昨日は何をしていたのだっけ? 思い出せない。
 ぼやけた意識の外で、目覚まし時計のアラームが鳴っている。この世の終わりを報せるようなけたたましい音だ。私は瞼を少し上げる。カーテンの隙間から差し込む淡い日光が、私の身体の上を横切っている。昨日から点けっぱなしの古いエアコンが、がたがたと冷気とともに埃を吐き出していた。
 目覚まし時計は鳴り続ける。私の手で止めなければならないだろう。目覚まし時計はそのように出来ているのだから。しかし、私の腕はそこへ伸びていかない。だらんと横たわって、もぞもぞとベッドのシーツを撫でているばかりだ。
 今日は何があるのだっけ? 思い出せない。
 冷まし過ぎた室内は、ここだけ冬に近づいたようで、私はぶるっと一度身を震わせると、足元に無造作に広がる布団を指先で引っ張り上げ、頭から引っ被った。薄暗い洞窟の中のように、布団の中には安らかな空白があった。しかし、目覚まし時計のアラームは、それも突き抜けて、私を引っ張り出そうとしてくる。私は耳を塞いで、身体を丸める。エビみたいに。
 すると、ぴたっとアラームが鳴り止む。一分ほど経ったのだろう。また五分くらい経てば鳴り始めるだろうが、ひとまず静けさが帰ってきた。私はさらに身体を丸めた。両膝をぴったりくっつけて、それを曲げて、ちょうど体育座りみたいに両腕で抱えて――。
 胎児だ、と思った。今の私は胎児だと。正確には、胎児のふりをしていると。
 いつからだろう。私が私になってしまったのは。胎児でなくなり、名前をつけられてしまったのは。ここは暖かい。母親の腹を突き破ることがなければ、この暖かさは永遠だったのだろうか。永遠に私のものであったのだろうか。
 だけれど戻れない。いくら真似事をしても、私はもう胎児になれない。母親の腹を突き破ってしまった。綺麗な羊水から顔を出し、この世の汚れた空気をこの肺にいっぱい吸い込んでしまった。臍の緒は切られて、乳を飲まされて――。いつの間にか、私は人間にされてしまった。もう戻れないように、死ぬまでそうであるように、呪いをかけられた。
 この呪いを解く術はない。誰も知らない。なぜならみんな呪いをかけられたから。呪いをかけられていない存在など、この世界のどこにもいないから。最初に呪いをかけたのは誰だったかさえ、誰一人として知りようがないのだから。
 それでも私はなぜか人間として生きていて、生きてしまっていて。今日も目覚めてしまう。胎児に戻れないことを悔やみながら、人間をやめることも諦めている。私は胎児のままでいたかった。しかし、それが叶わないのなら、そしてリセットする努力もできないのなら、私は今日も起きるしかない。この長い暗闇のような朝に。
 再び目覚まし時計が鳴り始める。もう行かなければならない。
 ゆっくりと丸めていた身体を伸ばし、布団から顔を出す。私の中の貧相な世界よりも広く、母親の腹の中よりも狭い空間に息苦しさを感じながら、枕元の目覚まし時計に手を伸ばす。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-09-15

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