翻って思うに今まで学校に向かうまでの予習に何の意味があったのか、と思わざるを得ないのも事実だ。

 川を渡ったところで僕は降ろして貰った。二オルクスル硬貨を手渡すとこの雲助は恭しくその高強度タングステン貨幣を巾着にしまうと、十三ラプンツェル硬貨、つまり高純度銀貨をお釣りで寄越そうとしたが、僕は紳士然としてそれを固辞した。
「釣りは取っておいてくれ」
「へへえ……こりゃ有り難てえ。ところで坊ちゃん。今は定例委員会の開催中だったね?」
「委員会……そんなことは僕には何も関係がないね」
「全くだ。だがこの辺りでも風紀委員の姿を見掛けるぜ。掴まると連中は長くなっていけねえや」
「天気予報もほどほどにしてもらいたいところだよな」
「わけねえや。こちとら二足の草鞋なんだ。空気茶碗だよなって。アドバイザーやケンケンの話しなら他でやっとくんな、って言ってやったよ」
 雲助とかような世間話をして僕らは別れた。雲助は橋を引き返していく。はっ、はっ、はっ、と息を吐きながら、聞くところによると全く疲れないという雲助独特の一足毎に首を振る走法をして、『煮汁』の彼方に消えていった。どうやらケンケンに大分抑圧されているようだ。とは言え僕にはケンケンが何なのかさえ分からない。隠語が日々創出されているようだ。この界隈の連中とは適当な相槌さえ打っておけば、そのうち『今!?』の隠語が解されてくるだろう。彼らと対する時は何か頭に思い浮かんだ言葉を言っておけば会話は成立するのだから。

 深い拘泥の海に沈むグラウンドは月の光を浴びてさえ尚真っ黒だ。この月の光のみを吸収する黒糖の砂は陸上競技者から分泌される微弱な抜本的リンダミンの作用から解き放つとされ、ルイストン的な分解酵素とも刹那的な射出因子とも奇妙な一致が見られるという。あの跳ね上げ式エンジン時計のクラッチが瞬時開けられた音が上空でこだますると、恐らく今日で三度目の四速時間、古風で大時代な言い方をすると、『御帆貫垂藻、腰に寄り、甘臥船戸帆、墨干す頃』とでも言えよう。薬箱とも呼ばれた御帆貫垂藻の蛍雪に棹さすミョウガ敷き詰められた大豆櫓が想起される。思わず袋梅を手に取った甘臥船戸帆の一所に濃縮された段階的なかりそめの悲哀に思いを馳せる。
 今日の教科は歴史にするのもアリだ。僕は思った。ただ教室に入った途端にその気持ちが失せたのだった。あの幾千年の感慨が一片に吹き飛ばされたのも、『塗り絵』を、つまり気の滅入るあのいくじなしを認めたからだった。『塗り絵』のあの縮んだり、膨らんだりする、均質で画一的な動き。ちょっと白っぽい膜に包まれた熱くもなく冷たくもない、ぬるいやつ。椅子と机の間隙にぼんやりと浮かんでいる『塗り絵』どもはその外部からの認識において韜晦を旨とするが、たった一つきりその外部的な『誰か』に目も当てられない直視がなされてしまった大馬鹿だ。射貫かれた頭足類と言えよう。
「誰だ!」
 その時ロッカールームから怒号にも似た声が響き渡った。その大きなロッカーを開けてロッカールームから姿を現したのは間借り人であった。彼は賃貸借契約書を僕に見せて、又貸しの合法性を鋭く説くのである。私は又貸しの合法性に首肯し、法倫理よりはむしろ空間的な、いわば現実の隣人関係からそれとなく自らの立ち位置を伝えた。
「騒音規制からランアウェイが導かれるとお前は言うが、時代錯誤もいいことだ。置物感のことを言っているのは分かるが……」
 間借り人は首を捻る。
「もっぱら資源ゴミについてしか関心インテレッセを持たない手前勝手なマンショリスト!」
 思わず飛び出した僕の声は期せずして空気の軌道をカーブして間借り人の耳に届いくや否や間借り人の移ろいやすい感情の琴線に触れた。
「誰が生ゴミだって!?不摂生のエレベータリアンめ!」
 間借り人の激昂がその吐く息に覆われ二重の意味においてその連続と一致した時、ロッカールームからロッカーを激しくノックする音が聞こえてくる。その激しい連打に間借り人はにわかに震え上がった様子。その過剰、その度し難い音は、ロッカールームの奥の何処かのロッカーから響き渡るのである。間借り人はしばらく破滅の表情で眼を瞠りこちらを見て硬直していたが、ふっと視線を外すと盲目的な魚が排水溝に吸い込まれるように、後ろ手でロッカーを閉めた。
 僕はその閉じられたロッカーを見詰めていた。ロッカールーム内のドメスティックな事情に首を突っ込むのは得策とは言えないだろう。風紀委員か、あるいは放送部の仕事ではないだろうか。いずれ壁新聞に思い当たる仄めかしが散見されるであろう、と机と机の間の通路を抜けて、黒板の前の僕の席に座る。『歴史』、象徴的な特定の人物たちが織りなした権力争いや陰謀、その時代時代の推移から抽象される謎の物体、不可知の遺物について深い物思いに耽り、そこからある金属的でありながら非常に粘性を伴った性質を脳内で取り出すことに成功し、摂氏二十五度のぬるま湯でゆっくりと温め、そしてそれを浴槽になみなみと注ぎ入れ肉体にどのような影響を及ぼすかなどと計測しているところで、夜の帳に覆われ深い沈黙に満ちた教室内に悲鳴がこだまするのだった。

