あなたがここにいてほしい
「パパぁ」
七恵(ななえ)が、広い駐車場の向こうで手を振っている。どうやら新聞紙が真横に開けないみたいだった。
「きてよー」
しょうがないな。
「貸してみなよ」
ちっちゃい七恵の両腕の長さで、新聞紙の幅は精一杯のようだ。斜面を吹き上げる風がかなりあるので、両手を広げた七恵は、風に翻弄される凧みたいになっていた。
僕は七恵の手から新聞紙を受け取ると束にして火がつきやすいように丸めると、いったん、水の入ったバケツで固定した。
「これで、よし」
僕は七恵の肩に手を置くと、こう言った。
「―――じゃあ、新聞紙に火をつけて、迎え火しよう。風で新聞紙が飛んでっちゃうから、七恵はパパと壁になって」
「かべ?」
七恵は何か思いついたのか、両手だけじゃなくて両足も突っ張って顔もしかめた。
「こう?」
ちょっと僕は苦笑して、
「そう―――今から、これでママを呼ぶから、ちゃんと火を守ってるんだよ」
「うん、分かった」
七恵のママ、つまり僕の妻の美幸がいる頃は、マンションの駐車場でやった。
その日は蒸し暑くて風が無く、呼んだのは、三年前、肺ガンで亡くなった妻の父だった。
肺を痛めて亡くなったのに、また空気の汚い東京に呼び戻されて、怒ってるかもね――などと、冗談を言ったりしていたけど、今年は、僕たちの故郷の安曇野の満天の星空の下だ。美幸だって、文句のつけようがないに違いない。
風が収まってきたのを見計らうと、僕は新聞紙に火をつけた。
炎はじんわりと新聞紙の端を融かすと、後はあっという間に燃え広がり、暗色に包まれていた景色をぽっ、と赤々と照らし始めた。小さな火は、闇を切り裂かない――ただ赤く、じわりと広がって、闇を溶かしていくだけだ。
見上げると、夏の星座がよくみえた。今夜はとてもいい日だ。風も涼しく、空が綺麗だ。闇を溶かす炎が、夜空の果てまで、この世界にぽつりと赤い目印を立てるだろう。
この明るい炎に、どうして人間は惹きつけられるのだろうか―――ふと、そう思う。炎には、何か暖かい気持ちの源がある。寄る辺ない人間たちは、生きているものも、死んでいるものも、それに泳ぎ着くために、暗い闇から、それを求めるのだろうか。お盆の迎え火をみていると、つい、そんな抽象的なことを考えてしまう。
「綺麗だね」
「きれいだなー」
僕は、炎に照らされた七恵の顔を思わずみた。
「ママを呼ばなくちゃね」
「ママを、呼ぶの?」
七恵は少し意外な顔をした。
「ママに会いたいだろ?」
「うん」
「じゃ、ちゃんとママを呼ばなくちゃな。火が燃えてるだけじゃわかんないんだよ」
「そっか」
七恵は膝をつくと、両手を組んで、きちんと祈っている―――どこで、そんなことを憶えたんだろう。そのときなぜか不思議に思った。
僕も同じように祈った。
そして、美幸の名前を心の中でそっと呼んだ。
美幸が喪われてからの日々を、まだ僕はちゃんと、順を追って思い出すことが出来ない。
今、思っても、他人事のような無神経とも言える無感覚のうちに、すべてが過ぎ去っていったことしか、印象にない。だから他人に美幸のことを尋ねられても、いまだに勝手に遠いところに行っているだけ、と言う印象で、放っておいたらやがて帰ってくるだろうと言う風な感覚で生返事をしてしまったりすることすらある。
あれは果たして、僕だったのだろうか。そう―――僕は、病室で亡骸になった美幸の身体を引き取って。彼女が生きていたそのすべての付属物を、色々な手続きを経て取り去っていったのは。人生の終焉を迎えた美幸を火葬場まで、連れていったのは、僕。―――確かにそうだ。そのはずなのだ。
僕は彼女の死に目にあえず、彼女の最後の会話を交わすことはなかったのだ。そして、悔やんでも、後悔しきれないことを、僕は記憶に封をして埋めることで時の流れに紛らわそうとした。卑怯だと言えば、これほど卑怯なことはない。いつも仕事で上の空だった僕は、最期まで彼女を置き去りにしてしまったのだから。
そんな僕にこの夏に起こった出来事は、この上なく幸せな時間だった。
美幸は待っていてくれたのだ。僕と、七恵のために。
1
「・・・・・和義、話があるんだけど」
最初に娘の異変に気づいたのは、僕の母親だった。僕は、都内の会社を辞め、地元の長野で職探しをしていた。実家で遊んでいる七恵の言動がおかしいことに気づいた僕の母親が、外へ出ている僕に、電話で知らせてきたのだ。
「七恵がね、こう、みえない誰かとお話してるんだ。うん、うん、ってなにか言うことを聞いてるのよ。誰とお話してるのって、言ってみてもあたしの言うことに答えないしね、どうしちゃったのって思ってさ」
妻が入院したとき、七恵は僕の両親がときおり来て世話してくれていた。その母親が以前から、うまく話してくれていたみたいで、ここ一年変わった様子は見られなかった。確かに、僕と話をしているときに、もしママがいたら、と言う話は出たりしたが、娘は娘なりに、母親がいない理由を受け止めているのかと、単純に考えていた。
「それはずっと、なのかな?」
「しばらくすると、元に戻るんだよ。ナナちゃんこんなこといってたでしょ、ってそのときのこと聞いても、ううん、ナナそんなこと言ってないよ。って憶えてないみたいなんだわ」
「そうなんだ」
「ねぇ、あたしも美幸さんが亡くなったときに、ママは遠くへ行かなくちゃいけないんだよ、でもいつもナナちゃんの傍にいるよ、なんて話したから、そのせいかとも思ってるんだけどねぇ」
「お袋が責任感じることないよ。―――俺が悪いんだからさ」
俺が悪い。
使わないはずの言葉だったその言葉を僕は、また自分に使いはじめるようになっていた。
うちでみる七恵は、特に変わった様子はなかった。僕の帰りをちゃんと待っているし、好き嫌いもなく最近は食べるし、僕が遅くなる夜でも、一人で眠れるようだった。
ただ、少し内向的で、自分の意思や要求を表に出しにくい性格になってきたと思うことがある。もうとっくにおしめが取れているので、一人でトイレも出来るはずなのだが、僕や母親が聞くまで、トイレに行きたいのを黙っていたりする。そして、結局、カーテンの陰にうずくまって漏らしてしまうなどということが、何度もあった。
その黙り込んでいるときの、唇を強く結んで、あごを引いて、上目遣いで僕をみる表情が、美幸が拗ねているときの顔に似ていて、僕としては困ったな、と思いながら、複雑な気分になってしまう。それでいながら自分の限界まで我慢する性格は、僕に似ているのだ。
美幸が亡くなって、僕が娘と接する機会が多くなってから、そんなことを気づかされる。こうしてみると、女は子供が生まれた瞬間に親になって、男は子供を育てる瞬間になって親になっていくと、うちの父親が言っていたことが、実感として思い出されて、微笑ましくなる。
しかし娘も自分が知らないことで、美幸が亡くなってしまったことの影響を受けているのだと言うことを、娘と接するようになって、実感することも事実だ。確かに、理屈の上では、仕方ないとも思っていた。でも、本心では、七恵の気持ちを考えると、出来れば、暗い影を落としていなければいいな、と勝手に心配していた。
いや、それは自分の心を守るためかもしれない。あわよくば、娘は深刻なショックを引きずっていって欲しくない、それを見たくないと。
「あなたは流される性格だし」
生前の美幸に、皮肉交じりに言われた言葉が、ふいに胸を突いた。
「ナナ、ただいま」
七恵が大好きな夏みかんのガムをお土産に買って帰った。こういうときの七恵の表情は、本当に面白いと思う。きゅっと結んだ唇が、波が引くように、じわーっとほころび、垂れた目が、きらきらと輝く。溶けるような表情とは、こういう感じを言うのだろう。
「ガムだー! ねーね、それ、ナナの好きなやつ?」
「こら。パパにお帰りは? お帰りいわない子にはあげないよ」
「パパ、おかえりなさい!」
七恵は、身体が反るほど大きな声で言った。
ガムは、七恵が欲しがったときの一枚ずつの配給制にしている。放っておくと、七恵は何枚でも食べてしまって、夕ご飯が食べられなくなるからだ。それにガムを飲んでしまわないように、あげたガムは、大人のみている前で必ず食べさせる。
「夕ご飯は、食べたんだな?」
そういうと、七恵は、ガムを口に入れながら、うん、と答えた。
「じゃあ、食べてよし」
やったぁ、と声をあげて、七恵は僕からガムを受け取った。
後ろから母親が出てきて、
「今日はお煮物だよ。お父さんも帰ってるから、早くしな」
と、晩御飯のメニューを告げた。
「悪い、お袋」
「早く、こっち来て飲め」
居間には、既に父親が座っている。
「まあ、こっち帰ってきて一週間も経ってないんだから、気楽にやれよ」
現在、僕たち親子は、僕の実家の離れに住まわせてもらっている。三日前に仕事を辞め、東京から引き上げてきたばっかりだったので、仕事が見つかるまでは、ここにいることになったのだ。
「仕事はどうだ?」
食卓には、大皿にそれぞれ筑前煮とゴーヤーチャンプル、野沢菜の漬物の小鉢、それにビールのビンが乗せられている。すでに僕のグラスが出ていて、席に座ると、すぐに父親がビールを注いでくれた。
「知り合いの店を手伝うことになるかもしれない。旧軽の街の中にあるんだけど」
「そっか。軽井沢だったら、ここから車で通えるな。それだったら、新居もまだ探す必要ないだろ」
「七恵の通う幼稚園の場所とかもあるから」
「そんなの俺か、母ちゃんが送り迎えするよ。うちは農業やってんだから、多少時間はきくって」
ガムの銀紙を握って、七恵がとことこ駆けてくる。男家庭で娘など見たことのない親父は、孫娘を抱き上げると、ガムをもらったときの七恵とおんなじ表情になる。
「ナナちゃんも、ジィジと一緒のが、いーもんなぁ?」
「でもさ」
「そんな急に決めることもないよ。だいたい眞治は、東京に住んでるんでしょ。次男が帰ってこないで、長男のあんたも別に住むとなると、いずれはこの家も、誰が住むのかわかんなくなるんだしさ」
「そこまでいる気はないよ」
「住んじゃえよ。構わねぇぞ」
「あたしたちは、あんたたち二人だけだったら、別に迷惑だとも思わないよ」
「だいたい、お前、それに再婚する予定はないんだろ?」
「・・・・・・・・うん」
そんなことは考えたこともない。
「だからお前はいろいろ急ぎすぎなんだよ。まず七恵の幼稚園決めてからでもいいじゃねぇか。よぉし、明日は、ジィジと、遊ぼぉなー?」
「遊ぶー」
親父は、かつてないほどのベロベロの甘やかし方だ。僕が目を話した隙に、七恵のおもちゃが、だいぶ増えてきているのを僕は見逃さなかった。
「七恵にお菓子とか食べさせすぎないように、見張っててよ」
僕は密かに、母親に言っておいた。
「大丈夫よ。どうせ、明日一日ナナちゃんに付き合ったら、クタクタんなるに決まってるから」
親父は、農家で忙しいにも関わらず、男二人の兄弟と結構力いっぱい遊んでくれた。でも考えてみると、川遊びや、虫捕りや木登りなど、全部男の子の遊びだ。四歳の女の子相手に、親父が一日どう付き合うのか、正直興味がなくもない。
「明日はパパとお出かけするんだよな。幼稚園に行こう」
「え? 俺聞いてないぞ」
七恵に構っていた父親が顔をあげた。
「早く七恵の幼稚園を決めないとって言ったじゃないか」
「早くじゃねぇよ。まず、だって言ったんだよ」
「七恵、明日はパパと車でお出かけするからな」
「うん!」
七恵の返事で、親父はみるからにがっかりした。
「なんだよ・・・・・俺明日暇なのにな・・・・」
「和義、夜は、クラスメートと用事があるんでしょ。さっき電話があったよ。夜、お父さんにみてもらえばいいじゃない」
「親父は夜、七恵と遊んでもらってもいいかな」
そういうと、親父はすぐ機嫌を直した。
「そうか。・・・・じゃあ、ナナちゃん、夜ジィジと遊ぼうなー」
「夜遊ぶー」
まだ一五キロ前後の七恵の身体を抱き上げると、日向の匂いがした。ずっと以前に抱いたときは、それはベビーパウダーと卵ボーロの匂いだった。昼間しっかり遊んだのか、ここへ来てから、格段に寝つきはよくなった。
お風呂に入れて、パジャマに着替えさせて、きちんと歯磨きをさせる。それから、眠くなるまで一緒にいてあげる。それをやるようになってから、母親って言うのは、なんて偉大だったんだろうと大げさなことを考える。
眠った七恵の身体は以前よりずっと重たく、しっかりしていて、力加減を間違えたら、壊れてしまいそうな危うさもなかった。美幸の代わりに世話をするようになる前に、最後に抱いたのは、ほとんど生まれたばっかりの頃だっただろう。
その頃は、なんだかふにゃふにゃで、下手をしたら、落として、壊してしまいそうで、本当に怖かったことだけは憶えている。美幸はなかなか七恵の身体を受け取ってくれなくて、僕は、どうにかなってしまいそうで、途方に暮れた。
やっと、受け取ってくれた美幸は、僕をみて、
「子育てって大変でしょ?」
と、言った。それは、だからあなたもちゃんと協力してよ、ということを暗に含んでいるということが、美幸の表情からみてとれたので、
「わかってるよ。出来るだけ協力する」
そう言ったのを、最近よく思い出す。
「ただ、抱っこするのはもう少し大きくなってからがいいな」
「そしたら、交代してあげる。でも、かわりばんこね?」
なんて、二人で笑った。
そんなことを言っていたら、本当に交代することになってしまった――――かわりばんこは出来なくなってしまったけど。
布団をはぐり、七恵の身体をそっと置いた。七恵は、すーすーと、深い眠りに入っているようだ。僕がいなくても、これなら、朝までは目覚めないだろう。
ちょっと起きていたくて、僕は居間へ戻ろうと思った。すると、母親と鉢合わせをした。
「寝付いたよ」
僕が言うと、
「大丈夫だった?」
と、お袋は聞いてきた。
「どこか、変わった様子はないかい?」
「ないよ。たぶん、七恵も疲れてたんだと思う。俺、去年から仕事辞めるのに、だいぶ時間かかったからさ。七恵も寂しくてストレスが溜まってるんだよ」
「ちゃんと、ナナちゃん構ってやりな」
お袋は、小さな声でそう言った。僕も小さくうなずいた。
そのときだった。
七恵の寝ている部屋のふすまが開いた。
「起きちゃったかな」
僕はやっぱり部屋に戻ることにした。しばらくは一人で寂しい思いをさせないでいさせたかった。
「一緒に寝な。ナナちゃん、あんた待ってたんだから」
部屋に戻ると、七恵は、布団の脇にちょんと座っていた。自分の寝ていた布団の跡をみつめるように、そのまま動かなかった。
「ナナ?」
なにか奇妙な気配を察して、僕は、声をかけた。しかし、七恵は、その状態のまま、僕の言葉に反応しなかった。
七恵が深く、息をついた。それはため息のようだった。かなり、しっかりとした、それは子供の動作でなく、僕は驚いた。そして、もっと驚いたことに、七恵は僕の姿をみとめると、子供とは思えない、しっかりした声で、こう言ったのだ。
「寝たみたい」
それは七恵の声には違いなかった。しかし、大人のようなしっかりしたトーンなのだ。僕は驚いて、声を失った。すると、七恵は、美幸にそっくりな笑顔でにっこり微笑んで、こう言ったのだ。
「和義、あたしたちも、寝よ?」
2
七恵は次の朝も、変わった様子もなく、起きてきた。あのあと、七恵は何事もなかったかのようにぱったりと再び眠ってしまったが、僕は昨日のことをいってみたが、本人には全然覚えがなく、夜起きたことすら憶えていないみたいだった。
母親が言っていたことは、間違いではなかった。確かに、七恵は、おかしい。昨夜のことを母親に話して、とりあえず少し様子をみることにしようという話になった。夜相手をしてくれる親父にも、上手く話しておくよ、と言ってくれた。
「あんたの子だからね」
母親も、似たような覚えがある、と僕に話をしてくれた。僕はお祖父ちゃん子で、幼いころ、自分の親よりずっとお祖父ちゃんと一緒にいたがる子だった。お風呂のときも、寝るときも、僕は、お祖父ちゃんがいないとむずかるほどで、親もすごく苦労したという。
僕もうっすら覚えてはいるが、五歳のときに、お祖父ちゃんは脳溢血で亡くなった。そのとき親は、正直、どうしようかと思ったという。弟の眞治は小さいからまだそんな事実を受け入れるほど、物心がついていなかったが、特にお祖父ちゃん子だった僕を心配したという。
七恵とおなじ内向的な性格の僕は、お祖父ちゃんのお葬式が済むころには、普通にしていた。お祖父ちゃんがいなくなってしまったことも理解していたし、もう帰ってこないことも、分かっていたという。
しかし、しばらくして、僕は奇行が始まったらしい。僕は覚えていないのだが、長い間仏壇の前に座り、遺影をじーっと眺めていたり、宙にいない誰かと、会話をしていたというのだ。
両親は哀れに思えて、人前で僕がこんな行動をしようと、とめずに放っておいたという。そして宙にいる誰かの話をしたときも、そうだね。お祖父ちゃんだよ、と否定しないで応じてあげたという。
小学校に上がるようになって、そういったことも無くなったが、両親は一時期、僕がおかしくなってしまったんじゃないかと本気で心配したこともあったという。
「だからね、ここ一年くらいは、七恵をお前がちゃんと見守れるようにしたほうがいいかもしれないよ。仕事にすぐ就こうとするのもいいけど、東京の二の舞にならないようにね」
東京の二の舞――――あれは繰り返すつもりはない。
「パパぁ」
気温は同じでも、都心と違って車の窓を開ければ、風は涼しい。クーラーなど、ここでは健康を害するだけだ。七恵は、外を流れる川を見ているようだった。
「高瀬川って言うんだよ」
僕は七恵に教えてあげた。
「たぁせがわ?」
たかせがわ。もう一度僕がゆっくり言うと、
「それは?」
と、聞いてきた。それは? は、七恵が興味を示している印だ。そういうときはじっくり答えてあげなくちゃならない。
「綺麗だろ?・・・・・・・ナナがみたことない生き物がいっぱい住んでるよ」
安曇野や、この辺一帯を流れる高瀬川。川幅は大してなく、大きな橋と土手の下は、ほとんど小石で埋め尽くされているが、水はとても綺麗だ。低い樹木が密生しているので、この辺では川遊びはできないが、昔はよく、そこを探検したりしたものだった。
「いるの?」
「そう。お魚とか、すっごくおっきなカエルとか」
信号待ちのときに、手でその形を作って見せると、七恵は、
「うおぁ」
と、変な叫び声を上げた。
「泳げる?」
「そうだね。もうちょっとしたら川遊びしよう」
「したらね、ナナね、ウキアで泳ぐー。手、こうやってかいて、バタ足で」
「浮き輪だろ」
少し見ないうちに、この辺の風景は濃い緑一色になる。最後に実家へ帰った正月は、枯れ葉が雪で埋もれていた。今では、僕らと、向こうに望む穂高連峰の山々までのスペースすべてに木が生い茂り、若葉が埋め尽くしているような気がする。
「水だぁ」
川を通り過ぎてから、七恵はもう一度、声を上げた。水だ、っていうのは、さっきの川より小さな水溜りのことだろう。
このあたりは、ワサビを栽培しているワサビ田があるので、田んぼの間の小さな小川でさえ、透き通るように綺麗だ。川底をそよぐ水草や、白い砂地も、遠くからはっきりとみえる。
「あれも川だよ」
そう言うと、
「水だ、水だ」
すっごぉい、とさっきから七恵が言っているのは、その水の美しさだろう。
僕は言った。
「水が綺麗なんだよ。ナナのうちのお水もおいしいだろ?」
「そっかー」
こうしている七恵は、とても無邪気なものだ。
柔らかい前髪が、風でめくれて、おでこが全開になっている。こっちへ来る前に、なんとか切り揃えた髪の毛は、やっぱりまた長くなってきている。ほんのり膨らんだ頬が、口元をほころばせて、僕はそれだけで、美幸の横顔を思い出してしまったりする。
昨夜の声。そして、あの言い方は、美幸のものだった。
まさか、美幸が乗り移った、なんて、言うことはないだろう―――もしあったら嬉しいけど。そんな非現実な仮説なんかで、安心することは出来ない。これから、七恵はまた幼稚園へ行くのだ。友達の間でもしそんなことがあって、浮いてしまったら七恵は、見知らぬ土地で孤立してしまう。
穂高駅の周辺の幼稚園を、僕たちは見に行った。進学してからのことを考えると、町中の方が、なにかと便利なことがある。小さな前庭がある幼稚園で、上品な白髪のおばあさんが園長先生で、温かく迎えてくれた。
「とりあえず、秋からの編入をお願いしたいのですが」
僕が応接間で、一通りの話を聞いている間、七恵は庭の遊具で遊んでいてもらうことにした。近くの、七恵とおなじか、ちょっと上の小学生くらいの子たちが遊びに来ていて、一緒に混ぜてもらえたようだ。
「北原七恵ちゃん。四歳の女の子ですね。・・・・・・向こうでは、幼稚園に通われてたんですか?」
「はい、三歳保育というやつで」
三歳保育にしようといったのは、美幸の意見だった。七恵に早く友達を作ってあげようというのもあったし、僕たちの事情もあったが、僕は、反対だった。
三歳保育、というか、あまり幼稚園にいいイメージがなかったからだ。運動が苦手で、不器用だった僕は、幼稚園で行われるすべてのカリキュラムに適さなかった。偏食で好き嫌いも多く、他の友達が遊んでいるのに、いつも一人で幼稚園の給食が食べられず、残されたりした。
折り紙や、たかだかお遊戯などといったことで、人と優劣をつけようとする幼稚園を、正直、僕は憎んでいたことがある。
だから、大人になってからも、あまりいいイメージがもてなかった。ましてや三歳から、などともっての外だと思ったが、大人になってみると、よんどころない事情で、やっぱり幼稚園に預けることになってしまった。
「娘はちょっと最初の人見知りは激しいですが、みんなの中に溶け込んでしまえば、大丈夫だと思いますので、特に注意していただきたいなどはありません」
「食べ物のアレルギーなどはありませんか?」
「そういうのも特には。あと」
七恵が少し変だということについては、話さなくてもいいだろうか。ただそれを話して、入った幼稚園でいきなり腫れ物扱いになるのも、七恵には居心地が悪いだろう。特に未就学児童で発達に障害がある園児は、どの幼稚園も受け入れに難色を示すと聞いた―――僕は言葉に詰まった。
「なにかおありですか?」
とりあえず、秋に問題が深刻になるようだったら、七恵の転入のときに話そうと思った。だから、ここでは、あえて言わないことにした。
「・・・・いえ、ありません。秋から、よろしくお願いします」
「バイバーイ!」
娘は、庭で楽しそうに遊んでいた。キコちゃんという、同い年の女の子と仲良くなって、別れたみたいだ。
七恵は、人見知りだが、要は、自分を受け入れてくれるかどうかに、すごく敏感なのだ。だから、もしそうなれば、とても人懐っこいし、素直なので、大人にも、かわいがられる。
ここでのファーストコンタクトは、どうやら、うまく行ったみたいだ。
「楽しかった?」
七恵の頭を撫でながら、僕は言った。
「うん!」
「秋からここに行こうな」
「行くー!」
しかし、異変が起きたのは、帰りの車の中でだった。
娘が窓の外をみながら、ぽつりとこう言ったのだ。
「またみんなで来よーね? ナナとー、ママとー、パパ。みんなでね?」
「そりゃ幽霊かもしんねぇな」
地元の同級生と飲みに行くと、いきなりそう言われた。今日きたどのメンバーも、僕と美幸の同窓生だ。中には、高校だけでなく、中学校から一緒のやつもいる。
「お前が心配だから、天国に行けねぇんだよー!」
いい年して、なにが天国だ。こいつらは、本当に遠慮のないやつらが多い。
「はいはい、そういう不謹慎なことは言わないの。カズだって、美幸ちゃんが亡くなって、まだ一年なんだから」
市内の串焼き屋に集まったのは五人ほどだった。地方の店は、どんなに遅くとも日付が変わるまでには閉まってしまう。そうしたらもう飲む場所もなくなる。子供がいると、どうしても、こういうとき閉会の時間から逆算して物事を考えてしまう。
「でもさ、冗談抜きで、ナナちゃんもショックを受けてるんだよ」
隣に座った川原が、僕にビールをつぎながら、心配そうに言ってくれた。川原は、高校時代、美幸とおなじ美術部だった。今では、東京の大学を出て、臨床心理士の資格を取り、このあたりの病院でカウンセリングの仕事に携わっているみたいだ。
