雨の日は、すいっちょんがいいね。

六畳二間のアパートの畳敷きのひと部屋はどこを歩いても、床下が遠くにいる仔猫みたいな小さな鳴き声をあげる。
『─気をつけて?大きな音がするとこを踏みつけたら、底が抜けちゃうかもよ』母が笑いながらそう言っていた。
トタン屋根がコトコト音を立てるとやがて旧い建てつけの(ひさし)から流れ落ちる雨粒が風に(あお)られ窓ガラスに吹きつけられて来る。後から吹かれた水(したた)が合わさり大きな粒になって不規則な軌道を描いて落ちて行く様子が可笑(おか)しくて、さくらは飽きることなく窓際にちんまり座り外を見つめていた。
ねだりにねだってリサイクルショップで(ようや)く買っもらった大好きなリラックマの掛け時計の短い針が三と四の間を示していて、もう直き母が仕事から帰る時間だと教えてくれていた。勉強机の棚からお気に入りの絵本を取り出し、自分にはちょっとだけ背の高い椅子を玄関口まで持って行くと爪先立ちをして腰掛け帰りを待つことにした。
お気に入りの「チックとタック」は何度も読み返していて厚手の表紙も所々が削れめくれ上がってしまっている。いつか自分だけの部屋を持ち挿絵(さしえ)に描かれているような大きな柱時計を掛け、わさびを食べさせた音を聞くことが夢だった。
雨脚が激しくなって来たのかドアの向こうからぼたぼた落ちる音の間隔が短くなっている。ふと傘立てを見て目が止まった。いつも母が差しているピンクの傘がそのままになっている。勤め先の駅前の総菜屋さんまでは自分の足でもさほど時間は掛らない。すぐに傘を持ち迎えに行くものか悩んだが、
『─お留守番の間、誰が来てもドアを開けたり、勝手にお外に出ちゃダメよ?』繰り返しそう言われたことを思い返すとやはり躊躇(ちゅうちょ)してしまう。だが濡れそぼり帰宅する母の姿を想像すると居ても立っても居られない気持ちが募り、絵本を閉じて椅子からずり降りた。黄色い長靴を履いて母の傘を持ちドアノブに手を掛け開け掛けると、どこか遠くで鈍い雷鳴が聞こえた。ドアを開け恐る恐る四方の雨空を見渡し稲光りが見えないことを確かめ目をつぶる思いで床通路に出、塗装の剥げた階段の手摺(てす)りに右手の指先が触れたその時、思いがけなく階下で母の明るい声が聞こえて来た。

「─キャベツ、ちゃんと食べなきゃダメよ?」そう言い
惣菜のコロッケを花柄の皿に乗せながら鼻歌を唄う母は何故か本当に久しぶりに愉しげに見えた。
「うん。けど、おさかなのフライはいやだよ」そう応えると母が笑った。やはり店の残り物のアジのフライを食べた時、小骨が喉に刺さり大騒ぎをした。ご飯を丸ごと飲み込めば取れると母が言いその通りを実行したら、今度はご飯が喉に詰まり目を白黒させたことがトラウマになった。
「─おかあちゃん、さっき、クルマにのってたひと、だあれ?」好物の大根と油揚げのお味噌汁をフウフウ吹き冷ましながら訊いてみた。母が満面の笑顔で手を振る相手が男だったことが何故か気に掛かった。男は去り際に窓を開け笑顔を向けていた。車が大通りに突き当たり左に曲がって見えなくなるまで、母は雨の中真っ直ぐに立ち見送っていた。
「─あら、見てたの?いやだ。お店の店長さんよ。母さんうっかり傘を持って行くの忘れたもんだから、送ってくれたの─」そう応えるとさくらが大好きないつもの優しい笑顔を向けた。

