昔話、クマと少女と裁縫雑記。
昔々、まだ都市が出没する以前、歴史に名を刻まれることのない平凡な親子が、山々に囲われた村のはずれに住んでいた。
少女はよく家の生計の手伝いをした。少女が生まれるまで貧乏だったが、少女のおかげそれなりに隣村の平凡な人々と同じほどの
生活をることができるようになっていた。というのも少女が生まれてからというものすべてが変わったからだ。
もともと、森でとれた植物を売ったり、編み物をして生活していたが、評判はその地域で一番良かった。まだ少女が少女の頃
母はそれを大いに褒めたし感謝もしてくれていた。それをかてに少女はすくすくと育っていた。ある時、夜がきて月が欠けている
のを見て少女は母に尋ねた。
「お母さん、どうしてあなたは私にこんなに優しくしてくれるのです?」
「お前は金の卵だからね」
しかしそんな親子関係も少女が物心ついてから変化が始まった。母は厳しくなり口癖のように“いいから私のいう事をききなさ
い”と母がいうようになってきたのだ。少女は昔からよく母に本を読んでもらっていたが、近頃では大人に近づきつつある少女
は母も理解できない本もよんだ。ただギリギリの生活をしていたので、母は少女を学校にやり学ぶさす事はできなかった。
少女は、窓辺にたち、月明かりに照らされる部屋の中で、夜泣きながら演奏をする昆虫たちの中に“声”がまじるのを聞いた。
それは少女だけに訪れる夜の知らせであり、母と少女との違いを浮き彫りにした。はじめはぽつぽつと言葉のようなもの、短い
単語を聞くくらいだったが徐々にその“声”たちは明確な意志をもって自分たちの言葉を音にのせはじめた。
“トントン、トントン、賢くいきましょう、ランラン、ランラン、私たちの声を聴く人は”
少女は母が日ましに自分につよく当たるようになってくる頃になって、よくそういう声をきいて、どこか安堵して涙を瞳にため
ながら月明かりをせにして丸まって眠った。昔は母が一緒に眠ってくれた自分の小さな寝室には、もう外から聞こえるその奇妙
な歌声以外には少女を気に掛けるものはいなかった。
母が自分のことを、近頃ひがんでいる事をしっていた。というのも、嫁入り前だということで、難しい編み物を次々と要求したり
それらは自分がなす事のできなかったいいくらしを自分ができるかもしれないという事で、ひがんでいるのだとおもっていた。
その途中で少女は現実のものによく似せた編み物をつくるようになっていた。たとえば椅子、例えばバッグ、たとえば服、どんな
ものさえも似せて作る事を覚えて、けれど母はそんな少女の編み物の出来まえを一つもほめる事はなくなった。
それから一か月後のことだ。母はある城に用があるといってでかけていった。城の周りに村々があり、そこに母の親戚にあたる
人々が大勢いるといって、うきうきしてでかけていった。ただ母は、自分が出掛けている間中、決してドアを開けてはならないと
少女に声をかけた。ただ母は連絡のためといって、伝書バトをつれていった。どんなに遠くでも母と娘との間を行き来するのだと
いう。家の裏の掘立小屋に住む家畜以外にそんな動物がいた事を、少女ははじめてしった。
初めて一人で迎えた夜。その日は来訪者はいなかった。虫たちがよく泣いているのをきいた。
次の日のよる、虫たちは一切泣かなかった。その静寂が不気味で空を見上げたが、時折かげがさして、雲間に見える三日月を
みて母の姿を重ねてはその帰りの路の無事を案じた。
そのまたあくる日の夜。ある音がした。コンコンコン、トントントン、いつか聞いた音にもにていた。けれど少女はその音を
すでに声とは理解できなかった。少女は虫の声をきいてから、もうずいぶん大人になっていたし、もっと人間について本をよんで
詳しくなってしまっていた。
【夜おそく、もうしわけありません、私は旅のモノです、怪しくありません】
少女はその言葉におかしさを感じた、自分から怪しくないという人間に怪しくない人間などいなかったのだ。