 何事だろう。僕は椅子から立ち上がり辺りを見渡した。ふっ、と『塗り絵』のいじけた収縮。僕の視線を当てられるとこいつは隠れん坊をしたそうに身を縮めるが『誰か』の認識において明確に実在のスポットライトを浴びせられている哀れなシマウマ、西半球の横縞地方から狩り出された馴致された飼育委員に轡を咬まされたとされるものと同一の状態だ。
 辺りは深い沈黙で満たされている。瞬時一石投じられ波紋を起こした夜の空気が再び沈殿し堆積して凝り固まってしまった。悲鳴が聞こえたのだ。あれは女のものだ。
 脳内細胞は二つの異なる動きを示している。片や悲鳴の所在と原因を探ろうとする動的流動、今ひとつはこのまま席に座り勉強をするという静的流動、二律背反する流れであるが、もっと大きな大局を見る上流部においては新しい流れによって在来の流れが阻害されているという根本に突き当たる。このままでは在来の流れが新しい支流によって明確にその量が 集中力の総量の一部が、失われることになるのである。僕は全ての事柄が完全な状態でないと事を始められないということに気付く。この不完全なたった一つの、例えるなら、誰かが開けたままにして帰った蛇口の栓を閉めることを余儀なくされたのだ。

 どうやら夜行教員である。薄暗い廊下に佇む女。海老服姿に臙脂のディーバイを穿いている。『砂時計』の弱々しい光がさっと僕の顔を舐めた。
「誰?」
「浮遊生徒です。何か悲鳴が聞こえたものですから……」
 この夜行教員の手には未だに湯気を立てているドンブラーが握られ、『えくぼ』の甘い匂いが僕の鼻に届いた。海老服は肩から掛けた格好で袖は通していなかった。
「貴方、何粘生?」
「三粘です」
「名前は?」
「不トド木です」
「不トド木君か。良い名前ね」
「一体全体どうしたのです?」
「これを見て」
 そう言って夜行教員は『砂時計』を足元に照らした。そこには白濁した液体。何処か頭がグラグラするような沈殿した重苦しい臭いが下から立ち上ってくる。
「……水鉄砲でしょうか?」
「多分そうね。まさにエキスだけ残して消失したようだわ。触らないほうがいいわ」
「事件ですね……」
 明らかにこれは『水鉄砲』によって揮発し、エキス部のみに化学変化した人間のものだ。エキス部のみが残っていることからこれは男性であろうと推察される。
「一体誰が……」
 僕はこのような殺人事件が現実に起こったことに動揺を隠せなかった。
「風紀委員に連絡は?」
「そこなのよ。不トド木君。あれを見て」
 そう言って『砂時計』を白濁した液体の少し向こうに翳す夜行教員。弱々しい光に浮かび上がったのは弓形型のコントロールバトン、通称『ジョイショック』である。風紀委員御用達の人を痛めつけるための道具だ。
「因果関係が分からないでしょ。表面的にこのまま風紀委員に連絡する方がいいのか……でもこの『ジョイショック』が気になってならないの」
「虎の尻穴に頭を突っ込んで図らずも尾っぽを握るっていう危険性ですね?」
「浮き世の夢も、姥蟹のあぶく、焼き茄子の心理って訳よ」

