水無月

酸化マグネシウム

雨の日は頭痛が酷い。

 夜明け前から降りだした雨は一向に止まず、昼過ぎからは勢いも増して6月のアスファルトを叩きつけるような雨が濡らしている。水無月とはよく言ったもので、本当に雲の上からは水が無くなってしまうのではないだろうかと思われるほど、今年はよく降っている。

 衣替えだからとクローゼットから引っ張り出してきた半袖のシャツは失敗だった、肌寒さは容赦なく内臓にまで染みてくる。誰もいない、雨音ばかりが響き渡る生徒玄関の下駄箱の前から動く気にすらなれない。こんな日に限って傘を盗られてしまった。それに関してはもうなにも言わないようにしたいのだが、こんなふうにすぐ諦めて口をつぐんでしまう気弱な性格につけこまれてここまでになってしまったのだろうと考えるとどうしようもなく情けない気持ちになってくる。全部わかっていても許せなくても、それでもなにも知らないふうな顔をして、彼らのことを逆手にとってあわよくば、達観しているような、大人びた子供に見られようとしているような自分にも苛立ちが募っていた。自己嫌悪の感情を拾い上げてしまえばきりがない。現にそんなことを考えていたとしてこの雨が止むことなどあり得るだろうか……。

 自分に残された選択肢など最初から雨の中を走って帰ること、しかないのだ。自分で持て余すような感情も不甲斐なさも、雨に流されてくれれば少しは気も晴れるんじゃないかな、と淡い期待を抱いてみた。

 別に濡れて帰るのはこれが初めてではないし。……夕方の5時過ぎまでねばって雨が止むのを待っていたくせにそんなことを口走って、やっと決心がついて雨空の下に足を踏み出した。どうせ濡れて困るもんなんか全部教室に置いてあるのだ。歩いたっていいくらいだ。やっぱり少し寒くてお腹は痛いけれど、震えるほどではないし、期待したほどなにかが流れていくわけでもなかったけれど、さっきまでよりはいくらかましかもしれない。

 そういえば今日持っていた傘は骨が歪んでいて、はやく捨ててしまおうと思っていたんだっけ。次に買うなら多少不便でも携帯できる折りたたみ傘にしよう……。思わぬ災難に遭ってしまったけれど結果オーライとでもいうのだろうか、雨の中を傘なしで歩くというのはかなり新鮮で、いつもより丁寧に息が出来ている気がした。ちゃんと、自分のために、息を吸っているような。しかしそれでも濡れるというのはやはり不快なことには変わらないので、少し近道をしようという気になって、いつからか通らなくなった狭い路地に入った。



 その道は、塀に囲われた似たような造りの家が立ち並ぶ、小さな住宅街のなかを抜ける静かな細い道で、昔はよくここを通って家に帰っていたのに、いつからか敢えて避けるようにしていた。避けるようになったきっかけをよくは思い出せないのだが、なにか怖いことがあったらしくて、いまこうして歩いていると、遠い記憶のなかのなにかが背筋に警告を投げかけているのを感じる。雨に打たれてびしょびしょになったシャツの肩や、頭皮を伝うぬるい水の感触、靴の中に染み込んでくる雨水に、脚に張りつくようなスラックス、すべての感触に怯えて、呼吸は浅く、肩は強張っていく。この道に入ったのはまちがいだったかもしれない、確か青い紫陽花が咲き並ぶ綺麗なところだったはずなのに、僕の視界は灰色の雨粒に反射した幽かな陽光が目に刺さるような変に眩しく味気ない色に完全に支配されていた。まるで知らない街に独りで立ち尽くしているような、地面から少し浮いているような、とにかくここを早く抜けてしまおうと、足を早めた。