「そうなんだろうな、やっぱり」
「子育てって大変だよ。悩んでる人多いし」
「子供って難しいよな。感じ方は、俺とほとんど同じなのに、言葉が足りないから、変化が判りにくいんだ」
「心配なようだったら、うちにきなよ。ちっちゃい子のカウンセリングとかも、やってるから。気軽だし、多いよ。親でも気づかないようなこともあるから」
「本当に、ひどいようなら、頼もうかな」
「同じケースは聞かないけど、似たようなケースはあるよ。時間はかかるけど、カウンセリングで治療していけば、十分なんとかなるから」
「・・・・・・・そういうところで仕事の話すんなよー! こっちは忘れてーんだ」
向こうで、中島が怒鳴っている。中島は、東京の大学を出て、Uターンして、地元のデパートに就職した。なにやらストレスがあるみたいで、僕が来たときには、すでに出来上がっていた。
「ああ、こんなことになるなら、俺がもらっとけばよかったなー。高浜、北原が心配で安心して成仏できないんだよ。なんで死んじゃったんだよ、美幸ぃ!」
「中島ぁ」
僕が言うまでもなく、全員のひんしゅくを買っていた。
はた迷惑なやつだ。だいたい、あいつのせいで、僕と美幸は大喧嘩したことがある。確かに、悪いやつじゃないのだが、とにかく今は、ほっときたい。
「一度みてもらっていいか? 秋から幼稚園だし、友達の間で浮かないかどうか心配なんだよ」
「一回連れてきなよ。病院へ行くって構えなくてもいいよ。ホント、あたしのところに遊びに来るって感じでいいからさ。安曇野にあるから」
「そうするわ」
帰りも、方向が同じなので、車で送ってもらった。運転しながら、さらに詳しい話を聞くことが出来た。
「誰かに話しかけるって言うのは、よくあるケースみたいよ。子供は寂しいとき、どこかの誰かを作るのよ。一生懸命作り話をする子なんかもいるよ。でも、誰かになるって言うのはどうかな。・・・・・実際会ってみたら、なにか分かるかも。ナナちゃんとは赤ちゃんのとき以来だね」
「そういえばそうだったけ」
「楽しみにしてるね。あ、上手くいけば美幸にも会えるんだ」
「勘弁してくれよ」
うちに戻ったのは、一時を回ったころだった。都合があえば来週にでも、すぐに七恵を連れて行く約束をして別れた。
七恵は、両親の間で、ぐっすりと眠っていた。横になって、人差し指を口に当てて、彼女は、どんな夢をみているのだろうか。彼女がみている世界はどんなものなのだろうか。
そんなことを考えていると、やっぱり、眠れなくなってしまった。
3
夢を、みた。
仕事で、美幸の病院の夕方の回診までに行けなかった夢だった。それまでに着替えを持ってくるように言われていた。もう日が暮れかける頃で、道が混んでイライラしてくる。
美幸が待っている。七恵も病室で僕の迎えを待っている―――そう考えると、口の中が渇いてきて、胃がキリキリと痛む。
美幸が薬で眠っているために、待合室で僕を待っている七恵の姿が忘れられない。開いた絵本を膝に乗せて、その顔には表情がない。ときおり視線を上げて、廊下の向こうをみている。
美幸がいなくなってからというもの、僕はその姿をよく夢にみる。そうして朝起きて、七恵と顔を合わせるのが、一瞬、憂鬱になるのだ。
僕は、間に合わない夢ばかりみている。それは仕事のせいでもあるし、そこから抜け出られなかった自分の責任でもある。罪悪感なのだ。どうにかしなくてはならない。どうにか。
目が覚めると、時計は九時になっていた。農家の朝は早い。うちに人がいない時間にもうなっている。
上半身を起こすと、入り口のほうに、パジャマ姿の七恵が、立っていた。
僕を見据えて立っている。
その表情は、笑ってはいなかった。
「パパ」
七恵は言った。何か毅然としたまなざしが、僕をみつめている。罪悪感がある。だから余計疑心暗鬼になる。七恵が。美幸が。僕を責めているように感じる。
「・・・・・おはよう」
声が、擦れていた。よく聞こえなかったかもしれない。
七恵は大きくあくびをした。そして、こっちに飛び込んできた。
「こんにちはだよー! パパおきるのおそいー」
「寝るの遅かったから」
「おねぼーさん」
七恵が、僕のお腹の上にまたがってくる。身動きが出来ない。完全にマウントポジションを取られた。
「おひげ生えてきてる」
七恵のちっちゃい手が、顔に伸びてくる。
「やめろって」
「えへへへへ」
親父もお袋も、もういない。僕が起きるまでずっと暇だったのだろう。自分の土地だけではなく、最近は他の畑の仕事もしているようなので、夕方まで戻らないかもしれない。
「こら、やったな」
「わぁ」
両手で軽く、七恵は持ち上がる。抱っこすると、首に思いっきりしがみつかれた。子供の心に付いた傷は、どこで、どうやってみることが出来るのだろう。大人は話さないが、子供は話せないのだ。
こんなに明るく、太陽の匂いがするような七恵の心に、大きな影が落ちているとは、改めて考えてみると信じられない。しかし、そう見えるのだから、深刻なのだと思うと、どうも七恵が不憫に思えてしまう。
「うにゅー」
顔を指で変形させて、七恵が変な顔をしてくる。どこでそんな癖を覚えたのか、どうもこのごろのお気に入りらしい。ほっぺや目蓋を引っ張って、丸顔の七恵は、パンダのニセモノみたいな顔になる。親としては、かわいい女の子なのではしたない真似は、やめてほしいのだが。その顔を見ると、やっぱりおかしくなってしまう。
「変な顔」
「ね、ね、パパもヘンなカオして」
「七恵のほっぺ、柔らかいな」
ふざけてほっぺを引っ張ってやると、七恵に反撃された。柔らかく、そしてちょっと冷たい手。
「あー、パパもヘンなカオー」
目蓋が引っ張られて、僕もナメクジの化け物みたいな顔になっているのだろう。
「やめろって」
七恵を抱いたまま、僕は居間のほうへ行った。
食卓には、七恵がお絵かきをした跡がそのまま残されていた。クレヨンにクーピーペンシル。買ってあげたスケッチブックの紙はなくなって、チラシの裏に、クレヨンで大きな川が描かれていた。
「たーせがわ」
『か』の発音が完全に消えている。
「まだちゃんと言えてないな」
むしろ悪化している。
今日は、午後から仕事をする仲間の店に顔を出さなくてはならない。そのとき、ついでだから、川原のところへ顔を出してみようと思っていた。まだ予定が決まっていないが、正式なカウンセリングでなくても、七恵を紹介するくらいにしておいたほうが、どちらにしても後々いいだろう。
「ナナ、パパご飯食べようかな」
「じゃ、かたす」
「手伝うよ」
大量に描いたようにみえるが、散らかっている紙はそうでもなかった。いらないものは、お袋が始末してくれたのだろうか。よく描けている絵を集めて、ペンを回収する。
ごみを捨てようと、台所へ行ったとき、僕はそこに奇妙なものが置かれているのを発見した。
それは、クレヨンの殴り書きだった。滅茶苦茶に塗りつぶされた赤や、黄。その下は黒。そんな紙が二、三枚あった。
「これも書いたのか?」
「え?」
七恵はきょとんとした顔をしている。ううん、知んない、と首を振った。もう一度聞いてみたが、本当に知らないようだった。
僕は、しばし呆然とした。
これはなにかを表した絵にはみえない。しかし、ちゃんとしたモチーフがないことが逆に怖かった。それが、七恵の生の感情を表現したものだとしたら。赤、黄、黒のモヤモヤ。スモッグのような黒には、よく見ると青と紫が混ぜてある―――さっきみた夢が、また、フラッシュバックしてきそうだった。
一番下にあった紙をみて、僕はもう一度愕然とした。その紙には、クレヨンでしっかりとした字が書かれていたからだ。もちろん四歳児の字なんかじゃない。七恵は、『あいうえお』だって、まともにまだ書けないのだ。そうだ。
これは。
大人の字だ。
それには、こう書いてあった。
『久美ちゃんに この絵をよく見せてあげてください きっと七恵のためになるから』
4
もはや迷っている暇はなかった―――僕は午前中の予定を切り上げて、すぐに川原の勤め先の病院まで行った。
そこは、最近新しく出来た施設で、精神の病をカウンセリングや、よりメディカルな視点から、多角的にアプローチすることを目的としているという。川原の説明がご立派すぎてさっぱり分からないが、心の病の総合クリニックというところだろう。
松本市内では、わりと大きい施設で、こういうビジネスも最近大きくなってきているものだと思ったが、受付で事情を話すと、白衣を着た川原が出てきて、すぐに事情を聞いてくれた。
「・・・・・あたしも、あれから気になったから、いろいろ調べてみたんだけど」
「とにかく、俺もずっと危機感を感じてたんだ。今日の朝のことは、とても尋常な出来事じゃないと思う」
カウンセリング用らしい部屋に通され、僕はすぐに七恵の描いた絵を川原にみせた。それをみて、川原は少し考えたのちに、
「今からでも、ちょっとナナちゃんとお話してみる。いきなりだから、そこまで突っ込んだ話は出来ないと思うけど、出来る限り聞き出してみるから」
とりあえず、二人で話、七恵には、僕が用事の間、しばらく知り合いのお姉さんの川原に構ってもらうと説明することにした。
七恵は、フロントのソファで足をぱたぱたさせて待っていた。
「ナナちゃん、パパ、ちょっと用事ここに用事があるんだ。しばらくの間、遊んでてくれないかな?」
「お姉ちゃんと遊ぼう」
「お姉ちゃん?」
「ママのお友達だったんだ。パパ、行ってくるから、お昼はみんなでいっしょに食べような」
「りょーかい」
「行こう!」
プロなので、さすが、扱いが上手い。
七恵は、喜んでついていった。
僕はしばらく外で時間をつぶすことにした。
煙草を、吸おうかと思った。でも、もう吸わないと決めてしまったので、いざ自販機の前へ行くと、吸う気にはなれなかった。仕方なく缶コーヒーを買って、ロビーで待つことにした。
不安だった。夢をみたせいもあった。七恵のあの絵をみてしまったせいもあった。
あれは僕の不安を象徴するすべてを描いていた。そんな気がした。その下に、置かれていた美幸の言葉。あれは、美幸の言葉だ。川原の名前が、しっかり書いてあった。七恵は、本当にどうにかなっているのだろうか。それとも、美幸が降りてきているのだろうか?
いや、そんなことはにわかに信じがたい。降りてきてくれていたら、嬉しいと考えたこともあるが、もし、そうなら、すぐ七恵に乗り移るのをやめてほしかった。七恵を通した、美幸の瞳が、僕を刺しているような気がしていたからだ。
僕は美幸の身体の異変に、気づくことが出来なかった。
その最期の時間を、満足に過ごさせてやることが出来なかった。
自分が飲み込まれている事態に翻弄されて、家族を守れなかった。
すべて、僕が悪いのだ。熱い毒を含んだ爪が、きつく、僕の心臓を握り締めるようだ。
一時間ほど、やがてドアが開く音がして、七恵が駆けてきた。
「パパぁ!」
「ナナ、ごめんな」
僕は屈んで、走ってくる七恵を抱きとめた。
後ろから、川原がついてきている。彼女は、七恵に笑顔を向け、
「ナナちゃん、絵、上手だね。あたし驚いちゃった」
と、言った。
「お姉ちゃんと遊んだか」
「うん!」
「またお姉ちゃんのこと描いてね」
「うん、いーよぉ! 描いてあげる」
「川原、ありがとな」
「うん。美幸の子供だしね。ナナちゃん、ママにそっくりだね」
「そっくりかなぁ?」
七恵は首を傾げている。
「憶えてない?」
「そっくりかも」
うーん、と考えてから、七恵は言って、けらけら笑った。なんだか分からないが、その言い方がおかしかったみたいだ。癖になったらしく、もう一回、言った。
「そっくりかも」
「ね、ナナちゃん、お姉ちゃん、パパとお話があるから、ちょっとここで待っててくれないかな。すぐ戻ってくるから」
「待ってるの?」
「ナナがお世話になったんだから、パパはお姉ちゃんにお礼しなきゃならないだろ? もうお昼にするから、待ってな」
「カイリ?」
そう、というと、川原はノートに、『解離』という文字を書いた。離れていく、ということだろうか。どういうことなのだろう。
「あくまで可能性として、だけど」
「どういうことなんだ?」
「簡単に言ってしまえば、現実逃避の感情なの。なにか、とても辛いことや、悲しいことがあったとき、人間はそれを乗り越えようとする前に、やり場のない感情をどこかへ逃がすの。大人でもあるでしょ? お酒を飲んだり、旅行へ行ったり」
「ああ、ある」
「それは心理的なスウィッチを作って、そのきっかけによって気持ちを切り替えることなの。気分転換っていえば、わかりやすいかな。芸術家なんかは、辛いことがあると、その感情を創作にぶつけたりするでしょ? でも、それも出来ないときって、どうすると思う?」
「・・・・・・・・・」
考えてみたが、わからなかった。救いを求めて、川原を見直した。
「どうするんだ?」
「今度は、自分自身から逃げるのよ。今、こんな辛い目にあってるのは自分じゃない、ほかの誰かなんだって。そうして、自分の中に別の誰かを作って、自分じゃないって思い込むのよ」
「つまり、どういうことだ?」
「別の人格が現れるの」
つまり―――多重人格障害? 映画かなにかで見た言葉が頭に浮かんだ。そんなことはにわかには信じられなかった。なにかの冗談だろ。僕の表情を察したのか、川原はあわてて、説明をついだ。
「もちろん、それだとは断定できないけど。ナナちゃんの場合、実在した人物が出てきているから。ただの妄想だったりする可能性もあるし」
「別の人格なのか?」
わからない。でも、可能性はあるかもしれない、ともう一度川原は慎重な言い方をして、
「多重人格障害というと、サイコホラー映画とか、小説のイメージがあってあんまりよくないけど、今は、解離性同一障害って呼んでる。NHK特集とか、テレビでもちょくちょく取り上げられているから、見たことはあると思うけど」
なにもわかっていない病気じゃないから安心して。と、川原は、僕を励ましてくれた。
「ナナは、お前の名前を書いてたけど、それも別の人格の仕業なのか?」
「一度あったり、美幸が話したりしていたから、そのときに憶えたのかも知れないわ。ナナちゃんが覚えていなくても、潜在的に憶えていることがあるの。例えば、アメリカのある解離性同一障害の患者は、別人格が現れたときに、ラテン語を話したそうなの。彼女の両親はもちろん、彼女も、ヨーロッパに行った経験すらなかったそうなんだけど」
「どうしてなんだ?」
「調べてみると、彼女の父親が悪魔を信じていて、うちの中でそういう儀式をして、幼い彼女を虐待したらしいの。そのときに、悪魔の呪文がラテン語だったから、それを覚えていて」
「・・・・・・・・・・・」
「解離の原因は、虐待がきっかけになることが多いわ。子供は家庭を中心に生きているから、そこに嫌なことがあると、どこにも逃げるわけには行かなくなってしまうでしょ」
「俺は虐待なんかしてない」
美幸だってしてない、そういうと、わかってる、と川原はうなずき、
「解離は他のことでも起こるわ。逃れられない孤独や、寂しさがきっかけになるの。ある症例で、解離性同一障害になった人のケースでこんなのがあるわ。その人は幼いころ、家族を失って、解離してしまったの。普通は、解離するのには時間がかかるんだけど、その人は、直後に解離してしまったそうなの」
「それは?」
「―――その人は目の前で、家族全員を戦車で踏み潰された。それで一瞬で解離してしまったんだって」
そんなひどいこと―――言いかけてから、僕は、思い直した。俺たちはそんなひどい目に、七恵を合わせたりなんかしてない。そう言おうと思ったのだ。
でも。僕は、七恵に長い間寂しい思いをさせた。美幸が死んでから、仕事を辞めるまで、僕は、七恵を一人にしたのだ。昼間は幼稚園で過ごし、夜中に帰ってくる僕を、待たせた。七恵にとって家族は、僕と美幸の二人だ。その二人が、七恵の前からいなくなってしまった。そのショックは計り知れないはずだった。それに気づくのが、僕は遅かったのか?
「どうすれば治る?」
僕は聞いた。
「今は、カウンセリングがもっとも有効な手段になっているわ。SSRIとか、薬物での治療もあるけど、再発したときのことを考えれば、カウンセリングが一番いいと思う」
「再発するのか?」
「心の癖みたいなものだから、また違うきっかけでなることもあるわ。でも、上手く付き合っていけば、大丈夫。その他の神経症もみんなそうよ。鬱病だって、完治することはない。上手く、その症状が出ないように、心を自分でコントロールする術を学ぶだけなの」
「具体的にはどうするんだ?」
「分裂した人格の中に、必ず保護者のような人格がいて、その人と話して、徐々に人格を統合していくの。人格が分かれたって言うと、すごく深刻に聞こえるけど、いろんな感情を分担するパートがバラバラになったと思って。楽しいこと、嬉しいこと、悲しいこと、怒り、孤独、そして、その中に冷静に、これじゃだめだって思っている人格もいて、その人とお話をするの。特に危険な薬とか、そういうのは一切使わないから、安心して」
病気なのか。
うすうす思っていたが、本当にそうだと聞くと、心が苦しくなる。それも、そんなに深刻な病気だったのか。
僕がため息をついていると、川原が出がけに、言ってくれた。
「でもくれぐれも言っておくけど、まだそれと決まったわけじゃないからね。解離した人格の中で、実在の人物が出てくるケースはないの。だから、違う可能性もあるし、それは判らないわ。判断が難しい病気なの。日本では、まだ学術レベルでは、否定派が多い病気よ。あたしも、アメリカへ留学して、この目で患者を見たから、そうやって言えるだけだし」
お昼は三人で、蕎麦を食べた。
七恵は、とても嬉しそうで、川原に懐いて、はしゃぎすぎて蕎麦猪口をひっくり返して、僕に怒られた。
帰りの車の中では、お腹いっぱいになったせいもあって、七恵は眠ってしまった。軽く雨が降り始めていて、車内には、雨が柔らかに地上を包む音だけが、さやさやと続いていた。
七恵に、楽しかった? と聞こうと思っていた。
「うん」
と、七恵は、にっこり笑って答えるだろう。そして、僕には七恵から分かれたパーツの、暗い部分を微塵も感じさせないだろう。
長い間。七恵は一人で待っていた。美幸が亡くなってから、一年も。その間、僕は七恵から、さみしい、という言葉を聴いたことはなかったし、こちらからも怖くて聞けなかった。すぐに仕事を辞める勇気が、僕には必要だったんじゃないか? 今さら思う。
七恵の感情を割り砕いてしまったのは、僕だ。それは、逃れられない事実だ。
どうすればいい? と思う。
すぐに答えは出るはずもない。ただ、七恵が元に戻るまで、僕は七恵といなければならない。それだけは、なにがあっても、どうなっても、守り通そうと思った。
うちに帰ると、母親が待っていた。
「あんた、田山さんて知り合いの方が、連絡欲しいってよ」
「うん、仕事のことなんだ。後で連絡するよ。それより、親父にも伝えておいて欲しいんだけど」
僕は、七恵のことを、出来るだけ詳しく語った。
精神科へ行ったということで、両親が受けるショックを理解したうえでの選択だった。
僕は、カウンセリングにお世話になった経験があるので、抵抗はなかったが、やはり、七恵がまだ子供だということと、こういう田舎では、精神科に通うというイメージがよくないことを考えると、話すべきではなかったかもしれなかったが、言わないでおくことは、卑怯だと思った。
確かに母親も、七恵のことを聞いて、ショックを受けた。しかし、後で少し考えて、
「この一年、あんたも大変だったと思うけど、七恵ちゃんはもっと大変だったのよ。あたしもたまに預かったりしたけど、思ってることを我慢したりしてて、この子大丈夫なのかって思ってたんだよ」
「これからは俺も七恵と一緒にいようと思うよ。仕事は秋からだから、この夏は七恵と遊んでやろうと思うんだ。とにかく、長く見守っていくしかないみたいなんだ」
「お父さんには上手く話しておくよ。あの人も、うすうす感づいてたと思うけど、黙ってたんだよ。あんたやあたしには一言も聞かないけど、なんとなく分かってるんだろうね」
僕は、七恵から逃げるわけにはいかない。その決意の意味でもあった。
5
それから、何日か、七恵は何事もなく過ごした。
僕がつきっきりでいることで、彼女の精神は安定したのかもしれないし、ちょっとした小康状態なのかもしれない。それは、僕にはわからない。
なにしろ、心の病気だ。素人判断では、断定しがたい。それに、七恵は、身体が悪いわけじゃないのだ。僕は心配が過ぎると思ったら、そういうふうに自分でブレーキをかけることにした。自分までまた鬱になってしまったらしょうがないし、七恵に不自然さを感じさせてはいけない。
両親とも、その辺は上手くやってくれているらしかった。七恵は毎日楽しくて、ぐっすり寝ている。本当に、実際体験しなければ、こんなかわいい四歳の女の子の心にどんな傷がついているのかなんて、想像もつかないだろう。
七恵を川原のところへ週に一回、寄越しながら、僕は七恵と出来るだけ過ごすことに心を砕くことにした。
川原が言うように、七恵は、ちゃんと大人の言うことを理解していて、ときに、それで自分の主張を引っ込める傾向があるという。川原には、パパは忙しいんだからしょうがなかった、というようなことをしっかりと言うのだった。ママが死んでしまったことも、理解していると言う。
でもそれはやはり、大人の理屈を反芻しているだけなのだ。
美幸が出てくるのが、治まらないのもそのいい証拠だ。うちでは滅多になくなったが、それでも、母親の人格は出てくると言う。二言、三言、それは会話になるほどの瞬間でなく、川原も苦労しているようだが。
分かったような言葉だけが、七恵の中で先走り、感情を押しつぶしているだけで、七恵の本当の気持ちを言葉にして、僕に伝えていけるように、僕は努力しなければならなかった。
まずは、親としての感情を、ちゃんと娘の七恵にぶつけるところから始めてください、と川原は言った。かわいがるときはかわいがって、怒るときは、怒る。それでも納得しないときは、向かい合って、納得するまで話すようにして欲しい、それが川原の処方箋だった。
僕は川原の処方箋の通り、日々を過ごした。考えてみれば、当たり前のことなのに、そのとおりするのに、すごく神経を使う。まるで僕は親として、地に足がついていない、いい証拠だ。
たまに、七恵の身体を強く抱きしめたくなることがある。今の自分の言葉が、七恵に本当に通じているのか、腹立たしくなることがある。
そんなとき、感情を上手くコントロールできない自分が、また、七恵を傷つけてしまうんじゃないかと、気が気でなかった。七恵の我がままを、親としての心構えもなく、ただ受け入れてしまっている自己嫌悪とともに、それは僕の中で、たまに人知れず、暴走した。
例えば、この前もこんなことがあった。
七恵を、キコちゃんのところへ遊びに行かせたときのことだ。七恵とキコちゃんが遊ぶときは、大抵が、うちに来たり、僕が色々なところに連れて行ったりして遊ばせるようにしている。
七恵のことが単純に心配なのもそうだが、七恵が友達の前で、なにかおかしなことを言ってしまうのではないかと思うと、どうしても自分の手元で遊ばせようと気になってしまうのだ。
七恵は、キコちゃんと、マコちゃんの二人で、部屋で遊んでいた。その間、僕は、実家で最近栽培している駄々茶豆をキコちゃんのお母さんにおすそ分けして、雑談をしている途中だった。
急に、隣の部屋で声が上がった。
僕は、すぐにそこへ駆けつけた。七恵が、キコちゃんとケンカをしているところだった。
「ナナちゃん、ずるいよー!」
マコちゃんに話を聞くと、三人でおままごとをしていたのだが、七恵がずっとひとつの役を譲らずに、ケンカになったらしい。
「ナナちゃん、ずっとママやってるんだもん」
どうやら、ママになると、赤ちゃんの人形をずっと抱けるらしい。七恵がずっとひとつの役をやってるので、その人形は七恵が独り占めしている形になってしまったのだ。
