石のかえる土、星のふる海
石材店に勤める職人の男、弓長直輝。石を切ることに人生を賭けた職人の半生。
ホテルのネオンサインが目に入った。あの角を曲がればやっとゆっくり休める。時刻は深夜の零時近くになっていた。近道しようと路地を曲がって少し歩いた。
そのときだった。背後から不意に爆音が聞こえ、暴走するバイクが男めがけて矢のように背後から襲った。男は、あっと声を漏らす間もなくバイクに轢かれそうになって転倒した。
激しくタイヤの擦れる音がして、バイクが引き返して戻ってくる。
フルフェイスのヘルメットをかぶるライダーは、明らかに男に向かって一直線に疾走してくる。すんでのところでまた轢かれそうになり、体をかわしてかばんを盾によけようとしたその瞬間、ライダーはそれを強奪して去っていった。
しばらく放心し、しゃがみこんだままだった。薄暗がりの路地の悲劇だった。向こうの大通りの街灯に照らされ、荒らされたかばんが、虚しく口を開けていた。とぼとぼと歩き財布を探すと、かばんからさらに数メートル先に投げ捨ててあった。近づいて中を見たら札は全部抜かれていた。財布の残金は小銭程度だった。直輝は肩を落とした。
「ちくしょう! ひどいことをしやがって」
はらわたが煮えくり返り、かばんに入れていたスマホで警察に電話を掛けた。パトカーのサイレンが近づいてきて、ホテルの手前で鳴りやんだ。警官がやってきて現場の状況を確認し、電話番号と免許証などをメモして被害届を作成した。
失意のまま高級ホテルに入った。ベルベットの赤い絨毯が敷きつめられている。ロビーへ進むと、歩くたびに靴底から心地よい弾力が伝わり、実に歩きやすかった。こんなところへはめったにこない。黒光りするカウンターに立ててあったペンを取り、大柄の背中を丸めるようにして顔を用紙に近づけた。一文字ずつ丁寧に、ゆっくりと名前を書きはじめた。「弓長直輝」と書き記し、続けて電話番号と大阪の住所を書き込んだ。書き終えたら、周囲を窺うようにしてさっとエレベーターに乗りこんだ。
見知らぬ土地で強盗にあうなんて。直輝は舌打ちした。明日は大切な日だというのに。
部屋の前まで来てカードキーをかざし、中に入った。
「明日は金をおろさないと」
直輝はやりきれないように呟いた。あの犯人は何者だろう。不安な夜を迎えたくなくて、明日の楽しいことだけを考えて眠りについた。
翌朝、コンビニまで出かけた。空は気持ちのいいほどに真っ青だった。ATMで二万五〇〇〇円を引き出し、それで口座の残高はつきてしまった。会う約束は午後一時で、まだかなり時間があったのでホテルに戻り、荷物を整理した。十時過ぎにチェックアウトし、名古屋駅に程近い牛丼屋で朝飯を食った。冷たい茶を流し込んであっという間に食い終えた。外はすでに蒸し暑かったが、店内は冷房が効いていて涼しかった。
大阪から中部地方に移り住む決意を固めたのが、つい数か月前だった。弟子入りの手紙を書き、師匠には安城市内の喫茶店で事前に会っていた。そのとき、内定の話はついていた。
暑さの残る九月中旬――。日曜の昼間に名古屋駅周辺で時間をつぶした。ゆとりをもってJRで安城市内に入り、訪問先の最寄り駅で降りた。地図を片手に住所を探した。
あった。ここがそうやな。表札に小宮山と出ている。呼び鈴を鳴らした。
「はい」
「約束していた弓長です。こんにちは」
「ああ、弓長くんね。お待ちしていました」
やがて扉が音を立て、開いた。中年で、眼鏡をかけた細面の女性が顔をのぞかせて出迎えた。
「義父はこちらです」
女性は廊下を通り、奧へと案内した。奥の間のリビングのソファーに師匠はいた。こちらを向いて座っている。
「こんにちは、弓長です。お願いします」頭を下げた。
「一月ぶりだな。これから作業を教えていくわけだけど、そこに掛けて」
ソファーから立って会釈した師匠は座るよう勧めた。茶色い革張りのソファー。師匠である小宮山泰治は八〇を過ぎていた。かくしゃくとした動きと喋り方は、さすがに健在ぶりを感じさせる。体型は少し小柄。左腕がとても太い。直輝は目を丸くした。初めて会ったとき、そこまで目が行き届かなかった。そのとき師匠の出で立ちはジャケット姿だった。
師匠は細い唇を真一文字に結んでいる。いっけん無愛想に見えたが、眼鏡のガラスの奧で優しそうな瞳をたたえていた。
「きょうは休みだ。仕事の流れを話そうと思うが、その前に訊いておきたいことがある」
淡い緑のポロシャツ姿の師匠は、語尾だけはっきりと口調を強め、「きみは嘉太郎さんの孫らしいが、なぜこの道を選んだ?」
師匠と祖父は親しい仲だった。父方の祖父の嘉太郎は腕利きの石工だ。
「大阪でアルバイトを一年していました。上司の命令や店のマニュアルが気にくわなかった。自分の腕を頼りに仕事をしたい。そう思ってこの業界にきめました」
背筋が伸び、いくぶん声が上ずる。
「はっきりしとるな。では、具体的に仕事について少し話そう」
「正式に採用なんですか」
「うん。採用だ」
「金を一五万円ほど貸してくれませんか。給料の前借りということで」
「なんだ、いきなり。どうしてそれだけの金が必要になる?」
「昨夜、ホテルの近くで強盗にあい、金を盗まれました。それで貯金が尽きて」
「災難だな。それはえらいことだ。警察には?」
「すぐに連絡しました」
「じゃあ、一五万貸してやる。その代わり、最初の三か月は無給。見習いだからしっかり働け」
「はい。ありがとうございます」
師匠は仕事や給料、休みなどについて簡単に説明した。石工といっても株式会社ではない。「小宮山石材店」の看板を掲げる小規模店だった。客が店を訪ねてくれば店内で墓石の話をし、電話なら車で出掛けて打合せをする。墓石の設計料と石の加工費の見積もりを出し、設計図と完成予想のイメージ図を見せ、了承されたら契約を結ぶ。契約後、設計と加工に取りかかり、墓石が完成したら契約が満了して、支払いは石材店の指定口座に振り込まれる。そういう流れらしい。給料は手渡しが原則。
「ちょっと待ってろ」
師匠は直輝を制し、立ち上がって廊下に消えた。奥で声がして、金を取りにいっている様子だった。中年女性が師匠に封筒を渡すのが目に入った。師匠は受け取った封筒から一万円札を数え出した。うなずいて封筒に戻し、差し出した。
「ここに一五万ある。妙なことは考えるな。三月は働いてもらうぞ」
「わかりました。どうもありがとうございます。約束は必ず守ります」
直輝は舞い上がりそうになるのをこらえ、ありがたみをかみしめた。
師匠の家をあとにし、さっそく賃貸物件を探して駅前の不動産屋で安いアパートに決めた。翌週、直輝はアパートに引っ越し、中古の原付バイクを二万円で購入した。
一年前、直輝は大阪市内のホームセンターで働いていた。四月半ばから働きはじめ、チーフの田之倉さん、主婦のミナミさんに仕事を教えてもらった。売り場の広さに戸惑った。男の客はプロみたいな人が多く、接客する時間もほとんど少なくて済んだ。年寄りや商品名を間違える客の案内がたいへんだった。案内に追われると、五つほど若いアユミから、「ナオ、丁寧すぎ。もっとてきぱき案内して」と無線マイクで叱られた。忙しい時間帯になると女性店員はレジに貼り付いてしまうので、直輝やコウタ、ケンジさんなどの若手、中堅店員が売り場へ回り、接客、荷下ろし、商品補充、値札付け、新コーナー設置とフル回転になった。二週間で仕事は覚えた。
六月――。小雨が降る晩、仕事がはけた。店長を残し、みんなと裏口から出た。
「きょうは飲みに行くか」
田之倉さんはケンジさん、コウタ、直輝の三人を誘った。居酒屋で二時間飲んだ。そのあと、麻雀卓でも囲むのか、と訊ねたら、田之倉さんに笑われた。
「もうそんな時代とちゃうで。男の遊びや、男の」
顔をニタニタさせ直輝の尻をしきりにバンバンと叩いてきた。気づいたらミナミの繁華街の裏通りに連れていかれた。「お兄さん、五〇〇〇円ポッキリよ」けばけばしいアジア人らしきお姉さんから声が掛かる。ぎこちない日本語があちこちで飛び交う。
店に辿り着いた。雨は上がっていた。風俗の店。きれいな女の子の顔写真と、一時間当たりの料金を大きく書いた看板。ピンクのネオンサインは煌々と輝いている。妻子持ちのケンジさんは、「きょうはちょっと。また今度」といって抜けた。
「入るでぇ」
田之倉さんが喜び勇んで先陣を切る。端の階段を上がると、フロア全体が店舗型のヘルスマッサージ店だった。直輝も中へ入る。そこは薄暗い待合室だった。通路の向こうは真っ赤なドアと絨毯が敷いてあり、男性客数人がいた。直輝らのように連れのひとはいなさそうだった。受付で名前を書き、呼ばれるまで雑誌や漫画に目を通して順番を待った。ユミナガさん、六号室へどうぞ、と蝶ネクタイの店員に名前を呼ばれ、田之倉さんに会釈した。真っ赤なドアが両側に並ぶ通路をそろそろと歩き、六号室と書かれたドアを恐る恐る開けた。
「いらっしゃい。ノゾミでーす」
ビキニ姿のヘルス嬢がハキハキと名乗って招き入れた。やや暗めの部屋にオレンジ色の照明が、ノゾミの肌を照らしている。声の高さ、肌艶からして三〇代だろうと思った。悪くても四〇前後。思い出せたのはそれぐらいで酩酊と興奮から陶酔の世界に浸った。気づいたらサービスは終了していた。
「ありがとうございました。またのお越しを」
ノゾミが手を振ってドアを閉めた。受付でかばんの中から財布を取りだし、正規のコース料金を支払った。待合室には別の客しかいなくて、階段を降りた。
冷房の効いた店内とはうってかわって、六月の夜の蒸し暑さが皮膚を刺し喉が渇いた。一〇分しても田之倉さんやコウタは現れなかった。自由解散だ。スマホを開き、《帰ります》とメールを二人のアドレスに送信した。ミナミの駅ビルの地下のカフェでアイスコーヒーを飲み、家に帰り着いたのが午前零時前だった。
翌日も出勤だった。休憩時間に缶コーヒーを飲みながらパンを囓っていると、アユミがつかつかと直輝の方へ歩み寄ってきた。夕べのことを聞きかじったのか、
「やったんでしょ。どうやった?」
と探りを入れてきた。直輝は平然と口を動かしながら、
「別に普通やで。女にはわからんやろうけど」
顔を合わせずに答える。
「高かったんとちゃう?」
「いや、あんなもんや」
「きれいな人?」しつこく訊いてくる。
「どうでもええやろ」
いまいましげな口調で突き放すと、アユミはチェッと舌打ちした。休憩時間も終わり、アユミは売り場へ戻った。
直輝は仕事がはけると、職場の最寄り駅で地下鉄を待つ。いつものように駅で次に来る便を待っていると、アユミが走って追いついた。地下鉄が来て乗り込み五人掛けの長椅子に腰をおろすと、「隣、座っていい?」とアユミがいってきた。
「ええよ。どないした?」
「どうして男は、恋人だけで満足せえへんの」
プッと吹きそうな質問だった。
「それ、どういう意味?」
「だから、フーゾク行ったり、内緒で出会い系したりするやん」
「それだけか」
「部屋に閉じ籠もって女性の裸とか見るやん」
真剣にすがるような眼差しを向けてくる。
「そんなん、当たり前。男の生理とでも思えや」
「そんなもんなん」
「そうやで」
「わたし、どうしたらええの」
その台詞だけがやたらと切なく聞こえた。声が少し大きく、地下鉄の中やろ、もっと小さい声で喋れ、と念じて彼女に耳打ちした。
「試してみろよ。コスプレとかいろいろと」
現実を知らないくせに口からでまかせをいう。
「ストッキング破いたり、セーラー服とか用意したりするわ」
なんやコイツと思った。アユミも直輝と同じような恥ずかしい映像を観て、男の妄想世界を知っているのだろう。ただ、背中を蹴とばしてくれる友人の言葉を待っていただけかもしれない。
「うまく操れよ。よう手なずけて餌がほしいときに焦らすねんで」
アユミはうなずいて、「ありがとう」といった。アーミー柄のカーゴパンツから飴を取りだし、一つくれた。それを境に直輝はアユミの話し相手になることが増えた。仕事でも、商品の種類や入荷状況を教えてくれた。業者のトラックの到着時刻まで知らせてくれることもあった。担当の社員に頼んで、ペットコーナーの仔猫を触らせてくれたのも彼女の口利きのお陰だった。
七月――。コウタと三人で駅前のカラオケに行った。個室に入り、アユミが切り出した。
「田之倉さんね。女癖よくないねん。わかるやろ」
「ああ、なんとなく」
直輝は曖昧に答えた。横ではコウタが大声で SEKAI NO OWARI を熱唱している。アユミはなおも続けた。
「田之倉さん、バイトの子に手を出すねん。わたしも倉庫や仕事終わりの事務室でお尻触られた。はっきり嫌やっていわんと、断るまでしつこくしてくるねん。そのうち向こうから口説いてくるし」
「ホンマか。それはようない。セクハラや」
そういいつつ、頭の中で、アユミの小柄な体に腕を伸ばして触ろうとする田之倉さんのいやらしい顔を思い浮かべた。先日の相談以来、アユミは冗舌だった。田之倉さんの家族の話まで持ち出した。
「チーフの奥さんてね、手出した子の一人やねん。当時から目ぇつけとったらしくて。店でもやたらと、マナ、マナって呼びつけて。マナが奥さんの下の名前やねん。マナさんばかり可愛がってべたべたして。みんなのひんしゅくやった」
「そうなん。それで?」
「田之倉さんは、『マナは絶対おれみたいな口八丁手八丁がタイプや』とか、『いま付き合うとええ車に乗れる』とか、『やがて店長夫人になれるで』とか、あることないこといいよる」
「周りはどうしたんや」
「マナさん次第やし、店長もみんなも見て見ぬふり」
「そうか」
「得なんよねえ、チーフは人当たりがええから」
「いわれてみると、そうやな。仕事教わったときも丁寧やし、注意するときは怒ってないし」
「みんな連れて飲みに誘ってくれるでしょ。根はええ人なんよ。女癖以外は」
アユミは悪口をいった相手をすっかり持ち上げる側に回っていた。コウタが歌い終わり、アユミがマイクを握って、いきものがかりの曲をノリノリの高音で歌いはじめた。田之倉さんの話はそれきりになった。三人でしばらく歌い続けた。コウタだけ枝豆とビールで出来上がっていた。
九月に入り、直輝は仕事に慣れた。それと前後して、ちょっとした夢のような計画を練った。新商品のアイデアをコンテストに出して大賞を獲る。店長に取りはからってもらい、ここを含めたチェーン店で販売する。
どんなものを出したらいいか、直輝は三週間ほど考えてみた。しかし、なにもいい知恵は出なかった。仲間を増やそうと、計画をコウタやケンジさんに打ち明けた。最初は相手にされなかったが、しつこく食い下がった。具体的な金額を計算して、その三分の一が懐に入りますと耳元でささやくと、彼らの目つきが少し変わった。
「三人で考えたらええアイデアが浮かぶかも」ケンジさんは頼もしげな姿勢を見せた。
「コウタと三人で第一回の企画会議を開きましょう」直輝は鼻息荒く大見得を切った。
深夜まで営業しているファミレスに仕事終わりの三人が集合したのは、十月の第二週のある晩だった。さっそく新商品について話し合いを始め、直輝は先陣を切った。
「まず、どんな新商品が売れるか、考えを述べ合いましょう」
少し間があり、コウタが口を開いた。
「俺は、業務用の商品なんかは難しいと思う。それは業者が金を掛けてやるもんだから。一般的なものがええと思うで」
「たとえば?」ケンジさんが畳みかける。
「たとえば……。日曜大工的なもの。工具はこちらの工房があるからそこで仕上げ、客のオーダーした家具やオブジェを製作する」コウタは語尾になるにつれ、声のトーンが下がった。
「それなら既に工房エリアでいまやっている。工房で切り分けた部品で組み立てるキットは?」直輝はコウタの長所を補う。
「どんなキット?」すかさずケンジさんの指摘が入る。
「そういわれても……」急にはアイデアが浮かばなかった。
「簡単に答は出えへんな。おれなんかは違うで」ケンジさんは前置きした。「以前、客に売り場でいわれた。『網戸が破れた。業者を家に呼んだら高くついた。素人でも簡単に張り替えられるようなんは無いか』と。それで専門品を売り場に並べたら定番商品になった。プロ仕様の商品はどうや」ケンジさんらしい、経験に基づいた意見だった。そのあと具体的な商品について話し合ったが、これといった出色の意見は出なかった。
第二回、第三回と会を重ねたがいい案は出ず、あきらめムードが漂いだしたのは一一月の半ば頃だった。第四回は大阪なんばの個室居酒屋に集まった。
コウタが開口一番、「ええのを思いついたんや」と声を弾ませて叫んだ。直輝とケンジさんは、コウタの目が輝いているのを見てとり、身を乗り出した。コウタはもったいぶってから喋った。
「モールでキャンペーンみたいなんしとるやん。きれいな水の装置。トーテムポールみたいな」
直輝はトーテムポールと表した言葉がおかしくて、プッと吹き出しそうになり、口元が緩んだ。
「それで?」直輝は続きをうながす。
「あれを組み立て式で作れるようにしたらどう? そんな難しくなさそうやで。きれいな水のタンクをセットして、コックを取り付けるだけ」
「業者の商品はタンクを取り替えにくるらしいけど、高いんやろ」直輝は同調して「素人がきれいな水を作れたらな」
「そこやで。きれいな水っていうけど、水道水をきれいにするのは専用カートリッジが一般的や。それを安くするんが問題なんや」
ケンジさんは小難しい顔を浮かべ、運ばれてきた唐揚げの盛り合わせの皿から一個を割り箸で摘まむとガブリと齧りつき、旨そうに咀嚼した。しばらく三人は、飲み食いに没頭した。第四回も終わりに近づいたと誰もが思いはじめた空気を見計らったように、ケンジさんは総括した。
「専用カートリッジは高いし無理や。性能のいいフィルターをこまめに取り替えるとして、フィルターの会社にあたってみよか」
直輝たちは大きく頷いた。
第五回以降は流れた。ケンジさんがフィルター会社をみつくろい、電話をかけたという。勝手に商談を持ちかけ、先方に断られた。それがよほどしゃくだったのか、ケンジさんはもうやめるといって仲間から降り、計画は頓挫した。
歩調を合わせるようにケンジさんとコウタは直輝に対してめっきりよそよそしくなり、顔を合わせても口を開くことすらなくなった。聞いた噂では、ケンジさんの電話したフィルター会社はうちと取引があり、お宅の社員が変な商談を持ちかけてきたがどういうことか、とクレームがついたらしかった。
ケンジさんは店長に呼び出され、怒られた。なんでも、店長の前で土下座して罪を詫びたとか。でも、コウタや直輝が呼び出しを食らわなかったのを見ると、ケンジさんが一人で泥をかぶったのかもしれない。もしそうなら、いい出しっぺとして謝罪や埋め合わせをすべきだった、とあとになって直輝は反省し、胸の奥がヒリヒリと痛んだ。
結局、店長に叱られた状況や直輝をどう思っているかは、一切耳に入ってこなかった。ただ、二人の態度の変化に周囲は敏感に反応し、直輝を次第に遠ざけるようになった。飲み会に誘われることはなくなり、実家とホームセンターを往復するだけの無味乾燥な日々が続いた。仔猫をガラス越しに見るのだけが唯一の慰めだった。直輝は家にこもりがちになった。帰りの地下鉄で、どうしようか考えた。同じ業務の繰り返しに倦み、希望のかけらもない。ただ働いて食って寝るだけの一日が、疲れた体に重くのしかかった。
一年が過ぎ、また四月が巡ってきた。日曜の仕事から帰り、夕飯を食った。二階の居室に上がると、窓から隣の桜の樹が目に入った。花々は夜風に舞って散っていく。もう一年がたった。花はきれいに咲くのに、オレはまだひと花も咲かせてへん。不毛な一年やったと思った。眺めながら、ぼんやりと夜を過ごした。
窓の外から散歩する老人が目に入り、祖父の顔が頭に浮かんだ。石工職人でその道一筋何十年の大ベテランだ。ふいに、仕事を辞めるなら今だ、という思いがビリビリと脊髄を走り、武者震いした。
祖父のつてを頼り石工を目指す。腕一本で仕事を見つけ、職人のプライドを持って働く。そんな姿に救いを感じた。あじけない業務と希薄な人間模様に見切りをつけ、一八〇度違う世界に飛び込んでみたい。ホームセンターで勤め出して丸一年。すぱっと仕事を辞めれば、どれだけバラ色の未来が待っているか。祖父の人生に憧れた子どものころの夢に賭けてみよう。いや、絶対に石工になってみせる。直輝は力強く拳を握りしめた。
祖父は大阪で生まれ育った石工職人だった。石工になって数年後、名古屋近くにいる知人に請われ、働いていた店を辞め知人の石材店で働き出した。還暦を前に名古屋の石材店を辞め、こちらに戻ってきた。大阪では、元いたところと別の店へ通いながら働いた。直輝は七歳ぐらいで、祖父は六〇を過ぎてまだ現役を続けていた。父の義夫はその頃、大阪の証券会社に勤めていた。祖父は孫の直輝をかわいがり、小遣いをくれる日には決まって職人の面白話を聞かせてくれた。
「玄能(大きなハンマー)は重くてな。でも力任せに振るんやない。丸をかくようにしながら振り下ろす」
「やってみて」
祖父は重いものを担いで落とす動作をしてみせた。
「お月さんの縁を滑るように打ち込む。玄能は三キロ。その重さで勝手に大きな力が出るさかいな」
「打ち込むときってどんな感じ?」
「手にずんと痺れるような重さが伝わる」
「すごいんや」
「ああ、そうとも」
そもそも石工の夢を初めて抱いたのは、祖父の話を聞いてからだ。いま振り返れば、父は仕事の話を家庭でほとんどしなかった。祖父とは対照的で、いつも黒縁の眼鏡をかけ、じっくり時間をかけて経済新聞に目を通していた。おおらかで人情味にあふれる祖父と、別人格のように神経質そうな父とのあいだに共通点はなく、本当の親子でない気さえしていた。
桜吹雪を眺め終わると、二階の祖父の部屋に入った。
「爺ちゃん。オレ、石工になろうと思っとる」
「そうか。ホンマか」
「ホンマや。覚悟はできとる」
「ナオキ。いくつになった?」
「三一やで」
「そうか。もうええ歳やな」
祖父は直輝に石工になった経緯を話してくれた。世襲制の世界でよそから呼ばれ、腕前はよかった。名古屋の知人とは、採石場や堤防の修復現場などでよく一緒になり、各地の石垣修復も手掛けた。時代はコンクリートに取って代わり、知人の石工はその頃から墓石への思い入れを強く持った、と。
「石工を目指すなら、ここを離れて名古屋の安城市へ行け。知り合いがおる。弟子入りの手紙、自分で書いてみるか」
祖父は訊ね、直輝は大きく頷いた。祖父は真剣な眼差しを直輝に注ぎ、まじまじと顔を観察した。生半可な気持ちでやれない仕事だから、簡単においそれと帰ってくるな、という無言の要望に感じ取れた。
「わかった。手紙、書いてみる」
決意の変わらぬうちに、一晩かけて師匠となる小宮山泰治さんに手紙をしたためた。泰治さんは祖父と一つ違いの八二歳で、石材店の二代目だ。三代目もいて、その方は悟さんといい、五五歳ぐらいだと聞いた。
直輝はやっと大きな歯車が噛み合い動きだした気がした。仕事の喜びや生きがい、生きていく満足感を、石工に見出そうとしていた。
初出勤の朝は緊張してひげをうまく剃れなかった。前日から、原付バイクで石材店とアパートの道のりを何度か往復した。小宮山石材店まで向かう途中の交差点や目印、ガソリンスタンドなどを調べ、かかる時間も計算した。直輝のアパートは田んぼの前にあった。農業の町らしく、まだ市内のあちこちに田畑が多い。市の中心部から離れるにつれて、田んぼに囲まれるようにして、一軒家の住宅がポツポツと点在していた。新幹線の駅もあり、三河安城駅付近は栄えていた。トヨタの町、豊田市に隣接しているため、車に関連した会社や倉庫が多いのだろう。
当日の朝がきた。予定通りの時間に到着し、石材店の裏手にバイクを停めた。石材店の裏口から声をかけてみた。
「師匠、おはようございます」
「おはよう」
師匠はすでに作業着に着替え、いつでも仕事場に行ける恰好だった。朝七時に朝礼があり、直輝は挨拶を済ませた。その日の午前中、石材店の中を見学し、道具の呼び名や種類の確認をした。メモをとりながら書いた字が、ミミズのように醜く這っていた。
二日目から、さっそく現場を回った。三代目の運転で直輝は助手席に乗り込んだ。話を聞けるのかと期待したが、ラジオをかけてただ黙って聴いているだけで現場に到着した。初現場はクレーン付きのトラックで少し行ったところにある山の中だった。林道を進むと、砂地の地面と岩剥き出しで山肌の削られた広い場所に出た。初めて目にする採石場だ。
「きょうと明日は、他の石材店との共同作業だ」
「なにをするんですか」
「間知石を作る」
「けんちいし?」
「知らんのか。石垣や護岸工事なんかで使う石だ」
訊くと、今回の間知石は公園の石垣積みに使うらしい。他の石材店と一緒になって間知石を切り出すのも仕事の一環だ。とはいえ、墓石工事が仕事の半分以上を占める。三代目はそういった。直輝は、仕事で使う石材をどうやって調達するのかよくわかっていなかった。
「あそこを見てみろ。大きな原石が転がされているだろう」
「はい」
直輝はその光景に圧倒された。巨大な石の塊がショベルカーでいくつも砂埃の舞う地面を転がっていく。切りたった山から削り取られた原石を、巨大なショベルで石置き場に移動し、そこで間知石を作るらしい。あちこちで他の石工らが作業をしはじめていた。小宮山の従業員は直輝も含めて三人がかりで、原石一つを地面に据えつけた。
「弓長、割ってみろ」
いきなりいわれた。三代目は赤鉛筆で石に真っ直ぐな線を引っ張った。いわれたとおりにやるしかない。
「どうやってやるんですか」
直輝は緊張していた。機械で石を割るものと思っていた。その辺をキョロキョロと見回すが、どこにも機械らしきものは見当たらない。
「ばか」
頭をはたかれ、「これで割るんだよ」とノミを渡される。手荒な扱いやな、と思った。
「これだけですか」
「槌もいるだろ」
つっけんどんにいわれた。直輝は、なにも握ってない左の素手を槌の柄で叩かれた。頭がのぼせる。命じられるまま無我夢中で赤線に沿って石に穴を穿ち、石を半分に割った。
「割れました」
真っ直ぐ直線状に割れたのに感動し、声が上ずる。
「当たり前だ」
三代目はこともなげにいった。そこから先は、三代目と先輩が別の道具を使い、さらに小さい石に割り出した。最終的に幅三〇センチ、長さ五〇センチほどの直方体がいくつも出来上がった。直輝はひたすら見守るしかなかった。
「この割れた石から玄能で間知石を作れ」三代目は命じて、また線を引いた。
「はい」
線に沿って玄能を振り下ろす。祖父の言葉を思い返した。
玄能は重くてな。でも力任せに振るんやない。丸をかくようにしながら振り下ろすもんや。お月さんの縁を滑るように打ち込む。玄能の重さで勝手に大きな力が出るさかいな――。
