20190829蜘蛛の糸にすがりつく女

あでゅー 星空文庫

(一)

 彼女は、聡子と書いて、サトコと言った。
 とびきり美人ではないが、さめた表情がひそかに人気を集めた。長い黒髪をパレッタでとめて、いつも一人で頬杖をついて小説を読んでいる姿は、誰もが意識せずにはいられない。そして、高校の成績が学年で四百三十人中、五位以内……。できすぎている。そんな彼女を遠目に眺めて、思春期によくあるような妄想にもんもんとふけっていたのである。

 群馬に降る五月の冷たい雨が、ようやくあがった休日の午後。友だちの家に遊びに行った帰り道、傘をぶらさげて緑豊かな小さな公園を通りかかると、聡子は泣いていた。普段着でブランコに腰かけて、一人大粒の涙を流している姿は、同級生としては放っておけない――という言い訳を用意して、隣りのブランコに腰かけて、キーキー音をたてた。
 砂場で小さな男の子が、よほど砂いじりが好きなのか、湿った砂で一生懸命トンネルを作っている。それを、優しそうなお母さんが、見守っている。その親子は、しばらくすると僕たちに温かい缶コーヒーを渡して、立ち去る。
「ありがとうございます」
「ぼく、ありがとう」
 親子の背中に、二人してお礼を言った。男の子は、顔をくしゃくしゃにして喜んで、お母さんのエプロンを右手で引っ張った。お母さんは、男の子の頭を優しくなでると、細い車道に出て視界から消えた。
 聡子は、その光景をほほ笑みながら見送ると、プルタブを開け、泣いて喉がかわいていたのか、コーヒーをフーフー言いながら、飲み干した。僕もそれにつられて、すぐに飲み干した。喉が熱かったが、身体も温かくなった。
「美味しいね」
 うんと僕が答えた瞬間、ゲップが出た。聡子は、ケラケラ笑った。
 やがて空を赤く染めて夕暮れが、近づいてくるだろう。もうすぐ、公園の街灯も点く。聡子は、元気に立ち上がると、ゆっくりと歩きはじめた。
「井上だっけ? ありがとうね」
「どういたまして。あれ?」
 聡子は、あはははと笑って、「それじゃ、明日ね」と言って、駆けて行った。その姿を、見えなくなるまで、目で追った。
 女の子に、優しくしたのは初めてだった。照れくささを打ち消すために、傘を持って全力で走った。築二十年の小ジンマリした家に入ると母親が、どうしたの? と驚いた。僕は、イノシシに追いかけれられてと、わけの分からぬ言い訳をした。

 明日の天気予報を聞きながら、夕食を食べていると、遠洋業から帰ってきた親父が明日も雨かと、愚痴のようにつぶやく。母は、雨も降らなきゃ、庭の野菜が育たないでしょうと、もっともなことを言った。母は、家庭菜園を始めてから、少し優しくなった。経理の仕事を二十年以上も続けて、いつしか数字に囲まれることが日常となった母。その呪縛からようやく解放されたのだろう。
 僕と中三の妹は、母に同意すると、ごちそうさまと言って、それぞれ自分たちの部屋にこもった。
 教科書を出して、明日の予習をやろうとしたが、まったく内容が頭に入ってこない。いつの間にか、聡子のことでいっぱいになる。
 どうして、泣いていたのだろう?
 親と上手くいっていないのか?
 友だちと、喧嘩したのか?
 それとも、恋人にフラれたのか……?
 どれも、当たっているように思えたし、当たっていないようにも思えた。いずれにせよ、僕と聡子の未来は、どこまで行っても交わらない平行線のように思えた。今日、聡子にかけた優しさでさえ、本当は要らぬことのように思えた。きっと、僕にお礼を言ったのは、気を使ってのことだろう。そう言う結論に行きつくと、ひどく落ち込んだ。
 元々僕は、何ごとも悪い方に考えるたちで、結果はそれに大きく変わることはなかった。見た目も成績も並みの僕が、なにかを期待したら、すぐに後悔することを痛いほど経験しているのである。
 唯一の長所は、人の喜びを、自分のことのように喜べることである。そんな第三者のような人生を送ってきたのだった。


(二)

 翌朝、学ランを着て家から徒歩二十分の三階建ての学校へ着くと、誰が書いたのか、黒板にデカデカと僕と聡子の相合傘が書いてあった。高校二年にしては幼い落書きだと思ったが、とりあえず記念にと、携帯電話に収める。
 遅れてやってきたセーラー服の上に薄いカーディガンを羽織った聡子は、その落書きに関心ないように一瞥(いちべつ)すると、いつものように小説を読み始めた。誰かが、やっぱりないか、とホットしたように言った。
 落書きは、生まじめな担任が、僕たちをジロリとにらんで、消した。

「おい、井上修斗(しゅうと)。お前、南条聡子と付き合っているか?」
 休み時間、普段、僕とは口を利いていない梶田が、聡子に聞こえないように小さな声で不機嫌そうに聞いてきた。髪を短く切って、メッシュを入れている頭が、至近距離まで近づいてくる。こういう連中は、いちど目をそらすと、始末におけない。僕は、さも平然と梶田の目を見ながら、不機嫌そうに言った。
「南条さんに、聞いてくれよ。そんな奇跡は、万に一つも起こらないから」
 そう言うと、梶田はやっぱりなと僕の肩をポンと叩いて、上機嫌に彼の席に戻って行った。
 言った本人の方が、落ち込んだ。それを周りに悟られないように、次の時間の教科書を開いた。
 その時、僕の前に影ができた。
 見上げると、不意に聡子の顔が、至近距離に近付いてくる。目を閉じる暇もなく、生暖かい聡子の唇が僕の唇と重なった。
 時間にして、ほんの数秒。僕の身体から魂が抜けた。
 初キスは、食パンと、ピーナッツバターと、コーヒーの味がした。僕も好きな組み合わせだが、その瞬間は、そんなことは考えらえない。頭が真っ白になって。
 驚く僕を置き去りにして、聡子は短いスカートをひるがえして自分の席に戻って、再び小説を読み始めた。
 教室は、みんな動きを止めて、シーンと静まり返っている。あたかも、路上でマネキンのように静止しているパフォーマーのように。
 再び、動き出したのは、トイレから帰ってきた女の子たちが、教室の引き戸を開けた時だった。いっせいに、嘘だろとか、なんでコンナ奴がとか、口ぐち言った。
 その意見に僕も同意した。だが、それを確かめる勇気は、残念ながら持ち合わせていなかった。心の中で、これは聡子のタチの悪いいたずらと結論付けた。
 その結論を導き出す間に、いつの間にか授業開始のベルがなり、古文の小松左京先生が、教室に入ってきた。この先生は、オールフロントの珍しい髪型をしており、答えを間違えると背中を両手で思いっきり叩く習性を持っていた。それゆえ、僕たちは真剣に授業を受けた。授業が終わると、るいるいと魂の抜け殻がころがっているのだった。


(三)

 その日の放課後。帰ろうとすると、僕は怖い奴らに身柄を拉致された。
 校舎の裏側。そこは誰の声も聞こえないし、誰の目にも触れない場所。そこに、総勢五人。よくもまあ普段中が悪い奴らが集まったものだと、妙に感心した。
 空手部の部長。スピードスケートの猛者。サッカー部の反則魔。プロレス同好会の壊し屋。そして、最強の素人。
 梶田は、最強の素人だった。
「おい、お前。嘘ついたな?」
 ドスの効いた声が耳元で、響く。怒りは、百パーセントマックスであろう。
「僕は、嘘は言っていない。これは、南条さんのいたずらなんだ。きっと、そうだ」
 僕がそう言うと、怖い奴らは妙に優しい顔になった。きっと、そんな答えを心のどこかに期待してたのだろう。根は、純朴な硬派ばかりであったことが、僕に味方した。正直に言ってしまえば、バカである。
 しかし、キスされたことに怒り、一発だけ腹に食らった。僕の身体は、くの字に折れ曲がり、しばらく息ができなかった。
 それからは、からかわれたであろう僕に同情さえした。なにか、困ったことがあれば、いつでも相談しろよと、言われた。そう言われても、うかつにしゃべれない。なにか、気に食わないことがあれば、すぐに握りこぶしが飛んでくるから。
 僕は、それで解放された。オシッコが、ちょっと漏れちゃった……。

 帰り道を、トボトボ歩いていると、例の公園で、ふいに腕を引っ張られた。
「南条さん!」
 南条聡子の胸が、僕の腕に押し当てられる。いい匂いがして、僕は力なく茂みに引き込まれた。
「からまれたでしょう? ごめんね」
 普段、聡子が言わない優しい言葉に、これもワナかと身体が固くなる。
 それと同時に、短いスカートが半分めくりあがりパンティが見えそうなる。僕は、あわてて空を向いて答えた。
「いや、全然たいしたことないから」
 イジメられっ子は、ヤレらたとは絶対に言わない。言えば、その数倍の仕打ちが返ってくるから。
 それに、好きな子を前に、イジメられましたとは、言いたくないのである。
 聡子は、突然消え入りそうな声で言った。
「ねえ。私の悩みを聞いて……」
 話を聞くと、平たく言えばギリギリ恋の悩みだった。
 六歳年上の従兄に小学校三年の時にレイプされ、高校一年までセックスしてきたが、最近冷たい。男って、若ければ若いほど立つの? と言った内容だった。
 なぜ、ここまで話すのかと不思議に思ったが、ここまできわどい話を聞かされて、オブラート包んだ返答はありえない。バカ正直に答えた。
「僕は、小学校五、六年が一番、萌えるなー」
「生理の前ね。この変態」
 あはははと、聡子は口を大きく開けて、おかしそうに笑った。右の奥歯に銀歯が被せてある。それ以外は、整ったきれいな歯だった。
 聡子の相談は、すべてが作り話のようには、思えない。きっと、ほかの男が従兄と同じような趣向を持っているか確かめたフシがある。
 そして、僕の答えに、ホッとしたのだろうか、次の質問をしてきた。
「ねえ。井上は、私で立つ?」
「当然、立つよ」
 言った瞬間、全身がカッと熱くなり、ますます聡子を見れなくなる。
「そうよね。普通は、シタクなるよね」
 聡子。従兄は間違いなく、純粋なロリコンだ。
 その言葉が、出かかったが、そんなことは、言わないでもわかるだろう。
 ひどく落ち込んだ声の聡子が心配になって、空を見上げていた視線を、聡子に戻した。下を向いて、今にも泣き出しそうな自分を、必死に抑えているのがわかる。
 こんな時、肩を貸すとかするのだろうが、僕はクシャクシャになったハンカチを出すのが精いっぱいだった。
「汚いけど」
 聡子は、ありがとうと言って、ハンカチを受け取ると、涙を拭いた。
「臭い」
 そう言って、聡子はおかしそうに笑った。それで、今までの涙が嘘のように引っ込んだ。
 普段、見せることない笑顔。僕に、何回見せただろう。抱きしめたい。
 だが、それをしてしまうと、せっかくできた信頼関係が崩れるようで、怖かった。
「のど乾かない? ちょっと、待ってて。缶コーヒー買ってくるから」
「そんな悪いよ。小遣い少ないんでしょ?」
「ふふふ。僕、バイトしてるんだよ」
「へー、すごい。ゴチになります、師匠」
 なぜ、師匠なのかわからない。それでも、ウイッスと言って買ってきた。
 僕たちは、温かい缶コーヒーをゆっくりと飲んだ。飲んでる間に、ハンカチは二枚用意しなきゃと思った。


(四)

 あれから、なにごとなく時は過ぎて、ジメジメした季節になった。学校では、聡子が僕を見ても無視していたので、いつの間にか騒ぎは収まった。
 その頃の僕は、週三回、CDショップでバイトしていた。バイト代は手に入るし、CDは安く手に入るしで、いいバイトだった。
 しかし、この頃CDの売り上げが落ち込んだと、バイトリーダーが言っているのを耳にした。ここも、長くないかもしれない。それでも、なくなることは、ないだろうと、漠然と思った。
「いらっしゃいませ」
「よ。井上」
「聡子!」
 この時に、下の名前で呼んでいるのがバレた。しつこく、何度もサトコと呼んでと言う。まったく、この女は……、かわいいじゃないか。
「ねえ。いつから下の名前で呼んでいるの? 白状しなさいよ」
「……会った、その日から」
 高校一年の始業式の日、教室でプリントを配る聡子を見つけ、口をバカのように開けて、固まっていたのは僕だ。まるで、天使のようなオーラを放っていたのである。
 だが、そんな恥ずかしいことは言えない。知り合いと似ていたからとウソをついて、通行人Bをひたすら演じていたのである。
 そんな僕が、偶然公園で泣いている聡子を見かけ、もしかして、一人で泣いてることは辛いことじゃないかと思い、隣りのブランコをキーコキーコ鳴らした。
 そんな、一歩間違えばウザさ爆発の行為が、優しいと勘違いされて、慕われたのだった。

 それから、聡子は頻繁にCDショップを訪ねてくる。但し、僕の勤務時間だけであるが。
 それは、自分の恥ずかしい行為を相談したという、もう隠すことに必死になることもない解放からであろうか。
 それとも、世界で自分をわかってくれる唯一の存在を見つけたという錯覚をしたからだろうか。
 はたまた、従兄に会えない切ない思いが、代わりの誰かを探してのことだろうか。
 いずれにせよ、僕にとっては気持ちのいい状態だ。
「ねえ、バイト終わったら、どこかで食事しない?」
 売れたCDを補充していると、聡子からデートのお誘いが。タカルだとか、メッシーだとか言うささやきには、とりあえず耳をつむって、なかよくファミレスにシケ込んだ。

「いただきまーす」
 聡子は、目の前に並んだパンケーキ、チョコパフェ、それとカフェラテに目をかがやかせ、パク付いた。見てる方が気持ち悪くなるオーダーである。僕は、コーヒーをチビチビ飲んで、窓に映った聡子を幸せな気持ちでながめていると、不意に聡子が言った。
「ねえ。ホテル行こうか?」
 ねえ、朝はなに食べた? というように、さめた口調で言った。
 そんな風に言われて、はい、そうしましょうとは、これっぽちも思わなかった。こんな惨めな気持ちになったのは、生まれて初めてだった。
 僕は、レシートを乱暴につかむと、レジに向かって歩きはじめた。
「まって。ごめんなさい、ごめんなさい」
 すがりつくように、聡子は涙声で言った。レジで会計をしようと待ち構えていたファミレスの店員が手を止めて、僕に席に戻るようにうながした。
 僕は、すみませんと謝って、席に戻った。
「僕は、友だちだと思って、一緒に遊んでいるのに……。白状すると、君と付き合いたいとは、これぽっちも思わない。自分のスペックは、痛いほど知っているからね。それに、後悔する南条さんを見たくないから」
 もし、ここで聡子を抱いたら、一時は幸せな気持ちになるだろう。だが、いつかフラれるんじゃないかと夜も眠れない。そんな思いは、絶対に嫌だ。
「うん。わかった。ごめんね」
「僕も、パンケーキ食べようかな。すみませーん」
 パンケーキは、ブルーベリーアイスとイチゴが乗ってて、とてつもなく美味かった。
「次のバイトは、ここにしたいね」
「それ、いいね。それで、パンケーキを修行してね」
「わかった」
 僕たちを、心配そうに見ていた店員は、視線が合うとニッコリとほほ笑んだ。


(五)