「七恵、キコちゃんのおもちゃだろ? ずっと一人で持ってちゃだめじゃないか」
七恵は、本当に機嫌が悪くなると、じいっと黙り込む癖がある。このとき、僕が七恵からおもちゃを取り上げようとしたときも、彼女は下をみてうつむいたままだった。キコちゃんが抗議する声だけが響いている。
「ほら、七恵、キコちゃんに返しなさい」
僕は、七恵の手から、それを離そうとした。しかし、彼女は相変わらず、それを離そうとしない。
「七恵」
僕は、少し低い声を出した。
「離しなさい。キコちゃんに謝りな」
ほら。
僕の声に、七恵が顔を上げた。相変わらず、黙ったままだ。
「七恵」
「いらない」
七恵はそういった。突き返すように、僕に手に持っていたおもちゃを返した。
「こんなのいらないもん」
「七恵!」
僕は思わず、大きな声を出してしまった。辺りが静かになり、しばらく沈黙が走った。
「いい加減にしなさい」
僕は言った。七恵はそっぽを向いたまま、何も言わなかった。
「こっちを向くんだ」
「やだ」
「やだじゃない」
僕は、七恵の肩に手をかけた。
その手を振り払われた。
「やめて!」
そのとき。
僕は、七恵の顔をみた。七恵の目は、僕をまっすぐ見詰め返していた。毅然として。強く。七恵じゃない。それは。
美幸だった。
その瞬間、僕はついかっとなり、七恵の頬を叩いた。途中で、あっと思い、力を加減したが、ぱちん、と大きな音が響いた。
「・・・・・・・・・」
僕は、何を言う気力もなく、立っていた。ただ、赤く腫れた七恵の顔をみていた。
やがて、七恵が火のついたように泣き出した。僕は、人形をキコちゃんに返すと、七恵に言い聞かせた。
それから、二人はお互い謝って、仲直りをしてその日は別れたが、帰りの車の中で、よくよく話すと、七恵はこんなことを言った。
「ナナね、ママになりたかった」
そのとき、僕は、返す言葉がなかった。
七恵は、別に人形が欲しかったからじゃなく、ママになりたかっただけだと知ったからだった。後で聞いた話によると、七恵はすごくよくママを演じていたらしい。一日の予定を細かく決めて、こまめに子供を見守るママ。七恵の中にいる美幸のことだろう。
「そっか」
すごく時間が経って沈黙が続いてから、僕は、ようやくそれだけ返すことができた。
「痛かったろ」
僕は、少し熱を持った七恵の頬を指でさすった。それしか出来なかった。
「ごめんな」
七恵の頬の涙を通った跡。僕の指が、濡れた。
「パパ、・・・・・・ナナもごめんなさいだった」
七恵は、ようやく、それだけを言った。もう一度、暖かい涙が、同じところを流れた。
他の親だったら、こんなとき、子供になんて言ってあげるべきなのだろう。なにも答えられなかった僕はどうすればいいのだろう。あのとき、僕は、美幸が出てきたのだと、勘違いしてしまった。そして、衝動的にとはいえ、娘を叩いてしまった。
どうしたらいいのか。
答えは出なかった。
そうして、美幸ならこんなとき、普通の親ならこんなとき、という百点を目指そうとする感情が、ときに世界中のどの親よりも自分は劣っているんじゃないかと、自分をさいなんだ。美幸の遺影の前でぼーっと佇んでいる自分に気づくこともあった。
こんなことで、七恵と付き合っていけるのか、自分でも不安なまま時間だけが過ぎていった。
6
「キコちゃんとおよぎにいく」
ある日は、七恵の希望で、幼稚園の庭で知り合ったキコちゃんと、川遊びに行った。去年買ったはずの水着が見つからないので、僕は七恵に、水着を買ってあげた。七恵の好きな、青の、フリルのついた水着だ。
車で、キコちゃんとそのお姉ちゃんを拾って、早くに出かけた。小学五年生のキコちゃんのお姉ちゃんは、マコちゃんという名前で、とってもしっかりした子だった。
「忙しいところ、どうもありがとうございます」
ツインテールの髪の毛を、黄色いリボンで束ねたマコちゃんは、僕に会うとそう言って、きちんと頭を上げた。僕がこのくらいの年のときに、ちゃんと言えただろうか。親御さんの教育がいいのだろう。見習わなくてはならない。
「たーせがわ」
「高瀬川」
聞いていると、キコちゃんもそういっている。七恵のが彼女に伝染ったのか、それとも逆なのか。むしろ二人で楽しんでわざと言っているようにもみえる。
「高瀬川だよ」
お姉さんのマコちゃんが行く道で、何度も教えていた。
川では、小学生くらいの男の子が何人か集まっていて、飛び込んだりして遊んでいた。この川は、この辺りなら、小さい子のお腹くらいまでしかない。
下に水着を着込んできた彼女たちは、すぐ服を脱いで、川の中へ入っていった。浮き輪をつけていった七恵と、キコちゃんがすぐに水かけっこを始めた。川の水は、思ったより冷たくて、二人とも、キャーキャー騒いでいる。
「つめたいよー」
キコちゃんは、スイミングスクールに通っているらしく、顔をつけてバタ足が出来ると、自慢していた。
「じゃ、かおつけしよ」
自然に、そういう話になってくる。
七恵は、水の中で息を止めるということを知らない。うん、と言ったはいいが、キコちゃんの言うとおり、顔つけをすると、鼻で水を吸って泣きそうな顔になって出てきた。
「はだ、いたい」
鼻痛いっていうことだろう。鼻水が出ている。
「ナナちゃん、いきすっちゃダメだよー」
「キコちゃん、マコちゃん、七恵に教えてあげてよ」
僕は、岸辺に座ってその様子をみていた。実を言うと、僕もあんまり泳ぎに自信がない。親のひいき目というやつでみれば、美幸の運動神経が良かったので、そっちを受け継いでいればあるいは、と思うのだが。
七恵は苦戦しているようだった。そう言えば、昔、自分も心で思って口では言わないという感覚と、息を止めるという感覚が分からなかった。だから思っていることは、すぐにひとり言になって出たし、顔つけは何度やっても、鼻が痛かった。
こういうことは、いつ学ぶのだろうと、思う。息を吸うことで言えば、まず僕たちが息をいつも吐いて、吸っている、それを意識するところから、始めるのだろうか。僕には、覚えがない。
そうすると、大切な人が、死んでしまうという感覚も、いつ学ぶのだろう。それは自分が生きていて、死んでしまうということから、学ぶことは出来ない。一回死んだら、もう戻ってこれないからだ。そして死ぬのは誰かなのだ。誰かの死を知ると言うことは、どういうことで、どうやって学ぶのだろう。
ポケットの中で、不意に携帯のバイブ音がした。僕は、七恵を二人に任せて、土手に引き上げると、着信に出た。
それは、田山からだった。
田山は高校時代の悪友だ。今は旧軽井沢の通りで、インテリア関係の店を開いており、僕はその店の事務員として、働くことになっていた。
「あれから連絡がないから、困ったぞ」
そういう、電話だった。
「他のところが決まってるんだったら、早くそう言ってくれ。こっちは今すぐにでも、経理や、もろもろできる事務員が欲しいんだから」
「悪いな。その話だけど、しばらく待ってくれないか」
電話からは怪訝そうな声がした。
「お前がやりたいって言うからおれは待ってるんだぞ。―――一応、お前の腕を買って言ってるんだからな」
お前の腕を俺は買ってるんだ。
買うほどの腕でもないが、鈴木はそう言ってくれた。まがりなりにも、業界大手の人材派遣会社で、勤めてきた僕の実績を買ってくれているのだろう。だが実績というほどのものはない。ただ、無理をして、三年も、人の期待に応え続けてきただけだ。本当に期待に応えるべき家族の助けを放棄してまで。
「まだいろいろ整理がつかないんだよ。抜けるとなると、後処理も多くてさ」
「いろいろあるなら、まあ詮索はしないけど、とりあえず九月から、お前入れるんだな。これ以上は待たないぞ」
「ごめん。忙しいところ悪いな」
「いいさ。気にすんな。しかし、かみさんの葬式から一年か。引越しやらなんやらで立て込んでるみたいだしな。ただ、今回みたいにちゃんと連絡だけはかかさないでしてくれよ。整理がついたら、一杯やろうぜ」
電話はそういって、切れた。
九月からか。秋になったら、七恵も幼稚園へ行くことになるだろう。そうしたら仕事も始めなくてはならない。でも秋までに、七恵の心が元に戻る保証はない。そうやって、また七恵から離れていくことになってしまうのか。
「パパー!」
土手の下から、七恵が呼んでいる。
「ナナ、かおつけ、できるようになったよー」
「すごいんだよ。キコが教えたら、すぐ出来るようになったの」
「みてみてー!」
「そりゃすごいな」
降りていくと、七恵は、顔つけをみせてくれた。
「もぐったときにね、いきをふーって鼻からふくんだよ。そしたらね、もぐったとき、鼻いたくないの」
「そっか。キコちゃんに教えてもらったの? それ」
「んーん、ナナがかいはつした」
七恵は胸を張っていった。
「キコが教えたんだよー」
キコちゃんが抗弁する。
すると、七恵はちょっと考えて、言った。
「じゃ、キコちゃんのからとって、ナナが、かいはつした」
どっちなんだ。
七恵は、ずっと、自分の開発した技を自慢していて、お風呂のときも、顔つけをしていた。ただ、実家の風呂は熱すぎて、高瀬川で出した最高記録十五秒を更新することは出来なかったが。
そうだった。
息を吸って吐くことを知って、そして、止めるんじゃなくて、まずは鼻が痛くならないように、鼻から息を吐く。問題はとにかく、顔をつけても鼻が痛くならないことなのだ。
こうやって、子供はひとつずつ、大人よりも本質を素直に捉えて、目の前の問題を解決していくのかもしれない。今僕を構成している常識の一つ一つも、ケース・バイ・ケースで、さまざまな実験を経て、法則性を導き出したものなのだ。
だから、親がすべて子供に教えようなんて、おこがましいことだし、ありえないことだ。僕は今まで、七恵に失敗しないように、傷つかないように、すべての解答を、自分で用意しようとしていたのかもしれなかった。人生を三十年も生きていないような若造が、一度の失敗もなく、生きてきたわけじゃないのに、どうして、こんなことを考えたのだろうと、思った。
鼻から水をくらって、それから、考えればいい。
まがりなりにも大人になって、僕は今まで自分がきた道と、七恵がくる道を錯覚して、解きあきたパズルのように思っていたのかもしれない。そして、自然と、これからの自分の人生でさえ、そんなふうに考えていた。失敗すれば終わりだと。これ以上、失敗するわけには行かないと。
逆に、子供に、救われた。
七恵と、それに自分と向き合うためになにをすればいいのだろうか。僕は、その晩、七恵が寝た後も、そんなことを考えていた気がする。
7
「旅行へ行く?」
いいんじゃないかな。
川原もすぐに賛同してくれた。
七恵は、すっかりこのクリニックに馴染んでいる。今も、不眠症でカウンセリングを受けている高校生の女の子に、ロビーで構ってもらっている。きゃっきゃっと、ときにうるさい叫び声が、廊下に響いて、僕に何度も注意をされた。
「気分転換にもなるし、ナナちゃんも喜ぶと思うけど」
「それでお願いがあるんだけど」
「なにか?」
「三人で行きたいんだ」
「あたし?」
川原は自分を指して、変な声を出した。
「いや、違う。美幸と七恵と、三人で行きたいんだ」
「その三人か」
川原は、息をついた。
「無理かな」
「無理ってことはないけど」
川原は立ち上がると、診療記録をみせてくれた。それは、日記のような川原の私記で、事細かに、七恵のことが書いてあった。
「まだあたしも美幸の人格とちゃんとお話したのは、何回もないな。それも、ちょっとした会話だよ。最近あたし、思うんだけど、ナナちゃんは解離性同一障害じゃないのかも知れないよ」
「本当か?」
僕は思わず身を乗り出した。
「美幸の人格と会話が噛み合わないの。あたしがなにを話しても、よく寝たのとか、ちゃんと食べないさいっていうようなことばかりで、何か、ナナちゃんと会話しているみたいなの。それに何度か試みたけど、美幸の他に解離した人格が顔を出すことが一度もない。大学の恩師が、解離性同一障害の日本での研究の第一人者なんだけど、これはどの症例に当てはまらないケースだって」
「深刻なのか?」
「美幸が出てきたときの、会話を録音してあるの。いくつか、聞かせようか」
川原はそう言うと、テープレコーダーを持ってきた。
一番古いものをまず聞いた。それは、最初のカウンセリングのものだった。川原と話していると、突然、七恵の口調が変わり、美幸が入ってきたというところだ。
『ナナちゃん、どうしたのかな?』
これは川原の声だ。
あー、とか、うー、とかの声にならないうめき。これは七恵のものだ。そこから、口調が変わった。
『トイレでしょ。ちゃんといかなきゃダメじゃない』
『トイレ? トイレに行きたいの?』
川原の声。それに応える様子は、ない。
『ナナはずっと我慢してるんだから。わかった? すぐにしたくなったら、ママに言いなさい』
テープノイズ。
七恵の声に戻った。
『はーい・・・・・・・せんせ、ナナ、おトイレ行ってくるね』
もうひとつは、この前のカウンセリングのものだった。お絵かきの途中で、七恵が言う。
『お山があって、こっちがおじいちゃんおうち。ナナのおじいちゃんのおうちだよ。ちゃんと描かなきゃね』
『美幸?』
ここでも、川原が呼びかけている。
『美幸でしょ』
『赤い橋があって、おっきな川が流れてるでしょ。こっちに町があって』
『美幸』
物音がした。レコーダーがずれたのだろうか。椅子が動いたのだろうか。
『せんせ、できた』
七恵の声。何事もなかったかのように、言った。
最後のひとつは、七恵にお母さんの話を聞いているときに美幸が出てきたものだ。
『すぐママが迎えに行くから、支度して待ってなさい。ちゃんとお着替えして、先生にさようならって言うの』
『美幸でしょ。久美よ。川原久美』
川原の問いかけにも、返事はない。
すぐにまた、七恵に戻る。
『ママがね、今から迎えに来るって』
「会話になってないでしょ。これは、人格が交代したんじゃないのかもしれない。すでにあったことを、ナナちゃんが再現して話しているのかも」
「どういうことなんだよ?」
「わからない。幼児期にある、妄想なのかもしれないけど、とにかく、ナナちゃんは心のどこかでは、やっぱりママがそこにいると思い込んでいるの。それで無意識に知らない間に一人二役をこなしている」
「そんなことありえるのか?」
「ないとは言い切れないよ。こんなケースは初めてだけど、ナナちゃんは、ナナちゃんが記憶している限りの、美幸の姿を忠実に再現してるのね。会話が噛み合わないことから考えても、まちがいないと思う。解離性同一障害の可能性は、ここでは低いと考えられるわね」
「治る可能性はあるのか?」
「それは、解離と同じで、前にも言ったとおり、心の癖みたいなものだから、徐々に改めていくしかないのは、変わらないわ。ただ、これだけは言っておくけど、この症状は、解離と同じきっかけで出てきたものよ。つまり、自分では解決できない孤独」
孤独、という言葉が、いまさらながら、胸に突き刺さった。
思わず、むきになって、言ってしまった。
「わかってるよ」
「美幸が亡くなってから、あなたが仕事を辞めてこっちにくるまで、ナナちゃんは一年間、一人で過ごしたに近い状態だった。そのときに心の中に、知りうるかぎりのママの記憶を呼び起こして、美幸を創りだした。そう考えるべき」
「だから、七恵と、美幸と三人で旅行へ行きたいって言っただろ」
なんか方法はないのかよ?
そう聞くと、川原はしばらく考えていたが、
「思いつかないな。・・・・・思いついたら、あたしだって実行してるもん」
「そうだよな」
僕は肩を落とした。
いいアイディアだと思った。七恵と僕と、そして七恵の心の中にいるはずの美幸が、向き合うのに、こんないいチャンスはないのに。肝心の美幸と話が出来ないと言うのにも、がっかりしたが、そもそも七恵の中の記憶でも何でも、僕の前に出てこなければ、話にならない。
無意識に、僕の前では、封じ込めているのかもしれない。僕に心配をかけないことが、七恵の心の扉に厳重なロックをかけている。
ただ、それにしてもアイディアはいいと、川原は、言ってはくれた。
七恵と、その中の美幸の記憶を取り出して、もう必要ないと七恵自身が判断すれば、美幸は消える。僕と七恵が、美幸と向き合うことで、もう一度美幸の死を今度はきちんとした形で受け止める意味で旅行へ行くのは、意味があるだろうと、川原は言っていた。
美幸の仏壇の立ち、心の中で相談してみる。
美幸の声がするようだ。
「あなた、心配だもん」
死んでからも、美幸に心配をかけるとは、思わなかった。
「パパ、元気ないなー」
シートの上で、まだ元気が余っている七恵は、もじもじしている。さっきからずっと落ち着きがない。いつもは車の中で三十分もすれば眠くなってしまうのに。川原と夢中で話していて、七恵の眠い時間を過ぎてしまったのだろうか。
「元気なくないよ」
僕は思わず、こう答えた。答えてから、なにか適当な理由を言おうかと思ったが、突然出てこなかった。そういったきり、なんか不自然に黙り込んでしまった。
「おなかすいた?」
七恵がまたシートの上で動いた。シートベルトがあたる感触が、なんかよくないらしい。
「お腹空いたね」
七恵の言葉が助け舟になった。僕は、話を合わせた。
「ナナもおなかすいたー」
「早く、うちに帰らなきゃね」
そう言ってから、買い物を頼まれていたのを思い出した。七恵もよく食べるし、買出しに行く回数が増えて困ると、母親がこぼしていた。
「買い物行かなくちゃいけないんだった」
「スーパー?」
「うん、そういえば、帰りによる予定だったわ」
「なに買うの?」
「おばあちゃんに頼まれたもの。七恵、なにが食べたい?」
「うーん・・・・・ナナはね、別に、なんでもいいよ」
七恵はそう言ってから、
「やっぱガム食べたい」
と、言い直した。
「ガムはご飯じゃないだろ」
「じゃ、やっぱなんでもいい」
ガムがあればいいんだな。
「でもねー、ガムかアメがいい」
「んっと、卵と牛乳と、後はなんか言われてたかな」
「ガム」
「・・・・・・ナナ、は憶えてないよな」
「ガムー」
七恵は、あてにならない。やっぱり電話をして聞いた。
帰ると、二人とも帰ってきていて、すぐ夕飯になった。七恵は父親に抱きかかえられて、ご飯が出てくるのを待っていたが、買ってきたフーセンガムが気になって、目が泳いでいた。
ビールに枝豆、それにオクラが出ている。オクラは、さっと煮て、冷たい天つゆにつけ、冷蔵庫で冷やしたもので、最近親父が凝っているおつまみだった。うちで採れた旬のオクラは、信じられないほど柔らかくて、七恵も喜んで食べる。
「お前、美幸さんの一周忌はどうなってる?」
その席上で、親父が急に話をしだした。
「お盆の一周忌は盛大にしないとな」
「もう考えてるのかい?」
ビールのおかわりを持ってきた母親も話に加わった。
「そのことなんだけど」
葬式は、盛大だったことは憶えている。でも、盛大すぎて、実感がなく、僕には課せられた仕事のようにしか思えなかった。
あの頃、僕は仕事にも追われていて、それに美幸の死が重なり、まともな思考力もなかった。だから細かい段取りや、全体的な指揮は、親任せで、僕はそれに唯々諾々と従うだけだった。弔辞ですら、なにを読んだのか、まともに読めたのかすら、憶えていない。
ただ、美幸の死とも関係ないような、多くの人が入り乱れる様をみて、思っていた。美幸の死を悼むのなら、必要な人だけがいい。会社の人間も、知らない親戚も、金ずくの坊主も必要ない。誰かの接待をするための式なら、そんなものはいらない。本当に美幸の死を悼んでくれるもの以外の人間の都合で、葬式など開きたくは無い。
とにかく、放っておいてくれ。
「盛大にやる気はないんだ。ただ、迎え火をして、お参りも、身内の人間だけですれば」
「そういうわけにもいかないぞ。一周忌のお盆なんだから」
「もうそういうのは嫌なんだ」
「そんな子供みたいなこと言って」
「美幸の両親はもういないんだ。こちらで好きにやってもいいだろう」
「葬式だって、いろんな人から出してもらってるんだ。それじゃ通らないこともあるんだぞ」
両親は納得顔ではないようだった。確かに、田舎では外聞もよくないだろう。でも、葬式には付き合ったようなものなのだから、今年は自分で美幸を悼みたいと思った。
「迎え火は、ナナと行くよ。ほかの人は必要ない。それが一番いいだろ」
迎え火か。
僕の中に、ひとつの考えが浮かんでいた。
「迎え火はいいと思うな。試してみる価値は、あるんじゃないの?」
寝る前に川原に電話をした。迎え火をすれば、七恵の中の美幸が出てくるんじゃないかという僕の意見だった。
「でも大丈夫なの? 一周忌でしょ?」
「美幸の実家にはもう両親はいないし、大丈夫だ。命日は八月の末だから、そのときになったら、呼びたい人だけ呼ぶよ」
「それがいいかもね。で、あたしは呼んでくれるの?」
「・・・・・・呼ばないわけないだろ? で、迎え火も付き添ってくれないかな」
「あたしは・・・・・ちょっと予定があるから申し訳ないけど。それに、あなたの前に美幸が出てきてくれなきゃしょうがないんだから、誰かがいるより、二人きりのがいいと思うんだけど」
「そうかなぁ・・・・・・・」
「あなたもちゃんと美幸の死と、向き合うべきだから言ってるの。ずっと後悔してたんでしょ。肝心なときに力になれなかったって」
「そうだな」
僕は、美幸と最期の思い出など作れなかった。臨終のとき、どうしていたのかも記憶にない。いや、記憶はあっても、実感がないのだ。思うに、あのときから僕は、美幸や七恵から本質的に逃げているのかもしれない。こうして肝心なときに自信がないのは、そのいい証拠じゃないか。
「そのまま旅行にでも行けばいいじゃん。て、言うか、気楽に美幸に会えると思ってさ。美幸が出てこなければ、ナナちゃんを喜ばせてあげようって思うだけいいじゃない」
「・・・・・・・・・・」
「本当に辛いって思ったときには、しなきゃいけないって思わなくてもいいんだよ」
「それ、医者に言われた」
「あたしも医者なんですけど」
「だったっけ」
「健忘症の気ありだね。君もクリニックにきなさい」
「くっ」
「病気のふりしないでよ」
「いや、違う。七恵にヘッドロックかけられた」
七恵の小さな腕が、後ろから僕の首に絡んでいる。妙に乱暴になってきたのは、女親がいないからだろうか。男親としては、胸の痛いことだ。
「パパ、遊んで遊んで遊んでー」
「苦しいよ。パパ電話してるんだ。すぐやめないと・・・・・」
七恵の腕を引っ張って、そのまま前へ抱きかかえると、僕は、七恵の弱い脇をくすぐってやった。ひゃーひゃー言いながら、七恵は足で抵抗していたが、足の裏もくすぐってやると、ようやくギブアップした。
「パパくすぐるのだめー。それ、はんそくだよー」
七恵は布団の上で、ぜーぜー言いながら、抗議している。反則を抗議するなど、最近ボキャブラリーが増えてきている。
「ああ、とにかく、こんな夜中に電話して悪いな。余計なこと考えずに、行ってくるよ」
「うらやましいな」
川原の声。
「たまーに鬱陶しくなるけどな。しつこいから」
「その調子だよ」
七恵の反撃が始まった。今度は布団を使った、おとり作戦だ。
「ありがとな」
気楽にやるのがいいのかもしれない。世の中に、百点の対策などないのだから。
8
僕は花火を買いに言った。迎え火をするのに、新聞紙の炎だけじゃ空しいと思ったからだ。そのまま旅行へ行くことになっている。場所は迷ったが、シーズンのせいもあり、美ヶ原や車山を巡って、県内の旅行にしようと思っていた。
七恵は花火もできて、旅行にも行けると、おおはしゃぎしていた。今も、普通の花火より五○○円も高いセットをつかんで離さない。
「ナナはさぁ、打ち上げ花火がいいの。これ、ナナが火、つけるからね」
「ちょっと怖いな」
「火はぜんぶ、ナナがつけるんだからね」
七恵は、ここだけは譲れない、というように何度も主張した。
これはよくみてないと、恐ろしいことになりそうだ。
両親は、一周忌のお盆についてこだわっていたが、僕にその気がないのが分かると、もう何も言わなくなった。ただ、一周忌の命日だけは盛大にしたいと言ってくれたので、それだけは協力を仰ごうと思った。