【どなたですか?ここには、あなたの探しているものはないです、ここは宿屋ではありませんから】
もっともだった。
【もしもし、あなたのよく知っている人だよ】
【王子様?】
【母さんじゃないか】
その王子様というのは、母がよくしてくれた昔ばなしの登場人物の事で、将来の自分の結婚相手として、母が何度も少女の
小さな頃にいいきかせてくれたものだった。それにしても母を名乗るその人は、あまりにおかしな声を発していた。それはいつか
聞いていた、この頃めっきりきかなくなった虫たちの——“声”にも聞こえた。少女は少しドアから離れると、大きな大きな荷物
ぼろ布につつんだ少女の宝物をたくさんつつんだものをもってきて玄関にたてかけてドアのかぎを絶対壊れないようにした。
すると、しばらくして音がした、というより声だった。
【ッチッ今晩もお預けだ】
少女はその日、母に見立てた月に助けを願うため祈りをささげた。その日は満月で、母の肖像を想像するのにはもってこい
の夜だった。いつのまにか眠っていて、けれど朝になって、昨日起きた事のおかしな事と恐ろしさに叫びだしそうになった。
少女は油断して外に出る事はしなかった。まず窓から外を覗く。おおきなおおきな足跡が、人間のものにもにた足跡が家の周り中
をさまようように何週も何週も描かれていた。
少女はお腹がすいたので、水をコップに注いで、一杯だけ飲み干すと、朝日をまるで昨日の月と同じように観察していた。
なにがおこるわけでもなかったが、その中に、羽ばたく紙切れをみた。
【あれは何だろう】
その様子をしばらく眺めていると、昨日、なぜ少女は自分が前夜に冷静でいられたかを考えることになる。全ては母の忠告と
関係がある事だった。
その髪切れは羽ばたき、徐々にそのなだらかな毛並みをあらわにした、あれは鳥だ、そして鳩である。そしてあの鳩は城にでか
けるときに母がつれていたハトではないかと気が付いた。
母は、用事があるといって城の近辺に出かけていたので、すぐに帰ってくるとは思えなかったが少女は昨日の出来事を手紙に
したためた。急いで急いで、けれどできるだけ正確にしたためた。母の手紙が帰ってきたのは2日後だった。手紙にはこうあった。
【私には、危険すぎて家に戻る事ができません】
伝書バトは城の言葉を聞かせてくれた。ハトはのんきに自分のけなみをその鋭い嘴でけなげにもととのえていた。窓にまたがっ
て少女が警戒心をほどくと、家の部屋の中にはいってきて、のんきにも散歩をしていた。
【ことこまかに状況を教えてください、また連絡をください】
少女はこの時ばかりは、母を少しばかり呪ってしまった。しかしハトに、少女が助かる方法を訪ねた手紙をしたため送り返した。
次の日、少女は外にでた。その理由は嫌な気配が家の周辺から遠ざかっていたことがひとつ。もう一つは、来訪者の正体を確かめ
ようとするためだ。そこで少女は消えかけていた地面の足跡をのぞきこみ、考え事をしていた。
【いったいこれは……】
首尾よくそとにでた少女は紙きれと筆をもってその足跡のスケッチをとり、家に持ち帰った。家にはなけなしのお金で買った
図鑑がいくつかあって動物の図鑑をひらいて、少女はその足跡と一番あう足あとをさがした。
【……これは、クマの足跡だ】
少女は虫たちのいたずらでない事に安堵の表情をうかべた。丁度少女の手紙が城に届いたところで、また返事も夕方のうちに
少女の家にもどってきていた。ハトはまたもや家の中をうろうろとして、なんだか空の旅自体を一人でに楽しんでいるようだった。
その夜のこと、またあの怪しい来訪者がやってきた。そこからクマと少女の奇妙な駆け引きが生まれた。毎夜毎夜、クマは少女に
【空腹で退屈なんだ】
【クマさん、そんな退屈を人間は知りません、】
【だから何だ、それよりなぜ私の正体を】
【あ、いいえ、私は何も】
しばらく返事はなかった。