夜になって雨が止み雲の流れた後、締め切ったレースのカーテンの向こうにぼんやりとだが月明かりが見えて来た。枕に乗せた頭を少しずらすとザルザル、と蕎麦殻(そばがら)の音がする。面白くてわざと頭を左右に動かしながら天井を(ほの)かに照らしている橙色(だいだいいろ)の灯りを見つめているとふと母の手が気になった。横を向くと薄い光に照らされた母もこちらを見ていた。
「─もう、おてて、いたくないの─?」そう訊いてみると母は枕の上で小さく首を振り、
「─だいじょうぶよ。ありがとう」と応えた。そっと指を伸ばし右の手をまさぐるとやはりまだ包帯を巻いている。その上をさすると同時に部屋の隅で悲しげに(うずくま)っていた母の姿を思い出してしまい、ひどく悲しい気持ちになるのだった。
月は明るさを増したようにはっきりと狭い部屋に差し込んでいた。
「─きのうのまえは、なんだっけ?」さくらが訊いた。
「一昨日よ」少し間を置いて母が応えた。
「─おとといの、まえは?」またさくらが訊いた。
「一昨々日─」母が再びそう応えるとさくらは天井を見上げ少し考えた後、
「─さきおとといのまえ、そのずっとまえから、おとうちゃん、かえってこないね」そう言った。母が黙り込み静寂の中どこか遠くから消防車のサイレンが聞こえた。
「─おしごと、いそがしいんだね。きっと」小さく欠伸(あくび)をしそう言うと急に眠気が襲い顔を上に戻し目を閉じた。
気がつくと父は家にいることがなくなっていた。
以前から仕事の都合らしく傍にいないことが多くあったが、今は煙草の匂いの染みついた服や鞄も見なくなり部屋の中が少し広くなった気がしていた。
母の携帯電話に時々掛かる相手が父なのだろうか、着信の通知を見ると母は自分をチラと見た後狭い台所の隅に蹲るようにして声を(ひそ)めて何やら会話していた。潜めた声が次第に高くなり語調を荒げ通話を切った後は、必ずと言っていいほど眼を赤く腫らしていた。いつだったかやはり通話を終えた後、
「─さくちゃん、あのね?─ごめんね。─もうちょっとしたら─幼稚園、行けなくなるの─」潤んだ目線を近づけてそう言うとぎゅっと抱きしめて来た。
「─ごめんね、─ごめんね─」何度もそう言って耳元で啜り上げていた。()り寄う頬っぺたが濡れて来て、それが母の流している涙だと知ると何だか悲しくなって自分も泣き出していた。
つい先日、突然父が帰って来た。
「─ごめんね?ちょっとお父ちゃんと大切なお話があるから─」直ぐにそう言われ近くにいる母の友人の家に連れて行かれた。久しぶりに父と会い浮き立つ気持ちを表す間もなかった。
夕刻になって漸く連絡があり足早に帰ると部屋に置かれた小さなテーブルがひっくり返っていて、薄暗い壁際で膝を抱えるようにして母が背を向けていた。
父は既に居なかった。
電気を点け、
「─どうしたの?おかあちゃん─?」そう言いながら不安になって近づこうとした時、足の爪先に何かが当たった。見ると母のお気に入りの花柄のマグカップが割れたいた。無残に幾つも破片が散らばっている。
「─危ないから、─こっちに来ちゃダメよ」そう言う潤み震えた声の方に眼を向けた時、畳に紅い楕円(だえん)の汚れがあるのに気づいた。母の白く細い手首の辺りからポタポタ血が滴り落ちていた。
「─こっちに来ちゃダメ─」栗色の長い髪が(うつむ)いた顔を隠していて表情は見えないが母は痩せた肩を震わせて確かに泣いていた。
父について優しかった思い出しかなく想像はつかなかったが、間違いなく母を傷つけたのだと思った。これほど母を悲しませる父に初めて憎しみを感じた。

同じ敷地にある駐車場には辛うじて認識できる色落ちした白線が適当な枠取りに引いてあるだけだが、夜にはきっちり満車になる。今は丁度真ん中辺りがぽつんと空いていて、そこが父の車が停めてあった場所だ。車は陽の光が当たるとキラキラ輝いて見える綺麗な白色の塗装で、たまの休日に三人で出掛けることが楽しかった。
伸びきった雑草に囲われそこだけ中途半端に整備された所々にアスファルトの黒い亀裂を覗かせている駐車場に屈み、独りビー球遊びをしていると不意にどこからか(にぎ)やかな笑い声が聞こえて来た。数人の幼な子を乗せたリヤカーを()いている先生を筆頭に黄色い帽子を被ってわらわらと続いているのは近くの保育園の子どもたちだった。
『─さくらちゃーん』歓声を上げ通り過ぎようとする中からそう自分の名を呼ばれた気がして思わず立ち上がり首を伸ばして見たがやはりそれは空耳に違いなかった。ビー球を小さなセルロイドのケースにしまい、今度は園で使っていたクレヨンの入れ物を開けた。箱の中はどれも短くなってしまったクレヨンと、一緒に以前道端で拾ったチョークも詰め込まれている。ピンクのチョークを取り出すと、
「─さあ、つぎはおはなや、ちょうちょのえをかきましょうね─」通っていた園の先生の口振りをそう真似ながら乾いたアスファルトの上にチューリップの花を描き出した。

広がる曇り空に向かうように車が長くなだらかな道を登って行く。左右の山の緑と先に続く綺麗に舗装された道の色と、遠く高い雲間の灰色とのコントラストが美しかった。
「─どうしたの?ずっと静かじゃない。緊張してるの?」後部席の隣に掛けた母が身を固くしてじっと正面を見据(みす)えているさくらを見て笑った。
「─ごめんね?急にドライブに誘ったりして、─知らないおじさんもいるし、びっくりするよね─」運転席から時折ミラーを見ながら男が笑顔で話し掛けて来た。見覚えのある顔だった。以前、雨の日に母を家まで送って来た男だ。
『─おかあちゃん、このひとは、どうしていっしょなの?』そう問いかけたいのだが狭い車内では躊躇わ(ためらわ)れた。一層固い表情で窓外を見ているとふと遠くに曇天を背景に大きな羽を広げ悠々と飛んでいる鳥を見つけた。一羽だと思っていたが気づくとその動きを追随するように他にも二羽が滑空している。
「─おおきな、とりさん」思わず声を上げ窓外を指さすと、
「─トンビって言う鳥だよ。見ててご覧?大きな丸を描いて、飛んでるだろう?─」男が言った。見ていると言う通り鳥たちは大きな弧を描きながらゆったりと大空をたゆとうている。
「ほんとだあ─」また声を上げ、ちらと見たミラーに映る男の眼が優しく笑っていた。
「─まだ見たこと、なかった?」その問いかけに口籠(くちごも)っている時、(にわ)かに降り出した雨が前方のウィンドウを濡らし始めた。
次第に雨脚が激しくなると車が路面を走る音が水を巻き込みながら踊るように変わる。降りしきる雨の合間を縫うように前面で動いているワイパーがそのリズムを先導しているみたいに聞こえた。ふと、
『─すいっちょん、すいっちょん、─』雨振りの休日、父の車のワイパーがそんな音を刻んでいたことを思い出した。
「─ちょっとゴムの具合が良くないみたいでさ。何だか間の抜けた、変な音だなぁ─」そう言って助手席の母を見て笑い次いでミラーからこちらを見ながら、
「─ほら、スイッチョン、スイッチョン、って。な─?」可笑しな抑揚(よくよう)をつけて唄うようにそう言い、笑っていた。
優しい笑顔だった─。
「─おかあちゃん、─あのさ─」─なかよしだったよね─?そう言い掛けた言葉が不意に詰まった。笑みを向けて来た母から慌てて眼を()らすと何故だか泣き出したい気持ちが一気に押し寄せて来て、
「─すいっちょん、すいっちょん、─」顔を俯けあの日の父の抑揚を真似、小さく呟いてみると自然に涙が溢れ出て来た。じっと俯いて肩を震わせていると母が気づき、
「─どうしたの?具合でも悪くなった─?」そう言って心配そうに背中をさすってくれた。さくらが黙って首を
振り次第にしゃくり上げ始めると少しの間の後、
「─きっと、辛抱して来たんだ、今まで─。小さな胸いっぱいに、色々─傷ついて来たんだ─君と、同じに─」不意に男が口を挟んだ。思わず泣き顔を上げると、
「─もう、だいじょうぶだよ?─もう、傷つかなくていいんだ─もう誰も、傷つけたりしない─」男はもう一度そう言うとミラーの向こうから母を見、その視線をこちらに移すと、今は遠い日の父のあの笑顔そっくりに優しく笑った─。



─了─

雨の日は、すいっちょんがいいね。

雨の日は、すいっちょんがいいね。

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更新日
登録日
2019-09-11

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