美幸との共通の友人たちからの問い合わせはいくつかあったが、事情を話して、来てもらうのは命日ということにした。ただ、美幸の両親の墓には、その三日間で参ろうと考えていたので、美幸方の親戚には僕たちが顔を出す旨、連絡しておいた。
今年は暑い日が続いたが、夜だけは涼しい。陽射しがなければ、この辺の空気は水辺だから、気温が他より涼しいということもあるだろうが。
八月十三日の夜は、そんな日だった。
「帰ってきてから、出かけるのね?」
母親が出てきて、提灯と新聞紙を渡してくれる。
「うん、朝早くにしようと思う。ナナも早起きできるな?」
「できるよー」
七恵はバケツを持ったまま、もう僕より、ずっと先にいた。
「ナナ、パパも起こしてあげる」
「本当だな。頼むぞ。五時半だよ」
「ごじはん?」
七恵は首をかしげた。
「あたしが起こすよ。そしたら、ナナちゃんがパパを起こすんだ」
「うん!」
迎え火は、うちでは川の近くでやるのが伝統だった。しかし、今夜は車で、美幸の好きだった美術館の駐車場まで移動することにした。
提灯を持って、行きは早めに、帰りはゆっくり行く。新聞紙で火をつけて、死者を呼び込むこのお盆の形式は、この辺の風習ではないらしい。どうやら、母方の故郷が茨城だったので、そこから伝わったらしいが、美幸も、その風習を知ってなんだか面白がっていた。
「呼んでもらえるなら、広い場所がいいよね?」
新婚で帰った夏も、その美術館の駐車場で、美幸の両親を呼びこんだ。花火なんか持ち込んで、二人で子供みたいにはしゃいだ。今、隣でその分身が騒いでいるが。
「今年はママを呼ぶんだよ」
「わかった」
「ちゃんと迎え火を焚いて、ママが空の上からナナとパパを見つけられるように、お祈りするんだ」
「ママもりょこうに行ける?」
「そう。その後、みんなで行くんだよ」
美幸は、降りてくるのだろうか。でも、いざこうなってみると、別にどうでもいいような気がした。もちろん、美幸に、降りてこないでほしいのではなくて、実際に七恵の身体に変化が表れなくても、それはそれでいいと言うこと。精神医学の実験なんかじゃなく、ただ、僕と七恵の中にある、美幸を偲ぶだけでも、意義はあると思った。
夜更けになると、田んぼと集落だけのこの辺りは、闇に包まれる。僕たちが出たのは、その境の時間帯だ。
迎え火は早く。日が落ちかけの六時前後。
空の雲は夜の深い青と、オレンジに彩られ、本来溶け合わないはずの色が、混じりあう。しかしやがて、景色はそのまま、その鈍い青の中へ落ちていく。美幸が好きだった風景のひとつだ。
高瀬川を越えると、低い山の斜面にあるその美術館がみえてくる。町営のこの美術館が出来たのは、僕たちがまだ学生だったころだったが、美幸はスケッチに、よくここを訪れていた。そこからは、安曇野の里が一望できるからだ。
「ママが好きだった場所だよ」
僕は言った。
そう言えば、美幸が死んでから、七恵をここへ連れてきたことはなかった。手近にこんなにいい公園があるのに。
美術館の前庭は、なだらかな山肌に従って、噴水と川の流れる公園になっている。コーヒーが飲めるロッジもあるが、今日は美術館が休みらしく、営業していなかった。
「花火」
誰もいない駐車場の隅に、僕たちは車を停めた。ドアロックをあけた瞬間、七恵は花火のパックを持って飛び出していった。
外へ出ると、ひんやりした風が頬を撫でる。予想したよりも、気温は下がっていた。薄着してきたことを、後悔した。理屈ではわかっていても、夜も、蒸し暑い東京の感覚が、まだ活きている。
「慌てて、こけるなよ」
僕と七恵以外誰もいない駐車場に、七恵の足音が響く。花火に夢中になっていて、僕の言うことなんか聞こえないのだ。パコン、パコンと、七恵のスニーカーが鳴っている。今に前につんのめって、転ぶんじゃないかと、親としては心配になる。
「花火しよ、花火はやくしようよー」
「ライター持ってるのか?」
噴水からバケツで水を汲みながら、僕は、大きな声で言った。七恵はもう広い駐車場の向こうまで走って行っている。
「あれぇ? 持ってないよー!」
「しょうがないな」
「ライター、早くー」
「バケツ持ってくれよ」
そう言えば。
前にも似たようなことがあったな、と思った。美幸も、そんな感じだった。僕より、しっかりしているようにいつも振舞っていて、たいてい、肝心なことが抜けている。
「ダッシュ、ダッシュ!」
それで人を急かせるところも、そっくりだ。
「勘弁してくれよ」
七恵はすでに、やりたかった十七連発を用意している。導火線の場所が分かりにくいらしく、苦戦しているようだ。
「これ、これ、早く火ぃつけてぇ」
「わかったよ」
僕は外灯の下で、なんとか導火線を引っ張り出すと、火をつけてやった。闇の中で、急速に火花が散っていく。七恵がおーおー、と言う間に筒の先から、一発、緑色の火花が飛んでいった。
しゅっ
光は、藪の向こうへ尾を引いて飛び込んでいき、音だけが当たりに余韻を残した。
しゅっ
次は、赤い花火だ。
「ねーナナの、これナナのだよー。ナナにやらしてぇよぉ」
僕が花火を持ったままなので、七恵は両手をあげて抗議した。
「ちゃんと持てよ。危ないぞ」
僕はしゃがむと、七恵の両手にしっかり花火を持たせて、上に筒を上げた。十七連発の花火は、一定の間隔をおいて、次々と空の上へ舞い上がっていった。
「おぉ」
「下に向けるなよ」
手、離すぞ。
ちょっと不安だったが、僕は手を離した。七恵の身体は、最初の花火の勢いに耐えられたようで、そこからやや筒先が危なかったが、なんとか花火を持つことが出来た。
「できたー」
「こっち向けんなよ」
いくつかの打ち上げ花火をやった後は、普通の棒花火で遊んだ。赤、緑、黄色、白、いっぺんに二本も三本もつけて、それを振り回す。七恵は大きな声を出して、喜んでいた。
東京のいるときは、こんなふうに、花火を楽しむことなんて出来なかった。いや、花火の炎の美しさなんて、僕に分かっただろうか。いまさら思うが、ここにきて、景色が澄んでみえるようになった。
灰色同然に色褪せていた景色が、その細かい陰影でさえ、くっきりと浮かび上がらせて、鮮やかに発色する。
東京では考えられないことだった。いや、今、東京へ行ったとしても、その景色は以前のものと違うだろう。毎日誰かの期待と、非難を恐れ、携帯電話やパソコンのディスプレイをみるたび吐き気を催していた、あの頃とは、すべてが違うのだ。
炎に照らされて、七恵の笑顔も、きらきら輝く茶色の瞳も、小さくても、ちゃんと動く手も、なにもかもが美しく、なにより、いとおしい。
それがもっと早く分かっていれば、僕はあんな会社などすぐ辞めただろう。ただただ、あのときは辞めてしまったら、何もかもが終わりになると思っていた。僕の人生も、家族のこれからのことも。そんなことは全然ないのに。
心が決まれば。
僕の周りで、世界はこうして、無限に続いていくことがわかる。誰の決まった流れもなく。それぞれは、それぞれの支流の中で生きている。個々に存在する世界に、優劣はなく、それぞれに欠点があり、利点があり、別にそれらを合理化して打ち消しあうこともなく、ただ存在している。
そして、世界は、美しい。
花火が、終わった。
バケツの中の水に、花火の燃えカスを入れて火の始末をした。まだ赤く火花が燃える先端は、しゅっ、とひめやかな声を上げて、後は静まり返った。
「迎え火の準備をしよう」
僕は、言った。
提灯と、新聞紙を用意する。新聞紙が火種になり、提灯の明かりで車の中まで案内することになっている。それが、亡き人の御霊を呼ぶときの我が家のお盆のならわしだ。
「新聞紙に火をつけるよ」
「ナナにやらして」
「じゃあ、頼むよ、ナナ」
言ってから、ふと、自分でやればよかったかな、と思った。美幸は、七恵の上に降りる。だとしたら、美幸を迎え入れる現世の人間側として、七恵がその役を請け負ったら、よくないのではないか。
でも、心配することはなかった。
七恵のリーチで、新聞紙を広げきることは出来なかったからだ。
「ダメだ」
七恵は必死でバランスをとっているが、両手いっぱいに広げた新聞紙は、ヨットのマストみたいに風を受けきって、縦横無尽に広がろうとしている。
「ん・・・・・・・・」
やがて、新聞紙は、風に煽られて、よれたまま、地面に落下した。それをバランスを崩した七恵の足が、思いっきり、ふんづけてしまった。
「あ」
七恵が悲しそうな声をあげた。
「パパー!」
「大丈夫だよ」
僕は言った。
どうせ燃やしてしまうのだ。むしろ、丸めた方が、風で飛びにくいし、燃えきるのも早い。
「貸してみな」
「もぅ、だめだよ、これ。せっかくナナがやってるのに、かってに飛ぶんだもん」
思い通りにならなかったのがそんなに悔しいのか、七恵は、ぷりぷり怒っている。新聞紙ごときに翻弄された自分に腹が立っているのか、そんなに意地にならなくてもいいのに。
「ナナは悪くないよ。新聞紙だって悪くないさ。それにこうしたほうがちゃんと燃えるからいいんだよ」
七恵をなんとか説得して、僕は、新聞紙を残りのものといっしょに丸めると、水の入ったバケツでいったん固定した。
「新聞紙が飛んでっちゃうから、七恵とパパで壁になろう」
七恵は、僕の言葉を聞き返して、言った。
「かべ?」
「そう」
「かべかー」
七恵は何か思いついたのか、両手だけじゃなくて両足も突っ張って見せた。
「こう?」
「そう。今から、これでママを呼ぶから、ちゃんと火を守ってるんだよ」
「うん」
かべだー。
何かのキャラクターなのか。ちょっと理解不能だが、七恵は低い作り声で、もう一度、言い直した。
ライターの火力を最大にする。準備が整うと、僕は、後ろの『壁』にむかって、声をかけた。
「じゃあ、火をつけてママを呼ぼう」
僕は、火をつけた。
バケツから開放された新聞紙は、火をつけると、夜風にほろほろと揺れながら、燃えていった。一面のカラー写真から、炎がそのオレンジ色の口を、じんわりと広げ、ちろちろと舐めるように、その範囲を広げていく。その姿は、どこか西部劇の映画に出てくるような草原で、風に翻弄される枯れ草の塊を思わせた。
そうしていて、僕は、いつのまにか、無心になって炎をみつめている自分に気づいて、なんだか不思議な気分になった。
見ると、さっきまで、壁の妖怪(?)だった七恵も、うすく口を開けて、両手を元の通りに下へ垂らしたまま、ただ茫然と、その炎をみつめている。
炎の前で、人は思考を失ってしまう。なにかそれには、原始的な衝動があるのだろうか。死者がその目印に、炎を目標に群れ集まってくるという、その気持ちがわかるような気がした。
「ナナ」
僕は、言った。
七恵は、今われに返ったように、こっちに視線をやった。
「ん」
こうしてばかりもいられない。美幸を迎えなくてはならない。僕が、ぼーっとしていたら、美幸にまた呆れられてしまう。
「ママを呼ばなきゃ。しっかりお祈りしなきゃね」
「ママを?」
七恵の表情が、動いた。不思議そうな、かといって、なにも考えていなかったからびっくりした、というような目だった。
「ママを、呼ぶの?」
「そうだ」
僕は言った。そうして、七恵の視線のところまでしゃがんで、彼女の顔を正面からみつめて、聞いた。
「ナナは、ママに会いたいだろ?」
七恵は頭を下げてうなずいた。
「うん」
「・・・・・じゃあ、ちゃんとママを呼ばなくちゃいけないだろ」
「そっか」
少し、僕は、考えてから、言い足した。ただ、それだけじゃないと思ったからだ。
「ママは、すっごく遠くから、ナナとパパに会いに来るんだよ。だから、ここで火が燃えてるだけじゃ、わからないよ。パパもママに会いたいんだ。ナナとおんなじくらい、ずっと会ってなかったから、ママに会いたい。今からパパもママを呼ぶためにお祈りするから、ナナちゃんも、お祈りしてくれよ」
「・・・・・・・・・」
七恵は少し考えた。
考えてから、まじめな表情になって、言った。
「わかった」
七恵はそういうと、両手を組んで、ちゃんとお祈りをしてくれた。
七恵もママに会いたい。
でも、七恵だけじゃなく、僕も会いたいんだ。
七恵に、こんなふうにお願いしたのは初めてかもしれない。自分の正直な気持ちを。ただなんの考えもなく、言葉が出てきた。
七恵は真剣に、祈ってくれた。
それをみていると、僕も、なにかとても無心に信じてみたい気持ちになって、七恵のしている通り、僕の中で懸命に祈った。
美幸の名前を心の中でつぶやいて。
美幸。
僕たちのところに、しばらくの間。
戻ってきて欲しい。
やがて、炎が消えた。
すすけた黒い炭になった新聞紙は、水をかけるとクシャクシャと音を立てて、信じられないほど小さく、萎んでいった。その火種からとった提灯の炎が、今、静かに揺れている。それを危うく、鼻先に吊り下げて、僕たちは車へ戻った。
「ママきたよね?」
提灯を手に持って、七恵は言った。
「来たさ」
僕は、言った。
「・・・・ナナが、ちゃんと祈ってくれたから、パパも、ママもうれしいよ」
「よかったー」
確かに、七恵の中の美幸が出てこないことに、少しがっかりはしていた。ただ、僕の中で、本当に美幸が死んでしまったことは、認識できたと思うし、それについて、ちゃんと自分の正直な気持ちを七恵にみせて、話が出来たと思った。
僕のために。この迎え火に、意味はあった。
いや、意味を求めることなんか、別に必要ないと思う。目的や合理的な理由など、必要ない。したいからするし、したくないから、そうしないだけだ。今年はちゃんと、きちんとした形で迎え火がしたかった。自分が納得できる形で、望む人と、誰にも邪魔されずに、一周忌のお盆をしたかったのだ。
車の前で提灯の火を消した。ここからは、もっと強力な車のライトがある。キーを回して、美幸のためにハイビームにした。
「明日は旅行だから、朝早いぞ」
僕は、七恵にむけて言った。
「わかった。はやおきする」
七恵は車に乗り込んだ。
ゆっくりと車は発進した。
「帰ったら、お風呂は入ってすぐ寝ような」
「うん」
明日は、朝が早い。このまま、七恵といっしょに寝てしまおう。だから、七恵がここで寝てしまうとやっかいだ。僕は少し、スピードをあげた。
9
次の朝起きると、部屋の窓が静かに閉められていた。
日が昇りかけて、山の向こうが、かずかに明るいが、まだ、人里は暗い。新聞配達のスクーターのエンジン音が、遠くで響く。
僕はそっと半身を起こした。
部屋の隅に、前日の旅行の用意がなされている。ボストンバッグに詰められた衣類は、僕のと、七恵のものに分けられている。七恵の服は、七恵が自分で選ぶことになっていたが、朝みると、ちゃんと畳んで置いてあった。
母親が畳んでくれたのかもしれない。僕は、布団から上がると、それをバッグの中に詰めた。
そのとき。ふと、気がついた。
七恵がいない。
トイレだろうか。
珍しいことだと思った。七恵は、朝寝起きが悪いので、トイレは限界ぎりぎりまで我慢する。さすがにおねしょはしたことはないが、我慢しすぎてお腹が痛くなったりすることがしょっちゅうだった。
僕はバッグを担ぐと、自分の着物を調え、部屋を出た。
両親を起こす気はない。どうせ、あと一時間足らずで起きるはずだが、僕たちの予定に付き合わせる必要もないだろう。
玄関に出るとき、居間を通り過ぎると、食卓にアルミホイルに包まれたおにぎりのようなものがいくつか並べてあった。昨夜のうちに母親が用意してくれたのだろうか。そのそばのタッパーには玉子焼きに炒めたウインナーがつめられていた。
朝食はインターで、立ち食い蕎麦でも食べようと思っていたので、これはありがたかった。車内に持ち込んで、景色のいいところで食べようと思った。
トイレが流れる音がする。やっぱり七恵はトイレだったのだろう。
「ナナ、先にパパ荷物つんどくぞ」
僕はトイレの中の七恵に、そう告げた。
ボストンバッグを玄関に置いたときだった。
「ねえ」
それは、聞きなれた声だった。トイレから、七恵が出てきていた。美幸の声で、はっきりとそう告げた。
「これもいっしょに助手席にいれといてよ」
投げられたのは、手提げのバッグだった。それは、美幸のものだった。美幸の死後、処分する機会を逃して、ずっと置いてあったものだ。なぜか、ずっしり重かった。中は、もう空っぽになっているはずだった。
みると、旅行雑誌と七恵の絵本が、いっしょくたになって入っていた。
「わかった」
僕は、言った。
「お前も早く支度しろよ。車出して待ってるから」
「わかった」
美幸も、言った。
「朝早いと、なんかわくわくするね」
「あんま大きな音立てるなよ。近所迷惑だから」
「わかってるー」
何か、すごくうれしい気分になった。
美幸はやっぱり。降りてきたんだ。
両親が起きてくる前に、僕たちは家を出た。そこからまず、諏訪インターから高速道路に乗って、白樺湖の方へ行こうと思っていた。今日の泊まる場所の近くだし、そこから車山を抜けて美ヶ原を通り抜けていけば、美幸の両親のお墓がある武石村に着くことが出来るからだ。
ちょっと時間早すぎたかな。
お盆の帰省客でインターが混むということを、計算に入れていたのだが。道路は、ぜんぜん混んでいなかった。これでは、一時間ほどで、向こうへ着いてしまう。
諏訪インターに乗るころに、真っ赤だった朝焼けが、白い光に変わる。切り立った山々にかかる薄い雲は、明け方出ていた朝霧の名残のようにもみえる。
車の中でしばらくすると、七恵が、すうすう眠りだした。
「今日はどうするの?」
美幸の声だ。
「とりあえず、白樺湖のほうへ行こうと思うんだ。天気もいいし、湖も綺麗だと思う」
「そっか。今日、いい天気だからいいかもね」
僕は、そのときの美幸の表情を一人思い出していた。
美幸は、普段はわりと大雑把な癖に、こういう旅行の計画はきっちりしたがるほうで、旅行雑誌を吟味しては、僕にスケジュール作りの協力を求めた。行き当たりばったりのアドリブが信条の僕としては、次はそこへ行って、次はあそこにいくという相談はわずらわしいもので、かなり非協力的だったのを憶えている。
だから車に乗っていると、必ずといっていいほど、美幸はこう聞いた。
「次はどうするの?」
僕はだいたいの場所を決めているだけなので、はっきりとは答えられない。この場合、ベストの答えは、
「ここへ行きたいんだけど、どんなのがあるかな?」
と、聞くことだ。カーナビより詳しく、美幸が観光名所を探してくれる。
「あすこ湖も山も綺麗だから、七恵喜ぶよ」
そういって美幸は笑った。
「そうだね」
でも今日は、僕が提案するコースに、美幸は素直に賛同してくれた。昔、七恵がすごく小さいころに、小旅行へ行ったときのコースなのだ。だから、もともと、美幸が計画してくれたコースなので、間違いはない。七恵の中の美幸は覚えていないみたいだが、それは七恵の中に、旅行の記憶が薄いからなのかもしれない。
「途中のインターでご飯を食べよう」
僕は、言った。
美幸が七恵の手で、握ってくれたおにぎり。誰に感謝すればいいんだろうか。七恵を褒めるべきなんだろうか。
「おにぎりだー」
七恵は、やけに喜んでいた。だから、これは、美幸に感謝すべきなのだろう。
七恵にオレンジのファンタ、僕は缶コーヒーを買って、車を降りると、インターのベンチで僕たちはお弁当を広げた。
「ママが握ってくれたんだ」
「ママが?」
七恵は、不思議そうな顔をした。
あ、と僕は気づいて、
「パパのママがね。お祖母ちゃんだ」
あわてて、言いなおした。思わず、出てしまった。
「おばあちゃんがつくってくれたんだ?」
「そう。だから、残さず食べなよ。残って食べられなくなったら、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんが一生懸命作ったお米が、かわいそうだろ」
残したらこの陽気なので、腐ってしまうだろう。ぜんぶ食べなくては、捨てることになってしまう。
「そうだね」
七恵は、うんうん、とうなずいた。
おにぎりはどうやら、三人分作ってあった。七恵のちっちゃい胃袋の具合を勘案すると、僕は、どうみても二人分食べなければいけなかった。どちらかといえば、食が細い僕には、荷が重い。
「ナナ、もう一個食べないか」
七恵は、おにぎり一個がやっとの限界だ。
「ナナ、もうおなかいっぱいだから、いい。パパにあげる」
気を使ってくれたのか僕の分が二つ、そして美幸の分も加えると・・・・・・おにぎり三つか。
それもわりにでかい。七恵のちっちゃい掌で握ったとは思えないくらいに。
「・・・・・・・・・」
娘が、みている。
「パパ、のこさず、食べなきゃだめだよ?」
わかってるよ。
僕はなんとか、大きなおにぎりを一人分多く、お腹の中へ収めた。少し苦しかったが、美幸が作ってくれたものだし、なにより、かわいい自分の愛娘が手ずから握ったものなのだ。
そう思えば、食べすぎくらい、どうってことはない。
10
時間的には、少し早いので丸子町を通り、美幸の両親の墓がある武石村へ行くことにした。ここから、美ヶ原を抜けて、車山方面に通る、予定とは逆のコースだ。
僕たちが住む穂高の辺りとは異なり、武石村は、山深い土地だ。
川もあり、わりと平地の多い穂高からすると、武石村は山の中に隠れて存在するような集落だ。山頂に向けて、全体になだらかな斜面が広がり、そこに水田が青々と広がる。
田んぼの真ん中にぽつんと設けられた細い単線の線路といい、谷間の岩清水といった風情の小さな滝といい、この辺りは、まるで時間が止まったように感じるひなびた村だ。穂高ですらバイパス沿いは、開発されているのをみると、ここに来ると、なぜかほっとする。
「ママ、ここに住んでたの?」
七恵が聞いた。
「ママがいなくなってから、引っ越したんだ」
美幸の大学進学を機会に、彼女の親は武石村へ引っ越した。
美幸の父親は、国家公務員だった。キャリアではなかったが、省庁の職員は関東甲信越地域の部署を五年以内で移動になるので、美幸のうちは転勤族と変わらなかったという。
五十を過ぎてやっと、地元の部署へ戻ったのだ。
それから、退職後ほんの数年だったが、彼女の父親はそこで過ごした。武石村は、子供のころ父親が過ごしたところで、何か感慨深い思い出があったのだろう。
墓所は昔ながらの山の高台にある土地で、少し寂しいかと思ってはいたが、そうでもなかった。どうも、麓の辺りに以前はなかった住宅地が出来つつあるらしい。この見晴らしのいい土地も、もしかしたら、何年かのちには住宅地になってしまうのだろうか。そう考えると、この村の時間も、どこかで着実に動いている。
あちこちの木々で、セミがやかましく、鳴いていた。
車を止め、二人で長い石段を登った。
「ナナ、そんなにムキになるなよ」
寝起きで元気が余っている七恵は、がむしゃらに急な石段をかけのぼっている。後ろから僕を追い越して、中腹まで行ったときに振り向いて、
「パパ、ナナときょうそうしよー!」
と、大きな声で言った。そうして、自分で勝手によぉーい、どん、と宣言すると、また走っていった。
「ずいぶんハンデあるな」
僕は、もはや何年全力疾走をしていないことか。思い出せない。さらに、さっき食べ過ぎたおにぎりが、お腹の中で重たく転がっていた。それでもなんとか、ダッシュで七恵に二段と迫る勢いで行ったが、勝てなかった。
「ナナの勝ち?」
「負けた」
頂上へ着いたとき、僕にはなんの余裕もなかった。ハンデがなければ。そう思うが、負けは負けだ。父親としてのプライドはそうとう傷ついた。
「ナナの勝ちだよ」
僕は、ぜいぜい息を切らしながら、言った。それは、完全に敗北者の風情だった。
「ナナの勝ちぃ」
七恵は誇らしげに声を上げた。
結構悔しい。
「ナナはやいなぁ」
「ナナね、うんどうかいでも、マラソンでもね、はやいほうなんだよ」
七恵は、誇らしげに言った。
確かに、七恵の走る姿は少しよくなった。僕が知っているイメージだと、地面にバタバタ大きな音を立てて走っていたのが、さっきはちゃんと爪先で地面を蹴って、軽やかに走るようになった。
そう言えば、東京にいたときは、幼稚園の運動会なんか、行ったことがなかった。てっきり七恵は、僕に似て絵が得意で、運動が嫌いな、おとなしい子だとばかり思っていた。