玄能を担いで落とす祖父の姿を頭の中で描いて作業をした。直方体から二個の四角錘らしきものを作った。一個を作るのにずいぶん時間がかかり、ため息が漏れる。形のいい間知石には程遠く、唇をかんだ。
「日が暮れてしまうぞ」三代目がぼやき、どけ、とばかりに手で腰を押された。
「並以下だな」
三代目は吐き捨てるようにいった。お前は見ておけといわんばかりに、玄能一本で見事に残りを切り出した。残りの石は、三代目の手にかかると魔法のようにきれいに整った。
少し冷静さを取り戻し、周囲の音が聞こえてくるようになった。機械の音だ。ドリル音が山に激しく響き渡っている。不思議だった。なんでうちの店だけが手作業なんや。先輩らの顔を見回した。それが当然のように何食わぬ顔をしている。おかしいなと思った。小宮山石材店は、機械を持ってないのだろうか。そんなはずはない。
「ぼやぼやするな。よく見ておけ」
三代目の罵声が飛ぶ。三代目は確実に玄能の刃を当てて、実に素晴らしい出来栄えに仕上げていく。その仕事ぶりを直輝は食い入るように見つめ、憧れと尊敬の念で観察した。職人技はすごい。肩が小さく震えた。
「切り出した間知石をここに運べ」
三代目は仕草で指図した。これからずっと、玄能を使うものだと思い込んだ。
予想に反し、翌日からは削岩ドリルが登場した。削岩機の先にドリルや刃を付け替え、機械で石を切る。削岩機で削り出す先輩たちは、素早く簡単に間知石を完成させていく。
「こんどは弓長だ」
先輩にいわれ、直輝もやってみた。機械の振動が激しく体を揺さぶる。扱いは、素人同然でも意外とスムーズにできた。玄能より整ったものができあがった。昨日、玄能の使い方を見せられたのが納得できず、首をかしげた。自分の腕を試された気がした。
三日目は、別便のトラックに間知石を二人がかりで積み上げ、現場へ運びこんだ。間知石を仮置きして並べ、裏に砂利の袋を置いてブルーシートをかぶせ、仕事は終了した。マスクをつけなくて石の粉を少し吸い込んだ。咳き込むのを見て、三代目は、「マスクぐらいつけろ。体を悪くするぞ」と帰りに優しい言葉をかけてくれた。なんでも珪肺という肺の病気にかかるらしい。
四日目、公園の現場で石垣積みを始めた。子どもらが学校に通う傍らで、かけてあったブルーシートを外し、作業は始まった。
「弓長、石を積んでみろ」
直輝は先輩たちの加工した石をいわれたとおりに積むだけだった。
「なんだ、その積み方は」
先輩は積み方を叱った。三代目を見ると間知石をさらに削岩機で削っていた。直輝は先輩の指示で体中に汗をかきながら、削られた石を運んでは積み上げた。三段積むのが精一杯で夕方の五時近くになった。その日はそこで積み上げを終え、石材店に戻った。
小宮山家まで車で戻り、住居を兼ねた店の裏口から入った。シャワーを使わせてもらい、着替えて挨拶をし、原付バイクで家に戻った。途中で立ち寄って買ったコンビニの弁当を口にかきこみながら、テレビのニュースを見てリモコンを消した。しばらく畳の上に大の字で寝ころんだ。板の天井が木目を見せている。石より木材にすればよかったかな。バラ色の未来がかすんで見えた。部屋の電気を消すと、いつかのバイクの轟音が頭の片隅で蘇り、体が震え出して止まらなくなった。だめだ。まだ暗がりで恐怖を感じる。
灯りを点けて起き上がり、三代目から借りた本を開いてみた。石垣積みの基本が書いてある専門書で、初日から目を通していた。いろいろな積み方があることをとりあえず頭に入れた。石垣のような高さのある場合、とにかく間知石を上手に切るのが肝心だと書いてあった。たとえ三、四段の低い石垣で布積(水平に石を積み重ねるやり方)を採用したとしても、石を真っ直ぐに切る基本を覚えないと先に進まないらしい。
最初の二月は、削岩ドリルの扱い方の特訓を受けた。わからないことはどんどん訊ねてメモした。十の質問をしても、「焦るな。そのうちわかる」「いちいち訊くな」「やっとまともなことをいったな」と軽くあしらわれ、答らしきものはほとんど返ってこなかった。ただ、貪欲だ、積極性は買うぞ、と褒められた。
夕飯のあとや週末など、小宮山石材店の裏の倉庫に入り浸り、使えないような石材に削岩ドリルを当て、真っ直ぐに石を切る練習を反復した。振動に慣れると、体が自然に揺れを吸収でき、切るのはそれほど苦もなく習得できた。石を加工する方法がやっと身についたと思った。
しかし、三代目はそれでよしとせず、直輝に玄能を持たせて石をきれいに切る練習を積ませた。
「機械で切るのは誰でもできる。玄能だけで石をまっすぐに切れるようになれ」
これを習得しないとだめだと三代目は厳しくしつけた。玄能と石に格闘する日々が続き、食欲が落ちたわけでないのに体が消耗して痩せてきた。
そのうちわかってきた。間知石を切り出す主流は、削岩ドリルの刃で機械的に削り取る方法で、玄能は使わない。いや、使いこなせる職人が高齢化して、ほとんどいないといってもいい。原石から石を割り、割った石をさらに加工するのは削岩ドリルに慣れればいともたやすくできてしまう。それでも師匠と三代目は玄能の手作業にこだわった。
師匠と現場で初顔合わせをしたときにいわれた言葉は、今でもよく覚えている。まだ入って二週間ぐらい過ぎた頃だった。
「最初にいっておくが、石は切るものだ。墓石だからといって、叩いちゃいかん」
八〇過ぎの師匠は腰に手を当て、前を向いていった。
「今でこそ、橋や堤防の土木工事に石材店の人間を借り出すことはなくなり、コンクリートに取って代わられた。だがな。石造美術や石の加工そのものは手仕事が一番だ」
運転手の直輝にゆっくりと含めるように話しかけた。白のワンボックスカーの助手席にちょこんと座り、ふだんはあまり口を開かない師匠も、このときだけは自分の肌で感じたことを語り部のように話した。
「昔は玄能ひとつで石を加工した」師匠の目は遠くを見ていた。いまは、削岩機で穴を掘って原石を割り、それに矢をセットして玄能で切るか、多くは削岩機で間知石の大きさに削って整える。昔は機械がなく、すべて手作業だった。間知石を手作業で作る方法は今も昔も同じだが、玄能でする方が早くきれいに仕上がる。玄能は、刃先や角度の微妙さを加減するのに気をつかうので、技能と経験を積まねば上手くならない。機械が穴を掘り、加工するようになって、石目(石の切れる方向)を見る勘も経験も要らなくなった。もう腕のいい職人は引退し、いなくなった。師匠はまるで昨日のことのように昔を振り返った。直輝は前を向きながら、話の間があくたびに相槌を打った。後ろで道具を入れた鉄製の箱が重そうな音を鳴らしていた。
現場に着いた。
「安城市には霊園の墓地が四つ、寺の墓地が一つあって、ここは橋目霊園というんだ」
師匠はいった。
駐車場に車を停め、直輝は肩に鉄製の道具箱を載せて歩いた。道具箱といっても中には槌やノミ、コヤスケなど軽い道具が数本だけだ。箱は頑丈で中身は軽い。
「朝起きて、きょうの現場に必要な道具だけを砥石で研いで揃えておく。現場によっては重い玄能や矢詰めを持っていく。箱の持ち運びには気を付けろ」
師匠は先頭を歩きながら注意し、勝手を知った住人のようにすたすたと先を進んだ。しばらくして、施主様の墓石に来た。幅の広いコンクリートの通路がきれいだ。この霊園は交通の便や雰囲気もいい。
平地にある墓は地面の基礎に備え付けられている。戒名を彫るのと、墓石を磨いて光沢をつけるのが今回の仕事だった。字彫りはたいへんな技術と経験のいる作業で師匠任せだ。作業着姿の師匠はプラスチック製の黒い専用マスクをかぶり、直輝に同じものを渡した。いかついマスクをはめ、鉄製の箱を指さして、「道具を出せ」と直輝に命じた。直輝が違う道具を出すと、「これじゃない」とさっそく叱った。
「わしのやるのをよく見ておけよ」
師匠はいった。彫るのは墓石本体でなく、墓誌と呼ぶ合祀の家墓の手彫りだ。すでに戒名や俗名、享年などが彫られていて、それに付け足す形で新たに一人分を追加するという。それまで師匠一人で代々の戒名を手掛けてきて、手彫りで統一する注文を受けていた。
師匠の指の動きは円熟していた。右手の槌はカンカンとリズムよく一定の強さと角度を保って打たれ、左のノミを持つ手は彫っている溝の深さに応じて真横だったり、上や下、斜めを向いたり、絶えず角度に気を配って彫り進めている。直輝は隣で黙って、師匠の手の動き具合や道具の使い方を見つめ続けていた。
しばらくして師匠は字彫りを止め、墓石の研磨をやり始めた。一五分ほどたったころだ。
「こんどはお前がやってみろ」師匠は直輝に命じた。
「分かりました」
師匠のやったとおりに研磨剤で墓石を磨いた。施主様の墓を、力を込めて丁寧に磨きながら、傷をつけないように気を配った。ときどき、隣で作業する師匠の技を盗もうと、字彫りの指の動きや力加減、道具の使い方などをチラチラとよそ見した。
師匠は墓誌の字彫りを再開した。三時間が過ぎてもまだ一心不乱にやり続けている。八〇過ぎなのにすごい体力と持久力、集中力だ。本当にこの人の側にいていいものかと身震いし、鳥肌が立って小便を漏らしかけた。いつ追いつけるのかと思うと気が遠くなり、空を仰いだ。
「そろそろ休むか」師匠は穏やかにいった。
「そうですね」
二人はそこに腰を降ろした。平地に広がる霊園に直輝と師匠、たまにお参りに来る一般の方以外は人気がなかった。平日だから当然のことだ。
その霊園は墓石でびっしりと埋め尽くされていた。特に大きな墓などの目印はなく、入口に掲示板がある。墓石一つひとつにアルファベットと数字が割り当てられていて、その番号が墓の台座に小さく彫られ、初めて訪れる人でも先祖の墓まで導いてくれる。
ひととおり字を彫り上げ完成するのに、延べ六日間ぐらい要した。そのあいだ、師匠に同行して墓の周囲に落ちた石のかけらや粉、汚れを掃除した。三代目に付き添われ、店の倉庫で施主様から注文を受けた石材の加工を手伝うこともあった。
「弓長。砥石で石材を研磨する練習をずっとしておけ」三代目は命じた。
まだ教えてもらっていない道具の名前や石の種類があった。図書館に通い、インターネットで調べ、ノートに書き込むなどして自習した。墓石の字彫りは、サンドブラスト(圧縮機械で鉄の砂を高圧で吹きつけて石材を彫る工法)を倉庫内で用いて作業を行ったり、チッパー(ハツリ作業に使う振動工具)にノミを差し込んで使ったりして進める。石垣積みでは削岩ドリル、玄能、矢を使う。採石場にはめったに行かず、他の石材店から石を買うが、いい墓石が欲しければ火薬や重機を使って石を切り出すときもある。間知石用の原石が欲しければ、特殊なドリルかワイヤーソー(ダイヤモンドの針金で切断するノコギリ)、あるいは火薬による発破で岩石を切り崩し、それから石を割って切り出す。用途や大きさに応じて道具を使い分けているが、まだその使い方までは詳しく知らなかった。
師匠も三代目も、仕事中は押し黙っていて、仕事の命令しかしなかった。目で見て、手で触れて覚える。そうやって頭に叩き込むしかない。この世界では、天賦の才能を持った石工は少数で、ほとんどが経験の浅い人間を使っている。どこも人手不足と機械化、世襲制で、一子相伝の技を教え込む人も減りつつある。機械は操作法の説明書があり、操作は簡単。一方の手仕事は、見様見真似を基本として、叱られながら覚えていくしかない。
そのうち、少しずつ石の種類の見分けがつくようになってきて、岩の産地をだいたい見分けられるようになった。いい石を選ぶ基準、例えば、石目はどうか、キメの細かさ、錆の素になる鉄分がないかどうかなど、採石場に見学に行くだけで多くのことを吸収できた。目で見て触れる勉強だ。紙の上や電子情報では得られない。三代目が採石場に直輝をちょくちょく連れ出す回数を増やしたのには、それなりの理由があった。それまで、一月に一度だったのが、二週間に一度になり、いまは一週間のうちで休日なども案内してくれるようになった。目をかけてもらっていると感じた。よそ者と恐縮していたが、次第に直輝を信用して、こいつなら辞めて逃げ出さないだろう、と思ってもらえたのかもしれなかった。体の芯の温もるような心地がした。
小宮山家は木造の二階建てだ。一階を師匠や三代目が使い、二階は物置以外、すべて空き部屋らしい。以前、三代目に、
「弓長。昔の図面、持ってきてくれ」
と頼まれたとき、初めて二階に上がった。そのとき、二階の一室が物置になっているのを知った。帳簿類、石材のサンプル、石産協(日本石材産業協会)の業界誌、資料や本、図面などが雑然と置いてあった。
経理担当は美加さん。朝や留守のときの電話番もする。初めて訪問した際、出迎えたのは美加さんだ。師匠の妻の佳子さんもかつては事務員だったが、美加さんが三代目の妻になって以来、家事全般を任され、主婦業に専念している。朝、偶然に顔を合わせたとき、佳子さんは、
「朝早くに起きてね。庭の草花の手入れをし、四季の花々を摘み取るのよ」
と笑った。花を一階の和室や玄関の花瓶に活けている。
初めて訪問した際、紫の花が玄関にあったのを直輝は覚えている。花の名前はわからなかったが、いい家だという印象を受けた。
仕事終わりの車の中で、直輝は訊ねてみた。
「三代目はいくつですか」
「おれか。五五だ」
「そうですか。オレとは二四離れていますね」
直輝にとって三代目は父親のような存在で、師匠は雲の上の人、達人として尊敬していた。
「弓長の父さんはいくつだ」
「五八になります」
「そうか」三代目はそこで言葉を区切り、続けた。
「おれの息子も、弓長くらい聞き分けがいいとよかったんだが」
「息子さん、いるんですか」
「大学を休学中だ。バイクで世界一周なんぞしとる」
本来なら、息子のシンゴが四代目になるはずだが、まだ若くてやんちゃ盛りだ、と三代目は付け加えた。
直輝はシンゴと一度も顔を合わせてない。ローテ―ブルの目立つところに置かれた一枚の写真立てが目を引いた。写真には、いまより数年若そうなシンゴの姿が写っていた。大型バイクを背にして、黒の革ジャンにサングラス姿で立っている。同じ服装の仲間らしき友人らとこちらを向き、ポーズを決めて。
彼の自由気取りは、親譲りでないだろうと思った。家業を継ぐ気さえあれば、道は敷かれている。小宮山家の長男に生まれて学生時代に遊びほうけ、親元で一子相伝の技能を教え込まれたらどれほど幸運だろうと想像した。
ある日、後継者の悩みを聞かされた。仕事終わりで小宮山家のシャワーを借りていると、先にシャワーを済ませ頭髪をドライヤーで乾かしていた三代目に、「きょうはおれの家で食っていけ」と誘われた。着替えてからテーブルの空いている椅子に腰を降ろした。
佳子さんと美加さん二人が料理を作り、食卓に並べていく。おかずが出そろったところで、佳子さんが料理のできたのを告げ、ソファーで寛いでいた師匠と三代目がやってきた。
五人揃って食べはじめた。しばらくして、美加さんが口を開いた。
「あなた。弓長くんが入ってきたからよかったけど、このままで本当にいいの?」
「いいわけないだろう」
悟さんはぶっきらぼうにいい捨て、食卓の小鉢に載った漬け物を箸で摘まんで口に入れた。
「それならシンゴに早く連絡を取って、大学に復学させましょうよ」
美加さんは、心から息子の将来を案じている様子だった。美加さんの箸は止まっていた。
「そんなことぐらい、おれも考えた。けどな。親が説教して聞くような耳を持ってない。要は本人の気持ちだ。石工をやりたいなら明日にでも仕込んでやる」
悟さんはいつになく不機嫌な口調で、里芋の煮転がしをブスリと箸で突き刺し、力任せに半分に割った。
食事の席に招かれたのに気まずい雰囲気だった。直輝は、小宮山家の家庭事情に立ち入れなくて小さくなっていた。
「ふたりともケンカするなよ」泰治さんが息子夫婦の仲裁に入る。
「なんとかなるから、ね」妻の佳子さんも口を挟む。
「せっかくの飯がまずくなるじゃないか」
師匠は場を取りなした。五人はしばらく黙り込んで食事を続けた。
悟さんは場を悪くした責任を感じてか、「ビールを出してくれ」と顎で冷蔵庫を示した。美加さんは瓶ビールを二本取り出した。
直輝は気を回して立ち上がり、食器棚からコップを五つ出した。その足で流しに行き、水を出してコップをゆすいだ。今晩はバイクを押して帰ろうと思った。それはいっこうに構わなかった。それより、本質的な問題――シンゴが世界を放浪している状況――をどうにかしなければならない。早く目を覚まして大学を卒業し、家業を継いで四代目になる決意を固めてくれたら。おそらく、ここにいる五人全員がそう願っていたことだろう。
小宮山家の家庭事情は人口に膾炙しているとはいえ、直輝が他人の前でとやかく口を挟む話でなかった。
「オレも、シンゴさんの顔を早く見てみたいです。跡取りですもんね」
「弓長くんのいうとおりだ。そのうち日本が恋しくなって、現実に目を向けるときがくる。あの子は小さい頃から、石屋に響くノミの音を聞いて育ったんだ」泰治さんがいった。
「そうよ。彼女もきっとシンゴに会いたがっているわ」美加さんがいった。
「彼女?」
悟さんは口をポカンと開け、あっけにとられた様子だった。初耳だったのだろう。
「あいつに恋人がいたのか」
「いるわよ。私に写真を見せてくれたわ。ホナミっていう娘さんよ」
「あいつめ。母親にしかいわないで。おれは知らんぞ!」
悟さんは顔をしかめた。その表情が食卓をさらにピリピリした空気に変えた。
「だって、あなたは石のことしか考えてないから。それより、ホナミさんを三年もほったらかしにしていいのかしら。こんなに待たされて、かわいそうだわ」
美加さんは息子の不徳を責めるより、恋人の心に寄り添おうとしていた。
「男なんてそんなもんだ。わしも若いころ、女を泣かせた」泰治さんがいった。
「お義父さんは黙ってて」
美加さんは、ここだけはぴしゃりと泰治さんにいい放った。
「二代目のいうのもわかる。なにかに取りつかれたら、それしか見えんのが男だ」
「三年間よ。長すぎるわ。二年付き合ってさらに待たされているのよ。ふつうなら見限ってとっくに別れるじゃない。いつまでも待ち続ける人はいないわよ」
美加さんは口を尖らせた。ますます空気が怪しくなってきた。
「待つ、待たないをとやかくいうよりも」
悟さんはいいよどんだ。少し首をかしげ、いうべきか迷ったあげく、口にした。
「ホナミとかいう女は、シンゴが連れてきた上でおれの目で確かめる。きちんとしていたら特に問題はない。それはそうと、弓長はシンゴとうまくやっていける自信はあるか」
「あります。小宮山家の人間ならだれでも分け隔てなく」
口から出まかせをいった。正直、いきなり話がこちらに向いたのに驚いたのと、まだ性格も知らない息子とうまくやっていけるか問われてもわからない。けれど、即答しないわけにもいかない。それしか頭になかった。一同がしーん、と静まった。直輝はアジのフライをつまんで一口ほおばり、しゃべれない状況を作った。慌てていたので、あやうく舌を噛みそうになった。
「従業員のことをちゃんと考えてくれてるのよ。弓長くん。三代目は、仕事のときは寡黙だけど、けして息子だけをえこひいきにする人じゃないから」
そういわれ、すこし胸のつかえがとれた。美加さんは、こちらに顔を向けてニコニコと優しく微笑んでいた。
「ありがとうございます。オレみたいな半端もんをちゃんと扱ってくれて。ここに置いてくれるだけで幸せです。ほんとうにうれしいです」
心から感謝したくて、でも、ふさわしい言葉がすぐに見つからず、照れながら浮かんだままの言葉を口に出した。
「気の荒い三代目にありがとうだって。ほんとうに礼儀正しいわ」
美加さんは感心した口ぶりで、頬を緩めていた。
直輝は、褒められて恐縮した。気恥ずかしくて顔がほてり、サラダボウルに盛られ、いかにも新鮮そうなトマトに箸を伸ばした。直輝の心を読み取ったように、泰治さんはふふんと鼻を鳴らした。箸を上にかざし、先を揺すった。
「若いうちは、誰だって礼儀正しい。特に上下の厳しい世界じゃあな。それに」いったんそこで言葉を切って、皺だらけの口をモグモグ動かしてから、「弓長くんは謙虚だ。会ったときからわかった。筋も一本通っとる。だからわしの眼鏡にかなった」と直輝を持ち上げた。
お世辞半分だとしても、よその家族の前で褒められ、直輝は、ますますだれとも目を合わせづらくなった。コップに残ったビールに口をつけ、喉を鳴らしてグビッと飲んだ。気の抜けたビールが苦みを増していた。よそ様の家族団欒が、居づらくあると同時に、不思議とほっとした気分に包まれもした。
数か月たつと、町中によく出かける場所が一つまたひとつと増えていった。業務用の作業服の店以外に、すこし離れた場所にあるコンビニ、必ず立ち寄る本屋、スーパー、コーヒーチェーンのコメダ珈琲店などである。他にも、外食チェーンの牛丼屋、衣料品店、生活雑貨の店なども見つけ、よく出掛けるようになった。店員の中には、色黒で大柄の直輝の顔を覚えた人もいるかもしれなかった。
安城市内には、名所や観光スポットが豊富だった。産業文化公園、マーメイドパレスという名前を冠したレジャープール、道の駅、総合運動公園、安祥城址、丈山苑、秋葉公園、堀内公園、二子古墳などである。「日本のデンマーク」と称しているらしく、やたらと農業を前面に押し出している気がした。産業文化公園に風車があるのも、農業とデンマークにちなんだものだ、と三代目から聞いていた。
直輝は、時間が余ってやることのないとき、名鉄南安城駅からすぐのパチンコ屋に通った。逆に独りで考えに耽りたいときは、公園や神社、城址、古墳などの緑や建造物にいやしを求めた。とくに、丈山苑の庭、部屋の造り、曲水のせせらぎなどを好んだ。ふだん、石を切る騒音の中で一日を過ごす環境に身を置くので、それと正反対の静かな場所に惹かれた。そこが一番のお気に入りだった。
ある日、そのパチンコ屋で休日の時間を過ごしていると、スマホに実家の電話の履歴が残っていた。外に出て、実家にかけ直した。四角い液晶パネルの向こうで、母の妙子の声が電波で運ばれてきた。
「ナオキ。元気でやってる?」
「元気やで。そっちは?」
「こちらはみんな相変わらずよ」
「そうか」
「ところで、仕事には慣れた?」
「すぐ慣れたで。好きで入った世界やから。一筋縄では一人前になれそうもあれへん。けど、簡単にあきらめへんで。オレの夢やもん、石工は」
「えらい自信やね」
「それだけか? 仁志はどうしとるねん」
「仁志はね。転職して、いま飲食関係の店で働いとるんよ。立ち仕事で大変そうやけど、体動かすんが好きやいうとるから。お母ちゃん、そんなに心配してへん。それよりナオキ、危ないことしてへん? 重たい石を扱うんやろ?」
「いまのところ大丈夫や。扱いには慣れた。機械を使うて、手ごろな石を切ったり、墓石を彫ったりするだけや」
「墓石も大きくて重いから、けがせんように気ぃつけや」
「心配してくれておおきに。ところで、父さんはどないしとる?」
「父さんは会社の役員やから、朝から晩まで会社や経済のことばかり考えとる。そういう人よ」
「そうやろな。仁志は結婚せえへんのか」
「さあ分からんわ。私のとこには恋人を連れてきよらんから、まだ先やろ。相手もおらんのとちゃう? 独り暮らしやし、たまにしか実家に戻らん。来ても金せびるだけ」
「そうか。それだけは昔から進歩がないなあ」
「ナオキはどうなん? 結婚は」
「え……。オレか」
直輝は薮蛇やと慌てた。うっかり結婚などと口を滑らせ、自分に矛先が向いた。
「こっちにきて仕事一筋で、そんな余裕あらへん。男だらけの職人の世界やし」
「ええ子がこっちにいたら、見合いでもするか」
「いや、ええわ。遠慮する。まず、仕事で一人前になってからやろ。幸い、給料はええねん。けど、ちゃんと職人として一人立ちできてからでないと、そういう気にはならんわ」
そう言い訳しながら、自分がしっかりと親に対して意見を述べているのに直輝自身も内心驚いていた。
「それだけ考えとるんやったら充分やな。頑張りや。仕事」
「ありがとう。じゃあ、切るで」
「ほな元気で。師匠によろしくね」
妙子は近況を知らせない直輝をさりげなく気にかけ、どうなっているのかを訊きだそうとしたらしかった。
仁志は飲食関係か。先々、どうするんだろう。店長になれるような才覚は、仁志には無さそうだった。仕事で相談があるのなら、兄としていつでも彼の話を聞いてやるつもりでいた。三つ違いの弟は、根が明るくてお調子者だった。人を笑わせるのは得意でも、他人の痛みや苦しみを理解する気持ちが少し不足している。学生時代からそう感じていた。
高校時代の仁志が、なんの連絡もせずに家出したのは、台風が接近中の嵐の夜だった。暴風の中、一晩中、直輝は仁志を探し回った。明け方、家に戻って、直輝は、どこにもおらんかったで、と疲れた顔で親に告げた。
義夫は、「放っておけ。手持ちの金がなくなれば、そのうち帰ってくる」と口では強気だった。本当は心配していたに違いなかった。テレビをつけてそわそわし、家の電話が鳴るたびに肩がビクッと痙攣するのを、直輝は眠い目をこすりながら見届けた。
仁志が家に帰ってきたのは、三日後の朝だった。通っていた工業高校から、欠席の理由を問い質す電話は掛かってこなかった。仁志いわく、仲間とコンビニでビールを飲み、夜更かしした。駅前でチャリンコを盗んだ。湖まで往復し、二日かけて一周してきた、チャリンコはその辺で乗り捨ててきた、と。
義夫が、「飯はどうしたんだ?」と訊ねると、「コンビニでパンやお握りを買った」とうそをついた。陰では直輝に、それらを万引きしたった、と明かして舌を出した。
義夫は、悪い奴め、家族が心配したんだぞ、とまっとうな事実だけをいって、いつものルーティーンに戻った。固い表情のまま経済新聞を読み耽った。
直輝は父親に代わって、
「何がしたくて、こんな家出や万引きの逃避行をしたんや」
と弟の肩を小突いた。
「兄貴になんか分かるもんか。青春のたぎりがおれの中のなにかを駆り立てて、未知の世界へ導いたんや」
まるではけ口のない暴走を正当化するかのように、剥き出しの野性をぶつけてきた。彼の白目には、赤い血管が浮き立っていた。
それが、父や祖父に可愛がられ、いつも比べられた兄への仕返しともとれる愚行の始まりだった。仁志が成人してから、直輝の携帯に何度も、仁志の友人と名乗る男から、貸した金を返せだの、女の落とし前をどうつけるねんだのという電話やメールが入った。そのたびに、ため息交じりに無視した。ある日、
「おまえ、十万円も借りたんか」
と直輝が問い詰めると、