「誰だよ。井上にパス出したの?」
「わりい」
 いつもの、体育の会話である。
 僕の名前は、井上修斗と書いてシュートいう。親が、Jリーグの某チームのファンで酔った勢いで付けてしまった名前である。運動神経のない僕は、小さいころよくいじめられた。
「名前がシュートの癖して、空振りばっかり。もう、井上君はチームに入れてあげない」
 もっともな、ことである。
 僕は小学校三年の時から、大好きだったサッカーをやらなくなった。しかし、体育の授業は、そうはいかない。できるだけ、ボールにふれないように、気を付けているのだった。
 サッカーをやらなくなって九年。ほかのスポーツもしないし、もっぱら読書が趣味である。
 聡子も僕と同じように、読書が趣味であるようだが、僕は人前ではその趣味をかくす。平凡な成績の僕が、読書をしているとからかわれるからである。
 トボトボと、皆のジャマにならないようにグランドのハシを歩いていると、突然、女子の元気な声が響く。
「ファイト!」
 声の方に振り向くと、ブルマーをはいた聡子がのんきに手を振っている。足を止めて、思わず見とれてしまった。
 その時である。
 僕の頭に、激しい衝撃が走った。鼻に鉄くさい臭いを感じ、僕の視界は地面に向かってゆっくりと近付いて行った。
「井上!」
 悲鳴に似た聡子の声が響く。僕の名前を何度も呼んで、身体を激しくゆすられる。
「……南条さん。……痛いよ」
「よかった」
 聡子は、僕の身体を抱きしめ、おいおい泣いた。
 その光景は、恋人に対するモノに見えただろうが、本当は友情なのだ――そう口で言った所で、誰が信じるだろうか。
 ほかの男子は、絶望的な表情で見ている。女子は、驚愕のまなざしで、口をあんぐりと開けて見ている。
 こうして、二人は公認となった。

「ねえ、南条さん。どうしたらいい?」
 学校帰り、公園のブランコをゆらしながら、半そでの白いセーラー服の夏服に衣替えした聡子に真剣にたずねた。
「べつに、いいんじゃん?」
 確かに。これだけ、大々的に広まったら、僕に手を出すことは、やっかみと取られ、格好悪くてできないだろう。
 しかし、僕は聡子が、こんなさえない奴と付き合っていると思われることを心配したが、今の聡子の返事に、どうでもいいかなと思えてくるから、不思議だ。
 その時、友情の印として、いい考えがうかんだ。
「ねえ。これからウチに来ない?」
「ヤッパリしたいんじゃない。ウリウリー」
「違うよ。ウチには、お袋と妹がいるんだ。それで、僕の小説のコレクションを見てもらおうと思って」
「行くー、行くぅ」


(六)

「センベイしかなくて、ごめんなさいね」
 午後五時すぎに家に帰っていた母は、一オクターブ高い声で、聡子をもてなした。僕の友人が家に遊びに来るのは、珍しかった。しかも、きれいな女の子である。残念ながら妹は留守だったのだが、母は当然舞いあがる。
 友人の関係だということは、黙っていた。一度くらいは、見栄をはりたかったからであるが、いずれバレると思う。女の勘は、鋭いから。
 母は、なにかお菓子を作ってよと言う僕の言葉に、ようやく二階の子供部屋から降りて行った。
「ただの、おばさんだろう?」
「優しそうな、お母さんじゃない。井上のお弁当、いつも美味しそうだもん」
「そうかな……」
 確かに、弁当を残したことはない。いつも、満足してフタをしめるのである。照れくさくて、ゴニョゴニョ言ってごまかした。
 だが、厳しいことろもある。高校になったら、こづかいは、自分でバイトしなさいと言われた。はじめは嫌々していたが、そのことでずいぶん大人になった気がした。今では、感謝している。
「へー、いっぱいあるじゃない」
 聡子は、本棚をあさって、感嘆の声をあげた。バイト代で買った安い文庫本ばかりが、およそ五百冊。どれも、思い出深い本で、なんども読んで、ストーリーはおよそ頭に入っている。
「夏目漱石が、いっぱい! 三浦綾子も、たくさんある! 京極夏彦も、全部ある! あっ! 阿佐田哲也と筒井康隆が、本の裏にかくしてある!」
 そう言って、聡子はケラケラ笑った。僕の存在などないように、熱心に全部の本を見渡し、阿佐田と筒井を十冊手に取った。その中には、女子では、気安く購入できない本も含まれている。
「これ、貸して?」
 子犬が、飼い主にボールを投げてほしくて、しっぽを振ってハアハア言っているように思えた。
「どうぞ、どうぞ」
 僕がそう返事をすると、聡子はカバンに小説を無理やり押し込むと、それじゃと言って、小走りに玄関に向かった。母が、焼きなれないクッキーを出す暇もなく、おじゃましましたという声が響く。
 母の落胆する顔が見えるようである。すかさず、僕は聞こえるように大声でこう言う。
「これから、頻繁に家に来ると思うから、かあさんの美味しいクッキーを焼いておいてね」
 母のうれしそうな声が、響いた。