僕の幼稚園時代の嫌なイメージで、僕は七恵をつい、そういうふうに見てしまっているのだろう。でも、美幸の遺伝子も受け継いでいるし、僕の父親からも遺伝子を受け継いでいるのだ。だとしたら、運動神経が悪いはずはない。似ているけど、違うもの。僕の娘だが、七恵は七恵なのだ。
「そっか。すごいなぁ」
僕はそういって、七恵の頭を撫でた。七恵は、うれしそうに話の続きをしている。本当なら、幼稚園の運動会にも来なかった父親に、なにか言ってもいいのに、とも思う。でも七恵は、一生懸命、僕にお話をしてくれる。
「今度の幼稚園は気に入った?」
僕は、七恵の話が途切れるのをみはからって聞いてみた。
「うん」
「今度はみにいけるな。運動会も、マラソン大会も」
「そっか」
「車でキコちゃんたちも送ってあげられるしね。また、みんなでどこか遊びに行こうか」
「うん! 楽しみ!」
美幸がいたら、なんて言うだろうか。あいつもスポーツが好きだったから、いっしょにテニスでも習っただろうか。
眼下に村々をのぞむ高台。ねずみ色の墓石が並ぶ中で、ひとつだけ、黒の御影石。それが、美幸の両親の墓だった。みると、菊の花が活けてある。美幸のうちは、他県に親戚がいるはずだ。岩城に叔父がいると聞いていたから、その人かもしれない。
「だれのおはか?」
七恵が聞いた。
「ママのお母さんとお父さんのお墓だ。ナナのおじいちゃんとおばあちゃんだよ」
そういうと、七恵は首を傾げた。無理もない。七恵が物心つく前に、二人とも亡くなっているのだ。
「ナナのおばあちゃんとおじいちゃん、いるよ?」
「穂高のおじいちゃんとおばあちゃんは、うちにいるだろ。二人はパパのお父さんとお母さん。こっちはママのお父さんとお母さんだよ」
美幸の旧姓は、高浜。
高浜潔・静江と、碑銘には彫られている。
「パパのパパとママはうちにいるから? こっちはママのパパとママかー」
わかったー。と七恵は、大きな声を出した。
「ちゃんとお祈りしような」
「うん」
二人でお祈りした。
目をつむっていると、七恵が唐突に聞いた。
「ママのパパとママは帰ってこないの?」
「ママと、帰ってきてるんだ。今、ナナたちと、いっしょにいるかもよ」
大学を出たら、結婚する、そう決めたとき、僕は美幸の父親に会いに行った。もう武石村に住んでいた美幸の父親は、暖かく迎えてくれた。人材派遣会社の大手に内定が決まっていた僕が、全国を転々とする暮らしになる、そういったときも、
「出世をする男は、あちこちへ飛ばされるもんだし、気にすることはないよ。美幸だって、わかって結婚するんだろうし、出世して金を稼ぐのが、男の甲斐性だろ」
真っ白で豊かな髪を蓄えて、日本酒が好きな、穏やかな人だった。僕に、美幸が高校生のころ亡くなった母親の話をしてくれた。
美幸の母親は、子宮ガンだった。もともと、子供を産める身体ではなかったが、美幸を産んで、やがてこの世を去った。ただ、ひとつ、美幸が幼いときでなく、親の手を離れるところまで生きて亡くなったこと。それが救いだ、と妻の父親は言った。
それからのち、七恵が生まれてすぐに、美幸の父親も逝った。肺ガンだった。死ぬまでそのガウンのポケットに大好きだったセブンスターが入っていた。
美幸は母親のときも、父親のときも、その死に連れ添っていた。彼女の母親のときは、美幸を通じてその悲しみを察したが、彼女の父親のときは、その臨終まで付き添った。
明け方ごろ、義父は亡くなった。
臨終を確認して、紫色の空から、真っ赤な太陽の光が射しこんでくる病院の待合室のソファで、僕と美幸はうつむいて、ぽつりぽつりと、話をした。
「・・・・・・もう、こんなことはないようにしたいよ」
そのとき、彼女はそう言っていた。
確かに、そんなことは無理だ。でも、大切な人を永久に失ってしまった悲しみを、もう失いたくないという気持ちを、僕にそう言い表したかったのだろう。
もう誰もいなくならないように。
僕は、そんなことを言ったと思う。いつかはくるはずの別れを、もうそのときは認めたくはなかったのだ。
美幸も七恵も僕も。
ずっとこの世にいればいいと思った。そのときだけ、本当に、思った。
「パパ」
僕は、目を開けた。
「行こう」
「うん、行こ」
「じゃ、行こう。お祖父ちゃんとお祖母ちゃんに挨拶したか?」
「する」
七恵は手を振った。
「おじいちゃん、おばあちゃん、バイバイ。ナナ、また、くるからね」
「よし」
「おわぁ」
七恵の身体を抱えあげてみた。七恵は、またちょっと重くなっているような気がした。その身体がすごく熱くて、生命力がしっかりと、その身に詰まっている感じがしたのは、そのときの気分のせいだったのだろうか。
11
武石村から、美ヶ原高原美術館に抜ける。
ここで昼まで遊んで、午後から車山に抜けようと思った。山の上の公園に彫刻が展示されている美ヶ原高原美術館は、大人だけの客でなく、子供づれも目立つ。今日はすごくいい天気なので、何より、山の上の公園は、とても気持ちがいい。
以前に来たときは、美幸は、この山の上でスケッチをしていた。クロッキー帳を持ってきて、B4の鉛筆一本で、この広い景色を再現した。七恵を描いた絵も、そういえばあったろうか。
高原の涼しい風が吹き抜けていく。ここへ来るだけで、下の温度と軽く五度は違う。真夏の陽射しが照りつける中でも、この山の上の空気は、たとえば九月の中旬くらいの、軽やかな陽気だ。これだと直射日光の下で歩いても、それほど苦ではない。
「パパ、はやく、行こ」
七恵は、僕より先を歩いている。どうやら、お土産物がみたいようだ。
「ナナ、パパちょっと電話したいんだ。悪いけど、あすこの土産物屋に、先に行っててくれないかな」
「わかった」
五分程度の電話だから、大丈夫だろう。ここから、土産物屋の入り口はよくみえる。
僕は、川原に電話をした。
電話すると、川原はすぐに出てくれた。迎え火のこと、旅行のこと、ずいぶん気にしていてくれたらしい。つながると、すぐに、川原は僕に話を聞いてきた。
「美幸の様子はどう?」
「どうって言われてもな・・・・・今のところ、困ることはないけどな」
「会話には応じてくれてる?」
「ああ、話しかければ、ちゃんと答えてくれるけど」
「北原君が名前を呼んだら、いつでも美幸になってくれるの?」
「いや、そういうわけじゃないみたいだけど」
僕はあれから道中、七恵の中の美幸を呼び出そうと、苦心したが、僕の呼びかけで、美幸が出てくることはなかった。ただ、なにかのきっかけで、ふいに美幸になることがあって、そのとき、僕は、彼女の話すままに、応答している感じだと、答えた。
「会話は出来るのね?」
「みたいなんだけど」
川原が探り出した症状とは、若干違う。もちろん、病気のことだから、教科書どおりには行かないとは思うが、素人のこっちとしては、不安は不安だ。
電話の向こうで、少し、間が出来た。川原も、よく、考えているのだろう。
「そっか」
「それでさ」
僕は、気になっていたことを言った。
「これから、具体的にはどうしていけばいいと思う?」
「どうしていけばいいって?」
「いや、それはわかんないんだけど」
僕は、七恵の中の美幸をなんとか引っ張り出すことを考えてはいたのだが、それからどうしていけばいいんだろうかということ、それを考えていなかった。
「どうしたいの?」
「どうしたいって言われてもな・・・・・・」
七恵を元に戻してやりたい。それが、本願なのだが。
「美幸と話せればなんだけど」
しばらく僕が、悩んでいると、川原は言った。
「もし、美幸が北原君と話したいと思ったとき、その話をよく聞いてあげて。たぶん、それは美幸じゃなくて、ナナちゃん自身の悩みだと思うから。話を聞くところによると、まだ、そこまで話をしたくないみたいだね。だから、まずは美幸が出てくるきっかけを自分で探してみたらどうかな」
「わかった」
僕は、言った。
「また、なにかあったら、電話する。仕事中だろ。出られない時間があったら、教えといてくれ」
「うん」
僕は、それから、電話を切った。
電話をしまうと、僕は、駐車場を抜け、目の前の土産物屋に行った。
さっき、ちらりと見たところ、七恵は店先で、熱心になにかをみていた。だが、店に入って見渡してみると、そこに七恵の姿はない。
「ナナ」
僕は、七恵の名前を呼んだ。しかし、周りにいる数人が振り向いただけで、七恵が走ってくる気配はない。
「どこへ行ったんだ」
土産物屋は、二階建てになっている。二階は食堂になっていて、僕たちはそこでお昼を食べるつもりだったが、そちらにも七恵は来ていないようだった。
お金は持っていないはずだから、中には、入っていないと思うのだが。
「四歳くらいの女の子ですか。いや・・・・・ちょっと、存じ上げないんですが・・・・・特徴は?」
「髪の毛は肩までで、ピンクのシャツに、白いスカートを履いてます」
店員に聞いてみたが、誰も七恵の姿を憶えているものはいなかった。確かに、店内は混雑しているし、子供の姿も多い。
だが、券は買っていないので、中には入っていないはずだ。僕は、落ち着いて、もう一度探してみることにした。
「七恵」
行き違いになったということも、考えられる。なにしろ、七恵は、思いつきですぐどこかへ行ってしまうのだ。それに。今は、七恵の中に美幸がいる。七恵の中の美幸が、またなんらかの形で出てきて、勝手な行動を取らせているのかもしれない。
そうだとしたら、不安だ。
土産物屋の建物の中。駐車場。入場してきた道路。すべて辿ってみた。しかし、七恵らしき女の子の姿はなかった。
「ナナ」
僕は、娘の名前を呼んだ。
しかし、道行く人が振り向くだけで、本人は一向に現れない。
誰かに連れて行かれたんじゃないか。
そう思うと、いっそう不安になった。駐車場から、少し目を離した五分程度の時間だぞ。でも、ないとは言い切れないし、実際、テレビでみるそういう事件はたいてい、数分目を離した隙に起こる。
「ナナ」
もう一度、同じ場所を回ってみた。七恵らしき女の子の姿は、なかった。僕は自分の行動を後悔した。車の前で待たせて、いっしょに行けばよかったのだ。僕はいつもこういうふうに、やってから後悔することが多い。
何度か探し回って、車で来た山道まで探してくると、僕は、最後にもう一度、土産物屋に戻って、迷子のアナウンスをしてもらうことにした。自分の不注意を後悔した。美幸なら、こんな失敗はしないだろうなどと思いながら。
これで七恵が現れなかったら。
そんなことを考えて、一人で不安に思っていると、場内アナウンスの声が響いた。
「東京都からお越しの、北原和義くん。お母さんがお待ちです」
「ナナ」
七恵は、迷子センターでソファに座りながら待っていた。僕の姿をみとめて、職員の女性が、怪訝そうな顔をしていたが、僕は事情を説明して、七恵を引き取った。
「どこへ行ってたんだ」
今度こそ、七恵と二人で中へ入場すると、僕は聞いた。七恵は向こうをむいたまま、黙っていた。
「それに職員のおばちゃんが、困ってたじゃないか。なんであんな呼び出し方をしたんだ」
七恵を引き取るときに、僕の名前を書いたら、迷子センターの職員が、当惑した顔をしていた。そ知らぬ顔をして引き取ってきたが、かなり怪しく思われたはずだ。
「パパもナナを先に行かせたままにしたのは悪かったけど、ナナだってパパの言うこと聞いてなかったのは、よくないぞ」
「だって」
七恵がこちらを向いた。美幸の声だった。
「遅いんだもん」
いつ。変わったのだろう。
「お前な」
僕は反射的に、言い返した。でも、そこからの言葉が出てこなかった。
僕は、急に美幸に見据えられて、困惑していた。目の前にいるのは姿は娘なのに、なにを言っていいのかわからなくなってしまった。
たぶん、どこかへフラフラと出て行ってしまったのは、七恵でなく、この美幸のせいなのだろう。しかし、七恵は美幸だ。こういうときは、誰が悪いんだろう。そう思うと、誰を怒ればいいのか、わからなくなってしまう。
「ずっと電話してるからだよ」
「七恵の話をしてたんだ」
「そういう問題じゃないでしょ」
「必要なことだろ」
美幸は、ばしっと、僕の肩を叩いた。
「旅行中ぐらい、会社の仕事忘れなよ」
それを聞いて。
僕は、思い出した。ちょうど。さっきと、おんなじシチュエーションだったのだ。前に、美幸とここへ来たときの。
「フツー、電源とかって、切っとくものじゃないかな」
美幸は、唇を尖らせて言う。
「北原和義くん」
そう言われて僕は確か、こう返した。
「迷子の美幸ちゃんのくせに」
美幸とここへ来たときに、僕は、さっきと同じように駐車場で電話をして、小さな七恵と美幸を二人で土産物屋に行かせた。
当時、会社では、僕は休日中も携帯電話が手放せないような仕事をしていたのだ。取引先のトラブルの処理、担当している派遣社員との調整。どちらにしても、どこにいても迅速に対応することを要求されていて、そのときも何件も電話をかけなくてはならなかった。
電話を切って、土産物屋に行くと、二人の姿はなかった。
僕は、必死で二人の姿を探した。さんざん探し回った。そして、さっきみたいに、もしかして誘拐されたんじゃないかという間抜けな不安に駆られながら、駐車場から戻ろうとすると、さっきと同じアナウンスが流れたのだ。
美幸は、『東京都からきた北原和義くん』を見て、笑いを堪えていた。とりあえず僕は、さっきのように手続きを済ませて、二人と合流したが、
「子供っぽいイタズラすんなよ」
と、怒ってみせた。
そうしたら、さっきのように、美幸は開き直って、
「遅いんだもん」
と、言い返した。
今、七恵の中にいる美幸は、そのやりとりを再現したみたいだった。僕は、それを懐かしく思い出すとともに、失望を覚えた。川原から、話は聞いているとは言え、僕自身、七恵の中に美幸が生きていると思い込んでいたからだろう。
やはり、そこにいる美幸は、まるで家庭用カメラで撮った家族の思い出のように、純粋な『過去の記録』に過ぎないものなのかと思うと、寂しい気分になった。
七恵が創り出した人格であろうとも。美幸と会話をすることを、僕自身が、心のどこかで、楽しみにしていたのだ。
「涼しくていい気持ちだね」
そういって、伸びをしている美幸を僕は本当にとらえることは出来ない。そこにいる美幸がとらえている映像も、現在の僕や七恵でない。今よりずっと以前にここへきた僕と七恵なのだと思うと、僕はしばらく、なんの言葉もなく、二人で歩くしか出来ることはなかった。
「美幸」
午後から白い雲の塊が、山頂に断続的な影を落として、強い日光は、しばしば遮られる。そのとらえどころのないまばらな影が、今振り向いた美幸の顔の上を通り過ぎていった。雲の影が過ぎ去ったその向こうからは、再び夏の陽射しが、白く発光するように照りつける。
「美幸」
僕は、もう一度、彼女の名前を呼んだ。
美幸は、きょとんとした顔をしていた。
階段の中腹に立ち、首を傾げた。
「パパ?」
「ママは?」
僕は、思わず聞いた。七恵は、辺りを見回して、怪訝そうな顔で言った。
「ママ、いないよ」
「そっか」
僕は言った。
「そうだよな」
僕たちは、十二時を告げる鐘の近くへ行き、飲み物を飲んで休むことにした。どこかから、アルトサックスの音がした。ジャズの演奏でもしているのだろうか。
「ナナ、前にここ、来たことあるの、覚えてるか?」
「ナナ、こどものころ?」
「今も子供だろ、ナナは。でも、もっとちっちゃいころだな」
「ナナのちっちゃいころ?」
「そう。覚えてないかな」
うーん、と七恵は、腕組みをして考えてみたが、
「おぼえてないなー」
と、言った。
「ママと来たんだよ。ここで、ママは絵を描いたんだ」
「ふーん」
山の向こうは、遠く、街が拓けているのがみえる。おろしたばかりの畳のような場所は、田んぼか、畑だ。鮮やかな緑色。
それにしても、ここからみると、おもちゃのようだ。あそこに住んでいる小さな人間たちが、長い時間をかけて、整地したとは思えないくらいに。本当は巨人が住んでいて、庭いじりでもするように毎日、整備をしているんじゃないかとも思えてしまう。
それが雲の流れや、陽射しのうつろいを経て、微妙に表情を変化させる。
美幸は、一時間ほどかけて、クロッキー帳にその景色を描き写した。描かれた風景は、無駄な線がなく、ほとんど真っ白だった。それでいて、狭いA4サイズの画用紙の上で、無限に広がりを見せているような気がした。
美幸が言うには、
「これ以上は描いちゃだめ」
らしい。僕にはよくわからなかったが、確かに、紙の上の風景は山の麓に拓けている広大な世界をあらわしている。
「ナナは憶えてないな」
「うーん」
七恵は、真剣に眉根を寄せて考えている。その表情は、結構面白いものだったが、いまいち、思い出せてないようだ。
「でも、綺麗なところだろ?」
あんまり真剣に考えすぎていたので、僕はそういって話題を切り上げた。七恵は僕の言葉に素直にうなずいた。
「うん」
頂上のホールで演奏をしていたのは、地元の高校生のジャズバンドのようだった。ジャズに詳しくないので、なんの曲をやっているかは分からなかったが、しばらく外から眺めていった。
「パパ」
そのときに、七恵が言った。もうその話題は終わったのに、必死で考えていたのだろう。急に、話し始めた。
「ナナねー、山には、行った記憶あるよ。でも、こういうところじゃないところ」
「ここじゃなくて?」
僕は聞き返した。
「うん」
七恵は、そういってから、それからねー、と付け足して、
「夕方だった」
と、言った。
「そっか」
夕方と聞いて、僕には、思い出すところがあった。時間を合わせて、そこへ行ってみようと考えていた。もしまた、美幸が出てくるとしたら、その場所しかないと、思ったからだ。
12
今日の宿泊場所は車山だ。美ヶ原高原から、白樺湖方面へ抜けていくと、湖を取り囲むようにある広大な山。僕たちは、その山頂に泊まることになっている。
車山は、冬はスキー客、夏は大学生のサークル合宿などでよく使われる。だから山頂付近では民宿のほかに、いくつかのペンションやプチホテルなどが点在している。
美幸と泊まったそのペンションは、残念ながら、廃業になってしまっていた。近くを通り過ぎると、空になったプールや、荒れたテニスコートがそのままになっていた。
「泊まるの、どこ?」
そこで今回は、近くのホテルに泊まることにした。民宿街を見下ろして、高台のほうにあるホテル。どうせ二人の一泊の旅行なので、少し無理をすることにした。実は、美幸が、以前ここへきたとき、行きたがっていた場所でもあった。
「すっごい」
七恵も、それをみて喜んでいた。なにしろ、その親だって、こんなところに泊まるのは初めてだから、それくらいは喜んで欲しい。
「チェックインするまでしばらく時間があるだろ」
七恵に、ホテルの外観だけをみせてやると、僕は車をターンさせた。
「車山をちょっと、みてこうよ」
僕は、言った。
車山は、高原と言われるように、山肌には背の高い樹木はいっさい生えていない。だいたい膝までの高さの草原が広がり、そこに一、二メートルほどの林が点在している。
だから、風でゆらめく草原は、沈みかけの西日を受けて、波のようにキラキラと光る。それが山肌にそって、遥か山の彼方まで続いていくのだ。果てに空が突き抜け、そこには、なにもさえぎるものがない。
同じ自然の中でも、草深い武石村や、平地の穂高とは、また趣が違う。別の世界のようにも思える。
七恵は窓を開けている。小さな手で、風を呼び込んで、ときおり嬉しそうに僕のほうをみた。
道路の端に濃いオレンジ色をしたオニユリが、こちらに顔を向けて花開いていた。
「花だー!」
七恵が歓声をあげた。
「オニユリじゃないかな」
僕は、言った。マンゴーやパッションフルーツのような南洋の果実みたいに生命力の強い色合いをしたオレンジ色なのに、どこか可憐な花。清楚なユリにしては、派手な色合いなので、『鬼』と名づけたのだろうか。
「オニユリ?」
「高い山に生えてるユリだよ。ユリっていう花は知ってる?」
七恵は首を横に振った。
「きれーだね。ナナ、欲しいな」
「ダメだよ。とっちゃったらかわいそうだろ」
連れて行きたい場所は、僕たちが通ってきた美ヶ原よりにある。実は美ヶ原から、車山まで行く道には二つのルートがある。
ひとつは、いったん、山道を降りて、白樺湖方面へ向かい、湖から再び車山へ上がるという道筋。もうひとつは、美ヶ原から直接山道を通って、車山の中腹へ出る道。さっき来たときには、七恵に湖を見せてやりたかったので、白樺湖へ出るほうへ行った。
今度は、その、車山から美ヶ原へ抜ける道を逆行する。美幸ときたときは、こちら側の道を通ったのだ。
しかし、僕が今回この道を敬遠したのには、もうひとつ理由がある。それは、ほとんど抜け道なので、極端に道幅が狭いところ。そこは一台通るのがやっとで、すれ違いも出来ない箇所があり、しかもちょくちょく落石事故もあるらしい。そして、道の間に扉温泉という温泉があるので、狭い割に通行する車も多い。
もちろん、今日行くところは、扉温泉まで降りては行かない。車山側の、まだ広い道幅の途中にある。
美幸と僕と七恵が、山道を通り抜けて、みつけた場所だ。
「停まろう」
僕は、ハンドルを回した。
そこは、無人の見晴台だった。
駐車場になっていて、奥にロッジ風のつぶれた売店がある。すすけたアイスクリームののぼりが、風で、はためいていた。恐らく、この見晴台は、僕たちが泊まるところや、スキー場のような中心地から離れているので、廃れてしまったのだろう。
しかし、景色は最高だ。
ここからは、車山から麓の白樺湖まで一望できる。
「ここだよ」
僕は、言った。
「ナナ、あっちまで行っていーい?」
七恵は売店のほうを指した。あの裏から、草原の展望台まで散策コースになっているはずだった。
「パパも行くから、あんまり離れちゃダメだよ。さっきみたいに迷子にならないこと」
「はーい!」
今日最後の夕陽が、山の向こうへ落ちていく。その輝きは、一日でもっとも強く、そして、どこか必死だ。琥珀色から、濃い橙色になった光が、下の世界に満ちている。
僕より、十メートル、先を行く七恵にも、その光は、かかっている。この時間帯、地上にあるものは、強い光で、みんな濃い影を後ろに引きずっている。まるで今日最後の夕陽が出ている時間に、ここにあったものを、その強い光が、すべて焼きつけようとしているみたいだ。
七恵の小さな影が、広い駐車場に長く伸びていた。黒い七恵。表情は、ない。影は、頭が伸びるから、元いた場所に引き止められているようにもみえる。それとも頭の長い宇宙人か。
頭の長い宇宙人は、二人いる。
僕の影も後ろになびきながら、七恵を追っている。
まだ小さな七恵の影は、これから、どこまで伸びていくのだろうか。やがてその影に、どんな影が寄り添うことになるんだろう。
七恵の影を目で追いながら、ふとそんなことを考えてしまった。
売店の裏には、木材で作った道が出来ている。
「ナナ」
僕は、七恵の名前を呼んだ。
七恵が、振り返る。
「足元、気をつけろよ?」
「大丈夫」
草原の道は、何メートルもない。七恵はすぐ立ち止まっていた。その先の視界には、もう、空しかないからだ。
最後の日が落ちるこの時間の、この駐車場の風景を、僕は忘れることが出来なかった。だから、もう一度来たかった。あのときと、まったくおなじ風景が目の前に広がっている。
それは、どんな色でも表現できない夕方の空だ。
オレンジ、ピンク、そして、パープル。そのどれもに近いようで、それを口にしてしまうと、やはりひとつの言葉に収まらない色。それが僕らの視界三六○度を覆っている。ちりばめられた雲が、この夕空の海を漂い、濃い影を落としている。
「ナナ」
七恵は、その空を目のあたりにして、立ち尽くしていた。小さい七恵の向こうには、もうこの広大な世界をすべて包み込んでいる夕空しか広がっていない。いや。七恵の小さな影も、僕の影も、駐車場にいたときから、すっかり、呑み込まれていたのだ。
七恵が、こちらを振り向いた。
僕が、呼んだからだ。次の言葉を探して、僕は少し、迷った。それから、
「今日、楽しかったか?」
と、聞いた。
そのとき、また涼しい風が、周りの草花を淡く、ふるわせた。