「いいや。五〇〇〇円だけやで。それもちゃんと返した。うそついて兄貴から金を巻き上げようとしとんねん。無視しとけや」
と悪びれない。オレの携帯番号、勝手に教えんなや、と頭を殴ってやった。仁志に関するメールは、うそとも本当ともつかなくておかしなものが多すぎた。あげくの果てに、さんざんメールアドレスを変更せざるを得なかった。
そんな弟だったから、頭から血を流し、破れたティーシャツ姿で朝帰りしようと、知らない女を夜更けに居室に連れ込もうと、たいしたことじゃないと驚かなくなった。
誰でも入れる大学を中退し、ぶらぶらとフリーターをしていた仁志に家から出ていってもらいたい、と親は直輝に漏らした。
「独り暮らしをして、自分で家賃を払わせたら働くようになるし、お金のありがたみや世間の厳しさを少しは分かるんじゃないの」
妙子は直輝に提案し同意を求めた。直輝は、ええ考えや、と賛成し、「仁志、自宅を出て外で暮らしてみろ」と説得したものの、彼はまったく耳を貸さず、知るもんかと聞こえぬふりをして、携帯音楽プレイヤーで音楽を鳴らしていた。
そんな弟だったから、家を出たのと、飲食関係でとりあえず働いている現実を歓迎した。それが事実なら、彼の人生の中ではまじめな方だと思い、枕を高くして眠れた。直輝は、襟元を正し、よそ様に気に入ってもらえるように心を尽くして働く意味を、少しでも感じ取ってくれたら、と仁志に期待を寄せていた。
にもかかわらず、仁志は安城のアパートに押しかけてきた。開口一番、仁志は、
「兄貴、金を貸してくれ」
と学生時代と変わりばえしない台詞を吐いた。
まだねぼけたことを、と直輝は一喝した。三代目に許可をもらい、墓を磨かせて周囲を掃除させた。直輝は腕組みをして監視役になった。一日だけ石工の職場体験をさせて働かせ、懐の財布から五〇〇〇円札一枚を抜いて渡した。
「疲れた。ありがとう、兄貴。こんな仕事をしとるんや」
「それはいいから、仁志の仕事はどうしたんや? 休んだのか」
「いま、店内改装中。しばらく休みに入っとるんや。古い店やから。一週間働かんでええねん。楽やけど退屈でな。やることないし遊びに来たんや」
「本当やろな?」
直輝はじろりと仁志の目の動きを観察した。どうやらうそをついている目ではなさそうだった。
その日はそろって外食し、飯を奢ってやった。
仁志は二日ぐらいアパートに居候したが、仕事が終わって戻った夕方、ありがとう、とメモ書き一枚残してアパートを出ていった。
数か月がたった。その頃から、師匠と三代目は、あえて削岩ドリルを使うのを石割だけに限定した。現場でも石を切るのに玄能のみで加工するように仕向けた。玄能を使った切り方で石垣積みを覚えさせないと、伝統的な積み方、技能が廃れてしまう。他店との電話のやり取りで、そういう会話を立ち聞きしてしまった。
玄能を自在に使いこなせる人間が、見込んだ弟子に技を継がせたいという信念なのか、三代目は、機械を使うときはほったらかしなのに、玄能を使うときは食い入るように玄能さばきを観察するのだった。
石の面に対して直角に玄能を振り下ろすと、石は真っすぐに切れる性質を持つ。削岩機より時間はかからないが、技能の取得にコツと経験が要る。しかし、たとえ時代の波に逆らっても自分たちの技を伝えたい。機械は高価で、いつ壊れるかわからない。彼らの口癖だ。
昔ながらの職人気質を重んじる石材店で修行できるのを直輝はむしろ歓迎した。
仕事がはけた後、毎日夜の七時くらいまで、カン、カン、と乾いた音を響かせ、直輝は練習を行った。使えない石材を地面に据えて固定し、玄能で真っすぐに切る音が鳴り、倉庫にほのかな火が灯る。直輝は、まるで昔の職人見習いが蘇って乗り移ったかのような錯覚にとらわれた。石割に励んでいると、必ず佳子さんがお茶を淹れてくれた。しばらく続いていた音は、ふっと消えた。
「頑張るわね。無理しないでね。続けるのよ」
穏やかで優しい言葉の裏に孫を思いやるような温かみが感じられ、直輝はにっこり笑った。
直輝の確実にやれる作業といえば、まだ、墓石の設置や運搬、間知石を積むときに石を噛ませる作業、裏込め石になる砂利を敷き詰めることぐらいで、あとは道具の片付けと手入れだった。
「昔から徒弟の一番下がやる作業は、鍛冶屋のようなことだ」
師匠はいった。
現代の手入れは、研磨機を回して玄能やノミを車輪で削るだけだ。それでも、慎重に進めないといい道具を使えなくしてしまうらしい。だから最初のうちは、横にピタッと付かれ、手入れの指導を受けた。
直輝は、子どものころから、座学より図工や美術のような手を動かす実技が得意だった。祖父だけが褒めてくれて、いい話し相手になってくれた。大人になり、まだ見せられるような仕事はしていなかった。墓石の文字を見事に彫れたら、スマホで写して祖父に見せたいと思った。義夫に見せても、それはいくらする、どこに価値がある、といともあっさりと興味をそぐ言葉を浴びせられ、撥ねつけられそうだった。
朝は六時半頃に起きる。部屋でテレビをつけながらトーストを齧り、天気だけを頭に入れて大急ぎで着替える。ヘルメットをかぶり、原付バイクのシートにまたがって小宮山石材店まで道を飛ばすのが、来る日も来る日も続いた。バイクの運転も慣れてくると、一つひとつの動作が機敏でリズムを持ち、連続した流れとなった。いつも追い抜く市バスや、老人を送迎するデイサービスのワゴン車の姿を見るとほっとした。それらを見かけない日は、やばい、遅刻しているのか、と焦りを感じ、信号待ちのときに腕時計を見やった。店の朝礼は毎日朝七時きっかりに始まるのだ。
居酒屋『リンドウ』の暖簾が掛けられたのは、四時過ぎのことだった。きょうは夕方四時を回ったころに仕事を終えた。倉庫の石置き場での作業で移動はなかった。裏の勝手口から上がり、風呂場でシャワーを浴びた。先にシャワーをかけ流し、縁側で涼んでいた師匠と三代目は肩を並べ、揺すっていた。なにやら親子で話しているふうに見えた。後ろ姿は丈こそ違うが、背恰好が瓜二つだった。
直輝が上がり体をふき終えたのを、背中にある目が見届けたかのように、着流しの二人は同時に振りむいた。二人とも直輝を飲みに誘った。いつもならば、夕飯を食べてから軽く飲みにいく『リンドウ』は、小宮山家の行きつけの店だ。
まだ、夕方のうちから美加さんに夕飯の断りを入れ、女将が店を開けるのを待って暖簾をくぐった。その日は通いの職人、ユウジも仲間に加わった。四人揃ってカウンターの席に陣取った。
「いらっしゃい。きょうはずいぶん早いのね」
頭のてっぺんから元気のいい声が出た。女将は戸惑ったふうでもなく、いつもと変わらぬ様子で笑顔をふりまく。毎度、常連客として愛想よく迎え入れてくれるのが気持ちいい。
「いつものを」
三代目はここに来ると、必ず先にビールを注文し、支払いをつけにして帰るのだった。
「あては何にしましょう」
女将のユミ子さんは、カウンターに背を向けたまま訊ねた。薄い黄色の塗り壁に掛かっている古びた木版の品書きに目を向けた師匠と三代目は、「砂ずりに枝豆」「刺身の盛り合わせ」と続けざまにいい、三代目が思い出したように、「タコキュウ」と付け加えた。タコときゅうりの酢の物は三代目の好物だ。酢やニンニクは疲れた体にいいんだよな。夏バテなんかのときは、ネバネバするオクラや納豆もいい、とまるで自分にいい聞かせるように、口をついて言葉が出てくる。
小宮山家でもその手のおかずは並ぶけれど、少し暗めの狭い店で、裸電球の明かりに照らされ、酒をやりながら女将や常連と話をしつつ、つまみを少しずつ口に運ぶひとときも、また贅沢で格別な過ごし方だった。それが、乙というもので大人の幸せなんだと、最近になって心に沁みるようになってきた。
感慨に耽っていると、定年退職してからもう一五年以上はたつという近所のハチローさんが店に入ってきた。
「小宮山のお若いの。少しは石に慣れたかい?」
「ええ。まあ……。仕事の話はここでは勘弁してください」
直輝は歯切れの悪い答だと思った。俯き加減に相手から目をそらした。師匠らの手前、うかつに感想を話せないのがもどかしかった。
「きょうもやっぱりはにかんでいるな」
「許してやってくださいよ、ハチローさん。口の堅い奴なんで」
三代目が掌で仰ぐようにして、ご近所の長老をなだめた。ユミ子さんは場の空気を察したのか、話を変えた。
「そういえば、最近、シンちゃんの姿を見かけないね。どうしたんだろう?」
シンちゃんとは、店の常連客の一人だった。この界隈で理髪店を営む江藤さんのことだ。みんな、下の名前のシンイチさんとは呼ばず、気軽にシンちゃんと呼んでいる。
「シンちゃんなら、昨日、駅前で見かけたよ。来週、四九日に当たるとか。満中陰だろ? 法要の準備で忙しくなるって。店も休むって」
「そうなのね」
ユミ子さんは、三代目の情報を信用した。三代目は続けていった。
「納骨するだろう、うちの石材店で。『骨をカロートに納めてくれ』と頼まれた」
「カロートって、あの納棺の匣ね」
「そうだ。先の話になるけれど、『おれのときは簡素がいい。納骨堂にしたい』といっていた。すまん。仕事の、しかも、死ぬときの話なんかして。酒の席にふさわしくないな」
三代目は思わず、片手を後ろに回して頭を掻いた。
「いいのよ、気にすることないわ。ハチローさんも聞かなかったことにしてね」
「もちろんだとも」
このへんの気づかいとおおらかさが、女将の魅力の一つであり、客あしらいのうまさだと得心した。もちろん、器量の良さや身のこなし、着物のセンスなど、どれをとっても安城では一、二を争う女将と巷でささやかれるだけの風情が漂っている。
「ところで、サトルさんのご子息はまだ帰らないの? 心配でしょ」
「先日も……。やっぱりやめとこうか」
三代目の代わりに師匠が口を挟みかけ、言葉を濁した。ここで言葉を飲み込まないと、つまらぬ家庭事情で旨い酒と料理がだいなしになる。そんな気兼ねが透けて見えた。ユミ子さんも、話題がいいづらい方に流れたのを、詫びるようにいい添えた。
「きっとなにかを掴んで帰ってくるわ。つまんないこと口にしてごめんなさいね」
「謝ることはない。その通りだ。若いうちだけさ。自由に羽を伸ばせるのは」
三代目は、息子のバイク放浪旅に関して、拳を握りしめながら平然と構えて取り繕った。弱音ひとつ吐かないのは立派だった。いまのうちだけ遊ばせておくのだろう。帰って跡を継いだら、ギュッと握りつぶす気だ。師匠譲りの頑固者で気性の荒い三代目は、父である前にどこまでも職人なのだと思った。
その晩、三代目らは家族の愚痴をいい合ったり、ハチローさんやあとから来た客を冷かしたりして、遅くまで飲み明かした。最後は、ユミ子さんが呼んでくれたタクシーに相乗りして、四人はそれぞれの自宅へ順々に帰り着いた。
ずいぶんと伸びていた髪を切りに、江藤さんの理髪店を訪れたのは、三月の中旬だった。もう、数えきれないほど通っている。前日に『リンドウ』で飲んで、石材店に原付バイクを停めてあった。自宅から市バスで近所のバス停まで行き、降りて歩いた。石材店の角を曲がり、真っ直ぐ行ってどん突きを左に入った住宅街の一画に、江藤さんの店はあった。
「いらっしゃい。少しお待ちくださいね」
店の扉を開けると、威勢のいい通る声がした。『リンドウ』では静かに盃を傾ける、落ち着いたシンイチさんとは不釣り合いとも思える、元気の良さだった。土曜の昼どきとあってか、客の姿は一人だけだった。茶色の長椅子に座り、目の前の新聞に手を伸ばす。アパート暮らしの直輝は、新聞を取る余裕もなかった。こうしてたまにいろいろな店で目にする新聞や週刊誌の見出しをざっと眺めて、目を通す程度だった。
浮世はいろいろあるもんだと、おもむろにページをめくっていると、本棚に新しい漫画を見つけた。新聞を元に戻して一巻を読み始めたら、けっこう面白い。のめりこんで時間を忘れていたら、「次の方、どうぞ」と声が掛かった。しかたなく、またのときにと思い、立ち上がってシンイチさんに愛想笑いを浮かべた。いや、苦笑いに映ったかもしれなかった。いつものように椅子に座ると、手際よく大きなビニールをてるてる坊主のように掛けられ、蒸しタオルで髪を拭かれた。すぐさま、「どうしましょう」の常套句が耳元で響いた。
「いつもの短さで、少し多めにすいてください」
毎回同じ台詞をいっている。シンイチさんは、手早くくしを入れ、チョンチョンチョンと小気味よくはさみを動かして髪の長さを揃えながら、左右に素早く動いていく。切りながら、「最近どうですか」と訊ねてきた。
「仕事はボチボチです。まだ機械頼みで、道具はちょっと」
「大変でしょう。石屋さんも。お墓が中心でしょ?」
「そうですね。時代の流れですかね」
「その分、常連さんを大事にしないとね。まあ、うちもなんですけどね」
豪快に笑い飛ばし、シンイチさんは大きく肩を揺すってみせた。長身の痩せた体がひょこひょこと上下する。
「本当は、玄能っていう道具をマスターして、きれいな石垣を作ってみたいんですよ。師匠もお年を召されているし、名工が高齢化して減る一方なので」
「なるほど。偉いですね。昔ながらの技能ってやつですか」
「ええ。機械はだれでもすぐに覚えてしまって、面白みというか、石工の仕事の良さがわからないと思うんです。やっぱり丁寧に仕上げる手彫りで墓石に字を刻んだり、苦労して城や公園の石垣を修復したりする人間も必要です。そこで初めて道具の良さに気づく」
「確かにそうです。手先が一番ですよね」
「切るだけ、彫るだけでは味わえない技と深みを知りたい。極めたいんです」
「立派な職人さんだ。それだけの志があれば、きっと上達します。小宮山さんのご家族も、ふるさとにいるご両親も、喜ばれますよ」
「ありがとうございます」
いわれたとおりかなと思うと少しこそばゆくなり、目をギュッとつぶってみた。なにも見えないはずの瞼に祖父と師匠が対面して肩に手をやるような幻影が浮かんだ。気を取られていると、父と母が、川沿いの土手で手を振りながら遠ざかっていく場面に変化していた。
「だいたい後ろはこんな感じになりました」
そのひと言でパッと目を開け、蛍光灯のまぶしさに目をしばたたいた。前方の大きな鏡に三面鏡を手にして広げるシンイチさんの姿と直輝が映り込んでいる。後ろ髪を確認し、
「それでいいですよ」
と二、三度軽くうなずいた。
今度は前方に回り込み、前髪を切り始めた。細切れの髪の毛が目に入らぬよう、また目を閉じる。軽く閉じたら、赤い瞼に二文字の熟語が浮き彫りになった。地道――。まさにいまの心境の暗示のように思えた。地面にしっかり足を踏ん張って、一筋の道を行くんやで。ええな。祖父の魂が心に語り掛けてくる気がした。
頭を洗い、ドライヤーで乾かしながら、シンイチさんは締めくくった。
「これからが大変でしょうけど、二代目も三代目もいい方たちですよ。うちもずっと世話になっていますから。お互い様ですけど」
お世辞に聞こえない言葉に、思わず、実直ですね、といいかけてやめた。みんな口に出さないだけだ。ここへ通えば、それが信頼と縁になるに違いない。
仕事以外で、落ち着ける場が少しずつ増えていき、うれしくて胸が躍った。帰りに、石材店に停めたバイクにまたがり、エンジンをかける。吹かしたエンジン音が、ソウダ、ソウダ、ヨカッタナ、と妙なラップ調で耳をつんざいた。
仕事を終えたあとはいつも大変だった。小宮山家のシャワーを借りてひと汗流してから、替えのシャツに袖を通し、さらなる特訓を自分に課した。けっこう体にきつかった。裏の倉庫で、要らなくなった石材を切る練習に明け暮れた。玄能で真っ直ぐに切る練習に加え、古くなって余った墓石に字彫りする訓練も重ねた。ノミを槌で打ちすぎて、ノミを持つ左手の親指がすぐに腫れあがる。バケツに冷水を張り、ときどき指を冷やしながら練習を続けた。師匠の左手の異様に太い理由がわかった気がした。左手は石の粉だらけになった。
天井から懐中電灯をビニール紐でくくって吊し、手もとを照らした。夜八時過ぎまで打ち込みを続ける日もあった。なかなか思うようにいかないけれど、感覚を覚えなければ仕事にならない。近所迷惑かと思ったが、不思議とどこからも苦情はこなかった。そのうち、ある考えを思いつき電気を消した。真っ暗闇の中、手探りで石を触りながら字彫りする練習に切り替えた。最初は背中から腕にかけて震えた。が、自分で恐怖心に打ち勝たないと暗がりを恐がる性質はなおらないと思い、三年間続けた。それは石工の修行半分、精神修練半分だった。暗がりに耐えて、ノミさえ持てば心が落ち着いた。
ときどき仕事終わりの夕方、ご近所さんが安城市内で採れた梨を幾つかレジ袋に入れて差し入れてくれた。お墓にも、特産の無花果が添えられているのを見たことがある。
「奇特な方もいるもんですね」
直輝は真顔で話した。師匠は笑いながら、
「お前の方が奇特なんだよ」
と切り返した。まじめに修行するのが奇特なのかと首をひねったが、早く一人前になりたくてノミを握った。
冬になり寒波が来ると、昼間でも外の作業は足腰が冷えた。作業着でも冷えた。ユウジに相談してみたら、膝を叩いてガハハハと大胆に笑った。直輝もつられて笑った。仕事以外で、妙に打ち解けた気になった。
師匠は、寒かろうが暑かろうが、一年中、小柄な体をしゃんと伸ばして仕事をする。墓石や墓誌に手彫りで文字を刻むとき、師匠の眼光は鋭さを増す。それとは対照的に、玄能を持って間知石を作るとき、師匠は柔和な顔つきで石を切り出す。
「墓石に字を彫るときは、石に添えるようにしてノミを当てるんだ」
師匠は口癖のようにいった。
石は切るものだ。墓石だからといって、叩いちゃいかん――。
最初にそう教わったのを思い出す。小宮山家に呼ばれて食事をともにしたあと、若い頃の石垣加工の苦労話をされるときの師匠は、目を細めて当時の様子を話したものだった。
ある冬の晩だった。勤め出して二年が過ぎていた。三代目が電話口で、「そうか、よかった」と声を弾ませる後ろ姿を、廊下にあるトイレの帰りに見聞きした。シンゴのことだろうと直感した。とうとう大きな変化が始まると思った。
シンゴは突然帰国し、家業を継ぎたいと申し出た。予想していたとはいえ、複雑な心境だった。自分より若い人間が四代目を継ぎ、直輝は彼に雇われる身分になるからだ。一人前になるのに最低五年かかるとして、その間に直輝は身の振り方の計画を立てなくてはならなくなった。師匠も三代目も、直輝の世話をどうするかには触れたがらなかった。
半年のあいだに復学したシンゴは、不足していた単位を取った。その年の春、無事に卒業した。東京の下宿を引き払って一週間後には、安城市に戻ってきた。
いつの間にか、弟子の直輝が出入りしているのをめざとく見つけ、話し掛けてきた。
「アンタ、誰だ?」怪訝そうな顔は強張っている。
「弓長といいます。二年前からここで働き出して」
いい終わらないうちに、説明を無視してプイと横を向き、彼は立ち去った。挨拶ぐらいせえよ。直輝は、ムッとした。そのうち、職人の厳しさを知り、礼儀や態度を改めるだろうと思った。いい方向に進むのを直輝は期待した。
廊下の向こうの裏口で声がする。四代目が三代目に大きな声で挨拶していた。
「父さん、久しぶり」
「実家はどうだ?」
「やっぱり、落ち着くよ。旅の連続だったしな。それより、おれの面倒、よろしく頼むぜ」
「ああ、任しておけ」
「なにせ、おれが四代目を継ぐんだからな。嫁さんをもらって男を産ませれば、小宮山石材店も安泰だ」
会話は筒抜けになっていた。少し態度がでかいな。直輝はその話を立ち聞きして思った。案の定、三代目からお叱りの言葉が飛んだ。
「四代目を意識する前に、職人のはしくれとして、もっと謙虚になれ。横柄な言い草に気をつけろ」
「そうか」
「お前なんて、まだ赤子同然なんだ」
最後のきついひと言はさすがにこたえたと見えて、シンゴは軽く首を下げ、裏庭へ通じている勝手口を出ていった。
三代目は四代目を厳しく指導した。直輝は、いままで目をかけてもらっていると思っていた気持ちが逆に振りきれた。いつ辞めてもらっても構わないと見くびられていたのかと悪い方に考え、肩を落とした。いつまでたっても給料は手渡しの後払いで、親切にはしてくれたが、よそ様に伝えるような丁寧な教え方に終始した。最初こそ手荒かったが、ときを経るにつれ、理由を説明し、納得させた上で石を切らせている。そう感じた。どこの石材店に出しても恥ずかしくないだけの基礎を叩き込んだとでもいうべきか。
一方、四代目は、小宮山石材店の社長として看板を背負うことになる。うっかりミスして信用に傷をつけることなど許されない立場だ。親子の絆の壁を取り払って、三代目の持つ技能と心意気と長年培った経験を受け継いでもらわないと小宮山家は困るに違いない。途中で逃げ出すようでは、四代目は務まらない。いや、もし仮に逃げ出したら、日本中を探し回ってでも居どころを見つけ出し、耳を引っ張って連れ帰り、いっそう鍛錬させることになるだろう。
まず、三代目は削岩ドリルの扱いを教えた。直輝と三人で採石場に連れていき、直輝にドリルで原石を割らせた。ドリルで穴をあけ、せり矢をかませ、ハンマーで二つに割る。三代目はそれと同じことを四代目に命じた。四代目は動きこそぎこちなく、時間もかかった。初めてにしてはまあまあの出来栄えだった。次は割った石から間知石を作る。削岩機を直輝に持たせて、「手本を見せてやれ」と三代目は腕組みをしたままいった。直輝は、これまでしてきたとおり、削岩機の刃を付け替えて、半分に割った原石を真っ直ぐに切り落としていき、直方体をたくさん作った。少し休んでから、そのうちのひとつの直方体を地面の砂地に固定し、削岩機で四角錘の石になるよう、きれいに削り取った。
「すげー。機械一つでそこまで作れるのか」
四代目は感嘆の声を漏らした。直輝は、二年半の経験の弟子でもこの程度はできると胸を張った。三代目は、
「それが間知石というものだ」と説明し、「今度はお前も弓長の真似をしてやってみろ」とまた命じた。
四代目の顔が少し青ざめた。しかし、彼は、機械だから簡単だろうと高をくくって鼻を鳴らした。
「簡単そうだな。おれでもできるぞ」
三代目の目つきが鋭さを増した。四代目は機械のスイッチを入れ、刃を回転させた。直輝は手伝って直方体を固定した。四代目は削岩機の刃を当てていく。ギュインギュインとけたたましい音が鳴り響き、白い粉が噴き出す。石は少しずつ削られていく。ただ、石の表面は少し波打っていた。ときどき直輝に助言を求めながら、なんとか直方体ができた。その仕上がり具合も、かかった時間も、機械を使ったにしてはお粗末だった。直輝の仕上げたのと雲泥の差なのはだれが見ても歴然としていた。
「ちょっと失敗したぜ」
四代目は舌打ちした。ふて腐れて横を向き、そのへんにあった小石を蹴散らかした。へっ、と直輝は嗤った。
「みろ、下手くそが。経験の差だ。赤子なんだから、弓長の技を盗め」
三代目は、四代目の恥をかくのを承知の上でいい放った。腰に手を当て、やれやれといわんばかりにひとつ大きなため息をついていた。
「そのうち慣れてくるよ。弓長なんかに負けるもんか」
シンゴは剥き出しの対抗意識を燃やしながら威勢のいい言葉を吐いた。ええ度胸しとるやんけ。職人の魂を叩き込んだるわ。直輝も眼を飛ばし、睨みつけてやった。
毎日採石場に通いつめ、間知石を切り出す作業に追われた。四代目が削岩機で荒い間知石を切り出し、直輝と三代目が代わるがわるきれいに整えて仕上げる。そんな作業の段取りだった。原石から直方体を切り出すのも四代目が行った。原石から間知石まで作るのを二、三回繰り返すうちに、少しずつ要領をつかんだ四代目は、使えそうな間知石をひとりきりで作れるようになった。
「なんとなくやり方がわかってきたぜ」
「そうか」三代目は無愛想にいった。
「ところで、これだけの間知石を作って、どうするんだ?」
「『どうするんだ』じゃない。『どうするんですか』だろ!」三代目の雷が落ちた。
「お前は小宮山の人間の中で一番下っ端の弟子だ。全従業員に頭を下げろ。敬語ぐらいまともに使え!」三代目は、もっともな意見を述べた。
「どうするんですか、三代目」
四代目はやや恐縮し、いい直した。言葉遣いが謙虚になったのを見て、
「これは店の裏庭に運ぶ。他の業者へ販売するために。残り半分は、鹿乗川の改修工事に使う。堤防の景観の修復用だ。間知石を使った自然石を一部採用するんだそうだ。伊勢組が請け負った仕事の一部だ」
と三代目は説明した。
「じゃあ、半分は小宮山の裏庭行き、もう半分は鹿乗川行きなわけでございますね」
四代目の確認は、少し敬語がもつれた。
「全部うちから納品するわけではない。土木に使うにせよ、業者に販売するにせよ、どちらも市民の目に触れる。きちんと作れ。きれいに仕上げろ!」
いって含めた三代目に、直輝と四代目はただ頷くしかなかった。石材店に戻った四代目は、自宅の風呂場で真っ先にシャワーを浴びて汗を流し、ライダースジャケットに着替えて立派なバイクにまたがり、爆音とともに夕闇の町へ走り去っていった。
次の週は、現場が変わった。よく通った馴染みの公営墓地だ。棹石の付け替え作業だと聞いていた。ふと、四代目がここに来ることはあったのだろうかと思った。
いくつかのノミと槌の入った重い鉄製の道具箱を肩越しに担ぐ四代目の姿を見て、直輝は二年前の自分とダブらせていた。あの当時は、師匠に連れられ、車のハンドルを握りながら、頭の半分は、これから取り掛かるだろう作業のイメージを勝手に頭に浮かべていた。師匠がなにかいうまいかと心臓の鼓動はどくどくと波を打った。何しろ、手紙をしたためた相手であり、弟子入りを許してくれた恩人である。
その点、四代目は、仕事に対するいい意味での緊張がまだできておらず、むしろ気合いばかりが先走っているような雰囲気を感じ取れた。
霊園に続く国道沿いに、等間隔で同じ高さの並木が直線状に植えられていた。一様に若葉が芽吹いて青々とした葉を広げていた。春光のエネルギーを透けた葉いっぱいに受けているのがわかった。
霊園に着いた。きょうの天気は曇り時々雨だった。三代目は、比較的広めの駐車場のスペースに、トラックをバックで停めた。うちの石材店はどこの霊園でも月極で駐車契約をしていないので、他の参拝客で一杯になる日は、近くのコインパーキングに駐車しなければならない。他の霊園ではそういうことが起き、その時間やかかった料金を日誌につけ、しっかり請求書に計上しておくのも仕事のうちだった。
橋目霊園に入ると、しーん、と静まり返っていた。ここに来るたび、町中の喧騒とは隔離された空間のような気がする。周囲には田畑が広がり、のんびりした環境だった。直輝には見慣れた墓石がいくつか並んで建っていた。墓石の一つひとつが、ようこそと出迎えているような清々しさを覚えた。
