『暁蕣花の咲く処』』(ある子竜の物語)第4章〈3〉 ~フラットアース物語②
〈3〉
広間の真ん中の地面には、仄白く光る大きな真円があった。そっと触れてみると、それは結界されていた。結界は、軽く触れた時には、柔らかい布でも触っているような感じだったが、更に押すと、接触している部分が僅かに撓んで、加えた力と同じ力で押し返して来た。それならば、と試しに身体全体で押してみたら、その感触は大きな岩のようで、結界は全く動かなかった。
僕はその結界の前で、しばらく悩んだ。そして、
身体を縮めて、結界に接触する面積を小さくしてみたらどうだろうかと考えついた。我ながら良案だと思ったのだけれど、結果はあまり変わらなかった。
触れている範囲が小さい分、結界がこちらを押し返す力は弱くなったが、それは結界をさっきよりも大きく窪ませるという効果があっただけだった。撓んだ結果は最終的に、それ以上押すことが出来なくなって、やっぱりそれを通り抜けることは出来なかった。
(あ、そうだ!)
長いこと結界の前で考えていた僕は、ふと、洞窟での出来事を思い出した。あの時は、仲間との接触を避ける為に、とっさに取った行動だったけれど、結果として結界を通過する事が出来た。
ただ、その時は仲間と一緒だったから、結界はその仲間を識別して通過させたのかもしれない。
(それでも、試してみる価値はある。)
僕は、あの時と同じように身体を縮小して結界に触れた。そうして、そのまま気力の出力を弱めて行くと、ある所でふっと結界の抵抗が消えた。
一瞬、身体が宙に浮いたような感覚があって、次の瞬間には、僕は目映い光の中に放り出されて、身体中の感覚器が一斉に悲鳴を上げた。
光に身体が慣れるのを待って、僕はそっと感覚器を開いた。浅い洞窟の入り口から、幅の広い波動を持つ光と、たくさんの生物達の波動、そして、荒々しい風が押し寄せて来て、僕は思わず、また感覚を閉ざした。
(外だ!)
言葉と一緒に、ふつふつと喜びがわき上がって来た。もう一度、ゆっくりと目を開くと、洞窟の入り口から蒼い空が見えて、僕は思わず洞窟の入口に駆け寄った。
そこから見えたのは、なだらかに下る一面の緑と、きらきらと陽光を反射して輝く大きな水だった。水は空の色を映して見渡す限りに広く、反対側の陸地は全く見えなかった。
僕は立ち尽くしたまま、長い時間その景色を眺めていた。空が紅色に染まり、徐々に紫から紺色に、そして闇色に変わっても、僕は飽きることがなかった。それは間違いなく、父母のいる世界の懐かしい空の色だった。
夜の帳が降りると、昼間は何もないように見えた水辺に、ぽつりぽつりと小さな明かりが灯った。
(灯火の下にはヒトがいる。)
ずっと以前に、帰り道を探していた時の記憶が、僕の脳裏に浮かんだ。
(あそこまで行けば、父と母を捜すことが出来る。)
その明かりの場所を目指して、僕は喜び勇んで、結界のある洞窟を出た。
ところが洞窟を出て、無造作に深い茂みに足を踏み入れた僕は、ちょっと困った目に遭うことになった。僕の身体に触れた草の葉が、見る間に縮んで行くと、突然、真っ赤な炎をあげて燃え出したのだ。僕は急いで、その草むらから飛び立った。炎は周辺の草を少し焼いただけで、すぐに収まった。しかし、今度は、近くの枝が白煙を上げてくすぶり出したので、僕は慌てて草も木もない空間へ飛び上がった。
どうやら、あちらとこちらでは、様々な違いがあるようだった。あちらの世界に生えていた植物は、僕が触れても燃えることはなかったのだが、ここの植物は熱に弱く、すぐに燃える性質らしかった。
(そう言えばここの生物達は、結界に対する反応も鈍かったな。)
以前この世界を歩き回った時には、しばしば小さな生き物達と接触したものだが、あの時と比べて遥かに大きくなった僕にとって、接触することで怖いのは、自分が傷付くことではなく、相手を傷付けてしまうことだった。だから僕は、気力の出力を弱め、警戒線も普段より広くしておくことにした。
僕は程よい向かい風の中を、一番近い灯火を目指して飛んでいた。初め一つに見えていた明かりは、近付くにつれて、二つ三つと分かれ、やがて十以上になった。
その灯火の群れから離れて、小さな明かりが一つだけ、ゆっくりと僕の方へと近付いて来るのが見えた。どうやら灯火を持ったヒトが、こちらへ向かって歩いて来るようだ。僕はそのヒトに会う為に、飛ぶ高さを下げた。
(……でも、どうやって父や母のことを説明したら良いだろう。)
何しろ、父母について覚えている事は少なくて、曖昧な記憶から、ヒトに分かって貰えるかどうか自信がなかった。
「うわあぁ、ば、化け物だぁ!」
突然に、ヒトの叫ぶ声が聞こえて、僕は辺りを見渡した。
(何の気配もないけど……?)