「あら?『尻子玉』じゃないの」
 ふと振り返ると弱々しい光を放つ『塗り絵』が佇んでいる。何かを伝えようともじもじとしている姿にはうんざりする。しかし珍しいことだ、このいくじなしが自ら進んで姿を現すとは。さっき教室にいたやつかもしれない。僕に付いてきたのか?
「この『尻子玉』は瞳に貫かれたようね」
「きっと『誰か』に貫かれたのでしょう」
「まるでいじめっ子に見つけられた糞の付いた『スケルティ』のようだわ。恥ずべきことよね」
「『スケルティ』なんて穿いているんですか?」
「昔の話よ」
 その時、この暗い廊下の奥から足音が聞こえてきた。カツン、カツン、とその何処か尊大で誰の家であってもノックもせず我が家のように土足で上がり込もうという、そんな落ち着き払った足音。風紀委員だ。僕らは咄嗟に物陰に、厳密には右手の階段の裏側に身を隠したのだった。
 足音は真っ直ぐとこちらに向かってくる。『蕾めるヴァーヴァラの副知事さん』なんかを鼻歌で唄って全く突如として現れてこんな調子だ。尊大に上がり込んできたかと思うと、家庭の食事を盗み見、不審な目つきで引き出しを開けるなどした後また何処へと標的を求めて彷徨っていく、あの風紀委員だ。あの鈴代わりの足音、例の迷える胞子少年と呼ばれたモモモ森サムティング分泌液学士が称するところの『隠蔽された減少しつつある陰嚢を掴む者たち』と言うのは正鵠を射ている。西半球随一の菜食主義者にして釣り将軍の異名を持つレッド・ルー・リー・レー鍋奉行閣下は彼らを『偶然に生き、偶然に生かされ、また偶然を自ら助くのみならず……』という意味深なメッセージを呟いた後暗転し、公共放送の舞台から突如として姿を消した。残された彼の番組『レッド・ルー・リー・レーと彼の金魚めいた老廃物の連なり』は彼とは似ても似つかない小心者のピッケ受信装置のような紐状の男にすり替わり、番組の途中でも尊大な足音が入り乱れるただならぬ様相を呈して、誰もが自然とピッケ受信装置の紐に手を伸ばすのであった。最近では『もうこんなものは見ない』と屋根の上の押し倒された『堀木・宇部アンテリウム』に直接にこんな垂れ幕が掛かっていることが多くなった。その共同所有権に基づいた平べったい住宅は絶えず屋根の上から足音が入り乱れる状態にあるのは依然とさして変わることはない。
 