四代目はいつになく寡黙で、先頭を行く三代目のすぐ後ろをぴったりとくっつくようにしてついていっている。三代目は、直方体の花崗岩が墓同士の間に置かれたところで立ち止まった。新品の花崗岩は、どうやら藤岡石らしかった。石の種類を詳しくは覚えてないが、白っぽくて目が荒く、薄い斑点があるのを目に焼き付けた。あとで店の棚に置いてある石材辞典で調べたら、愛知の石でやはり藤岡石らしい。他にも、宇寿石や挙母御影、高級石材には稲武石、牛岩石、常盤御影、鍋田御影などがあると頭に入れておいた。
目の前にあるはずの棹石はすでに撤去されていた。古びて色のはげた台座があるのみだった。施主様の予算もあり、台座となる上台と中台、下台はそのまま残し、一番上の棹石だけを新品にしたいというリフォームの注文を承っていた。店に帰って訊いた話だと、ユウジともう一人の先輩が三股とチェーンブロックで元の古い棹石を吊り上げ、慎重に寝かせてコロで運び出したらしい。今回は三股を使わないでやると三代目はいった。新品の棹石が百キロ程度なので二人で持ち上げられるとの計算だ。
「基礎と台座はこのままでいく」
四代目はそれしか言葉を発しなかった。あとは、顎で横たわった石を示し、直輝と四代目の顔を指さした。
「この石を台座の上に立てるんですね」
四代目は確認すべく、三代目の顔を見て同意を求めた。直輝もつられて三代目の方を向き直る。三代目は軽く瞼を閉じて、小さく頷いた。どうやら、上台や中台、下台、カロートはそのまま手をつけないらしい。
男二人なら高さ二尺一寸ある棹石を持ち上げるぐらいは簡単だ。四代目と相談して、地面をテコにして寝ていた棹石を真っ直ぐに立てた。そこからが問題だ。地面に相撲取りが一人、でんと立っているのと同じで、そのままでは持ち上がらない。石と地面の間に隙間を作らねばならなかった。三代目は黙ってじっと見つめていて、なにも助言をくれなかった。そのうち、空が黒くなり、雨が降り出した。雨粒がヘルメットや肩を叩いていく。
直輝は考えた末に、そのへんにあった小石を使うことにした。棹石を一方に少しだけ傾け、隙間を作って小石をかませた。同じことを反対側にもする。四方に小石を挟んで地面と底面に隙間のできた状態になった。次に、三段目の一番小さい四角形の台座をきれいに拭いて、墓石用の強力ボンドを塗った。持ち上げるときは、二人で呼吸を合わせないとどちらかがバランスを崩したら怪我をする。最後は、二人で、せーの、と声を掛け合い、よっこいしょ、と声に出しながら中腰で持ち上げて、グローブをはめた手で慎重にソーっと運び、水平かつ真ん中にくるように据え付けた。
なんとか成功した。ほんの五、六秒がすごく長く感じた。かなり集中して石のバランスを取ったつもりで、水平器で左右に偏りのないのを確認した。さほど時間は要しなかった。若い二人だし、それほど重くも感じなかった。
この手の作業は、三股とチェーンブロックを使い、一人がチェーンを引っ張る係、別の一人がバランスを保ちつつ真ん中に据え付ける係と、分担して行うのが普通だった。狭い墓では、若い職人の体力に任せて人力でも運べるのが証明された。
上台に据えると、ふうと安堵の息が漏れた。四代目も神経を使ったと見えて、目をしばたたかせていた。四代目は一仕事を終えたと勘違いし、ズボンのポケットから電子タバコを取り出そうとして、三代目に制せられた。
「こら。採石場ならともかく、こんな場所で仕事中に吸うもんじゃない」
三代目に一喝され、四代目はしゅんとなった。三代目の思っていることが読めた。いわんとするのは、参拝客などが出入りする場所で、「小宮山石材店」の刺繍の入った作業着を着て不作法なことをし、店の信用を落とすな。霊園という神聖な仕事場をみだりに汚すな。そういうことだろうと推測した。
「グズグズするな。さっさとこれで磨け」
指示が飛び、研磨布紙と洗浄剤、スポンジに雑巾の入ったバケツを手渡された。うちの石材店では、他店同様、契約に応じてお墓の洗浄サービスから、墓石の表面のコーティング加工、耐震加工、外柵や水鉢、香炉、墓誌などのリフォームまでを引き受けている。今回のように、古くなった墓石本体のみの取り替えだけでも、付属品のクリーニングをサービスして請け負っている。広い霊園なら、クレーン車で吊り下げて移動するのだが、橋目霊園は平坦な土地に墓同士が近接して立っていて狭かった。土地は余っているが、間隔が詰まっている場合、人力作業か三股とチェーンブロックを使うことになる。今回はその両方のパターンを試したのかもしれなかった。その日の作業は、棹石の付け替えと、墓石や付属品のクリーニングのみで一日の終わりを迎えた。
次の日は、師匠とユウジ、別の先輩を加え、六人全員で店の倉庫に集まった。字彫りをするために第一人者が呼ばれた。まず、師匠が手本を見せた。ノミを石に当てて昔ながらに槌で打った。火花が飛び散った。が、少し彫っただけで、すぐにノミを置き、作業を止めてしまった。直輝らはノミの当て具合をわずかの間、観察しただけだった。単なるデモンストレーションか? 息を殺した。続いてノミを握るものはいなかった。
三代目が前に進み出た。直輝に顎で、施主様から発注を受けた本番用の棹石を運ばせた。すでに専属の書家の書いた漢字書体を書き写したゴムシートが貼られている。朝のうちに字の輪郭に沿ってゴムシートを切り取ってあった。その後ろでユウジが仰々しい大きな機械を据え付け、棹石に設置した。丸い穴が開いていて穴にゴム手袋が取り付けられていた。機械の外から中にホースが伸びて、先にノズルのようなものがあり、機械の穴に付いたゴム手袋でノズルを握る。特殊な砂を拭き付けて彫るやり方だった。サンドブラストと呼ばれている方法で、鉄の砂を高圧で噴射して石を削る。あえて、機械による拭き付けの彫刻を教える様子だった。こちらでやってみろと、三代目は直輝に任せた。単価の安くて主流の機械彫りだった。
直輝は、ゴム手袋に腕を通し、ゴーグルのついたマスクをして、ガラス製のぞき窓から棹石を確認した。右手でノズルを握り、左手で機械を押さえた。足元にあるスイッチを踏みながら、ホース先端のノズルから激しく飛び散る砂粒を噴射させた。数秒もたたぬうちに高圧の砂が石に穴を掘り、字の溝が仕上がっていく。朝の打ち合わせ通り、「上里家先祖代々之墓」と書かれた棹石の左側面を前にして、「慈光院清心寛裕居士」という埋葬者の戒名だけを直輝が彫った。
「次は四代目の番だ。おまえは、紙に書いた没年月日を彫れ。数字を間違えんなよ」
けさコピー機で複写して、打合せのときに配布した埋葬者の戒名、没年月日、享年の紙の上に目を落としながら、三代目は命じた。四代目はマスクをつけ、直輝から機械の説明を受けると、足元のスイッチを入れた。穴に手を入れ、ノズルを握って石に砂を当てた。音は箱の中でザーッと響く。外は静かだ。削れていく粉は細かい粒子となって、四方に飛び散った。飛び散った粒は排風機で送られた風に飛ばされ、吸い込み口から吸いこまれた。棹石の側面に戒名を彫り終えたところで、「享年は弓長がやるんだ」と、三代目は命じた。
漢字を最後まで彫刻し終えた。ユウジと先輩が共同で機械を取り外した。字が彫られた棹石が姿を現した。まだ完成していない。二人の合作のまずいところを三代目が手直しする。チッパーという手彫り用の機械にノミを差し込んでノミを振動させて彫るやり方だった。三代目は丁寧に仕上げた。ジー、ジーという振動音が倉庫内に響いた。サンドブラストの機械彫刻をチッパーの手彫りで仕上げるのは、「サライ」と俗にいう。それをやる石材店や職人は少ないが、手彫りで機械の荒さを補える。本来、師匠のように完全に手彫りでやる方が汚れにくく、彫った字が欠けてくる心配はないし、見た目も美しい。
今やサンドブラストも倉庫に棹石を持ち込んでやるより、小型の携帯用を現地に持っていき、露天で作業をする石材店が主流だった。天気さえもつなら、工期も短縮できる。小宮山でも、携帯用のサンドブラストを購入することになっていた。サンドブラストを使うやり方なら、イラストを墓石に彫刻できる長所もあった。コンピューターで書いたイラストをゴムシートに転写し、彫刻用のノズルに付け替え、ノズルで自在にイラストを彫刻するのだ。
音が鳴りやんだ。作業は終わった。
四代目は、一週間ぐらいサンドブラストの特訓を受けた。石材店の倉庫で、不要な墓石を使って練習を続けた。
次の週から、四代目と直輝が交替で機械彫刻を行った。三代目は仕事そのものより、道具の扱い方や、機械作業を終え、倉庫内の床に飛び散った石の粉を丁寧に掃除して一日の作業を終えるのを、口うるさく指導した。さぼりこそしなかったが、四代目はやはりバイク好きで、仕事の汗をシャワーで流すと、すぐさまライダースジャケットに着替え、町中を、爆音を響かせて走りにいった。
季節が巡り、桜が咲いた。風に吹かれて薄桃色の花はきれいに散っていった。
業界は機械化を推し進め、人手不足と時間の削減を図るように動いた。小宮山石材店も四代目が正式に社長の座に就いた。四代目は機械化を推進し、単価の安い商品を売りにした。サービスや付属品などを強引にセットにつけて新規の施主様と契約を結ぶのに奔走した。四代目は、まだ石材業界や資金調達に慣れていなかったせいもあり、経営は不安定に陥った。そんな業界の流れや彼のやり方に疑問と不満を持った三代目は、ある日、直輝に頭を下げて頼んできた。
「弓長、頼む。四代目を説得して、手彫りの良さを伝えてやってくれ。いまは手彫りもチッパーにノミをつけて彫るだけだ。技術はおれがあいつに仕込むから」
そこまでいわれて、断れなかった。他人に息子の教育まで頼むかと思ったが、あのときの一件を思い出した。
暴行土下座事件だ。四代目が働き始めて一年と数か月が過ぎたころだった。直輝は三〇半ばにさしかかり、世間のことがわかりかけてきたと思っていた。そこに甘さがあった。
A社の石材店に納品するはずの石を壊される事件が起きた。A社はいわくつきで、かねてから暴力団と付き合いがあると噂されていた。それと前後して、同じA社の扱った墓石に大きな傷跡がつけられたとクレームの電話がうちにきた。A社の社長自ら、血相を変えて怒鳴り込んできた。三代目と四代目は、すぐに原因を調べます、とその場で謝り、示談金を払う交渉をした。気の荒い四代目は、
「弓長がやったな。若いおれに恥をかかせやがって」
といきなり頬をげんこつで殴りつけ、直輝はその場に倒れこんだ。明らかな濡れ衣だった。痛みと悔しさだけがちくちくと胸を刺した。三代目は事情を知っていたが、ここは弓長が泥をかぶってくれと耳打ちされ、A社の社長の前で土下座し、
「オレがやりました。すみませんでした」
とうそをついた。四代目はそばにあったバリカンを手にして、有無をいわせず直輝の頭を丸めはじめた。なんてことをと思いながら、瞼の裏を熱くして、耐えるしかなかった。
やるせなく理不尽なことはいろいろあった。ノミを紛失して仕事にならず、鍵をつけて道具を管理するようにし、責任の所在をはっきりさせるように変わった。もう石工なんて辞めたれ。何度も思った。捨てる石材にノミをあて、八つ当たりした。憂さ晴らしにノミをめちゃくちゃに打ちまくった。悪いことは重なり、その頃から、長いあいだ屈むと膝が痛むようになった。石工稼業を辞めようかと真剣に悩んだ。
丸坊主になった深夜、バイクを停めて自宅のアパートまで歩いた。なんとなく嫌な予感がした。それは的中し、あの光景が再現された。暗がりで大型バイクが直輝を襲った。直輝は、腰ベルトに財布をつけていた。こんどは逃げないぞ。直輝は家のそばの工事現場まで走った。鉄パイプを握り、突進するバイクをかわして素早く相手の腕から胸めがけて力いっぱい振りかざす。鉄パイプを体に受け、ハンドルを離した犯人はバイクから吹っ飛んだ。相手にかなりダメージを与えた様子だった。バイクはスピンして横転し、大きな音を立てて住宅の壁に激突した。犯人は足腰を打ったと見え、地面に体を伏せている。
「てめえ、何者だ?」
黙って答えない。直輝は足で相手の腕を踏みにじった。相手はぎゃあああと雄叫びを上げた。すぐに警察に電話したが、名前は告げなかった。うずくまる犯人を見捨て、直輝は現場をあとにした。パトカーの音が遠くで聞こえた。傷害未遂か。直輝はほっと胸を撫でおろした。
しかし、四代目の圧力を考えると、その晩は眠れなかった。明け方、荷物をまとめて本気で出奔しようと企てた。こっそり下宿を去ろうとして、名古屋まで向かう電車の中で、三代目から電話がかかってきた。
「いつもより遅いぞ。もう朝礼は始まっとる。どうした?」
「……」
「まさか辞めようと考えて逃げたな?」
見透かされた。電話で三代目からこんこんと説教された。
「簡単に辞めるのは許さんぞ。こっちは、責任持っておまえを預かっとるんだ」
そのひと言で目が覚めたと同時に、祖父の空洞のような暗い顔とケンジさんの土下座姿が頭に浮かび、思いとどまった。畢竟、石材店に戻った。
あとで知ったが、四代目のバイク仲間のひとりが暴力団の準構成員で、そいつが仕掛けた罠だったのだ。四代目がA社と高額な取引がしたくて、仲間に金を渡してやらせたとか、石の傷は違う組員の仕業だとか、さまざまな憶測が狭い業界で流れた。ユウジを始め、小宮山の人間は四代目以外、直輝をかばってくれた。
一方のバイクの犯人は罪を認め、傷害犯があのホテル前の強盗犯と同一人物だと警察から電話で知らされた。大型バイクに乗って暗がりで襲う手口が、名古屋の件と今回と酷似していたらしい。思いがけず、被害に遭った金が戻ってくるという。直輝は喜んだ。仇を討ったのだ。あれから数年経ち、犯人を撃退し、金を取り戻せた。逮捕された傷害犯も四代目のバイク仲間で、やはり暴力団の準構成員だったという。同じ穴のムジナだった。
その件をきっかけに、四代目を差しおいて腕のいいのを見せるような真似は控えようと自分にいい聞かせた。気概も失せた。三代目、四代目の流儀に従い、彼らの顔を立てること、常連客の上里さんなどを丁重にもてなし、新規の施主様に対しても同様の態度を信条として、相手の心に寄り添うようにして話をよく訊くことを心掛けた。
店に戻ったとき、師匠は直輝に諭してくれた。
「弓長くんは目立つ存在だ。四代目のシンゴもよく思ってないぞ」
「それは……。なんとなく気づいていました」
「気づいているなら、なぜ四代目を立てない? 確かにシンゴが帰ってきて、周囲がぎくしゃくしたかもしれん。けどな。そうじゃない」いったん、そこで息をついた師匠は、虚空を見つめながら、継ぐべき言葉を探しているようだった。
「激しくぶつかりたいならぶつかって、いつ店を辞めてもらってもいい。長く石工として勤めあげたいのなら、相手の顔を立てろ。経験や技能なんてあとからいくらでもついてくるもんだ」
直輝は返す言葉もなく、目をそらして黙り込んでしまった。
「出る杭なんだよ、きみは。でも、出る杭は打たれ強い。石に従うのが石工の心であるように、この店の持つ人間模様に自然と染まれ。もっとなじめ」
いわれたとき、師匠の言葉でもかっときた。直輝の顔は茹蛸のように顔が真っ赤になった。けれど、時間をおいて冷静になると、それは確かにその通りだと思った。腰の低い態度を見せれば、人はついてくる。四代目と心が通じるかもしれない。
そう思い直して以来、直輝の態度や目つきに変化があったのか、四代目とのいがみ合いや嫌がらせはぷつりとなくなった。考え直してよかった。きっと祖父もそうしたに違いない。あのとき、出る杭は打たれるということわざを師匠流にアレンジした言い回しに改めて感動した。いま思い返してみても、涙の出るほどありがたい言葉だった。
直輝は説得を試み、四代目もしだいに角が取れたのか、商売や手彫りに関して、直輝や三代目にきちんと相談してから決断を下すように変わっていった。
「弓長さん。これ、チッパーでその価格で仕上げられませんか」
「三代目と話して、手彫りと機械彫刻を施主様に選びやすいよう、二体のサンプルを作ろうと思いますが、協力願えませんか」
直輝はもちろん二つ返事で首を縦に振った。その時期を見計らい、あいた時間に手彫りを一緒に練習するようになり、四代目から一目置かれるようになった。
「手彫りは長持ちするけど、本当に大変ですね」
「うん。でも見積もりが高く、納期が遅くなっても、丁寧な仕事をするとうれしいだろ」
「うれしいです。職人になったって気がします」
四代目はようやく直輝に心を開いた様子だった。歯車の噛み合わせが油をさしたように滑らかになり、いい方向に回り始めて、経営も安定しだした。
きょうはユウジも交え、七人で食卓を囲んでいた。
「弓長くん、シンゴとうまくいったじゃない。シンゴの模範生として雇ったのよね?」美加さんは三代目に、うれしそうにいった。
「『いい奴がきた。シンゴが帰ってくるまで置いといて、職人として育てようと思うが、どうかな?』と二代目に相談を受けた。おれは、親父の思うようにすればいい、と了承しただけだ。最初から二代目がそう思っていたのなら、そうなのかな」
三代目はいった。四代目は、黙ったまま食べることに専念していた。照れを隠すようにも見えたし、本音は、意地悪したのを謝りたくて、もどかしさを押し殺すようにも見えた。
夕食後、四代目はいつものように町へ走りに出かけ、直輝と三代目はユウジを誘って三人で『リンドウ』に飲みに出かけた。
師匠は家に残った。体のことを気づかって、最近飲む回数をセーブしているらしい。
祖父が亡くなったのは、仕事のきつい夏の盛りだった。その年の八月、盆明けの二〇日。訃報を仁志がスマホで知らせてきた。師匠に申し出て、二日だけ休みを取った。大阪に戻ると、葬儀会館で通夜の準備が進行していた。父、母、弟に、父方の叔父、叔母など親戚が集まっていた。喪服の直輝は挨拶し、喪主の父に訊ねた。
「爺ちゃんの亡き骸を見てもええ?」
「見てやってくれ。ええ顔しとる」義夫はいった。
桐で出来た棺の小窓を開くと祖父の眠るような顔が見えた。白装束のせいか、顔はよけいに白く、体全体は少し痩せていた。仁志は、人間が死ぬとこうなるのかとめずらし気に横からのぞき込んだ。死因は老衰だった。数週間前に入院し、病院で眠るようにして早朝に息を引き取ったらしい。ちょうど米寿で亡くなった計算だ。妙子は祖父の死に際に、「直輝が立派に一人立ちできた。お義父さんのお陰です。ありがとう」といって手を取った。あとで聞かされた。同じ台詞を心の中で述べた。爺ちゃん、ありがとう、と。壇上に高く飾られた遺影を見上げると、優しそうな祖父が相好を崩して、いまにも励ましとねぎらいの言葉を掛けてきそうだった。仁志は通夜の控室で、別の飲食店で働いている、調理師免許をとり店で重宝されている、とぶっきらぼうにいった。
日曜日の午後、さっぱりしたくて、江藤理髪店まで原付バイクを飛ばした。丸刈り頭から髪は不細工に伸びた。昼の二時過ぎで、客が三名いた。それでも、なじみの店を変えたくなくて、長椅子に並んで座り、順番を待った。
腕時計は三時半を示していた。例の漫画を一巻から二五巻まで読み終えていた。間があいていたので、キャラクターを振り返りながら読み進め、二八巻に差し掛かった。棚には三〇巻まで揃っている。筋にのめりこんでいると、きょうも、「次の方」と呼ばれた。混んでいるので若い店員も加わり、二名態勢だ。向こうから声掛けされる前に、「いつもので。髪は多めにすいて、お願いします」と念のためいった。
「いつものでね」
シンイチさんは口元を緩め、お決まりのように準備して髪を切り始めた。しばらく黙っていたが、相手から口を開いた。
「だいぶお疲れじゃないですか」
「かもしれないですね」
「髪の毛にコシがなくなってきましたよ」
「そうなんですよ」
「年齢的にも仕事が面白くなる時期でしょ?」
「面白いというより、変化が多くて。社長が四代目に代わっていろいろあって。雨降ってなんとやらってやつですか」
「なるほど。四代目は若くて血気盛んだから、年下に気を遣うのも大変でしょう」
「なれました。その分、仕事は充実してきて」
「しっかり休んで、英気を養ってくださいね。ストレスと疲労は体に応えますから」
「ありがとうございます」
心配して優しい言葉をかけるシンイチさんを、故郷の両親のような存在だと思った。しばらく後ろ髪と横の髪を黙って切っていたが、「こんな感じです。確認をお願いします」と声を掛けてきた。
「これでいいです」と短く答えた。
シンイチさんは、あっという間に切り終えた。ずいぶん早い気がした。故郷や両親を思い浮かべていたからだろう。髪を洗ってドライヤーで乾かしながら、シンイチさんは残りの客を横目でチラリと確認した。
「お客さんも、小宮山の人間になりましたね」
「五年たちましたから」
「色も黒く日焼けして、たくましく見えます」
「照れるなあ。そうすか」
半分お世辞とわかっていても、こっぱずかしいものだ。
「長く居られたのは、二代目や三代目のお陰と」そこで言葉を区切り、咳をひとつして、「やっぱり、お客さんが石材店になじんだからと思いますよ」
「分かります?」
「分かりますとも。ユミ子さんからも聞きました。苦労されたと。やっぱり、なにかを成せば結果も出る。顔つきも変わります」
「それは……」
「成長した。職人さんとして認められて。それだけで大きな成長です」
「きょうは褒められてばかりだな」
目を細めると話はそこで途切れた。
「ではこれで終わり。お疲れ様でした」
愛想のいいシンイチさんが、そのときだけ、大会社の部長さんのような、人生経験豊富な人物に映った。
頭を下げて店の扉を押して外に出た。停めてある原付バイクにキーを挿し、シートにまたがる。軽快なエンジン音が、ヨカッタナ、ヨカッタナと聞こえなくもないぐらいに小気味よかった。
ある日、ガードレールが大きくくぼんだ。たもとに白い花束が飾られていた。愛用の、傷だらけの銀のヘルメットも添えて。奴は死んだ。事故の少ない道路に魔の一瞬が訪れた。暴走した高齢ドライバーの運転する乗用車とバイクが正面衝突し、跡取りの四代目はあっけなくこの世を去った。
公孫樹の葉が道路に落ち、陽光に照らされた部分だけが、鼠色の道路を金縁の眼鏡のように際立たせていた。通り道なのか、リードをめいっぱい引っ張り、やってきた犬が、ガードレールのたもとに小便をひっかけて通り過ぎた。飼い主は、申し訳なさそうに頭を下げ、小走りに逃げるように立ち去った。
交通事故でシンゴが病院に搬送されたとき、すでに胸を強く打ち、脈はなかったと伝え聞いていた。
師匠と三代目は肩を落とし、どうしようもない顔を浮かべていた。まるで泣き笑いのようなおかしな顔つきだった。跡取りが前兆もなく、この世から消えたのだ。致し方ないと直輝は慮った。
喪主となった三代目は、憔悴して落ち着きがなかった。美加さんが代わりとなって忙しそうに近親者へ次々と電話を掛けていた。電話でのやり取りを少し耳にして、どうやら葬儀社は業界で名の知れたところらしいと見当がついた。
二日後の通夜で、直輝は喪主に納棺された桐の箱の遺体と対面してくれ、と頼まれた。運び込まれた遺体は、病院ですでに体を清めるケアをされたようだった。シンゴは、やっと憎々しさがとれ、社長が板についてきたところだった。直輝は石工として、シンゴが後輩でありライバルだと思っていた。いま目の前にいる姿は、マネキン人形のような白々とした顔になり、ぴったりと目と口を閉じていた。暴れていた頃、口をへの字に曲げたり、目を吊りあがらせたりした面影は少しも感じられなかった。もう人ではないけれど、まるっきり違った別人のような気がした。本当に死んだんだと思うと、こんな奴でも涙を落としそうになった。体の力が抜けた。張り合う相手がいなくなるのは不本意で、砂の家の崩れるようなむなしさがあった。二代目、三代目の直輝に対する風当たりが強まるのではないだろうか。直輝の目に怯えの色があった。
夜伽の間、三代目は気の抜けたビールをコップに手酌で注ぎ、チビチビと飲んでいた。だれかを捕まえては、故人の思い出話を語り出した。しかし、参列者は挨拶だけを済ませて一人またひとりと帰っていき、残された親戚らも明日の葬儀に備え、ポツポツと帰り出した。残った家族に愚痴をこぼしてもと思ったのか、直輝が呼ばれ聞き役に回っていた。
翌日の朝、葬儀の参列者に四代目の付き合っていたホナミの姿があった。うちひしがれていた。一般参列者として順番を待ち、焼香を済ませ、彼女は遺族の両親らと少し話し込んだ。ツーピースの喪服を着ていた。初めて顔を見て、瞳の大きな長髪の美人だという印象を持った。
昼になり、四代目は荼毘に付された。出棺するときの喪服の三代目は心なしかいつもより小さく見えた。斎場に運ばれ、骨上げも含め二時間で火葬は終わり、三代目と美加さんは遺骨を骨壺に収め、火葬中に食事を摂った懐石料理店に再び戻り、散会となったらしい。
一方の直輝は、葬儀に参列し、ホナミの出てくるのを待っていた。彼女は手提げかばんからスマホを取り出し、タクシーでも呼ぶのか電話をかけた。その姿を見て、
「ちょっと待ってくれないか」
と直輝は声を張り上げ彼女を呼び止めた。慌てて追いかけ、息を弾ませてホナミの元に来た。直輝は呼吸を整え、
「オレ、石材店で四代目と一緒だったナオキです」
「なんの用ですか」
「四代目の彼女だったそうですね。ご両親に頼まれまして、ちょっと話が」
意外だと思ったのか、身構えたホナミは怪訝そうな顔を浮かべたが、いわれるがまま、直輝のあとについていった。
直輝は会ったときから、ホナミが愛しくてじっとしていられなかった。この女を抱いてものにしたいと計画していた。思いのほか美人だったので胸がはずんだ。その一方で、別の当てこすりのような感情が、汚らしくとぐろを巻いて舌なめずりする蛇のように獲物を狙っていた。
二人は近くのカフェに入った。
「シンゴのことで何かあるんですか」
ホナミの方から切り出した。
「四代目の女房になる人がなりそびれて、さぞ気を落としているでしょう。まだシンゴさんを愛していますか」
「もう愛着なんて湧かないわよ。あのひと、けっこう酷いことをしてきたし。荒っぽかったでしょ?」
「そういわれるとそうかもしれない。ホナミさんは、なんの仕事をしているの?」
「歯科衛生士をしているわ。よかったら、あなたの歯を見てあげるわよ。冗談だけど」
「恋人をほったらかして何年もホナミさんの元へ帰らない男を待つなんてしんどかっただろ? 寂しいならオレに甘えてくれよ」
