『暁蕣花の咲く処』』(ある子竜の物語)第4章〈2〉 ~フラットアース物語②

〈2〉

僕が先ず向かったのは、半円形の谷に近い荒れ野だった。
そこで最初に出会ったのは、しばらく前に、谷の中腹の池から出て行った仲間だった。あの時、仲間の後を追い掛けて来たものの、彼は何をするでもなく、荒野を歩き回っているだけだったから、僕は彼と別れて産洞へ戻った。
その後、彼も他の仲間と同じように半円形の谷へ行ったものだと思っていた。だから、もう一度この場所で会うとは、考えてもいなかった。

彼は、とても興奮している様子だった。その波立つ波動で辺りには砂埃が立ち、吹き飛ばされた小さな暗灰色の葉が、僕の方へと流れて来た。
そこに、ざぁっと、別の方向から風が吹き付けて来て、彼の波動(呼吸)は一層、荒くなった。仲間の視線の先、少し離れた場所に、別の仲間の気配があった。そして、その仲間の波動も、同じように激しく波立っていた。

直後、ふたりは同時に地を蹴って飛び立った。ふたりの距離は見る間に狭まり、互いの波動(身体)がぶつかり合って、ドーンという衝撃波となって大気を揺らした。大地はその余波によって削られ、小さな欠片となって、僕のいる場所まで降り注いで来た。
それから、彼らは付いたり離れたりしながら戦い続けた。彼らがぶつかり合う度に、大地は(えぐ)られ、幾つも大きな穴が作られた。

争うふたりは全く同じ力を持っていた。だから、戦いはどちらに傾いているとも言えなかった。正直なところ、どうして決着がついたのか、僕にはさっぱり分からなかった。全く唐突に、片方の仲間の波動が揺らぎ、粉々になって散った。それで、終わりだった。
勝った方の仲間は、しばらく辺りを歩き回っていたが、やがて半円形の谷へ向かい、人形(ひとがた)変化(へんげ)して谷の門を通って行った。

仲間の後を追って門の近くまで来たものの、僕はどうしたら良いのか考えていた。
この前より少し大きくなったとは言え、人形の僕には、上衣の(すそ)は地面すれすれ、下衣は半分に折り曲げて、ようやく足が出るような有り様だった。
(これでは、門を通して貰えないだろうな。)
けれど、その門の内側に何があるのか、とても興味があった。それに、何故あの仲間達が争ったのかも知りたかった。

(どうにかして、門を通れないだろうか。)
産洞の池での争いは、大きくなる為のものだ。それはそれで嫌なことだったけれど、理由は分かる。けれど、先程の戦いは、ただ相手に勝つ目的で行われたように思えた。現に、勝った仲間の気力は、ほとんど増えていなかったのだ。仲間がそんな行動を取るのを、僕はこれまでに見たことがなかった。
どうして、そんなことをする必要があるのか。それが、この半円形の谷に関係しているような気がした。

僕は一旦そこから離れ、ぎりぎり門の見える場所で機会を待った。その間に、何人かの仲間が、門から外に出て行き、また門の中に入って行った。
そして、濁黄色の空を歩む天体が地平近くへ下りて来た頃、荷車を引いた仲間が、荒れ野から半円形の谷に向かってやって来た。それを見て、僕はあることを思い付いた。

それは、産洞で仲間に対して使った方法だった。身体を縮小した僕は、外に現れる波動を弱めて存在を感知され難くした。そして、仲間の引くその荷車の中に入り込んだのだ。
荷車の中には、たくさんの白い小さな塊が載せられていた。それが何なのか僕には分からなかったけれど、それらは適度な隙間があって、身を隠すのには都合が良かった。

荷車は、何の問題もなく半円形の谷の門を通過した。その門には、やはり結界が張られていて、一定以上の力がないものは、そこを通れないように制限されていた。
無事に門を抜けたことを確認すると、僕はそっと荷車の端に寄って、板戸の隙間から外の様子を(うかが)った。

そこは大きな町だった。町は、門から奥へと向かって、なだらかな下りになっていた。それは父や母と暮らしていた場所よりも、整然としていてちょっと殺風景だった。
けれど、茶色の石積みに小さな窓の開いた建物が、視界の端まで規則正しく並んでいるその光景は壮観だった。僕は呆然(ぼうぜん)と……たぶん半分口を開けた間抜けな顔で、その景色を眺めていた。

