鞭とボランティア
シャウトしながら歌う為、噛んでいたガムを捨てる。
インターを降り、原発被災地である福島県A市に入ると、いつもヲワカの曲をかける。
「花は散り 人は永久には あらぬもの♪ 志 あれば成せるさ 何事も♪」
ボランティアへの思いをかき立てる毎回の儀式だ。風景が悲しげに見えるから、喉が枯れるほど強く歌う。
「こんな自分でも何かの助けになりたい」
くすぶる思いに火がついた。もうすぐボラセンに着く。
「おはようございます」
「よっ、久しぶり」
常連のボランティアに会うとうれしくなる。心からの笑顔を持った連中だ。スイカのように二つに切って見れば、瑞々しいやさしさが詰まっているだろう。ナオは作り笑いが苦手だが、ここでは自然に笑みがこぼれる。
「ここは、私にとって無くてはならないところ」
朝礼が始まった。ナオは代表の話が好きだ。代表は一人でボラセンを立ち上げ8年間運営している。住民に対する思いやりと強い意思にあふれていて、
「この人の力になりたい」
と思わせる物がある。
ナオが大切にしている、代表の言葉がある。あれは震災から3年目の、ここに通い始めの頃だった。この地は避難指示解除準備区域と呼ばれる住民の住めない街だった。雑草が
「人が住んではいけません」
という証明書のように生い茂り、音なき悲鳴がこだまする街で、住民が戻る為のお手伝いがなされていた。その日、ナオは雨に濡れた仮設テントの下で気分も湿らせていた。
「夫がうつ病になったのは自分のせいでは」
そんな考えが雨のしみこんだヤッケのように肌に纏わりついていた。代表はこれから雨の中で作業するボランティアを励ますように言った。
「人は窮地に立たされた時に真価を問われる」
言葉の稲妻に胸を撃たれた。この街でこの人が言ったからこそ響く。
「私はこのまま潰れたくない」
震い立った。それ以来、つらい時はこの言葉を思い返している。
その後、震災から6年目で避難指示が解除され住民が街に戻り始めたが、人影はまばらであった。代表が言われた。
「ここはまだ始まってもいない」
時は流れ今では震災から9年目となったが、この街の厳しい現実を目の当たりにすると、スタートラインから先に踏み出せたのかさえ分からなくなる。
本日の作業は庭木の伐採となる。国の除線作業の対象外だった為、庭木は手つかずで取り残されている。住民にとって放射性物質を被った庭木を撤去したいのは山々であろう。ボランティアへの依頼が絶えない。
現場に着くとリーダーが作業前の黙祷を呼びかける。
「震災で亡くなられた方のご冥福と、街の復興を祈って黙祷します。黙祷」
海の方角に向かい目を瞑り、心を無にする。鳥のさえずりが一際大きく耳に響く。生活音がしない街に心を寄せて祈りを捧げる。
静寂の街にチェンソーの雄たけびが鳴り響き、ベテランが大木を切り始める。現場に緊張が走る。ゆらりと傾き始めた大木が地響きとともに地面に叩きつけられる。
「無事に倒れてよかった」
ナオはマイチェンソーのエンジンを掛け、枝を払い幹を切断し、それを運んで積み上げていく。皆に憧れて最近チェンソー女子デビューした。ここのベテランは、まるで日本中から凄腕の傭兵が集まっているようだ。技術も装備もハンパない。料理番組の先生がおでんの材料を切り分けるように手際よく作業をこなしていく。作業はほとんどガテン系で、老若男女とも懸命に体を動かす。息が切れ胸の谷間を汗が滴り落ちるのを感じる。仲間と共感し合う事で魔法に掛かったように不思議と力が出る。作業終了時にはやりきった達成感と汗の匂いにまみれる。
帰りの車を運転しながら、小さな湧き水がこんこんと川底の砂を舞い上げる様に
「今日はよかった」
という清らかな思いがあふれてくる。いつも心に巣くう悩ましいブルーは洗い流され澄みきっている。
ナオは思う。
「ボランティアは不思議なものだ」
以前、本でこんな事を読んだ。
「幸せとは少ない労働で多くの金を得る事である」
ボランティアはこの対極にある。一銭にもならない事で重労働する。しかし、今感じている幸福感が違う方法で手に入るとは思えない。
コンビニに寄りシュークリームとロイヤルミルクティーを買う。いつものルーティン。ボランティアの後は遠慮なく、とろけるクリームに甘えたい。家に着いたらもっと自分にご褒美をあげなくちゃ。誰にも内緒のやつを。
入浴で体を洗い食事を済ませ、赤ワインを口にしながらお気に入りのDVDをセットする。全裸の女が両手を高く吊るし上げられた姿が写しだされる。男は鞭を手に女に凄む。
「白状するまで打ち続けてやるからな」
鞭の音と女の悲鳴が響き、痛みを堪える顔で、くねる女体が艶(なまめ)かしい。ナオのクリトリスは湧き上がる妄想が吹き込まれた風船のように膨れ上がり、秘蜜(ひみつ)のご褒美の幕が開ける。鞭は乳房や下腹部も容赦なく打ち据え、女の白い肌に赤い傷跡が刻まれていく。ナオは夢中でクリトリスを愛撫する。甘美な快感と精神の開放がシェイクされ、ナオはとろけたクリームとなる。