 それから数週間後、僕がバイトから帰宅すると、家の中から笑い声がする。誰かと思って、居間に入ると、聡子が母と妹と楽しそうにアルバムを見ている。
「かあさん。それ僕の写真じゃないか。なに他人に見せてるんだ?」
「いいじゃない。減るもんじゃないしね」
 妹は、そうだー、そうだーと言って、母に味方する。日頃、バイト代でおごってやっているのに、こういう時は面白がって、ぜんぜん味方してくれないことがよくわかった。
 僕は、あきらめて手を洗うと、夕食のカツカレーを皿に装った。ひと口咀嚼すると、一日の疲れが吹き飛ぶようである。
「ねえ、おかあさんのカレー、本当に美味しいわよね? さっきは、お代わりしちゃった」
 聡子はそう言って、お腹をさすった。その光景は、妊婦がするそれのように見えた。僕は、なぜかドキリとする。
「ちょっと、あなたたち。まさか、ナマでしてないでしょうね?」
 妹が、母の口調をまねて、ドギツイことを言う。
「おかあさま……。もう、手遅れです」
 聡子が、調子に乗って、泣きまねをしながら言った。
「シュート!」
 母は、僕を大声で怒鳴ると、聡子に頭を下げて、ごめんなさい、ごめんなさいと涙ながらに謝った。
 その後、嘘だと納得させるのに、一苦労だった。おかげで僕が、まだ童貞であることを、母に大声で連呼しなければならなかった。
 妹と聡子は、正座させられて、三十分ちかくもお説教をくらった。いい気味である。


(七)

 聡子が、そのサラリーマンを、じっと見ているのに気が付いたのは、夏休み前の試験休みを利用して、普段行きなれないレストランへすこしオシャレをしてランチに行った時だった。僕たちは、半額で高級フレンチを堪能していた。
 そんな時、聡子が若いサラリーマンと幼女を険しい目で見ていることに気が付いた。二人は、なかよく食事をしていて、親子だと思えばどうということはないのだが、明らかにその空間だけ異質だった。その原因は、幼女が黒いドレスを着ていたからだった。僕は、聡子に誰なのかを確かめた。すると、小さな声で、
「おにいちゃん……」
 そう言ったのだ。
 それで、そのサラリーマンが誰なのか、すぐにわかった。よりによって、聡子の従兄は、幼女に高そうなドレスを着せて、公衆の面前にどうどうと現れたのだ。
 みんな、その二人が親子ではないことを、薄々感じている面持ちだった。だが、それだけで、警察に電話したり、一般市民が身柄を取り押さえることは、できない。それ相応の、証拠がなければ。
 みんなの緊張をあざ笑うかのように、このロリコンはどうどうと食事を楽しんでいる。
 しかし、ここには証拠を握っている聡子がいるのだ。彼女が、大声を出して、指さしさえすれば、このロリコンが取り押さえられるのは、確かなことだった。
 だが、それは同時に公衆の面前で自分がこのロリコンに凌辱(りょうじょく)されたことを知らしめることになる。それをやれとは、言えない。奥歯をぎりっと噛みしめる。
 僕が、悪い奴らに制裁をあたえる仕事人だったらよかったのに。そんな悔しい思いを抱かせて、このロリコンはこれからその幼女を犯すのだろう。
 聡子の存在に気が付いても、従兄はなんら表情を変えることなく、会計をカードですますと、僕たちの前から消えた。

 その日からちょうど一週間後。新聞に匿名で奇妙な被害者の記事が。
 なんでも、血みどろで、自ら救急車を呼んだという。切られたところは、なんと男のシンボル。玉ごと切り取られて、トイレに流されたという話だ。
 僕は、すぐにあのサラリーマンが頭にうかんだ。と同時に、犯人は真っ先に聡子の顔がうかんだが、幼女の父兄がやったとも考えられる。いずれにせよ、被害者が幼女ばかり凌辱したことが発覚するのを恐れて、犯人を言わないとしたら、自然と迷宮入りである。
 真相はわからないが、心の中でよくやったと聡子の勇気をたたえた。と同時に、聡子の激しい性格の一面を知り、あの時衝動のままに聡子を抱かなくてよかったと胸を撫でおろした。
 聡子は、その日以来、僕に従兄の話をしなくなった。

 それから一年後、その従兄に背格好が似たオカマを街で見かけた。本人だったのか、わからない。ただ、幼女とすれ違うと、ひどく怯えた。


(八)

 聡子の従兄が従姉になった日から、僕の毎日が拷問となった。聡子は、無防備の体制で僕の部屋に入りびたるし、パンツが見えてもオカマイなしである。もしかして、僕の歯止めがとれるのを待っているかもしれない。
 だが、チンポが切られる可能性もゼロではない。この世にたった一つの僕のチンポ。フロあがりにカガミで見ると、フヤケてなさけない様をさらしている僕のチンポ。
 それでも、なくしたらひどく落ち込むことが、見えている。いつか、使う日が来ること夢見て、大事にしたいと思っていた。
 だが、聡子のパンツを見ていると、いつか自分が襲ってしまうのではないかと、不安になる。それを防ぐために、童貞を自らの意思で、能動的に失うことにした。
 平均童貞喪失年数。これが、いくつなのかネットで調べてもわからなかったが、十七歳の誕生日、僕は童貞をすてに、夜の街にくりだした。
 すれちがう人すれちがう人、みんな欲望にあふれているように見える。それは、自分が一番顕著であるとわかっている。
 僕は、深呼吸すると、ソープランドへの第一歩を踏み出そうとした。
「待って!」
 驚いて振り返ると、聡子が立っていた。両手を握りしめて、両足を肩幅にひろげ、大地に力強く立っていたのだ。
 僕は、驚いてすぐに駆けよった。
「なにやっているんだ、こんなところで?」
「私に、……ください」
 はじめは、なにを言っているのか分からなかった。だが、しだいに分かっていった。
 僕は、聡子を力いっぱい抱いた。そして、高級ホテルの中に消えた。高校二年の夏だった。
 後から聞いた話だが、ふだん着慣れない大人びたジャケットを身に着けて家をでる僕を見かけ、女ができたのかとコッソリあとをつけると、ソープランドに入ろうとしたので、思わず声をあげていたと言う。
 ほかの女を抱くと思うと、我慢できなかったと正直に話してくれた。