 突然、鮮烈な色彩が僕の視界を覆った。まるでいままで色彩に触れてこなかった人間のように、ハッと息を飲んでそれを見つめる。--それは赤い傘だった。幼稚園児が使うようなビニル窓つきの小さなカサが、そんななんでもないものがなぜか世界でいちばん美しいもののように思えてたまらなかった。その赤が雨にとけて滲み、周囲を色づかせている、カサが発光しているのではと勘違いするくらいに視界のなかで強く発色している。傘が広がったその一瞬のうちに、異常なくらいこの風景に惹かれてしまった、足が動かないのだ。微かに揺れている傘と、その持ち主の後ろ姿を、早鐘を打つように急に早まった鼓動をどうにもできずに見ていることしかできない。これは嫌な予感の警告なのか、色彩に惹かれた故の拍動なのか、目も逸らせなかった。

 ゆっくりとこちらに向きなおる傘の少女のその動きをみて、自分のなかの何かが、見てはいけないモノだと、いっそう拍動のペースを上げるのだが、ここではじめて金縛りのように体がまったく動かないことに気付いたぼくは、髪を伝い落ちる雨なのか、自分がかいた冷や汗なのか、判断がつかないまま彼女を見ていることしかできない、頭に心臓が移ってきたように自分の脈動が大音量で耳の奥にひびいて締め付けられるように痛む。

 自分は色彩に魅せられているわけではなく、傘の赤を認知したその瞬間から金縛りにあっていたのだ。恐怖心と頭痛と目眩で指先は氷のように冷たくなって、喉は痛くなるほどカラカラになっている。早く、早く足を動かさないと、あの子に見られちゃ、あの子を見ちゃいけない。

 スローモーションで時間が流れるようだった。この一瞬が数分にも感じられる、もう少女はこちらに体を向けた、あの子が顔を上げてしまったら終わりだ、早く、はやく、目だけでも逸らさないと、

「……本田……?」

突然後ろから聞きなれた声がきこえた、その瞬間指先から強張りが解けるのを感じた、今しかない、即座に後ろを振り返って、歩いてくる友人の手をとって路地から走り抜ける、後ろを振り返ろうなんて思えなかった。たったの数十メートルが何キロにも思えた、どんなに苦しくても足を止めたら終わりだ、友人の手首を一生懸命握りしめ、遠慮なく引いた。道を抜けた角を曲がるまで、満足に息もできなかった。



「顔色悪いけど、どした?……つーかお前、びっしょびしょじゃん、……手ぇ離せよ、痛いし、アザになっちゃうよ」

やっと走り抜けて力が抜けた、足が震えてどうしようもなかった。不思議そうに顔を覗き込みながら傘を差し出して、冗談めいた声色で喋っていたが友人はなにかを察したようだ、手だけは異常に力が入っていたらしい、静かに手を離した。

「……なんか視たのか、また」

「お前は視なかったのか、」

彼は無言で頷いた。好きで視ているわけではないのだが、ときどきこんなふうに気持ち悪いものを視るときがある、彼だけにはそれをうちあけていた。僕の顔色は相当悪かったらしい。とりあえず一緒に帰ろうかという話になって、いつもの道に出た。一本しかない傘に男子がふたりも入れば普通に狭いしお互いに肩が濡れるので、傘を差し出すのをやんわりと断るのだが、既にびしょびしょの濡れ鼠になっている僕を強引に傘のうちに引き入れる、彼はそういうよく言えば優しい、悪く言うならお節介なところがあった。だからこの人にだけは打ち明けなければいけなかったのだが、……そういえばなぜ視えることが彼にバレるようになったのかそのきっかけをよくおぼえていない。幼馴染みだから記憶があやふやな遥か昔のことなのかもしれないが、そんな強烈な記憶が容易に薄れるものだろうか?