荷車を引いた仲間は、門から程近い建物の一つに入って行った。僕は、仲間に見つからない内にそっと荷車から滑り出て、それから、小さな虫に変化(へんげ)した。
だって、服を引き()った情けない姿で町を歩いたりしたら、門の仲間に見つかって、たちまち追い出されてしまうだろう。折角入り込めたのだから、この場所をじっくり探検したいと思うのは当然のことだ。

町の中には大勢の人形の仲間達がいた。けれど門の仲間が言ったように、小さな者はひとりもいなかった。皆、似たような背丈で、その上、同じ服を着ているからなのか、年齢もほとんど同じに見えた。
荷車を引いた仲間が入って行った建物は、何かの工房のようだった。そしてその隣も、更にその隣も、同じような工房になっていた。。そうやって次々覗いて回る内に、その辺り一帯が、工房が集まる区画になっていることが分かった。

そこで何かを作っているのは、大抵、門の所に立っていた仲間と同じような姿をした仲間達で……つまり彼らには悪いけれど、僕から見たらヒトよりも猿猴(さる)に似ていると思うような仲間達だった。
でも、彼らの作業を見るのはとても面白くて、僕はその辺りの工房を一つずつ(のぞ)いて回った。けれど、どの場所でもそこに働く仲間達が(いぶが)しげに、羽虫に変化した僕のことを見るので、居心地が悪くなって、すぐにそこから逃げ出す羽目になった。

町の仲間達は、皆一様に、どうして町の中でそんな姿をしているのか、と疑問を投げ掛けて来た。でも、僕は理由を教える訳には行かなかったのだ。それに、門の仲間のような反応をされるのは嫌だった。
そうやって何度も逃げ出す内に、僕はここの仲間達が、普通に念話を使うということに気が付いた。

それを確かめる為に、とある工房で、僕は思い切って仲間に話しかけた。彼は、工房に働く仲間達の中でも、少しヒトらしい外見をしていた。それもあって、ちょっと離してみようかという気になったのだ。
「ここは何をするところなの?」
話しかけられた仲間は、警戒するような表情を見せたが、質問にはちゃんと答えてくれた。彼の説明によれば、ここでは辺境の谷で採掘された岩石から、微量に含まれる金属を取るために、その下準備となる加工をしているのだと言うことだった。

そう言われても、僕にはさっぱり理解できなかった。けれど、とにかく仲間と話が出来た、ということに、僕は感動していた。
その仲間も、どうして人形(ひとがた)でいないのかと聞いてきたから、僕は逆に、町では絶対に人形でいなくてはならないのか、と彼に(たず)ねた。
勿論(もちろん)だ。それが、ここでのきまりだからな。その姿を上の役人に見られでもしたら、まずいことになるぞ。」
真剣な顔でそう言った仲間に、僕は礼を言って工房を出た。

外に出た僕は、門を通った時と同じように波動の出力を弱めて、仲間達から見つかり難いようにした。けれど、その状態を保つのは少々辛かったから、僕は出来るだけ急いで、町を見て回ることにした。

町の構造は、とても規則的だった。半円形になった町の最も外側、つまり門のすぐ内側は、工房で働く最も小さい仲間の住居になっていた。
そこから中心に向かって、工房の集まる地域、それからまた、工房で働く仲間達の住居というように、幾重にも工房と住居が層になって町が造られていた。
そして、それらの建物の間を、谷の中心から放射状に延びる大きな七つの道が貫き、町を均等に八つに区切っていた。

八つに分かれた各区画は、それぞれ職業ごとに分かれているようだった。大抵が、最も外側の工房で原料の下準備が行われ、谷の中心に近付くにつれて、それらを組み合わせた製品を作るようになっていた。
ただ中には、何を作るでもなく、仲間達が盛んに出入りしている建物ばかりの区域もあった。