七恵の白い肌に、溶け込むように風になびく細やかな前髪が、夕日にきらめいている。瞳に映る光が、ひどく澄んで、僕の目に直接刺さるようで、それさえ、心地よかった。
「うん」
七恵は、言った。力強い声。七恵の笑顔。
「ナナ、楽しかったよ」
「東京にいたときより?」
僕は、考えていたことを聞いた。それを、七恵にはっきりと聞いたのは、そういえば、これが初めてだった。
「うん」
ママがいなくても? それを聞く勇気が、僕にはなかった。言ったら、今に影を落としてしまうから。それが怖かった。
「そっか」
「うん」
僕は、七恵の頬をなびいた髪を撫でた。ちょっとくすぐったそうに、七恵は目を細める。
僕は七恵の身体を抱きかかえ上げた。七恵が小さく声をあげる。七恵は僕のイメージよりもう、足が長くなっている。手だってしっかり僕をつかんでいる。体重がどっしり重くなって、ふんわりとした桃の葉のシャンプーとひなたの匂いがしている。
「ナナ、重い?」
「いや。でも、おっきくなったね」
まだ平気。
「ここだろ?」
「え?」
「ナナの言ってた場所」
「・・・・・・わかんない」
七恵は少し考えてから、言った。
「でも、そうかも」
僕は七恵を抱きかかえたまま、山の向こうを見上げた。淡い色の草原が、ここから見渡す限り、車山のなだらかな山肌を駆け上って、夕焼け空に、その山の輪郭を刻み込んでいた。
僕たちがみた道は、そのすぐ真下にあった。ミニカーのように小さな車が走っているのが、ここからぽつりぽつりと見える。
「ママがみっけたんだ。せっかくだから、ナナもママも、また連れてきたかった」
「ふーん」
「ナナさ」
僕は、すぐそこにある七恵の顔をみて、言った。
「ママいなくてさみしくないか?」
僕の言葉に、七恵は、少し、黙った。
それでも、聞きたかったことだ。僕は、七恵の言葉を待った。
七恵は、ちょっと考えたのだろう。
でも、すぐにこちらを向いて、微笑むと、
「ナナ、へいきだよ」
と、言った。
「・・・・・・ナナのパパも、おじいちゃんもおばあちゃんも、みんな、いるもん」
「そっか」
「うん!」
七恵の声が、なぜだか分からないが、そのときすごく力強く、僕の中に響いたのを今でも、忘れることが出来ない。
夕陽の中で、僕は美幸と、あのとき、どんな会話をしたのだろう。他愛のないこと。二人で、七恵のことも話しただろうか。思い出せない。
「ね、電話」
七恵の中の美幸の声。僕は、それで思い出した。電話の電源を切るように、言われたのだ。僕は、美幸に言われるままに、携帯電話の電源を切った。僕と美幸は、さっき、美ヶ原でケンカをした。
「ちょっとは休んだ気になった?」
美幸は、言った。
ちょうど、七恵は、車の中で、すやすや眠っていた。長い山道をぐるぐる行く間に、疲れてしまっていたのだろう。
「今日はよく寝れそうだよ」
僕は、答えた。
あのときはここ何日か、トラブルが多く、眠れない日が続いていた。食べ物も、普通のものが気持ち悪くて食べられず、おかゆか卵かけご飯か、ざるそばくらいしかうけつけなかった。
「もっと適当に仕事すればいいのに」
美幸とも、ほとんど会話のない日々が続いた。ストレスが溜まって、ケンカすることも多かった。やっと取れた休みに、無理矢理彼女が連れ出してくれなかったら、こんなところに来なかっただろう。
「そういうわけにもいかないよ」
「人の期待に応えすぎなんだよ」
「そこがよくて結婚したんじゃないのかよ?」
「どうかな」
頬を寄せると、美幸の髪が温かい皮膚の上をなびいて、僕の肌を軽く、くすぐった。
会話というのは、不思議なものだ。あのときと同じ会話が続いている。美幸は過去の僕の話を聞いているのに、こうして、僕が応えるだけで、話が続いている。
「涼しいでしょ」
こうしていて。僕は一瞬だけ、今、美幸と話している錯覚に陥っている。
僕は目を閉じた。そこに、もう美幸がいる。
「うん」
「景色も、キレイ」
「うん」
「来てよかった?」
「うん」
「あたしのお陰でしょ?」
「・・・・・一応そういうことにしとく」
「よし」
美幸は、うれしそうに微笑んでくれた。
今、夕陽は空の彼方に押しつぶされて、地上をもっとも強い光で照らしている。人懐こい塩辛トンボが、連なりながら、僕たちの周りを漂い、やがて、草原の向こうへ消えていった。
話が途切れて、二人はしばらく黙っていた。あのとき、僕はなにを考えていたのだろう。
やがて、日が沈み、辺りが薄闇に沈んでくる。
帰ろうと僕は声をかけようと思った。
そのとき。
美幸の唇が弱く開く。
「あのさ」
僕は、あのとき、彼女がなにを言おうとしたのか、ようやく思い出した。
「・・・・・・・・実は、話があるんだ」
14
「美幸とは、やっぱり会話は出来ない」
川原は、もううちに帰って電話を待ってくれていた。
七恵は、僕たちが家族三人で行った旅行のときの美幸を、忠実に再現している。そこには、今の僕も、七恵も含まれていない。ただの過去の再現なのだ。僕はそこに、もしかしたら、七恵のうちに秘めた悩みがあるのかと期待したが、それも懐疑的になっていた。
「そっかぁ。・・・・・じゃあ、あたしが考えたとおりじゃないのかもしれない」
「専門家だろ。自信なくすなよ。学説や本の通りに物事が進んだら、医者なんかいらないよ」
「でも、たぶん、迎え火と、その旅行が、七恵ちゃんの中の美幸を引き出しているには、間違いないと思うよ」
「じゃあ、これからどうすればいいんだ?」
「それはやっぱり・・・・・・・根気強く待つことだと思うけど」
「会話の記録は出来る限りとっておいたほうがいいか」
「そうだね」
僕は、メモ帳を用意して、思い出せる限り、今日の美幸との会話の記録を時間順に書き取っていた。
「・・・・・・・・・・・・」
「どうしたの?」
「いや、別になんでもない」
僕はさっきの、美幸の言葉を、思い出していた。
「少し、嫌なことを思い出しちゃったんだ」
「・・・・・・それって、美幸の病気のこと?」
僕は言葉なく、うなずいた。あの夕陽のドライブインで、僕は、美幸に病院へ行ってきたという話をされた。美幸は子宮ガンだった。そのときは、腫瘍があるという話だったが、東京に帰って、ガンが内臓に転移していることがわかった。
そこから、美幸が亡くなったのは、半年後。二月の末だった。
「・・・・・・なんて言ったらいいかわからないけど」
「ああ、大丈夫」
「本当に?」
「ただ、七恵の記憶の中に、こんなにはっきりと、美幸の姿が刻み込まれてたんで、驚いたんだ」
僕の言葉に対して川原は、なんて答えていいのか、正直、迷ったのだろう。電話口で小さくため息をつくのが聞こえた。
「人間の記憶力は、巨大な図書館みたいなものだよ。ただ、閲覧者のわたし達が、その蔵書を使いきれてないだけなの。だから、普段思い出せないことや、忘れていることも、一度頭の中に情報をちゃんと入力したら、消えてなくなってしまうことはないみたい。
例えば、サヴァン症候群っているでしょう? 生まれつき脳の機能障害を負って、記憶力の一部分だけが発達しているんだけど、その人は読んだ本や聴いた音楽をみんな暗記していて、オーケストラの組曲すべてのパートを再現できたりするの」
「テレビで観た記憶があるよ」
そう言うと、僕の言葉の雰囲気を察したのか、川原はあわてて、
「あ。ごめん。・・・・今は、そんな話してるときじゃないよね?」
「いや、なんかちょっと納得したよ。確かに会話はできなかったけど、俺、今日、美幸と一日話した気分になってるんだ。たぶん、俺の記憶の中にも七恵とおんなじように、美幸がいるからなんだなって思ったよ」
「うん・・・・・・そうかもね」
「俺も忘れてたこと思い出したよ。だから、後一日だけど、美幸の言葉に最後まで耳を傾けてみようと思うんだ」
帰ってきたら、また川原に七恵のこと、よろしく頼むよ。
そういうと、
「任して」
川原は、言った。
「でも、子供にとって、本当に親ってとてつもなく大きな存在なんだって思うよ。・・・・・・あたしって、子供持ったことない人間だから、よけい思うんだけど」
「俺も驚いてる。両親っていうのがどれだけ大切なものなんだろうって」
「カウンセラーとしては・・・・・・・ちょっと自信なくすな」
「カウンセラーだろ。そんなことで自信なくすなって」
「わかってる。・・・・なんか逆にカウンセリングされちゃった」
電話口から、川原が肩を震わせて笑うような声が響いた。
「パパ」
風呂上りに、ラウンジで、七恵の好きなケーキを食べさせて、しばらく休んだ。ホテルのラウンジには、大きな西洋風の石暖炉があって、七恵をひどく喜ばせた。目の前の大きな窓には、星空が大写しになっている。
「ねえ」
「うん?」
七恵の言い方が、美幸にそっくりだったので、ちょっと僕は言葉に詰まった。
「おいしーよ?」
七恵が、フォークを持って僕を見ている。
「パパ、食べないの?」
「パパもお腹いっぱいだよ。夕ご飯で」
ナナよく食べたな。そういうと、
「パパー、ちゃんとモトとらなくちゃもったいないよ。バイキングだもん」
と、分かったようなことを言った。たぶん、食事がバイキングだったので、僕の母か誰かが、七恵に元をとらないと、と言うようなことを言ったのかもしれない。
「バイキング!」
「ケーキはバイキングじゃないよ」
結局、七恵の強い勧めで、僕はそのケーキを一口食べた。クレープかワッフルのような生地で作ってある生クリームのケーキで、よく冷えていて、美味しかった。でもさすがに、全部平らげたら、身体が重くなった。
「じゃ、食べ終わったら、ナナ遊んできていい?」
どうやら、僕にひとくちくれたのは、早く遊びに行きたいがためだったらしい。
「どこへ」
「おそと」
「危ないからだめ」
「えー」
「・・・・・・ちょっと待ってなさい。パパも行くから」
僕は、冷めてきたコーヒーを一気に飲み干した。
美幸の声。それがずうっと、頭に残っている。あのとき、僕は、なんと答えたのだろうか。ひどく、困惑したのだけ、憶えている。これからの仕事のこと、美幸や七恵のこと、今あるものがすべて崩れ落ちてしまうことにただただ恐怖したのだ。そんな僕が、美幸に、どんな言葉をかけたのだろうか。
さっき、七恵の中の美幸がそう言い出したとき、僕はなんと言ったのか思い出せずに、言葉を失っていた。
美幸は、微笑んで、
「大丈夫だよ。まだ、悪性って決まったわけじゃないし」
そう言った。
たぶん、僕は、あわてたのだろう。そして、さっきのようにしまいには言葉を失った。なにも変わっちゃいない。
だから美幸は、そうやって特別明るい声を出したのだろう。
思えば、僕はあまりに多くのものに翻弄されすぎていた。取るに足らないもの、本当に大事なもの。ぜんぶを自分の腕の中に抱えようとして、自分の足元すらよく見えなくなっていた。美幸は、そんな僕を気遣って、言い直したのだろう。
美幸の家はガン家系だった。特に女性は子宮に出る。七恵を産むときも、これが僕たちのただ一人の子供だと覚悟して産んだ。
あのとき。
彼女の不安と恐怖を、僕はちゃんと、受け止められなかったのだ。
本当は、そのときに僕は会社を辞めればよかった。簡単な決断だった。もっと美幸や、七恵の傍にいて、二人を守るべきだったのだ。
僕は、仕事を辞めたらすべてが終わりだと信じすぎていた。なんのために仕事をしていくのか、そんなことも見失っていた。
「パパ、あれ、なーに?」
七恵が僕の手をひいて、外へ連れ出す。来たときから、気になっているものが、あるみたいだ。
「教会だよ」
ホテルの前庭には、小さなチャペルがあった。たぶん、ここで結婚式を挙げるカップルもいるのだろう。
「それは?」
「ナナが好きな人が出来たときに、こういうとこで結婚式挙げるんだよ。ナナ、好きな人いるか?」
「キコちゃん」
「それは無理だよ。男の子じゃないと」
「じゃあね、・・・・・ナナ、パパがいい」
「パパはだめだよ」
「どーして?」
「ママともうしちゃったから」
「そっかー。じゃ、ナナ、べつの人さがすー」
「えっ」
そう簡単に諦められるのも、それはそれで寂しいが。
うーんと、腕組みをしながら、七恵は考えている。べつの人って、候補者が何人いるのだろうか。そう思っていると、
「前の幼稚園の人とかじゃだめ?」
「いるの?」
僕は、思わず聞いた。んふふー、と七恵は変な笑い方で顔を崩してごまかした。
「ねー、だめかな」
「今まで会った人とかじゃなくてもいいんだよ。これから、ナナは探すんだから」
「どうして?」
どうして? 僕は、少し、考えてから言った。
「結婚式を挙げたら、その人とずうっといっしょにいることになるんだよ。十年も二十年も、いや、ナナがおばあちゃんになるまで一緒かもしれない。そういう人を選ぶんだから、簡単な気持ちで選んじゃいけないだろ?」
「うん」
「だから、ナナがちゃんと大人になって、いろいろなことが分かってから、よーくナナのことを分かってくれる人をみつけて、結婚しなくちゃ。そうしないと、ナナも、これから生まれてくるナナの子供だって、楽しく過ごせないだろ?」
「うん」
七恵は頷いてから、少し考えて、言った。
「わかった。じゃあ、ナナ、ちゃんとおっきくなってから探すね」
「うん。そしたら、結婚式を挙げて、パパをここに呼んでくれよ」
「うん!」
窓から、明かりが漏れている。近づくと、中に入れないことが分かった。無人の教会。空の座席に、誰も弾いていないパイプオルガン。それでも、寂しい印象は受けない。どうしてだろうか。その座席に多くの人たちが座って、牧師に祝福されて式を挙げる誰かの姿を、想像してしまうからだろうか。
まだ、そこにいる花嫁の姿は、隣にいる七恵に直結しない。今、僕の手の中に納まってしまうほど小さな手も、少しふっくらした面差しも。その隣で七恵の手をとる相手の姿など、まだ空白でしかない。
ただ、彼女の手を、しっかりと握ってくれる男性が、現れてくれれば、と僕は思った。家族を、七恵を、目を離さず、自分を見失わず、守ってくれる人間が。それまでは僕が、彼女の手を握って、導いていかなくてはならない。
夏の星座が、山の向こうで輝いている。小さく見える建物は、観測所だという。あの山の頂上から、星はどのようにみえるのだろう。
「帰ろうか」
しばらく歩いてから、僕は、言った。
「もう遅いし」
「うん。もどろ」
手をつないだまま、僕たちは帰ることにした。
「パパ」
その帰り道、七恵は、僕の顔をみながら、こんなことを言った。
「あのね、・・・・・・おっきくなって、ナナのことよく分かってくれる人がまだみっからなかったら、ナナさー、パパのところにいてもいいかな」
「いいよ」
僕は言った。
いいに決まってる。
「それでさ、ナナ、みっからなかったらどうしよう」
「見つかるさ」
「見つかるかな」
七恵は本当に心配そうな顔をして、言った。
僕は、七恵の頭を軽く撫でてやった。
「でも、もし、みっからなかったら、ずっといたっていいんだよ」
「ホント?」
七恵は言った。
「うん。パパはかまわないよ」
「そっか」
それから、独り言のように、こんなことをつぶやいていた。
「じゃあ、・・・・ナナ、ずっとパパのところにいようかなあ」
娘を抱きしめたくなった。
でも、涙が出そうになったので、ただ、上を向いていた。
15
夢を、みなかった。
みずに眠っていた。
気づいたら、朝日が射していた。僕は、それを少し、寂しいと思った。美幸が出てきてくれたなら。そう期待している自分がいたのだろう。
スズメが鳴く声。耳を澄ますと、それに混じって静かに、七恵の寝息が聞こえる。真っ白なシーツと布団の間に顔を埋めて、七恵は目を閉じていた。よく寝入っているみたいだ。昨日の晩は、すぐには眠れなかったから、まだ起こさないでおこう。
前髪が少し長くなっている。
僕はそっと、その前髪をかき上げた。
「ね、パパ、まど、開けていい?」
ホテルを出たのは、九時半。空は見事に晴れて、もう陽射しがまぶしかった。七恵は車の窓を開けて、ホテルの方に手を振った。七恵はホテルのチャペルも、ラウンジのケーキも、出発前に立ち寄ったお土産物屋さんもみんな気に入ったみたいだった。
「今日は、どこ行くのー?」
七恵が聞く。
「旧軽井沢っていう街のほうへ行くよ」
僕は答えた。
「遠い?」
「そんなにかからないよ。そこでお買い物したら、おうちへ帰ろう」
「じゃ、ナナそこでキコちゃんにお土産買う」
「ナナ、あのな」
さっき買ったろ?
そう言おうと思ったら、七恵はすでに、お土産のアンズのチューイングキャンディーを開封して食べてしまっている。
「なに?」
「・・・・・・いや、なんでもない」
川原からの着信があったが、もう車の中なので、向こうに着いてから、連絡しようと思った。
たぶん、僕のことを気遣って、出勤前に電話してくれたのだろう。
でも、もう僕の心は決まっていた。彼女が出たら、僕はそれをちゃんと言葉にして、言おうと思う。僕の心が、本当に決まっているのかを確かめるために。
「パパ、かぜー。すっごい涼しいよ」
窓から手を出して、七恵が言う。
旧軽井沢は、思い出がある場所だった。美幸がいた旅行のときも、ここだけは必ず立ち寄ることに決めていた。立体駐車場に車を止め、町中を散策する。
「ナナ、ちょっと待ってな。パパ電話する」
「早く行こうよー」
七恵はそわそわして、先に歩き出しそうな雰囲気だった。
「川原か?」
運良く仕事中の川原を捕まえることが出来た。
「出勤前に心配して電話したんだけど」
「ありがと。着歴、残ってた」
「ナナちゃんの調子はどう?」
「いつも通りだよ」
「ちょっと替わってもいい?」
「いいよ」
僕は、七恵に電話を替わった。
「ナナ、川原先生だよ」
「せんせい?」
七恵の顔が輝いた。
「もしもしー。うん、ナナだよ。元気。うん、パパとね、きょうはえっと・・・・・ね、パパここどこ?」
「旧軽井沢」
「きゅうかるい、ざわ、って言うところにきてる。うん、おみやげ買ってくるから。わかったー。え、昨日? うん、ナナすっごい楽しかったよ。うんっとね、高い山のうえに泊まった。ママとねー、むかしここへ来たんだって。ナナも。今じゃないよ。ナナちっちゃいころ」
七恵は一生懸命、川原に昨日の話をしていた。
「パパに替わる? うん、わかった。はい、パパ」
「もしもし」
僕は、もう一度電話を替わった。
「ナナちゃん、すっごく楽しそうだったね」
「ああ。それだけでも良かったと思ってるよ」
「よかった」
川原はそういうと、少し改まった口調になっていった。
「これからのことだけど、どうする?」
「うん。帰ってからのことも考えないとな」
「実は、ナナちゃんに、大学病院で検査を受けたらどうかなって思ってるんだけど」
「大学病院で?」
意外な話に僕は、やや面食らった。
「あたしが世話になった先生の一人が、ナナちゃんの症例にすごく興味を持ってて、一度東京の病院へ連れてこないかって言ってるんだけど」
川原はそう言ってからあわてて付け足した。
「無理には勧めないよ。今みたいにカウンセリングでじっくり直していく方法でもいいんだけど、やっぱり専門的な機器があるところで診てもらってもいいかなって思って」
「あのさ川原」
僕は、言った。
「俺は、あんまり七恵に、七恵が病気だって意識を植え付けたくないんだ。今お前に診てもらってるのも、七恵がお前のことすっごく気に入ってくれてるからなんだぜ。その先生がどんな先生かは知らないけど、患者として検査やテストをさせるんだったら、俺はそれに賛成したくない」
「そうだね」
少し考えてから、川原は言った。
「あたし、ちょっと軽率だったかも。今の話、忘れて」
「俺はさ、川原」
僕は思っていたことを、言葉にした。
「完全に治す方法がないからって、もう焦らないことにしたんだ。七恵の症状は、日常生活に差し支えるようなものではないし、俺たちが気をつけていけば、もしかして、七恵も自分の心とうまく付き合っていけるようになるんじゃないかな。それまでは、俺もそうだけど、七恵が信頼してる川原に、任せたほうがいいと思う」
「・・・・・・うん。そうだよね」
川原は七恵の症状が、未知のケースなので、ちょっと自信を無くしたのだろう。でも、七恵のことをそこまで真剣に考えてくれていて、ありがたいと思った。
「七恵は、お前のこと好きだぜ。さっきだってあんなに一生懸命話してたじゃないか」
「そっか」
「そうだよ。俺は別の先生に任せる気はないよ」
「・・・・・なんていうか、本当にありがとう」
「いや、感謝してるのはこっちだよ」
「正直、あたし、ちょっと自信なくしてたの。昨日のことじゃないけど、母親には勝てないかなって。ナナちゃんの気持ちを、あたしも把握しきれてなかったんじゃないかってさ」
「それは俺も同じだよ」
僕だって。七恵のことを分かりだしたのは、最近だ。それもやっと、恐る恐る触れなくてもすむかと思えたくらいだ。これからなにが起こるかなんて、見当も付かない。
「七恵のことなんか全部はわかんないよ。これからだって変わってくんだしさ。でもちゃんとつかまえてようとは思ってる」
「そうだね」
「パパ、いこ」
七恵が歩き出している。
「とにかく、七恵のこと、これからもよろしく頼むよ。九月から幼稚園に入るけど、まだ不安定なことも多いと思うんだ。そのときに身近に話を聞いてくれる人が必要だよ」
「・・・・うん。わかった。気をつけて帰ってきてね」
「パパ、はやくー」
僕は電話を切ると、七恵のほうへ歩いていった。
「はぐれるとよくないから、手、つないでいこう」
ちゃんと。
「うん!」
つかまえていなくてはならない。七恵を。
二人で手をつないで、歩いた。
「ねー、パパ」
七恵は僕より少し早足で歩きながら、言った。
「先生とみんなでくればよかったね?」
「そうだね」
僕は言った。
「ナナ、川原先生のこと、好きか?」
「うん! パパのつぎに好き」
ほらね。
電話の向こうの川原に、聞かせてやりたかった。
16
旧軽井沢の町は、僕たちがいたころよりアウトレットの店やブランド店が増えているとは言え、本質的には変わっていない。普通のうちより軒の大きな建物はなく、不恰好な雑居ビルなど一軒もない。
大正時代からあるような日本家屋もあれば、若い女の子向けのブティックなんかもある。さらに、こぢんまりとしたギャラリーや、美術館などが裏通りには点在していて、ここにしかない独特の雰囲気がある。
「この辺はよく、昔からママと来てたんだ」
都内から帰ってくると、ここは大抵、二人のデートスポットだった。買い物をして、ギャラリーを覗いたり、美幸のスケッチに付き合ったりする。夜には地元の友達と合流して、飲んで騒いだ。
メインの通りには、人が溢れているが、決して都内のような急いだ印象はない。僕たちは手をつないで、ゆっくりと歩いた。七恵の身長は、僕よりまだ何十センチも小さい。
「抱っこしてあげようか?」
そう言うと、七恵は、ちょっとプライドを傷つけられたらしい。
「いい。ナナ、パパと手つないで歩くんだもん」
「平気か?」
「平気だよ」
「そのうちおっきくなるよ」
「ナナ、背、のびたもん」
僕も一七二センチはあるし、美幸も一六○を越えていた。七恵もこれから背が高くなるだろう。親としては、それはそれで寂しい部分もあるが。
確かに、七恵は、背が伸びたのには違いない。実際そこにいる一一○センチそこそこの七恵より、僕のイメージはもっと小さいものだった。
僕が握っている小さな手も、ちょっと前までは、まるでゴムで出来たオモチャみたいだったのに、今では、しっかりとした存在感を持ってそこにある。握ったら、溶けてなくなってしまいそうな危うさはない。
洋服や靴を七恵に買ってあげて、僕たちはしばらく、小さな林道を歩いた。明治時代にここを避暑地にした牧師のうちがそこにはあって、そこまで行くつもりだった。
美幸はそこで、その建物をスケッチしたのだ。
「ちょっと暑いね」
手を握った先の七恵が美幸の声で言う。
「夏バテ気味だったから、きついでしょ?」
「そんなことないよ」
僕は、静かに、それに応じた。
もう僕は、美幸がそこに現れても、驚くことはなかった。そこに彼女が本当はいないとしても、失望することはなかった。ただ、会話を楽しむことができた。
「よく寝れた?」
「うん」