「泉、あの道通っていつも帰ってんの」

「いや、今日は雨だし近道しようと思っただけで、つーか、お前があの道は通るなって言ったから通らないようにしてたのに、当の本人は忘れてるとか、ありえないんだけど。
 お前こそこんなびっしょびしょで歩いて帰るとかなにしちゃってんの」

それを思い出せていたなら僕だってあんな目に遭わずに済んだのだからちゃんと回り道したと思う。確かに覚えている気がするのにまったく思い出せないなんて、変だ。さっき見ちゃいけないと思ったのは確実に知っているモノだったからだろう。

「……ん~、なんでかな、」

「俺にそういうごまかしは効かないよ、本田クン」

「壊れてたんだよ、骨が歪んでんの、新しいの買うよ。今度は折りたたみにする」

「……ほぉん、なるほどなぁ」

……あぁ、まずいこれは全部お見通しのときの声色だ、家に帰りつくのが遅くなるなということは容易に想像がついた。 



 案の定お叱りをくらってそれだけでは飽きたらず、ご親切に玄関先まで送ってくれた。別に迷惑とかではないけれど、家人に見られるのはなんとなく気恥ずかしい、送り届けられた僕をみて親からも小言があった。泉も母も同じことを言った、わかりきっているけれど実行に移せない聞き慣れた言葉だ。

 結局なにを視て、どんな目にあったかは彼には言わなかった、なんとなくまだ言ってはいけない気もしたので賢明な判断だと思いたい。追いかけてくるタイプのものではなかったみたいだし、あの道を通りさえしなければ問題ないと思う。以前に彼処でなにがあったのか思い出せたらなにかすっきりするような気がするけれど、思い出せないのだから仕方ない。どこかでまだ油断してはいけないと警告を鳴らす存在に目をつぶって、早々にシャワーを浴びて寝てしまおう、それに早くしないと風邪を引いてしまいそうだ、学校を出る前から、というか朝から寒いと思っていたのだった。洗面台の鏡に映った顔色はすっかり元に戻っていた。



「ねえなんか廊下が濡れてんだけど、あんた拭かなかったの」

夕食に、姉が残しておいてくれたすっかり冷めた焼き鮭を食べていると母が神妙な顔で言った。僕が玄関先で靴下を脱いで廊下に上がり、服を脱いでしまってから濡れた廊下をタオルで拭いていたのを小言を言いながら見ていたからだ。

「拭いたよ、見てたでしょ」

「うん……そうなんだよね、気持ち悪いなぁ」

「とりあえず全部拭いたし濡れたまま上行ってないから階段は濡れてないと思うんだけど」

「なんかねぇ、玄関上がってすぐのとこが足跡みたいに濡れてて階段に続いてたのと、あんたの靴の横に傘から垂れたみたいな水が数滴落ちてたんだよね……、」

カサ、……とっさに口の中のものをもどしそうになってしまったので口をおさえた。母はそれを横目になにか察したようだった、

「……あんた今日なに拾ってきたの、あぁ、泉くんが一緒だったのってそういうこと……」

当然ながら母は僕のそういうところを把握していた。もちろん、泉が知っているのも知っていた。

「……足跡って、どのくらいの、」

「こどもの足かな、どうすんの、上がってきちゃったじゃん」

「上げる気なんか一ミリだってなかったよ……」

こどもサイズの足跡に、そんな意味深な水滴ときたら今日遭遇したアレにほぼ確定だ。付いてくるようには思えなかったのに、嫌な予感がことごとく的中する日だった。早く思い出さないと、早く追い出さないとなにされるかわかったものじゃない。

 残り半分の鮭の味なんか全然わからなかった、だいたいいつもと同じだと思うけれど、今なら塩の代わりに砂糖が振られた鮭でも気づかない。……塩、…………塩?

