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「今晩は。遅くなったが、きみの個展をみてきたよ。」
私は帽子を脱いで、勝手知ったるコートかけにひっかけた。
「やあ、今晩は」
ニロは振り向きざまそう言って、煙草に火をつけた。
「別に行かなくても」
「繁盛してたよ、今日も?」
「さあ?」
私は、この夫婦の家にくるといつも座る一人がけソファに座った。
「あら、お久しぶりですね。ムッシュー。」
奥の部屋からマダムが出てきて、軽く私に笑いかけた。
「どうも。個展は成功でなによりです。」
「まあ、ご飯が頂けますから」
そんなことを言う。
「僕の描いたものは、僕が死ねば、誰も見向きもしないし、お金も出さないよ。」
煙をはきながら、ニロは言った。
「きみの画は素晴らしいよ」
いつもの彼に言うと、はあ、そうかね、と言わんばかりに少しだけ肩をすくめる。
「生活が送れるからありがたい。」
「きみは芸術家だ」
「違うよ。僕には唯一ポリシーがあってね、いつも作品を描くとき、最後に妥協するんだ。」
「そりゃ、芸術家の完璧なんて、、どんなにむつかしいか」
「そうじゃないんだよ。芸術家は妥協などしない。そんなものは、誰にも見せない。」
おおい、とニロは奥の部屋に戻ったマダムに声をかけた。
「なあに、ニロ?」
「ほら、ええっと、ええっと、どのくらい前かな?ちょっと前かな、いや、もうちょっと前に、四階の奥さんから、ケーキをもらったろ。」
「ああ、ぼちぼち前の」
マダムほそう言うと、奥の部屋へ行き、すぐにお盆を持ってこちらへ来た。
「大丈夫ですわ。ぼちぼち前ですけど、おいしく食べられます。」
いつもの独特の、この夫婦の会話に、口をはさんでみた。
「きみたちの会話は、正解性に厳しいのかな?」
マダムは、お盆をもったまま、まるで、男子学生のように、ん?とした顔をした。
「なにかへんかしら」
「とくにそういうわけではないんだけど、できれば正解でありたいね。とくに、量とか、時間とか。」
「そして、この部屋には、時計は、きみのもってる懐中時計だけだ」
私は笑った。そして、その時計も正確ではないだろうし、見るときも持ち主自身幾たびあることか。
しかし、私は、とてもこの夫婦が好きだ。ニロと画学生の頃からの付き合いだが、ニロには自分しかたいした知り合いもいないし、マダムにいたっては、誰かとどこか行くなどという話は聞いたことがない。
マダムは笑って、小ぶりな円いテーブルに、三人分のケーキをおいた。「ちょうどコーヒーもありました」
「それはたまたまよかったです。」
私たちは、そのテーブルを囲んで椅子に座った。この部屋には、なんだか椅子が多いのだった。
「おいしそうだ。」
「うん。」
ニロは、うつむいて、ケーキと向かいあった。
「レモンケーキですって。」
マダムはそう言うと、煙草に火をつけた。
私だけが、フォークを手にし、口にした。
「さっぱりしていておいしいね。」
「そうかな。」
「そう?」
二人に見つめられて、私はちょっととまどった。
「マダム、レモン、お嫌いでしたっけ?」
「いえ、べつに。わたし、あまり食べ物でおいしいとかよくわからなくて。」
「ニロは?」
彼は、ケーキを小さくほじくって、口にした。むつかしそうな顔をした。
「甘いと思ってたんだけど、、そんなに甘くなくて、、いや、むしろ、酸っぱいというか、薄い味、、、」
マダムは少し開いた窓を見ながら、まだ煙草を吸っていた。私は笑ってしまった。
「なにか足りないものでも?」
「いえ、充分に。マダムは、やはり、男性のような、女性のような」
「そうかしら、どちらでもよくてよ。」
「ぼくも。きみがどちらでもいいし、きめる必要性もないし」
「ああ、主人の画を見に行ったんですってね。とかく見るものはないですよ。」
「芸術家じゃないから?」
私がいうと、ええ、とうなづいた。
「絵描きではあるでしょうけど。そう。お久しぶりだから、さいきんのこの人の話をしてあげますわ。」
ニロはまだうつむいたまま、ケーキを見ていた。
「だいぶ前かしら。いえ、ときどきですかしら。いつもかけやしないのに、眼鏡かけて、あそこの、ほら、主人が一つだけ持ってる帽子があるでしょう。真っ黒の。あれを被って眼鏡して、湯船に浸かっていたり、いえ、別に難しい顔なんてしていないんですよ。夜寝ていたら、窓ガラスを割って沢山血を手から流してね、けっこう痛いもんだな、なんて言ってました。左の窓ですわ。なおしてませんの。」
「直さないのですか?」
「直さなければいけないの?」
小首をかしげて、今度こそ、ケーキを食べるべく、フォークを手にした。
「そんなことはありませんが、、。つまり、きみが作品というわけだ。」
ニロは顔をあげて、
「いっとう劣悪さ。」
そう言うと、またケーキをほじりだした。
「とにかく、ぼくは芸術家なんかじゃない。だから、妥協した画を言われるまま、貸すしあげるさ。多少稼がないと、道ばたで寝たいとは思わない。」
ニロはいきなり微笑して、指で揺り椅子を指した。
「あの椅子に座ってるとね、もちろん、ゆらゆらさせながら。飽きないね。よく考えられてるもんだ。で、ゆらゆらしてるとね、色々思ったり、場面が巡ってきたり、考えたりするんだけど、どれもいやらしくなくてね、とても好きなんだ。」
「形而下ということだね。」
私が言うと、ふと私の顔をみて、
「インテリだ。」
笑った。

それが最後のニロとの会話だった。
私は、仕事で、ニースにしばらく行かなければならなかった。思ったよりとまどった。
そのせいで、ニロの死を知ったのは、電話口からだった。
その後、マダムにもちろん会った。マダムは、私にお願いをした。ニロの骨は埋めてない。この部屋にある。わたしが死んだら、一緒に埋めてくれ、と。
マダムは自殺した。多分だ。ニロのいなくなったあとも、マダムは、少しは痩せたが、生活を送っていて、悲壮な孤独感というものは、感じなかった。
おそらくだが、自然に食べなくなって、餓死したのだろうと思う。それとも自然死というべきか。
二人とも亡くなって、数年たつが、私がよく覚えてるのは、マダムは、ニロのあの好きな椅子に座って、膝掛けをして、死んでいたことだ。この夫婦の部屋には、大家もとくに来なかった。私にはそれはなんとなくわかる。別に不愉快とかではなく、空気に必要とされてない、まるで無理やり入ってるのような感覚がするのだろう。マダムの死をはじめて知ったのは、私だった。

この二人は、二人共に無ではなかったのではないだろうか。
まるで、空気中から姿を出し、空中に消えていった。そんなことを考えるようになった。

ニロの画は、彼の死後、気がついたら見なくなっていた。ワインの瓶のラベルにすらだ。
彼は、まるで気にしないであろう。

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  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-09-06

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