そう思ってヒトへと視線を戻すと、彼は一目散に、灯火の集まる場所へ向かって逃げて行ってしまった。
明かりの集まる場所、それは十数軒の家が集まる〈里〉と呼ばれる場所だった。里へ戻った男は、一軒の家へ飛び込むなり、自分が見た化け物の事を盛んに家の中のヒト達に話し始めた。
(え……化け物って、僕のこと?)
離れた場所からその会話を聞いていた僕は、男の話す化け物と自分の姿を見比べた。
尖った口、紅く光る瞳、炎のような鬣、大きな翼、四つ足に生える鋭いかぎ爪……。どれもが、男の話と一致する。
(そうか……。僕らは、ヒトから見たら〈化け物〉なんだ。)
僕はそっとその里から離れ、次の灯火を目指して飛び立った。
(よし。次は失敗しないぞ。)
次の里に入る前に、今度はちゃんと人形になった。半円形の谷で貰った上衣は、ずり落ちそうなくらい大きかったけれど、他に持っていないのだから、それで我慢するしかなかった。
里の中のヒト達は、みんな寝静まってしまっていて、明かりの灯った家は一軒しかなかった。僕は昔の記憶を思い出して、その家の扉を叩いた。本当は、今は夜だから、こんばんは、って言わなくてはいけなかったのだけど、人形の体に慣れていない所為なのか、喉からは掠れた息が漏れたくらいで、全く声にはならなかった。
ところが、何度戸を叩いても、家の中からは何の返事もなかった。ただ、家の奥でヒトが動く気配はしていたから、僕は諦めずにその家の戸を叩き続けた。
すると、玄関脇の小窓が僅かに開いて、外の様子を窺うヒトの顔が見えた。窓はすぐに閉められたが、そのヒトが、知らない子供だよ、と誰かに言う声が聞こえて、奥の部屋からやおら玄関へ近付いて来た別のヒトが、扉を開けた。
棒のようなものを手にしたそのヒトは、最初僕の姿が見えなかったようで、あちこち視線を動かしていたが、僕が一歩近寄ると、ようやく気が付いて僕の方を見た。
「とっとと里から出て行け。さもないと痛い目を見るぞ。」
そう言うなりそのヒトは、手にしていた棒を振り上げた。声が出せない僕は、念話を使って、父や母を探していることを説明しようとしたけれど、そのヒトは棒切れを振りかざして、僕のことを打とうとしたので、僕はすごすごと逃げ出すしかなかった。
それから、行った先々の場所で、同じようなことが繰り返された。訪ねた家のヒトに、鼻先で扉を閉められることなど、まだ良い方で、大抵のヒトは石が棒を持って、僕が里を出て行くまで追い掛けて来た。
でも、僕はただ同じことを繰り返していた訳ではなかった。そうやって、ヒトに追い出される度に、同調音話を使ってヒトの思考を探り出していた。
ヒトは面白い生き物だった。固定化された身体の為に、その身の内に持つ気力は小さいものの、その思考は高度に発達していて、一部は明確な波動として発信されていた。それにも関わらず、ヒト自身は全くそれを認識していないのだ。つまり、他からその思考を簡単に読み取ることが出来るのに、ヒトはそれを自覚していなかった。加えて、ヒトは皆、他人に自分の気持ちが分かる訳がない、と思っていて、それが僕には最高におかしかった。
結局、声の代わりに使っていた念話は、ヒトにはほとんど聞こえていないという事が分かった。けれど、同調音話のもう一つの使い方、相手の意識に干渉するという使い方は、ヒトにも通用した。但し、この世界の生物が、結界の働きかけに鈍いのと同じく、ヒトに対する同調音話の作用は、その効果に濃淡があった。
