忘れもの

 夜半より降り出した雨が薄墨の煙となって家の周りを漂っている宿直明けの遅い朝。
ぼくはコタツに転がって向こう側にいる女の素足を閉じた指の隙間より見ていた。
上棚にある手鍋を取ろうとこちら側に背を向け爪先立ちで小指を伸ばしている。
銀色に光るアルミボールのような小ぶりの尻が跳ね上がり、シンクの淵に押しつぶされた平たい腰骨が歪んでいる。
尖ったかかとが床から浮き上がって小刻みに震えていた。
揺れがあった。
大きくゆっくりと揺れた。
深い波の谷間に沈みこんでいく不愉快な感覚は地震とはまったく違った動きだった。
動き始めたエレベーターの中に取り残され引き戻されるような心地悪い無重力感が数秒間続いた後、くびれたふくらはぎが白く輝いた。
一呼吸おいて、角膜にオブラートを被せられたかのように目の前がかすんでしまい、
女の両肩に沿ってわずかに浮き上がった貝殻骨が子猫のように震え、窪んだ背骨と脇腹とが重なってしまった。
それを不思議にも思わず目をつぶった。
瞼の内側に米粒ほどのともしびが蛍となって飛んでいる。
捕らえることができない薄闇の向こう側から、一つの光のしずくが斜交に目の前を掠める。
眼球の裏側から同じ光のしずくが斑な闇に向かって途切れながらも飛んでゆく。
交差するように蛍が現れ左側面から移動してゆく。
それは次々に現れ、次々に消えていった。
はっきりしない感覚器官に気づき始めたとき、忘れかけていた声が内耳を通して伝わってきた。
それは音叉のように共鳴し途切れ途切れにぼくに呼びかける。
声が出なかった。
喉元を押さえつけられているかのようにせつなくて、答えることができなかった。
悲しくも無く、苦しくも無く、痛みも無かった。
少し開いたまぶたから涙が溢れ出た。
それは氷より冷たくなって耳の後ろに流れこんで床にこぼれ落ちた。
『ぽたり』。と音がした。
その時、女の声がはっきりと聞こえた。
透き通った細い首がぼくを見おろしている。
「どうしたの」。
女の爪が若桜の花弁のように美しく、しっとりと光った。
「私がわかるのね…」。
瑠璃色の瞳が濡れている。
感覚の無かった指先に鼓動が感じられた。
吐きだした粘液でまみれた頬に細い指先が触れた。
それを手首で押しのけた。
ぼくは、叱られた老犬のように恥ずかしくなって、思っていたことを、女に告げることができなかった。
唾液で汚れた口元が干からびていることに気づいていた。
予期せぬことが急激に始まり数分で終わった。
ぼくのまぶたは接着剤で固定されたように動かなかった。
いくつかの空白があって、冷い、尖った指先で眉間を推されたとき女の喜びの甘酸っぱい香りがぼくを包んだ。

 三日後の朝、肘から小指の先に向かって痺れ指先の感触が無くなり摘まんだグラスが離れた。
グラスは僅かに傾き、その状態を保ったままコマ落としフイルムのようにゆっくりと落ちていった。
床に砕け飛び散るまでぼくはそれを見届けた。
飼い猫の短い叫びに似たグラスの割れる音が遅れて聞こえた。
女は割れた硝子の欠片をつまんだまま言った。
「自分の身体ですからね」。
TⅤの科白が女の声に重なる。
テーブルに小さな林檎が二個、細身のナイフの傍に転がっている。
カーテンの隙間より、細い光が差し込み、砕けた硝子の欠片が瞬いた。
青くにも緑にも紫にも光る粒子を二人見ていた。
「ダイヤモンドよりきれいね」。
去年の夏、線香花火を見つめながら眩しそうに誰かにささやいた、あのときのしぐさで女が言った。
柑橘系の薄い香りが流れた。
ぼくは椅子から立ち上がった。
白いフロアーボードにワインレッドの雫が二滴、女の小指からこぼれた。
雫は純粋に赤く、幼いころ使ったパステルの透き通った色だった。
女の血痕が折れたクレパスのような青い爪先に光った。
捨てられた子猫をいとおしむ暗い心根が浮かび上がり、なにか言葉を発したい誘惑に駆られた。
ぼくは立ち尽くしたまま動かなかった。
何もつけない女の首筋は片手でつかめるほどに細かった。
鎖骨が浮き上がってみえる。
強く押せば折れるかもしれない。
そんな誘惑に駆られた。
乾いた音を聞いてみたいと思った。
耐え難い誘惑がぼくの指先まであふれていた。
右の乳房にほくろがあった。
探さなければわからぬほどにかすかに息づいていた。
薄いブラウスを開いて確しかめてみたかった。
濡れた下唇が少しだけ上に動いた。
胸のボタンが一つだけ開いている。
女の乳房に触れること。
それはできない。
女とぼくのどちらかにそれを拒絶するだけの理由があることを、ぼくは知っていた。
TVのモニタにはSF映画に不釣合いなラブシーンがいつまでも続いている。