とにかくこの町では、誰も彼もが何かしらの仕事をしていた。仕事をせずに町をうろついている者は、産洞の谷を出てこの町に来たばかりの者達らしかった。何故なら、彼らはみんな、僕が門で渡されたのと同じ、生成り色の帯をしていたからだ。
どうやらそれが成竜になる直前の、若竜であるという印のようだった。仲間達にとって「成竜(おとな)になる」というのは、能力にみあった職業(ポジション)につくことを意味しているらしく、「若竜」とは産洞を出て、仕事を得る前の仲間を呼ぶものだと、僕は町の仲間達の念話(はなし)から知ることが出来た。

若竜達は大抵、ある場所を中心に町を歩いていた。ある場所というのは、それぞれに異なる場所だったが、中には二名、三名と同じ場所を巡る仲間もいた。
どうやらそれは、仲間達の気力(ちから)と関係があるようだった。町を(くま)無く見て歩く中で、工房で働く仲間とそこを訪れる若竜の気力が、ほぼ同じだという事に気が付いたのだ。そしてそれは、谷の中心に近付くにつれ、よりはっきりと分かるようになった。

荒野で争っていたあの仲間は、町の工房ですでに働いていた。彼はもう、若竜の印である生成りの帯をしていなかった。彼の帯は、その工房で働く仲間達と同じ色で、その仕事ぶりも、ついこの間始めたばかりとは思えないものだった。

彼の働く工房を過ぎると、整然と続いていた家並みは唐突に途切れ、そこから先は大きな広場になっていた。広場には、工房の七、八倍はありそうな巨大な建物が、ぽつりぽつりと建っていた。
それらの建物は、町の家や工房と同じく、茶色の石積みであることに変わりはなかったけれど、屋根には鮮やかな紅色の瓦が使われていて、ひと目で特別な建物なのだと分かった。

その建物は、放射状に伸びる七本の大通りを挟むように、全部で八つ建っていた。つまり、それらの建物は、八つの区画の各頂点に置かれていた。そして、その八つの建物の奥には、町の入り口にあったのと同じような高い壁が築かれていて、その障壁に七つの大通りが突き当たる場所は、巨大な門になっていた。

その門を出入りする仲間は、それほど多くはなかった。僕はその仲間達が、工房の仲間が言っていた「上の役人」なのだろうと思った。彼らの気力は、工房にいる仲間達より、一段階上だったし、着ている服も色こそ同じだったけれど、生地に光沢があって、鮮やかな刺繍が施されていたからだ。

僕は彼らに見つからないよう十分に用心しながら、その門の前まで行ってみた。
そこには門番らしき仲間の姿はなかったが、その代わりに、門を結界する波動に、こちらを検分するような視線が感じられたから、僕はすぐにそこから離れた。
それから広場にある大きな建物にも行ってみたが、そこには僕よりも大きな仲間の気配があったので、中に入ることはやめておいた。

その大きな建物の辺りでは、若竜達の姿をみることはなかった。ここに来る可能性のある者と言えば、谷底の池にいた仲間達だ。彼らは、ここで働く仲間達と釣り合う気力を持っていた。しかし、町に彼らの姿はなかった。
僕は町を一通り見て回った後、今度は谷底の池にいた仲間達を探すため、半円形の谷を出た。ところが、広く荒れ野を飛び回って捜してみたものの、仲間達の姿は見当たらなかった。仕方なく、僕は産洞の谷へ引き返すことにした。

だがその途中、農場の谷に差し掛かった所で、僕は、捜していた仲間を見つけた。僕とほぼ同じ大きさのその仲間は、農場の谷へ下りて、そこで行われている作業を興味深そうに眺めていた。谷で働く小さな気力の仲間達も、離れた所から見ている分には、その大きな仲間を恐れることもなかった。

そしてそれは何も、その仲間だけのことではなかった。農場の谷には、他にも谷底の池にいた大きな仲間達がいて、彼らも同じように、小さな仲間達の仕事ぶりを眺めながら農場の谷を巡り歩いていた。
正直に言って、僕にとっては、農場の谷はあまり面白い場所ではなかった。前に一度見たことがあったし、それに僕には、町の工房の方がよほど面白いと思えた。なので、半月余りその仲間達の行動に付き合った僕は、すっかり飽きてしまって、産洞の谷に戻った。