【私の正体を知っているな、三日のうちに、君が私を驚かせ楽しませないのなら、この建物ごとこわして君を俺の腹の中に収め
る事にする、たとえば明日までに、何か人間の世界で素晴らしいものを、一番怖いものを編んでくれ】
その日の内に少女はひとつ編み物をして、その夜のうちに窓辺からそれを放りだすことにした。それは母にそっくりのぬいぐる
み少女は恨みをこめてそれを窓辺から月めがけてなげつけた。しばらくすると、クマがいった。
【いい、いいじゃないか、もっとすばらしいものをみせてくて、もうどうせ短い命だ、本気で俺を驚かしてくれ、俺は空腹か
退屈によって死ぬ、君は自分への不服をもってどのみち死ぬ運命にある、人間とはそういうものじゃないか】
くまはいった。もっとよこせ。次は、魚に似せて編み物を編んだ。その次の日の夜に同じく、それを放りなげた。
【よくできた魚だ、素晴らしい、けれど君の世界をもっとみせてくれ、私に合わせる必要などないのだよ】
その図太い声は、朝日がやってきた翌日でさえ、少女の腹に響いた。そんな声は聞いたことはない。そういえば母とともにくらし
ほとんど外に出る事も許されなかった少女の肌は白い。その肌が黒いけだものの手にかかることを案じて少女は、なぜだかさきに
自分で傷でもつけたくなった。でもそうはしなかった。明日はもっと恐ろしく、現実よりも現実的な何かをあまなくてはならない。
その夜、くまはいった。【もう少しだ。もっと私に似合うものをよこせ】
そこでとうとう少女は、兎にとてもよくにた編み物を編んだ。それでは飽き足らず、ついには母との連絡のかなめであるあの
鳩をもした人形をぬった。それはいままでにもまして緻密で、はじめてクマに与えた花よりももっと自然じみていた。そして
図鑑でみたクマの縫いぐるみをもつくった。何よりも成功で、しかし恨みをもって、母曰くクマが嫌うという強い香水をこっそり
その大きな――等身大のくまのぬいぐるみにつつんで、月明かりに放り投げた――。少女はその日、泣きながら眠った。嫁入り
前で、ただ人生の中の幸福と祝福を知る事なしに自分がいなくなることが何よりも悲しくて。自分のしてきたこと。たとえば
編み物のすばらしさも、その時ばかりはすべて忘れてしまった。だから自分の縫物がどんなに優れたものかも考えもしなかった。
その夜、不思議な事がおきた。今まで聞こえて居なかった、あの少女を助けて支えていた虫たちの声が再びきこえたのだ。
【賢くありなさい、うつくしくなりなさい、ルルルル、この声を聴く人よ】
クマは、その次の日、庭に横たわりクマはこと切れていた。庭のそこら中に妙な爪痕がのこっていた。
その二日後、無事家に戻ってきた母のいうところによると、ここの近辺のクマはその昔、とても頭のよい猟師によってさんざ
痛い目にあわされたのだという、その人が少女の自分の父である事もつげられた。しかし、あるときあやまってがけから転落して
死んだ。母はその時のことをよく覚えており、クマが何を嫌うかをよくしっていた。だからあんな無理難題を少女にたくしていた
のだと、少女はそのときやっとさとった。そしてその日までうたがっていた、母から聞き伝えられていた父の存在について、やっ
と理解できたのだという。その近辺のクマは何よりも自分の姿を恐れるのだという。その猟師がクマによく似た編み物をつかって
クマによく毒物をもったり、銃によって撃ち殺してたりしていたのだった。
帰ってきた母は、少女をよくほめた。知合いの猟師にほとんどなけなしのお金で頼んで家に駆け付けて来たところなのだと
少女に弁明した。事実、確かにその両肩に二人の、猟師をつれてきていたのだ。そして母はドアをあけたとき、後光のようにさす
太陽を尻目にその大きな肩のはざまに少女がつくったあのクマのぬいぐるみをもって、いつかと同じように少女の才能をほめたた
えたという事らしい。
昔話、クマと少女と裁縫雑記。