Fate/Last sin -30
目を覚ました時、自分が未だに呼吸を続けていることに、まず驚愕と安堵を覚えた。その大きな驚愕と、それと同じくらいの安堵は、もう自分が今までのように動けないと知るのには十分すぎる感情だった。
「……」
見知らぬ天井を見上げている。仰向けに横たわっている体の下には柔らかなマットレスとシーツがあって、文香月は、薄暗い部屋のクリーム色の天井をぼやける視界で眺めながら、深くため息を吐いた。酷く重たい右手を掲げて、その甲に赤い幾何学模様が未だに刻まれていることを確認する。乱雑にかき消されたような一画が、夜明けの海に沈んでいったアサシンとマスターの姿を鮮明に脳裏に呼び起こした。それだけだった。
「……」
ふと、頭を回して傍らを見た。やけに広々としたベッドの横に椅子を置いて、うつらうつらしているセイバーのマスターがいた。一体いつからそこにいたのか、香月が目を覚ましたことに気づく様子もなく微睡んでいる。
「……」
声を掛けようとした口を咄嗟につぐんだ。
―――今なら、いとも簡単に、彼女の命を奪える。
一瞬で閃いたその考えは、しばらく頭の中から剥がれ落ちなかった。あまりにも隙だらけだからだ、と香月は楓を凝視する。
だが香月は指先一つ動かすことなく、じっとベッドの上に横たわり続けた。
「……」
もう今までのようには動けない。
自分が息をしていることに、安堵してしまったからだ。
感情のままに、欲する物のためにここまで来た。けれどどうだろう、あの時、目前に死という結末を突きつけられた瞬間、全ての力を失ったような気がした。死は、全ての終わりだ。その結末すら超越してみせた、あのアサシンとそのマスターのように、自分は狂えなかった。あの時、空閑灯に殺されても良かっただろうに、ほんのわずかな猶予の間に一心不乱に逃げまどう自分がいた。
「……滑稽だ」
右手の令呪を見た。それから目を閉じて息を吐いた。
だから言ったんだ。私は貴方を従えるような人間ではない。むしろ私の方が、貴方が救ってきた人々の内の、ただ一人に過ぎないというのに。
*
「楓」
突然呼びかけられた楓は、跳びあがるようにして椅子の上から転げ落ちた。その拍子に掴んだ本棚がぐらりと楓の方に傾き、あわや大惨事というところで銀鎧の腕が本の雪崩を押し留め、楓はそのまま絨毯の上に落下した。
「いったあ……」
「悪かった。大丈夫か?」
楓は腰をさすりながら上を見上げた。傾いた本棚を立て直すセイバーの姿が目に映る。
「だ、大丈夫」
「だが楓も楓だ。アーチャーのマスターの目の前で寝落ちるなど、油断も良いところだぞ」
「あ!」
忘れてた、と言わんばかりに声を上げて、慌ててベッドの方に頭を向ける。てっきり空っぽかと思ったが、意外なことに、そこには極めて不機嫌そうに胡坐をかいたアーチャーのマスターの姿があった。
「……呆れました。あなた達はいつもこんな茶番を?」
「さあ、どうだろうな」
セイバーは流れるような手つきで鞘から剣を抜いた。あまりに自然な流れに、しばらくして楓が目を丸くし、「え!」と声を上げる。香月は無表情のまま、背中の裏に手を回した。
「ちょっと……」
楓の部屋に、一瞬で緊迫感が漂う。しかし次の瞬間には、香月が背中に回していた手を素早く振って、何かを投げた。カシャン、と金属が床に落ちる音がして、楓がおそるおそる覗き込むと、それは一本の細い医療用メスだった。
「それが隠している最後の得物です。疑うなら、腹を捌いても構わないが」
「俺を試そうとしても無駄だ」
「そうでしょうね」
香月は黒い目でセイバーを見据えた。しばらくの沈黙の後、ゆっくりとセイバーは剣を下ろす。
「ま、隙だらけの楓をこっそり手に掛けなかっただけで信頼には足る。脅かすような真似をしてすまなかった」
その言葉に、楓は気まずそうに首をすくめる。香月は相変わらず無表情のまま、ため息を吐いた。
「別に謝られるようなことは何も。それで、アーチャーは?」
「さあな。ここに来る直前で姿を眩ました」
「私と顔を合わせたくないと?」
香月はまだ背が痛むのか、鳩尾のあたりを手で押さえながら自虐的に言った。だがセイバーは首を振る。
「いや。マスターが完全に回復してから戻る、と言っていた」
「……」
熱の無い香月の目がいっそう冷えたように見えた。
「……そうですか」
そうして彼女はふと眉間の皺を深くした。今まで堪えていたものが堰を切って溢れ出たように、額には冷や汗が滲んでいる。楓は香月の様子が明らかに変化したことにいち早く気づいて、
「まだ横になっていないと、傷が……」
手を伸ばす楓に、香月は青白い顔を向けて言う。
「親切ついでに手を貸してくれると有難いんですが」
楓はすぐにその言葉の真意を理解して、悲しげに首を振った。
「私は、魔術は、あまり」
「まさか。いくら怪我人相手でも吐く嘘が雑すぎる」
「いいや、楓は嘘を言っていない」
横からそう言ったのはセイバーだった。さっきまで楓が座っていた椅子に足を開いて座り、腕を組んで香月に向かって言う。
「俺だって楓が魔術を使っているところは見たことがないぐらいだ」
「……まさか」
「だから、その、悪気は無いんですけど、ごめんなさい……これ以上は」
申し訳なさそうに体を小さくする楓に、香月は意外な言葉を投げた。
「でも、あなたは望月花の妹だろう」
「―――え?」
彼女の口から出るとは思えなかった名前に、楓は少なからず驚愕した。
「だから、あなたは望月花の妹だろう、と言ったんだ。違うのか」
「いえ、違わないけど……」
困惑して、セイバーに助けを求めるように視線を投げる。だがセイバーは厳しい顔で香月の言葉の続きを待っているだけだった。
香月は当然のように、
「あれだけ優秀な魔術師と同じ母体の胎から生まれておいて、何の素質もないなど。普通に考えて有り得ることではない」
と言ってのける。楓は「でも」とやや涙目になった。
「でも、十一年もかかって、……魔術使いにすらなれなかった私に、今さら何の素質も才能もあるわけないですよ」
「……」
香月は楓の訴えに、しばらく沈黙した。そして痛みを忘れたかのように何かを考え込んで、やがて小さく「違う」と呟いた。
「違う。起源だ」
「はい?」
「確かに望月花は優秀な魔術師だった。五大元素をもち、魔術回路と魔力にも恵まれていたんだろう。だがおそらく、あなたの場合はそういう素質の在り方ではない。通常の属性を活かした魔術と相性が悪く、普遍的でなく、汎用性もない。才能が無いのではなく、ただ〈起源〉の方が強く出ているから、普通の魔術回路の運用が体に合わない……という可能性は考えられるだろう」
「ちょ、ちょっと待ってください」
流暢に語る魔術師に向かって、楓は声を上げた。
「あの、そもそも、どうして私の姉の事を知っているんです? それに起源なんて、お母様やお父様は一度も口にしたことない、訊いたこともない話なんですけど……」
「望月花は十一年前、開位の階位を与えられて時計塔に招かれる予定だった」
香月の声は、しんとした部屋に静かに響いた。
「だが日本の風見で突如顕現した聖杯戦争に参加して、失踪した。他の参加者やサーヴァント、聖杯もろとも五日目の朝に消えたんだ。時計塔の君主の弟子の一人が日本に視察に来て、秘密裏に記録をまとめていた。五日目の夜までのレポートは隠されることもなく大々的に各地に流通して、三年前、この聖杯戦争に参加することを決めた、私を含む多くの魔術師がそれを熟読することは、容易かった」
そこでひとつ溜息を吐くと、香月は思い出したように背を丸めて汗をぬぐう。
「……私は死霊魔術が専門だ。生きている人間の魔術特性を、詳しく判断することはできない。あなたが起源持ちかどうかは、一つの仮定ということです」
「わ、私の事なんて……。姉さんの事を、何かもっと知りませんか」
楓の縋るような問いに、香月は青白い顔を振った。
「これ以上は、何も。残念ですが、失踪した全ての魔術師や、サーヴァントのその後は全く……確認されていませんから。……ああ、でも、そうだ……」