僕が試した時には、僕と出会ったことを忘れさせた者と、一時的に動きを止める効果しかなかった者がいた。それが、個体差によるものなのか、この世界の生物に対する波動の働き全体に言える事なのかは、よく分からなかった。
とにかく、ヒトという生き物は、とても縄張り意識が強かった。里に住む者とそうでない者の扱いには、かなりの差があった。取り分け子供に対して、その意識が強いような気がした。
この辺りの者とは異なる形の服を着て、言葉も話せない僕を、里のヒトは最初から厄介者として見ていた。労働力にならない余所者の子供の面倒をみる余裕はない、と里のヒトは皆、同じことを言った。それをはっきりと言葉として言う者もいたけれど、口にはしなくても出会ったヒトは、異口同音に同じことを考えていた。
だから、僕はちょっと頭を使って、この世界で良く見かける小動物に変化して、ヒトの集まる場所に行くことにした。そもそも、ヒトとの会話が成立しないのだから、残る手段は、ヒトの思考を読んで、そこから父母の手がかりを探すだけだ。同調音話を使うのなら、敢えて人形でいる必要はなかった。
しばらくの間、僕は里の周辺で、そこにいる生物達に変化して、その性質を学んだ。その中で僕が良く使ったのは、小鳥の姿だった。ただ、その姿は家の中では、ヒトの不信感を誘ったので、家に入り込む時には、鼠の姿になることが多かった。
そうやって、僕はヒトの考え方や生活を学びながら、湖の周辺に点在する幾つもの里を渡り歩いた。あぁ、結界の洞窟から見えたあの大きな水は、鴻曄湖と言って、この国で最も大きい湖なのだそうだ。この国の名前はイスタムール。そして、鴻曄湖を挟んだ対岸は、楽浪と言う別の国だった。
両国が国境を接するこの辺りは、長年に渡る戦争の為に、里の生活は不安定で飢饉に苦しむ年も多かった。それで、故郷の里を捨てて、町に出て行くヒトも多いのだとか。それでも、この数年は戦も減って落ち着いて来た方だ、と里を巡り歩いて商いをするヒトが話していた。
湖から最も近い〈町〉は、コトヌというのだと、その商人から聞いたので、僕はその町に向かうことにした。結局、里では、父母に繋がる情報は得られなかったのだ。
僕がいた里からコトヌの町までは、商人いわく、湖岸沿いに歩いて四日の距離で、そこまでの間には、二つの村があった。〈村〉は里より規模の大きな集落のことだ。
村は里に比べて、楽にヒトの生活する場所の近くまでり込めた。それは里よりも家が密集していて、隠れる場所が多いという理由もあった。けれど、それよりも、村のヒトは里のヒトより鈍感だというのが、僕の感想だった。村にはヒトも家畜も多くいて、里と比べて賑やかだったから、その分、小さな生物には気が付き難いのかもしれなかった。
村には小さな市場や金属を加工する工房……それは鍛冶屋と呼ぶらしい……もあって、里より面白かった。僕はやっぱり農地を見ているより、工房を見ている方が何倍も楽しいと思った。だって、無造作に手を動かしているだけのように見えるのに、ただの金属の塊が見る間に別の形に変わって行くのだ。僕は何日も鍛冶屋に留まって、その作業を眺めていた。
それに市場も、ヒトを観察するのに、うってつけの場所だった。野菜や果物が小山に積まれた店先で、売り買いをしているヒトの会話はちょっとした戦いだったし、それが他所から品物を売りに来た者と、村の商店主の腹の読み合いとなったら、おかしくて笑いを堪えるのが大変だった。
そんなことをしながらだったから、コトヌに着くまでに一ヶ月以上が経っていた。