心の隙間を埋めるような甘い言葉につられ、ホナミは泊っている市内のホテルの部屋番号を教えた。ホナミはけして貞淑な女でなかった。社長になった四代目がホナミと会っていたのかは不明だが、彼がこの世から姿を消してさっぱりしたと考えているのがありありとわかった。直輝の好意を感じとって、彼女は流し目を送った。
直輝は服を着替え、用事を済ませた。夜にバイクを飛ばし、ホテルに着いた。
部屋のドアを軽く叩くと、向こうから開けてくれた。灯りを消して二人は抱擁し、体と体をくっつけ合った。直輝はその晩、ホナミを抱いた。久々に抱く女だった。ベッドの灯りで照らされたホナミは、入滅する涅槃仏のように瞳を閉じ、彼が体を優しく撫でるのをうっとりした表情で受け入れた。直輝はホナミの柔らかな体に身を沈め、昂ぶりを感じて交接に及んだ。
四代目の身代わりで抱く感覚より、ライバルを出し抜いてやった優越感と満足感に浸り、思わず暗闇でにやけた。夜の部屋で妖しく動く直輝の体は、石工の血と職人魂がたぎって激しく騒ぐように、彼女の胸や腰、尻をなぶり倒した。
一週間後、先輩が店を去り、代わりに臨時の従業員が入った。三代目は直輝をトラックにのせ、小宮山家の墓に案内した。三代目は、小宮山家の墓石に四代目の戒名を彫るのを見ておけ、といった。でき上がった戒名は見事な出来栄えだった。二代目が横にあった墓誌に手彫りで彫り付け始めた。三代目は背中を向け、空を仰いでいた。息子の死を胸にした親の哀れな背中に映った。二代目も心なしかやりきれなさを漂わせていた。直輝は、なんとも因果な商売だと思った。一族の戒名彫りまでやるのか、と。石は残るのに、人の命は簡単に絶えてしまうとつくづく実感した。
仕事終わりのあるときだった。直輝はハンドルを握り、店に戻ろうしていた。助手席に座る師匠が何気なくつぶやいた。
「石を加工した作品は、いつまでも残るな。それがまた美しい」
「そうですね」
「いずれ石仏や墓石は野晒しになって大地に転がる石に還る。またそれを護岸工事や燈籠の一部に再利用するんだ。いい石も、採石場の使えない石もな」
「石って歴史がありますよね」
「大昔から残っている。ほれ、モアイ像やピラミッドも石だし、パリの建造物も石でできておる」
師匠の指摘に、イースター島のモアイ像のごつごつした形、テレビで観たエジプトのピラミッド、パリの凱旋門や建物などを頭に描いた。
「壊されても石は石。石はいずれ削られ、土にかえる。地球だって石の塊だ」
「なるほど。いわれてみれば」
内心、難しい話に切り込んできたと思った。よく知らないが、地表は砂漠などより山の方が多く、岩盤の層が覆っている気がした。話がでかくなってきた。
「それをわれわれはありがたく切り出し、加工して生計を立てているわけですか」
「まあ、そういうことだ」
いつになく多弁な師匠は、穏やかな口調と眼差しで喋った。なにかの会話のきっかけかと思いはじめたそのとき、師匠は、
「弓長くん。これからのことを考えているんだろう?」
と直輝の心を見透かしたようにいってのけた。
「考えてないですよ」直輝は心と逆の答をうそぶいた。
「いいんだ。わしにはわかる。顔を見れば。まあ、ゆっくり考えてみろ」
師匠はそれきりなにもいわず、窓の外を眺めていつものように黙り込んだ。
あのまま大阪にいたら、夢を置き去りにしていたに違いないと思った。祖父の昔話を聞きかじったときの感動、子ども心に抱いた夢がときをへて、三〇過ぎだった直輝を突き動かし、やっとここまで漕ぎ着けた。ホームセンターで哀れに働くより、憧れや感動に出会える職場を探し求めていた。己の中で目覚めた魂の渇望は、飢えた子どもが手を差し伸べるように、なにか満たしてくれるものをくれ、とせがんだ。
連絡をくれていたコウタは、フリーターとなってどこかの工場で働いていると風の便りで聞いた。あるとき連絡を入れてみた。直輝の職人修行の道のりを話すと、電話口で驚嘆の声を出し、マジですげえ、と感心された。田之倉さん、ケンジさんがここに来たら、辞めて五年たった姿を見て、どう思うだろうと直輝は思った。ぽつねんと背中を向けて働いていたのが、すっかり元気を取り戻し、石工になって汗を流している姿に、きっと彼らも目を丸くするだろう。
出る杭は打たれ強い――。石工として五年たったとき、師匠の掛けてくれた言葉を思い出す。石工の修行経験を積むにつれ、やりたい道が見つかった安心感に飽き足らない自分がいた。体力勝負、腕自慢の職人気質が体中に染みつき、石工と呼ばれるのがやっとしっくりきた。さらに上へ上へと技術を積み上げていきたくてしょうがなかった。打たれ強い杭と師匠にいわれるほどにまでなったのに、まだ一人前の石工でない。もっと学べる経験を取り入れて成長したい。将来、独立して店も持ちたい。師匠のいい当てたとおり、悩みだしていた。そのまま店の使用人を続けるか、店を出て行くか。どちらかに決めねばならない。
ある晩、決断した。師匠に申し出て暇をもらった。アパートを引き払い、隣の岡崎市へ移り住むことに決めた。三代目から岡崎技術工学院という職業訓練校で技術を磨けると聞き、やりたいです、と申し出た。三代目は、「それでいいんだな」といったきりだった。ユウジも寂しくなるな、と別れを惜しんだが、直輝の性格上、あとには引けなかった。貯金はわずかだった。学びながらアルバイト生活を始める。これから三年間の新たな修行が始まろうとしていた。
出発まで二週間を切った。安城市を発つ日は迫っていた。霊園の現場作業から店の倉庫内でする作業の方に仕事を融通してもらった。倉庫で定時まで能率よく作業に打ち込み、早く終えた日は、すぐにアパートに帰ってシャワーを浴び、引っ越しの荷造りを夜遅くまでした。
ホナミは、週に二、三度のペースで直輝のアパートを訪れた。歯科衛生士の仕事が夜七時に終わり、自転車を走らせてやってきた。直輝の方が先に帰宅している場合が多かった。スマホのショートメールに、《きょう行きます》と短信が入っていた。部屋で待っていると、彼女のいつもの足音がつかつかとコンクリートの廊下に響き、玄関の前でピタリと止んだ。扉を開けて、ホナミは勝手知ったように上がり込んだ。
「お待たせ。おなかすいたでしょ。いま作るわね」
「どこで買い物した?」
「どこだっていいじゃない、そんなこと」
「食費、払うよ」
直輝は財布を確認する。
「いくらだ?」
「四〇〇円くらいかしら」
「あいにく五〇〇円と札しかない」
「五〇〇円ちょうだい」
「お釣りは?」
「これがお釣りよ」
ホナミは唇にキスをした。茶目っ気があった。直輝はそれが気に入っていた。
「まるで外国映画の主人公のような気分だな」
直輝はまんざらでもない顔を浮かべた。
夕食を食べ終わった。直輝は、岡崎市へ引っ越して、これから実行しようとしている計画を、彼女に正式に告げた。
「オレ、岡崎市の羽根町に行く。岡崎技術工学院って学校がある。職業訓練校なんだけど、そこに通って石工を学び直す。昼はアルバイトで働き、夜に学ぶ。修行をまた基礎からやり直すんだ」
そう切り出した直輝に対して、顎を上げて軽く瞳を見つめ返したホナミは、
「いいわ。わたしも行く」
と彼女は強く肯定した。
「これまでのような生活とはいかないぞ。それでもいいのか」
「あなたのためになるなら何でもする。力になるわ。わたしも岡崎市に行きたい。連れてって」
ホナミはねだった。正直、どちらでもよかった。一人で行くより、二人の方が心強いかなと思う程度に、「おまえがいてくれると安心するよ」とくさい台詞をいってやった。たぶんそういうたぐいのことをいわれると、単純に喜ぶタイプだろうと思った。実際、ホナミは、
「うれしい。わたし、幸せ」
と目を輝かせた。前までは四代目の女房になる決意を秘めていたはずなのに、あっけなく死んだ男を見限り、さっさと次の男に乗り換える。女の気持ちというものはつかめない。
「一緒に行って、二人で幸せをつかもう」
将来を暗示するような約束をした。甘い言葉の響きに自己陶酔していた。
マイスター並みの腕前を持つ師匠は、米寿を迎えても現役であり続け、単なる石材店の好々爺にとどまらず、社寺の玉垣や燈籠の施工、公園の石垣積み、河川の護岸工事に至るまで、声が掛かれば何でもこなした。石垣の積み方、石の目利きに至るまで、現役バリバリの石工棟梁の後ろ姿はまさに生き字引だ。教わりたいことは数知れなかった。
訃報が重なった。新しい門出の始まりの三日前、師匠は静かに寝室で息を引き取った。眠るようにして死んでいたわ。佳子さんは取り乱した風もなく、ぽつりと語った。
しめやかに葬儀が行われた。この前、四代目の葬儀が終わったばかりなのに、孫に手を引かれて天に昇るようだ、と親戚らは噂した。
「親父も息子もいなくなった。おれとユウジと臨時の従業員だけでは、石材店を切り盛りできん。悪いが、岡崎行きは思いとどまって、うちで働き続けてくれんか。できたら経理も見てほしい。女房一人では頼りない」
すがる三代目を振り払うように、直輝はかぶりを振った。
「無理です。男が一度決めたことは、最後まで貫き通す。それがオレの信念です。悪いですが行きますので」直輝は見限った。
「そこを頼む。行かないでくれ」
「すみません。立てた誓いは守らないと。長い間、お世話になりました」
三代目とユウジにそれだけいうと胸が熱くなり、なにもいえなくなった。
「どうしても行くのか」
三代目の引き止めるのもそれまでだった。直輝は制止を振り切るように背中を向けた。
「元気で暮らせ」
「小宮山のことを忘れるなよ」
従業員らは、口々にねぎらいの言葉をかけてくれた。
「養成学校を出て一人前になったら……」
あとの台詞が出てこない。三代目は、希望の言葉をのみ込んだ様子だった。直輝の目をじっと見つめている。三年後のことなんて、誰にも予想できない。直輝は小宮山石材店に戻るのに執着していなかった。ここへ来て頭を下げ、一五万円を借りたときとはまるで立場が変わったのがうそのようだった。驚くほど大人になった気がした。
自分は、大阪市から安城市へやってきて、今度は岡崎市へ移ろうとしている。大成しないつもりはない。たとえ名の知れぬ石工で終わっても、腕前だけは養成学校で磨き、どこかの店で必ず役に立ちたい。石工職人として雇ってもらうつもりでいる。師匠に勧められて読んだ小説、『肥後の石工』にこんな場面があった。
ある河原でいい石ころが川にあれば、必ず川上にはいい石場がある――。
師匠も、かつて、「今でこそ、石材は中国などの輸入物がほとんどの世の中になったが、関西や中部はまだ山から採石し、手作業で石を加工している。昔なら、河原の石ころを探すことから仕事を始めたんだ」といっていた。転がる石のように住むところを変えていくのは、祖父に似ていると思った。自分が石ころなら、川上にいい石場、いい石材店に巡り合える気がした。三年後の姿を思い浮かべ、直輝はワクワクせずにいられなかった。
石を割る。切って加工する。石を彫る。その仕事に携わり、多くの経験を積みたい気持ちは、石工を始めて五年たった現在も、駆け出しの頃も変わらない。岡崎から戻ったら、二代目と四代目の眠る小宮山家の墓石にお参りしようと決めた。機械だけに頼る石材店にしか巡り合えないなら、三代目に頭を下げてもいい。先のことをいま決める必要などどこにもなかった。
岡崎へ出発する日、明るい朝を迎えた。夕べ、しとしとと夜中に窓を濡らした雨も上がり、雲の端に薄い虹が小さくかかってすぐ消えた。
出掛ける準備は整い、時間を持て余した。なんとなく安城市内を散策してみたくなり、土手までのんびりと歩いた。
川の堤防に着いた。数本の土筆を見つけた。土筆の清々しく真っ直ぐ伸びた様子が早春の訪れのように感じられた。今ほどオレがオレを好きでいられる幸せはないだろう。少しうぬぼれた。赤い舌を出しておどけてみた。
三月の澄んだ空気は引っ越しするのにいい日だと思った。家を出て不動産屋に寄り、鍵を返した。レンタカーで真っ直ぐに伸びる道路を走る。岡崎市へと向かうその軽トラックの座席の横にはホナミが座り、微笑んでいる。燦燦と道の前方を照らす太陽が、祖父や師匠らのように見えた。心なしか遺影の笑顔と日輪が重なって見えた。
荷物の整理は朝すませた。
「どの段ボールになにが入っているか紙に書き出しましょうよ。向こうについてから分かりやすいから」
ホナミが提案した。直輝は紙に中身を一枚ずつ書き出し、テープで留めていった。手間がかかり、思いのほか出発が遅くなった。
岡崎市に到着したのは、昼過ぎの二時を回った頃だった。市内の賃貸アパートに荷物を全部降ろした。
「ちょっと車を返しにいってくる」
直輝はホナミを下宿に残し、レンタカーを駅前に返しにいった。帰りはタクシーに乗って新住所で降りた。
「待たせたな」
「もう何時だと思ってるのよ。おなかペコペコ」
ホナミは膨れ面をしてみせた。三時前だ。荷解きは後にして、ホナミと通りを歩いた。開いている店を探すうち、けっきょくファストフード店まで辿り着いた。他の店はどこも準備中の札が掛かっていた。店内に入り、ハンバーガーと飲み物を注文した。
遅い昼飯を食べ終わると、ホナミは、自分のスマホをいじりながら、
「勤められる歯科を探してるの」
とこちらを見ず、画面に目を釘付けにしていた。細い指が画面の上をせわしなくタップしていた。歯科衛生士の求人サイトの検索だろうと直輝は察した。
「アパートから少し離れたところにするか、もう少し時期をずらしてアパート近辺のところで求人が出るまで待つか。どちらにしようかしら」
ホナミは迷っている口ぶりだった。
直輝は黙って適当に相槌を打っておいた。ホナミの預金残高で一月はアルバイトなしでも暮らせるのを知っていた。彼女とコンビニに立ち寄ったときATMで彼女が金を下ろした際、「ちょっと見せろよ」と出てきた用紙をふんだくり、残高の数字を確認しておいたのだ。直輝は四月からアルバイトをするつもりで、三月ののどかな平日、市内をぶらぶらと歩き回った。飲食店の店頭に、「バイト募集」「急募バイト」などの看板や貼り紙を見つけては、カシャリとスマホのシャッターを切った。
四月から通う岡崎技術工学院までの道のりを、例のごとくバイクに乗って確認した。次の日からいろいろな行き方を試し、なんどか往復してみた。かかった時間や、ガソリンスタンドの場所などをついでに探しておいた。
二週間後、直輝はアパートからバイクで数分のラーメン店で働けることに決まった。店は幹線道路沿いにあった。鉄柱にばかでかい四角の看板がのっかり、黄色に赤の文字で、「ラーメン」とだけ書いた看板が目を引いた。店の駐車場にはひっきりなしに車が出入りしていた。
面接時には、ホール係と聞いていた。ホール担当に間違いはなかった。が、実際には、忙しくなると客の食べる様子を観察し、どんぶりを素早く下げ、手が少しでもすいたら、たまったどんぶりや箸やレンゲを次々と手早く洗うことまでさせられた。
「時給はいいだろ」先輩が話しかけてきた。
「たしかにいいっすね。でも厨房は暑いっす」
カウンターの中に入ると、常に蒸せるほど暑かった。ゴム長靴に半袖シャツで一年中びっしりと背中に汗をかいた。暑さに加え、体力と神経を使う仕事で、数週間もすると、自然と少し痩せてきた。
「石の職人を目指してるんだってな?」厨房の調理担当の先輩が声を掛けてきた。
「目指してます」
「それで岡崎の技術なんとかに通ってるのか」
「よくご存じで」
「頑張れよ、職人」
直輝にしてみれば、ラーメン店のアルバイトも石工の修業とはまた違った意味で、それはきつい肉体労働だった。平日の昼から夕方のシフトのみだったが、忙しいピークを過ぎてから遅い賄いのラーメンと炒飯で昼を済ませることも多かった。手すきなら、とチャーシュー造りやネギ切りに駆り出されることすらあった。
学校が始まると、一日にアルバイトと授業の両方ある日はどっと疲れが出た。アルバイトのない平日はのびのびして、喫茶店でコーヒーを啜った。暇つぶしに公園にいき、子どもの遊ぶ姿や、餌を漁りにくる鳩の動きを観察した。どうして、鳩は首を前後に揺すって餌を探すのか。誰も考えないようなくだらないことを頭に浮かべては時を過ごした。
「なかなか働き口が見つからない」
ホナミがうるさくぼやき出した。五月の初め、直輝はつまらないことでいい合いになり、ホナミに手を上げた。
「ちょっと痛いじゃない。なにするのよ」
「うるさい。オレに逆らうな」
「逆らうなとはどういうことよ。アパートの主みたいにふんぞり返って」
「オレのやり方が気に入らないなら出ていけ」
「出ていかない」
「うるさい。も一度殴られたいのか」
「ひどい……」
怯えた目つきのホナミから部屋の合鍵を奪い取ると、尻を足で蹴り上げ、嫌がる彼女を無理やりにアパートの扉の外へ追い出した。
「ねえ、なんで冷たくするのよ」
ホナミは泣きだした。涙声混じりに扉を叩く音がやたらとやかましく、追い出したのを責められることに腹が立った。
「冷たくしてないだろ。おまえが悪いんだ」
「どこか悪いのなら直すから。お願いだから入れてちょうだい」
直輝は、詫びようとする彼女を無視してカップラーメンを作り始めた。テレビをつけて、その音を聴くのに集中した。そのうち扉の外の音も声も止んだ。
仕事も決まらず、アパートを追われたホナミは、次の日から一週間ほど、毎朝アパートの前にやってきた。玄関前でわめきちらし、アパートの扉を叩いた。「入れてちょうだいよ」だの、「わたしが悪いのなら、謝るから」だのと、板切れ一枚越しに泣きを入れた。
「近所迷惑だ。帰ってくれ」
「どの口がそんな暴言吐くのよ」
「うるさい。警察呼ぶぞ」
直輝は頑として家に入れなかった。泣こうが、わめこうが、警察に訴えようが、入れるものか。そう構えていた。直輝の断固とした態度に、ホナミは激しく怒った。最終的に扉を足でバーンと蹴り上げて、バカヤローと叫んで去っていった。
直輝の思い描いたシナリオ通りになった。たとえ美人でも、あれほど生意気な女を本気で相手にするつもりはさらさらなかった。始めから長くは続かないだろうと踏んでいた。情熱が冷めたわけではない。邪険にすれば、すぐに愛想をつかすに決まっている。とにかく、いなくなってせいせいした。何度か寝たが、彼女のセックスは下手くそそのものだった。これでしばらくは、アルバイトと石工の修行だけを考えればよい。日頃からそう望んでいた。
すっかり冷淡な男になった。いや、もともと冷淡だったのかもしれない。そんなことはどちらでもいいことだった。目的を遂行するためなら、とことん怜悧に行動できた。みっちり岡崎で鍛錬を積んで、ユウジを追い抜くぐらいの腕を上げ安城市に凱旋するつもりでいた。そのためなら欲を断ってもかまわなかった。
工学院の石材加工科には、一年生から三年生まで全員合わせて一〇人前後が在籍していた。
「隣、いいか」
直輝は小柄な若い男に声を掛けた。
「ああ、いいよ」
小柄な男は愛想よく笑い、二人並んで授業を受けた。
生徒の中でも年長だと感じた直輝は、実習中、おたおたしている仲間がいれば、
「ここは、こんなふうにするんだぜ」
と手つきを見せてやった。兄貴分を気取るつもりはこれっぽっちもなかったが、自然と頼られた。そのおかげで友人もできた。講義や実習、レクリエーションなどはすべて夜間に行われた。授業は三年間で履修するようにカリキュラムが組まれてあった。まず、石の性質や見分け方などの基礎から始まった。墓石や石材加工品の設計、製図、石の据付方法、関連法規、積算、安全衛生、機械の操作法、間知石の加工実習、字彫りの実習など、すでに知っていることも含まれていた。それでも、三年かけてじっくりと学び直した。
休み時間に友人が話しかけてきた。
「弓長さん。聞いた話だと、アルバイトしてるんですよね」
「まあな」
「やっていけます?」
「正直、けっこうきつかったりする」
実際、すべてを賄うにはかなり苦しかった。赤字に陥る月もあった。
「生活費に家賃だろ。学費、交際費。ガソリン代も含まれるからなあ」
特に最後がアルバイトの給料を圧迫した。その一点だけ、ホナミと別れたことを悔いた。好きでなくなっても、二人で生活して家賃を折半できれば楽に暮らせたのになぁ、と。
「金欠になったら声かけてくださいね」
「ありがとう。いちおう、ラーメン店でアルバイトしているから。食うのだけは困らないよ」
けっきょく、足りなくなると大阪の義夫に手紙を書き、仕送りしてもらった。友人の半数以上は、市内の石材店で働きながら、夜に学校へ通いにきた。いわば、昼間にまとまった給料をもらっている人たちだ。自活をしようと思えば楽にできる身分に見えた。羨ましいと思うことはあったが、けして恵まれていないのだと卑下することもなかった。直輝だってその気になれば、ラーメン店を辞めて岡崎市内で石工の職を探すのも頭に入れていた。
が、三年間、一度たりとも、石工見習いとして石材店に就職することをしなかった。あくまで、あの店のやり方を中断してでも受け継ぎたい、貫き通したい。修了してどうなるかはわからない。けれど、そういう気概を持ち続けた。他店の色に染まりたくなかったのだ。その点においては、筋を曲げない、極めて潔癖で頑固な職人だった。
学校の実習では、玄能を使う機会がなく、チッパーを使った手彫りすらやらなかった。師匠らの腕前を思い返すかのように、余った石を手にして勝手にチッパーを借りて、手彫りの練習をこそこそやっていた。あの手彫りの感触を忘れたくなかった。師匠の亡き魂が乗り移ったのかと思うほどに手先は滑らかに動いた。
「すげーな。なにやってんの?」友人が物珍し気に声を掛けた。
「やってみたいか」
試しにチッパーを友人に握らせて漢字を彫らせてみた。まだ上手く彫れないようだった。字の溝が汚い。一様できれいに彫れてないありさまだった。なるほど、本当に腕のいい職人が育たないわけだ、と頭の中で友人を見下した。
見下していたが、友人らと休日に遊びに出掛けるのは楽しみだった。市内の大学生と日曜に合コンしたことがあった。友人の彼女らとグループで、バーベキューや釣りに出掛けたときもあった。
一方のアルバイト先は一筋縄ではいかなかった。あるとき、アルバイト先のラーメン店の店長の車に無理やり連れ込まれた。奢るからと両手を合わされた。私服姿でライバル店のラーメンを食べに潜入するという。しばらく道を走り、店長の説明に少し同情の念が湧いた。
店に入った。出てきた醤油ラーメンをスマホで撮影した。店長は、
「『極楽ラーメン醤油味』は、スープがさすがに旨いな。病みつきになるのもわかる気がする。食べログの口コミの多さにも納得した。この味を追い求めて、うちの店にもっと多くのリピーターが来るように工夫しよう」
とやる気満々だった。
「それって、極楽ラーメンのスープの味をパクることになるんじゃないですか」
直輝は半笑いの表情を浮かべて訊ねた。
「ばか。こんなことぐらい、どこの店でもやってんだよ。いいか。これは仕事上の調査だ。ラーメン好きの客がどういうところからやって来て、どんなラーメンを注文するのか。どんな味を好むのか。それを調査して、うちの店にも反映させる。れっきとした営業活動」
「それは分からなくもないですけど」
「だから、おまえは駐車場に回って、この店に来ている客の車がなにナンバーかメモしてこい。これは職務命令だ。ちゃんと時給も払う」
「なんとも、せっかくの休日に呼び出されて、連れまわされたあげくに仕事とは。やだなぁ……」
「そういうな。終わったら、帰りに好きなものをなんでも買ってやるから。これにうちの店の命運を賭けてるんだ」
そこまでいわれ、直輝はしぶしぶ店を出た。駐車場に行き、スマホのメモアプリに、三河四台、岡崎八台、豊田五台とナンバーレートの登録地域を入力しながら記録していった。その日の帰り道に、コンビニでアイスクリームをご馳走してもらった。
夜、学校から帰ってくると、家の前でアルバイト先の仲間が待ち伏せていた。男が二人して話し込んでいた。
「よう。待ったぜ、ナオキ」
先に声を掛けてきたのは、古株の先輩の方だった。
「おれたち、いまさっき、店の仕事が終わったばっかりなんだ。朝まで遊ぼうぜ」
二人の仲間は、気軽に誘ってきた。
「ちょっと待ってくれ。とりあえず、家に上がらせてくれ。オレ、夜学が終わって疲れてるんだ」
「おう、そうかそうか」
二人は直輝とともに部屋に上がり込んだ。突然の来客だった。1Kのアパートに男三人が集まり、部屋は窮屈になった。それでも夜更けまで声を潜めて語り明かした。
先輩が口を開いて、店長の悪口をいい出した。
「あの店長さ。けっこう、筋が通ってねぇよな。長いものには巻かれるタイプっつうか」
「ふうん。でも、長い物には巻かれた方が楽じゃないのか」
直輝は、自分の信念と店長のそれが一致していることに、むしろ親近感を覚えた。
「そりゃまあ、理屈の上ではそうだよ。でも、そうじゃない。人のいうことを聞いて商売が繁盛するほど、世間てのは簡単じゃねえだろ」
「それはどういうこと?」
「だからさ。店長みたいに、本部の課すノルマに則って、店を維持するようなことをしても、売り上げはアップしねぇんだよな」
「なぜ、分かる?」
「分かるとも。だって、うちの店、平日の夜遅くに、そんなに客、来るか? 来ねえよ。周囲に他の店もないのに。だろ?」
「そうだよな。ナオキには分からないだろうけどさ。いちどでも夜のシフトに入ったらそう思うよ。夜、けっこう暇なんだよね。八時を回ると、サーッと客足が引いて。やることっていったら、明日の仕込みや掃除に後片付けだけだよね」
「そうなんだ」
「タクトのいうとおりだ。夜に賑わうのは土曜の夜か、寒い雨の夜ぐらいだ。だから、店の光熱費や人件費を考えたらな。もし、もしもだよ。おれが店長ならば、夜の営業は六時から九時までにする。そして、九時で閉めるな。本部に何といわれようと」
古株の先輩のヒサノリは、そう断言してみせた。きょうほどヒサノリが喋っているのを聞いた覚えはなかった。いつも、店では手足こそ速く動かすが、間延びした喋り方と雰囲気だった。これほどまでに店の状況を知悉しているとは驚いた。彼に尊敬と信頼の眼差しを向けた。外で買ってきたと思われるソーダをぐびぐびと飲んでいたヒサノリは、飲み干したのか、「なんか飲みもんねぇのかよ」といって、返答を待つ間もなく、二〇〇円を財布から出した。
誰が自販機まで買いにいくかで、ジャンケンをした。負けたのは、タクトだった。
タクトがアパートを出ていくのを見送ってから、おいおい、とヒサノリに小突かれた。
「タクトの野郎がよぉ。店、辞めたいらしいぜ。どうする?」
「どうするっていわれても。オレは昼間のシフトから動かないよ。学校があるから」
「だよな。まあ、夜はおれと店長だけでも務まる気がするけどな。タクトの野郎。店が暇だし、時給が安いままで上がんねぇからってよぉ。いうこと、贅沢なんだよな。自分に能力のある奴がそういうこというならわかるけどな。能力あんのかよっていいたくなるぜ」