産洞の谷からは、続々と最も小さな気力の仲間達が、農場の谷へ向かって飛び立って行った。僕はそれを遠くに見ながら、しばらく中断していた谷奥の探索を再開した。
谷は、雨の季節から日が経ったからなのか、濃霧の日が少なくなっていた。
〈雨の季節〉というのは、六年に一度、一ヶ月間だけこの世界に(きり)が立ちこめる現象の事らしい。僕はそれを、半円形の町で仲間に教えてもらった。

この世界に雨は全く降らない。植物も動物も、谷に立ち込めている霧の僅かな水分(エネルギー)で生きていた。だから、作物などは自然の谷に手を加えて大きな谷を切り開き、そこで育てているのだ。産洞の谷と農場の谷、そして僅かな自然の谷が、命を育む場所で、残りは乾ききった茶褐色の大地が広がっているだけなのだと、その仲間は教えてくれた。そして、それが一変する時が〈雨の季節〉なのだ、と彼は言った。

普段、濃い(きり)が発生するのは産洞の谷の付近だけだ。ところが、雨の季節の一ヶ月間は、濃い霧が半円形の町の近くにまで押し寄せて来て、茶褐色の荒野は真っ黒に染まるのだと言う話だった。なぜ大地が黒くなるのかと尋ねた僕に、仲間は、自分の目で確かめろ、と笑って答えてはくれなかった。
(六年後……か。)
それは僕にとって、とてつもなく長い時間に思
えた。六年の間に、僕は成竜(おとな)になれているだろうか、それを考えると気が滅入った。

僕はもう、この世界が僕の生まれた世界、父や母のいる世界とは全く違う場所なのだと分かって来ていた。多分、産洞の谷の奥の方、卵の生まれる洞窟の方に、父や母のいる元の世界はあるのだ。
今は、同じ能力を持つ仲間と出会えたから、卵の洞窟にいた時ほど戻りたいとは思わなくなっていた。それでも時折、父母のことを思い出して無性に会いたくなった。
それは取り分け、深い霧に閉じ込められて、身動き出来ない日のことが多かった。そんな時、僕は声を出さずに泣いた。誰かに見られでもしたら、弱虫だと思われたかもしれない。けれど、幸い周りには誰もいなかったし、泣き顔は霧が隠してくれた。

霧が薄れても、谷の奥の地形は入り組んでいて、光の差し込まない場所が多かった。なので、谷奥の探索は遅々として進まなかった。僕は、波動の目印に加えて、岩肌を削り取って目印にすることを思い付いた。そうやって印をつけるのは時間がかかったけれど、霧で消されることはない。ただ、その目印は接近しないと見えないから、たくさんの印を残す必要があって、探索の進みは益々遅くなった。

そうやって慎重に進んでいたにも(かかわ)らず、僕は何度も谷の入口近くまで戻された。何度、もうやめようかと思ったかしれなかった。でも、ただじっと座っているのは耐えられなかったから、僕は気を取り直して、また探索に精を出した。そんな時、消えない目印は大いに役立ってくれた。

それでも探索に疲れた時には、少しの間、産洞の谷から出て、仲間達がどうしているのか見に行ったりもした。谷底の池から出て行った仲間達は、あれから半年後にも、まだ農場の谷にいた。その次に探した時には、半円形の谷の周辺へ移動していたが、彼らは、そこで出会った他の仲間達と同じように、何をするでもなく荒れ野を歩き回っているだけだった。

ただし、その行動範囲は、過去に出会った中間の気力の仲間よりもずっと広く、仲間のひとりなどは、国境線と呼ばれる辺りまで出て行った。
国境線と言っても、そこに何かがあるという訳でもなく、ただ、そこから先の地形が少し変わっているだけだった。
僕ら(フェリル)の領域は、ほとんどが平らな大地だ。しかし国境線から先は、谷のように落ち込んで、起伏の多い地形になっていた。しかもその谷はからからに乾いていて、薄い(もや)さえ立ち込めてはいなかった。勿論、そこには一片の生物の気配もなかった。

仲間はそれを見て満足したのか、また町の近くに引き返して行った。他の仲間達も同じように、気ままにあちこち出かけては、また半円形の谷の周辺へ戻って来るということを繰り返している様子だった。