 ところでロッカールーム、いわゆる『旧空間』の広漠たる空間は一昔前までの子供たちの遊び場であったのは誰もがご承知の通り、第四次ジェネレーター放射世代以降が『ノルティ妙酸』を一つまみしながら語られる回顧談でもお馴染みの事柄だ。以前はこの空間の土台となり偏在しつつ長らく放棄されていた『旧空間』の活用を政策的な課題として取り組んだ一連の計画によって『旧空間』はロッカールームと名前を変え、この十年で飛躍的に開発が進んだ。一方で社会的課題として、間借り人やHAMUいわゆるハムと一般的に呼ばれる一方向お中元的大家などの問題が一気に表層化したのは、鵜呑みに出来ない壁新聞の記述の複雑な文字数計算を行うまでもなく昨今広く認知されている。それにしても文字数計算は正確な点では首肯しうるが、あまりに煩雑に過ぎ特に人知側での間違いも指摘されており、古来からの自然法による、目を細めて眼球の内側に滑り込み抽象領域からの直感的アプローチ、つまるところ仄めかしを見事に掴め得るかの方が重要であろう。
 そしてそれは今回の場合にも当てはまる。
 カツン、カツン、と法理による肉体的な裏付けを持った尊大な物腰。意思の中枢は脳というカルファアで足を伸ばし大いに寛いだ状態であたかも前方を自宅で『ポウ!の事件簿・独楽に何か細工した!?』を視ているような、そんな落ち着き払った足音が近付いてくる。
 そしてそれが止まる。
 肘掛けに凭れた中枢が、ふう、と息を漏らしたのが明らかに感じられる。『ポウ!の事件簿・独楽に何か細工した!?』が突如中断され、知りたくもない例の脱腸ケロッグ不所持による先の給食委員長の釈明会見が流された時のような不服そうな顔を一瞬だけ彼は浮かべたのだった。そして舌打ちをした。この風紀委員は今まで気持ちよさげな顔をしていたが一瞬だけ不服そうな顔をして更に舌打ちまでしたのである。その不服そうな顔を僕はきっと忘れないだろうとこの時思った。そして、仕方ない、と言った風にその場に膝をつくと職務に忠実な鼻を使い始めた。この行為は風紀委員規則の第一条その二十八に明記された行為と同一だと思われ、時々屋根に落ちている、しかしながら必ずしも鵜呑みにしてはならないあの小さな冊子、風紀委員規則の記述通りである。その嗅覚から一体どのような推理が導かれるのか、膝をついて『ジョイショック』、次にエキス部に鼻先を近づける風紀委員の後頭から首筋にかけての硬直、その硬直がかえって思索の脈流の鋭さを如実に物語っている。その時、シュッ、という何かを噴霧する音が隣から聞こえた。

 尻子玉。あるいは胃腸薬。もしくは予備ナットとも称され、未だ已然に解され各々の胸の裡に仕舞っておくべき現象、しかしながら掲示されてしまっている糞の付いたスケルティにも似た、見えてしまっているもの。感情的に苛立たせるいじけた態度は明らかに瞳に照射されたためであろう。『塗り絵』だ。僕はこの知能の欠片もないだろう老廃物めいたものに一つの示唆を与えられるとは思わなかった。
「何故、ルービホンの匂いを纏うんですか?」
 塗り絵が射貫かれたその時を想起させる唖然、驚愕の相を浮かべて、夜行教員の隣に佇んでいる。塗り絵、夜行教員のみが、幼児に見た記憶の中にある『旧空間』の茫漠たる暗がりにも似た暗黒世界にほの白い光を放っている。勿論、これは僕の現実的な裏付けのない言葉以前の抽象世界の出来事だ。
「私はもう駄目よ。耐えられないわ」
 そう言うと夜行教員は決心したように階段の陰から廊下に向かって一歩踏み出した。エキス部に向かって神妙に鼻先で観想していた風紀委員の頭が持ち上がる。
「私にまかせて」
 最後に夜行教員はこう言うと風紀委員のもとへと真っ直ぐと歩いて行った。風紀委員はふうっと立ち上がり、夜行教員と並んで立っている。僕は未だ言葉以前の抽象世界にいて、その驚愕は塗り絵とさしたる違いはなかった。そのにわかに信じがたい直感に僕は足元をすくわれていた状態にあった。
 向こうの廊下で並んだ二人。突如として風紀委員は夜行教員を抱きしめた。そして夜行教員はドンブラーを持っていない方の手で僕を指差したのである。僕は後じさった。風紀委員はジョイショックを手にしてこちらに向かって歩いてくるのであった。