「盛り塩するかな……」

「気休めなんじゃないの」

「しないよりはましだと思う、玄関に置いとくから」

実際もう入ってきちゃったものを盛り塩とかそういうものでどうにかできるとは小指の先ほどだって思っていないけれど、藁にもすがる思いで、とにかく速やかに出ていってもらう方法を考え付くまでの気休めになってもらえさえすればよかった。アレはヤバいモノだって第六感が大音声で警告を叫ぶのが聞こえるようだった。



 それから数日間拭いても拭いても足跡は現れた。最初は玄関にしかなかった傘から滴ったような水滴も点々と階段につづいて見られるようになった、盛り塩はほんとうに気休めにもならず、朝になれば水っぽくなって床にこぼれていた。まるで蹴飛ばされているかのような形で広がっていたのにはさすがにぎょっとした。あの日を境に晴れが続いていたので、足跡のように廊下が濡れているのでさえ、本当はありえない現象であって、家族はみんな気持ち悪がった。

 僕は体調を崩してはいたのだが、家にひとりで留守番しているのは遠慮したくて、痛む頭を頭痛薬で黙らせ、体を引きずるように学校へ向かった。泉は地元の公立高校ではなくて、隣の少し頭の良い私立に通っていたので学校では会えない。泉くらいにしかこんなこと言えるわけもないので日中はただボーッと足跡のことを考えた。もう彼女は階段の踊り場まであがってきた、2階のいちばん手前にある僕の部屋が目的地なのだろう、きっともう時間がない、痛む頭ではいつもよりまともに考えられない。はじめから彼にすべて言っておくべきだったかもしれない。そうすればもっとはやいうちに片付いたかもしれなかった。忙しそうだからとあまり連絡しないようにしていたけれど、話を聞いてほしい旨のメールを送ると、嬉しそうな顔文字と一緒に駅で待ち合わせて一緒に帰ろうという返事が即座に返ってきた。

 もう体調は回復して良いはずなのに、あの足跡が階段を上がってきているのを確認する度に頭の痛さが増していくように感じた。ほんとうにあの子なんだろうかと毎日考えるが、足跡をみると、赤い傘が視界で揺れるのを感じていた、なにが目的で僕に付きまとうのだろう。正直かなり参っていた、寝ても覚めてもグロッキーで、授業なんか全然頭に入らなかった、今度のテストはたぶん泉に頼らなければいけない。……それはちょっとラッキーだった。



 駅につくと泉はいつもの屈託のない笑顔で手を振って合図した。いつでも底抜けに明るい笑顔だと思う。

「珍しいな、本田の方から連絡がくるとは思わなかったよ。……やっと話す気になったのか」

「思ってたより事が重大になってきただけだよ、見せてからじゃないとうまく説明できないから、とりあえずうちに来て欲しい」

「まああんな顔色になるようなことに遭遇しといてヤバくないわけねえんだよな、無理にでも聞き出しておけばよかった」

彼はまた冗談めかして笑った。頼っても全然大丈夫そうな、ムカつくくらい余裕がある笑顔で、少しホッとする。こういう話題は人を選ぶし、あまり巻き込みたくも、巻き込まれたくもないだろうから、彼のような頼られるのが大好きな物好きな人間が友達でいてくれるのはほんとうによかったと思う。そうこうしているうちに雨の匂いが強くなってきた、夕立がくるのだろう。慌てて帰路につく。なんだか中学のときにも小学生のときにも、こんなことがあったような気がした。

「そういや、あの道で同級生が車に轢かれて事故ったことがあったよな。小2のころだっけ」

 思い出すように遠くを見ながら泉がポツリといった。

「お前はその事故がある前からあの道は通るなってみんなに言ってたんだよ、なんでってきいても詳しいことは絶対教えてくれなくて、詰め寄ると泣き出すから無理には誰も聞き出そうとしなかったけど、その矢先に事故って死んだから、なんかお前気持ち悪がられちゃって」