途切れ途切れに言いかけて、香月はふっと意識を失ったようにベッドの上に倒れこんだ。「香月さん!」と楓がその背を支えようと咄嗟に腕を伸ばす。その雪のように白い額には、この時期に似つかわしくない汗の粒が浮かんでいる。
「ど、ど、どうしよう!」
慌てふためく楓に、セイバーが横から「落ち着け」とたしなめた。
「そのマスターは常人より遥かに身体能力が優れている。魔術で体を強化しているんだ、すぐに死んだりはしない」
「でも、意識が」
「傷の回復に無い魔力をかき集めているんだろう。この霊脈の上で休んでいれば直に良くなる」
セイバーの言葉には説得力があるように思えた。楓はセイバーの顔を見て、不安げながらも一つ頷くと、そっと香月の体をベッドの上に下ろす。背の傷が直接床に当たらないように、体を横向きにして寝かせた。彼女は硬く瞼を閉じ、わずかだが規則的に肩を上下させている。
「神父は、教会だと」
おもむろにセイバーが口を開いた。グレーの瞳が楓を見ている。ずっとそれを言う機をうかがっていたようだった。
「最後の問いを投げかける時だ。楓の姉君の使い魔を持っていたあの神父なら、十一年前の真実にも近づけるだろう。もしくは……」
楓の素質というものがあるなら、それについても。その言葉は直前で喉の奥に呑み込まれた。セイバーは椅子から立ち上がり、
「覚悟は?」と問う。
「できているよ」
楓は小さいが芯のある声で答えた。その時、香月が呻くように、
「セイバー」
と、楓のサーヴァントを呼んだ。
「何だ?」と彼が答える。
「さっき、言いかけた、ことだが……十一年前……望月花が召喚した、サーヴァントも、セイバーだった」
「ああ。そうだったと、楓の母上に聞いた」
「その英霊だけ、時計塔の君主が記録から真名を推測していた。聖杯戦争において、それ以上に適任の英霊はいなかったと、文言を付け加えて――――その真名は」
香月は虚ろな視線をセイバーに向けた。
「アーサー王伝説における、円卓の騎士、ギャラハッドだ」
「……ギャラハッド」
セイバーはその名前を反芻した。遠くを見るような目で何か考え込んだ後、「そうか」と口にした。
「あの神父がこだわっていたのは、十一年前のセイバーの再臨だったのか」
再び意識をなくすように香月が眠りに落ちた時、セイバーの背後に人影が現れた。驚いた楓の前に立つようにして、セイバーが名前を呼ぶ。
「おや。遅かったな、アーチャー」
不意を突くように実体化した弓兵は、自分よりわずかに高いセイバーの目線を追って、ベッドの上のマスターを見た。
「俺のマスターは随分と色々喋ったようじゃねえか。らしくもない」
「そうか?」
アーチャーは大股でベッドの脇まで近づき、マスターの顔を見下ろした。香月は目を覚ます気配もなく、昏々と眠っている。しばらく黙ってその表情を眺めた後、アーチャーは楓とセイバーを振り返った。
「世話を掛けたな」
「これから、どうするつもりだ」
セイバーの問いを、アーチャーは鼻で笑った。
「どうするって何だ? 今までと同じだろ。俺はマスターに従う。こいつがまだ聖杯を望むなら、俺はあんた達と戦うことも厭わないし、聖杯を諦めても良いというなら、そうするまでだ」
「お前は……誰かに従うことに慣れているんだな」
「まあな。失せろと言われるまで付き従うのが性根なもんでね」
その言葉は決して自虐ではなく、本心から出た言葉だと、セイバーはすぐに理解した。
「教会に行くなら注意した方が良いぜ。今頃ライダーと生き残りの魔術師の合戦場だからな」
「ああ、分かった。忠告に感謝するよ」
セイバーは楓に目で合図をした。楓が頷くより早く、窓の外に黒く巨大な影が駆け寄ってくるのが見えた。それはさっき、香月と楓を乗せてここまで空を駆けてきた大きな黒馬だった。
窓を開け放つと、真冬の強い風がカーテンを蹴散らすようにして吹き込んでくる。
「じゃあな、お嬢ちゃん―――いや、セイバーのマスター」
セイバーの手を借りて馬の背に跨ったとき、開いた窓の内側から、不意にアーチャーが声をかけた。楓は翻るクリーム色のカーテンの隙間から、彼と、黒髪のマスターを見る。初めて顔を合わせた時はあれほど恐ろしかった姿が、もう目を合わせても何ともなかった。