それが珍しく、全く同じ気力の若竜がふたり、連れ立って荒れ野に姿を見せた。少し遅れてもう一組、先のふたりと同じ気力の若竜達が、やや離れた場所へ陣取った。それを見て、僕は嫌な予感がした。
二組は互いに距離を取ると、ほとんど同時にぶつかり合った。彼らの戦いは、以前に見た若竜達の争いよりも、更に激しかった。片方の組は、早々に勝負がついたが、もう一方の組は、長い時間戦い続けた。そうしてようやく決着がついた後、勝ち残ったふたりは、間髪入れずに戦いを開始した。

僕は、その結末を見届けなかった。仲間の争う姿を見ている事に耐えられなくなったからだ。
彼らがどうして争うのか、僕には全く理解できなかった。けれど、その理由は何となく想像できた。それは恐らく、仕事を巡る戦いなのだろう。
地位(ポジション)……か。)
町にいた若竜達は、しきりとそれを話題にしていた。確かに工房の仕事は、見ていて面白そうだった。だが僕には、仲間の命を奪ってまでやりたいと思えることではなかった。

しかし、仲間にとっては、それが最重要事項のようだった。
役割(ポジション)、さもなければ退場(アウト)だ、と彼らは話していた。)
その意味は、僕にはよく分からなかった。その為に何故、戦わなくてはならないのかは、もっと分からなかった。
(仲良く……とまでは行かなくても、一緒に働くことは可能なはずだ。)
生長する為に喰い合い、地位を得る為に仲間の命を奪う。それが僕の種族なのだとしたら、僕はそれをヒトでいたいと思った。
だから僕は、真っ直ぐ産洞の谷に向かった。そして、残しておいた目印を探した。何としてでも、父母の世界へ出る道を見つけ出すと決めていた。探索はなかなか進まなかったが、僕はもう休むことはしなかった。

そうこうしている間に、早くも雨の季節から四年近くが過ぎようとしていた。
谷奥の探索は、進展したとは言い難い状況だった。産洞の谷に立ち込める厄介な霧は、今は谷底を覆うだけになっていて、見晴らしは随分と良くなった。だからと言って、そこに何かが見つかるという訳でもなく、僕はただ、毎日岩壁を登ったり降りたりしているだけだった。

これまでに歩いた歩数は、かなりのものだと思うのだが、ここでは、それが距離と比例しないのが難点だった。谷奥は入り組んだ地形になっていて、今いる場所からは谷の入り口は見えない。ただ、それを確認したい時には、岩壁の頂上に行きさえすればよかった。産洞の谷はその外縁、つまり谷の入り口になっている岩壁が最も高くて、そこからいきなり最も深い落ち込みになっていた。そこから奥は大体、その半分から四分の三の高さで起伏していた。

何時だったか、谷の入り口から谷奥を眺めていて、白い霧の中に黒褐色の岩山が突き出すその景色が、食卓に並んでいた堅い焼き菓子みたいだと思ったことがある。
その菓子はとても大きくて堅いので、木槌で砕いてから食卓に出される。そして食べる時に、家畜の乳を入れて柔らかくするのだ。父と母、そして父の従弟家族と食卓を囲んだ。そんな光景が、ふっと浮かんで来て懐かしくなった。

そんなことを思い出しながら歩いていた所為で、気が付いた時には、仲間の波動(けはい)は近くに迫っていた。けれどそれは、僕の半分程度の気力だったから、僕は気にも留めずに、そのまま歩き続けていた。
しかし、薄い(もや)の向こうに、ちらりとその波動()が見えた時、僕は反射的に身体を縮小して、存在を感知されないように波動を弱めた。

それは、僕の一族(フェリル)の波動ではなかったのだ。そこに見えたのは、鮮やかな黄色の波動()だった。幸いなことに、相手はすぐに、僕のいる場所とは反対の方向へ去って行った。
靄を透かしてよくよく見ると、気配の現れた場所には横穴があった。それは仲間達が集まる池への通路と良く似た洞窟だった。いや、さっきの相手がここから出て来たことを考えれば、奥に同じような場所があるのは間違いなさそうだった。

危険だと言う声と好奇心とが争って、好奇心が少し上回った。僕は、波動を弱めたまま、その通路を進んで行った。洞窟はすぐに濁った水の中へ下り、その先で予想通りに大きな池に出た。
そこには、僕が最も長く過ごした谷の中腹の池と同じく、僕の半分くらいの気力の者と、更にその半分くらいの気力の者達がいた。