僕が町に着いたのは、丁度、その年最初の雪が舞い降りて来た日で、子供達は歓声を上げてその白い欠片を掴もうと、空に手を伸ばしていた。それを横目に、大人達は外套の襟を掻き合わせて、せわしない足取りで町の中を行き来していた。
コトヌの町は、竜族の世界で見た町の一区画ほどの大きさしかなかった。にも関わらず、そこには半円形の町にいた仲間の数くらいのヒトが住んでいた。そして、町のヒトは村のヒトより、更に鈍感だった。
ヒトの家の中で、小動物に変化した僕の姿を見られしまっても、里や村のヒト達とは違って、町のヒトはあまり気にしなかった。おかげで僕は、多くの時間をヒトの家の中で過ごすことが出来た。
コトヌの町に来て、僕が最初に潜り込んだのは、町で最も家が密集した地域にある一軒の家だった。その家には幼い子供が三人いた。中でも、一番下の女の子がようやく言葉を話し始めた年齢だったおかげで、僕は、声がなくても身振り手振りである程度の言葉を伝えられることを知った。それから、母親が子供達に聞かせる話や歌にも、様々な発見があった。
僕をひやりとさせたのは、母親のそんな話の中の一つだった。それは、家の手伝いをせずに遊んでばかりいた子供が、竜に連れて行かれて食べられてしまった、というような内容の話だった。
実のところ、それは里や村でも、悪い子は竜に連れて行かれてしまうぞ、という脅し文句として聞いたことがあった。けれど同時に翼竜族は、この国の守護者だとも言われていたから、本当のところ、ヒトが僕達一族のことをどう思っているのか、気になっていたのだ。
竜の出て来る話は、それ以外にも幾つかあったけれど、どの話もあまり良い印象ではなかった。だから子供達は、竜を怖い生物だと思っていた。
僕としては、そんなことない、と叫びたい気分だった。でも、僕だって自分より大きな仲間に初めて出会った時には、とても怖い思いをしたし、蛇竜族に出会った時は、恐ろしくなって逃げ出したのだから、竜に会ったことのないヒトにとって、得体の知れない存在なのは、仕方のないことかもしれないと思った。
この家で知ったことの中で一番の収穫は、ヒトにとっての竜族、翼竜族や蛇竜族は、お伽話の中にしか出て来ない生物だ、ということだった。
ヒトは、特に大人達は、竜が本当に存在するとは考えていなかった。子供でさえ、ある年齢より上になると、半ばいるかもしれないと思っていても、絶対に出会うことはないと考えていた。
だから僕はそれ以降、こちらの世界で、翼竜族本来の姿になることはやめることにした。そうやって寝物語に聞かされるので、僕達一族の姿は、あまりにも有名だったからだ。
コトヌの町で、僕は場所を変えて幾つもの家に滞在した。ほとんどが農家だった村や里と違って、町には様々な仕事をしているヒトがいた。市場で扱う商品も、野菜や果物などの青物以外に、布や帽子、金属や玉石の細工物、家具、陶器、木工細工、靴などの革製品など、品揃えが豊富だった。
勿論、商店だけではなく、それらを作る工房もたくさんあったし、そこで働くヒトの数も多かった。例えば、商店て働いているのは、店の主人だけではなくて、そこに雇われているヒトもいれば、店と工房の間の荷運びをしているヒトも別にいた。それに、大きな商店主ともなれば、家には家族以外にも、掃除や食事の支度など、生活の世話をするようなヒトがいた。それから、町の掃除をする仕事のヒトもいた。
僕はその中で、軍人という職業のヒトも見つけた。それは僕の記憶の中で、父と繋がっている言葉だったから、僕は最初、すぐに父を見つけられると喜んだ。ところが、軍人と言うのは、すごく広い括りの言葉であることが分かって、それだけでは父を探すことは出来ないと知った。