「聖杯をめぐる最後の二騎になったとき、また会おう」
アーチャーはそう言った。それに応えるよりも早く、セイバーが繰る黒馬は窓枠から離れ、その蹄は風のような速さで風見の聖堂教会へと駆けて行った。
*
「戦うつもりですか? もう陽は高く昇ってしまいましたよ」
落ち着き払った灯の声は、静寂を煮詰めたような礼拝堂によく響いた。目の前に対峙するライダーは、依然として灯に銃口を向けている。アルパ―――アスクレピオスからの言葉は何もなかった。意地でも地下で聖杯を抱え込むつもりらしい。むしろさっさと地上でそのライダーと蹴りをつけてしまえ、とでも言いたげな無言だった。
「こんなに佳い午前だというのに、火薬臭いのは嫌ですねえ」
「……」
ライダーもライダーで、自分の問いに対する答え以外の言動には全くの無視を貫いている。灯は割れた窓ガラスを靴で踏みながら、「えーっと」と考えた。
「ええ、はい、わかりました、じゃあ答えましょう。私のサーヴァントは地下の部屋にいますから、用があるなら、そちらに出向いていただけます?」
「……地下への通路は何処だ」
ライダーは銃口を下げた。灯はにっこりと微笑んで祭壇の横を示す。
「あちらですよ。ああ、神父のほかにも魔術師がいますけど、特に気にしないでくださいねえ」
「……」
灯は両手を上げて降参のポーズをした。ライダーは、長椅子を挟んだひとつ向こう側の通路を、じゃりじゃりと割れたガラスを軍靴で踏みつけて祭壇の方へ歩み寄る。
あと三歩。二歩、一歩。ライダーが目の前を横切り、その背がこちらを向いた。
「―――――――」
声をかき消した詠唱と共に、灯の指先から白い光弾が音速で放たれる。それは唸りを上げながら、瞬き一つする間もなくライダーの骨ばった首筋に突き刺さる、はずだった。
「は……」
次の瞬間に灯が見たのは、鉛の弾を真正面に受け止めた自分の指先だった。骨もろとも吹き飛ばされた手の向こうに、銃口から煙を吐き出す一丁の銃が垣間見える。それを構えたライダーの体のどこを見ても、光弾が貫いた痕跡などありはしない。
「……」
灯は目を細め、そのままガラス破片の散らかる礼拝堂の床を蹴って天井まで跳んだ。すぐにライダーの白刃が追いかけてくる。左手で数発の弾を撃ったが、どれも空しく梁を撃ちぬいて木片が飛び散るばかりだ。諦めて床に降り立ったとき、突如として、目の前からライダーの姿が消えた。
「……ッ」
その一瞬の隙を突かれた。灯の目前に姿を現したライダーの、老体に全く似合わない重い一撃が、灯の無防備な鳩尾に叩きこまれる。ライダーの手刀は、そのまま祭壇の反対側まで彼女を吹き飛ばした。重厚な礼拝堂の扉が灯の体を受け止め、その表面に深い亀裂を入れる。
灯は、やっとの思いで瞼を開け、肺のあたりから込み上げてきた血を飲みくだした。
「……英霊ともあろう貴方が、騙し討ちのような真似をするとは」
ライダーは祭壇の近くに立ったまま、低い声で灯に返す。
「卑劣と? 貴様にそれを糾弾する資格があるのかね」
「貴方が軍人だというのなら、私は人民の名の下にそう言えるでしょうねえ」
「は。笑わせてくれる。儂のマスターを手に掛けようとしたこと、忘れたとは言うまい」
ああ、と灯は呻いた。何日前だったか思い出せないが、確かにランサーのマスターを追っていた彼を攻撃したことはあった。初めてライダーのマスターと会い見えた時のことだ。
「では、これは復讐ですか? ああ、それも違いますね」
「……」
「貴方も私も、最初から、目的は同じです」
言い終わってすぐ、灯は背後の扉の亀裂に素早く足を掛け、魔力を爪先で放出する反動でライダーの元まで跳躍した。狭い空間を高速で移動したにもかかわらず、ライダーの銃口は寸分違わずに灯を狙い澄ましている。それが火を噴く直前、灯は左手に握った式神と共に銃口を握りこんだ。
爆発音とともに、手の中の式神が砕け散る。だがそれは瞬間的に鉱石と同じ硬度まで硬くなり、銃口を塞いでいた。ライダーは暴発して使い物にならなくなった銃を捨て、白刃の刀を抜く。