「そんなことあったっけ……」

「お前マジでなんもおぼえてねえのな……、お前はなんか『死神』とかからかわれてて、そっからいじめられるようになったんだけど、マジで覚えてないの、」

「お前がいろいろ守ってくれたのは覚えてんだけど、きっかけはよく覚えてなかった」

おもいきり呆れたような大きな溜め息をついて、泉はなにを思ったのかいきなり手を強く握ってきた。

「なに……」

「いや、あのときみたいにお手手つなげば思い出すかと思って、いや冗談……なあ、この間なに見たのかそろそろ教えてもらってもいいだろ、お前の力の入り具合こんなもんじゃなかったぞ、俺ちょっと怖かったんだから」

「……この間は、赤い傘だよ」

「傘、?」

「傘をさした女の子が、こっちにゆっくり振り返るんだよ、それで」

「金縛りにあって動けなくなったのか」

「えっ」

かぶせるように言おうとしていたことを言われたのでかなり驚いた、泉はもうわかったから、というふうに手をひらひらさせて言葉を遮った。

「お前それ、あのときも同じこと聞いた、思い出した」

彼はそれから考え込むように黙ってしまって少し気まずいまま家の前にたどり着いた。自分もなにがあったのか思い出そうと一生懸命に記憶の底をさらうようにしていたのだけれど、見つけそうになるとまた遠ざかってしまってうまくつかまえられなかった。

「とりあえずあがって、」

泉はまだ黙ったままで、若干顔の血の気が引いているように見えた、風が温いけれど絶えず吹いていて、汗ばむほどでもないのにうっすら汗がにじんでいるようにも見えた。玄関のドアを開けて入るように促すと悲鳴にも似た息を飲む音が聞こえた。慌てて自分も中に入ると廊下はいつにもまして水浸しだった。まだ誰も帰ってないらしかった、聞こえてもおかしくない冷蔵庫の静かな音も、付けっぱなしのエアコンがたまにたてるような音も、ひっそりと静まり返ってなんの音もしなかった、怖いくらいに無音だった。階段に続いている足跡を横目にタオルを取りに行こうとすると、泉が口を開いた。

「お前、小学校入ってすぐ、あの道で事故に遭いかけたよな、覚えてる?」

「ん~、あぁ、そんなことも、あったような……」

「お前の代わりにひかれた女の子がいたのは覚えてるか」



 やっと記憶の底に手が届いた。僕が小学校一年生のちょうどこの時期、どしゃ降りの雨のなかをひとりきりで帰っていた。確か宿題を忘れたので居残りをしなくちゃいけなくて、帰りがおそくなったのだった。とても眠くて、それにどしゃ降りで、傘で視界はよくないし、完全に注意が欠けていた状態だった。狭い道は車通りは少ないけれど、その代わりにスピードを出して走り去る車の比率は高い。こんな日には避けて通らなければいけないのだけど、まだ小さかったから、そんなことわかってなかった。とにかく眠くて、早く帰って寝たかった。

 そのとき、例の、あの赤い傘の女の子を見た。そして金縛りにあってしまって、車も走るような道の真ん中で動けなくなってしまったのだった。それが振り返るのを、ただ息もできないまま、見ていることしかできなかった。この人は、人じゃない、逃げなきゃ、逃げなきゃ、と足を動かそうと頑張るのだが、やっぱり動かせなかった。そのうちに彼女がゆっくりと顔をあげた。その顔は



「本田!お前の部屋、早く、なんかいる」

 泉の声で引き戻された、階段は一段一段にあの足跡がついていて、いよいよ不気味だった。ポタポタとなにかから滴ったような水滴のあとまで2階に続いていた。

「傘持ったまま入ってくるとか、どんな教育受けてたんだろうな」

いまは彼の冗談も笑えない、お互いに手や背中にびっしょりと冷や汗をかいている。なぜか息を殺して音を立てないように細心の注意を払いながら階段を上がっていく、

「初日はちゃんと玄関に傘置いたみたいだけどな」

ついに部屋のドアノブに手をかけた、少し濡れている。

「他人の部屋にも勝手に入るのか」

「ほんとにヤバいお嬢さんだな」

気を紛らすために小声で冗談を言い合ってはいるがお互いに顔がひきつっている。ノブを静かに回して、覚悟をきめてドアをあけた、泉はいつからか僕の肩を痛いくらいに一生懸命につかんでいた。むしろありがたいくらいではあったけれど結構痛い。