あまりにもそっくりなその光景に、僕は一瞬、あの池に戻ったのかと思ったくらいだった。けれどもそこが、僕達とは違う一族のいる場所だと言うことを、鮮やかな黄色と、父母の世界で見た真昼の空の色の波動が示していた。
〈ギズルガ〉と〈蛇竜族〉という言葉が、同時に頭の中に浮かんだ。それはどちらも、最初、僕の中で意味をなさなかった。けれど、すぐにその定義が浮かんで来て、僕はとんでもない所へ入り込んでしまった、と後悔した。

ギズルガとは、僕達の言葉で〈彩光、移ろう色の環〉という意味がある。その言葉通りに、波動(身体)が黄色の者と空色の者のどちらも、その長い背びれは、紅黄色から青緑色まで刻々と色合いを変えていた。それが、ほぼ紅色一色の波動をしている僕達(フェリル)との違いの一つだった。
もう一方の蛇竜族というのは、ヒトが彼らを呼ぶ言葉だ。それは、細長い胴体を持つ彼らの外見から付いた呼び名だった。

そして何より、蛇竜族(ギズルガ)翼竜族(フェリル)とは、同じ竜族と呼ばれてはいても、天敵の間柄なのだ。つまり僕は、敵の領土に、たったひとりで乗り込んで来たと言う訳だ。
僕はそっと、本当に波一つ立てないようにゆっくり、でも大急ぎでその池から出た。
天敵ばかりの場所に長居は無用だったから、僕は、元来た道を引き返した。

ところが、残して来た目印は見えているのに、その距離は、地平の彼方かと思うほどに少しも近付かないのだ。その上、一歩進む毎に身体は重くなり、足を動かすのも億劫になった。
(そう言えば、ここに来る時もこんな感じだった……。)
それで、何か楽しい事を考えて気を紛らせようと、懐かしい記憶を引き出したのだ。おかげで足は進んだが、今度はそれが思わぬ事態に繋がってしまった。

(それにしても、これは反対側とは言えないと思う。)
核心(コア)に刻まれた定義は、ギズルガはこの世界の反対側に住んでいる、と教えてくれた。しかし、ここでは僕ら(フェリル)の領域と彼ら(ギズルガ)の領域は接している。
(それとも、考えていた以上に離れた場所まで来ちゃったのかな……?)

何しろ、これまで幾度となく悩まされて来たように、産洞の谷には、常に中心から谷の外縁へ向かって押し返す力が働いていて、行きと帰りの距離感が全く違う。
ギズルガの領域でもこうやって抵抗を感じると言う事は、逆に力の影響を受けて、知らずにうんと遠くまで歩いてしまった、何てこともありそうだった。

(けど、たった二つの種族しかいないのなら、お互いに仲良くした方が良さそうなのに。)
それもさっき、ギズルガの説明のついでに核心(コア)が教えてくれた事だった。
そう、仲間達が住むこの世界には、僕ら(フェリル)彼ら(ギズルガ)しかいないのだ。広大な大地の端と端に互いの領土があって、接触することは全くない。それが僕ら(フェリル)彼ら(ギズルガ)の関係らしかった。
しかし先程、ギズルガを見て怖くて逃げ出してしまった僕に、それが出来るだろうかと考えてみて、やっぱり難しいかもしれないと思い直した。

それから歩いて、歩いて、歩き続けて、限界だと思った所からもうひと頑張りして、疲れ果ててさすがに休憩しよう、と考えた時、押し戻そうと働く力が消えて、身体が軽くなった。
背中を押す力に促されて一歩足を出すと、目標にしていた目印が足元に光っているのが見え、更に歩みを進めると、残しておいた目印が次々と姿を現した。
(僕達の領域に戻ったんだ。)

僕はほっとして、足を止めた。振り返っても誰も追い掛けて来ない事を確認すると、僕は探索の目的地を谷底に変更した。
これまでの探索で、谷の奥には何も見つけられなかったし、それに、またギズルガの領域に入り込んでしまったら、今度こそ大変な事になるかもしれないと怖じ気づいたからだ。実を言えば、八割は後者が理由だった。