 一月ほど経って、ぼくは然程気にかけないよう振舞いながら大学病院に向かった。
国道を交差する十字路に指しかかった時、
歩行者専用の青信号が点滅を始め右折してきた四駆が甲高いクラクションを鳴らしながら老女の直前を掠め走り去った。
老女は細い杖にすがり動けなくなった。
対面より短いスカート丈の女子高生がおもむろに歩き出し、老女に手を差し伸べ肩を抱き路側帯へと連れ出した。
縁石の内側に沿って作られた花壇に並んで腰掛けた少女の太腿が銀色に光った。
湿った風が吹き上げショートカットの黒髪を揺らした。
四駆の低いエンジン音がぼくの内耳で鳴っていた。

 色白の医師が問いかける。
「MRIというマシンがあり脳血管網を診られる。選択するのはあなただ」。
答えを探すことを強いられ、少しの反撥心を飲み込んで承諾した。
厚みのある重たい検査衣に包まって貧弱なアルミの階段を登り、堅く細長いベッドへ促され仰向けに寝た。
看護師が素早く横に付き機械的な動きでビニール製の帯を掛けた。
窮屈な体勢にぼくは露骨な苛立ちを見せ付けたが、彼女たちは視線を外し素早くカーテンの向こう側へ隠れた。
首を伸ばし顎を尖らせて頭上を見ると繭型のドームが被さってくる。
MRIは放物線状に湾曲し白く輝いている。
室の壁から連続的に電子音が聞こえる。
声をかけられ横を向くと米粒ほどのピアスを付けた看護師が耳元で何かを囁いてぼくにアイマスクを掛けた。
彼女の息がぼくの耳に当たり彼女の指先がぼくの耳に触れたとき、ぼくの耳は熱くなり何も聞こえなくなった。
放射線技師の退屈な注意事項を聞き流した後、ドームはゆっくりと移動し、ぼくを包んだ。
ぼくとぼくの外側に触れることのできない空間が生まれ、ぼくは隔離された。
羊水に浮かぶ胎児のようにぼくは解放された。
しばらく経って、幼き頃戯れに叩いた木琴の音が小さく聞こえ始めた。
無作為に生み出される温かみのある音は意味あるもののように知らない旋律を奏でる。
テンポよく繰り出される音は少しずつ大きくなった。
その時、ぼく自身がここに横たわり、それを見つめているぼくの存在を感じた。
数十秒か数十分か数時間かが過ぎ去って「終りましたよ」。と言う看護師の声が聞こえるまで、ぼくはなにもない所で、なにも考えない時間を過ごした。

 回転椅子に背を丸めて座ったぼくの前で、唐突に振り向いた医師の丸い眼鏡に青い蛍光色が映った。
ニスを塗り重ねた木製の肘掛椅子に、背筋を伸ばした医師は、ぼくの目を覗き込むこともなく、壁に備え付け引き伸ばされたネガ写真に向かって言った。
「脳血管網の危険な場所に血栓がある。濁ったここを直にでも取り除かねばならない」。
ことばを選びながら話す彼の声が遠く離れた場所より聞こえてくる。
パネル上部に掛けられた電子時計の秒針が遅れながら時を刻んでいる。
モニタに向かってキーを打ち込みながらぼくの言葉を繰り返す医師が、舞台俳優のように際立って見えた。
数度の受け答えの後、食事療法と血液の粘りを抑える薬で様子を見ることにした。
生真面目な医師は何かを言いかけ黙ってしまった。
彼の口元が歪んでいる。
ぼくの眼球が乾いているからだ。
スタッフの呼び出し音声が微かに聞こえる。
ぼくは潔白な医師と実直な看護師から十分な思いやりを受けながら相当の態度を取れないことに気づき、帰りしな深く頭を下げて取り繕った。
ファイルを受け取ったぼくの小指が震えている。
カルテを書き込んでいた医師が、ぼくの背中を見つめていた。