僕が出会ったそのヒトは、詳しく言うと郷師と呼ばれる仕事をしていた。師とは軍隊という意味だ。郷というのは……ええっと、国の行政区域のことで、それは大きい方から州、県、郡、郷と呼ばれていた。その中で、幾つかの町や村の集まった最小単位が〈郷〉だった。
だから、郷師と言うのは、郷の治安維持を担当する役人のことなのだ。役人と言うのは、郷なら郷、郡なら郡、というように、その区域に住むヒト達みんなの為に働くヒトのことを指す言葉らしかった。
それとは別に、町には傭兵とか用心棒とか呼ばれるヒト達もいた。そのヒト達は、町の商店主や、旅をしながら商売をするヒトに雇われて、その家とか荷物とかを守る役目をしていた。そのヒト達も戦争となれば、郷師と同じように軍隊として戦争に行くのだそうだ。
僕は、それら大雑把に軍人とか兵士とか呼ばれるヒト達の集まる場所に、しばらく滞在していた。けれど、結局、そこでも父母に繋がる手がかりを見つけることは出来なかった。
そうこうしている間に、町の外に広がる農地は、新芽の若苗色から濃い緑へ、それから黄色へと移り変わって行った。そろそろ刈り入れの始まった畑もあった。
その頃から、僕は時々、町のヒトに見つからない場所で、人形になって言葉を話す練習をした。けれども、人形の身体はなかなか言うことを聞いてくれなくて、霜の降りる季節になってもようやく、あぁとか、うぅとか音が出たくらいだった。
町が本格的に雪に包まれると、僕は言葉の練習を諦めて、コトヌの町で最も大きな家の一つに入り込んだ。何しろ僕は、雪が大嫌いだった。冷たいのは、以前ほど気にならなくなっていたが、閉じ込められていた時の苛々した気持ちを思い出すので、雪は見たくなかったのだ。
代わりに、と言ってしまっては何なのだけど、雪避けに潜り込んだその家で、僕は夢中になるものを見つけた。その家には、様々な年齢のたくさんの子供がいた。彼らは全員が兄弟なのではなく、従兄弟とか親戚の子供とか、そういう子供達が集められているようだった。
子供達には、勉強を教える先生がついていて、その先生は子供達の年齢に応じて、文字の手習いから、難しい本の講釈までしていた。
その家に入り込んだのは、雪を避ける為だったから、僕は最初、冬の間の暇つぶしだと思って、文字の読み書きを学び始めた。けれど、文字が少し分かるようになって来ると、それが面白くてたまらなくなった。子供達の勉強が終ると、僕はこっそりヒトのいない部屋に入って、習ったばかりの文字を書く練習をした。だから、その冬の間で、僕はかなり上手に字が書けるようになった。
文字を覚えたら、もっと上の年齢の子供が学んでいる本にも興味が出て来た。先生の講釈を聴いた日には、皆が寝静まった後に、その子の本を借りてちゃんと復習もしたから、自分で言うのもなんだけど、その子供よりずっと覚えは早かった。本の内容は、歴史、計算、論文、詩文、法律と様々だった。それ以外にも、楽器、舞踊、礼法、乗馬など、子供達の勉強はたくさんあった。
でも、何より楽しかったのは、その子供達が朝夕行う武芸の稽古だった。とは言え、子供達に混ざって稽古をするわけには行かなかったから、僕の練習時間は、誰もいない夜中の廊下だった。なので、剣術も棒術も正しい形で出来ているかは、怪しいものだった。けれど僕としては、結構さまになっていると思っていた。
その〈勉強〉が、あまりにも楽しかったから、冬の間だけの滞在だったはずが、夏が過ぎ、秋が来て、ついに、また雪の季節が巡って来ていた。