ほんの一瞬。ほんの一瞬で良かった。ライダーよりも僅かに速く動けるだけで、勝機はあるはずだ。灯は数歩の間合いの中、風を切って唸る刀の刃を避けながら、老兵の一挙一動を追い続ける。じりじりと壁際に追い詰められながら、いよいよ灯の体力が底をつきそうになった時、それは訪れた。
最後の一撃と思ったのか、ライダーの腕が想定よりも大きく振りかぶられた。
少し遅れたその右腕の下に、素早く体を滑り込ませる。その肘を左手で掴み、何かを考える間もなく、体内のエーテルを純粋な爆発に変えて、ライダーの右腕を壊した。
おびただしい量の血と肉片が、礼拝堂の床や壁に飛び散って赤黒い染みをつくる。大振りの日本刀が床に転がって、けたたましい音を立てる。
「……」
思わず目を背けたくなるような光景だったが、灯の目は爛々と輝いていた。しかし、ライダーは無表情で、肘から先の無くなった右腕を見下ろし、肩で息をする灯を睥睨した。
「まるでなっとらん。戦争は、壊し合うのが本質ではない。自らの物資を確実に供給しつつ、相手の力を徐々に削ぎながら、最後の一撃だけで仕留めるのが戦争だ。それも知らないただの鉄砲玉風情が、よくここまで来れたものだな」
「勝者の顔をしていられるのも今だけですよ。貴方のほうが、傷は深いでしょう」
「さて。それはどうか」
ライダーがそう言って軍靴の足を一歩踏み込んだ、その時だった。
「!」
ライダーの背後、天井に向かってそびえ立つ祭壇の脇の通路から、黒い影のようなモノが、ずるりと音を立てて這いずり出てきたのだ。
灯すら見たことのない物体に、思わず驚きの情が顔に浮かんだのが見てとれたのか、ライダーは警戒しつつも背後を振り返り、地下から湧き出てくる黒いタールのような波に眉をひそめた。
「これは―――」
地下にいるアスクレピオスに念話で語り掛けても、何の返答もない。意図的にパスを切られているのだと気づいた時、灯は唇を噛んだ。
タールのような黒い物体はうごめき、一人と一騎が見つめる中で、徐々にその本質を露わにした。粉砕された彫刻の破片を一つずつ元の形に組み上げていくかのように、一つの形が出来上がっていく。脚があり、胴があり、腕があり、長い薙刀を構え、ほっそりとした首の上に、女性の頭が乗っている。それはまるで、
「……サーヴァントの、形だ」
ライダーが低く呟いた。まさにそれは、サーヴァントの容姿をかたどったモノのように見えた。だが、灯もライダーも、『彼女』のような容姿のサーヴァントなど、今回の聖杯戦争では見たことがなかった。武器が薙刀だからランサーだろうか――と灯は推測したが、それもすぐにやめた。『彼女』の背後で、一騎、また一騎と『サーヴァントのような何か』の形が組み上がっていく。
小柄な少女。弓を持つ男。長剣を持った青年。長い外套を纏った者。
身体の全てが真っ黒い影で出来ているせいで、おおまかな外見しか判別できないが、ざっと灯が目で追った時には既にその五騎が完成していた。
全員が、中空の一点を見据えて、静止している。その光景だけ見れば、まるで精巧な石像か何かが林立しているだけのようだ。
だが、ライダーがゆっくりと身を屈め、床に転がっていた日本刀に手を伸ばした瞬間、最前列に立っていた薙刀の女が突如としてその得物を振り上げた。
「ッ!」
すんでのところで、ライダーの刀がその薙刀を受け止める。次の瞬間には五騎すべての視線がライダーに重なった。まるでそれがあらかじめ決められていた合図だったかのように、五騎の影が一斉にライダーに襲い掛かる。
『どうした?』
灯の頭の中に、アルパの問いが響く。それはマスターを案じているというよりも、何をしているんだ、という意味合いのほうが強い言葉だった。
『支援が欲しかったんだろう。あのライダーとこの世を繋ぐ楔を抜くなら、今のうちだ』
含んだような物言いのあと、再びパスが一方的に切断される。
灯は、激しい戦闘の始まっている礼拝堂を、足早に出て行った。
Fate/Last sin -30