私生

指があいたので。


ゴミ。人生はまさしくそれだった。
暗闇の洗面所でしんだゴキブリを眺めているとき、まさにまじまじと人生を見るのだった。
生きているとき、死ぬことばかり考えていた気がする。
どこかの男が言った。死を恐れることは、自分が賢くもないのに賢いと思うことと同じである。と。
俺はずっと愚か者だった。
誰かを愛したり腹を抱えて笑ったり思いのまま激昂したり出来ない、まさに俺は俺のことを賢いと思い込んでいた。

男と付き合ったことがある。中学の卒業式の日縋るような眼が優越感を抱かせて俺はその人間とそういう関係になることにしたのだ。
肉欲。まさにそれが私を苦しめた。奴は手をつなぎたがった。常にそばに居たがった。俺を見つめていたがった。そうしてそれらすべては俺の管轄外の感情、未知。
次の週、飼っていた金魚が死んだ。奴は理由を知りたがったが、俺は突き放した。金魚の死に俺は下らない俺の人生を重ねて、他人と生きる事に限界を感じた。強いて言うなら、「金魚が死んだから」
奴は微かに笑った。それは軽薄な笑みだった。奴は奴の友人どもにこの話を言いふらした。いい笑いものの私は、笑顔に勤めていた。胸に仄かな絶望のようなものが宿った気がして、見ないふりを決め込んだ。

高校はずっと苦痛だった。まさに希望溢れる場所に、俺の居場所が無くて、ずっと浮かんだようだった。
才能豊かな学友がはるか雲の向こうを見据えて邁進する姿を見て、真似をしようとあがいたが無駄で。空虚な努力にどれほどの精神と体力が削られ消えたか分からない。
ただ一つ救いは、人生の友を見つけたことだった。彼女はおしとやかで肌が白く、読書とゲームを好み、私の何倍もの知識と頭脳を持ち、しかしそれをもてあまし楽し気に笑う人だった。
出会いは通学路だった。必死に話題を探す俺がどんな無様に見えたかは知らないがそれでもそばに居てくれた優しい人間。彼女とくだらない話をするのが、何よりも楽しかった。なによりも。

大学に進むと、私は降って沸いたやる気に満ちた。勉学に希望を見ていた。一月後、私は家にいた。ずっと部屋の電灯を眺めた。ときどき、暴れだすしかなくなった。私は地獄に押しつぶされていた。
地獄ははるか天上か地面のもっと先にあるのだと思っていた。実際には、今ここの場所の絶望ほどしかない小さなものだった。そんな幽かなものに俺はすぐさま敗北した。
ああ。布団の染みの色を見た。そこに俺の矮小なすべてが、鏡のように映るなどという妄想をして、そのあてのない焦燥感を、文字に、絵に、俺自身の頸に向けた。俺は弱い。弱い。弱いので死ねない。出来ることなら血まみれがいい。この世で最も醜悪なそれに私はなりたい。家族にすら疎まれて、顔を見ることもなく灰になり何処へでも行ってしまいたかった。青い雲の向こうでも。青い海の底へでも。たどり着く場所で俺は眠りにつく。もう何も聞こえない程に静かな場所で、それはきっとどんな快感にも代えがたく美しい、穏やかな喪失だった。


俺は相変わらず其れの腹を見ていた。多足が喚くように振られる。古い洗濯機が同じように喚く。無機物と死にかけのゴキブリに「人生はお前の責任だ」と攻め立てられているようで、俺は細い刃を手に取った。少し迷ってゴキブリを殺すと裏庭のプランターに投げた。ベランダに身を乗り出すと、姉が自転車を押しながらこちらに手を振るのがみえた。「プリン食べる?」遠くで聞こえた。両腕で大きく丸を作って見せつけると、姉も同じことをした。言葉なんていらないのだ。あったほうがいいけど。
それはそうと
本日は一点の曇りのない素晴らしい青空だ。それがいいものだとかなどは知らないが、母は喜ぶだろう。プリンがあるならなおさらだった。
この世で俺だけがかっこ悪かった。確かに俺は、死を恐れすぎているし生を決めつけている。

眠るような喪失はこのプリンよりもはるか先にある妄想だった。眠りかプリンかだったらプリンを選べるような人間になりたかったとひとりかっこつける。
ゴキブリは養分になるが俺は灰であるなら、生と死はどちらもかなり下らない。胸の暗闇は当分無視しようと決めた。

私生

私生

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-09-12

CC BY-NC-ND
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