有害
子供で賑わう境内は普段の姿を忘れ、祭りに飲まれた大人も普段の姿を忘れる。自分もその一人だった。五百円玉を受け取り、くじの入ったボックスを女の子の傍へ寄せると小学二年生くらいの女の子はきゅっと目を瞑って、ゆっくりとくじを引く。
四つ折りの紙を開くと女の子の口から諦めのような、あーあ、という声がもれる。明らかに五百円以下の玩具を前にじっくりと悩んでから、「これにする。」と手に取って俺に見せた。こくん、と頷き、また来てね、と手を振る。他人を「もしかしたら危ない人かも」なんて怪しんだこともないような幼さを散らして手を振り、女の子は去ってゆく。自分も昔はそう思っていた。世界の何処かに危ない人はいるけれどそれは近くに居る人ではなくってましてや、自分がそんな人間になることはないって。
「お兄さん。お疲れだね、」
セーラー服の新はひょっこりと現れ、五百円玉とビニール袋を差し出した。受け取ると新は慣れた様子でくじを引き始める。ビニール袋の中にはクリームパンとスポーツドリンクが入っていた。「また外れだあ。」
「外れはないよ。」
「一等以外は外れだよ、」
クリームパンを齧りながらくじを受け取る。悩ましそうに新は眉を寄せ、ポータブルのオセロを手に取った。「お兄さんとやろうと思って。」オセロを掲げて新はにっこりと笑う。
「お兄さんはさあ大変だよね。春はお花見でしょう。夏と秋と冬はお祭りだもんね。たまには休んだら、」
「趣味だよ、趣味。好きだから辛くても良いの。」
「マゾ。」ボソっと新が云う。
「それなら毎回必ず来る新だってマゾでしょ、」
「マゾだもーん。」
スキップで新は中へと入って来る。空のパイプ椅子に新は当然のように座って、ね、お兄さん、とじゃれつく猫のような表情をした。平静を装ってクリームの付いた唇を舐める。
「向こうでステージが始まったらオセロやろうねえ。」
「始まったらね。」
絶対だよ、と云うように新はぐっと目元に力を入れる。頷くと新は頬をゆるめ、リンゴジュースをリュックから取り出して飲んだ。どうしてこんなにも新が懐いているのかは不明だ。不明だけれど自分がマトモであるような気がして、例え、それが錯覚だったとしても新は、全てを払拭する理由だった。
「時が止まればって、思うよ。」
「お兄さんってそんなにお祭り好きだったっけ、」
口元を拭うと新は尋ねるような目をした。「いや、」微笑して答えをはぐらかす。新がそれを指摘しようとした寸前、わあっと人の声が大きくなった。
気を取られる、目を向ける。
司会役の芸人の声がスピーカーからきんきんするほど大きな音で鳴っている。ライブハウスみたいだ。
「始まったね。」
大きな音が苦手な新は僅かに顔を歪めて云った。思えば、去年の花火大会の日も全く同じ顔をして、また、一昨年の花火大会の日も全く同じ顔をしていた。祭り自体、苦手だろうに。
何時も三つ持ってきている内のラスト一つ、のパイプ椅子を開く。察した様子で新はポータブル・オセロの封を開け、椅子の上に中身を出した。「お兄さんは、黒ね。」特段楽しそうでも楽しくなさそうでもなく云って石を半分に分けると新は、「先行。」と促す。
石を打ってはひっくり返し、石を打ってはひっくり返した。ステージ上で小学生の女の子五人組が曲に合わせて口を動かしながら踊っている。「君の為なら、悪者にだってなれるよ。」何処かで聞いたことのあるメロディだった。耳たぶに触れる。
「お兄さんの番だよ。」
顔を上げ、息を呑んだ。新の顔が殴られたように腫れている。幻だ、と分かりつつも相手が新だったので内心、狼狽えた。自分に対する恐怖心が立ち上がってくる。「ああ、」声を絞り出して頷く。聞こえなくとも新は気にしなかった。白色の石をひっくり返す。色は五分五分というところだった。
「具合、悪いの。」
指先で汗を拭って首を振る。それでも不安そうにする新は、けれど、それ以上は追及しなかった。石を打つ。「くじ、いいですか。」
「いいですよ。」と新は立ち上がる。
公立中学校のジャージを着た、二人組の女の子だった。五百円玉を一枚と百円玉を五枚支払うと新の差し出したくじのボックスから一人一枚ずつくじを引く。
中学生だった頃は良かった。何も今の全てが駄目とまでは云わないけれど、無知で、普通で、幸せだった。
一年。一年だ。人が変わるまで。
友人を殴る、兄を止めようとして殴られて、それが怖くて怖くてそれ以上、止められなかった。自分も、友人を殴った。逸らすことで。忘れることで。
そっと右頬を抑える。
「お兄さん。」
気が付くと新がすぐ目の前に居た。思わず、身を引く。「虫歯?」そう云って新は自分の頬を指す。
「不正解。」
「ええー。」
本来なら新とは二度と会うことは出来なくて。従妹だとしても、従妹だからこそ、人を平気で殴るような奴の弟は、危なく、起きてからでは取り返しが付かないから、と。俺も何時か、新を傷付けるのかもしれなかった。にこにこと嬉しそうに寄ってきた新を殴るのかもしれなかった。
新を心から思うなら会わずに居るのが新の幸せの為なのになあ。
「お兄さん、居なくなっちゃいそうで怖いんだ。」
手の平の中の石を弄んで新は、やだな、と云った。
「一寸ずつ消えてゆくのはナシだよ。」
「うん。」曖昧に頷く。
「お兄さんは笑っているのが似合うよ。」
わざとらしく新は口角を上げる。
「……こんな?」
チェシャ猫を手本にして笑うと新は可笑しそうに、「こわーい。」と上下に足を揺らす。ピンと張りつめていた糸がゆるんでゆくのが分かった。
ステージの方から沢山の拍手が上がる。林檎のような女の子たちはステージの上で礼をして去った。マスは残り二つのところまで来ている。あまり深く考えず、石を打った。パチ、と新が石を打ち、マスを埋める。
あっ、と思う間もなく新の手によってパタパタと石は白くなる。数えるまでもなく、新の勝ちだった。
「ねえお兄さん。次のお祭りも必ずゆくからね。」
有害