谷を下りて行くと、ある地点で谷に働く力の方向が変化して、谷底の池に誘導される。この力は、谷の他の場所で感じる力、つまり谷の入り口へと押し戻そうとする力とは、比べ物にならないくらい強いものだった。そして、その力の境目を越えると、必ず半歩で池の水面が目の前に現れた。
谷底の池に立って、僕は以前に壁に刻んだ目印を見上げた。明らかに僕が出て行った時よりも水量が減っていて、今はようやく足元が浸かるくらいの深さしかない。一方、谷底へ下りる直前に残して来た波動(ちから)の目印は、入り組んだ谷のずっと奥に、微かにその存在を感じられた。

(どう見ても、半歩……って距離じゃないよなぁ。)
僕は新たに岩壁を削って、今の水量を示す印をつけた。過去の目印は、点々と遥か高みへ続いていて、その距離は一定ではない。けれど、その距離を歩数で測ることは出来なかった。谷底の池から移動しようとすると、なぜか必ず、谷の入り口に出てしまうのだ。

しっかりと目印を確認しながら、僕はゆっくりと池に沿って歩き出した。こうやって水面と平行に歩いていると、池はとてつもなく広く感じられる。しかし、そこから岩壁を登リ始めると、その感覚は大きく変わった。
岩壁を登っているはずなのに、感覚では下り、右足を出しているはずなのに、左足を動かしているような奇妙な感覚に襲われて、すっかり混乱して気分が悪くなった。何と言ったら良いのか……そう、足元の地面が、かなりの速さで進んで行くような、その一方で、誰かに後ろからぐんぐん押されているような、そんな感覚があって、気が付くと、ぽんと身体が投げ出されるような形で、谷の入口近くの岩棚に降り立っていた。

その辺りは、産洞の谷が最も後退した所、と言うのか、茶褐色の大地が最も谷の側に突き出した場所だった。つまり、そこは谷の中心から、谷の縁までの距離が一番短い所になっていた。
僕は、今しがた残して来た目印を探した。気力(ちから)の目印は谷の霧に弱いので、時間の経過とともに消えてしまう。けれど、短時間なら十分にその役割を果たす。特に今は霧も薄いので、離れていても目印の発する波動を見つけやすくなっていた。

目印を探してじっくりと谷を見渡していると、深く切れ込んだ谷の岩壁、その最奥に何か光るものがあって、僕の注意を引いた。じっと見ていると、それはやや時間をおいて、もう一度光った。
反対側の壁で光っていたもの、それは紅い玉石だった。玉石は、岩壁の上方に埋め込まれていて、そこは雨の季節の最中でもなければ、霧に隠されてしまうことはないだろうと思われる高さだった。

近くに寄ると、その石は強い波動(ちから)を持っていることが分かった。玉石の内側の波動(ひかり)は、一定の間隔で強弱を繰り返していた。それはまるで、石がその存在を主張しているようでもあり、こちらの様子を(うかが)っているようでもあった。
長い間この谷を探索した僕には、それが何かの目印だという確信のようなものがあった。この近くに何か、こうやって消えない印を残すくらいの重要な何かがあるのではないか。そう考えた僕は、その玉石がある場所から、谷底に向かって、岩壁を注意深く探した。

けれど、そこに何かを見つけることは出来なかった。でも、考えてみれば、それは当たり前のことだった。これまでの探索で、僕はその辺りを何度も行き来したのだ。特にこちら側、谷の奥側の壁は、仲間達が出て来た池の出口とも近くて、この辺りに留まっている仲間は多かった。そこに何かあれば、仲間達が先に見つけていただろう。
僕はそのことに、谷底まで十往復もしてから、ようやく気が付いた。

そうして、僕はそれを、玉石の場所から登った岩壁の頂上付近で見つけた。それは一見すると、普通の岩壁に見えた。ただ、その岩の向こうに広い空間があることが分かったから、僕は力一杯、その岩を押してみた。
すると、少し隙間ができて、そこから中に入り込むことが出来た。隠されたその洞窟は、緩やかな長い下りになっていて、それをずっと下って行くと、やがて大きな広間に出た。

『暁蕣花の咲く処』』(ある子竜の物語)第4章〈2〉 ~フラットアース物語②

『暁蕣花の咲く処』』(ある子竜の物語)第4章〈2〉 ~フラットアース物語②

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-09-05

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