 待合室に続く長い廊下は暗く湿っていた。
ぼくは足音を立てないように歩いた。
ガラス越しに見える薬室はハロゲンライトのようにまぶしくて、前に立った薬剤師を見つめることができなかった。
明るい栗色に染めた髪が首を傾げる度に揺れ、毛先が踊っていた。
子供のように柔らかい手首に続く右の小指の小さなダイヤが光った。
異国の言葉に聞こえる薬剤師の唇は、赤いワインを含んだように濡れていた。
アニメ声優に似た彼女の声は意味あるものとして理解できなかった。
ぼくは薬事カードを見つめて、折れるように顎を引いた。
角ばった文字が行儀よく連なって印刷されている。
隣に並ぶ初老の男がぼくを見つめている。
並んだ列よりはみ出している自分がここにいて、それを認めようとしない意固地なぼくがそこにいる。
誰かがぼくの腰骨を押した。
もてあましたぼくは薄いピンクの襟元を見つめた。
屈んだ首筋に薄いほくろがあった。
「お大事に」。
ぼくに発せられたぼくにだけの言葉として、受け入れることができた。
後ろに立つ患者に促されぼくはカウンターを離れた。

 エントランスを出ると暗い空は山々の裾野まで垂れ下がり天球状に覆いかぶさって、病院を取り巻いている樫や杉を覆い隠していた。
首筋に雫が当たった。
見上げると高い位置に張り出したフェンスを掠めながら細長く連なった水滴が風に煽られ曲がって落ちてくる。
首筋に止まった雫がぼくの体内へと浸透している。

 朝方、女は薄いブルーの傘を差し出した。
女が大切にしている細い傘だった。
ぼくは黙って肘を伸ばし、それを靴箱の上にそのままに置いて外に出た。
女が笑みを浮かべている。
ぼくを否定しない女の性格がぼくを責めるのだ。
開いた胸元に小さな黒い真珠玉が光った。

 人々は立ち止まり、そして歩き出す。
ぼくも歩き出す。
モータープールに向かう歩道は街路樹の落ち葉が張り付き歩きにくかった。
枯れた芝生のベンチの上には小さな手袋が片方だけ置き忘れられている。
右に曲がると尾根からの風が強く当たった。
病院西側は救急病棟とつながって緊急車両待機場となっており、その一区画を外来駐車場に開放している。
小高い裾野をコの字型に切り取って造られたその周りは三メートルほどの土手で囲まれていた。
首を回し駐車してある車を確めた。
コートの内側からキーを取り出そうとして指をすべらせ隣に駐車していたワーゲンのリヤタイヤの横に落とした。
手を伸ばしたとき助手席にいた柴犬がガラスを叩いた。
二月前に死んだ老犬に似ていた。

 フェンダーの上にはシャーベット状に薄く氷が張り付いていた。
ノブは弾かれるほどに冷たく魚燐のように光った。
ドアは重たく小指は曲がったままになった。
背筋が寒く膝を折り左肩から転がり込んだ。
膝頭を強く打った。
ハンドルを強く握り身体を入れ替えてドアを閉めた。
柴犬がガラスの向こう側から覗き込んでいる。
フロントガラスに粘性の水滴が張り付きアメーバーのように這い回っている。
ぼくはワイパーを一回だけ動かし抹消した。
油温が上がり室内が温まるまでシートにもたれていることにした。

 3ナンバーのミニバン車が前列の駐車場に止まった。
二十歳前後の母親らしき女性が幼子を後ろ座席から連れ出し、鍵を掛けた。
女は無言で歩き始めた。
幼子は追いつこうと、つたない足取りで追う。
二人の距離がしだいに離れてゆく。
女は後ろを振り返ることなく歩く。
歩幅を変えずに。
女が消え、たどたどしい幼子の姿が、ぼくの視界から消えた。

 髪を銀色に染めた女が俯いて通り過ぎていく。
下唇に金色のリングを嵌めた男が手を翳し走っていく。
時折、横殴りの雨が吹きつける。
男が女に追いつき振り払う手首を握った。
男が女の腰を抱いて左へ曲がった。

 エンジンはまだ温まってはいなかったが、シフトレバーをパークからドライブに入れてアクセルを軽く踏んだ。

 後ろで女の声がした。
柑橘系の香りが漂っている。

 ぼくは病院のどこかに大切なにかを忘れていることに気がついていた。

忘れもの

忘れもの

素直な感情表現をできないぼくは、そのことによって他者を傷つけ既に己さえも傷つけていることを知っている。 女の思いやりを返せないぼくはどこかで何かを無くしたのだろうか。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-10-25

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