ナオは自分の性癖について誰にも話した事がない。裸に剥かれ、無慈悲に責められる女の姿に無性に興奮するのだ。想像に耽りながら一人エッチするのが好きだ。SMプレイへの願望はない。初めて自慰した中学生の頃からそんな空想をしていた。
「こんな空想やめなくちゃ。まともな人生が歩めなくなる」
と何度も心に誓ったが、性癖はナオに取り憑き、自慰する事でしか祓う事ができなかった。我慢できないのは意思が弱いからだと自分を責めていた。
ナオにはうつ病の夫がいる。夫がうつになる前は何度かセックスした。セックスそのものより、裸で抱き合っている時が好きだった。手が冷たいナオは暑がりな夫の肌のぬくもりに安らぎを感じた。
「彼とのセックスは心が気持ちいい。誰かとつながっている感じ。体が気持ちいいのよりずっといい」
と感じ入った。夫は結婚して間もなく眠れないと言い出しうつ病と診断された。睡眠を妨げないよう、寝室を別にした。結婚以来自慰を控えていたが、一人で寝るようになると、性癖君がひょっこりと顔を出し、ストレス続きで心が弱っているナオに手招きした。性癖君は鞭打たれる女の姿をちらつかせた。いけないと思いつつ、敏感な部位に手が伸びた。妄想の海に身体を浮かべ快感の波間を漂うように指を這わせる。その日以降、夫の隣部屋での自慰が習慣となった。
夫の発病にナオはある驚きを持った。
「同類だから引かれ合ったの?」
機能不全家庭で子供時代を過ごした者は、同じタイプを配偶者に選ぶことがあるのは知っていた。付き合っていた頃は夫にそんな気配を感じた事はなく、無意識の内に選んでいた事になる。ナオの実家は精神病の見本市の様だった。小学2年のある夜父親は一人で宙に向かってしゃべり出した。
「世の中は金だ。アメリカの大統領!」
支離滅裂な事を夜中までわめきたてた。子供ながらに精神的な病気になったとすぐに分かった。
「狐が憑いた」
などと言っている母親を内心馬鹿だと思った。父親は家の外ではごく正常だが、家の中では安心するのか狂うことを我慢できないように見えた。母親はそんな父親をなだめようとするだけだった。
「どうして精神病院に入れないんだろう」
子供の頃から不思議だったが、一度も母親と話したことはない。
小学6年になると姉が過食症になった。父のわめき声と姉の嘔吐音が不協和音を奏でる中で、ナオは心の防音壁を厚くし何も感じなくする術(すべ)を磨いた。思い返せば、父親が発症して一週間後には防音壁で身を守っていたように思える。家族を嫌悪し
「自分以外は交通事故で死ねばいい」
と願った。とにかく家を出たく、高校は寮付きに進学した。姉は人と孤立し大人になるのを拒んでいるようだった。長期休暇で帰省した時に姉と話合おうと決意し、部屋に入り、ごみ箱一杯の嘔吐物を見て絶句した。姉が回復に向かう事はなかった。ナオは無力だった。
ナオはずっと生きずらさを背負っていた。異性との付き合いは消極的だった。機能不全家庭で育った人は大きなハンディキャップを背負っていると感じる。普通の家庭で育った人は親と同じ事をする事で安心感を得る。親が手本にならない人は道標(みちしるべ)が機能しないナビで車を走らせ続ける。
「人生の教科書はどこで売っているのか」
と。
夫と付き合い始めた頃、なんとなく一緒にいてほっとする感じがした。夫はバツイチで連れ子がいる事に引け目を持っていて、それが対等の立場にいるような安心感を生んでいたのかもしれない。
夫の子供と初めて会う事になった。不安な数日。今、思えば変な話だが、ある日突然気が付いた。
「という事は私が子供を持つ事ができるんだ」
「ああ、うれしい」
胸に手を当て、
「あああ、うれしい」
生まれて初めてうれし泣きした。たとえ子供が懐、ひたすら待つ覚悟を決めた。ナオは子供の相手をするのは得意ではなかったが、その子とは自然に接する事ができた。女の子は人見知りせず素直な可愛いいらしさに溢れていた。3人でのデートは楽しかった。ナオは結婚を決意した。
血の繋がらない家族との生活はナオにフィットした。娘が放つ無邪気な陽光はナオの心の蔭までも明るく照らしてくれた。ずっと前から憧れていた平凡でありきたりな家庭がそこにあった。
「子供は欲しかったが、子を産む事はイメージできなかった。自分は血が汚れているから。だから今が本当に幸せ」
親の誕生会をした事がある。あれほど嫌った親と一緒に食事をし笑い会える時が来るとは思ってもみなかった。夫は両親によくしてくれた。娘が両親の写真を撮り、夫が壁掛けにプリントし両親に送った。本当に嬉しそうな笑顔だった。後日談だが、その写真は父の遺影となっている。
「お父さんはこの写真がとても好きだったの」
と言って母が選んだ。母もこの写真を遺影にして欲しいと言った。
幸せは長くは続かなかった。夫はうつがひどくなると顔を合わそうともしなかった。赤ワインに酔ったナオは、溜めこんだストレスを爆発させてしまう。甲高い声を浴びせ、夫のワイングラスのような心を震わせひび割れさせた。うつは悪化し、夫は別居を希望した。休日だけ2人に会いに行く生活が始まった。夫はナオへの拒絶を強めていき、足が遠のいた。