 その時に僕が取り得た選択は逃げるか、逃げないか、であった。果たして僕はどうしたのか。勿論、逃げた、のである。すでに、逃げない、という選択肢は僕が一歩を踏み出した時点で放棄せられていた。いや、一歩を踏み出す前にすでに様々な可能性の幅から逸脱していた。実際は、逃げる、のみこそに忠実な一方通行でしかなかった。この状況はあらゆる点で僕に確実な不利益をもたらそうとしていることが明らかだ。明らかに分が悪いのだ。僕は何もしていない。当然だ。しかし僕は直感の電気信号に突き動かされた。僕は一歩一歩と踏みだし、その歩調を早めた。振り返ると、風紀委員は駆け出そうとしている。当然、僕も駆け出した。階段を駆け上がり、二階へと逃げる。そして階段から廊下に出たところ、校庭を望む窓の脇に設置せられたロッカーを眼に止めた。暗闇に背後からの月の光を浴びて淫靡的とさえ思えるブレードフアン波長域の照り返しによる白くぼやけた感じは僕の標となった。僕は迷わずロッカーの扉を開けロッカールームへと駆け込んだのであるが、
「ギャース!!!」
 その時、階下から断末魔の様な叫び声が上がるのを聞いた。

 ロッカールームの中は静寂に包まれていた。光のない暗黒世界。開発される前の幼児に見た記憶と同一の『旧空間』のままである。ロッカーの設置台数とロッカールームの開発速度に明らかな計画的な齟齬が生じている模様だ。素人目にもロッカーの台数は多すぎるものと近頃は思っていたところだ。しかし、『旧空間』の造成は非常に緻密を要し、様々に時間が掛かるものであり、全体的な解明すら未だなされぬまま見切り発車になされた開発計画であり、そこに技術的な困難が立ちふさがっているというのも首肯し得る事実であろう。どの国、つまり例の『イナズマイレブン』と称される、厳密に分解される十一カ国の委員会も、時に熾烈を競い合い、この『旧空間』を掌中に治めたがっている。『左ウィング』の異名を持つこの国もまたその世界的な一つの動勢に指をくわえてはいられまい、ということである。

 とは言え、この暗黒世界にも工事用の『煮汁』の緑が間歇的に空間に染みだしていた。染みだしては、消える、を繰り返す『煮汁』を便りに僕は先へ進んだ。しばらく行くと、そこは小便器のみで構成された部屋であった。すなわち『便所』であろう。あのグッレモトン的な二段階構成の引き出し型小便器たちである。それは上下左右にこれでもかと敷き詰められている。ようやく人知の息の掛かった場所まで来たのはいいが、暫定的な、謂わば肩慣らしのような、取り敢えず空間だけは埋めておこう、という意図が透けて見える場所である。グッレモトン的かと思えばヴィレラーの憤慨する券売機、改札呼び止め人、所謂『追尾する目』を描いた観音開きの鏡台型小便器の連なり、そう思っているとファリサイの十二人が持ち寄った分解式電気釜、十合炊き大便器などにお目に掛かる。十合炊きなどは、十五合炊きが一般になった現在ではもはや滅多にお目に掛かれないものだ。
 一人そこに間借り人らしい男が座り込み両手を組み合わせて、その組み合わせた両手を額に当てて神妙な顔で祈りを捧げている。全く、逆回転を絵に描いたような迫真の表情である。
「流路的に見てもこのまま真っ直ぐかい?」
 僕はやっと人心地がしてこの間借り人に気さくに喋り掛けた。
「ああ。一度迂回は避けられないがね」
 間借り人は僕の声にはっと顔を上げこう言うと、首を振り、再び両手を額に当てて祈りを続ける。
「川向こうへは一度の迂回は避けられない、こう言うんだね?」
「ああ。その川が余分の水分を纏わり付かせるわけだ。ところで風紀委員がここいらを嗅ぎ回っているというのを腸の動きから判断される。このままでは水っぽくなっていけねえや」
 両手を組み合わせて額に当て俯いた顔の下で声を出す間借り人。
「直感だね?」
「直感というか直腸だな。お前は何も分かっちゃいねえ」
 全く、話が噛み合わないことを僕は思った。ここいらの住人は相当に奥まった生活をしているようだ。直感も直腸も一つの概念の裏表である。魚の頭も尻尾も、どちらも魚であることに違いは無い。時間の無駄だ。僕は足早に先を急いだ。