「いない……」

「いないな、」

部屋には、なにもいなかった、見回すようにして部屋の床が濡れていないか確認した。全く濡れていなかった。肩透かしを食らったような気分になって、顔を見合わせると、突然ドアが閉まった。後ろを振り返ると、赤いものがみえる、僕たちがドアを開けるまでは入ってこられなかったということなのだろうか。泉はとっさに僕の手を掴んだ。顔面蒼白になって固まっている、見えているようだった。

 彼女は最初からこっちを向いて俯いていた。僕たちは立っていたから、幼いかたちをしている彼女がこっちを見上げない限り目は合わない。傘は閉じて、左手で持っていた。薄い緑色のハーフパンツに白の涼しげなブラウスはふつうの格好だけれど、そこからのびた細い腕や脚の白さが尋常ではなかった、生きていない、そう思った。なぜかいまはあまり怖い気持ちがしない、吹っ切れたのだろうか。

 しかし唐突に顔をあげた彼女の顔をみて背筋が凍った、見覚えのある、ぐちゃぐちゃに崩れた顔だ。泉はいっそう手に力を入れた。アザになりそう。よく聞くとなにかブツブツと言っている、

「…………で、…………に、……、」

しわがれたか細い声、聞き取れてしまってはいけない気がして思わず目をつぶった。それでもなお声は聞こえる、耳を塞げていないのだからあたりまえなのだが、なにかアクションを起こしてしまったらなにかされそうで怖かった。声ははっきりと聞こえないのに生々しく息づかいだけが耳の奥に響く。早く消えてくれ、頼むから、なにもできない、僕はなにもできないから、だからどうか、……僕は口の中で必死に思い付く限りのお経っぽいものを唱えた、供養とかにはならなくても、僕はなにもできないってことを示せたらそれでいいと思った。何度も何度もお経っぽいものを唱えた、何時間にも感じるくらい怖くて苦しかった、泉はずっと手を握っていた、絶えず息づかいが部屋に響いていたが、やっと、それが止まった。

 ホッとして恐々目を開けると、彼女の顔がなぜか眼前数センチのところに浮いていて、耳元で舌打ちをして消えた。



 気がつくと部屋の真ん中で手を握りあったままうずくまっていた。時計を見ると家にたどり着いてから数分も経っていなかった。お互いになにも言えないままたちあがって部屋を出ようとしてまた戦慄がはしった、彼女の立っていたところ、ドアの前はバケツの水をこぼしたように水溜まりができていて、長い髪の毛が数本落ちていた。



 彼女は僕の顔を覚えていて、僕も彼女の顔を覚えていた。なぜこんなにすっかり記憶から抜けていたのだろうか。確か小1のあの帰り道に彼女に遭遇して、金縛りにあったところを、車に轢かれかけたのだった、僕を助けようとして、僕を道の端に突き飛ばしてくれた女の子は足の骨を折った。それで、あの道を避けるようになったのだけれど、あの道では時々子供が事故にあって死んでいた。決まって雨の日だったから、都市伝説みたいにして近隣で噂されていたのは何度も聞いたけれど、僕だけは彼女のせいだとわかっていたのだった。



 濡れてしまった廊下を拭くところまで、泉は手伝ってくれた。あんなものをみた直後にひとりでかえるなんて到底無理だと笑っていたけど、顔はひきつっていた、冷や汗はまだ引かないようだ。

「そうだ、あのこなんか喋ってたよな、『なんで、お友だちになってくれそうだったのに』って聞こえたけど、最後の舌打ちがやけに耳にのこって寝られない気しかしねえな……」

水無月

水無月

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-09-09

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