「いま辞めて、どうすんだろうか」
直輝もヒサノリに同調した。
「あいつ、彼女が出来たらしくてさ。知らないだろうけど、けっこうきれいな女でよ。店に客として何度も来たんだぜ」
「じゃあ、彼女ができたのが辞める原因か」
「それはあると思う。地道にラーメン茹でるより、もっと割のいいバイトを入れてさ。彼女にいい物でも買うか、いいところを見せびらかしたいんだろうよ」
「おおかた、そんなところだろうね」
直輝は、ヒサノリに合わせた。すると、そのときだった。玄関の扉が開き、タクトが姿を現した。二人は顔をそらし、口をつぐんで素知らぬふりをした。タクトはソーダを買ってきた。「おう、ありがとう」とヒサノリはタクトに礼をいい、「釣りはおまえにやるよ」と太っ腹なところを見せた。タクトは、
「なんの話をしてた? おれの噂か」
と核心をついてきた。
「……ああ」
直輝はしかたなく認めながら、店を辞める云々のことは触れないようにしようと思った。
「タクトって、彼女がいるんだよな?」
「ヒサノリから聞いたんだ。まあな」
タクトは照れ笑いを浮かべ、後ろ手で髪を触った。
「彼女ができて、どうしようとか思ってないか」
直輝は、悪くなった立場を足がかりにして、逆にタクトの真意を訊き出そうとした。
「いいや、別に。店によく来るからな。おれも、昼間のシフトに入りてぇなあ、なんて思うときもあってさ」
「彼女の仕事終わりと一緒にしたいのか」
「そうだな。その方が、一緒にいれる時間も長くなるし」
「ところで、その彼女、何やってんの?」
直輝は何気なく探ってみた。それは意外な答で返ってきた。
「ここからちょっと行ったところにある、初芝歯科さ。歯科衛生士をやってんだって。ちゃんと朝から夕方まで働いて」
「ちょっと待て。歯科衛生士? まさか彼女の名前、ホナミじゃないよな」
直輝の顔が青白くなりかけた。
「え? ホナミ?」
直輝の顔色の変化を見て、わざわざ訊き返し、焦らしともとれるような間を取った。彼はなにかありそうだなと探るような目つきを直輝に向け、ずいと顔を近づけてきた。
「残念ながら、違うけどな。おれの彼女は、サチっていうんだ。でもさ。サチの職場に、ホナミって女が入ってきたって聞いたよ」
「ほ、本当か」直輝の声が上ずった。
「うそだよぉー。うそ」
「うそつくなよ」
「ホナミねえ。聞いたこともねえな。その女も歯科衛生士なんだ」
直輝は鎌をかけられ、認めざるを得なくなった。
「昔の彼女さ。もう、別れた」
「そりゃ、悪いこと聞いちまったな」
言葉とは裏腹に悪びれる様子もなく、タクトはうそぶいた。顔がにやけている。弱みを握ったとでもいいたげだった。
「お二人さん。ギスギスするのはやめときな。狭い世間で、これから先、どこでばったり出会うか知れたもんじゃねぇから」
ヒサノリはいちおうめてくれた。ソーダをごくりと飲み、畳の上に直に置いた。
「おまえは夜のシフトを抜けられないからな。夜の二人体制を維持しないと、店は営業できなくなる」
ヒサノリは、ぶっきらぼうにタクトにいった。タクトは首をすくめて、ぶつぶつとなにか唱えた。
夜も更けてきた。
「明日のアルバイトがあるから、悪いけど、オレ、そろそろ寝るわ」
そう告げて、半ば強制的に二人を帰した。畳んでいた布団を広げ、部屋の灯りを消して床に就いた。
授業はためになる事柄もあったが、概して退屈だった。昼間にラーメン店で働いた日など、体に疲れが残り、単調な先生の喋りについついまどろんだ。先生もそれを承知で黙って見過ごしてくれた。そのとき直輝は三〇半ばを過ぎていて、すぐに先生や生徒から顔を覚えられた。眠たい座学とは対照的に、実習になると疲れが残っていても手が動いて生き生きとした。
墓石に見立てた石に機械を使って字彫りやイラストの彫刻などを行うときは、腕がなった。先生は手本を見せてはくれなかったが、それぞれ数人の彫り具合を見て回った。直輝の彫った石を目ざとく観察し、あれこれ見回しながら、
「うまくいかないときは、手を止めて弓長のやるのを見てみろ」
と一目置いた。
一番苦手なのは製図だった。墓石や墓誌の設計には製図が欠かせない。建築や機械などの設計同様、CADを用いて墓の平面図、断面図などをパソコンの画面上で描いていく。縮尺を間違えたり、違う線をクリックしたりして、よくミスをした。友人を捕まえては、これはどうするんだ、と訊ねることが多かった。小宮山石材店で働いていた頃、CADに関しては、ユウジと先輩が担当していた。完成図を見れば、実物とどこがどうなっていて、どの寸法がどれにあたるのかは分かる。けれど、CADの操作法までは知らなかった。
実習の時間が増えるにつれ、次第に慣れていった。様々な墓の敷地の形状、条件にソフトは対応しており、CADの使い勝手はよかった。簡単に部材の寸法と形状を入出力できるようになった。いくつかの入力ミスをクリアして立派な墓をプリントアウトしたとき、少し感動すら覚えた。
「おお。なんだか墓らしいものができたぞ」
「よかったですね、弓長さん。それでいいはずですよ」
友人と見せ合って、正しい形だと知るや、長時間の作業の末に完成した苦労が報われ、幼い子どもが初めて天から雪が降ってくるのを見たぐらいの興奮を覚えた。コンピューターの製図による設計は、手作業よりきれいな図面に仕上がり、どこの石材店でもそれに頼っている理由が分かった。
授業中に出される宿題はなく、その点で、アルバイトのシフトのない日の昼間は暇だった。一年生の冬、アルバイトのない日のことだった。クリスマスムードで浮かれる町中をぶらついていると、窃盗に遭った女がいた。女が、
「助けてぇー。だれか、捕まえて!」
と悲鳴を上げるのを間近で聞いた。通りがかった直輝は、女の様子をチラッと見て、大丈夫そうなのを確認した。そして逃げ去る男を猛然と追い駆け、突っ走った。あたかも自分が大事なものを盗られたかのように業腹な気持ちをたぎらせて、兎めがけて襲いかかる鷹のような感覚で走った。みるみる相手の背中が大きくなる。その背後から肩を掴んで引き倒す。弾みがついて、相手もろとも横転した。相手の首に手を絡ませてぐいぐいと締め上げた。
「く、苦しい……」
逃走犯は口から泡を吹いて呻き声を出し、あきらめたように力を抜いた。通りがかった人に、警察を呼んでくれと大声を出した。現場を遠巻きにして見守っていた三、四人の見物人のうち、配送業者と思しき制服姿の若い男が、すぐにスマホを出して警察に電話を掛けてくれた。正直、直輝にはここが市内の何町だか分らなかった。
警察が来るまでのあいだ、必死になって男の体を押え込み、力を緩めなかった。
すぐにパトカーが到着し、警官が降りてきた。目出し帽をかぶった男を取り押さえ、立ち上がらせ両脇から抱えてパトカーに乗せた。
年長らしい警官から、事情を訊かれた。
「どうしましたか」
「向こうの女の人がその男に襲われたのを見かけて。捕まえてと聞いて、無我夢中で取り押さえました」
「なるほど。状況はわかりました。念のため、その女性に訊ねてみます。一緒にあちらまで行きましょうか」
「分かりました」
そのあと、女が警官になにやら説明して、市内の会社で働き、お遣いの途中で強盗に襲われたと供述するのが耳に入った。
女は、現場で警官に被害届をだした。警官は聞き取ったことを紙に書きとめ、女と直輝の電話番号を訊ねた。女に犯人を面通しさせ、襲った男と捕まえた男が一致するのを確認してから、パトカーは去っていった。
警官がいなくなり、落ち着きを取り戻した様子の女に、直輝から声を掛けた。
「大丈夫でしたか」
「ちょっと足を打っただけです」
「そうですか。なにか盗られたんじゃ?」
「いえ、なにも。会社の事務備品を入れたかばんを財布ごと盗られそうになって。大声出したら、何も取らずに男が逃げ出して」
「窃盗未遂か。こんな昼間に大胆な奴だな。恐かったでしょう」
「とっても恐かったです」
改めて女の容姿を眺めてみた。目立った特徴はとくにない。小柄な、女として標準的な体つきの美人だと思った。直輝の視線に気づき、女ははにかみながら、
「どうも、ありがとうございました。助かりました」
と礼を述べた。
警察から直輝に連絡が入り、犯人は犯行と余罪を認めた。後日、警察署に呼び出され、犯人逮捕の感謝状を受け取った。
さらにいいことが待っていた。それだけにとどまらなかった。アドレスを交換し合ったあと、女から誘いを受けた。仕事終わりに話をしていいか、と。女の名はカホだった。夜間学校があるから、授業までの三〇分だけならいいよ、と約束し、駅前の喫茶店で待ち合わせをした。
午後五時半にカホは姿を見せた。壁際の席に先に座り待っていた直輝は、座るよう勧めた。カホが先に口を開いた。
「ナオキさん、おいくつですか?」
「三七」
「私……。二〇代後半ということで」
「年齢をきくのは失礼だよな。カホさんはどこに勤めているの」
「株式会社ワダノってところ。車のカーナビのプログラムなんかを作るソフトの会社です」
「そうなんだ。そこで事務員をしてるわけか」
「ええ、そうなんです」
「それで?」
「実は、お礼をしたくって」
「お礼? そんなのいいって」
男として、当然の振る舞いをしたまでだから、と首を左右に振った。
「そんな。助けていただいたわけだし。なにかほしいものありますか」
「これといって特にないよ」なんの躊躇もなく即答した。
「そうですか」
カホは視線を外した。なにか考えあぐねている様子だった。
「まあ、せっかくアドレスを交換し合ったんだし、仲良くしようよ」
「ええ。私は……」と何か含みを持たせたが、「そうですね」と明るく笑った。
それから何を話したのか、よく覚えてなかった。時間がたつのがやたらと早く感じられた。初め、カホの瞳におずおずした困惑の色を感じたが、別れるときには安堵した様子だった。
しばらくのあいだ、カホとメールやラインでのやり取りが続いた。アルバイト先のラーメン店に顔を出さないかと期待したときもあった。けれど、期待は裏切られた。どの客の中にも、カホの姿はなかった。女の客は、たいがい男と一緒に入ってきた。彼女の魅力をどういい表せばよいのか、言葉にするのは難しい。整って品の良い顔立ちのカホのような女は、満月の中でも一年に数えるほどしか見られないスーパームーンくらいに貴重で、昼時に現れることはなかった。
長いあいだカホの顔を見ないと、胸が痛んだ。
思い切ってこちらから映画に誘ってみた。
《明日、映画でも行きませんか》
簡潔にラインでメッセージを打った。その日の晩に、カホから返事が来た。
《映画、行きます。よろしくお願いします》
もろ手を挙げて喜んだ。初デートだ。気をよくして風呂に入り、念入りに体と頭を洗った。明日がその日曜だった。アルバイトを終えた土曜の夜、直輝はコンビニで買ってきた晩飯をゆっくりと咀嚼した。店で余って持ち帰ったチャーシューの切れ端をつまみ食いした。いつも賄いで食べる店のチャーシューが、その晩は極上の味に感じられた。
晩におかしな夢を見た。
なぜか、アユミが出てきた。セーラー服姿で腕組みするアユミが、校舎を背にして手招きしている。アユミの背後にホナミがいて、泣いていた。アユミは、
「この女を泣かせるような真似をしたナオは、わたしが許さない」
といきり立っている。そこへおずおずとカホが横から現れ、
「これはどういうこと?」
と小声で呟き、直輝の瞳をじっと見つめてきた。カホは、いまにも泣き出しそうに瞳を潤ませていた。
「違うんだ。おかしいな」
夢の中とわかっていたが狼狽した。ホナミは近寄って足にすがりつき、言葉を発した。
「私を置いてどこへ行くつもりなの?」
「うるさい。おまえはもう相手にしないんだよ!」
直輝は足に回したホナミの手を振り払おうとした。すると、ホナミはみるまに大蛇に化身し、直輝の足にぐるぐると胴体を巻きつかせた。深緑の大蛇は強い力でぐいぐいと足を締め上げ、口から赤い舌をチロチロと出す。獣特有の、獰猛な黒い瞳の奥に邪気をはらんだ目つきでこちらを向いている。アユミとカホは目を吊り上げて哄笑した。二人の口から発する高らかな笑い声が、ステレオのスピーカーからでる音のように重なった。大蛇は大きな口をがばっと開けて顎をはずし、直輝を丸のみにしようとした。カホが、「キャーッ」と大声を上げ、食われてしまうと思わず目をつぶったところで、浅い眠りから覚醒した。
枕元の時計を見ると夜中の三時だった。首から腰に掛けて、ひどく汗をかいていた。しばらく布団にあおむけのままで真っ暗な天井を見つめた。アユミ、ホナミ、カホ。なぜ、その三人が同時に夢に現れたのか、不思議だった。その後、うとうとしかけたが、眠れぬまま、おかしな空想がいくつか頭を巡り、ぼんやりした空白の時だけが過ぎた。
やがて、空がレースのカーテン越しに白みはじめた。朝がきた。名状しがたいような虚ろな時間がゆっくりと時を刻んだ。待ち遠しかったデートの朝が、妙な夢を見たせいでだいなしになった。食欲もなく、牛乳だけを飲んだ。
洗面所に行き、鏡を見た。鏡の中の顔はひどく青白く、頬がこけていた。髭を剃り、もう一度鏡を見た。目の下に隈ができていた。軽くこすったが、取れない。
服に着替えた。きょう観る映画のことだけを考えた。吹き替えだと、けっこう混むかもしれない。そう考え、吹き替えの洋画をスマホで検索し、席を二つ予約しておいた。スマホの画面ではすでにいくつかの席が隣同士でポツポツと埋まっていた。映画の筋を調べようとして、やめた。そのとき目にする感動の量が半減しそうだったから。
待ち合わせは朝の十時半だ。まだ、かなり時間があった。携帯音楽プレイヤーをFMに合わせた。朝から爽やかなバラード音楽が聞こえてきた。FMを聴いた限りでは、とくに天気の崩れや道路の渋滞はない。窓から空を見た。西の空は青く晴れ、白い雲が薄くたなびいていた。
待ち合わせ時刻まで暇だった。歩いて近くの神社に行った。石畳の参道はきれいに掃き清められ、隅に枯れた松の葉が積もっていた。手を清め、参拝した。デートが楽しくなりますように。ささやかなお祈りをした。
まだ時間に余裕があった。霊園を探し、墓を見にいった。石工にとって当たり前のことだが、佇まいの古びた立派な石は昔ながらにきれいに手彫りされている。安そうな石、最近建てられた簡素な石は、機械彫りだった。あまりしげしげと見たら怪しまれるので遠目から墓を眺めて回った。いつの日か、手で墓石の字彫りをする未来の自分を思い浮かべた。
そのうち十時が近づき、慌てて家に戻った。バイクを飛ばして映画館の近くの駐輪場に原付バイクを停めた。待ち合わせの場所に着くと、カホはもう来て待っていた。スマホを見ると、ラインに、《もう着いたよ》とメッセージが残っていた。カホの恰好は、デニムに赤のダウンジャケットだった。
「よく似合ってるね、その服」
「ありがとう」カホは短く礼を述べた。続けて、
「映画、楽しみだね」
といって笑顔を見せた。口元から白い歯がこぼれていた。
「洋画にしたよ。アクションの。吹替だぜ」
「アクション映画なのね」
「なんか飲み物でも買うか」
「うん」
カホは素直に頷いた。映画館に入り、機械に予約番号を打ち込み座席券を二枚購入した。売店でポップコーンとジュース二つを買った。ポップコーンにジュースを抱えて劇場に入った。オレンジ色に照らされた館内は、すでに幾組かの人たちで埋まっていた。灰色で統一された壁や床や椅子は、単調で地味な色だった。席に座ると、すぐに予告編が始まった。仰々しい宣伝から始まり、スリリングなもの、子ども向けのユーモラスなものまで、画面は目まぐるしく切り替わった。直輝は膝の上に置いたポップコーンに手を伸ばしていたが、自分ばかり食べているのに気付いた。「食べなよ」とカホに勧めた。カホは、「うん」と少し緊張気味に答え、薄白い手を伸ばし、ポップコーンを少しつまんで口元に運んだ。
本編が始まった。近未来の世界で活躍する主人公が悪を相手に戦いを勝ち抜いていく。似たような筋はいくつも観てきた。この映画の〝売り〟は、主人公の変身シーンだと思って銀幕を見ていた。横を見ると、カホは眼鏡をかけ、真剣に映画の世界に没頭していた。肘掛けに置いたポップコーンの丸箱からひとつ摘まんで、彼女の口の中に押し込んでみた。カホはくだらないいたずらに口先を尖らせて顔をしかめた。
映画が終わった。カホは途中で邪魔されたのをまだ根に持っていたらしく、直輝の手の甲を指でつねった。
「いてぇな」
直輝は仕返しするように、彼女の腕を掴んで強引にたぐり寄せた。
「やめてよ、こんな人前で!」
カホは叫んで、直輝の手を振り払った。直輝は彼女の気の強さに当惑した。
「ごめん、悪かった。昼、なにが食べたい?」
「ナオキと同じものでいい」
「お好み焼きにしようか」
「それでいいわ」
カホは機嫌を取り戻した様子だった。二人は映画館のフロアから一階ぶん降りて、お好み焼き屋まで歩いた。すでに何組もの人が行列を作っていた。壁伝いに椅子が置かれ、腰掛けていた。メニュー表を手にした制服姿の若い店員が、並んでいる客にメニューを渡していた。二人も最後尾に並び、メニューを受け取った。二人の順番がきた。
「お二人ですか」
「はい、そうです」
「ご注文はお決まりでしょうか」
「ミックスを二つと、コーラにジンジャーエールを」
「わかりました」店員は店の中へ案内した。
「左奥の空いている席へどうぞ」
直輝はここぞとばかりに、カホの手を握り、テーブルにつくまで離さなかった。カホの手は柔らかく、すこし冷たかった。見ると、ほんのり赤みがさしていた。
テーブル席に向かい合って座った。映画の話を振り返って喋るうちに、別の店員がやってきた。鉄板に油をひいて、ガスを点火した。二人が黙って見ていると、ボウルの中の生地を箸で手早くかき混ぜ、やおら鉄板にぼってりと生地を流しいれた。
「焼けてきたら戻りますので」
店員は早口でいった。やがて片面が焼け始め、いい匂いが漂ってきた。
「旨そうな匂いがしてきたな」
直輝がいうと、カホは小さく頷いた。再び店員がきて二つの真ん丸の生地を裏返した。焼けたのを見計らって、コテで皿に取り分けて食べはじめた。
「けっこう熱いな」
「ええ。でも、おいしい」
まもなく別の店員がジュースを運んできて、オーダーが揃ったかを訊ね、伝票を置いていった。
食べ終わって店を出た。しばらく館内をぶらついてから落ち着いた雰囲気の喫茶店に入った。二人はホットコーヒーを頼んだ。
やがてコーヒーが運ばれてきた。
「カホのお父さんは、何をしているひとなんだ?」
「私の父は、県会議員なの」
「県会議員か。偉い人なんだ」
「そうなの。しかも、うるさい人なの」
「うるさい?」
「小さい頃からしつけに厳しくて」
「そういうことか。すごく育ちの良さそうな印象を受けた」
「そう見える?」
「お嬢さんの感じがする。垢抜けてるし。オレとは釣り合わないかもな」
「私を悲しませるようなこといわないでよ」
「すまん。そんなつもりでいったんじゃないんだ。気にしないでくれ」
直輝は弱り顔で頭を掻いた。それきり話がはずまなくなり、二人は別れた。
二度目のデートはそれから一週間後の土曜の夜だった。夕方、カホから電話があり、いまから会えないか、という。いまラーメン屋のアルバイト中でもう少しで店を出られる、と答えた。なんじでも構わない、とカホはいう。彼女の身に何かが起きたのではと不安に思った。
バイトが終わり、慌てて店の駐輪場に走った。停めていたバイクの横で電話を掛けると、すぐにカホが出た。
「オレだけど。いまから行く。どこに行けばいい?」
「私ね……。近くの大通り公園にいるから。そこに来て」
「すぐ行く」
直輝はスマホをかばんに入れてバイクにまたがり、エンジンを吹かして速度を上げた。夕方の道を飛ばし、公園まであっという間だった。
うら寂しい木立の中に人影が見えた。夕陽に伸びた細い影がバイクの方へ歩いてくる。それは遠目に見ても、間違いなくカホだった。
直輝は公園の外にバイクを停めた。
「カホ」
静かな公園に直輝の呼ぶ声が響いた。カホはふらふらと歩いてくると、こちらに手を伸ばした。彼はカホが背中に手を回すよりも早く、カホの体を服の上から抱きしめた。
「なにがあった?」
彼女はなにも語ろうとしなかった。それがますます、強く抱きしめたくなり、手に力が入った。
「どうしたんだ?」
互いに触れていた数秒間をその何倍にも感じながら体を離した。ようやくカホは重い口を開いた。
「ナオキ……。実は、父に交際がばれて、強く反対されたの」
「それがどうしたっていうんだ」
「私、悲しくて」
「なぜだよ」
「いったでしょ? 父は厳格な人間でしつこく問い詰めてくるの。『ラーメン屋で働く若者なんかと付き合うんじゃない。県議の一人娘だから、だれに見られてもいいように品行方正にしておけ』って」
「ずいぶんとオレも見下されたもんだな。そりゃ、ひどい。偏見だよ」
「私もそう思う。だから父にいい返したの。ナオキは悪い人じゃないって。でも、目を吊り上げて怒るの。『お前にふさわしい男は、ワシが連れてくる』ってきかないのよ」
「つまり、オレたちの交際に反対して、別のいい男を紹介するってことか」
「はっきりいえばそういうことね」
「そんな要求、受け入れちゃだめだぞ」
「もちろんよ。私、父のいいなりになんかならない。親に反対されても、絶対にナオキと付き合って、二人の仲を認めてもらうわ」
厚手のコートを着込んだカホの口から言葉が出るたびに、息は白く濁った。それからしばらく、公園のベンチに座って家族や友人の話をした。長話になって風邪をひくのを心配し、適当に切り上げ、公園からバイクを押して、彼女の自宅まで送ってやった。
それからというもの、二人の仲は前にもまして親密さを深めていった。カホは仕事のない土曜日、直輝のアパートにやってきた。
カホの父の大宮健人は付き合っている恋人の店にまで怒鳴り込んでくるような真似はしなかった。親の反対というのは直輝にとって厄介だった。
直輝がたまたま大宮の顔を知ったのは、町中を走っていた平日の昼間のことだった。ちょうど、バイクで買い物に出かけていたときだった。ある交差点で信号が変わり、停まった。横を見ると、そこの建物の二階に、「県会議員 大宮けんと」という写真付きの看板が掲げられているのが目に飛び込んできた。これがカホの親父かと思った。その第一印象は、笑顔の下に狡猾さを隠し持つ、頑固な人物というイメージだった。写真では確かに白い歯を見せてはいたけれど、ひとたび口を開くと確かにうるさそうであった。
大宮カホは、口うるさそうな父に似合わず、裏表のない素直さと、芯の強さを兼ね備えた女だった。少なくとも直輝にはそう映った。さばさばしていて、融通の利きそうなタイプにも見えた。
カホとの交際は順調だった。しかしあるとき、二人の関係に亀裂が走った。暇潰しに登録した出会い系サイトで見知らぬ女性と連絡を取り合っている形跡をカホに見られ、直輝のアパートで問い詰められた。
「どうしてナオキはそういうことをするのよ」
カホは語気を強めて顔を赤らめ、プイとあちらを向いた。トイレに立ったあいだに、机に置いたスマホに手を伸ばし、カホが勝手に発見したのだった。
「勝手にひとのスマホ、見んなよな」
「あなたってひとは、私がいるのに満足してないのね」
憎々しくとげのあるいい方に、直輝は縮みあがった。ここは謝るしかないと彼は白旗をあげた。
「ごめん。軽い気持ちだったんだ。もうやらない。このサイトを退会するからさ。許してくれ」
「本気?」
「本気で誓うよ」
「明日チェックするから、それまでに全部消しとくのよ。いいわね?」
「……。はい」
さすがに気の強い女だと思い知らされた。口をへの字に曲げ、最後はとどめとばかりに直輝のスマホをバシッと荒々しく畳に叩きつけた。畢竟、遊び心で始めた出会い系サイトを直輝はやめた。
工学院の授業のない昼間、本当ならカホと話をして過ごしたかった。が、カホには事務仕事があり、スマホの電源をオフにしていた。話し相手がおらず暇を持て余し、国道沿いのパチンコ店に通い出した。女遊びがだめなら、次はギャンブル。短絡的な発想だった。
直輝のパチンコ通いが人づてにカホの耳に入ったのは、二月初めだった。このときも二人の関係は冷え込んだ。すぐにカホから抗議の長文メールが届いた。
《どうして、ナオキってひとはだらしがないの? 国道沿いの『イコーヤ』とか二、三か所のパチンコ屋に通い詰めているでしょう。証拠はあがっているのよ。たとえ自分で稼いだお金を使っているにしても、無駄なお金と時間を浪費するのはもうやめてちょうだいね。私は怒ってます!》
最後の一文を読んで、はらわたの煮えくり返った、角を生やしたカホの姿がまざまざと頭に浮かんだ。これはやばいと思った直輝は、すぐに返信メールを打った。
《すまない。パチンコもすぐに足を洗います。ごめんなさいorz》
謝罪する落胆マーク入りのメールだった。
カホが愛想をつかして逃げていきやしないかと、直輝はときどき落ち着きをなくした。カホに誠意を見せたら、元の穏やかな関係に戻ると思った。彼は電話やメールでなく、誠意のこもった手紙を書くことを思いついた。何度も書き直して手紙を完成させ、カホに手渡した。
カホへ。いままでいろいろと迷惑をかけ、すまなかった。これからは、カホに嫌な思いをさせるようなことは二度としない。本気でカホを愛している。だから、オレを信じてついてきてくれ。いつまでもそばにいてくれ。 直輝より
この手紙作戦でカホの機嫌はなおった。直輝は汚名を返上した。が、波風はどうにか収まったものの、県議は相変わらずカホとの交際を認めてくれなかった。カホの家に上がることも、どこかで県議と面会することすら拒絶された。
付き合いだしてそろそろ半年が過ぎようとしていた。それなのに彼女の父から交際を反対され続け、カホの顔色はずっと冴えなかった。
ある日、カホは泣きそうな顔を見せて直輝に訴えかけた。六月の日曜日の昼下がり、直輝のアパートでのことだった。
「うちの父、ひどいのよ」
「あの県議の話か。どうした?」
「父ったら、自分の地盤固めのために、親しくしている市議の長山って男と私をくっつけようとしているのよ」
「なんだって?」
「だから、長山と私を婚約させようと企んでいるの。再来年の県議選の票を伸ばしたいがために」
「本当か」
「本当よ。父と長山が電話しているのを立ち聞きしたのよ」
「その長山って男はどんな人間なんだ?」
「金持ちの跡取り息子。親は元市議なの。親の七光りで出馬して、市議の座を親から譲り受けた苦労知らずね」
「見た目はどんな感じだ?」