「偶然じみた痴情のもつれが偶然じみた殺戮の業を人に行わせることもある!」

 突然、ファリサイの十合炊き大便器の並んだ壁の裏からこんな叫び声が上がった。
 しばらく行くと、再びグッレモトンの引き出し型小便器があり、それは段階的に上へ連なっており、つまりそれが階段であることに気付くのは時間の問題であった。

 跳ね上げ式の扉を開くと、そこは『プール』であった。また『更衣室』でもあった。間借り人が数人『プール』の中で『脱衣』しては楽しそうに飛沫を上げている。通常国民服と呼称される『野菜』が宙に舞っている。ところどころに黄ばみを付着させた隷属民族下着『一反』が紙切れのように宙に躍っている。
「浮遊生徒だ!」
 間借り人どもが僕を見てこんな歓声を上げる。
「ピーーーーーーーーーーー!!!」
 監視塔の上から五人の大家が一斉に煙を噴き出せながら紙巻き笛を吹き鳴らす。その際に五人のうちの一人が足を踏み外して下に落ち、水面にアルモンテ波紋を巻き起こし、間借り人は放物線を描いてシンゴロー曲線の美麗な曲芸を披露した。
「なあ!お前は浮遊生徒なんだろ!?」
「お前の参考書を挟み込んでやる!」
「俺の研究論文をお前に突き込んでやろうか!?」
 愚かな間借り人の野次や悪態を聞き流しながら僕は『プール』を迂回する。水っぽくなるのは勘弁被りたかった。川向こうもすぐそこだ。今日は散々な目に遭ったのだ。全くなんて日だろう。自然に足が速くなる。後はロッカーを見つけるだけだ。と思いながらも開発地区から離れていく。暗黒世界。工事用の『煮汁』の、染みだしては、消える、緑だけの空漠な空間に迷い込んでしまった。右に行けばいいのか、左に行けばいいのか。先へ進むべきか、引き返すべきか。自分が今何処にいるのか、全く分からない。

 蒸留の波が押し寄せる。神隠しの波だ。一体これまで何人の子供たちが犠牲になったのか。壁新聞には毎日のように行方不明の子供の仄めかし散見されたという。蒸留の波に揺れ動く僕。身体が分裂していくのが感じられる。残像の自分を隣に見る。解けていくのが感じられる。それは『死ぬ』ということなのか。

 飛ばされる。飛ばされる。飛ばされる。

 染みだしては、消える、『煮汁』をある時は上に、ある時は下に、回転する視界。その時『煮汁』の彼方から揺れ動く人影。空漠な空間で、はっ、はっ、はっ、と荒い息遣い。『オンブズマン』だ。助かった、と僕はこの時心底思った。
 この雲助は左右に揺らめきながら左右に残像を残しつつ上下に動き僕を抱き止めたのである。この正確な動きも、あの雲助独特の、首を振る、全く軸がぶれないとされる独特な走法によるものだ。
「坊ちゃん、お供しやしょう」
 動きやすい紅白縞のレオタード、目深に被った学生帽。僕を背中に負ぶう。
「助かったよ。流していたのかい?」
「そうでさ。帰れなくなった人間を家に送り届けるのがこの雲助めの商売なんでさ」

 かくして、この僕は無事に家に帰り着いた。次の日の壁新聞の記述から夜行教員の犯罪が仄めかされていた。夜行教員は未だ捕まってはいないらしい。心なしか風紀委員の数が減ったように思うのは気のせいだろうか。そう感じるとともに、あの夜の出来事で、ファリサイの十合炊き大便器の連なる壁の裏で誰かが叫んだ直感そのものであるとすら思えるあの叫び声が思い出されるのである。

「偶然じみた痴情のもつれが偶然じみた殺戮の業を人に行わせることもある!」
 

深夜の学校

深夜の学校

僕は『摩九羅連』の真っ黒な外套を着て二股ディクソン帽を被り慎重に玄関を出た。『煮汁』の弱々しい光に浮かび上がる雲助を呼び止め、学校に向かう。僕はいつものように深夜の学校へ勉強をしに行くのだった。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 冒険
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-09-16

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