 二学期の中間試験のあと。僕は、学校帰りに公園のブランコでションボリとしていた。
「いくら勉強しても、成績があがらないんだ……」
 容姿は仕方ないが、せめて勉強は聡子に並びたいと思っていたが、いくら猛勉強してもすこしも成績はあがらなかった。そのことが、僕の気分を落ち込ませた。
「仕方ないよ。人には、向き不向きがあるから。井上は、たまたま勉強に向いていないんだよ」
「ねえ、聡子。一日何時間ぐらい勉強しているの?」
 聡子を抱いた日から、南条さんではなく、聡子と呼んでいる。
「だいたい、一時間ぐらいかな?」
 聡子は、さらっと言った。
 まさかそんな短い時間で、あの成績を……。はっきりバカと言われた方が、どんなにか救われただろう。気を使ったなぐさめの言葉に、ますます落ち込むのだった。


(九)

 僕らは、無事三年に進級した。けれど、進学組と就職組にクラス分けされて、別々の教室に通うことになった。別段、それが悲しいとか、みじめだとかは思わないが、あと一年で社会に出て行くのだと思うと、身の引き締まる思いがする。
「井上。お前、パン屋になりたいのか?」
 同じ就職組のクラスメイトの梶田が、僕の進路希望用紙をのぞきこんで言った。
 梶田は、いつの間にか僕の友人になった。聡子の彼氏ということで、梶田は僕の人間としての格を、認めたらしい。
「ああ、パン工房に勤めたいんだ。バイトして思ったけど、美味しそうな匂いに囲まれて仕事するなんて、幸せだろう?」
「いいなー。それに、食いっぱぐれがなさそうだから、安心だな」
「梶田は、なんて書いた?」
「俺は、警察官だよ。悪党をバッタバッタ捕まえるんだ。想像するだけで、ワクワクするよ」
 僕は、意外な返事に驚いた。梶田は、ヤクザや、テキ屋、またはバッタ屋なんかになると思っていたから。
「それはいいけど、梶田は警察に捕まったことないの?」
「あるよ。でも、厳重注意だけですんだけどな」
 梶田は、ケラケラ笑ってそう言った。日本の警察は大丈夫かと、うれいたのは事実である。
 ほかの奴の進路希望用紙をのぞくと、ガス屋、電気屋、自動車の修理屋、クツ屋、布団屋、洋服屋、和服屋など、さまざまだ。親の仕事をつぐ者も多いだろうが、僕のように勝手な理想を抱いて就職を希望する者もいる。
 だが、往々にして理想を抱いて就職するものは、残念だがその待遇にガッカリすると言う先輩の話だ。

 学校が引けて家に帰ろうとしたとき、聡子に肩を叩かれた。
「お疲れ。ねえ、今日の進路希望、なんて書いた?」
 聡子は、クツ箱からクツを出して、膝を折らずにはいていた。こちらに向けたオシリは、パンティがまる見えである。
「ちょっと、聡子。パンツが見えるよ」
「いいじゃん、ちょっとくらい見えたって。どうせ、二人きりになったら全部見せるんだから」
 そのとき、咳払いが聞こえた。
「まったく、このバカ夫婦は。俺にまで見せてどうするんだ?」
「梶田くんの、エッチ!」
「言ってろ」
 三人で、校舎の玄関を出る。
 梶田が、僕を守っていることを知ると、聡子も心許して気安く話しかけるようになった。三人は、時々こうしてツルムのだった。
「ねえ、梶田くんはなんて書いた?」
「俺か? 俺は、警察官だよ。そう言う南条はなんて書いた?」
「私は、第一志望は、早稲田の法科。第二志望は、上智の法科。第三志望は、中央大の法科かな?」
 僕と梶田は、なにも言えなかった。僕らには、天文学的偏差値である。
「ねえ、梶田くんはどうして警察官になりたいの?」
「実は、親父が警察官で、警察官にならないと、逮捕するぞって脅されているんだ」
「なんだ、さっきと言ってることが違うぞ」
「さっきは、クラスメイトがたくさんいたからだ。そんなこと、わかれよ」
「まあまあ。あまりダーリンを虐めないで。そう言えば、井上は?」
「僕は、パン屋。それ以外にありえない。文句ある?」
 聡子と梶田は、ないと声をそろえた。
「あーあ、早く井上の焼いたパンが食べたいなー!」
 聡子は、春空に向かって叫んだ。梶田も、俺も食べたいと叫んだ。
 僕は、いい友人と恋人を持った。そのことが、僕に生きる希望を思い出させた。と同時に、誰にでもできる仕事のように思えて、僕の存在価値をぐらつかせた。


(十)

 それから一年後。僕らは高校を無事に卒業して、聡子は早稲田の法科へ、僕は東京にあるパンの専門学校へすすんだ。それでも、僕たちはまだ付き合っていた。はじめの頃は、二人が付き合っていることを公言していたが、それを聞いた時の友人たちの一瞬固まる表情に、いつしか伏せるようになった。

