愛のドメスティック

ねこです

 陽の光で彼女は目を覚ました。水面から顔を出して、伸びをする。涙のように見えるのは水滴で、彼女の右頬の青あざを拭った。彼女は人魚である。
 水槽の横の布団で眠りこけている同居人を見やる。男は毎朝仕事に出かけるので、七時半には家を出ないといけないはずだが、時計を見ると分針は既に4のところを指していた。
「……ゆう」彼女は呼びかける。「ゆう、起きて。大変だよ、もうこんな時間……ゆう、ゆーうー」「……んあぁ?」男は目を覚ました。「んだよ寝かせろよ……」「ゆう、もう急がないと、カイシャに間に合わないよ……」「……!!」男は時計を見、それから人魚の左頬を勢いよく殴りつけた。骨と骨が干渉しあう音が鈍く響く。「いた……っ」「チッ、クソ、んだよ、もう間に合わねぇよ……!」まだ男は声を荒げようとしたが、すっかり落ち込んだ様子の人魚を見てその気は失せたようだ。「……あー、……今日俺会社休む……」「え……でも、またジョーシにおこられちゃ……」「たのむ……」うって変わって男は今にも泣き出しそうな様子で、人魚の裸に縋りつき、肩を掴む指先に力を込め、首すじに顔をうずめた。「大丈夫、大丈夫だよ、ゆう……」彼女も濡れた手で頭を撫でた。それは男の髪からうなじへしたたり落ちてまた水槽のなかにもどり、男は次第に嗚咽を漏らしはじめた。彼女の手が男の耳へ伸びはじめると、男も誘われるようにして頭をもたげた。男の手が彼女の左頬に触れる。「……っ」「あ…………。ごめん、さっきは……俺、そんなつもりじゃ……」男は人魚の頰の赤く熱を帯びたところから手をずらして言った。「ううん、大丈夫。ゆうが朝機嫌よくないの、知ってるし……。ごめんね、こうなるならもっと寝かせてあげればよかった……。」「いや……いいんだ。ごめんな、いつも……ごめん……」男が震える唇を人魚におそるおそる近づけ、ためらうように動きを止めたので、次第に彼女の方から深く口づけを交わした。「……大丈夫、大丈夫」「ぅ……」か細い声で応える男の体にも痣や火傷の古い痕が沢山残されている。親にやられたものが消えないらしい。
 「ねぇねぇ、ゆうはせっかくなんだしお外に出かけたら?」「んーー……や、いい……」そう言って男は布団の上に寝転がり天井を見つめている。「で、でもっ、せっかくお休みで元気なのに……」「……いいっつってんだろ」男は低い声で応え、軽く舌打ちした。人魚の体を……睨んだが、起き上がる気力はないらしい。「あと、話しかけんな。鬱陶しい」「わかった……」それからしばらく沈黙が続いた。「……ねぇ、あのさ……」「……んだよ」「あの、わたし、しゃぼん玉っていうのやってみたいの……」「……」「まえ、おうちで一人のときに、窓から綺麗なふわふわが見えたことがあって……あれ、しゃぼん玉って言うんでしょ?私もやってみたいな」彼女の決して大きくない水槽は窓のそばに置かれてあり、カーテンはいつでも開け放されている。人魚が外から見つからないように、男なりの工夫が施されているらしい。「……んなもんウチにはねーよ。大体、部屋ん中でどうやってシャボン玉なんか吹くんだよ」「そっか。そうだよね、ごめんね、変なこと言っちゃって……。」「……。」人魚はそれから水槽にもぐり、水を軽く叩いて泡遊びを始めた。小さな泡が、生まれては水面に上がっていく。彼女はそれをぼんやりと見つめていた。子どもたちが吹いていたシャボン玉とちがって、その泡には色彩がないことは男の虚ろな目にもわかった。「…………。」それからしばらくして、男はのそりと立ち上がり、一週間前のゴミを漁り始めた。野菜ジュースのパックにストローがささっている。男はそれを抜き取り、洗面所で洗った。それからハサミで半分に切り、曲がっているほうを捨てた。そして紙コップに少しの水をとって液体石けんを溶かし、石けん水を作った。