僕の勉強はそれこそ順調で、もう一番上の子供の授業にも、ついて行けるようになっていた。
でも、実のところ、そろそろ父母を探すという本来の目的に戻らないと、まずいとも思い始めていた。父が軍人だったという手がかりは見つかったのだから、もっと軍人の多い町で、父を知っているヒトを探すべきだとは分かっていた。
しかし、僕は、この本の勉強が終わるまでとか、あと一つ型を覚えてからとか、色々な理由をつけて、その家から出て行くのを先延ばしにしていた。
それが、重要な手がかりを与えてくれた、と言うのは、結果良ければ何とやら、かもしれないが、とにかく意外なところで、僕は父母に繋がる手がかりを得た。それは、この家の子供達の喧嘩から始まった。
この一家の父親が都へ行くのに伴って、上の二人だけを連れて行くことにしたものだから、下の子供達が怒り出したのだ。連れて行かない理由は、彼らが流行り風邪に罹ったことなのだから、仕方がないと思うのだけど、下の二人は、どうしても自分達も緑の月の祭りを見に行きたいのだ、と主張して譲らなかった。
「六年後なんて、絶対に待てないわ。去年からずっとお願いしていたのに。」
熱で火照った頬を、さらに怒りで真っ赤にして姉が叫べば、こちらは、少し鼻水が出たくらいで、部屋から出るのを禁止された弟が、おずおずと姉の後ろから主張した。
「僕だって、ずっと良い子にしていたよ。兄様と姉様だけ連れて行くなんて、ずるい。」
「そうよ。私が行けないのなら、姉様達も連れて行かないで。」
弟の援護で勢い付いた下の娘がそう言うと、姉も負けずに反論して、後はもう、てんやわんやの兄弟喧嘩になった。それを止めたのは、途中まで笑って子供達の喧嘩を眺めていた父親だった。
この様子では、長旅には連れて行かないなと、誰に言うでもなく呟いた父親の一言に、子供達はは敏感に反応した。たちまち、喧嘩なんしてしていませんという顔で、優雅に椅子に座り直した上の娘の様子に、父親は笑いを堪えて厳しい顔をしてみせた。
それから父親は下の娘に、早く部屋に戻りなさいと言ったが、それでも引き下がらない娘に対して、父親は、熱が下がったら連れて行くからと何度も約束して、ようやく下の二人も部屋に戻って行った。
妹達が部屋を出て行くと、残った上の二人はしきりに、都に行ったら何をしたいかを話し始めた。その会話の中に、僕は多くの手がかりを見つけた。
王都、花の宮殿、緑の屋根の建物、王宮広場……そして緑の祭り。六年に一度巡って来る緑の年、その最後の一ヶ月は緑の月と呼ばれていた。緑の月には、王都で国の繁栄を願う大祭が行われる。
祭りには大勢のヒトが集まり、王宮広場で行われる舞楽を見物するのだ。そしてその後、多くの屋台が立ち並ぶ商店街に繰り出して、飲んだり食べたりして楽しむ。
兄妹は、その屋台にも行ってみたいと言い出して、母親にきつく叱られていたが、あれは絶対、どんな事をしても街に出てみるつもりだろうと、僕には分かった。子供達のそばで、にやにやしながら聞いていた父親も、同じように考えていたはずだ。
そう、僕はその祭りを見たことがある。それに、緑の屋根の王宮も知っていた。僕は、同調音話を使って、一家の父親の記憶から王宮の事を確認したが、それはまさしく、祭りの日に父の波動を見つけたあの場所に違いなかった。
僕は一家の乗る馬車に潜り込んで、彼らと一緒に王都へ行くことにした。そうすれば道に迷う心配もないし、何より雪の中を飛ばなくても済むからだ。
『暁蕣花の咲く処』』(ある子竜の物語)第4章〈3〉 ~フラットアース物語②