 まだ、肌寒い風が引き抜ける四月下旬の街角。僕は、夜のパン屋のバイトに忙しく働いていた。そこは、明るいデザインの一軒家の店で、売り場面積二十畳ほどで、立派な厨房がある作りだった。
「今日も来ちゃった」
 聡子は、厨房を覗いて僕に声を掛けた。
「ねえ、何時に終わる?」
「九時に終わるけど。それまで、あそこの喫茶店で時間をつぶしたら?」
「ううん。井上と一緒にいたいから、いい」
 いつからだろう、聡子の愛が重たく感じるようになったのは。きっと高校を卒業して、お互い違う道を歩んでからかも知れない。それなのに、聡子はますます僕のことを必要としている。
 そんな聡子に、さよならを言うことができない自分を、第三者のようにながめている。まるで、幼子が自分の境遇に耐え切れずに、もう一つの人格を作るように。
 だが、そんな精神と裏腹に、聡子の小ぎれいなアパートで洗濯してあるシーツにくるまって、聡子を抱いてしまう自分が、とてつもなく嫌だった。

「ねえ、井上くん。なんで、いつも悲しそうな顔をするの?」
 梅雨が明けたころ、パン屋でバイトしていると、バイト仲間の日向千鶴(ひなた・ちづる)が、心配そうに僕に話しかけて来た。額を出したボブカットで、ニッコリとほほ笑む彼女には、少なからずファンがいた。
 彼女は、決して美人ではなかった。それでも、人にやすらぎを与える笑顔だった。
「そうかな。自分ではわからないけど」
 本当は、嫌になるほど知っている。けれど、無理に笑うと、涙が出そうなんだ。
 自然、千鶴には冷たくなるし、会話もしなくなる。しかし、その日は遅番で、女性を送って行くことが、暗黙のルールになっていた。

「悪いわね。送ってもらって」
「いいえ、そんなことは……」
「うそ。井上くん、私を避けているもの」
 返事できずに、道に転がっていた空き缶を蹴とばす。それが、運悪く、どこかの店の前に出ている電飾看板にぶつかって割れた。
「バカ! 逃げるよ!」
 千鶴は僕の手を取って、ダッシュで逃げた。それなのに、二人して笑顔になった。まるで、恋人同士でもあるかのように。後ろから、誰も追ってこないと確認すると、ようやく足をとめた。
「千鶴さん。足、速いよ」
 ゼイゼイ息をきらしながら、言った。
「でしょ? 元陸上部だからね」
「どうりで、足がきれいだと思った」
「……どう? そそる?」
「……はい」
 その瞬間、千鶴の腕は、僕の首に巻きついて、キスをした。僕は、頭ではすぐに離れないとと思ったが、身体はより多くの快感をむさぶるように、強く抱きしめた。
「井上くん……。痛いよ」
「ごめんなさい……」
 それからの帰り道は、二人とも無口だった。千鶴がアパートの階段に足をかけると、僕はごめんと一声かけて、逃げるようにその場を立ち去った。


(十一)

 夏休みが明けた土曜日の昼時、僕はいつものように聡子のアパートで手料理をつくってもらっていた。クーラーで身体を冷やして、手持ちぶさたに本棚を眺めていると、司法試験の問題集が、本棚の一角をしめていた。
「聡子」
「ん、なに?」
「司法試験、受けるんだね?」
「ああ、その問題集ね。ゼミの先生が、受けてみればって言うから、試しに受けてみようかと思って」
 聡子は、まるで自動車の免許を取るように言った。その時、僕の中のタガが外れる音がした。
「聡子。……別れよう」
「え! なに言ってるの? 冗談はやめて」
「冗談なんかじゃない」
 聡子は、急にどうしたんだと、なんども言った。僕は、前から思っていたとぶちまけた。
「君は、悪くない。僕が、悪いんだ。君といると、つねに頭の悪さを意識する。自分では、気にしないように騙しだまし来ていたけど、今回のことで思い知らされた。君は、僕なんかと付き合わないで、君にふさわしい人と付き合うべきだ……。いいや、違う。僕が、もう耐え切れないんだ。ごめんな、聡子」
「そんな……」
「別れよう」
「待って。急にそんなこと言うなんて……。あ! あの女ね。抱いたのね? でも、いいわ。少しくらいの浮気は目をつむってあげる。だから、今までと同じように私の側にいて。おねがい」
 その声は、まるで蜘蛛の糸にすがりつくように聞こえた。

「ごめん……」
 僕の口は、最後にそう言って、玄関のドアを開けた。聡子は、僕の身体に抱き着いて、必死になって出て行こうとするのを、とめようとした。しかし、僕は聡子の腕をひきはがして、足早に階段を駆け下りて、立ち去った。
 後ろから聡子の泣き叫ぶ声が響いたが、僕の足は決してとまることはなかった。


(十二)

 今朝も、夢を見た。聡子が泣いている夢だ。
 僕は、ひどい汗をかいて目を覚ました。時計を見ると、もうすぐ起きる時間だ。重い頭をあげてベッドからはい出る。
 そのとき、携帯電話が鳴って、僕はそれを手に取った。
「おはよう、井上くん」
 千鶴は、携帯電話のスピーカーから声を響かせた。バイトも専門学校も辞めてしまって、ここ町田に引っ越した時に、千鶴は付いてきてしまった。僕は、彼女を好きだったが、まだ愛しているかどうか、わかっていなかったのに。
「おはようございます、千鶴さん」
「さあ、ごはん食べて、バイトに行くよ」
「はい」
 僕を優しい言葉で現実につなぎとめているのは、明らかに彼女だった。その声を聞くたび、ホッとするんだ。
 牛乳をかけたコーンフレークを掻き込んで、六時二十分に家を出ると、千鶴と共に新しいパン工房のバイト先へ向かった。