「派出な遊び人ね。痩せてて長身で。赤いスポーツカーを乗り回す、女癖の悪そうなひとよ」
「それはまずいな」
「ねえ、なんとかしてよ、ナオキ。私、そんな男と勝手に政略結婚させられるなんてまっぴらだわ」
「わかった。なんとかしてやる。少し時間がかかるかもしれないが、その市議との仲を裂けばいいんだな」
「そうして欲しいの」
「よし、分かった。その男の周辺から事情を訊いて回る」
「お願いするわ」
「オレにまかせろ。まず、長山本人と会って話をつけてみるから」
直輝は、カホを巡るライバルの登場にいきり立った。市議の選挙事務所を訪れたのはその二日後だった。大宮カホのことで話がある、と受付の秘書に口頭で告げた。約束はしてないんですね、といって男の秘書は渋々と奥へ消えた。
しばらく間があいて、長山本人が姿を見せた。背の高く痩せぎすの眼鏡をかけたインテリ男だった。髪はオールバック、鼻が高く、口は大きく裂けていた。どこかカマキリを連想させる、冷淡そうな男だった。彼は自分が市議として岡崎市政にいかに貢献しているか、二、三分流暢にまくし立てた。直輝は、それを聞いたうえで、
「オレは弓長といいます。大宮カホさんのことで来ました」
と愚直に用件を切り出した。
「そうですか」冷たい口調で直輝を睨んでくる。「カホさんとのことは、こちらもそう簡単には折れませんから」
「それはこっちの台詞だ」
「大宮さんの娘さんのことなら私的な話ですから、きょうのところはお引き取りください。また別の機会に場を設けて、きみとじっくり話し合います」
長山はあくまでも冷静かつ中立に、紳士的に喋った。喋り終わると、眼鏡の奥をきらりと光らせ、ニヤッと笑った。その気障で自信満々そうな態度にかちんときた。この男、どこかふてぶてしすぎやしないか。いつか、その鼻をへし折ってやるからな、と頭に血が上った。
ものの五分で面会は終了した。直輝は追い出されるように事務所を出た。
その日の晩、岡崎市内の中心街のナイトクラブやスナックを二、三軒はしごし、長山のことを訊ねて回った。直輝は赤い眼鏡をかけ、かつらまでかぶって変装し、雑誌の記者だと自らの身分を偽った。店内のカウンターにいたホステスの一人を捕まえ、さっそく訊ねた。
「岡崎市議の長山さんのことでなにかご存じですか」
「なにかって?」
「長山さんは結婚されていますか」
「いいえ。ずっと独身よ」
「他には? 例えば、最近の交友関係はどうですか」
「あの人、あまりお酒を飲む方じゃないからね。でも、たまに、女の人たちを大勢連れてきてはカラオケをみんなで歌って騒ぐわよ」
「なるほど。とくに目立ったトラブルは聞いたりしませんか」
「いいえ。市議の仕事は順調にこなしているらしいわよ。あちこちの祭りやイベント、パーティーに参加して毎日忙しいっていってたわ」そこでフッとため息を漏らしたホステスは、「ちょっと揉め事があっても、金持ちでしょ。金で解決してるんじゃないの? 私たちホステスなんかにぼやいたりするような人じゃないわ。そつのない人よ」
「連れてきた女の人たちって、どんな感じの人でしたか」
「いっちゃ悪いけど、そのへんの女とは格が違うわね。市内の人というより、東京育ちの、洗練されたきれいどころを選りすぐったような女連中よ。清楚で品があって。きっとどこかの令嬢をお金の力で呼んだんでしょうけどね」
「そうですか。その中で、長山さんが特に目をかけていた人っていますか」
「そうねえ。特に一人というより、まんべんなく派手に遊んでるって感じだったかしら。彼、大学時代は東京にいたのよね。そのコネもあって、女遊びだけは豪勢なのよね」
「ありがとうございました。きょうは参考になりました」
「いえ、たいしてお構いもせず」
他の店でも、話は似たり寄ったりだった。長山の派手な女性関係はつとに有名だった。独身とはいえ、市議として不適切な女性関係やスキャンダルの類を絶対に炙り出してやる。直輝は腕がなった。
とはいうものの、昼はラーメン屋のアルバイトが、夜には学校の授業が待っている。二四時間長山に張り付いて素行を調べるわけにもいかない。直輝は、アルバイト代で得た蓄えを少し取り崩し、探偵を雇った。一月のあいだに、その市議のスキャンダルがないかどうか調べるよう依頼した。
すると、直輝の睨んだとおり、長山の女性との密会が露見した。深夜、赤いワンピースに高級そうな宝石をつけたセクシーな女が、タクシーから長山と連れ立って降り、ホテルに入るところを、探偵は二度にわたってカメラに収めていた。一眼デジカメの画面を見て、直輝は胸が躍った。この写真が証拠となり、長山にカホと付き合う資格はなくなるだろう。胸のつかえがスーッと下りた。探偵が写したカメラのデータをUSBメモリにコピーし、写真屋に持ち込んでプリントした。長山本人に見せれば、うまくかわされるか、データを金で買うといってくるかもしれない。他に女がいることをネタにして、相手を脅すのが目的ではなかった。カホの父に見せて、長山とカホとの交際を断念させるのが狙いである。まだ数日の契約期間が残っていたが、成果の出た以上、これで打ち切ります、と直輝は探偵に伝えて調査を終了させた。
赤いワンピースの女と長山のツーショット写真を何枚か持って、大宮健人の自宅を訪ねたのは、その週の日曜の晩だった。
突然の訪問に大宮は眉をひそめ、「きみがカホの相手の男か」と面倒くさそうに居間に通した。
「大宮さん。これが、長山のいま付き合っている女です。これでもまだカホさんと交際させようとお思いですか」
直輝は、カバンに入れた封筒から数枚の証拠写真をテーブルに並べた。大宮は手でそれを持ち上げ、確かめるようにしげしげと見つめた。
「うむ。ここに写っておるのは確かに長山くんだ……。これをきみが撮ったのか」
「違います。探偵を雇いました。長山はカホさんの結婚相手にふさわしい人物でしょうか」
「そういうことか。まあ、しかたない。長山の件はあきらめるとしよう。だが、それできみとカホの交際を認めると思ったら甘いぞ」
県議はこの期に及んで、まだ直輝とカホの交際を頑なに反対した。直輝はその態度に気分を害した。難攻不落の相手だと思った。別の角度から攻めないとだめだな、とも。
直輝は同じ探偵に金を払って別件を依頼した。こんどは大宮健人の周辺を洗い出すように、と。
一週間、二週間と過ぎ、どうやら月に二、三度のペースで名古屋市内に通い詰めているらしいと判明した。行きつけのナイトクラブがある。そこのホステスの一人に惚れ込んでいるという内偵調査が報告された。そこで一計を案じ、ホナミを使うことにした。彼女に金を握らせて、名古屋のナイトクラブに潜入させることにした。
ホナミは面白がって、さっそく夜の世界に足を踏み入れた。ホナミからの情報が、直輝の元に随時届いた。ホナミによると、万里子という名のホステスと大宮が懇意らしい。直輝はスマホの通話でホナミに細かい指示を出した。
「いいか、ホナミ。相手に気づかれないようにして、万里子というホステスと大宮健人の会話を録音するんだ」
「分かったわ」
ホナミに前もってICレコーダーを渡しておいた。彼女はそれをドレスの下にしのばせ、大宮健人が来店して万里子を指名したときに相席し、会話を録音した。あとで彼女はそう話した。そこまでは企てどおりだった。その会話をネタに大宮を脅して、カホとの交際を認めさせるつもりでいた。
が、計画に狂いが生じた。ホナミの心変わりだった。そこまで彼女の心を読めなかった。途中からスパイもどきの行為に嫌気がさしたのか、「なんでこんなことをいつまでもやらされるのよ」と彼女は不平を訴えた。せっかく掴んだ証拠の会話データを誤って消してしまった、と彼女はいった。あとでICレコーダーを回収してみたら、本当にデータが消されていた。
これで大宮を脅すことはできなくなった。直輝は途方に暮れた。しかもホナミは、客の大宮を本気で気に入ったらしかった。らしかった、というのは、ホナミが直輝に電話を掛けてきて、もう直輝に協力するつもりはいっさいない、大宮さんと仲良くしたいから、と絶縁宣言したのだ。とんだ計算違いだ、と直輝はアパートで地団駄を踏んだ。部屋の床に転がっていたカップラーメンの空容器を思いっきり足で蹴っ飛ばして壁にぶつけるほどだった。ホナミは単なる駒に過ぎず、相手に取られた。
夜に激しい雨が降り出した。雨はひどくなる一方だった。降りしきる雨に気持ちは落ち込み、直輝はやぶれかぶれになった。石工も人生も放り出したくなった。豪雨の翌日、カホを誘って、近くの乙川に連れていった。増水した川に入水しようとしたのだ。堤防まできたが、川の濁流を見て足がすくんだ。カホは止めに入った。
「なにするつもりよ」
「このまま交際を認めてもらえないなら、川に入って一緒に死のう」
「ばか!」
「いっそあの世で……」
「いい加減に目を覚ましなさいよ。こうするしかないわね」
カホは思いきり、直輝の頬を平手打ちした。それで我に返った。自分で自分を追い込んでいた。せっぱつまるほどのことでもないのに、オレはなんてことを。県議が取り合わないなら、他の作戦に変えてみようと考え直した。
大阪のケンジさんに電話して状況を説明した。彼ならどうするか訊ねてみた。ケンジさんはしばらく考え、相手の喜ぶようなことをしてあげればどうや、といった。
直輝は、県議になにをもたらしたら喜ばれるかを考えた。北風でだめなら太陽である。幾日もかかって作戦を考え、計画を練った。安城市の石材業者を利用することを思いついた。安城市内で勤めていた頃、いくつかの同業者と顔見知りになった。仕事の場で一緒になった石工と名刺交換をしたし、イベントや酒席でも一緒になった。
その中にKという石材店の社長がいた。彼は中部地方で広く名の知れ渡った人物で、あくどい商売をすることで悪名高かった。アジアで採れた安い輸入石材を加工して、素人相手に言葉巧みに高い国内産だと偽って売りつけた。その手のセールストークを得意としていた。多かれ少なかれ、どこの石材店も高くて品質のいい石から客に勧めるものだ。しかし、K石材店の宮橋社長は露骨にうそをつき客を誘導した。当然、売れれば利ざやは大きい。K店の羽振りはよかった。直輝は社長の宮橋に電話を入れ、承諾を得た。
ある晩、直輝はK石材店の宮橋社長と県議を引き合わせた。直輝の立会いのもと、宮橋は、儲かる「からくり」を、身振り手振りを交えて説明した。大宮から宮橋に客を紹介するのと引き換えに、K石材店の儲けの一部を仲介手数料として大宮の銀行口座に振り込む契約が交わされた。
実際、それから半年のあいだに何組もの客が訪れ、宮橋の口車にのせられた。数百万もする高い墓石を購入したケースもあったという。ここに、宮橋と大宮がともに得をする構図ができあがった。
直輝の口添えのお陰で懐が潤ったことを、県議は喜んだ。うまい汁を吸えたと直輝に感謝し、結果として、やっと交際を認めてくれた。この男はなかなか知恵の回る人物だとでも思ったのだろう。
「カホ、よかったな」
「ありがとう、ナオキ。やっと親に認めてもらえた。うれしいわ」
カホは喜びに満ちあふれた顔を見せた。一番の難関を乗り越えた二人は、いま、直輝の部屋にいた。畳敷きの和室に二人は並んで座っていた。
日曜日の晩だった。アルバイトは非番の日だ。直輝は、夜学の一年の冬からカホと付き合ってきた一年と数か月を頭の中で振り返った。いろいろあったなと感慨深くなった。
やっと穏やかな春の夜を迎えた。
「父は、ナオキと私が結婚しても県議の地盤を譲るなんてひと言も話さないわよ」
「ああ、それでいい。県議になるなんてこれっぽっちも考えちゃいないよ。オレには職人の道しか残ってないんだからな」
そういうと、彼はカホの手にそっと自分の掌を重ねた。春の夜のしじまが二人の会話の隙間に少しの沈黙をもたらした。
直輝が灯りを消そうとリモコンに手を伸ばす。その手が、ちょうどカホの手に当たった。決まりの悪さを感じたが、彼は消灯ボタンを押して部屋を真っ暗にした。カホの腕を引くと、彼女の方から身体を彼に預けてきた。二人は闇の中で抱擁した。衣擦れの音が聞こえた。壁に掛けた時計の針は、音もたてずにスーッと進み、三つの針が蛍光色に輝いていた。
朝、直輝が目覚めると、そこにカホはいなかった。寝乱れた布団の跡が妙に艶めかしく、生々しかった。机の上に破られたメモが置いてあった。それには、数行の丸い文字が等間隔に並んでいた。
夕べは楽しかったです。ありがとう。ナオキの寝顔を見たら、そのままで帰りたくなっちゃった。じゃあね。 カホ
カホが泊まりにくるとき、いつも使う専用のピンク色の枕がふと目に入った。手に取って匂いを嗅いでみる。カホの髪の香りがした。手で触れるとまだ生温かかった。
直輝はその辺に脱ぎ捨てた服を着て台所に行き、湯を沸かした。目覚めのコーヒーを二人して飲みたかったな、と呟いた。インスタントコーヒーを入れて飲んだ。カーテンを開け放つと、花曇りの四月の空が窓越しに見えた。きょうから最後の一年が始まる。やけに、岡崎で過ごした二年の月日の重さが、ずしりと人生を左右したように思えた。短かったとも思った。トーストを齧り、外へ出た。
近くのガソリンスタンドまでバイクを走らせた。家へ戻る途中で公園に寄り道した。公園の塀にバイクを停め、暇潰しをしようと中へ入った。朝の公園には人影がなかった。アルバイトのシフト時刻まで、まだ二時間と少しあった。
春風がさっと吹き抜けた。それに少し肌寒さを覚え、身震いした。工学院で知り合った同級生のトモヒサの働く石材店に顔を出してみようと思いついた。
その石材店は、公園からバイクで一五分ほどの道路沿いにある。公園を出て道なりに走った。通り沿いに、桜の花の散った木立が目に飛び込んできた。交差点の信号で停まった。路肩には、散ったはなびらのピンク色の絨毯が帯のように敷き詰められてできていた。
トモヒサの店に着き、裏手に回ってバイクを停めた。倉庫から振動音が漏れている。トモヒサの背中が見えたので近寄ってみた。彼は、汚れのついたグレーの作業着を身にまとい、首と頭に白のタオルを巻いて働いていた。胸ぐらいまである高さの石材に、サンドブラストで字彫りをしていた。近づく直輝に気づかず、夢中になって彫っていた。
「おい、トモヒサ。ちょっと手を休めろよ」
石を削る振動音が止んだ。
「ナオキか」
トモヒサが振り向いた。と同時に首のタオルで額の汗を拭った。機械を机に置き、直輝の方へやってきた。
「頑張ってるなあ」
「仕事だから」
「おまえ、ずっとここで働くのか」
「うん、今のところは」
「そうか」
直輝は、そのときは深く訊ねなかった。互いの先のことまで意図してなかった。
「道具の使い勝手はどうだ?」直輝はトモヒサの手元を見た。
「だいぶ手になじんできたよ」トモヒサはグローブを広げて見せた。細かい石の粉が付いている。
「そうか。そりゃ、よかった。きょうから新しい実習の日だな。楽しみか」
「楽しみだ。でも夜の実習は神経が鈍る。眠いし」
「オレもだ。やっぱり、現場が外だろうと倉庫だろうと、昼間にチッパーを握りたいと思うよ」
「おれも同感だ。ナオキ、いま暇なのか」
「暇だよ。でもじきにラーメン屋のアルバイトの時間だ」
「アルバイトか。ずっと続けてるもんな。偉いよ」
「まあな。石工とはまた違う世界だな」
「どうして始めたんだ?」
「一つは金のため。それと世間勉強にもなると思ってさ」
「なるほどね」
おーい。向こうで師匠が手招きして呼んでいる。
「じゃあ、仕事に戻るから」
「悪かったな。じゃ、また夜に」
トモヒサは倉庫の奥へ引っ込んだ。それを見とどけ、バイクに戻ってエンジンをかけた。腕時計に目をやる。これから昼時の忙しい仕込みを手伝わねばならない。夕方の四時まで働くのだ。
トモヒサと親しくなったのは岡崎技術工学院の授業が始まってすぐだった。彼は教室の中ほどに一人で座っていた。直輝の方から声を掛けた。トモヒサは直輝と比べると小柄で、見るからにすばしっこそうだった。隣あいてるか、と訊ねると、一瞬躊躇したような色を浮かべたが、すぐにひとなつっこい笑顔で、いいよ、と答えた。それ以来、授業のときはなにかにつけて協力し合った。小テストのときなど、先生の目を盗んで、答案をトモヒサに見やすいように移動してやった。そのかいあって、製図の時間はトモヒサにCADのコツを教えてもらった。冬に行われる卓球大会でも、彼と直輝はペアを組んで戦った。もっとも一回戦で上級生のペアに負けてしまったが。休憩時間には岡崎市内の旨い飲食店の話で盛り上がった。授業は夜更けに終わる。帰宅途中に、話に上った店に何度か連れていってもらったこともあった。
最終学年の三年の終わりに技能コンクールが開かれた。直輝は与えられた課題に対し、自信をもって仕上げたつもりだった。が、惜しくも二位に終わった。そのとき、三年生は五名だったから、五人中の二位だ。トモヒサが、「惜しかったな。いい出来に見えたけど」と褒めてくれた。
「ここで充分に技能と能力を磨いたんだ。別に気にしてないよ」
すまし顔で答えた。
修了式を三月三日に迎えた。
「トモヒサ。仲良くしてくれてありがとうな」
「こっちこそありがとう。ナオキは安城市に戻るんだろ?」
「戻るよ」
「石工として、ナオキの方が先輩だし腕もある。どっかの現場で顔を合わせるまで、おれも一人前の石工になっておくよ」
「頑張れよ、トモヒサ……」
直輝は言葉にならない文句を呑み込んだ。そして握手を交わし、肩をポンと叩いて校門で別れた。
三年の長かった学習期間が終わった。学費と生活費を稼いだラーメン店のアルバイトもやり通した。めげずに三年間頑張ったので、店長に褒めてもらった。アルバイトで得た忍耐力と、工学院で学んだ経営のノウハウを手にした。実務はもちろん、法令や安全、経営までを一人でこなせる自信がついた。
カホと結婚の約束を誓い合い小宮山石材店に向かったのは、三月中旬だった。
カホを助手席に乗せ、軽トラックを運転していた。行きと同じ風景のようだが、助手席にはまるで違う女が座っている。そしてその女は将来の妻になる人だ。
車は岡崎市内を抜け、安城市に入った。やがて、見慣れた小宮山石材店の看板が目に飛び込んできた。とうとう帰ってきたのだ。直輝はほっと一息ついた。と同時に懐かしい思い出の数々が蘇り、こみ上げるものがあった。直輝が小宮山の店で働きたいと申し出たら、三代目は快諾してくれた。
きょうは日曜日。店は閉まっているのでカホを連れて倉庫に回ってみる。
「おう、ナオキ。やっと帰ってきたか」
倉庫の暗がりから聞きなじんだ声がする。三代目の声だ。
「お久しぶりです、三代目。帰ってきました」
夕暮れの光に照らされたその顔は、まぶしそうな目つきをした三代目だった。
「隣の子は誰だ?」
「オレの婚約者でカホといいます」
「大宮佳穂です」
「そうか。よろしくな」
三代目は名乗らずに、品定めをするかのように、カホの頭のてっぺんからつま先までを眺めた。
「良さそうな子じゃないか」
「県議の娘さんなんです」
「どうりで品のある顔をしてるな。お前とちがって」
「三代目、それ以上はいわないでください。オレのぼろが出ますから」
直輝は釘をさしておいた。三代目はくるりと背中を向けると、奥へ引っ込んでしまった。カホはきまり悪そうにもじもじしながら、なにかをためらう色を見せた。
「どうした?」直輝は訊ねた。
「私、この店で受け入れてもらえるかしら。石材店の妻になんてなれるのかな」
「ここはオレの店じゃないぜ。気が早いなあ」直輝は笑った。続けて、「だいじょうぶだよ。心配することはなにもないから」
「どうして?」
「カホはただオレの部屋で暮らせばいいのさ。たまに、三代目に呼ばれたときだけ顔を見せにくればいい。そのときはオレも一緒にいるから」
カホは彼の腕をとり、自分の腕をからませてきた。いつもの癖だった。
「さあ、新居へ行くか」
直輝はレンタカーの軽トラックを走らせ、新たに住む賃貸アパートへ二人で向かった。
新居に着いた。CMでよく流れている不動産会社の3LDKのアパートだった。その晩は、持ってきたカーテンを取りつけて、畳の上で二人して抱き合うような恰好で眠りについた。
月曜の朝、二人で部屋に必要なものを紙に書き出してみた。三月から始まる新生活には、新品のコップや皿にカトラリー、調理道具、座卓、クッションにゴミ箱、真新しいカホ好みのカーテンとおそろいの座布団、寝具、バストイレ用品、掃除機などが必要だった。
部屋にはエアコンとすこしの家具がついていた。もちろん照明器具もついていた。エアコンがあるので、こたつは買うのをやめにした。紙に書いたものをそろえるのに、一週間かかった。カホの顔に疲労の色がにじんでいた。まだ、洗濯機や炊飯器、電子レンジ、冷蔵庫といった大物家電を買わねばならなかった。それらは、店頭で製品を比べて二人で話し合ってからできるだけよさそうなものを買う結論に落ち着いた。テレビはカホの中古品を廃棄して、直輝の24インチを部屋に置いた。細かいことはほとんどカホが注文をつけてくる。
「この部屋は私のだから淡いピンクで統一したいの」
「クッションはペアで揃えて、ピンクと緑ね」
「家具はあるものをそのまま利用しましょうか。必要になった家具は買い足すことにして、当面は備え付けで間に合わせるの。服なんかは、段ボールにいれたままにして活用してさ」
直輝はただうんうんと頷くしかなかった。すでに新妻気取りだなと苦笑した。
「こういうとき、張りきるよな」彼女を褒めたつもりだった。
「どういう意味、それ」カホはすこし険のある口調で応じた。
「深い意味はないよ。考えてくれてありがとう。助かるよ」
慌てて彼はとりつくろった。
「こういうときは、女にまかせた方がうまくいく。だんぜんはかどるのよ」
カホは自信ありげに胸を反らしてみせた。
火曜の夕方、ガス会社が開栓作業にやってきた。それがすみ、ガスが使えるようになった。その晩、疲れた彼女は横になり寝入った。さっそく直輝はすき焼きを作ってやった。材料は近くのスーパーで買った。スマホで検索して探したスーパーだ。すこしだけ奮発し、ビールもついでに買った。引っ越しのささやかなお祝いのつもりで。
カホは、牛肉の焼ける香ばしい獣の臭いで目を覚ました。晩の八時を回っていた。
「ついつい眠っちゃった。いい匂いがするわ」
「そろそろ食うか」
持ってきた鍋の中で牛肉と豆腐、ネギ、エノキ、春菊が煮えている。鍋の横の椀には玉子が入っていた。
「すき焼きなのね」
「特別にな。今夜はビールで乾杯しよう」
「そうしましょうか」
二つのグラスに少しぬるくなったビールを注ぐ。直輝はそれを持って、カホのグラスにこつんとぶつけた。
「冷めないうちに食おうぜ」
二人は鍋をつつきながら、ビールを飲んですき焼きに舌つづみを打った。
「肉うまいな」
「ちゃんと野菜も食べてね」カホはすかさずいった。
「うるさいなあ。分かってるよ」
「なんか、静かすぎる。テレビつけてよ」
「分かった。なんの番組がいい?」
「楽しそうなの。あ、やっぱり、まずニュースかな」
「いまの時間はニュースなんてやってないぜ」
「とりあえず適当につけてよ」
「分かった」
直輝は古びたリモコンを手にして電源ボタンを押した。カホは画面を観ていたのでなにか喋るのかと思ったら、しばらくしてから直輝の方に向き直った。
「新生活も慣れるまでたいへんね」
「いままでひとりで住んでいたからな。互いのことを考えないとな」
「たとえば?」
「たとえばカホが家をあけたらオレが掃除をしておくとか、オレが仕事で遅くなったとき、カホは……」
「なんだ。そういうことか」
「なんだと思ったんだ?」
「ナオキの意見と私の意見がぶつかったとき、どちらかが空気をよんで折れることかなって」
「ああ、なるほど。相手を思いやるわけか」
「そういうことになるかしら」
直輝はそれには答えず。ビールをグラスにつぎ足した。
「ねえ。直輝の仕事って、石……」
「石工。石を削るしごと」
「その石工だけど、私がひまなときに見学しにいってもいいのかしら」
「大歓迎だよ。三代目にはオレが話をつけておくから」
「きけん……じゃないわよね」
「ヘルメットが余ってる。それをかぶってくれたらいい。石からちょっとはなれたところで見てれば」
「わかった。石を削るのよね。たいへんだもんね」
「そうでもないよ」
「石ってかたいんでしょ」
「まあな。でも機械が削るし、たいしたことじゃない。石を運ぶのと据え付けるのがたいへんだ。めっちゃ重いんだぜ」
「どうやって運ぶの?」
「台車に積み替えて人力で押したり、トラックに付いたクレーンを使ったりする」
「けがしないようにね」
「子どもじゃあるまいし、だいじょうぶさ。勤めてもう何年もたったし。まちがっても石の下敷きになるなんてことはないから」
「体つかうんでしょ? 汗かくわよね」
「まあな。作業着やシャツは仕事がおわるとすぐに洗濯する。店の中の洗濯機を使わせてもらってるよ。共同使用さ」
「それいがいは……その……」
「くつした、下着類は持ち帰るよ。だから、洗濯機は早めに買わなきゃなあと思っているけどな」
テレビは番組からCMに変わった。カホはテレビを消して、といい、直輝はリモコンでオフにした。
二人ですき焼きの鍋を空にした。座布団をまくらにして、直輝は畳にねころんだ。その日は疲れていたので早めに寝た。
水曜日の朝、直輝は出勤した。店に着くと、ロッカーで三代目から受け取った真新しい作業着に着替えた。クリーニング屋にだしてきれいになった作業着である。袖を通すと、新人のころのような気分になった。
朝七時に店の朝礼が始まった。直輝は従業員の前であいさつした。
「いぜん、ここで働いていたナオキです。また、お世話になります。よろしく」
短いあいさつだった。よけいなことはいわないでおこうと決めていた。
「ちょっといっておこうか」
三代目が制するようにいった。
「ナオキの留守のあいだ、臨時の奴と入れ替わりに新人が入った。あいさつしてくれるか」
「はい」答えた新人は、みんなの一歩前に出て、直輝と目を合わせた。
「去年から入りました。今永ケンタロウといいます。よろしくお願いします」
「じゃあ、仕事に入ってくれ」
三代目は素っ気なくいって作業場へ歩いていった。
「三代目」直輝はまごまごして、三代目の背中から呼び止めた。
「オレ、きょうからなにをするのか、まだきいてないです」
「ああ、すまなかった。いうのを忘れとった」
「それで、なにを」
「ナオキはしばらくケンタロウについてやってくれないか。指導係だ」
「つまり、新人を教育すればいいと」
「まあそういうことだ。人手が足りないときがきたら現場に呼ぶから」
三代目はいい渡した。
正直、なにをどこから教えこめばよいのかわからなかった。ケンタロウを倉庫に呼んだ。