僕は軽く、うなずいた。美幸が微笑むところをみると、僕は、昨夜よく寝られたのだろう。
木漏れ日が通り抜ける緑道を超えた先にある建物。一昔前の小学校の木造校舎という感じだ。ここに外国人の宣教師が住み、布教活動をしていたという。
「・・・・・・シーハウス? だよね。絶対コレ」
美幸は目を細めながら、言った。
看板には『ショーハウス』と書かれている。が、明らかに『シーハウス』と書いてから、小さな『ョ』を加えて、書き改めた印象だった。
「ナナ、先に行かないの」
彼女の記憶の中の七恵は、先に上がってしまったのだろう。美幸は玄関に立つと、唐突に言った。小さな女の子が発した声に、前にいた人が、少し驚いて振り向いていた。
「なんか、こういう建物って好きなんだよね。日本でも、向こうの建物でもなくて」
美幸は、明治時代の建築物が好きだった。都内にいたときは、辰野金吾が設計した東京駅の駅舎を描いたりしていたし、この辺りにある三笠会館にも、スケッチに付き合ったことがある。このときも、木造の古い日本家屋の間取りに、西洋風の調度が填めこまれている内装をスケッチブックに描いていた。
「絵、描くだろ。用意してきた」
僕は、行く前にホテルで買ったスケッチブックと鉛筆を、彼女に手渡した。館内に用意されたベンチに座ると、彼女はさっそく、絵を描き始めた。
傍からみれば、四歳の女の子が、手馴れた調子でスケッチをしているのだから、すごく奇妙にみえただろう。さらさらと風景を描く彼女に、後ろを通り過ぎていった老夫婦が、静かに感嘆の声をあげていた。
「五分くらい、すぐ終わるから」
彼女は、左手でパーの形を作って、僕に言った。
ゆっくりしていいよ。
僕は言った。
「ナナのこと、捕まえててくれるかな」
「わかったよ」
「ナナも元気余ってるからねー」
そこから、無言になった。
僕は、いない七恵を探しに、廊下に出た。
七恵は、あのときどこにいたのだろうか。絵を描く彼女の後ろをうろうろしながら、そのとき僕は、つと考えた。
そうだ。
階段から降りられなくなっていたのだ。
東京で住んでいたマンションには、うちの中に階段がない。だから、二歳だった七恵は、慣れていなくて、階段に上れても、降りられなかったのだ。
ろくに子供を扱ったことがなかった僕は、正直うろたえた。とりあえず、七恵の両腕を抱え上げて、抱っこしようとしたが、危なっかしくてできない。
「のぼったんだから、降りられるだろ?」
自力で降りさせようと呼びかけても、七恵は、
「うん」
と、うなずくだけで、ハシゴに近いその階段を降りることができなかった。僕は、美幸を呼びに行った。でも、集中している美幸は、なかなかこっちへ来ない。七恵は、あせった僕が少しきつい口調で言うものだから、泣き出しそうになってしまった。
「なにやってるの?」
ふいに、美幸の声がした。にやにやしているところを見ると、しばらく観察していたのだろう。
「抱っこしておりてよ」
ちょっと意地悪く、彼女は言った。
「俺には無理だよ」
途方に暮れて僕がいい、しばらく、やりとりが続いた後、
「しょうがないなー」
美幸がやると、七恵は泣き止んで、美幸の身体にぴたりと吸いつくようにしがみついた。そのすべてが、まるで魔法だった。
「すごいな」
「別に、すごくなんかないよ」
美幸は笑って言った。
「そうかな」
「今ので練習すればよかったのに」
美幸の腕の中で、七恵はもう、にこやかに笑って、手を振って騒いでいる。
「絵、描けたよ」
それから、美幸は、僕にスケッチブックを差し出した。
「ねえ」
七恵の手を借りて、美幸が僕に描いた絵は、あのときと寸分違わないものだった。
日が翳った洋間から、光があふれる表通りを眺める小さな女の子。窓にもたれる後ろ姿でみえる、丸く膨らんだほっぺは、もちろん、二歳の七恵のものだ。
「パパー?」
四歳の七恵は、僕の顔をじっとのぞいている。ふっくらしたほっぺは、やっぱりあの時のままだった。
「これなーに?」
「ナナだよ。ちっちゃいころのナナ」
僕は彼女に、それをみせてやった。
「これ、ナナかー」
七恵は興味深げに、自分で描いた絵を覗き込んだ。
「ナナねー、ここに来たときのこと、憶えてるよ」
「そっか」
僕が言うと、七恵は、思い出したように、こう言った。
「これ、ママの絵?」
「そうだよ」
僕は、七恵の頭を撫でながら、言った。
「ママが描いた絵だ」
そういえば、美幸は病床でも絵を描いていた。七恵のことを描いた絵が多かった。座っている七恵。絵本を開いている七恵。風景画にも必ず、七恵をモチーフにした少女がいた。それは必ず後ろ姿で、表情は読めない。今、思えば、美幸は、自分の心の中に七恵を刻みつけようとしていたのかもしれない。
臨終のときも、最後まで描いていたのは、七恵の姿だった。こちらを向いている七恵の絵。微笑んでいるのか、どうしているのか、未完成で表情は分からない。ただこちらをむき、僕たちのほうを見ている。
丁寧に、丁寧に、細かい線を積み重ねて描いたあの七恵の絵は、どんな顔をしていたのだろう。何度も何度も、やり直しをした形跡があった。僕は、美幸が、最期にちゃんと七恵の面影を、天国へ持っていけたのかどうか、今でも心配になることがある。
17
旧軽井沢を抜け、僕たちは浅間山ドライブインで、お昼ご飯をとることにした。まだ、この夏は、浅間山は噴火していなかった。二年前に来たあのときと一緒でよかった。
「昨日のこと、気にしてる?」
ふいに、美幸が言った。
「ちゃんと結果、出てから話せばよかったかな」
「そんなことないよ」
僕は、言った。
「―――心配させたかったんだ」
ぽつり、と美幸は言った。
「あ、今のウソだよ? 心配させたくなかったからさ」
「平気なのか?」
僕が訊くと、美幸は笑顔を作って首を振った。
「今は、全然。たまに、微熱っぽくなって身体がだるくなったりとか、あったけど、生理不順とかかな、って思ってたの。和くんも全然、構ってくれないしさ。最近、夜は、ひとりで勝手に寝ちゃうでしょ?」
上目遣いで僕を見る美幸に、どきまぎしてしまって言葉を失う。
「い、いや、それは・・・・・悪かったと思ってるよ」
「本当に思ってる? 新妻なんだけどな、わたし?」
七恵が生まれてから、僕たちが身体を合わせる回数は、確実に少なくなっていった。美幸の身体を気遣ってもいたし、うちに帰ってきた僕は疲れていて、それを考える暇もなかったというせいもあった。
たまに思い出したようにするときは、行為自体の時間は、至極短いものだった。僕は、まるで長い航海で疲れた船がドックに立ち寄るようなもので、彼女の異変に気づくべくもなかったのだ。
「とにかく無理だけはしないでくれよ」
僕が言えることは、それだけしかなかった。
「それはこっちのセリフだよ」
美幸は口を尖らせて、言った。
「また眠れなくなったら、どうするの?」
「仕事のこととは話は別だろ?」
「仕事の話はしなくていいから」
「俺のことはいいだろ」
「よくないよ。これじゃ、なんのために、旅行きたか、分かんないじゃんか」
美幸は、僕の言葉に追いかぶせるように、言った。
「とにかく平気だってば。あたしが倒れちゃったら、あなたもナナも、どうしようもないでしょ」
「うん」
そのときは、僕は肯くしかなかったのだ。
思えば、どうってことはないと思うしか、二人には対策がなかった。本当に美幸が倒れるまで、僕はなんの手立ても打とうとはしなかったのだ。津波が来るまで、海に出なくては生活できない漁師のように、ただ日々を刻んで。生活に駆り立てられて。
僕は、目を開けた。
あの日のように、ジーンズと白いシャツでラフにきめた美幸はいない。長い髪が風になびいて、ドライブインの駐車場を駆け回っている七恵をいとおしげにみつめている美幸はいない。
細いけど、意外としっかりした身体の感触も、甘い匂いで伝わってくるぬくもりも、もうそこにはない。
耳元に、残る彼女の声が、はっきりと、彼女がそこにいないことを告げている。
「美幸」
僕は、小さく、彼女の名前を口にした。
僕のまぶたの裏で、美幸は目を閉じて軽く首を振った。その途端、なんの遮蔽物もない夏の陽射しの中で、美幸の姿は、きらきらと輝いて泡のように溶けていった。
「・・・・・・パパ、パパ」
僕は、いつのまにか、七恵の身体を後ろから抱きとめていたことに気がついた。柔らかくなびく髪の毛を撫でて、暖かい彼女の頬に触れたとき、僕はふいに現実の世界に引き戻された自分を知った。
「どうしたの?」
七恵が頭を上げて、背中越しに不思議そうに僕をみていた。
「ナナか」
僕は言った。
七恵は、目を丸くしてから、答えた。
「ナナだよ?」
見晴台に続く草原で、七恵と鬼ごっこをしていたみたいだ。いつのまにか、七恵を抱いて座り込んでいた。
「ねー、今度ナナ鬼でしょ?」
背中を向けていた七恵が、僕のほうに向き直る。
「そうだっけ」
「そうだよ。こんどはナナが追っかけるほうだもん」
七恵は僕から身体を離して、立ち上がった。
「ナナ、パパのこと捕まえちゃうよ。にげてー」
「わかった」
僕は立ち上がって駆け出した。すごい早さで十秒数えて、七恵が走ってくる。僕は、七恵の突進をかわしながら、しばらく逃げ回った。
ジャンプしてきた七恵を、僕はもう一度受け止めた。ぐっ、意外と重たい。強い衝撃が腰にきた。スピードとタイミングのせいとは言え、七恵の重さに僕はバランスを崩しそうになった。芝生に尻餅をつく。僕の頬に七恵の汗ばんだ手が当てられた。
「はい、タッチ! パパ捕まったー!」
「パパ、負けた」
僕は降参を認めた。そういえば、昨日今日で二敗もしている。情けない限りだ。
「またナナ勝っちゃった」
七恵は嬉しそうに勝利を宣言した。
抱きしめた七恵の身体は、熱かった。子供は、太陽みたいな生命力を内に秘めている。それは大人でも受けきれないくらいの爆発力を持っている。その源はどこから来るのだろう。僕たち二人の身体の中から来ているとは、思えない。でも、そうなのだろう。
僕と美幸で創った彼女は、毎日核融合しているみたいに動いている。それは、入道雲が湧きあがった空で輝く太陽と同じ機関だ。考えてみると、それはすごく、ものすごいことなのかも知れない。
「じゃ、今度はきょうそうしよ! ね、パパー」
七恵は僕から身体を離すと、そう言った。言って、もう遠くまで走っている。
さっきの彼女のスケッチの中に、笑顔の七恵がいた。
それは、浅間山のドライブインで描いたものだった。手をあげてはしゃぐ七恵の後ろに、大きな浅間山がそびえている。
その空は大きく開け、こちらをむいて微笑んでいる七恵の瞳に、まぶしいくらいの光を与えていた。
僕は、七恵の姿を追いながら、今ある、山を見上げていた。あのとき、僕は、どこに立っていたのだろうと考えていた。
「パパ、こっちだよー!」
七恵の瞳に映るまぶしい光は変わらない。その向こうに開けた空も。でも、空の上で煙っているのは、夏の入道雲だけではなく、今は、浅間山の火口から出ている不穏なガスだった。
18
長くみていなかった夢をみた。
僕は美幸の病院にいた。夜の病院だった。まだ春は来ていない二月の末で、窓の外は漆黒の闇だった。それと同じくらい厳しい冷気が病院のリノリウムの床を伝っていた。
美幸の意識が戻らないという連絡を受けた僕は、夜中になんとか、病院に駆けつけた。そこでは既に、七恵を連れて両親が僕を待っていた。
彼女の病室へ入った。むっとするような暖気、そこに籠もる匂いに頭がくらっとした。空気の煮詰まった、何かが醗酵しすぎたような。死の匂い。ちょうど、彼女のお父さんが亡くなった時、病室がこんな匂いがした。不吉過ぎて、そのときの僕には、頭に浮かんだその言葉をそうだと認める勇気が湧かなかった。ただただ、かぼそい思いで、どこかで奇跡が起こって、彼女がこの匂いの中から生還することを祈っていた。
昏睡しながら、うわ言を言い続けている彼女の姿を、僕は、とても直視することが出来なかったっけ。
ただ、椅子に座って手を握っていた。
それは、表面だけが暖かい、熱を持たない手だった。あのとき、七恵の絵を描いていた手を、僕が握っている。握っているのに、そうとは思えないくらい力を失っている。
僕の手は強い力で美幸の手を握っているのに。濡れた手のひらは、僕の汗だった。
「北原さん」
何時間、そうやっていたのかわからない。
顔を伏せながら、ときおり、美幸の声が聞こえる。
まどろみの中で、彼女は、お父さん、お母さん、と、名前を呼びながら、深く、苦しげなため息をつく。遠い、どこか遠いところにいる誰かを呼んでいるように。
「美幸」
僕は美幸の手を握り締め、名前を呼びかけた。
僕の声は、彼女に届かない。
うわ言は言葉をなさなくなり、と息の中に呑み込まれて、やがて、消えていった。
「美幸」
それでも、僕は彼女の名前を呼びながら、つぶやきながら、手を握り、そこに突っ伏していた。
どうして。誰かどうにかしてほしい。美幸を連れて行かないで欲しい。そんな気持ちは、もう絞りつくしてしまった。もう、なにも考えられなかった。ただ、美幸が、ここにいてくれることだけしか望むことはできなかった。
何にすがりついても、どうしても、美幸を連れて行かれたくなかった。
目をつぶると、そこには漆黒の闇の渦しかない。
美幸とともに過ごした思い出のすべてが、その闇の中に引きずり込まれて、美幸ごと溶けてなくなってしまう。頭の中で、それだけを恐怖する心が、ぐるぐると回っていた。そして、それさえも、巨大な闇の渦は飲み込んでいった。
何度そこに、彼女の名前を投じただろう。
美幸。
ただ、それだけだ。
美幸。
美幸。
美幸。
「和義」
名前を呼んだのは、僕の母親だった。顔を上げると、もう、そこには、彼女はいなかった。
ひどく明るい朝陽が、病室のブラインドの隙間から、射している。
顔をあげた僕の視界が朱に染まるほど、病室はその光で満たされていた。
周りにいる誰もが、なにかを言葉で表わさない。ただ、まだ仕事の残っている医師や看護婦たちが、静かに音を立てて、その行動を開始した。
僕の体温だけが残る手を、僕は、手放した。顔をあげると、薄く唇を開いた彼女がまだ、そこには横たわっていた。
その横たわる彼女から、美幸は旅立ってしまった。
「・・・・・・美幸」
僕は、いなくなってしまった人の名前をつぶやいた。
今は、目蓋を閉じても、光が入ってくる。
すべてがそこから無くなってしまった。
闇が、美幸を連れ去ってしまった。
はっきりと、僕は、思い出した。
あのときのこと。どこかで、僕は避けていたのだろう。それを思い出してみることを。そして、そうしていたことが七恵からも、自分を逃がしてしまう結果になったのだ。
深い夢は、時間の感覚すら狂わせていた。僕は、二年前の僕になっていた。そこから、今、目覚めた。
顔を上げると、目に涙が溜まっていた。
そうだった。
僕はこうして。
泣いていたのだ。
「パパ、起きた」
七恵の声がした。疲れたので、途中のドライブインで小休止をとったのだった。七恵がよく寝入っていたので、ちょうどいいと思っていたが、自分もこんなに寝てしまうとは思わなかった。
「あ、ごめん」
僕は、軽くのびをすると、言った。
「パパ、寝てたか」
「うん」
みると、七恵の膝の上に絵本が乗せてあった。彼女は一足早く目が覚めて、僕が起きるのをずっと待っていたのだろう。
「ずーっと寝てたよ。だからね、ナナ、あんまうるさくしちゃだめだと思ってた」
「そっか。ありがと」
「ねー、ナナおトイレ行きたいよー」
「わかった」
「ずっとね、パパ起きるの待ってたんだから」
僕は、ドアのロックを外した。ドライブインのトイレは目の前だ。
「ナナ、一人で行けるか?」
「うん、ナナ、ひとりでいけるよ」
七恵は堂々と言い返すと、外へ出て行った。
彼女のスケッチブックが、七恵の座っていたシートに残されていた。僕は、それを拾い上げてみた。
美幸が描いた裏に、七恵が絵を描いていた。
それは、七恵らしい女の子の姿だったり、昨日みた教会だったり、好きな動物の絵だったりした。七恵の絵は、たいてい頭が大きすぎて、たまに全身を描けなくてはみだしたりしている。目はさらに大きくて、キラキラしている。
なんだか、すごく微笑ましくなる。
僕は、一枚一枚めくってそれをみていった。
ぱらぱらとめくっていって、最後のページに、ある一枚の絵が描きかけてあったのを発見した。そこから、全然タッチが違っていた。何度も細かい線を積み重ねた、美幸のタッチだった。
それは、七恵の正面を描いた絵のようだった。美幸が最期に描き残したのとまったく同じ、輪郭と首の下までを描いただけで、筆が置かれている。
僕は、そこに美幸が残していきたかったのは、なんだったのだろうと思った。せめてそれが完成するまで待たずに、美幸を連れていってしまった誰かを、僕はこのとき恨めしく思った。
帰るころには、もう日は沈んでいた。
うちにはもう、七恵の好きな鳥のから揚げとエビフライが山盛りになっていて、準備は一時間も前から整っていた。
「おぅ、遅ぇぞ」
親父はちょっとほろ酔いになっていて、抱きついた七恵にお酒くさい、と注意されていた。母親が僕のビールのグラスと七恵のジュースを用意してくれて、みんなで夜ご飯が始まった。
七恵はご飯粒を口元にいっぱいつけたまま、おじいちゃんとおばあちゃんに何度も旅行の報告をしていた。二人とも、七恵が楽しんできたことだけを喜んでくれた。
七恵が言った、みんながいるから楽しい、と言っていた言葉を僕は思い出していた。
19
僕は次の日、七恵を連れて川原のところへ行った。電話をすると、今日は休暇を取っているらしく、彼女のマンションの近くの喫茶店で会うことにした。
アジアンテイストの内装をあしらったその店は、川原のお気に入りのようだった。コンデンスミルクと混ぜて飲む、甘いベトナムコーヒーと杏仁豆腐を頼んで、僕たちはしばらく話した。
「悪いな、休みの日に」
僕は言うと、
「ううん。いいよ、別に。気になってたし、休んでも特に予定はなかったから」
「せんせ、おみやげ!」
七恵は、川原に旧軽井沢で買ってきたお土産を渡して、しばらくはしゃいでいた。
「ありがと。覚えててくれたんだ」
「うん! せんせーもこんどナナと行こ!」
「そうだね」
川原は、七恵の頭を撫でて微笑んだ。
「旅行の成果はあったかな」
川原は僕のほうへ向き直ると、そう話しかけて、
「もう、そういうものでもないか」
「成果を出そうとは、考えてないよ」
僕は言った。
「無意識に、そう思ってた部分もあったけどさ」
「病気だととらえるとどうもね」
川原はため息をついて、言った。
「でも、成果はなくもなかったよ」
川原は七恵に目配せをして、言った。
「ナナちゃん、すっごく楽しかったと思うよ」
「ナナ、すっごくたのしかった!」
七恵も川原の言葉を復唱した。
「それだけじゃないよ。僕も、思い出したよ」
「・・・・・・・美幸のこと?」
「あー!」
七恵が嬉しそうな声を出した。
そのとき、店員がベトナムコーヒーの容器を持ってきた。ベトナムコーヒーの飲み方は、普通のコーヒーと少し違っている。
まずコンデンスミルクを入れたグラスに、アルミ製のコーヒー豆を入れた容器を被せ、そこに店員が熱湯を入れる。するとコーヒーは、下のミルクの中に少しずつ落ちていく。香ばしいコーヒーの黒い雫が、乳白色のミルクと二層になって、だんだんと溜まっていく様子は、普通のコーヒーを飲むときとは違って、面白い。
「ナナ、コーヒー飲めるのか?」
七恵の分も注文してある。僕は思わず聞いた。
「大丈夫だよ。これ、苦くないから」
「ナナ、コーヒーのガムだいすきだよ」
テーブルにあごを乗っけて、七恵は、コーヒーが溜まっていく様子を眺めていた。
「美幸と話したの?」
「そうじゃないよ」
僕は、言った。
「でも、そうなるかもしれない。でも、ナナの中にいる美幸じゃないよ。自分の中にいる美幸に会えたかも」
「北原君の中に?」
「・・・・・こんなこと言うのも、なにか自分勝手な感じで嫌なんだけど」
「?」
「美幸が死んだときのこと、もう一回思い出したんだ。あいつが死んだっていうこと、俺は、記憶の中に事実としてあっても、実感としては忘れていたのかもしれない。俺のほうこそ、美幸が死んだってことをきちんと受け止めてなかったんだろうな」
「忘れてたっていうより、封印してたのかもね」
川原は言った。
「そうだろうな。・・・・・やっぱりまだ少しきついけど、よかったとは思うよ。思い出せて」
僕には美幸が死んでからも、僕や七恵に世話を焼いて、正しい方向に導いてくれた気がしてならなかった。
正直なところ、僕は仕事を畳んで故郷へ帰ってきてからも、いざここでなにかをする決心がつかなかった。ともすれば、あれだけ精神的に追いつめられていた東京へ戻らなくては、という思いに駆られ、いまだに、なにかに追いつかなくてはという感覚を忘れられなかった。かといってそこへ戻ったとして、自分がまともにやっていけるかという自信はなく、ただ漂っている自分を不甲斐ないとさえ、思っていた。
ここで仕事に就くのにまだためらいがあったのも、たぶん、そのせいかもしれない。だが、今は、本当になにが必要でなにが必要でないか、僕は気がついている。それは、僕が七恵を、僕の腕の中にとらえておこうとする日々を、美幸が仕組んでくれたおかげのようにも思えていた。
そんなことをつらつらと、川原に話した。最後に、
「ナナのことよりは、今回は俺のカウンセリングみたいなものだったのかもしれない」
と、言うと、川原は首を横に振って、
「ううん、最初から、カウンセリングの対象は、ナナちゃんだけじゃなかったから。子供の中で親の価値観は大きいのよ。お父さんがしっかりしなくちゃ、子供を受け止められないでしょ」
「そうだね」
言ってから、二人で笑った。
「出来たみたい」
川原が言った。コーヒーのことだろう。
「ミルクとコーヒーが分離してるでしょ? スプーンでミルクと混ぜて飲むの」
僕と七恵はさっそく言うとおりにして飲んでみた。ベトナムコーヒーは、予想していた以上に、すごく甘かった。
「ナナちゃん、おいしい?」
「うん! ナナ、甘いの大好きだもん」
「すっごい甘い」
コーヒーには普段ミルクしか入れない僕にはちょっと、きつい。どろっとしたコンデンスミルクが、口の中に長く残っていて、いつまでも甘いのだ。
「よく飲めるな」
「あたし、普通のコーヒーもお砂糖三ついれないとダメだから」
「意外だな。川原はブラックかと思った」
「そういうふうに見えるでしょ」
ふふふ、と微笑む川原は、学生時代に戻った感じがした。
「美幸も、こういうの、好きだったんだよ。これね、大学二年のときに二人で、ベトナム旅行したとき初めて飲んだの。このお店でみっけてからは、ここにちょくちょく来てるんだ」
そう言えば、と僕は思い出した。どこかの喫茶店で、美幸に、チャーイを飲んでみようと、誘われたことがあった。チャーイはインドのミルクティーで、これもすっごく甘かった。僕はどうも東南アジアとか、向こう方面のものにセンスが合わなかった。
たぶん、僕がそのとき、あんまりいい顔をしなかったので、ベトナムへは、川原を誘っていったのだろう。
「ナナちゃんは気に入ったみたいだね」
七恵はもう自分のを飲んでしまって、残っている僕のグラスをじっとみていた。
「ナナ、パパの飲んでくれよ」
「もらうー」
甘いものが大好きな七恵は、すっかり気に入ったみたいだった。
帰り道、しばらく河川沿いの道を歩いた。
砂利道を歩く僕たちをときおり、大きな雲が通り過ぎていく。その雲は、澱のように溜まって、やがて黒く染まる気配がした。
「夜、大丈夫かな」
川原は、空をみてふいに言った。
今夜は送り火だ。天気を心配してくれているのだろう。
「平気だよ」
僕は言った。
「たぶん、雨は降らないと思う。ただの希望だけど」
「だいじょぶだよ」
七恵も、胸を張って言った。言ってから、
「ねー、なにがだいじょぶなの?」
と、聞いた。よそみをしていたのだろう。
「今日、ママ帰る日だろ?」
僕は答えた。
「送り火に行くんだよ」
「あ、うん、それだったらだいじょぶだよー」
だって、と七恵は言って、
「ナナ、絶対行くもん! だから、だいじょぶ!」
「そっか。なら、大丈夫だね」
そう川原が言って、三人で笑った。
「・・・・・・じゃあ、ナナちゃんに任せた」
彼女は言った。
「来てくれないのか?」
僕は、言った。半分冗談で聞いたが、半分は真面目だった。
「行かないよ。美幸とナナちゃんと、あなたと三人でしてきたほうがいいよ」
川原はそういってから、冗談めかして言葉を継いだ。
「ホントは来たかったけど」
「・・・・・・・・・・」
「嘘だよ。本気にしないで」
「せんせいもくるの?」
七恵が話に入ってきた。
「先生は行けないんだ。ナナちゃん、先生の分も、ちゃんとママにバイバイ、ってしてきてね」
「うん! わかったよ!」
七恵は元気よく、言った。
20
僕と美幸と七恵で、三人で過ごした三日間の最後の時間は、少し冷えた空に黒い雲がよどむ夜だった。あのとき、美幸を連れ去ってしまった暗闇が、再び、彼女を連れ戻しに来たかのようで、車を運転しながら、僕はあまり気分がよくなかった。
「あめがふるね」
湿った空気が、鼻や頬を濡らして、窓から顔を出した七恵にも、そんな感想を言わせた。
しかし、天気は、もった。
僕たちが、美幸を迎えた場所に着くころ、黒い雲からかすかに月がのぞき、薄明るくなった。
風がなくなったのも幸いした。おかげで、僕たちは送り火の用意を、すぐに整えることが出来た。
「そら、晴れてきたー」
七恵が嬉しそうに言った。
「ママ、ちゃんと帰れるかな」
「大丈夫だよ」
「くもりだと通れないの?」
「なにが?」
「そら」
七恵は、そう言って、不安そうに空を見上げた。
「明かりが空まで届けば、大丈夫だよ」
僕は言った。
「後は、ちゃんと、ナナとパパが迷わないように、送ってあげること」
「そっかー。ねー、またママくるかな」
「来るよ。また、来年ね」
僕は、天を仰いで、もう一度、言った。
お盆というのは、不思議な行事だと思う。
死んでしまった人を、三日間だけ、迎え入れる行事。死者は、この三日間だけ、現世の人に迎えられて、我が家に戻る。彼らは、決して、生き返るわけでもない。そして、三日後には、どこかへ戻るのだから、死んでもいない。ただ、ここからいなくなるだけだ。
僕たちは、この期間だけ、いなくなってしまった人が、ここにいてくれることを望むことができる。普段、してはいけないわけではないが、望んでいいという理由付けを、そこから得ている。こうして僕たちは、もういなくなってしまったし、肉体は、とっくに土に還っていることを知りながら、ここにいてほしいと思う。
―――あなたが、ここに、いてほしい。
いてほしい誰かを自分に呼び込むために、僕たちは、火を焚くのだろう。
七恵は、新聞の用意に余念がない。準備してきた新聞紙が多かったので、キャンプファイアと勘違いしているむきもあるが、美幸を送るのに、盛大に炎を焚きたい僕の気持ちとそれは同じだったので、黙ってみていた。
「出来た?」
頃合を見計らって、僕は聞いた。
「できたー!」
七恵が両手を広げている。足元には、丸めた新聞紙が盛大に積みあがっていた。
「火はパパがつけるよ。待ってて」
「えー。ナナしたいなー」
「ダメ、危ないから」
僕は、七恵のほうへ近づいていって、そこで仏壇から持ってきたチャッカマンで火をつけた。
炎は、新聞紙を溶かすように、その範囲を広げていき、やがて静かな音を立てながら、遠くの暗い空に向かって、その細長い舌を伸ばし始めた。
「さあ、ナナ、目をつぶってちゃんとママを送るんだよ」
僕は言うと、七恵は目を閉じてお祈りをはじめた。しかしそう言った僕は、目を閉じることが出来ずに、ただ、立っていた。
祈る気持ちが、なかったわけじゃない。
目の前で赤々と燃える炎に、魅入られていたからだ。
暗い海の向こうの灯台のように、広大無辺の空の向こうへ、この炎は、どこまで照らしているのかと、思った。前に、お盆に炎を焚くのは、生きている人間も死んでいる人間も、そこに泳ぎ着くために目印を立てているのだと、言った。本当にそうだと思う。
僕たちはみな、暗い海の中を一人で漂う寄る辺のない漂流民のようなものだ。僕たち一人一人がすべて違った個体で、こんなに近くにいながら、やっぱり、違うことを感じて生きている。手が届いてるつもりで。よく見えてるつもりで。失ったものを、また手に入るものだと思いながら。僕たちは、一人だけの暗い海域を遭難しているようなものだ。
その暗い世界に炎を灯すのは、それが、誰もが目指す明かりだからだと思う。炎に惹きつけられるのは、そこには、自分と同じように、寄る辺なき人々が集まっていて、誰かが集まるだろうことを知っているから。たどり着けば、そこには、いてほしい誰かが、必ずいると思うからだ。
あの炎を探して、美幸は来てくれた。
僕と七恵は。そこに泳ぎ着いたのだ。
僕は、目を閉じることが出来なかった。それは、目を閉じてしまえば、また暗闇の海が待っているような気がしたからだ。
「ねえ」
炎はまだ、闇を揺るがすように、燃えていた。その炎に一番近いところで、祈っていた七恵が目を開けていた。僕の方をみていた。美幸が、出てきたのかもしれない。美幸と、最後のお盆に話したことを思い出した。
彼女は。
確か父親の話をした。
「こんなんで、ちゃんと送れるのかな」
「大丈夫だよ」
僕は、応えた。
「ちゃんと、・・・・美幸・・・・・きみは、来れたじゃないか」
答えがないと知りながら、僕は、言った。あのとき、僕は、本当はこう言ったのだ。
「大丈夫だよ。それに送れないんだったら、ずっといてもらえばいい」
そう言った。
「それでもいいけど、うちは狭すぎるよ」
答えて、きみは笑った。
七恵の中にいる美幸は、微笑んだ。
炎に照らされて、輝く彼女の瞳は、すごく綺麗だった。
七恵の口が開く。
美幸は、静かな声で、言った。
「そうだね」
僕は、答えが無く、ただ黙っていた。
すると美幸は、僕の瞳を覗き込むようにして、言った。
「送ってもらえないんだったら、ずっといようかな」
「・・・・・・?」
僕は、顔を上げた。
「嘘だよ。ちゃんと、帰る・・・・・ナナちゃん、おっきくなったね」
美幸は七恵の肩に手を当てて、言った。
「み・・・・・ゆき?」
僕の声は震えていた。
こうして、声を出すのも、やっとのことだった。
美幸はうなずいた。
「そうだよ」
信じられなかった。
「本当に・・・・・・?」
「うん」
美幸は言った。言葉など、それだけで十分だと言うように。
七恵の姿をしていた。でも、美幸だった。僕には、わかった。人に話せる理由はないけど、目の前にいるのは、やっぱり本当の美幸なのだと思う。七恵の記憶の断片などではない。
君はここにいる。
「ずうっとナナの中にいたよ。・・・・・・ちゃんと、あなたを、ナナをみてた」
美幸の声。りんとして、それでも暖かい。ただ、胸に響いた。
僕は、言葉なく、彼女の話を聞いていた。
「ナナはすごく強い子だったよ。あたしがいなくなっても、きちんとママに言われたことをして、おばあちゃんにお世話してもらいながら、パパを待ってた」
「うん。七恵は、すごく強い子だと思うよ。俺が七恵をほったらかしにしたって、何も言わなかった。川原にも、会っただろ? カウンセラーで、七恵の相手をしてもらってるんだ。七恵は一生懸命俺に心配かけないようにしてるよ。四歳の女の子が。それに俺は長い間気づかなかった」
「わかってる」
美幸は、言った。
「でも、ナナは今、すっごく幸せだよ。パパがずっと傍にいて、おじいちゃんも、おばあちゃんも、みんながナナのこと見てくれてる。毎日が嬉しくて仕方ないの。誰かに、誰でもいい、このことを話したくて、うずうずしてる感じ」
「そうなんだ」
僕は、それしか、言う言葉を持っていなかった。
それなら、よかった。
僕は、ずっと不安だった。美幸、君がいなくなってから、七恵が何を感じて、どんなものを、どんなふうな目で、見ているかを。赤ちゃんのもろい身体に触れるように、七恵の心にどう触れていいのか、ちゃんと触れているのか、ただ、不安だった。
「・・・・・・ありがとう」
「それは僕が言うことだよ」
「ううん」
美幸は、首を振った。
「七恵と、あたしの気持ちだよ。・・・・・本当に・・・・・・・ありがとう」
そのとき、少し冷たい風が吹いて、炎が凹むように揺らめいた。彼女の髪が、細く流れて、かすかに煌めく。僕に美幸のように絵を描く力があれば、迷わず、この瞬間を時間の流れから切り取っておいただろう。
美幸の声が響く。
「旅行もすっごく楽しかったし」
21
しばらく座って、二人で話した。
昔の思い出、七恵のこと、思い出せないくらい。君は笑い、以前のように僕の肩に頭を乗せて、ときおり、ただ黙って、息をついた。
炎は消えていた。でも、月明かりが優しかった。一本しかないけど、新しい街灯が、がらんとした駐車場を照らしていた。
大したことのないものでも、とても美しくみえる。たいしたことのない一瞬でも、ずっと記憶に刻み込んでおきたい瞬間になる。そんなふうに感じたのは、今夜が初めてだった。
「教会?」
「そう、旧軽の町中の。あすこで待ち合わせしたの、憶えてる?」
旧軽井沢の町中に、小さな教会があった。少し狭い町の一角で、大きな杉の木が生い茂った広場で、よく、美幸と待ち合わせをした。僕が、用事があって電車が遅れたり、美幸がバイトの都合で遅くなったりした。
ある日も、そうやって待ち合わせをしていた。僕の誕生日の冬の日に、美幸がお祝いをしてくれることになっていて、六時に、僕たちはいつもの教会で約束をした。
ところが、いつになっても、誘った美幸が来なかった。やっと連絡が取れたと思ったら、彼女は、病院にいた。病院に運ばれた中島を介抱していたのだ。
はじめ、ちゃんと理由を説明したがらない美幸に、僕は怒った。美幸と中島はどうして会っていたのか。あまりに僕が怒鳴ったので、美幸もつい応戦して、病院の廊下で怒鳴りあいになった。もちろんそのあと間もなく、二人して、外へつまみだされたが。
外気に当たって、冷静に話してみると、こうだった。
中島は、帰郷してきて仲間内で飲んでいるうちに、ベロベロに酔っ払ってしまった。そして、仲間が止めるのも聞かず、美幸のところへ想いを打ち明けに言ったわけだ。
美幸と僕が付き合っていることは、もう、周知の事実だったが、中島は諦めきれなかったらしい。この前の酔い方をみると、美幸がいなくなっても、諦めきれないみたいだったが。
出かけようとする美幸と、中島は彼女の家の外で鉢合わせした。中島はそのとき、なにか言おうとしたみたいだが、それが限界だった。中島は、美幸の前で急性アルコール中毒になって、ぶっ倒れてしまったのだ。道路に倒れて痙攣する中島を寒空の下で放っておけるわけがない。美幸は病院まで連れ添った。そのうち、中島と飲んでいた仲間が、来たので美幸は行こうとしたが、
「頼む・・・・・いかないで」
ほとんど昏睡状態に近い中島に強制的に引き止められ、彼が落ち着くこの時間まで連絡できなかったというわけだ。
ちゃんと話をしたら、二人で大笑いした。
「それにしても、ホント、はた迷惑なやつだよ、あいつは。この前も、酔ってお前のこと言ってたぞ」
「進歩ないなー。でもそれ、ちょっと聞きたかった。・・・・・・でも、あたしたちの結婚式のとき、同窓のみんな集めたり、スピーチしてくれたりしてくれたよね」
「あいつ、シラフだとまともなんだよな」
「そうだよね」
二人で、笑った。
「あ、そうだ」
美幸は、言った。
「久美ちゃんに、ありがとうって言わなきゃね。ナナも、すっごく救われたと思う。・・・・・・ナナさ、川原先生に話したいこと、いっぱいあるんだなぁって、感じるよ」
「俺も、川原に感謝してる。川原がいなかったら、俺も、こんなに七恵と向き合おうとしなかっただろうし、自分が抱えてるすべてのことが、ちゃんと見えなかった気がするよ」
「久美ちゃんに、ママになってもらえば?」
「お前な」
「冗談だよ。・・・・・・・・でも、してもいいよ」
「したら?」
僕は言った。
「呪う」
「あのな」
冗談だよ。そう言って、美幸は笑った。
「でも、これからさ」
美幸は、七恵の胸に両手を当てて、言った。
「ナナは、こうやってどんどんおっきくなってくんだね。心も、身体も、ナナを取り巻いてく人たちの輪や、ナナがみれる景色やわかったりできることの数も、なにもかもが。あたしが自分でそうやって育っていったころは、気づきもしなかった。お母さんやお父さんは、どうやってあたしの姿をとらえていったのかなって、思ったりするよ。
なんて、貴重な時間だったんだろう。
毎日毎日、新しいことが身体の中へ入ってきて、ナナの中で化学変化を起こしてくの。失敗したり、思ってもみなかった結果が出たりして、ナナはどんどん変わっていく。ナナを変えてくものがなんなのか、ナナがどう変わってくのか、あたしたちが把握しきれないくらい。心配になるよ。・・・・・・ナナが心配なんじゃなくて、怖くなるの。だって、そしたら、あなたも、あたしも手の届かないところに、いつか、行くのかな、って思って」
「行かないよ」
行きはしない。行ってしまったって、見失いはしない。僕たち、親だって変わっていくのだ。七恵の化学変化を出来るかぎり受け止めて、それに応じて僕らも化学変化する。駄目なところは改良していけばいい。試して、いい道を探していけばいいのだ。
だから、僕は七恵をとらえようとはしない。七恵の姿自体を、見失わないようにとらえておくことはしても。そして、僕自身も七恵を変える化学変化の化合物のひとつになればいいのだ。
僕がそんな意味のことを言うと、美幸は微笑みながらうなずいた。
「そうだよね」
「そうだよ。・・・・・・難しいけど」
「・・・・・・いいなぁ」
美幸の声。かすかに擦れている。彼女は僕の顔をみて、話すことが出来なかった。
「あたしも、・・・・・・・ナナがどうやって変わってくのか、近くでみたかった。・・・・・・・これからナナを変えてく化学変化の化合物のひとつになりたかった」
「美幸は」
もう、七恵の中に溶け込んでいる。七恵は、すごく大きな変化を経験している。そう言おうと、思った。でも、声が出なかった。ただ、美幸が肩を震わしているのをみていた。彼女が泣いているのに、なにも出来ない自分がいるのを、ただみていた。
「美幸は」
僕の言葉は、ようやく、形になった。
「もう、ちゃんと七恵の一部になってるよ」
「うん」
美幸は手の甲で、涙をぬぐった。
「わかってるよ」
僕は何も答えられなかった。ただ、美幸の言葉を待った。呼吸を整えて、やがて、彼女は言った。
「あたしは、ここにいるよ」
「・・・・・あとは・・・・・・・・・・」
話題を探すときに、美幸が言った言葉。美幸は、僕の上での中から、立ち上がった。彼女は首を横に振った。そして、決意をするようにため息をひとつ、つくと、僕のほうを振り向いて、言った。
「新聞紙、まだ余ってたよね」
「あ、ああ」
予備のが、まだ後部座席に積んである。
「帰るね」
美幸は、言った。
「送ってほしいな」
再び、色を失ったような薄闇の世界で、炎が灯った。今度は小さな火だった。でも、僕たちを取り巻く暗闇を溶かすのには、十分だった。
美幸は炎の前に立った。美幸の白い肌を、炎が赤く照らす。美幸は再び、闇の向こうへ泳いでいくのだ。すべての人が漂いながら、誰かの姿を探す一人の海域。炎に集まった僕たちは、また。ここへ戻ってくることができる。
あなたが。
ここにいてほしいと願いながら。
「あのさ」
僕は、言った。
「話ができて、よかった。最期に、美幸と話が出来なかったから。ずっと後悔してたんだ。ちゃんと、会って言いたかった」
本当にすまない。
美幸は、首を横に振った。
そんなことないよ。
「あたしも、会って話したかった」
美幸は言った。
「ちゃんと、・・・・・・・・言いたかったよ」
炎が、揺れる。
「愛してる」
そのとき、強い風が吹いた。もうあまり量がなかった新聞紙は、風に翻弄されて、そこに立っていた炎はあっけなく、消え去ってしまった。そのとき、僕は、美幸のそのものが消え去ってしまったように思えた。来たときと同じように、美幸は、唐突に、あわてて、去ってしまったのだと。
僕は、美幸が残した言葉を心の中でつぶやき続けていた。ここに。美幸がいたこと。七恵の中に。美幸がいること。もっと、刻み付けておきたかった。どうしてもっと、伝えたいことがあったのに。
「・・・・・・パパ」
七恵が言った。まだ、炎の燃えかすが燻ぶっていた。風は消えて、夏の夜気が、漂い始めていた。
「ナナ、ちゃんと聞いたよ・・・・・いまね、ママが、ありがとう、って」
七恵の声が震えていた。振り向くと、やっぱり、大きな瞳に涙を溜めていた。それをみたら、さっきまでは、感じる暇もなったのに、僕も同じように涙が出てきた。
「・・・・・・・そっか」
僕は、七恵の身体を抱きしめた。小さな七恵には、もう、美幸が刻みつけた化学変化が起こっているような気がした。ここにいる美幸と、ここから去っていった美幸。どれも、七恵を再構築していく。七恵は変わっていく。そして、僕を変えていく。
「ママ、行っちゃったのかな」
僕の胸に顔を埋めながら、七恵はつぶやいた。
「行っちゃったよ」
僕は、言った。
「でも、ちゃんとここに戻ってくる」
「らいねんまで?」
「そうだね」
僕は言った。
「来年も来よう」
七恵は、そう言うと、嬉しそうにうなずいた。七恵の身体を抱き上げると、あの炎の残り香が、シャンプーとひなたの匂いに混じって、まだ暖かく、残っているような気がした。
見上げると、空は薄く、雲が晴れて月が地上からの道を照らしていた。そこから振り返ると、地上のこの場所は、ぽつんと海の上に浮かんだ離れ小島のように見えるだろう。また来年、美幸はここに、戻ってきてくれるだろうか。
そんなことをただ、考えていた。
22
「パパー!」
幼稚園の制服を着た七恵が、向こうで、手を振っている。
「待ってくれよ」
雲ひとつない、秋晴れのいい日だった。まだ陽射しは少し強いが、風景は秋に変わり始めている。転入したら、もう、すぐに運動会の時期だ。
「おそいー」
「車の中で待ってればいいじゃないか」
「ナナ、パパがきてからのるのー」
七恵は、車のドアの前に立って、胸を張って主張した。
「分かったよ」
「ちゃんと、じゅんび、した?」
車に乗り込むと、七恵が聞いてきた。
「ナナこそ、したのか?」
「かんぺき」
「本当か?」
七恵の完璧はあてにならない。さっきも制服に着替えさせたら、トイレに行きたくなって、大変なことになった。
「バッグは?」
「あ」
「取りに行ってきなさい」
「トイレだ」
トイレに忘れたらしい。七恵は、トイレ、トイレ、と言いながら、走っていった。僕は、自分の荷物を確認した。バッグの中に、美幸のスケッチブックがある。今日、仕事の合間に時間が取れたら、ゆっくり、眺めてみようかと思った。
実はすごく、迷っていることがある。
未完成だった七恵の肖像画だった。僕たちがあの日、送り火から帰ってくると、旅行に持っていったスケッチブックが投げ出されていた。何気なく、手にとってみると、あの未完成だった肖像画が、完成しているのを、見つけたのだ。
それは、大人になった七恵の姿だった。
肩まで伸びて、切りそろえた髪は、今の七恵のもの。でも、こちらをむいて微笑んでいる笑顔は、美幸にそっくりであったり、僕の要素があったり、またそれとはまったく違うものも感じた。
いつ、完成したのだろう。たぶん、旅行から帰ってきたその晩かもしれない。
裏に、美幸の字で走り書きがあった。
『おっきくなったナナへ
どんなふうに育ってくれたのか ママにはわかりません
だから似てないかも もっとキレイになってるかもね
でも ママからのおめでとう
ナナが大人になった記念にもらってください
それまでパパに預けておきます
ママ』
絵の中の七恵は、二十歳くらいだろうか。もう少し、幼くもみえるし、落ち着いた雰囲気もある。ただ、まぶしいほどの光の中で、輝くように微笑んでいる七恵の笑顔は変わらなかった。
もし、七恵が成人するか、それまでに大切な人が見つかったら、この絵を記念にあげようと思っている。
だから、これを見つけたとき、僕は七恵に知らせなかった。秘密にしておきたい。やがて、大人になったときに、七恵は、この絵をみて、なんて言うだろうか。それが、いつの日になるのか。すごく楽しみでもあり、怖くもあるけど。
でもたぶんそのとき、僕も七恵も笑っているだろう。君がいなくても、ずっと、僕たちのことを見てくれていたこと。これから何度も確かめあうそのことを、僕たちはそのとき君からのこのプレゼントで改めて、確認するのだから。
あれから、七恵の中に、美幸が現れることはなくなった。
川原は、僕の話を聞いて、七恵の中に美幸と言う存在が、完全に溶け込んだから、七恵がそれを本当に受け入れたから、症状が出なくなったのではないかと言っていた。でも、僕は、それを半分信じて、半分信じないことにしている。
七恵の中に、美幸の一部が溶け込んだのは、本当にそうだと思う。でも、あの夜現れた美幸は、本当にここにきてくれた美幸だった。そう僕は信じたい。美幸は、最後の僕らとの別れに、出来なかったことをするために帰ってきたのだ。そして、僕と七恵がちゃんと暮らしていけるように、導いてくれたのだ。
「パパー!」
やがて、七恵がダッシュで帰ってきた。急いで車に乗り込み、思いっきり、ドアを閉める。おかげで、車が横にかしいだ。
「いこう!」
「ドア、もっとゆっくり閉めてくれよ。・・・・・・・車さんが痛いって言ってるぞ」
「ごめん!」
七恵は車のダッシュボードに手を合わせた。
「じゃ、行こっか。ナナ」
「うん」
僕は車を発進させた。
途中、僕は、ちょっと聞いてみたいことがあって、七恵に話しかけた。
「ナナさー、おっきくなったらどんな風になりたいの?」
「おっきくなったら?」
七恵は首を傾げた。そして、腕を組んで、うーん、と考えると、
「どれぐらい?」
と、聞いた。
「パパやママくらいになったら?」
「そう」
「うーん・・・・・・・どうかなー・・・・・」
七恵は、真剣に悩んでいる。信号待ちになる。僕は、彼女の頭を撫でた。こうしている七恵は、中でどんな風に、思って、考えて、どんどん変化していってるんだろう。そう思うと、嬉しくなった。
「じゃ、ナナ、それ宿題。夜、パパに考えてきて聞かせてよ」
「えーっ、すくだいきらい!」
「じゃあ、今、考えてみようか。ナナはどんな大人になってるの?」
七恵は、思いついたように言った。
「おっきくなってる?」
「そうだね。ママぐらいになるといいね」
「かっこよくなってる?」
「いいよ」
「キレイになってる?」
「そうだね」
「あとはねー・・・・・・・・・」
「あとは?」
信号が青になる。
僕は、再び、アクセルを踏んだ。
七恵の話を聞きながら、僕は、山の向こうまで開けた空をみていた。あの晩のように、そこには月明かりの道もなく、暗闇のかけらも見当たらなかったが、どこまでも高く澄んで、どこまでも見通せるような気がした。
【了】
あなたがここにいてほしい
さて、一時期某小説等で流行ったよみがえりものでしたが・・・・いかがだったでしょうか。個人的にわたしは、愛していた人が簡単に生き返る、だから、あのとき言えなかったことを素直に言えた、みたいな展開があまり好きでなく、シチュエーションを少しいじってみました。人間が生きていくことは、ある意味で諦めを受け入れていくことだと思うわたしは「死」をひとつの分岐点として描きたい気持ちが強く、物語を書くなら基本的に死んだ人は、喪われてしまうものは、戻らない、と扱うようにしています。(もちろんジャンルによって多少の例外はありますが)そうしないと死に至る描写や死それ自体の重みが軽くなってしまうので。諦めることはとても大切なことで、実は逆にそれが生きる意志や力になっていく、そんな人間が力強くなっていく姿を描くのは、どんな小説で書いても面白いです。
ところで小さい女の子を描いたのは、この小説が初めてでした。昔、小学校でボランティアをしていたのでその経験をもとに書いてみたりしたのですが、わたしは子供はいません。子供さんおられる方、ご意見・ご指摘いただけたら、うれしいです。