「……」男は無言で窓のそばまで歩き、コンコンと水槽を叩いた。彼女がふり返る。そして男は窓の外に向かって、シャボン玉を吹いた。「……!」彼女の目が感動でかがやくのを男はぼんやりと見ていた。「……やるか?」「……うん!!」男はストローと石けん水を人魚に渡した。「一応窓の外に向かってやれよ、まあ多少壁についてもいいけど……」「わかった!」人魚は男にならっておそるおそるシャボン玉をふくらませた。あまりにもおそるおそるだったので、シャボン玉は大きく膨れ上がり、飛ぶまえにはじけた。「あ……」「……あのな、もっと勢いよく吹いてもいいんだぞ。大きくしたければゆっくり吹いて適当なとこでやめるんだ」「わかった」人魚はもう一度吹いた。今度はもう少し勢いよく吹くと、テニスボールくらいのシャボン玉がいくつか生まれた。「……!!」そのシャボン玉は、虹の光をもって、街へ、溶けて、空に、消えた。「わぁ……!」男は嬉しそうな人魚の顔を見ていた。そのうちにまたごろりと横になり、シャボン玉に夢中になる人魚をぼんやりと見たり、天井を見つめたりした。
 人魚の石けん水もすっかり底をつきて、紙コップはストローと一緒にぷかぷか浮かんでいる。男は目をつむって寝返りをうっている。昼過ぎである。「……ねぇ、ゆうはそろそろごはん食べなくていいの?朝から何も食べてないよ」「……いい。腹減らねーし」「……。……ねぇねぇ、わたしいいこと思いついたよ!」「?」「わたしがね、見世物?っていうか、ピエロみたいな感じになって、みんなからお金をもらうの。あーそれか、絵のモデルさん?になるとか……ほら、人魚ってきっと珍しいし、結構わたしもやれるんじゃないかな」人魚は自信ありげに言った。「……だめだ」「どうして……?」「お前には無理」「えーっ、そうかなー……わたしだって働いたほうが、ゆうも楽になるしおなかいっぱい食べれると思うんだけど……」「あのなあ……お前、何もわかってねえだろ」「?」「ハァ……とにかく俺は平気だし、あー、ひょっとしてお前腹減ってんの?」「えっ」人魚は目をそらした。「ハァ……」男はまたため息をついた。「……ちょっと待ってろ」「えーっ、いいよ、わたしは大丈夫だし……」「またそれで働きたいとか言われても困るからだよ。いいから待っとけ」「あっ……」男は台所に消え、湯を沸かすとその辺に置いてあったカップヌードルに注ぎ、適当にかやくを入れた。それを布団のわきにもってくると、「三分経ったら起こして」「はぁい」人魚は素直に時計をじっと見つめ始めた。男は目をつむっているが、恐らく眠ってはいない。彼は不安定で、眠りにつくことも体を動かすこともできなくなることが、よくある。そういうときは将来への絶望や不安、得体の知れない罪悪感に常に苛まれているらしい。ひどいときは、ときどき、同居人をひどく殴りつけたり、首を絞めたりする。しかしそういうときの彼は、決まって涙を流しながら、何かへの不安や恐怖を訴えているので、彼女はそんな彼を優しく抱きしめて、大丈夫、大丈夫、とささやくのだった。
「ゆうー、もう三分経ったよ」「……ん」男は起き上がると、「……箸忘れた……」と言って台所へ向かった。「あ!じゃあ、箸二本……四本?四本とってきてー」「……俺いらねぇし」「い・い・か・らー!いっしょに食べるの!」「ハァ……」男は言われた通りに使い回しの割り箸を二膳とってきた。「いただきます!」「……いただきます」二人は同時に食べ始めた。ときおり箸と箸がぶつかって、人魚は笑い、男もつられて苦笑いした。「おいしい〜」「……そうだな」今度は男も少し微笑んだ。「……あ、もうなくなっちゃった」「二人で食べたんだから当たり前だろ」「でも、二人で食べれてよかった」「……そうか」男は残った残骸を片付けた。人魚がうたた寝を始めたので、男も今度は浅い眠りについた。