「間知石を作ってみろ」
ケンタロウは作業着を身につけ、口に専用のマスク、目にはゴーグルをつけて作業に取りかかった。
彼は昔ながらの道具のあつかいを知っていた。玄能ととび矢で、器用に直方体の石を割った。床に転がっていた石は、比較的きれいな間知石に仕上がった。かつて、直輝が三代目に習ったとおりのやり方だった。直輝はその出来栄えに目を見張った。
「案外やるじゃないか」すなおに褒めてやった。
「ありがとうございます」
ケンタロウは頭を下げた。礼儀正しい。むかしの職人気取りか、口数も少なそうだった。もういちど間知石を見た。ちゃんと石目を見て割ってある。
「作り方は習ったのか」
「はい。親方に」
「そうか」短く答え、続けていった。「若いうちはセットウ(ハンマー)を振る方が機械よりも早くハツれるから。なんでも機械に頼るなよ」
急に、先輩としての意地を見せたくなった。いきなりハードルを上げてやろうと思った。
「じゃあ、今度は字彫りをしてみろ。おまえの名前を漢字で彫ってみるんだ。あまっている石がどっかにあるだろう」
「たしかあっちの方に」ケンタロウは倉庫の奥を指さして歩いていった。
「字彫りしたことはあるのか」
「ありません」
「だろうな。まず、石を見てから彫るんだ」
「はい」
「はいって、分かるのか」
「いいえ」
「じゃあ、いちいち返事するな。いいか。石を見るっていうのは、石目を見ることだ。間知石でも石の割れやすい方向を見ただろうが」
「ええ」
「おなじように、彫るときも石目を見ながら手彫りしてみろ」
ケンタロウはグローブをはめて、木槌を握り、左手にノミをもって石を削り出した。
「そうじゃない。もっと角度を浅くして」
ケンタロウはいわれるままにした。
「字は中心に向かうように彫れよ」
「はい」
「これを薬研彫りというんだ。おぼえとけ」
「はい」
「深く彫るほど、値は高くなるからな。このやり方は99パーセント使わない」
「そうなんですか」
「うそはいわないぜ。よっぽど字に通な人しか頼まないんだ」
「なるほど」
「たいがいは、単価の安いサンドブラストだ」
「よく聞きます」
「そうか。でもな。手彫りは石工の手作業でする基本だし、愛着がわく。とりあえず、二文字ぐらいはノミで彫れ」
「はい」
「あとの字はチッパーにノミを付けて彫っておけ」
「チッパーの使い方を教えてください」
「知らないのか。じゃあ見ていろ」
直輝は机の上にあったチッパーの電源を入れた。右手で握り、左手をノミに添え、固定する恰好をして石に当て、実演してみせた。
「チッパーは圧縮空気がホースから出る。先につけたノミやタガネを高速で振動させる加工器具だ。刃先は取り替えられる。こうして使う。分かったか」
「はい」
「オレはちょっと一服してくる。できたら声をかけろ」
「分かりました」
少し離れた喫煙所の椅子に座り、タバコを吸った。ケンタロウのチッパーの振動音が耳に入る。ときどき音は止み、また始まる。音が止み、ケンタロウが近寄って声を掛けた。
「弓長さん。きれいに彫れたか見てください」
「見せてみろ」
椅子から腰を浮かして、石のある場所へ行く。
「初めてにしてはまあまあ彫れている。ここをもう少し彫って、深さを均一にしておけよ」
「分かりました」
それから二週間、ケンタロウはチッパーで字彫りの練習をつづけた。仕事の時間が終わっても、違う字を練習していた。直輝は入りたての自分を見るような気分でその熱意に目を細めた。
仕事中、ときどき口を出したものの、とやかくいわなかった。この手彫り加工もほとんどやらないのだ。時間がかかり、値もはる。技能継承のためだけにあるといっても過言ではない。しかし、どこかの店が後進に教え込まなくてはならない技術だった。機械で字彫りするコツなど、数か月もあれば、だれでも習得してしまえる。それがサンドブラストだった。
直輝はつぎの課題をあたえてみた。
「チッパーを使って石を切ってみろ」
「はい」
「ちゃんと設計図どおり、直線や曲線を切れよ」
「分かりました」
この作業は、玄能や矢など大昔の道具を使わずに、より現実的な方法を習得させるのが狙いだった。ケンタロウは、タガネをはめたチッパーを手に持ち、真剣に取り組んでいた。
「腰がいたくなったら、適当に休めよ」
「はい」
直輝は気をつかった。ケンタロウがきまじめそうだから。夢中になって手を動かしている気がした。直輝はほんの基礎を教えるだけにとどめた。機械と工具の扱いを覚え、危険にたいしてみずから注意することができれば、と考えていた。あとは現場で実践あるのみだ。なんども失敗をかさねながら体がおぼえるまで待つしかない。直輝だってそうだったし、きっと三代目も修行中のときはそうだったに違いないのだ。
ケンタロウは文句ひとついわず我慢づよかった。きつい作業に懸命についてきた。きつい、と彼の口からもれたことは一度もなかった。額から大粒の汗をかいては、ひたすら、首に巻いたタオルで必死になって拭っていた。その姿がほんとうに似つかわしかった。
現場で彼のする大部分の作業は単純な肉体労働だった。石を持ち上げたり、動かしたり、据え付けたりといった作業で、直輝の教え込んだ技をいかす余地はどこにもなかった。サンドブラストの字彫りや墓石の加工、研磨などは、すべて三代目と直輝、ユウジの三人でおこなっていた。彼が活躍するのは、墓石の周りの掃除や道具の片付けくらいで、力作業になると三代目がぬけてケンタロウが加わった。
それでも嫌な顔ひとつ見せず、作業をぬかりなくこなしていた。夕方の五時から六時になると仕事は終了した。それ以降、ケンタロウは倉庫にこもり、ひとりで石の加工や字彫りの練習をしていた。
あるとき、三代目が直輝を呼んだ。三代目は、カホの手弁当を持参する直輝はともかく、ケンタロウがコンビニ弁当や簡単なもので昼を済ませるのを気にしていた。はっきりいえば、よく思っていないようだった。
「なあ、ナオキ。あいつは野菜をもっと取らんといかん。それに、しっかり食わんと力も出ないだろうよ」
「たしかにそうですね」
「昼を手作りさせて、いっそみんなの分まで作らせよう。ナオキからいってやってくれ」
「承知しました」
直輝には分かっていた。料理をつくって栄養をとる以外の意図も。三代目の話をケンタロウに伝えようと倉庫に行った。
「三代目から、おまえに頼みごとがある。昼のまかないを作るように。四人分作れ。オレと三代目、ユウジ、おまえの四人分だ」
「はい」
「材料代は三代目が立て替える。食費として一回四〇〇円を給料から天引きする。それはみんないっしょ。一一時になったら飯づくりだ。わかったな」
「はい、了解です」
ケンタロウは嫌な顔を見せず、いつも正午までに二、三品のおかずを作りご飯を炊いて用意してくれた。でき上がると倉庫や霊園にいるみんなに連絡を入れ、みんなが揃ってから食卓を囲んで昼飯を食べた。そのとき、料理の味付けや仕事のこと、世間のニュースなども話にのぼった。
実際、彼がまかないを作り出して一年もたつと、料理の腕前は上がった。仕事も細かいところまで気づくようになり、霊園の作業現場で周囲にあるものを使って代用するのを覚え、機転が利くようになっていた。料理で鍛えた頭が仕事に活かされていると直輝は思った。
「ふしぎなものですね。料理でいい影響がでましたよ」直輝は三代目にいった。
「どうだ、おれの見立ては。あいつは頭が柔軟になった」
三代目も誇らしげだった。
ケンタロウを指導して一年のあいだに、直輝は、石材施工技能士一級の資格を取りに出かけ、見事に一発で合格した。二級しか持たないユウジより腕も能力も上回ることになり、直輝は小宮山でナンバー2として君臨した。それを三代目も認めたようで、なにかにつけて大事なときは直輝に相談した。
「ナオキ。ちょっと帳簿を見てくれないか」
三代目は、ときどき経理の売り上げを見せ、経営に関して直輝と二階の部屋にこもって話し合いを持った。業界で工具や機械の新製品が出ると、展覧会に行かせることもあった。
「古くなった機械と交換するにはどれがいいと思う」
三代目は直輝に意見を求めた。
「オレならこれがいいと思います。とりあえずカタログを各社から取り寄せましょう。数社の見積もりを出してもらってから決めましょう」
直輝は自信をもって答えた。ユウジを追い抜いて出世し、腕と知識では優っているので、平気で彼を見下した。ユウジは口にこそ不平は出さないがさぞかし唇をかんでいるだろうと直輝は思った。
けして他人の仕事ぶりにけちをつけるような真似はしないが、墓誌の手彫りなど先代の得意とした熟練の手作業は、三代目か直輝のどちらかに振り分けられた。
あるとき、霊園でケンタロウと仕事をしていて、昼休みになった。ケンタロウはひと足早くまかないを作りに店に戻った。直輝は冷たいお茶を自販機に買いにいき、霊園に停めた車に戻る途中、わき見をして歩道の側溝に落ちてしまった。側溝には蓋がなく、右足を叩きつけられてしまい、足首から下の感覚を失った。通りがかりのひとが見つけて救急車を呼び、病院に運ばれた。
検査の結果、右足首の手術が必要と診断され、二週間入院することになった。手術後は松葉杖を使って歩行のリハビリをし、しばらくベッドで横になることになった。ベッドに寝ているとき、窓の外を眺めては気持ちの晴れない日々を過ごした。カホはもちろん看病に来てくれたし、三代目やユウジ、ケンタロウも見舞いに訪れた。石を触らない生活は自分の価値を否定されているようで、生活のメリハリがなかった。まるでヘビの生殺しのような毎日に気が抜け、いっそのこと、石工を続けるのをよそうかとばかなことを考えては自分に嫌気がさした。
やがて足首のケガも癒え、仕事に復帰する日がきた。
ケンタロウは見習い期間をとっくに過ぎ、サンドブラストで器用に字彫りできるようになっていた。三代目は六〇を過ぎて次の後継者に頭を悩ませていた。
ある晩、夢枕に師匠の泰治さんが立ち、お告げをした。
弓長くん。いずれ手仕事の技能を活かすときが訪れるだろう――。
数日後、石産協愛知県支部からファックスが届き、直輝は驚いた。お告げは現実になった。名古屋城の石垣修復の依頼であり、小宮山石材店など同業者が名を連ね、それぞれ分担して石垣の修復にあたるようにとの趣旨だった。本格的に昔の技術を活かせる仕事が舞い込んだ喜びと、三代目と一緒に仕事ができる喜びが全身を包んだ。もちろん破損して使えない石は新しく機械で切り出すのがほとんどだろう。それでも石垣を積み直すときに用いる石の細かい仕上げなどは手作業になるはずであり、小宮山で教わって磨いてきた手仕事の見せ場がやってきた。
じめじめした梅雨時に、名古屋城の工事が始まった。工期は一年と少し。名古屋城の工事全体はすでに十年前から始まっていて大手ゼネコンが指揮を執っていた。今後一年のあいだ、石垣を積む石工らはジャッキアップした石垣から崩れかけの分や傷んでいる石を取り出し、新たに切り出した石と交換し、はめ込む作業を行うことになっていた。現場作業はゼネコンの現場監督官の管理のもと各ブロックに分かれ、運搬や切り出しの実践指示は直輝や悟さんらが行うらしい。
「原則として、石積みは手で加工し、機械を使う場合はその痕をできるだけ目立たないようにしてくれ」
現場監督官からそう指示が出ていた。
「破損した石材は転用するんですよね?」直輝は監督官に問い質した。
「可能ならば、そうしてくれ」監督官はいった。
工事にあたり、名古屋城の学芸員から説明があった。
「名古屋城の石垣は、基本的に、切込接の乱積、布積です。一つの石垣の重さはだいたい七、八〇〇キロです。石は、小牧市、三重県の尾鷲市、知多湾の岩木里島などから運びます。今回、修復する石垣は、約四〇〇〇個を解体し、積み直しを行います。城の地盤は砂であり、石垣を支えるには弱いです。浸水によって石を押し出してしまいます。そこで、石で擁壁を作って地盤を補強し、石の積み直しを行います。図面や写真は豊富に残っています」
担当の学芸員は長々と説明した。直輝はそばにいた悟さんに耳打ちした。
「要するに、地盤の補強はゼネコンと下請けがやり、うちらの仕事は石の切り出しと積み直しですね」
「そのようだ」悟さんは大きく頷き、首に巻いたタオルで顔の汗を拭いた。二人は、暑さにうんざりした表情を作り、それぞれの持ち場に向かって歩いていった。
すでに各ブロックで石垣の半分ほどを取り外し、かためて置いてあった。数年前から石垣の修復工事は始まっていて、学芸員のいった擁壁も完成し、今年度は石の積み直しと崩れそうな石垣の取替作業だけになる。石工たちは名古屋以外の中部地方や近畿地方からも集められた。石垣をちゃんと積める腕のいい石工が少ないからだ。
直輝は、現場で指示を出しながら、自らも石の仕上げを行った。日々、仕事に追われ、膝の痛みをこらえながら石工らと汗を流すのに明け暮れた。一日の仕事が終わると、若手ゼネコン技師らに進捗状況と課題点などを報告し、技師はそれを上に伝えた。彼の主な仕事は石垣の正確な位置を測量し、パソコンで寸分の狂いもなく計算して石垣全体の強度やゆがみをはじき出すことだった。パソコンの画面を食い入るように見つめる技師をつかまえ、直輝はいった。
「われわれ石工をはじめとする職人の仕事ぶりを、ぜひビデオカメラで撮影してください。後進のために残してほしいのです」
彼の頼みを技師は上に相談し、オッケーが出ました、と喜んだ。さっそく次の日から、ゼネコン社員は石工の石を加工するビデオを撮りはじめた。
一年後、名古屋城の石垣修復は終わった。季節はお盆を迎え、直輝らはお世話になったゼネコンの現場監督官や技師長や技師や石工らを集め、栄に繰り出して朝まで飲み明かした。工事の話で盛り上がっていたら、途中から見ず知らずの音無という男がどういうわけか加わった。
「あなたは、名古屋城の関係者ですか」
「いえ、単なる城マニアで。わたしは名古屋市内に勤めるサラリーマンです」
「石工の小宮山です」
「同じく弓長です」
「みんな石のプロフェッショナルなんですね」
「まあそうです。安城市内で店を構えていますが」
「もしお墓のことで相談があれば、ぜひ小宮山石材店にご用命を」
直輝はかばんから名刺を差し出し、その場で音無と名刺交換をした。キッコーナ株式会社と書いてある。味噌や醤油などを作る老舗メーカーらしい。横で三代目がおしえてくれた。
「醤油の営業をしています。よろしくお願いします」
音無の巧みな話術と営業先であった失敗談で、宴席には何度も笑いが起きた。
その二日後、お盆を迎えた。
「オレがここでお世話になっていられるのも、三代目のおかげです」
「うれしいことをいってくれるな」
「ちょうど季節もお盆です。小宮山家の墓参りに同行させてください」
「ああ、いいとも」
三代目は直輝をトラックに載せ、しばらくして車は霊園に到着した。さっそく小宮山家の墓に行き、三代目と一緒に墓をきれいに掃除して線香をあげた。
これまで生きれこられたのも二代目、四代目のおかげです。本当にありがとうございました。どうかあの世で安らかにお眠りください――。
直輝は合掌して目をつぶり、これまでの恩に対する感謝と追悼の念を心の中で唱えた。
盆があけ、三代目は直輝を呼び出した。
「ナオキ。この店の経営者になってくれないか」
「申しわけないですがお断りします。オレは自分の店を持ちたいんです」
「考え直してくれ。頼む、店を任せられるのはナオキしかいない」
「残念ですが無理です。オレの気持ちは変わりません」直輝は頑なに拒否した。
「なんでそんなに店を持ちたいんだ」
「独立開業がずっとオレの夢でした。一国一城の主になりたいんです。自分には、石屋を経営する自信があります」
直輝は一歩も譲らなかった。三代目も粘り強く説得したが効果はなかった。彼は三代目に告げた。
「ケンタロウに指導することはもうないし、名古屋城の石垣修復という大仕事も終わりました。先代の技能を自分の手で広めたい。いつの日か、この店を去ります」
ある晩、三代目とユウジに誘われ、久しぶりに『リンドウ』に顔を出した。ひとしきり酒を飲み酔っていると、栄の居酒屋で一緒に居合わせた男がふらりと店に入ってきた。
「あのときのサラリーマンか」
「ええ、音無です。この前は失礼しました」
「また会うなんて何かの縁かな」直輝は喜んだ。
「そうかもしれませんね」
「音無さんの出身は名古屋か」三代目が訊ねた。
「いえ。わたし、岩木里島出身なんです。ご存じですか」
「知ってるよ。知多湾に浮かぶ島だな」三代目はいい、「岩木里島はいい石がとれる」
「名古屋城の石垣にも使われて」直輝も付け足した。
「そうです。さすが石屋さん。お二方ともよくご存じで」
「名古屋からどれくらいかかるんだ」直輝は訊ねた。
「港まで五〇分。港からフェリーで三〇分ぐらいですよ」
「なるほど。いい島か」
「いい島です。岩木里島は、人こそ少ないですが、自然の豊富な島です。いまは、わたしもこちらで働いていますが、いずれ島に帰りたいんですよ」音無は機嫌よく喋った。
「そんなにいい島か」直輝は身を乗り出した。
「はい。海がきれいで、坂道が多いんです。『空が海に溶け、海が陸地に口づけするような島だ』とだれかがいったらしいです。坂の上からは漁港の絶景が見えますよ」
音無は島の良さを熱く語った。飲み続けているうちに、直輝は岩木里島と音無の純粋な性格にすっかり惚れ込んだ。彼は直輝よりひと回り下に見え、喋った声色からも年下のように思われた。
それから一週間がたち、『リンドウ』に出掛けたら、先に音無がカウンターに座りユミ子さんと話しながら飲んでいた。その日も岩木里島の自慢で持ち切りだった。
「島でとれる魚はどれも旨いんですよ。なにしろ、わたしの家からものの数分で港ですから。とれたての魚の新鮮なことといったらもう最高で」
興奮して目を輝かせ、喋るのに夢中になっていた。
「音無さん。その島、冬は寒くないの?」
「いいえ、ちっとも。名古屋より南に位置していて、知多半島の先端ぐらいの緯度だから、花が咲くくらいに暖かいですよ」
「そうか。いい島だな」
「ええ、とっても」
「電気もきてるのよね」ユミ子さんが訊ねた。
「もちろん。ドラゴンズの試合が観られるし、電気の風呂も沸きます」
オール電化の風呂のことを、〝電気の風呂〟といったのがおかしくて、直輝は飲んでいたグラスの酒を縁からこぼしそうになった。
「その島の良さは、ほかにどんなところだ?」
「魚がいっぱいとれるんで、猫が住みつき魚を食べにくるんです。だれも追い払わないし、いまじゃ猫だらけになっていて」
「もしかして、それは野良猫か」
「野良猫です。瀬戸内海にも猫の島があると聞きましたが、岩木里島は、人もいるけど猫もたくさんいます」
「へえ、そうなんだ」
仔猫の好きな直輝にとっては、そのひと言で岩木里島がずいぶんと魅力的に思えた。正直、三代目の手前、店を持ちたいといったものの安城市の地価の高さと石材店の数からして、市内に店を出すのは現実的でないと思っていた。かといって大見得を切った以上、どうにもあとにひけない。渡りに船だった。
タクシーで自宅に帰った。服を着替え、カホに打ち明けてみた。
「岩木里島出身の知り合いがいてさ。どうだ、そこで暮らして店を出すというのは」
その島に惹かれたいきさつをカホに詳しく話すと、
「ナオキの好きにしたらいいわ。私はどこへでもついてゆくから」
といってくれた。
次の日、三代目に打ち明けた。
「三代目。オレ、岩木里島に行こうと思ってます」
「そうか」
「あの島で店を開こうかと」
「わかったよ。もう何もいわん」三代目は背中を向けて持ち場に行った。
二週間後、三代目に認められて働いた七年の実績と事業計画書を携え、安城市内の地銀の支店に赴いた。銀行で、小規模な株式会社を設立する趣旨を、直輝は丁寧に説明した。その場にいた銀行員から審査を受け、資金繰りや経営計画、店舗の状況などに関していろいろ訊ねられた。
後日電話が入り、一〇〇〇万円の融資の申し出を受けて、天にも昇るような気持がした。大宮健人からも五〇〇万円を借り受けていて、都合一五〇〇万円の独立開業資金を手にした。店舗のリフォーム代、生活費、人件費などであっという間に消えてしまうだろうが、島で弓長石材店を出すことが確実になったのだ。
翌日、仕事終わりにユウジが近づいてきた。
「いままで三代目に口止めされていたんだけど」
「なんだ。いえよ、はっきりと」
「先週の検査で三代目に大腸癌が見つかって……その……」
「なんだって? ユウジ、なんでオレに黙ってた?」
「だってナオキは、三代目が癌で先が長くないかもしれないと知れば、きっと店を去らずに社長の跡を継ごうとする。三代目はそれを気にかけてたんだよ」
「そうだったのか……」
「『ナオキを自由にしてやりたかった、岩木里島で独立するナオキを引き止めたくなかった』って三代目はいってた」
「ユウジはどうなんだ? オレが小宮山を出ていっても構わないのか」
「うん。おれはこの店が潰れても、どっかでもう一度修業を続けるよ」
「本当にそれでいいんだな?」
「いいとも。それがおれの宿命だ。ナオキはその島で頑張れよ」
そのあと言葉にならず、ただ肩を落とすだけだった。
直輝は岩木里島に渡る準備を始めた。島で空き家になっていた一軒家を譲り受け、業者にリフォームしてもらった。そこを店舗と住居にした。車に荷物を積めるだけ積んで、フェリーに乗って本州をあとにした。海に出てわずか三〇分足らずで島に着き、新しい家まで車を運転した。
岡崎技術工学院で一緒に学んだ友人のトモヒサを島に呼び寄せ、二階に住まわせた。島で新たに求人募集をかけ、雇い入れた見習い一名を加えた三人で株式会社弓長石材店を切り盛りしていくこととなった。
石材店を開いた翌月、いったん名古屋市に戻り、カホと市内のホテルで式を挙げ、念願だった家庭を持つことを成就した。
式場で、直輝はカホのウエディングドレス姿に見とれた。
「カホ。きょうは格別にきれいだよ」
「ありがとう」カホは、はにかんだ。
「今までありがとう。これからもよろしくな」
直輝はカホの美しさに照れながら、笑い返した。
大阪から駆けつけた母の妙子は、式の最中、感動のあまり涙を流していた。お色直しの合間に控室にやってきて、直輝をよろしくお願いしますよ、とうれし泣きしてカホに頼んだらしい。あとでカホから聞かされた。仁志は、さすが伊勢エビの本場や、旨かった、としきりに料理の味を褒めていた。義夫は笑顔だったが相変わらず無口だった。癌の手術をした三代目は祝辞を述べると、機嫌良さそうにビールで酔っていた。
式は無事に終わり、ホテルで一泊した。
次の日から仕事に戻るため、カホと揃ってまたフェリーに揺られ、岩木里島の店に帰ってきた。
石工として、社長として、忙しい日々がまた始まった。
トモヒサは、石工の基礎ができているから直輝の手を煩わせるようなことはなく、戦力として充分使える社員だった。見習いのダイゴは、岩木里島の出身者かと思ったら、そうではなかった。なぜか岐阜県から島に移り住んで、住民票もこちらにしていた。
採用面接のとき、ダイゴになぜ島に来たのか訊ねた。
「海のない県に育ちました。海のある場所に住み、そこで働くのに憧れを抱いていたんです」
彼は声を弾ませて答えた。
「そうか。まあ、石工の仕事は、最初は石を運んだり据え付けたりする力仕事がほとんどだ。ケガしないよう気をつけてくれ」
直輝は、ダイゴに仕事の内容を簡単に説明した。
「体力には自信があるので、力仕事ならまかせてください」
ダイゴは追従だけはうまくて、どちらかというと営業の得意そうなタイプだと感じた。その後、島で面接に来る人間はいなかったので、ダイゴを見習工として正式に雇い入れた。
しばらくして、元気な男の子を授かった。直輝は、「大河」と命名し、我が子を可愛がりながら仕事に精を出した。島内で受ける仕事もあるが、本土の仕事も少なくなかった。ダイゴにホームページを作らせ、それを見た名古屋市内や他市の施主様が、うちの墓に来てくれ、と依頼されることも少なくなかった。そのときは重機とともにトモヒサ、ダイゴをクレーン付きの2トントラックに載せて、フェリーを使って出張した。経理や電話はカホ任せだったが、子どもの世話もあり、すぐに主婦の事務員を島で雇い入れ、彼女に事務全般や福利厚生を任せた。
ダイゴの育成は、以前、小宮山石材店でケンタロウにしたようにやりたかったが、ダイゴはなかなか一筋縄ではいかなかった。手仕事を嫌がり、楽な機械を使いたがった。
「社長。これまでもずっと機械全盛だったんですよ。その方が早いし、単価も安い。客もそっちに流れる。今後はなおさら、機械での省力化、効率化が進みますよ。だって、熟練した職人は高齢化して、AIに取って代わられるかもしれない世の中ですよ」
ダイゴは理屈をこねた。石を見るより、機械の製品カタログを眺める方が好きらしかった。そういう社員しかいないのだから、しばらくダイゴのやりたいようにさせるしかなかった。直輝としても、銀行から借り入れた金の返済があり、返し終わるまでは事業計画を見直したり、縮小したりするなど許されることでないのはわかっていた。
岩木里島は、採石場としても使われ、高い山には良質な原石がたくさんあった。海と山が近く、まさに自然に恵まれた温暖な島だった。
空が海に溶け、海が陸地に口づけするような島――。音無の話は本当だった。観光客もやってきて、きれいな砂浜でくつろいだり、泳いだりした。満天の星が夜空を賑わし、漆黒の海にふるのではと思うくらいに輝いてきれいだった。猫もたくさんいて、そのへんでひなたぼっこしていた。猫好きの直輝は、ダイゴに頼み、ホームページに猫の写真と肉球のイラストを入れてもらった。
岩木里島にきて一年がたとうとしていた。島内の霊園や、石垣の残る古民家、公園や学校、神社の鳥居や燈籠の建て替え、階段などの石垣の修復工事、名古屋周辺都市の堤防工事といった受注は途切れずにつづいた。島の豊富な石材も従業員たちの勉強材料には打ってつけだった。会社は軌道に乗り、売り上げは思っていた以上に堅調に推移した。
日曜の夕方、直輝は大河をつれて砂浜にきた。息子は波の寄せる砂浜をよちよち歩いた。直輝は潮騒を聞きながらこれまでを振り返った。苦労をへて遠回りを経験した分、この道を辞めなくてよかったといまだから笑えた。念願の自分の店を持てて、妻子と従業員に囲まれ、職人の幸せを噛みしめるのはいまだけかもしれない。そう思うとまた笑った。
小宮山石材店の看板を捨てた直輝は、恩知らずで悪の存在かもしれなかった。日没前の夕陽に叫びたかった。みんな、ありがとう。お疲れさま。笑い顔なのに口の中はしょっぱくて、潮風のせいか目が潤んだ。
〈了〉
石のかえる土、星のふる海