「どうして来てくれないの」
娘から、星に願う様な声でせがまれた。いとおしく堪らなくなったが、
「仕事とか」
それしか言えなかった。夫をそっと見守る事を優先せざるを得なかった。やがて夫は家の鍵を付け換えてしまった。それ以来、娘とは会っていない。現在、娘は大学生となり他県で生活している。夫は休職、退職を繰り返していた。
「学費は私がなんとかします」
と夫に宣言していた。そうするのが当然だと思っている。娘に対しては後ろめたく自分から会いに行く事は想像できない。娘の心の傷とならぬ事を祈っている。
別居から3年目に東日本大震災が起きた。ボランティアは未経験であったが、ボラバスに乗るようになった。ナオの心は被災者の心が傷ついている事を敏感にキャッチした。別れ際に住人の一人が涙をこらえ搾り出す様に言った
「本当にありがたい」
これほどの心にしみる感謝の言葉は聞いた事がなかった。
「ここには今の自分に必要な何かがある。ボラを続けなきゃ」
ナオの住むB県は被災地隣県で被災地を助けなければいけない立場であったが、ボランティアに参加するのはごく少数であった。人にボランティアの話をすると
「すごいね」
と感心される。そんな時、自分が水に浮かんだ一滴の油になったように感じられ、それ以上話すのは躊躇してしまう。
「すごいのはそこじゃない」
内心で思う。生きるヒントをボランティアから感じ取り、心を癒しながら生をまっとうしている。世の中には潰れていく人がたくさんいるではないか。依存症になったり、法を破ったり、自殺したり。
ボランティアに行った日には必ず自慰をする。精神の高ぶりを慰め、へとへとの体を眠りに就かせる。このごろは自慰の後に感じる後ろめたさがなくなってきた。
「自分の性癖は醜いが、純粋に生きることはできる」
と思えるようになった。
夫からたまに届くメールを読むのは恐い。感情的になると、ブチ切れモードのメールが届くからだ。夫のメールの最後にはしばしば
「幸せはお互いで見つけましょう」
と書いてある。いつの日か、もう一度家族で一緒に暮らすという微かな望みを、おろし金ですられた気分になる。将来の家族像がまるでイメージできない。娘が大学を卒業したら家族関係を清算すべきなのか。ナオは思考を冷凍保存するように結論を先送りにしている。それが溶ける時には、余儀なき避難で放置された冷蔵庫のような惨状となるかもしれない。夜明けにトイレに起きた時、人の心は無防備になっているのか、溶け出した不安の水滴が首筋に落下し、その冷たさにぞっとする。布団にもぐっても心の震えは止まらない。そんな時はあの言葉を唱える。
「人は窮地に立たされた時に真価を問われる」
心が思いを返す。
「夫への対応は間違っていない」
小さな自信が温もりのように広がり震えを静めてくれる。自信の根源は実家での精神病に苦しんだ経験からくる直感だ。
ナオが夫と別居し実家に戻った時、事情を聞いた母は言った
「家族が病気の時は皆で協力して治さなければ」
ありがたかった。この人は経験上、何をすべきか分かるのだと思った。自分だってそうだ。
ナオは80歳で自殺しようと思う。人に介護されるなんてぞっとする。父親は晩年にぼけた。精神病の薬を服薬していたせいかもしれない。ぼけて自殺すらできなくなるなんて最悪だ。その前に自分で人生の幕を降ろしたいという確固たる思いがある。先日、70代の方とボランティアをした。気さくでとてもいい笑顔をされていた。
「自分もその年までボランティアをして、あの笑顔ができたら人生悔いなし」
なんて思った。小さな道標を見つけた気がする。
あくる月、今日はボラの日、心が軽い。心地よく、好きなロックが胸に響く。頬に暖かさを感じながら、フロントガラス越しに朝の日差しに目を細める。
この物語には結末はない。ナオは起承転結の起承を生きている最中だから。
------------------------------------------------------------------------------------------------------------------ 書き終えたナオは思う。
「この物語は私が吐き出した毒に染まっている。物語がかわいそう。でも、心が少し整理されたみたい」
夫から久しぶりにメールが届いた。娘の入社式があった事と、ナオへの感謝の言葉が綴ってあった。夫の喜びを素直に受け止める事ができた。返信の最後に
「幸せはお互いで見つけましょう」
と書いた。本心で。心境の変化を感じる。
「もうしばらく別居の家族関係を続けよう」
そう決めた。直感が働いている気がする。いつの間にか冷凍保存した不安は溶けてなくなっていた。少し高揚し爽やかな気分だ。ナオは自慰したくなった。性癖君が呼んでいる。
鞭とボランティア