 「……人魚?」その日は雨で、男は大学に行った友人の代わりに買い出しに出かけていた。人魚はひどく衰弱していて、無理に動いたのだろう、手や下半身にいくつもの擦り傷ができていた。「……おい、大丈夫か」ぺちぺちと叩いても返事はない。男はとりあえず、人目を忍びながら人魚を車のトランクに詰め、友人の家に急いだ。
 ひとまず浴槽に水を張って人魚を放置し、男は冷蔵庫の中のプリンを取りだした。戻ってしばらくすると少女は目を覚ました。びくりと肩を震わせ、じっと男を見つめる。「……食うか?」
 「……うまいか?」彼女はこくこくと頷いた。スプーンなら使えるらしい。男は人魚の体を見やる。無垢でなだらかな裸体が無防備に水の中でたゆたっている。「……あのさ、ついてくる?」人魚はこくりと頷いた。「なあ、……わかってんの?」少女はまた頷いた。男は荷物をまとめ、友人の財布から金を抜き取った。そして長らく帰っていなかったアパートに帰り、人魚を下ろすと彼女が入るくらいの水槽を調達した。一応、車だけは友人宅に戻した。

 男は着信音で目を覚ました。会社には連絡したはずで、確かに会社からではない。借金の督促だ。男はスマホをミュートにして部屋の隅に放り投げた。
 スマホが震えてうるさい。男はまだ眠っている人魚を見つめた。安らかな寝顔。いくつもの痣、傷。顔を含めた全身の、男が手を上げやすい位置に分布している。安らかな寝顔。スマホが震えてうるさい。うるさい。男はある決意をした。しかしそれもすぐに萎んだ。そして別の縋るような気持ちが芽生えた。

 朝が訪れた。「ゆう、ゆーうー」
「……あれ、ゆう、泣いてるの……?」
「ゆう、どうしたの、大丈夫だよ。こっちきて、ゆう……」「……なあ」「?」「おれと死んでくれ……」「…………ゆう。」「……」「……大丈夫、大丈夫。ゆう……」

「……しい」「くるしいっ……!」「……!」「はぁ……ゆう、……?」「ごめ……おれ……」「大丈夫、大丈夫だよ……」「…………」「大丈夫……」


 朝が訪れた。男の姿はなかった。人魚は眠りについた。

 朝が訪れた。男の姿はなかった。人魚は眠りについた。

 朝が訪れた。男の姿はなかった。人魚は眠りについた。

 朝が訪れた。男の姿はなかった。人魚は眠りについた。

 朝が訪れた。男の姿はなかった。しかし、訪問者がきた。ドンドン、と乱暴に扉を叩いている。人魚にはどうすることもできないので、ただ待った。するとガチャリ、と開いて、ドタドタと大人たちが入ってきた。「あの……」人魚が声をかける間もなく大人たちは家の中に押し寄せた。狭い家である、すぐに「……見つかりました」と声がして、彼らは一斉にそこへ移動した。ほどなくして彼らは窓のある部屋へ戻ってきた。「あ、あの……」「……日本語を解するようですね」「貴女は、四年間ここで齊藤佑真さんと同居していた、ということで間違いありませんか?」「よねん……ゆう? ゆうですか? たぶん、そうです」「貴女と暮らしていた、ゆう、さんですが、……隣の部屋で死亡が確認されました」「……自殺ですか」ここで大人は少し驚いた顔をした。「はい。 首を吊って……」「そうですか」人魚は水面を叩き、泡を作った。大小さまざまのあぶくが、勢いをつけて壊れていく。「ざんねん」「貴女は……これからどうしたいですか?」「なんでもいいです。ゆうも死んじゃったし」「わかりました。では、ひとまず貴女を海へ帰せるよう私どもで努めさせていただきますので、……それでよろしいですか?」「んー……水族館とかでもいいですよ、もう海のことわからないし」大人は少し悲しげな顔をした。「あまり、人間を信用しないほうがいいですよ」「?」「どうして齊藤……ゆうさんが、厳しい生活の中で貴女を外で働かせなかったのか、考えたことがありますか?」

 「いいか、俺の名前は佑真だ」「ゆう……あ?」「ユウアじゃなくて……まあ、言いづらければゆうでいい」「ゆう?」「あーそう、ゆう」「ゆうー」「……。お前は名前、あんの?」「……」「ないのか。……俺が決めるか?」「……」「いらねーの、あそう……まあいいや」「……」「なあ、お前さ……」「?」「もし俺になんかあったら、早いとこキッチリした大人にかくまってもらうなりして海に帰れよ」「……?」「名前のない女には冷たいんだよ、人間社会ってのは」「…………」

愛のドメスティック

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