獣道

真水ななし

 毎晩おれは、森を走っている。走るゆめばかり見るのは、昔からだった。おれは背中に腕を回されながら、よく知っている気がする女の子が連れ去られてしまわないように、必死にその裾を握り締めている。ぐるる、と唸っている艶やかな毛並みの犬は、みっつ隣の家の番犬で(ほんとうは秋田犬でそれなりにかわいいはずなのに、ここではドーベルマンらしき黒を纏っている)こいつが吠えるとおれはいつも冷や汗をかいた。
 おれの背に吸い付くように添えられた手のひらは、たぶん女の子のものではない。得体の知れないゆめだと思うのに、どうしてか森を抜けたら救われるという確信だけはあった。そういう噂なのだ。森を抜けたら救われる、だから走ればいい。
「**、」
 に、と唇が吊り上がる。その子をおれは知らないのかもしれなかった、こんなにも愛くるしい友だちがいただろうか。おれに恋人ができたことはない。ただの同級生だとしたら、おれは勿体ないことをした。どこか棘を感じさせる笑い方と、小悪魔を思わせるいたずらな声。おれの好きな女の子を描いたら、その子になるだろうに、どうして気づかずにいられただろう。
「忘れちゃったの?」
 獣道をほとんど踊りながら走る。その子は息を切らしていなかった。もしかしたら人間ですらないのかもしれない。ゆめだから、なんでも現れる。獣道を踏みしめる裸足がいろんな傷を負った。そのたびに顔を顰めてしまうおれを前にして、眉毛のひとつも動かさなかったから。
「きみはいつも勝手だよね」
 おれは上手く呼吸ができなくて、言葉を返すこともままならない。おまえを助けるために必死なんだよ、と視線だけで叫んで、そういうところが勝手なのだと詰められる。おれの手が汗で滑って、掴んでいた布がほんの誤差みたいになってしまう。女の子はむしろ楽しそうに破顔して、いたずらっぽく言い放った。もういいよ。
 ゆめの終わりを告げる合図だ。もうずっとほんとうの振動としては受け取っていないものを、惜しげもなく与えてくれる女の子が、おれの手を解く。隙間なくあてられていた肌の気配が離れていって、だれもかれも遠のいていく。足の裏が触れていた温度が、急激に冷えて、生ぬるさと草の匂いを失った。アスファルトを焦がしてしまえたらいいのに、と数え切れないほど繰り返した後悔をまた捧げて。今日も、おれだけが森を抜ける。女の子を救えないで、おれの心も救われないで。おれはひとつの仮説に直面してしまうのだ、あまりにも真実味を帯びた、恐ろしい確信にたどり着いてしまう。
「あの子は死んでいるんじゃないのか」
 震えが止まらない。夜だというのに眠らないこの町は、星も見えないくらい明るくて。整えられた灰色を、擦り傷だらけの裸足で開いていくおれの情けなさを、浮き彫りにしていた。皮肉だ。あの獣道を毎晩走って、のっぺりとした道にしてしまったのはおれだ、とだれかに嘲られている気がしてくる。もちろん被害妄想なのだけれど。
 ゆめが終わると、夜の入り口に立たされている。アスファルトの先には濃霧が充満していて、ほんとうの眠りに落ちる。
 あの子のいない現実で、奔走することも許されない夜が。毎晩、そうと知っていながら進むしかないおれが。惨めすぎて、唇を噛んだ。忘れられるわけがないだろ、おまえがいちばん知っているくせに。泣き言を零しても、膝を抱えることはできない。走らなくてもいいけれど、進まなくてはいけない、このゆめで唯一決められたことだった。
 もっと幼いころ。ほんとうに前を向いてばかりいた、純真な子どもだったころ。おれは女の子の手を離したのだ。バレエが好きで、肌を焼くことを極端に嫌ったあの子は滅多に遊んでくれなくて、深緑のよく繁った、日の当たらない森を探して。小さな歩幅ではあまりに遠いところに、あの子を連れ出したのはおれだった。夜のあいだだけ、おれは自分の名前は忘れてしまって、あの子の名前を思い出す。みっつ隣の家にその子が住んでいたことも、その家の犬がついこの前に死んでしまったことも。
 ゆめと現実が揺れ動く、もしかしたらおれも後を追うのかもしれないと、縋るように思うとき。ほんとうは息を止めてしまう方法を知っている気がするのだ。あの森の中でおれも連れ去られてしまえばいい。救えないのだったら、もう、いいのに。未練のひとつもないおれが生きているのは、不誠実な気さえしてくる。それともあの子の幻をなぞるのが、未練なのだろうか。
「もういいんだよ、**」
 もうすぐ目蓋が上がってしまう。そういう予感はよく当たる。いたずらっぽく呼ばれる名前を言葉としては理解できないけれど、その声は忘れてしまうにはあまりに惜しい。おれは好きだよ、おまえのこと。名前を呼んでほしそうだった、から、たぶん口にしてしまえばこのゆめも終わる。おまえのことなら、おれは全部わかるよ。だから今は憶えていなくていいのだと、唇を噛みながら思う。痛い。おまえはもう、痛みも感じないから、顔色を変えないんだろ。
 好きだよ、と、名前も呼べない女の子に思うおれは狂っているかな。時々、その存在さえ忘れてしまう女の子に。でもおれ、毎晩、おまえに好きだって。
「言えなくても、思ってるんだ」

 気がつけばおれは、また、虚ろな朝を迎えている。

獣道

獣道

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-09-08

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted