ジョルジュは青い
いちか 作
「あれ、りょうちゃん、太った?」
一年ぶりに会った十六歳の姪に対する第一声として、あまりにも不適切だと思う。叔父は、あいかわらず歳のわからない笑い方をして、悪気なく、そんなふうに言った。あたしは「そんなことないよ」と返すので精いっぱいだった。
会えてうれしいとは、万が一にも悟られてはいけない。ここへ来るたび、駅を降りた瞬間、あたしは自らにミッションを課している。簡単なこと。
兵治さんの家は、大宮から電車で三十分くらいのところにある。家から二時間以上かかるので、ほとんど旅行みたいなものだ(実際夏休みにしか来ないわけで、これは旅行と言っていいはず)。
工場の煙突と煙ばかりが見える白っぽい空のあたしの地元とは違って、兵治さんのところは、深い緑色に連なる山も高い空も、吸う空気までもがきれいだった。汚染された肺の中身をごっそりと入れ替えるように、深呼吸する。
「佳樹くんの具合は」
「相変わらずだよ」
お母さんと兵治さんの会話は聞いていないふりをして、玄関の植え込みに目をやった。草花に囲まれた、リアルな顔したロバ(これが本当にロバかどうかは自信ない)が土の上に鎮座していた。これは兵治さんじゃなくて、佳樹くんが置いたものだと思う。ちょっと趣味が変だ。
佳樹くんは、何年も前からずっと入院している。意識が戻らないのだ。兵治さんとは、たぶん一年くらいしかこの家で一緒じゃなかった。あたしも一度しか会ったことがないけれど、きれいな人だった。すごく。
「りょう子」
お母さんが、遅いあたしを呼ぶ。その向こうで兵治さんが手招きするのが見えた。
お昼ご飯は宅配ピザと、兵治さんの作った野菜スープとサラダ。三人分の食事を作るなんてめったにないから、と兵治さんはうれしそうだった。小さいとはいえ、ひとりでこんな一戸建ての家に住むというのは、それは、寂しいに決まっている。
扇風機の風がそよそよと後ろから首をくすぐるので、ピザを持ったまま、なんとなく振り返った。扇風機の存在感。なんてものあるはずもないのに、感じた気がした。
「それ、ジョルジュっていうの」
「え」
向かいに座る兵治さんが指差す。青い羽根の扇風機を。
「あっ思い出した! 兵治がね、まだ小さいときに、なぜかその扇風機に名前つけたんだよね。なんでだっけ?」
お母さんが懐かしい懐かしいと笑い出す。
「えー? なんだっけ、忘れちゃった。それにしても、姉さんよく覚えてたね」
カッキンカッキン、と首を振るのに難儀そうな音を立てるジョルジュ。薄い羽根をぶんぶん回しながら、あたしの知らない子供の兵治さんとお母さんを、この人(人?)は見てきたらしい。そう思うと親戚がひとり増えたような気持ちになって、ちょっとだけ親近感がわいた。
手を伸ばすと、
「近づきすぎないほうがいいよ。ジョルジュはりょうちゃんの髪を食べる」
「うそ」
「昔、姉さんの髪を巻き込んでむしゃむしゃっとね、下に切れた髪が散らばってさ……姉さんが泣き叫んで……」
「やめて。あれは悲惨で危険で最悪の思い出」
「僕も怖かった」
「そうでしょうね、漏らすくらいにね」
ジョルジュに、あたしは見覚えがなかった。去年もこの家には来ているのに。こんなに古い扇風機があったら、きっと覚えている。しまってあったのだろうか。
扇風機を気にかけているあいだに、サラダにのっかっていたクルトンが野菜の水でふにゃふにゃになっていた。先に食べてしまえばよかったと、少し後悔した。
お母さんはここへきてもノートパソコンに向かって仕事をしている。いつ休んでいるのかわからない。休めないのはあたしのせいかもしれない、と思う。お父さんがいなくなったことも、もしかしたら。
お昼のあと、あたしと兵治さんはしばらくオセロで遊んでいた。あたしのほうが圧倒的に強くて、兵治さんは一度も勝てなかった。大人のくせに。僕はいつも勝てないんだと呟きながら箱にオセロを手際よくしまい、
「夏休みは、どう?」
冷蔵庫を開けて三人分のコップに麦茶ついだ。兵治さんがコップをくるくると回すと、遠心力ですっ飛んだ水滴がぽたりとテーブルに落ちる。
兵治さんはいわゆるごく普通のサラリーマンらしいけれど、仕事に行く姿なんて知らないから、あたしには想像もできない。前、電車に乗って毎日東京まで通っているのかと訊いたらそうだと答えていた。それでもやっぱり想像できない。上司に怒られたりとか、夜遅くまで残っていたりとか、痴漢に間違われたりとか? 違和感がある。でもそっちが本当の兵治さんだ。つまり、あたしはあまりこの人のことを知らない。
「行くとこないから、ずっと家にいるよ。お母さんも」
毎年そうだけれど、この家にいてすることはオセロくらいしかない。買い物ができるようなショッピングモールもない。ただ来て、行き帰りの移動と同じ時間をここで過ごして、帰る。あたしはそれで満足している。兵治さんに会えることがうれしいので。べつに兵治さんのことを知らなくてもかまわなかった。
「りょうちゃんにとっては場所が変わっただけだね、それじゃ」
「兵治さんにとっては、あたしたちが来るのは、ちょっとは非日常じゃない?」
「ちょっとどころじゃないよ」そう言って少し笑う。「明日もこうならいいのにな。明日も、明後日も。りょうちゃんがいてくれたらいいのに」
ジョルジュはカッキンカッキンと首を振り続けていた。
首を振るのと振らないのは、どちらが疲れないのだろう。
あたしは椅子からおりて、床にあぐらをかいた。そしてジョルジュの後頭部のつまみを、押し込んだり引っ張ったりしてみる。首を固定されているのか、それとも振らされているのか。どっち?
ジョルジュはなにも言わなかった。
つまみを上にあげておいて、弱、中、強、止める。すん、と風がやむ。
「なにやってるの、りょう子」
がちゃがちゃうるさくしたせいか、お母さんがうっとうしげな声を上げたけれど、頬杖をついた兵治さんは、目を細めてあたしを見ているだけだった。あたしではない誰かを思っている顔だとすぐにわかった。大人のくせに。嘘もへただ。
「ごめんなさい。これで終わり」
弱のボタンを押し込んで、つまみを下げた。ジョルジュがまた首を振り出す。あたしは自分の首を限界まで横に倒し、上半身を傾けた。
「また遊びにおいでね。来年の夏。待ってるよ」
日が暮れてから、あたしたちは兵治さんの家を後にした。
あたしは、もっとはやくに生まれていたかった。平成三十一年のいまに十六じゃなくて、二十九がよかった。そうしたら、同じ歳で兵治さんと出会っていたかもしれない。でも、もしそれで佳樹くんの代わりになってしまうとしたら、いやだった。兵治さんの隣には佳樹くんがいてほしいのだ。あたしじゃなくて。あたしじゃないのだ。
「ばいばい、兵治さん!」
来年の夏には佳樹くんの目が覚めていて、兵治さんは寂しい顔なんてしなくてすむだろう。いや、来年の夏なんて言わない。明日がいいよ。きっと明日には。
兵治さんがひかえめに手を振り返してくれる。ひとり。
また来年。そうしたら、きっと佳樹くんにも会える。
そう思うと楽しみでしかたがないのに、でも目の奥がつんとして、お母さんにばれないように笑ってみることにした。
ジョルジュは青い
青い羽根の扇風機、いま見ないですね…
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