「どうして、僕にかまうんですか?」
 バイトが終わって、夜の街を歩く帰り道、僕は千鶴にたずねた。
「それは、君が今にも死んでしまうように見えたからよ。だから、ほっとけないよ」
「まさか」
「いいのよ。私がそう思ったんだから」
 この人は、天使かと思った。天が、僕のために地上に遣わされた天使だと。
「私のこと、天使だと思ったでしょう?」
 不意に心を読まれたようで驚く。
「そんないい人じゃないないの、私。でも、あなたに会った時に感じたの。あなたを救わなくっちゃって。私って、変?」
「いや、ちっとも」
 そう言ってほほ笑む千鶴は、やはり天使だと思った。

 しばらくたって、あの頃の僕は、悪い物に取りつかれていたんじゃないかと気が付く。聡子の放つマイナスの気を一人で受けて、それが僕の中でどんどん大きくなり、あと一歩のところで破裂寸前だったように思う。
 僕は、少しずつ以前の僕に戻って、千鶴を少しずつ受け入れて行った。そして、聡子と別れて二年がたったときに、交際を申し込んだ。


(十三)

 聡子と別れて三年がたったとき、僕は千鶴と結婚して、厚木でパン工房をはじめた。小さい店だが、僕たちが十分食べて行けるだけの収入を得た。つつましいが、幸せに満ちた店だ。

 それから一年後の一月下旬。群馬の梶田から電話があり、聡子がドラックづけになって、死んだと聞かされる。
 目の前が真っ暗になった。だが、自分が聡子を送らねばと思い、なんとか礼服を着て電車に乗った。
 葬儀の間、自分はまるで夢遊病者のように、警察官になっていた梶田のとなりにただ座っていた。参列者の少ない寂しい通夜だった。
 翌朝、出棺の時間になって、ぜひ来てくれと言う聡子の両親の説得で、火葬場までのこのこ付いて来た。
 火が入った瞬間、倒れそうになる。梶田が僕の肩を抱いて、外へ連れ出してくれた。冷たい空気をすうと、いくぶん気分がよくなった。
「なあ、井上。南条は、お前といるときが、一番幸せだったみたいだな」
 梶田は、寒空に天に高くそびえる煙突の煙をながめ、目を細めて言った。
 僕は、梶田の問いに答えられなかった。あの日、蜘蛛の糸を切るように、聡子に別れを言ったのは、自分なのだから。
「俺は、お前を責めないよ。南条と付き合うってことがどんなに大変かって、想像つくからね」
 梶田は、ポケットからタバコを取り出すと、百円ライターで火をつけた。まるで、魂のかたまりのように、口から白い煙を吐き出した。
 梶田は、職業がら知っていた。聡子が昔、従兄に性的虐待をされていたことを。そんな女性は、大人になったら同じ過ちを犯すのだと言う。聡子は、それを恐れて、ドラッグにはまったようだ。
「南条が、ああなったのは、お前の責任じゃない。だから、自分を責めるなよ」
 骨を拾ってやってくれという聡子の両親の願いを聞いて、骨を拾った。聡子の小さな身体が、さらに小さくなって、白い骨壺に収まった。

 火葬がすべて終わった後、ひっそりと静まり返る待合室で、梶田と話した。
「実は、お前には子供がいるんだ」
「まさか……」
「南条はお前と別れた後に、妊娠を知ったようだ。悩んだ末に、家を出てひっそりと女の子を産んだ。この頃にキャバクラに勤め始めたようだ……。その後も、必死になって育てていたが、いつか自分が虐待してしまうんじゃないかと、恐れた。そして、ドラッグにはまった……。弱いなんて思うなよ。人の心は、みんなもろいもんだ」
 梶田は、残り少なくなったタバコを灰皿にもみ消した。
「南条は、最後の日に、自分の子供に手をあげた。そのことを悔やんで、橋の上から、身を投げたんだ……。薬中だったが、最後までいいおかあさんだったということだ」
 梶田は、聡子の子供の写真を、僕に見せながら言った。
 まだ、三歳にも満たないような賢そうな顔をした女の子。その子が、撮影者にむかって、飴のような物を差し出している。きっと、大好きなおかあさんにあげようとしているのだろう。
 その写真を手に取って、僕ははじめて泣いた。
 聡子を救ってあげられなかったという思いが、こんな優しい子からおかあさんを奪ったという思いが、胸の奥からこみ上げて、涙はなかなかとまらなかった。

 聡子の両親に頭を下げ、子供はうちで引き取った。はじめは難色を示した千鶴だが、会わせてみるとすぐに打ち解けた。今では、二人手をつないで、どこへでも出かける。まるで、本当の親子のように。


<了>

20190829蜘蛛の糸にすがりつく女

20190829蜘蛛の糸にすがりつく女

53枚。修正20191012。歳の離れた従兄に、性的虐待をされていた女子高生。彼女は、復習を果たすが、どんどん”僕”に依存していった。そして、蜘蛛の糸を切るように、別れを言われてしまう。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-09-15

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